雙(津田越前守助広物語) 一覧

「雙」第8回

「雙」第8回 森 雅裕

「選り分けて、どうする?」

 訊いたのは家綱である。

「テコに積み上げ、鍛錬いたします」

 テコと呼ぶのは、鍛錬済みの鉄でこしらえたテコ台をテコ棒につけたものである。助広は割った南蛮鉄五百匁(約一・八キロ)ほどをテコ台に積み、粘土汁をかけ、さらに藁灰をまぶした。

「このように」

「ふむ。泥まみれにするのは……?」

 鉄の脱炭防止のためだ。他の刀鍛冶たちもやっていることである。

「では、その鍛錬をやってみせよ」

 家綱はあたりに目を配った。

「お前は弟子を連れておらぬのか」

「よそからお借りすることになっております」

 様子をうかがっていた他の刀鍛冶たちが、手を貸そうと腰を浮かせる気配を、助広は感じ取った。しかし、家綱の声が早かった。

「では、わしがやろう。――襷を貸せ」
 家綱は肩衣に半袴の略礼服である。素早く襷を回し、染帷子の袖を押さえた。

「勿体のうございます」

「ぬかせ。古くは後鳥羽上皇も太刀を鍛えられたと聞く。勿体ないということはあるまい」

「恐れながら、御身分のある方々は力仕事はなされず、お仕えする刀工が鍛えたものを焼入れあそばすだけかと」

「それではつまらぬ。一鎚、二鎚だけでも、叩かせろ」

 家綱は大鎚を手にした。非力な者には振り回せるものではない。

 助広は積んだ鉄を火床へ入れた。鞴を吹く手に思わず力が入る。

「では、常に金敷の真ん中をお叩きください。私が動かす鉄を追いかけると、危のうございます」

 鉄が沸くにはかなりの時間がかかる。しかし、家綱の気は変わらなかった。その間、近くにあった丸太を輪切りにした木台を大鎚で叩き、稽古するほどの張り切りようだ。

 火床からあがる炎が黄色くなり、火花が飛び始める。鉄が沸いて、爆ぜるような音を発し始める。助広はそれを取り出し、藁灰をまぶして、金敷に置いた。

「最初は軽く、押さえる程度に」

「承知」

 慎重な鎚音が数回続き、やがて、家綱は鎚を大きく振り上げた。助広が打つ小鎚に合わせ、金属音が高くなる。

 一、二鎚どころではない。手間取りながらも二十数回叩き、また火床へ入れ、再び取り出して、今度は三十回ほど叩く。それが家綱には限界で、鎚を置いた。この先の折り返し鍛錬まで進むことはできなかったが、それでも意外な体力だった。

 気がつくと、助広も家綱も、衣服は火花を浴びて、焦げ穴だらけになっている。高温すぎる火花での火傷はさほど痛みがない。

「お前の名は?」

「津田越前守助広」

 と、腰物奉行が紹介した。

「助広。この鉄が刀となった時には、家綱が鍛えたと銘文を刻むがよい」

 刀工には目の眩むような名誉だった。

 家綱が火床を離れると、助広の前に老年――というには精気あふれる武士が立った。半ば呆然としている助広を見下ろすその視線が、射るように強い。幕閣だろうが、役者のような目鼻立ちだった。

「お前が助広か」

「はい」

「腕がいいらしいの。大坂城代・水野出羽(忠職)や大番頭・青山因幡(宗俊)からの推薦で、名を聞いておった」

「恐れ入ります」

「和泉守国貞にかわって、おぬしを選んだのは、わしじゃ」

「あ……」

 すっと目を細め、役者のような幕閣は背を向けた。近くにいた腰物方へ、

「どなた様でしょうか」

 尋ねると、

「会津中将様だ」

 との答えだった。保科肥後守正之。五十歳の会津城主である。老中などの職名は持たないから、正確にいえば幕閣ではないが、前将軍・家光の腹違いの弟であり、兄の存命中はその片腕として信頼され、今はまた甥である家綱の輔弼役をつとめる幕政の第一人者であって、仁政を讃えられている。

(そのようなお方が――)

 自分の名を聞いているとは、感激ではあった。しかし、不思議でもある。助広が隠居した父にかわって、自作を世に出し始めたのは、この数年にすぎない。大坂城代や大番頭の口添えがあったにしても、注目されるのが早すぎる。

 三善長道も若いが、保科正之の領地ということで、会津鍛冶の中から前途有望な者を選んだのだろう。肥前忠吉は九州における名門の後継者である。

 有名無名という観点だけから見れば、御前鍛錬刀工に選ばれて奇妙なのは、虎徹と助広は同様であった。もっとも、助広の場合は二代目であるから、父の余光ということも有り得なくはないのだが……。後年、虎徹は常陸額田の松平頼元や旗本の稲葉正休がお抱え刀工にしたと伝わるが、万治三年のこの当時、彼らはそのような立場にない。

 ともあれ、初日の式は終わった。これより翌月の七月まで、将来の名工五人が鎚音を競うことになる。

 家綱の行列を黒門から見送り、鍛錬場へ戻ると、空気はゆるみ、呆けたようなけだるさとざわめきが漂っている。

 そんな安堵の空気をかきわけ、安定が煤と汗にまみれた笑顔を助広へ向けた。

「うまくやったの。今さら、わしの弟子ごときを先手としておぬしに貸すなど、恐れ多いわ。それ、公方様の御手の汗を吸ったその大鎚ももう使えぬ。大坂へ持ち帰って、家宝とするがいい」

「からかわないでください」

「なんの。本音だ」

 別に皮肉や嫌味ではなく、これでも助広を祝福しているのである。安定は斜に構えたところはあるが、器の小さな男ではなかった。

「目が赤い。やはり、昨夜は充分に眠るわけにはいかなかったようだ」

「埃が目に入っただけです」

「なるほど。右目に心、左目に配という埃が見えるわ」

 安定はそっぽを向くように踵を返した。

 
 
 本所の寮に戻ると、白戸屋善兵衛から、本宅へお出でを請う、という使いが来ていた。御前鍛錬の首尾でも訊かれるのだろう。世渡りを心得た者なら――というより、常識人なら、上野からの帰途、日本橋の白戸屋へ顔を出して、報告するのだろうが、助広のことだから、素通りしてしまっている。善兵衛もそこはお見通しのようだ。

 西陽に頬を染め、長い影を引きずりながら、白戸屋へ赴くと、善兵衛だけでなく見覚えある武家が待っていた。会津保科家用人の加須屋左近(武成)である。

「おめでとうございます」

 いきなり、白戸屋はそういった。

「公方様からお声がかかったとか」

「白戸屋さんにお願いしておいた先手が来なかったおかげです」

「野鍛冶に頼んではおいたのですが、警固がきびしくて、寛永寺の門前で、通せ通さぬの押し問答のあげく、怒って帰ったようでございますよ。そいついわく、刀鍛冶は焼入れの鉄色を『夏の夜、山の端に出る月の色』なんぞと勿体つけるが、大小刃物農具一切、厚刃も薄刃も自由自在に焼入れする野鍛冶の方がなんぼか難しいわい、とか。もともとやる気もなかったようですな。しかし、そのおかげで雲上人が大鎚をお取りになったのですから、めでたしめでたし」

 白戸屋の笑顔の鼻先に、助広はぼろぼろになった肩衣袴を差し出した。白戸屋は呆気にとられている。

 今後の作業に礼装の必要はない。しかし、最終日の献納式は作業衣というわけにもいくまいから、

「あと一式、お願いします」

 小声で、頼んだ。

「お上(徳川家綱)と助広殿とで、火花を恐れぬ意地を張り合われたようだの」

 と、加須屋左近は笑った。保科家の外交窓口という立場にはいるが、元来が武術家だから、助広のこういう面が気に入ったらしい。

「東叡山で、会津中将様にお声をかけていただきました」

「うむ。わが主も、かねてよりおぬしのことを目にとめておられたようだ。そこで――」

 左近の物腰は柔らかいが、悠揚迫らぬ所作の隅々に威厳を漂わせている。

「頼みがあって、まいった」

「はい……」

「刀を献上してもらいたい」

「御前鍛錬で打つ刀は将軍家へ献上する予定でございますが」

「いや。紀伊様へ納めてもらいたい。つまり、将軍家から紀伊徳川家への賜りものということになる」
 左近はもとが紀伊藩士だったと聞いている。その縁もあって、折衝役にあたっているのだろう。

「ただ、刀の作柄には注文があってな」

「どのような……? 先日は、相州伝は可能かとお尋ねでしたが」

「うむ。振分髪という号の相州正宗がある。仙台伊達家の重宝だ」

「仙台候の……?」

 これは因縁というものなのか。伊達綱宗との出会いを思った。数日前まで、夢にも考えなかった舞台に、自分が引き出されている。

「正宗を腰に帯びていなければ、大名には肩身の狭い風潮がござる。かつて、貞山公(伊達政宗)が江戸城内において、加藤左馬助(嘉明)様から、陸奥殿(政宗)の差料はさだめし正宗であろうと尋ねられ、むろん、とは答えたものの、伊達家に正宗の刀はあれど脇差はなかった」

 武士が城内で常時たばさむのは脇差ということになる。

「奥州の盟主が嘘をいうわけにはいかぬ。長い刀を磨り上げ(切り詰め)、脇差に仕立て直して、これに『振分髪』と号をつけた」

「在原業平ですか」

「左様。くらべ来し振分髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき――」

 少女が人妻となって髪をあげることにかけ、名刀を磨り上げることができるのは伊達政宗のような名将だけ、という意味でつけられた号だろう。

「その振分髪を写してもらいたい」

「振分髪が選ばれる理由が何かおありなのですか」

「お上の思し召しだ。なにしろ、酉年の大火でも焼け残った縁起のよいお刀でな」

 将軍の命令なら、否応はないが、それにしても、どうして自分なのだろう。保科正之の領地である会津からは長道が参府しているではないか。彼の鉄の沸かし(火床での加熱)を見ていると、才能ある刀鍛冶とわかる。彼を差し置いて、自分にお鉢が回る理由は何なのか。

「写すには、本歌を手に取って見なければなりませんが……」

「明日、愛宕下の伊達家中屋敷へ行かれよ。仙台候は、助広殿なら重宝に触れさせてもよい、と仰っておられる」

 伊達綱宗の指名なのか。しかし、助広が綱宗に目通りして、わずか二日にすぎない。一体、いつから助広の名が幕閣や大名の間で評判になったというのか。

「陸奥守様が指名なさるなら、奥州に親しんでいる安定師かと思いますが」

 疑問を口にした。白戸屋が助広の横顔へ向かって、懸命に目くばせを送ろうとしている。わかっている。助広は理屈をこねすぎる。人に好かれる性格ではない。

 しかし、加須屋左近は泰然と、いった。

「その大和守安定が仙台候におぬしを推薦したということだ」

「あ……」

 意外ではあったが、一本気な助広は、これはもう疑ったり迷ったりしては申し訳ない、自分に対する人々の期待だと感じ入った。好意と解釈するほど、うぬぼれた性格の助広ではないが……。 

「身に余るお話なれど、先に申し上げました通り、相州伝に用いる鉄をどう調達するかという問題がございます」

「ほお。助広殿は正宗と同じものを作る自信がおありか」

「そういう御依頼ではないのですか」

 単に姿形を真似ただけの写しもので充分と軽く考えているのだろう。しかし、助広の考えでは、作位も本歌に迫らねば、写しとはいえない。

「どこまで正宗に近づくかは、助広殿の問題だ。正直申して、われらには正宗の地鉄がどのようなものなのか、わからぬ。しかし、素人にわからぬところで工夫を凝らすのが職人技というものであろう」

「確かに」

「江戸の鉄問屋に手配するくらいは簡単だが、助広殿の意にかなう鉄が入手できるかどうかはわからぬな」

 鉄は産地によって性質が違い、刀作りには試行錯誤をせねばならない。

「しかしな、仙台侯も力を貸すといっておられるのだ」

 となれば、助広の答えはひとつしかない。

「このお話、受けさせていただきます」

「おお」

 と、歓声をあげたのは白戸屋善兵衛だった。

「助広師匠も、江戸で、人の顔を立てることを覚えられましたな。あとひと月も滞在されたら、もっと世渡り上手におなりですぞ」

 
 
 翌日の寛永寺での仕事は昼過ぎに終えた。自分の仕事はせず、他工の先手を買って出た。自分もまた助けを借りるつもりでいるし、彼らの鍛錬方法を観察もしたかったのである。

 そのあと、外堀沿いに江戸を南へ縦断した。

 大名屋敷の居並ぶ愛宕下大名小路の中でも、仙台屋敷は群を抜く壮大さだ。明暦の大火で、この中屋敷だけでなく、外桜田上屋敷と本屋敷、芝下屋敷も焼失し、麻布白金台や品川高輪へと移転した屋敷もあるが、愛宕下は再建された。したがって、まだ新しい。

 助広は櫓門の奥の番所で案内を待ち、庭を抜けて、書院へ通された。静謐なたたずまいである。

 伊達家の偉容よりも、

(江戸の職人はたいしたもんや)

 そちらに感嘆した。各地から職人が参集したのだろうが、壊滅的な火災から復興を遂げてしまった技術と体力が、柱一本の立て方からも伝わってくる。

 端座して、しばらく待っていると、娘が一人、現われた。笄髷を結い、飾り立ててはいないが、奥女中の身なりでもない。長い桐箱を抱いている。刀だろう。

 ろくに顔を見ずに頭を下げた助広だが、

「津田助広師匠ですね」

 声をかけられ、目が合うと、奇妙な懐かしさがあった。

(会うたことがある――)

 それに気づくと、胸許を蹴られたような衝撃があった。

(すみの……!?)

 記憶というより、直感だった。しかし、昨夜、隅田川で行方を絶ったのではないのか。

「まさの、と申します」

「あ……」

「仙台藩御刀奉行・楢井俊平の娘――というのは表向き。実は義山公(伊達忠宗)の妾腹。つまり、すみのとは双子の姉です」

 十年前のすみのの面影を呼び起こすには充分すぎる容姿だった。瞳が明るく、小粒に揃った歯並びが美しい。

「私は家臣の養女に出されたのですが、妹は母とともに大坂へ行きました」

 助広には、そんな話は初耳だ。興里虎徹と興光が双子なら、まさのとすみのも双子というのか。

「陸奥守様は、すみの様と長年離れ離れでも、妹とわかると仰せられましたが、その決め手は、なるほど……」

「この私の顔だったというわけです。しかし、薫が大坂にいたすみのであるという話の確認のために、助広殿にも会っていただきたかったのですが……」

 では、この娘、腹違いの綱宗と似ているだろうか。よくわからない。雲上人の綱宗と美貌の娘盛り。いずれも助広が無遠慮に凝視できる相手ではない。ただ、綱宗は比較的小柄だったが、この娘は背丈がある。

「養父の楢井は今、仙台におりますので、私が助広師の御用をつとめるよう、お屋形様(綱宗)から命じられました」

「で、すみの様の捜索は……?」

 まさのと名乗った娘は首を振り、助広はさらに問うた。

「襲ってきた船の正体は……わかったのでしょうか」

「船宿という船宿、漁師や荷運び船まで、当家の家臣たちがあたったようですが、どうせ船を出した者も口止めされているでしょう。何ら手がかりは……。手際よさからすると、襲ったのは侍でしょうけれど」

 まさのは、傍らに置いた桐箱から塗箱を、さらにその中から刀を取り出した。二尺に満たない脇差である。拵ではなく仮鞘に納まっている。古い鞘ではない。江戸前期、白鞘はまだ普及していない。

「振分髪です」

「拝見いたします」

 大名の所蔵刀など、無闇と人に見せるものではない。室町以来続く将軍家御用の鑑定・研磨師である本阿弥さえ、敷居越しに隣室から拝見するというほどである。

 助広は一礼して受け取り、抜いた。名刀は一寸も抜けば、直感できるものだ。背筋に走る何かがあった。しかし、「名刀」を抜いた時のいつもの衝撃とは違う気がした。

 刃長一尺七寸弱。地鉄も刃も明るく冴え、いかにも強靱だ。強靱すぎる、といってもいい。刃文は沸えづいて乱れ、地肌もそこそこ出ている。しかし、柾目の傾向が強い。表に腰樋、裏に護摩箸が彫られており、簡単なものではあるが、刀身を引き締めている。
 許可を得て、柄をはずし、茎を見た。もともと正宗の在銘品は限られ、短刀に数本、刀は一本が知られるのみである。しかも磨り上げて、茎を切り棄ててあるのだから、当然、無銘である。ただ、「振分髪」の号が金象嵌されている。

 しばらく無言で見つめ、鞘へ戻した。助広は感想をいわない。

 まさのは、そんな助広から視線を逸らさず、いった。

「かつては太閤殿下の所蔵で、大坂城落城の折、他の宝物がことごとく焼けても、これだけが焼け跡に無傷で残っていたそうです」

「では、その後は戦利品として将軍家に?」

「ええ。しかし、慶長十年(一六〇五)、貞山公(伊達政宗)が台徳院様(徳川秀忠)上洛に供奉の際、権現様(家康)から伊達家に下賜されたとか」

「そのような由緒あるお刀を磨り上げてしまわれたのですか」

「権現様が、そうせよと仰せられたのです」

「加藤左馬助様から、伊達殿の差料は正宗であろうと尋ねられ、面目のために、長い刀を脇差に磨り上げたとうかがいましたが」

「つまらぬ面目ですね」

 まさのはいってのけた。政宗は伊達家にあっては神にも等しい存在だろうに。

「しかし、いかに貞山公とはいえ、権現様から拝領のお刀を勝手に切り詰めることは遠慮なさいます。第一、偽物の正宗で充分。それを看破できる者など、いないのですから」

 確かに。名家旧家には格付けのための名刀が必要だが、需要を満たすだけの本物は世にないから、金の力で本阿弥に折紙(鑑定書)をつけさせた偽物で間に合わせる。大名とはいえ、本物を所蔵しているとは限らない。

「貞山公は適当な偽物を正宗に仕立てて、差しておられました。そんなことはお見通しの権現様が――」

 ある時、政宗にいった。

「中納言殿(政宗)は正宗の刀を脇差に直して、差しておられるそうじゃな。かつて、総見院様(織田信長)も磨り上げた正宗を差料とされ、それを細川幽斎殿が『振分髪』と名づけた。さすがに中納言殿は剛毅かつ風雅。諸侯の間では、わしが与えた正宗を磨り上げたと評判のようじゃが」

 見せよ、と迫った。政宗が差し出した脇差は、むろん、そんな由緒ある名刀ではない。

「奥州の盟主たる中納言殿にこのような鈍刀を贈ったことにされては、わしが笑われる。かまわぬ。本物の正宗を切り詰められるがよい」

 刀などしょせん道具である。宝物としての格式はあるにしても、武士の体面を保つための道具にすぎない。徳川家康も伊達政宗も、それを充分に知った合理主義者だった。

「伊達家の家臣の中には、反対する者もありましたが、お抱え鍛冶の国包に命じ、二尺三寸余の正宗は磨り上げられました」

 国包は大和保昌派の後裔で、柾目鍛えを家伝とする。初代は正保二年(一六四五)に隠居し、当代である二代国包は大和守安定の教えも受けている。

「ですが、明暦二年の春に、お上(徳川家綱)が疱瘡を患われた折、快癒を祈願して、将軍家にお返し申し上げました。そして、霊験あらたかに……」

「御快癒あそばされましたか」

 助広は、昨日、東叡山で拝謁した青年将軍を思い出した。疱瘡の痕跡があった。この時代であれば、生死にかかわる病である。その当時、保科正之は日に二度も登城して、病床を見舞っている。

「ところが、翌年、大火が起こりました」

 明暦三年正月の「振り袖火事」だ。明暦の大火。酉年の大火――。

 江戸城の天守閣、本丸、二ノ丸、三ノ丸をも焼失し、宝物蔵も罹災したため、刀剣類は三十振り入り刀箱三十個のうち、二十五個が灰燼に帰した。名だたる名刀、実に七百五十振りが焼け身となり、公儀では、このうちわずか十三振りだけを越前康継に再刃(焼直し)させている。致命的な焼け方でなければ、こうした修復も可能だが、刀剣としての価値は激減する。

「振分髪を納めてあった刀箱も焼け崩れた蔵に埋もれて、粉々になっていたというのに――」

「またしても、この振分髪は焼け残ったのですか」

「ええ。鞘は煤けて黒くなっていましたが」

 現在の鞘は新調したらしい。

「雙」第7回

「雙」第7回 森 雅裕

 江戸城に近い葺屋町東側「五町」に広がっていた吉原は、明暦の大火ののち、浅草寺の裏手へ移転して、新吉原という別天地を築いている。

 そこへ至る道筋は三つ。下谷坂本から金杉入谷を通り、三ノ輪から日本堤へ出る。浅草寺の東側の馬道通りあるいは裏側の田圃道をたどって、日本堤へ出る。または船で隅田川をさかのぼり、山谷堀から日本堤へ上がる。

 伊達綱宗は船を使った。芝の伊達家上屋敷は江戸湾に臨んでいる。船宿の多い汐留も間近だ。

 明暦の大火直後は、船という船が江戸再建のための資材運漕に収用され、船遊びどころではなかったが、ようやくこの万治三年、涼み船が川面を賑わすようになっている。

 柱を立て、屋根をのせ、幕や簾または障子を張り回した屋形船が次第に華美になり始めるのも、この頃である。もっとも、屋形船といういい方は元禄以降のもので、当時は御坐船という。普段、大名たちは専用の御坐船を船宿に預け、必要な時に船頭を雇って、漕ぎ出す。

 助広は、両国橋上流の船宿で待つようにいわれている。神田川が隅田川へ合流する川口の北側に建っており、助広が着いたのは夕刻近くだった。夏の西陽が川面で跳ね、岸辺を濃い茜色に染めている。やや上流の対岸には公儀の御材木蔵(のち御竹蔵)が居並んでいる。

 寛永年間に現在の熊谷市久下で荒川の瀬替えが行なわれ、河道が入間川に移されて、隅田川は荒川下流の本流となった。荒川放水路(現在の荒川)が造られて隅田川が分流に縮小されるのは明治末の洪水が契機であるから、江戸時代の隅田川は現代よりもかなり大きい。ただ、橋は川幅の狭いところを選んで架けるので、この御材木蔵付近から両国橋方向へは川幅が狭まり、蛇行している。

 船宿の二階では、安定、安倫の師弟と伊達家家臣数人が、吉原から戻る伊達綱宗の御坐船を待っていた。遊女を身請けするとなれば、引祝いと称して、祝儀、配りものなど、大盤振舞いせねばならない。ましてや大名である。助広には想像つかない段取りがあるのだろう。綱宗は早くから吉原へ繰り出している。

 行きも帰りも、この船宿で乗り換える手はずだった。船着場には、定紋入りの幕を張った堂々たる御坐船が係留されている。

 大名たちは華美を競い、屋敷がそのまま浮かんでいるような御坐船が続々と建造されている。だが、そんな派手な巨船で、吉原へ乗りつけるわけにはいかない。大名の遊興がお忍びである分には公儀も目をつむるが、寛容なわけでは決してない。

「汐留から目立たぬ船でお出ましになれば、乗り換えずともよろしいのでは……?」

 助広は首をかしげたが、

「大名には見栄というものがある」

 安定が一笑に付した。

 船宿の裏手が川べりへ張り出し、涼み台の造作になっている。陽が落ち、助広は茜色から紫へと色を変えていく空に、燃え立つ雲を見ていた。

「あんなふうに、ふわりとした匂口の刃文を焼きたいものです」

 呟くと、安定がさらに苦笑を転がすような声で、いった。

「おぬしは、見るものすべてを刀作りに結びつけてしまうのだな」

「それはそうです。刀を作ることが私には一番楽しいのですから」

 安定の頬が不快げに隆起した。

「わしとて、刀作りが一番楽しいことに変わりはないわ」

 何故、安定の機嫌をそこねたのか、助広にはわからない。

 安定はそっぽを向くように、

「安倫」

 と、傍らにいた弟子へ声をかけた。

「助広殿が江戸にいる間、せいぜい勉強させてもらうがよい」

 安倫こと余目五左衛門は元来が伊達家家臣だから、周囲の侍たちとも面識がある。時折、挨拶は交わしていたが、特に話し込む様子はなかった。

「おとなしいな」

 と、助広。安倫は小さく頷いた。

「主家を脱したことになっているんですよ。大きな顔はできません」

「山野加右衛門様は、もうおぬしのことは忘れたといっていた。あの脇差ともども帰参したらどうだ?」

「脇差は主家へお返ししました。でなきゃ、この場にいられませんよ」

 盗んだ脇差を返せば、それですむというものでもないだろう。許可なく禄を離れるのは主従関係を揺るがす重罪なのである。やはり、この男が主家を脱したというのは方便にすぎない。

「食いませんか」

 饅頭が箱で差し出された。黄色に黒味さえあるのが見慣れた小麦粉の饅頭だが、光沢ある白い饅頭だ。丸い形で、両端が尖っている。

「今朝から陸奥守様の家臣たちとともに準備に駆け回っておりましたが、出先で買ってきました。吉原の入口、浅草待乳山の名物となりつつある米饅頭です」

 饅頭は安いものではなく、享保期までは店売りもまだ少ない。

「名前の由来は、よねという女が作り始めたからとも、皮に米粉を使うためとも、女郎の俗称を『よね』と呼ぶからとも、いいます」

 口へ運ぶと、なるほど名物にもなりそうな饅頭だ。止雨の菓子とどちらがうまいだろうか。助広は胸の奧で、止雨の求肥や羊羹と比較した。

「待乳山の鶴屋という菓子屋のものです。かの由比正雪が十七歳で奉公にあがり、やがては養子にもなったが、不首尾があって、勘当されたという店ですよ。むろん、真偽不明の噂話ですが」

 米饅頭を食いながら時を過ごすうち、川面に薄闇が流れ、西の空は濃紺に色を変えた。暗くなると、船の交通量は目立って減る。

 川岸に待機していた伊達家家臣たちが、そわそわと動き始めた。まず、供侍や小者たちが乗った小型の屋根船が着岸した。

「お戻りのようだ」

 安定が、夜の色となった川面を指した。先着の屋根船よりだいぶ遅れて、灯りをともした御坐船が現われた。格別に大きな船ではない。侍臣が分乗する供船をもう一艘、後方に従えている。大名の御坐船は人数分の槍を船端に立てるというが、それもなく控えめだ。しかし、あたりの船とはさすがに風格が違う。

 夏のことで、障子ははずしてある。簾を半分ほど巻き上げ、人影が見える。姿や形はわからないが、あの中にすみのがいる――。

 たちまち、助広の心拍が落ち着かなくなった。そして、それは胸騒ぎに変わった。

「あの船も、お付き衆でしょうか」

 奇妙な動きを見せる三艘がある。追走してきたのではなく、逆方向から隅田川を上ってきて、すれ違いざま、御坐船の前後に回ったのだ。

 安定が口を尖らせるように、いった。

「お付き衆なら、吉原から従ってくるだろう」

 一艘は葦簀(よしず)で屋根をかけた小型の屋根船で、二艘はごく普通の荷運び船だが、荷は空のようだ。その舳先は御坐船を包み込もうとしているとしか見えなかった。

 川岸の誰もが声をあげた。荷船二艘が御坐船と供船それぞれの進路をふさぎ、同時に衝突した。荷船へのし上げる形となった御坐船は大きく揺れ、その揺れがおさまらぬうち、周囲が赤く染まった。御坐船は炎に包まれた。横に並んだ屋根船から、火を投げ込まれたのである。

 船宿の周辺は騒然となった。助広は何が起きているのかもわからず、またわかったところで、なすすべもなかったが、とりあえず立ち上がった。周囲がそうしたからだ。

 もつれあう船の間で、槍らしきものを振り回す者もあった。傾(かし)いだ船から人影が次々と水面へ転がり落ち、水柱が立った。

「これはいかん」

 安定が叫び、涼み台から駆け下りた。安倫も伊達家家臣たちも続いたが、助広は突っ立っている。茫然自失しているわけではなく、自分が右往左往したところで、何の役にも立たないとわかっているからだ。傍目には、こうした性格が冷淡とか傲慢と見られるのである。

 綱宗の御坐船に従っていた供船が舳先をふさいだ荷船をおしのけ、ようやく追いついて、落ちた者たちに手を差し伸べている。

 川岸にいた家臣たちも、係留してあった複数の船へ飛び乗り、船頭を怒鳴りつけながら、漕ぎ出した。

 衝突した二艘の荷船は転覆し、もう動いていない。乗っていたのはおそらく船頭だけで、その船頭は残る屋根船に拾われたのだろう。屋根船はすでに御坐船を離れ、下流へと足を早めている。夜の帳(とばり)の奥底へとその姿は溶け消えた。

 御坐船は派手に燃えていた。救助の船を照らし出す炎が漁火のようだった。

 ようやく助広も川岸へ下りた。安定が、冷たく振り返った。のんきな男だ――。そんな眼差しを向け、いった。

「陸奥守様は、どうされたかな」

「叫んでおられます」

 助広は愛想なく、いった。

 しばらくすると、怒号とともに一艘が岸へ近づいてきた。叫んでいるのは、綱宗だった。救い出されたのである。

「戻せ! 戻せ!」

 水中にまだ人がいるらしい。それを引き上げるために船を戻せというのだ。しかし、救助の船は他にも出ている。

 綱宗は岸へ上がった。家臣たちの、

「とりあえず、着替えを」

 という声を振り切り、ずぶ濡れのまま、仁王立ちして、

「薫を探せ! あきらめるな!」

 叫び続けている。

 とても近づけた空気ではないのだが、安定は声をかけた。

「おお。お前たちか」

 振り返った綱宗の目許がきびしい。

「船がぶつかったと思ったら、油をまかれて、松明が投げ込まれた。槍も突き立てられた」

「すみの、いえ薫様は……?」

「一緒に飛び込んだが、水中で手が離れた。傷を負ったようだったが……」

「何者でしょうか、あの屋根船は」

「すみのに吉原から出てこられては困る輩がいる、ということよ」

 続々と濡れた者たちが岸へたどり着く。

「お屋形様が濡れたままでは、他の者たちも着替えるわけにまいりませぬ」

 と、家臣が数人がかりで、綱宗を船宿へと促した。それを見送りながら、安定が助広と安倫へ、いった。

「どこかの岸に上がっているやも知れぬ。手分けして、探してみるか」

 助広は安倫に小声で尋ねた。

「このあたりは深いのか」

「背が立たないだけの深さがあれば、充分に深いといえますね」

 溺れるには、という言葉が省略されている。着衣のままでは泳げるものではない。

 龕灯や松明をかざして、男たちは川岸を駆け回った。隅田川の蛇行を考えると、対岸の方が漂着しやすい。かなり迂回することになったが、両国橋を渡り、見回りもした。

 芝の伊達屋敷からも応援の船が駆けつけた。しかし、一時(二時間)ほど費やしても、すみのの姿も手がかりも見つけられなかった。野次馬が増えるばかりだ。

「今夜はもはやこれまで」

 綱宗が打ち切りを告げた。屋敷から届けられた小袖に着替え、袴をはき、颯爽とした若侍という出で立ちである。

「夜明けとともに、家臣を繰り出して、川沿いを捜索せい」

 焦燥しているが、声は強い。 

「あの屋根船もどこのものか、きっと突き止めよ」

 焼け焦げた御坐船は半ば水没した姿で、船着き場へ引き寄せられている。人目につかぬよう、早々に処分されることになるだろう。

「役人が乗り出すと面倒ゆえ、今夜のこと、他言せぬよう」

 綱宗の侍臣から、助広たち、船宿の者たちに釘が差された。江戸初期に牢人を大量発生させた大名取り潰し政策は過去のものではある。しかし、江戸市中で問題を起こせば、家名の危機となりかねないことに変わりはない。

「両国橋から遠目だったのが不幸中の幸いだな」

 安定が独りごちた。

 両国橋は現在の橋よりも下流寄りで、隅田川が大きく蛇行する真ん中に架けられており、事件現場の一部は死角に入るばかりか、五町(約五四五メートル)ほども距離がある。でなければ、人目が増えただろう。 

 
 
 両国広小路は明暦の大火後の防災対策として、市内要所に作られた火除地のひとつである。江戸中期の明和・安永年間には見世物小屋や茶店の建ち並ぶ盛り場となるが、両国橋もまだ仮橋しか架かっておらず、その完成は二年後となるこの頃、さしたる賑わいもない。今夜の船火事を面白がる通行人たちの声が一瞬だけ、風に混じった。

 その広々とした夜道を歩きながら、三人の刀鍛冶は互いの重い足音を聞いていた。助広は本所、安定と安倫は神田へ戻るのである。両国橋までのほんの数歩の道連れだが、あっさりとは別れられなかった。

「先刻の陸奥守様の御言葉ですが――」

 助広が切り出した言葉が終わらぬうち、安定は気短に応じた。

「何かな」

「すみの様に吉原から出てこられては困る輩がいる、と仰せられたのは――」

「決まっておる。すみの様と顔を合わせれば正体が露見してしまう者がいるということだ」

「虎徹師ですか」

「いうまでもない」

「しかし、天下の伊達様の船を襲うというのは――」

 やり方が派手すぎはしないか。一介の刀鍛冶にできることではない。

「虎徹には、うしろだてがいるのだろうよ」

「打ち首になったとか、替え玉とさえいわれる虎徹師に、うしろだてが……?」

「いや。うしろだてがいるからこそ、打ち首になった虎徹に替え玉を立てることが可能だったとも考えられる」

 安定はそういったが、助広には南蛮の言葉を聞いている気さえした。自分とは関わりのない世界のように遠いのである。すみのの安否を除けば――。

「すみの様のことは、明日の捜索に望みを託すしかないな。我々は手助けできぬが」

 と、安定。明日から、彼らには御前鍛錬が始まる。

 安定の言葉には助広の心中の動揺を探るような気配があったため、彼は冷静であろうと意地になった。

「今夜は充分に寝ることにします」

 助広は曇りのない声で、いった。

「助広師匠」

 安倫が背後から声をかけた。

「太守……お屋形様はお休みになれぬと思いますよ」

「私は御前鍛錬のために江戸へ来た」

 両国橋西詰にある番所の明かりが近づき、助広は振り返った。安定師弟との分かれ道だった。

「明日は火入れ式です」

 
 
 翌日。

 東叡山に据えられた鍛錬場の火入れ式が、将軍・家綱臨席のもと、執り行なわれた。五人の刀工のために作られた五基の火床、それぞれに火を入れていく。

 刀工たちは金敷の上で長い釘を叩き、それだけで赤く発熱させる。これで付け木に火をつけ、火床の炭へ移す。

 あざやかな職人技を見せつけられ、家綱は身を乗り出した。まだ少年の面影を残す二十歳の四代将軍である。蒲柳の質で、何度か生死にかかわる病をくぐった体躯には肉が薄く、頬に疱瘡のあとを残している。しかし、目の輝きは強い。

 注連縄をめぐらせた各自の火床で、刀工たちが鞴を吹くと、花が開くように紫色の炎が噴き上がった。熱が回るにつれ、炎は橙色となる。ここまでは孤独な助広にも可能だが、ここから先の鍛錬となると、手が足りない。他の刀工たちには弟子たちが先手(助手)についている。しかし、助広は弟子を伴っていない。

 白戸屋が手配してくれたのだが、どういう手違いがあったのか、この場に現われなかった。

「私があとでお手伝いしましょう」

 そういったのは、安定の弟子の安倫だった。しかし、手は空きそうにない。刀工たちは将軍御前で、鎚音の高さを競うように、火花を散らしている。鉄塊をつぶし始める者、下鍛えを始める者、それぞれだ。

 とりわけ、派手な鍛錬ぶりを見せているのが虎徹だった。もちろん、大鎚をふるうのは弟子たちで、三人の若者が交互に打っていた。横座に座る師匠は小さな鎚で金敷を叩きながら彼らに合図を送るわけだが、一糸乱れぬ呼吸の合わせ方を見ると、よく鍛えられた弟子たちであることがわかる。

 助広にしてみれば、下鍛え済みの鉄を大坂から持参しているので、この場で鍛錬の必要はないのだが、それとは別に実演披露のための南蛮鉄も用意している。ひとつひとつが瓢箪形をした鉄塊である。

 さほど大きなものでもないので、ひとつずつ箸にはさみ、火床へ入れて、赤めてはつぶした。もともと南蛮鉄は平べったい形状であり、力自慢の刀鍛冶だから独力でも何とかなるが、できれば、先手の大鎚に頼りたいところだ。

 形だけの臨席だろうと予想された家綱だが、腰を据えて、刀鍛冶たちを見守っている。意外な長時間の作業となった。

 助広はつぶした南蛮鉄を熱いうちに水へ入れ、焼入れする。水ベシと呼ぶ工程だ。これがある程度の量になると叩き割り、割れ口から鉄質、炭素量を選別していく。日本刀は皮鉄と芯鉄の二重構造であるから、良質の鉄は前者に、劣る鉄は後者に用いる。場合により、炭素量を調整して卸し鉄とすることもある。

 今の助広にできるのはここまでである。割り揃えた南蛮鉄は下鍛えに回すなり、上鍛え段階の和鋼に混入するなりするわけだが、一人ではそれはかなわない。

 家綱は寛永寺法華堂の広縁に設えられた席を立ち、庭へ降りた。若き将軍の好奇心の強さに、侍臣たちは当惑している。鍛錬の場に近づけば、炭塵にまみれ、飛び散る火花を浴びることになる。

 刀工たちは遠慮して、仕事の手を止めた。

「かまわぬ。間近で見たい。続けよ」

 侍臣を通じて、そう命じられはしたが、途端に鎚音がおとなしくなった。が、虎徹だけは挑戦的とも聞こえる音量で、鍛錬を続けている。自然、家綱の目と耳もそちらを向く。

 そんな光景をよそに、照れ性の助広はせいぜい小さくなっていた。しかたなく、つぶした南蛮鉄を割り続けていたが、人とは違うその作業が、かえって目立った。虎徹の散らす火花から顔を逃がした家綱が、助広に着目した。歩み寄った。

「それは何をしているのか」

 お答え申せ、と腰物奉行が促した。

「鍛錬前の鉄をつぶしましたので、割れ口から性質を見極め、選り分けております」

「どのように見極める?」

 助広は家綱ではなく腰物奉行の鼻先に南蛮鉄を示した。が、奉行は遠慮し、家綱が覗き込んだ。

「このように鋼の部分はきれいに割れます」

「おお。割れ口が白い」

 南蛮鉄はタタラ製鉄で生まれる和鉄ほどには部位による性質のばらつきはないが、そのまま鍛錬できるほど均質でもなく、不純物を含んでいる。輸入時期、輸入経路によっても差違がある。

「雙」第6回

「雙」第6回 森 雅裕

 助広は呆然と床板の杢目を見つめている。彼がついていける話ではない。すみのは大坂での彼の幼馴染みである。それ以外のすみのなど知らない。

「私が存じているすみのは、興光という職方の家におりました。それが今、吉原で薫と呼ばれ、陸奥守様の妹君であると仰せられますか」

「いかにも。わが父、大慈院様(伊達忠宗)の情けを受けた女子が――あきの殿というたな――奉公を終えてまもなく、産んだ娘じゃ」

 助広の知るすみのは、興光の妻の連れ子だった。その妻の名は記憶にないが、伊達家先代の手つきだったというのか。そのような貴種がどうして苦界へ身を売るはめになったのだろうか。興光は彼女の血筋を知らなかったのか。大名家ゆえに騒動の火種となることを危惧して、母のあきのは口をつぐんでいた――いや、口止めされていたということは有り得るが……。

「そして、あきの殿は興光と、それ、世間でいう所帯とやらを持った。すみのを伴って、な。あきの殿存命のうちは東下を避けていたが、亡くなってから、興光は江戸へ出た。が、借金を作って、その工面のために、すみのを吉原へ沈めた。大火の年――今より三年前のことじゃ。翌年、興光は死んだようじゃが、むろんのこと、すみのは死に目にはあえなかった。義理の父娘ゆえ、どのくらい情が通っていたかはわからぬが」

「もっとも、興光の死に目にあった者がいるという話は聞いたことがございません」

 と、安定が愚痴でもこぼすように口をはさんだ。

 助広は低く声をしぼり出した。

「陸奥守様。長く離れ離れであった薫様が――」

 薫とやらに敬称をつけるしかない

「どうして妹君に間違いないといえるのでございますか」

「会えばわかる。決め手はある。いずれ……」

 綱宗はそれだけをいった。いずれ、助広にもわかるというのだろうか。

「そのような妹君がおられることは、以前から御存知だったのですか」

 なら、今まで、どうして放っておかれたのか。

「行方の知れぬこと、わが父が亡くなる時に聞いた」

「それにしても、陸奥守様が自らお出ましにならずとも、御家来のどなたかの名前で落籍(ひか)せればよろしいのでは……」

「そうした卑怯未練な大名ではありたくない」

 この程度の方便を卑怯未練というのだろうか。潔癖さは政治の世界ではたいした役には立たない。助広は、この青年大名と伊達家の将来に少々不吉なものを感じた。むろん、後年の「伊達騒動」など予見できるはずもなかったが。

「陸奥守様がこのようなお家の事情を私ごときに打ち明けてくださる理由がわかりかねます」

「お前は薫の――いや、すみのの幼馴染み。それが理由じゃ」

「それはつまり、面通しをせよとの仰せでございますか」

「うむ」

 伊達家の血筋であるかどうかはともかくとして、すみのと薫が同一人物か否かを助広に確認させようというのだ。助広の記憶にあるすみのは九歳の少女だが、面影くらいは見出せるだろう。

 苦界に沈んだ幼馴染みを目にするのは気分のいいものではなさそうだが、助広はもう後戻りできない。

「では、吉原におられるということは、どうして御存知になったのですか」

「伊達家当主となって以来、気にかけていたが、ようやく興光の兄にたどり着き、興光に多額の借金があったことは突き止めた。そんな男に娘がいれば、行方は想像できよう。評判の美貌であったそうじゃからの」

「兄とは……興里虎徹でございますか」

 その名を出すと、

「この助広は昨日、興里虎徹の仕事場を訪(おとな)ったようでございます」

 安定が補足した。

 綱宗の細い顎が、やや上を向いた。

「何か刀作りの秘伝でも盗み見たか」

「そのようなことは別に……。しかし、いささか気になるものを目にいたしました」

「何か、それは」

「枡です」

「枡……?」

「刀身彫刻など行なう工作場に、二つ三つございました。台所にあったならば米でも計るのでしょうが……」

「そんなものが気になるのか」

「虎徹師は下戸とも聞き及びます。酒を酌まぬなら、枡を何に使うというのか……」

「そんなことに着目するからには、何に使うかを知ってのことであろうな」

「鐔作りに使うのでございます」

「鐔……? 枡を、か」

「鐔は肉置きや面取りが命、と申します。特に耳(外周の縁)は目立ちますので、素人の目にも上手下手がわかります。この部分に一定の角度でヤスリがけを行なうために、鐔を枡へはめ込むように斜めに入れるのです。そうすれば、工作中の鐔は安定します。場合に応じて、通常の一合枡ではなく浅い枡を使うこともあります。虎徹師のところには、上部を切り取った枡もありました」

「なるほど。枡を使うとは面白い」

 笑っても、綱宗の端整な顔立ちは崩れない。

「面白いのは、つまり余人が考えつかぬ工夫だからでございます」

「ふむ。なら、どうしてお前にはわかったのか」

「以前に枡を使う職方を見たことがございますゆえ。長曽祢興光です」

「虎徹の弟ならば、技法を教え合うこともあったのではないか」

「しかし、虎徹師のところにあったのは京枡でした」

 織田信長、豊臣秀吉が容積の公定を図った京枡だが、江戸には江戸枡があって、一定していない。京枡に全国統一されるのは寛文九年(一六六九)のことである。その京枡も豊臣時代の古いものは若干小さい。

「ちらりと見ただけですからはっきりは申せませんが、古いもののようでした」

「ふむ。江戸枡でないとなると、その枡は興光が上方から持ってきた遺品ということも有り得るが……」

「とはいえ、安定師匠」

 と、助広は寄せた眉を安定へ向けた。

「虎徹師はなかなかに器用な人物のようですが、鐔をも作るのでしょうか」

「刀工が鐔を作ることは昔からある」

 古くは、刀を一本打ち上げるごとに刀鍛冶自らがハバキ(刀身と鞘を固定する金具)と鐔を鉄で作り、添えることがあったようだ。分業が進んだ江戸期でも刀鍛冶が鐔を作ることはあるが、あくまでも余技である。したがって、武骨すなわち素朴を身上としている。本職の金工のような濃密な彫刻はもちろんやらないし、肉置きや面取りも精巧なものではない。

 助広は鐔は作らない。余技に精を出す暇があったら、刀作りを研究したいと考えている男である。これは性格の問題であって、職人としてどちらが正しいかの問題ではない。

「虎徹は多芸を誇るところがあるから、枡を使って、精巧な鐔を作ってもおかしくはない。あの男の刀身彫刻を見ると、見事なものだ」

 安定が、いった。

「昔から器用な職人ではあったわけだが、もはや余技の域を越えている」

 綱宗も涼しい目許を助広へ向け、説得でもするように、いった。

「余技ではなく、本職かも知れぬな」

「刀工ではなく金工かも知れぬということでございますか」

「今の虎徹は興里ではなく興光……という風聞が立つのも無理からぬことじゃ」

 綱宗の耳にも達しているらしい。となると、もはや一笑に伏すべき風聞ではない。

「興光師の墓所はどうなっているのでしょうか」

「興里虎徹の住む池之端近辺なら、上野山内が手っ取り早いだろうが、東叡山の諸院は天台宗だ。長曽祢の一族は法華宗ゆえ、ここらではあるまいな」

 と、安定。過去帳も疎漏なきものでは到底なく、墓所だからといって、埋葬の記録が残っているとは限らない。

「しかし……わかりませぬ。どうして兄弟が入れ替わらねばならぬのでしょうか」

 助広は低いところから疑問を口にしたが、綱宗は、

「まあよい」

 と、一言で振り払った。

「薫が吉原を出たなら、虎徹にも会わせればよい。他人に見分けがつかずとも、興光に育てられた娘ならわかるはず」

 めまぐるしいほどに、行く先々で話が飛躍する。これが江戸という土地柄なのか。助広は綱宗の屈託ない微笑の前で、頭を下げるしかできない。

 
 
二・地鉄研

 翌日は寛永寺で御前鍛錬の最終準備をすませたあと、助広は三善長道と肥前忠吉に誘われ、山野加右衛門を訪ねた。

 このあと、助広は吉原からの帰り船を迎えに出向くことになっている。が、黙っていた。とはいえ、気になることがあった。あるいは加右衛門なら、何か教えてくれるかも知れない。

 加右衛門の屋敷は本所に開削されたばかりの横川の東岸にある。白戸屋の寮がある隅田川寄りの地域とは、同じ本所とはいっても格段の差があった。まだ沼地と田畑が多く残り、ところどころに雑木林がわだかまっている、そんなところだ。閑静というより陰鬱なたたずまいだった。

 長道の声がそんな空気の中に響いた。

「虎徹も以前は本所に住んでいたという。神田鍛治町にもいたらしい。落ち着かん男だな」

「本所には山野加右衛門。神田には大和守安定。行く先々でそうした知己を作り、さっさと離れる。それが虎徹の生き方なのだろう」

 と、助広。

 忠吉はそんな会話には加わらず、破れた黒板塀の先に現れた門構えを見ている。

「人斬り屋敷と近所では呼ばれているらしい」

 忠吉は、いった。が、けろりとしている。

「誰も近づかない」

 加右衛門は公式にも首斬りではなく人斬りと呼ばれている。

 助広は開け放しの門を先頭に立ってくぐった。

「なのに、新三郎さん、藤四郎さん、どうして近づく?」

「俺たちは刀鍛冶だ。刃味の奥義を授けてもらわねばならん」

 そういったのは長道だ。のちに彼が「会津虎徹」と称揚されるのも、本家の虎徹と同じく山野加右衛門及び養子の山野勘十郎による実用面での指導の賜物である。

 江戸後期の柘植平助方理の『懐宝剣尺』及び山田浅右衛門吉睦による『古今鍛冶備考』の刃味位列では、忠吉、長道はともに虎徹と並んで第一位の最上大業物に列せられ、助広はどういうわけか青年期の楷書銘の作が大業物(第二位)、壮年期の草書銘の作が業物(第四位)という評価にとどまっている。もっとも、この位列は刃味を称揚される安定が良業物(第三位)でしかないという、いささか偏向した内容ではあるが。

 名門の三代目ともなると、愛敬を振りまかずとも世渡りできるのか、忠吉は求道者風だ。それに対して、長道は垢抜けている。むろん、忠吉に比べれば、という程度ではあるが、丸顔に稚気が残り、親しみやすい容姿の持ち主だ。声もいい。芸能面での才能がありそうだ。

「無抵抗な肉塊を斬り刻んだところで、刀としての評価のすべてが決まるものかね」

「何を斬るかによって、刃の固さ、刃角のつけ方も異なる。人体ばかりが相手とは限らん」

「それはそうだ。戦となれば、相手も得物を振り回して抵抗する。打ち合った場合の強靱さも刀の値打ちだろう。刃味が悪くとも、鉄棒で殴れば、人は倒れる」

「大体、人を殺すなら、斬るより刺す方が確実だ。斬れ味なんぞ、たいした意味はない」

 こんな話をしている刀鍛冶たちも充分に「誰も近づかない」人種だった。

 玄関で案内を請うと、屋敷内には思いのほか、人気(ひとけ)があった。加右衛門には後継者・勘十郎ばかりでなく門人たちがいる。

 牢人とはいえ、旗本並みの拝領屋敷である。荒れてはいるが、広い庭で、彼らは巻き藁を斬ったり、太い木刀をふるい、土壇へ撃ち込む稽古をしていた。山野家では、朝三百回、夕八百回、首をはねる稽古をするという。

 山野勘十郎成久(のち久英)は二十六歳。養父にもまして、肩の筋肉が発達している。彼が手にしていた抜き身を見せた。刃先の鉄色が生々しい。

「寝刃(ねたば)を合わせてある」

 刀は磨き上げた状態で使うものではない。刃先に微細な疵をつけた方が、摩擦係数が減り、刃味は向上する。そのため、実用の前には刃先に軽く砥石をあてる。それが寝刃である。理屈ではそうなのだが、助広の経験では、磨き上げた刀と格段の差はない。

「斬る対象によって、寝刃にあてる砥石の角度を変える。また刀によって、砥石の使い方も違う。備前物は名倉砥で大筋違いに研いだ上を合わせ砥で仕上げ、相州物は名倉砥で研いだあと、合わせ砥で横に――」

 勘十郎の説明を忠吉は熱心に聞いているが、長道は稽古の方法に興味があるらしく、門弟から太い木刀を借りて、振り回している。気鋭の刀工たちは貪欲に何かを吸収する気だ。

 助広は彼らからやや距離を置いていた。この屋敷の主、山野加右衛門も門弟たちから離れ、

「……その気にならぬ刀鍛冶はおらぬ」

 二日前、寛永寺で聞かされた言葉を繰り返した。「気が変わったら、いつでも拙宅を訪ねられよ」という誘いのあとの言葉だった。

「やはり来たな、おぬしも」

 いいながら、池を見ている。多くの巻き藁が放り込んである。青竹を人骨に見立てて藁を巻き、これに一晩、水を吸わせると、ほぼ人体に近い手応えになるのである。

「助広殿。手を貸してくれるか」

 それを引き上げるのを手伝わされた。そして、台に立てる。江戸前期には横たわった死体ばかりでなく生きた罪人でも試し斬りを行なうので、相手が立っている場合も想定しているのだ。

 助広は周囲に人がいないのを見計らい、いった。

「虎徹師が小伝馬町で打ち首になったという話を聞きました」

「…………」

「二年前だとか。もしや、山野様が御存知ではないかと、こちらへうかがったのですが……」

「虎徹は今、生きておるではないか」

「はい。ですから、それが――」

「わしはな、すでに六千の首を斬った。勘十郎にお役を譲るまでには、あとどれほど斬ることか。どこの何者を斬ったか、いちいち覚えてはおられぬ」

「…………」

「虎徹が刑死したなら、その工房が今なお鍛冶職を続けているというのもおかしな話だ」

「そうです。連座しそうなものですが」

「もっとも、罪の軽重はお上の裁量だ。町人の場合は連座もさほどきびしくはない」

『公事方御定書(御定書百箇条)』の成立は八代将軍・吉宗の寛保年間で、それまでは前例に従う慣習法である。 

 気づくと、長道が思わぬ近くにいた。

「杏子の木が何本も植わっていますね。実を取ってもよろしいですか」

 そのあとに続けた。

「山野様はお役目とはいえ、罪人につながる身内――女、子供もお斬りになるのでしょうな」

 長道の言葉は遠慮がない。しかし、どういうものか、表情の豊かなこの男には、憎めない空気がある。加右衛門も気にさわった様子はない。

「そうよな。女、子供も数知れず斬った。誰もが知っている例をあげれば、慶安の変だ」

 天下を震撼させた由比正雪を首魁とする謀反事件である。慶安四年(一六五一)七月。三代将軍・家光が薨じた三カ月後のことだ。

 正雪は駿河出身の楠流軍学者で、神田連雀町に道場を開いて、旗本や大名家臣の声望を集めた。彼は幕府の牢人対策を憂えていたという。

 幕府転覆の壮大かつ無謀な計画は――一味は二手に分かれ、正雪自らが駿河の久能山を攻略し、駿府城も乗っ取る。江戸では塩(煙)硝蔵に火をかけ、江戸の町々にも火を放つ。あわてて登城する幕閣をも襲撃する、というものである。しかし、直前に訴人する者たちが相次ぎ、正雪は駿府の宿を包囲されて、自害した。

「一味の身内、三十数人が鈴ヶ森と小伝馬町で処刑された。磔になった者もいたし、打ち首となった者もいる。二歳、五歳という子供たちも目こぼしされなかった」

 その幼児の首を加右衛門がはねたのだろうか。さすがに、それは訊けなかった。

 加右衛門はしかし、明瞭な声で、いった。

「この屋敷が抹香臭いのは、年中、仏壇の罪人どもに焼香しているからだ」

「実の成る木が多いのも、その匂いで抹香臭いのをごまかすためですか」

 と、長道。ちぎった杏子の実で、左右の袂をふくらませている。

「果実は止雨殿の菓子用だ。杏子は果肉をつぶして、寒天に交ぜ、竹の皮に延ばす。あるいは砂糖漬けにする」

 助広は加右衛門に尋ねた。

「止雨殿はおいでですか」

 彼は山野家の居候と自称していた。

「ほお。助広殿はあの菓子師に関心がおありか」

「いささか」

「裏の離れが止雨殿の住まいになっておる。が、今は来客中だ」

「どこぞの茶の宗匠でも……?」

「下総佐倉の堀田上野介様の御用人だ。この屋敷に大名、旗本の使いは珍しくないが、わしよりも止雨殿を訪ねる方が面白いらしい。刀の試し斬りを依頼すると、その足で離れの方へ行ってしまう。おぬしら、止雨殿の菓子が目当てなら――」

 加右衛門は門弟に命じて、菓子を運ばせた。紙に包んである。

「これを進ぜる。羊羹だ。室町の頃より伝わる、小麦粉と赤小豆餡を練ったあとで蒸すものではなく、赤小豆に砂糖と心太を合わせて煮た新しい試みだ。ただし、茶は出さぬゆえ、持ち帰って食されるがよい」

 人斬り山野加右衛門、変わった男だった。

「近江国長曽祢庄には、晒し屋の井戸というものがあるそうだ」

 唐突に、そういった。

「晒し屋……?」

「染物屋のことだ。由比正雪は駿河由比の染物屋の倅だが、その父がもとは長曽祢の住人で、石田三成の佐和山城が落城した折、多くの職人と同様、他国へ逃げた。その父が使っていた井戸だそうな」

 正雪は駿河、虎徹は越前の生まれだから、むろん、二人に直接の接点はない。しかし、両方の親が長曽祢の出身というのは、何かの因縁なのだろうか。

「斬ってみるか」

 加右衛門は巻き藁を立て並べ、離れていた忠吉も誘った。三人の刀鍛冶は普段の差料としている自作脇差を持参している。交替で斬った。そして、それぞれの作について、加右衛門からいくつかの指導を受けた。

 その帰り道で、

「有意義な訪問だった」

 忠吉は素朴に目を輝かせていた。

「ところで、二人は山野様と何を話していた?」

「杏子の食い方を教わった」

 長道はそう答え、助広は、

「長曽祢の井戸の話だ」

 簡単に、いった。

「それは焼入れによい水質の井戸の近くには杏子の木が育つというようないい伝えか何かなのか」

「違う」

 助広と長道の返事が重なった。

「雙」第5回

「雙」第5回 森 雅裕

 助広は話の接ぎ穂を探りながら、尋ねた。

「安定師は虎徹師と同じ兼重門下とか。つきあいはおありですか」

「ないな」

 安定はまるで自慢でもするように高らかに、いった。

「虎徹が江戸へ現われたのは、慶安の初めであった。鍛冶屋としての腕はすでに持っていたから、刀作りを修得するのに長くはかからなかった。むろん、名刀作りとはまた別だが……。あちこち渡り歩きはしたものの、人づきあいは悪い。特に同業者は」

 そんな虎徹が、昨日は助広を自分の鍛錬場へ招いたのはどういう理由なのか。

「わしもまたもとは越前から流れ始めて、紀州石堂派で学び、江戸へ出てきた。つまり、虎徹にしろわしにしろ、兼重師のもとで、鍛冶屋としてさまにはなったが、年少の頃から寝起きをともにした兄弟弟子ではない」

「長道は、虎徹師が半百の五十歳で江戸へ出たにしては様子が若い、とかいっていましたが……」

「ふん。それは誉めているのではなく、おかしいといっているのだろうな」

「はい。宣伝だとは虎徹師本人も認めておりました」

「宣伝とな。彼奴は言葉まで作りおる」

「売り込みという意のようです」

「ふん。逸話の売り込みは馬鹿にならぬぞ。虎徹が金沢城下にいた頃、加賀中納言・前田利常様の御前で、志摩兵衛正次の刀と虎徹の兜とで試し斬りがあった。まさに斬りつけようとしたその刹那、虎徹は、待ったと声をかけ、兜の位置を直した。気を殺がれた正次は、そのあと斬りつけるのに失敗したが、声をかけねばおのれの兜が断ち割られていたと感じた虎徹は、甲冑師をやめ、刀鍛冶を志したという」

「なるほど。面白い」

「もっとも、場所は越前福居(福井)で、虎徹ではなく和泉守兼重の逸話だとする異説もあり、相手の刀鍛冶は正次ではなく兼巻だとも陀羅尼勝国だともいう。第一、微妙公(前田利常)は二年ほど前に亡くなられたが、隠居されたのは二十年以上も前で、時代が合わぬ。それに、虎徹は甲冑師をやめたわけではなく、今も作っている」

「今も……?」

「もっとも、長曽祢派の職人は江戸に何人もいるから、代作ということも充分に有り得るが」

「虎徹師にはもっと妙な噂もあるようだと聞きましたが」

「長道あたりが何かいっていたか。奴は口が達者なようだ」

「江戸の刀鍛冶から聞け、といっておりました」

「虎徹ははたして虎徹なのか。そんな噂がある」

 安定はあっさりいったが、助広にはその意味するところがつかめない。

「虎徹の出府が五十を過ぎてからというのは誇張だが、若くなかったのは事実だから、彼奴には江戸に旧友もおらぬ。特に、ここ数年は人前に出ることも少ない。われらの師匠の初代兼重が死んだのは万治元年つまり二年前だ。虎徹は葬儀に参列もしなかった。その後、虎徹に会った者たちの間から、以前とは面変わりしたという声があがった。本人は病んだと称しているようだが……。わしも昨日、ひさしぶりに顔を合わせたが、ろくに会話をしておらぬ」

 安定は淡々と語る。

「小伝馬町で百叩きにあったろくでなしが、兼重一門にいた。江戸を追われ、今は消息不明だが、牢の中で、そいつは虎徹に会ったそうだ」

「え……?」

「それも二年前だ。ちゃんと言葉を交わしたという。その虎徹は打ち首になったそうだ。彼奴が欠席した初代兼重の葬儀はそのあとだった」

「それは、つまり――」

「今の虎徹は偽者――替え玉かも知れぬということだ」

「牢に入ったというのは、どういうことでしょうか。何をやったのですか」

「さあ……な」

「虎徹師が刑死したなら、一門は連座しなかったのでしょうか」

「今も鍛冶屋を続けているのだから、そういうことだろう。奇妙なことだ。秘密裏に処刑されたフシがある」

 死罪になれば、家屋敷、家財は闕所つまり没収される。罪状にもよるが、関係者は連座、家族には縁座という累が及ぶことがある。もっとも、連座していないからこそ、真偽がわからず、噂の域を出ないのであるが。

「刑死は何かの間違いでは……? 忽然と江戸に現われた刀鍛冶ですから、いろんな憶測が流れるのでしょう」

「確かに、江戸に現われる前の虎徹を知っている者は、この町にはいない。弟子たちの中には、虎徹が越前の甲冑師だった頃から師事している者もいるが、師匠に秘密があっても、口外するまい」

「身内はどうなのですか。家族は……」

「いない。したがって、弟子の中から興正を選んで養子にした」

「しかし、替え玉に刀が作れますか」

「おぬし、昨日、虎徹のところへ行ったのだろう。元気な盛りの弟子たちを見たはずだ。虎徹こと長曽祢興里には興正を初め、興久、興直といった腕のいい弟子たちがいる。刀はそいつらに作らせることができる」

 機械化されていないこの時代、刀剣はどんな名人でも一人では作れない。師匠が監督する工房の作といえる。むろん、師匠がどこまで自ら手がけるかは、場合によって差があるが、すべて弟子による代作ということも、職人の世界には珍しくない。それは贋作とは違う。助広自身、十代後半から、父である初代助広の代作代銘を行なっている。

「しかし、今回の御前打ちは人前での鍛刀です。それも、公方様じゃありませんか」

「公方様は初日の火入れ式と最後の献納式に臨席なさるだけだ。他の幕閣、役人たちも作刀の一部始終を御覧にはならぬ。われら刀工がやってみせるのは、数日に及ぶ工程の一部だけだ。おぬしとて――」

 安定は目を細めるようにして、助広を見やった。

「すでに下鍛えした鉄を持参している、というたではないか」

「はあ……」

 そもそも、風通しのよすぎる仮設の火床では火力が安定しない。満足いく仕事ができる保証はないのだ。

「どうせ、制作中の刀は監視されているわけではない。むろん、鍛錬場は役人たちが警固しているが、刀には素人ばかり。刀鍛冶が失敗作を成功作にすり替えることは容易。虎徹の鍛錬場は池之端にある。東叡山寛永寺の麓だ」

「では、虎徹師になりすましているのは……」

「誰だか、いうまでもあるまい」

「双子の興光師ですか」

「虎徹にそういう弟がいることは以前から知っていた。実をいえば、顔を見たこともある。先日、おぬしには黙っていたが……」

 その先日、安定が「人の世は面白いもの」といったのは、このことだったようだ。

「興光師は二年前の春に亡くなったと、虎徹師から聞きました」

「さて。死んだのは虎徹の方かも知れぬ、ということよ」

「安定師匠。そこまでいえば、噂や憶測を越え、他人への中傷に聞こえます」

「そうよな。身内の証言が聞きたいところだ」

「しかし、虎徹師に身内は……」

「興光の身内だ」

「え……?」

「興光には娘がいた」

「はい」

「妻の連れ子だがな。その妻はすでに……」

 大坂で没している。それは助広も知っている。

「そして、興光は血のつながらぬ娘を棄てた。いや。売ったのだ」

「売った……? まさか」

「その、まさかだ。娘は吉原におる。三年前の夏に売られ、禿を経ずに『突き出し』で見世に出た」

 助広は驚くよりも、咄嗟には理解できなかった。

「今や吉原京町二丁目山本屋で、薫という評判の格子女郎となっておる」

「格子女郎……というのは?」

「太夫の次の位だ。もっとも、つとめを続けておれば、遠からず太夫に出世するはずの傾城だ」

「その薫とやらが、自分の素姓をぶちまけたとでもいうのですか」

 下級遊女ならともかく、太夫の次位ともなれば、気安く身の上話をするとも思えなかった。

「にわかには信じられまいな」

「吉原へ行けば、会えるのですか」

「一介の鍛冶屋がいきなり行って、会える端女郎じゃねぇ。会える人間は限られ、しかも、身の上話を聞くことができる人間はもっと限られる。おぬしもまず、そうした選ばれたお方と近づきになることだ」

「どこのお大尽ですか」

「お大尽なものか。殿様だ。お大名だ」

 大名道具といえば、遊女の世界では太夫を指す。宝暦年間に絶えるまで、最高位の遊女であり、茶の湯、活花、和歌、音曲などを嗜む教養婦人である。吉原では七十余人の太夫を数えるという。それらを差し置いて、大名を惹きつける格子女郎がいるのか。

「あ。では、安倫が仕えていた……」

「いかにも。仙台候だ」

 仙台伊達家の当主・綱宗は独眼龍と畏怖された政宗の孫である。万治元年に没した父・忠宗のあとを継いだ。それから二年。

「今年で二十一歳におなりだ」

 そんな歳で、吉原通いをしているのだろうか。

「理由があるのだ。いろいろと」

「理由とは……?」

「お大名の事情をわしの口からいえるものか。聞きたければ、じかにうかがえ」

「しかし、仙台候などとは……」

「仲立ちしよう。わしが」

 安定は仏頂面で、いった。しかし、唇の端が自慢げだ。

「わしはこう見えても、陸奥守様(綱宗)お気に入りの刀工でな」

 引き合わせたいお方とは、伊達綱宗のことだった。  

 これが江戸の刀工なのか。大名とつながりがあることに、助広は敬意よりも生臭さを感じた。

「これよりお目もじにまいろうというのだ。何か不服か」

「いえ。しかし、突然のことで……」

「おぬしには突然でも、陸奥守様に突然でなければ、かまわぬさ」

「どういうことですか」

「おぬしのこと、すでに殿様のお耳には入れてある。引見してくださるとのこと」

「あ……」 

 安定は、こうした勿体つけた話の運び方をする男らしい。

(苦手やな、こんなん……)

 助広は半ば放心状態で、安定の勝手ぶりに抵抗することさえ忘れている。大体、仙台六十二万石の当主が大坂の刀鍛冶なんぞに目通りさせてくれる理由がわからない。若いとはいえ、西に島津、北に前田、東に伊達と称せられる天下三侯の一人であり、家臣からも「お屋形」「太守」と呼ばれる大大名である。

 が、謁見の理由など訝れば、また生意気といわれるだろうから、口には出さなかった。もっとも、黙っていれば黙っているで、張り合いのない奴、といわれるのだが。

 谷中から中仙道へ出て、南へ下ると、長大な侍長屋を連ねる加賀前田家江戸屋敷の向かいに、寺地が広がっている。

「本郷丸山本妙寺だ」

 門は林の奥だ。その前にさしかかり、安定がいった。

「酉年の大火の火元だ」

 明暦三年(一六五七)正月十八日、この地から起こった火は、前年十月末以来、一滴の雨も降らない井戸涸れの江戸にたちまち広がり、神田、日本橋、八丁堀を焼いて、対岸の本所、深川にまで飛び火した。一旦は鎮静したが、翌十九日には小石川の新鷹匠町から再び出火、市ヶ谷、番町、京橋、新橋まで焦土と化し、江戸城天守閣をも類焼。さらに夕刻には麹町から三度目の火があがり、外桜田、日比谷、芝までが灰燼に帰した。江戸市街をまるごと焼き尽くし、海に至って、ようやく鎮火したのだった。焼失した大名屋敷五百(百六十とも)、旗本屋敷七百七十、町屋四百町、焼死者は十万を越えたと伝えられ、遺骸収容と供養のために本所回向院が建てられた。

 後年いう「振袖火事」である。寺小姓に恋し、焦がれ死んだ娘の振袖が古着として売られ、それを着た娘たちが続々と死ぬので、本妙寺で大施餓鬼を修し、振袖を燎火に投じたが、一陣の龍巻が火の粉を散らす振袖を吹き上げた――という怪談めいた因縁話だが、むろん後人の創作であって、事実ではない。この当時の記録には「丁酉の火事」「酉年の大火」と表記されている。

「本来、失火は寺格取り上げの重罪であるにもかかわらず、本妙寺はおとがめなし。おかしな話よ」

 安定が何をいいたいのか、助広にはわからない。

 しかし、大火後、多くの寺が市街化計画によって移転させられた中で、本妙寺は動かず、こののち寛文七年(一六六七)には法華宗八派のうち七派の触頭職という寺社奉行の通達役に任じられて、寺格が上がり、境内も広げることになる。江戸の大半を壊滅させた火元としては、腑に落ちない話ではある。

「大火に乗じた者もおる。虎徹は焼け跡から古鉄を買い集めてはならぬという禁を犯して、かなりの量を仕入れた。彼奴の作刀が見るべきものとなるのは、それ以降だ。酉年の大火が名刀を生んだともいえる」

「他の刀鍛冶は大火に乗じなかったのですか」

「金儲けはさせてもらった」

 江戸には幕臣だけでも二万以上の武士がおり、彼らがまたそれぞれ家臣を抱えている。諸大名の江戸詰めの家臣をも含めると、江戸の武家人口は五、六十万に達し、彼らが焼失した刀剣は厖大な数になる。その復興需要が発生したのである。江戸鍛冶の隆盛は大火の恩恵ともいえる。

「大火の折、大慈院様(伊達忠宗)は武装した家臣五百名を率いて、江戸城へ駆けつけ、桜田門を守ったという。若き藤次郎様――あ、今の陸奥守様だが」

 安定は伊達家とのつながりを誇示したいのか、わざとらしくここで言葉を切った。藤次郎は綱宗の通称である。

「若き陸奥守様は伊達家江戸屋敷の蔵刀を井戸へ放り込ませ、火から守った。智も勇もそなえた若殿だ」

 居並ぶ武家屋敷の間を抜けると、森が覆う神田川の崖だ。足場が組まれ、工事中だった。二人は御茶の水の崖沿いに坂を下る。夏の西陽が木々の間から彼らの横顔を焼いていた。

「独眼龍貞山公(政宗)が台徳院様(徳川秀忠)と碁を打ちながら、江戸を攻めるなら本郷台地から、と脅かしたもので、御公儀は伊達家に台地を削り、御茶の水を開削することを命じた。口は散財のもと。それにちなみ、神田川のこのあたりを仙台堀あるいは伊達堀という」

「では、仙台候のお屋敷はこのようなところにあるのですか」

「とぼけたことをいうものだな。伊達家の江戸屋敷は上屋敷が芝、中屋敷は愛宕下、下屋敷が麻布白金台と品川高輪だ」

「では……」

「陸奥守様は今年二月から、小石川堀の堀浚えと土手修復を課せられておいでなのだ。偉大な祖父の仕事を引き継がれたわけだな」

 牛込門から筋違門まで(和泉橋までともいう)およそ六百六十間(約一・二キロ)の距離を船が運航できるよう拡張せよ、という公儀の命令である。下命直後の二月に準備が始まり、五月末には普請鍬始めが営まれ、六月から工事は本格化した。これ以降、工期十カ月、総工費五万両に及ぶことになる大事業である。

 一日あたり六千二百人の土工人夫を動員するという、さすがの伊達家にも大きすぎる負担であったが、若き当主は張り切り、陣頭指揮に乗り出している。

「普請小屋は市ヶ谷、江戸川(神田川中流部)、桜馬場など五箇所に建てられておる」

 安定は台地の森を指した。

「この向こうが桜馬場だ。このあたり、馬場と湯島天神の飛び地が入り組んでいる」

 森に囲まれているので、桜馬場の普請小屋は視界に入らない。安定はそちらへは背を向け、水道橋の方向へと堀沿いをたどった。

「本陣というべき普請小屋はあちらだ」

 明暦の大火で罹災し、駒込へ移転準備中の吉祥寺が水道橋の北岸にあり、その門前に普請小屋が建てられていた。小屋とはいっても、伊達家の前線基地であり、公儀の普請奉行や石奉行を接待する場所だから、貧弱な造作ではない。

 しかし、贅沢はしていない。派手を意味する「伊達者」の由来となった本家でありながら、飾り気はなく、調度品も最低限なら、通された部屋には畳も敷かれていなかった。

「陸奥守様は、ここを戦場と思し召しだ」

 安定はそう説明した。「藩」祖の政宗から三代目なら、当然、実戦は知らない。大名たちには軍事力ではなく政治的手腕が必要な時代となっている。

 豪傑肌の殿様であれ、戦に憧れるだけの苦労知らずであれ、助広は自分とはどうせ無縁の人物だと思っている。人間関係にはあきらめがよすぎる男である。したがって、伊達家当主と聞いても、緊張もしなかった。

 しかし、現われた綱宗はひ弱ではない。予想より小柄で細めの体躯ではあるが、さすがに血筋というものか、華奢というのではなく、屈強な筋肉をまとっている。そして、美形である。睫毛が長く、唇が赤い。

 許しを得て、助広は名乗った。

「津田助広でございます」

 越前守、とは称さなかった。従四位下左近衛権少将陸奥守という本物の大名の前では、刀鍛冶の官位など虚飾でしかない。

「よう来た」

 綱宗の声は柔らかく、落ち着いている。その声で侍臣たちに、

「ここはよい。仕事があるであろう。戻れ」

 凛々しく命じた。

 助広と安定を残し、人払いのあと、

「これで気兼ねはいらぬ。いいたいことを申せ」

 一直線に助広を見やった。しかし、その視線は助広を突き抜けて、遠くを見ており、どこか浮世離れしている。

「大坂から、江戸の刀鍛冶に喧嘩を売りに来たか」

「将軍家のお膝元で切磋琢磨している江戸の刀鍛冶には、かなうものではございません」

「それはどうかな。武家すなわち客の少ない大坂の刀鍛冶こそ、よほどの腕でなければ、生計を立てられまい」

 綱宗という若殿、頭は切れる。父祖の余徳に浸かっている凡庸な三代様ではなかった。大坂の武家人口はわずか一万という推算があり、江戸の五十分の一にすぎない。

「助広よ。薫が吉原にいることを聞き、そんな突飛な話があるものかと、わしのところへ確かめに来たか」

「恐れながら……。しかし、私が知っている娘は薫という名前ではございません」

「いうてみよ」

「すみの、と申します。今、十九歳かと……」

「薫の実の名がすみのじゃ。歳も十九歳。わしよりふたつ下。すみのの顔を見たくば、明日、船宿で引き合わせる」

「では、すみのは吉原の外へ出られるのですか」

「わしは薫ことすみのを身請けいたす」

「え……!?」

 綱宗の目許はあくまでも涼しい。

「女色に溺れる放埒な大名がここにおる」

「世間はそう見ましょうな」

 と、相槌を打ったのは安定である。

「しかし、苦界に墜ちた妹をお引き取りになるのは、兄として当然のこと」

 そうも、いった。

 助広は、

「何のことでございますか」

 そう尋ねるしかない。

「すみのは腹違いのわが妹。そういうことじゃ」

 綱宗は二代仙台「藩」主・忠宗の六男で、正室の子ではない。しかし、母は側室とはいえ公家・櫛笥隆致の次女・貝姫で、その姉・隆子は後水尾天皇の側室となって、後西天皇をもうけている。つまり、綱宗は伊達家においては部屋住みの冷飯食いとして育ったが、母系からすると、天皇の従弟という尊貴性を帯びているのだ。

「すみのも妾腹である。とはいえ、身売りは一族の不名誉。そんな恥を世にさらさずとも、わしが不行跡な『お屋形』になればすむこと」

 そこまでして守りたい秘密を初対面の助広に打ち明ける理由があるのか。

「雙」第4回

「雙」第4回 森 雅裕

  目を奪うといえば、刀身彫刻のヤニ台、無数のタガネなども作業机にのっており、倶利迦羅を彫りかけた脇差があった。不動明王を象徴する、剣に巻きつく龍である。器用なものだ。

「彫りはよくやられるのですか」

「得意だ」

 助広は不得手である。刀剣を飾る彫刻は宗教的なものに限られ、それを邪道とはいえないが、地鉄そのものが鑑賞に値すれば、彫刻など必要ない。それが刀剣の本質だ。助広はそう考えている。ただ、彫刻は創作的技術としては面白く、興味がないわけではない。

「南蛮鉄を使った刀では、固くて彫れまい」

 と、虎徹は指摘した。それも事実だ。南蛮鉄は和鋼よりも固い。

「虎徹師匠は、古鉄を卸して使うゆえにコテツと称されていると聞き及びましたが……」

「そうよな。そうした宣伝は必要だ」

 そのままでは刀作りに適さない鉄を一旦溶解し、吸炭あるいは脱炭させて鋼に変えることを卸し鉄という。虎徹はその技に長けている。

「虎徹師が五十を過ぎて、刀の修業を始められたにしてはお若いと、今日も噂する者がおりましたが、それも宣伝ですか」

「むろん」

 助広とは人種が違うようだ。

「武家ごっこを面白いとは思わぬのでな」

 刀鍛冶たちが大名のように官位を受け、国名を受領することをいっている。助広の「越前守」のような肩書きも宣伝のひとつといえるから、虎徹が彼なりの売名を工夫しても、侮蔑はできない。

 棚の隅に枡がいくつかあった。山野加右衛門が、虎徹も相手によっては飲むのかも、といっていた枡だ。

 むろん、枡の用途は酒を酌むだけとは限らないし、仕事場で酒を飲むわけもないから、何かの儀式にでも使うのだろうか。それにしては薄汚れている。

 助広は気づいた。一合枡だが、上部を水平に切り取られ、容量を減らしたものもある。となると、これは仕事の道具だ。

「師匠。止雨様が」

 弟子が声をかけた。客を案内してきた――というより、勝手に入り込んだ客があることを告げたのである。

 止雨、と呼ばれた男が工作場の入口に立っていた。虎徹と旧知の仲らしい。

「おお。今、大坂の同業者が来ているところだ」

「お会いしたことがある」

 と、その男は助広をまっすぐに見やった。お互い、あの日の雨の中で記憶した顔だ。

「止雨です。菓子師をやっている」

 菓子職人にしては、安倫――余目五左衛門をあしらった態度、風鈴作りの技に徒者ならぬ何かがある。

「今日は求肥餅(大福)を持参した」

「おお。さっそくいただこう」

 無邪気に喜ぶ虎徹に微笑を与え、止雨は助広を見やった。

「私は時々、ここの鍛錬場で、悪戯をさせてもらっています」

 それなら、風鈴ばかりでなく刀剣も作ることがあるのだろうか。

「止雨様は――」

 名目だけとはいえ、助広は朝廷から越前守を受領しているのだから、単なる町人でも職工でもないが、風格ある初老の菓子師には、言葉も丁寧になる。

「絵もお描きになるとうかがっていますが」

「この仁の描いた宝船ほど売れた絵はあるまい」

 と、虎徹。

「宝船……?」

「正月の初夢を願って枕下に入れる宝船だ。大伝馬町の書肆・鱗形屋孫兵衛にそれを売り出させ、大儲けさせてやったのが止雨殿だ」

「絵としては、つまらぬものだ」

 止雨は忘れていたような口ぶりだ。

「あれもこれも、悪戯のようなもの。しょせん、私はひとつを極めることはないのかも知れぬな」

 母屋の縁側へ三人が並んで腰を下ろすと、弟子が茶を運んできた。

 虎徹は、求肥を満足そうに口へ運ぶ。甘党らしい。

「酒はつきあいで口にする以外は、特に飲みたいとは思わぬ。目によくない」

 と、虎徹。助広は逆だ。つきあいで飲むのは気が進まないが、一人なら飲む。

「虎徹師は安定師と同門だとか」

「先代の兼重師匠のもとで、な。しかし、甲冑師あがりのわしは弟子というより客分だった。江戸の刀鍛冶には、将軍家お抱えの康継以下、兼重、安定、そして、わしと越前の出が多い。そのつながりで、多少の交流もある」

「安定師は奥州とのつながりを大切にしているようですが」

「山野加右衛門の仲介だ」

 止雨が、そういった。

「山野様が……?」

「あれはもともと仙台の出です。安定に仙台東照宮の奉納刀を作らせたのも山野殿だ。奉納刀の銘にもその旨がしっかり刻まれている。山野殿は安定の刀で多くの試し斬りを行ない、その名の流布につとめた。もっとも、彼ら二人がよしみを通じていたのは過去の話です」

 今は不仲なのか。加右衛門の生命を狙った余目五左衛門をかくまう安定だから、そうかも知れない。

 それにしても、加右衛門がもとは仙台伊達家の家臣ならば、かつての主家からの試し斬りを断わるものだろうか。いや、主家だったからこそ断わったということか。

「安定は山野加右衛門を金の亡者といっているだろう。何、山野殿は少々性格がねじけているだけだ」

「止雨様は山野様とは、どういう……?」

「客分といえば聞こえはいいが、実は山野家の居候だ。人斬り加右衛門の屋敷を訪ねる者などめったにおらぬ」

 首斬りではなく、加右衛門の呼び方は人斬りなのである。公儀の記録でも、そうなっている。

「おかげで、静かに暮らしている」

 この菓子師はただの町人ではない――。止雨は加右衛門を呼び捨て、もしくは「殿」で呼んでいる。同格もしくは目下に対する呼称だ。助広はすでに直感していた。武家か、それに近い学者の出だろう。もっとも、趣味の道は武家の次男、三男が陥るものと決まっており、親から勘当されて、師匠、親方と呼ばれる指導者のところへ居候を決め込む。珍しいことではない。止雨の場合は、それが山野加右衛門の屋敷なのだろう。もっとも、この二人はどちらが師匠なのか、わからないが。

「わしを山野様と引き合わせてくれたのも、この止雨殿だ」

 と、虎徹がたてつづけに求肥を口へ押し込んだ。

 助広も食った。うまい、といいたいが、感動が大きいほど、言葉は出にくくなる。かわりに、

「安定師のところで、虎徹師の作を拝見しました」

 そんなことをいった。

「江戸鍛冶の恥の見本として、ではあるまいな」

「古鉄銘で、絃唯白色……という長い添銘がありました」

「ふむ……。古鉄銘なら、明暦初めの作だな。今は虎徹銘を用いておる。その頃のものなら、野暮ったい片削ぎ茎であったろう。今はもっと垢抜けておる」

「どなたかとの相打ち(合作)ですか」

「鍛錬から、つきっきりで教えたが、要所はわしがやった。焼入れはわしではない」

「どなたですか」

「助広殿は銘が読めぬのか」

「…………」

 というからには、あの長い銘は人名ということだ。しかし、助広はそれ以上、訊く気を失った。工作場にあった枡の用途も尋ねなかった。

 縁側に座り込んだまま、母屋の座敷へ上げてくれる気配はない。助広は求肥を食い終え、辞去の言葉を探し始めた。

 すると、虎徹は軒下から風鈴を下ろし、助広の鼻先へ寄こした。

「お気に召したようだから、差し上げる」

 虎徹という男、親切なのか不親切なのか、わからなかった。

「止雨殿、おぬしの作だ。よろしいな」

「かまわぬ」

 止雨は何かを振り捨てるような話し方をする。眼光の強さを懸命に隠し、ここではないどこかを見ているようだ。

「ありがとうございます、止雨様」

「『様』はいけない。年長者を立てるお気持ちはありがたいが、せめて『殿』に」

 止雨は照れたように、いった。別れ際にそういわれたことは少々うれしかった。同格と認められたわけであり、また会おうという意味だからである。

 助広は風鈴を手許に鳴らしながら、別れを告げた。

 
 
 御前鍛錬の前々日。

 寛永寺の鍛錬場に道具類が搬入され、公儀が手配した炭も届いた。鍛錬用には、これを一寸(約三センチ)角くらいに切り揃える。

 刀工はそれぞれ複数の弟子を率いているから、総勢およそ二十人が鉈をふるい、炭切りに取りかかると、あたり一帯に猛烈な黒塵が舞い立った。

 付近に塔頭のない林に囲まれた空地を炭切り場としてあてがわれたのだが、その林全域がどす黒く霞んで、浮遊する炭塵が陽光にきらめいている。

「すごい眺めだ。こんなの初めて見た」

 助広の向かいで炭を切る肥前忠吉が、ぼそりといった。忠吉は切れ長の目に鋭さがあり、無口で、一見は近寄り難いのだが、一文字の唇がたまに開くと、人なつこい響きがある。もっとも、その口許は今、手拭いで覆われ、双眸だけが覗いている。

「役人も坊主も、皆、このあたりから逃げていった」

 刀鍛冶たちは落盤事故に遭った鉱山人夫のように、真っ黒になっている。こんな有様では表を歩けないから、境内に作られた風呂を使うことになっているが、使用後の風呂場の床や湯の色を見たら、寛永寺は金輪際、境内を刀鍛冶に提供しないだろう。

 助広はこんな場所で無駄口を叩く気にならないが、自分の手許を見ながら、いった。

「楽しそうですね、忠吉殿」

「新三郎でかまわん。橋本新三郎が通称だ。九州の熊でもいい」

「新さん」

 そう呼んだのは三善長道だ。

「汚れ仕事は楽しいよな」

 子供の泥んこ遊びと同じだ。雨降りのあと、わざと水たまりを選んで歩く。刀鍛冶という人種はそんな稚気の持ち主だ。

「役人や坊主ばかりでなく、蚊も逃げていって欲しいものだ」

 刀鍛冶たちをもっとも悩ませたのは、蚊の多さだった。

「まったくだ。そもそも、なんだって、夏に御前鍛錬をやるんだ?」

 火を使う鍛冶仕事は夏にはつらい。またこの時期の多湿は鍛錬する鉄の脱炭、酸化に影響する。もっとも、夏は熱が安定するので、鍛錬に向くという鍛冶屋もいるのだが、人間の方が耐えられない。

「この御前鍛錬が決まったのは、春の終わり頃と聞いている。俺たちは六月の初めに、ここへ集められた。急すぎると思わんか。それにな、もともとの予定は秋の九月だったらしい。それが変更されたんだとか」

 助広、長道、それに忠吉、若手三人がそんな話を交わしていると、

「津田助広殿はおいでか」

 役人に案内され、武士が現われた。 

「私です」

 助広は炭塵を散らしながら、手拭いを顔と頭から取り、立ち上がった。どういうわけか、長道もそうした。

「や。そのまま、そのまま。続けよ」

 いわれて、長道は炭切りに戻った。他の刀鍛冶たちも作業を続けているから、炭塵をかぶり、侍の衣服はたちまち黒ずんでいく。案内の役人は逃げ去ったが、この男は怯みもせず、

「保科肥後守家用人・加須屋左近と申す」

 悠然と名乗った。神経が太い。五十代後半というところだろう。

 保科肥後守正之は会津二十三万石城主。なるほど、保科家の用人なら、お抱え鍛冶の長道が挨拶をするわけだ。しかし、加須屋左近の視線は助広に向いている。

「お話がござって、まかりこした」

 刀鍛冶といえども、自分が炭切りの手を止めてしまえば、炭塵の中にはいたくない。助広は、

「とりあえず、ここを離れましょう」

 加須屋左近を風上へと促した。足跡さえ、見事に黒い。

「助広殿。御前鍛錬でどのような刀を作るか、指図を受けることは可能か」

「お上には、作刀についての御希望、御注文がおありだということですか」

「そうだ」

「それはその内容にもよります。地元を離れての仮設の鍛錬場では、何かと不自由もございますれば」

「たとえば、相州伝だ。正宗の写しを作れ、といわれたら……?」

「本歌があれば、姿形は同じものを作ることができますが、地鉄となると、手持ちがございません」

 大坂からは下鍛え済みの鉄を持参している。作刀はこれで行なうことになる。詰んだ杢目となるのが助広独自の地鉄で、素材は江戸鍛冶が使うものとは異なる良質の南蛮鉄である。御前鍛錬では、鍛錬の様子も披露することになるから、素材の南蛮鉄も持参しているが、相州伝には性質の異なる鉄を混入し、肌模様を出現させねばならない。

 むろん、助広はいつも南蛮鉄ばかりを使っているわけではなく、目的に応じて、様々な鉄を用いる。しかし、鉄の性質は一様ではないから、それぞれ試用、実験が必要だ。そればかりでなく、炭の性質もまた重要である。

「助広殿は備前伝丁子刃が本領かと思うたが、相州伝もお作りになるか」

「地鉄のめどがつけば……」

「わかった」

 加須屋左近は大きく頷くと、蹴るように踵を返した。

 今のところめどがつかないことが「わかった」にしては、軽やかな足取りだ。大体、将軍家の御前鍛錬で、どうして会津侯用人が現われるのか。

 炭切りに戻ると、長道が教えた。

「加須屋様は弓術では天下三射人の一人にあげられる名手だ。もとは紀伊様の家臣だったが、暇を出され、会津侯に迎えられた。あ、そういやあ、持弓頭兼奏者番という職名もお持ちだった気がする」

「左近」は通称で、後世では本名(諱)の「武成」で知られる。

「江戸屋敷で新規召し抱えの者があると、加須屋様が人物の鑑定をなさる。それほどの仁だ」

 高名な武士にしては若輩の助広ごときに物腰の丁寧な男だった。そういう人柄らしい。

「人物はわかったが、御前鍛錬との関わりがわからんな」

「この御前鍛錬の発案者が会津中将様だ」

 保科正之の官職は左近衛権中将。二代将軍・秀忠の庶子で、現将軍・家綱の輔佐役である。

「すると、夏に御前鍛錬をやらせる張本人だな」

 横から、忠吉が不遜なことをいった。

「その張本人から、助広いやさ甚さん、何か白羽の矢でも立てられたか」

「さあ。何か注文があるような口ぶりだったが……。どうして私なのか、それもよくわからんな」

 会津侯お抱えの長道に対する遠慮からそういったが、当の長道は気にする様子もなく、うそぶいた。

「御前鍛錬で、自分のところのお抱え鍛冶を贔屓するわけにもいくまい。それに不始末をしでかしたら、会津侯の家名に泥を塗ることにもなる」

 
 
 夕刻近くになると、炭切りを終えて、風呂へ向かう者たちもいたが、弟子を伴わない助広は切った炭の量も少なく、鉈をふるい続けていた。

「そろそろ仕舞いにせぬか」

 声をかけたのは、安定である。安定にしろ虎徹にしろ、炭切りは大勢の弟子たちにまかせ、姿を見せなかったのだが、傾きつつある陽差しの中に現われた安定の姿は、いやにすっきりしている。このまま、めでたい席にも出られそうだ。

「炭なら、うちの弟子どもに切らせればよい。早う風呂へ入って、さっぱりされよ。わしと同道してもらいたいのだ」

「……御用件は?」

「引き合わせたいお方がある」

「どなたです?」

「おぬしは……」

 安定は笑ったが、眼差しが醒めていた。

「生意気だと人にいわれるだろう、その口のききようでは」

「はあ……」

 当たっている。

「とにかく、道々、話す」

 江戸に来た以上、社交が繰り広げられることは覚悟していた。助広とて、世捨て人ではない。人脈を広げることも必要だろう。

 
 
 上野から谷中へ、無数の塔頭が密集する下り坂を西へと抜けながら、安定はいった。

「江戸で知り合うた刀鍛冶たちと、なかなかうまくやっているようではないか。長道や忠吉のように歳が近ければ、話も弾むだろうが、虎徹の仕事場にも行ったようだの」

 噂が走るのは早い。

「虎徹師が大坂にいた興光師とあまりにも似ているので、驚きでもあり、また懐かしくもありました。双子だということでしたが」

「そうか」

 双子と聞いても安定は驚きもしない。

「雙」第3回

「雙」第3回 森 雅裕

 江戸城の鬼門を守る東叡山は、寛永年間に多くの塔頭が建てられたため、これらを総称して寛永寺という。年号を寺名にするのは延暦寺や仁和寺など由緒ある寺に限られ、江戸では寛永寺が唯一であり、東西にも南北にも数十町に及ぶ境内を広げ、江戸の町を睥睨している。

 御前鍛錬を三日後に控え、参加者の顔合わせと打ち合わせが行なわれる日であった。助広の視界にまず現われた知った顔は、山野加右衛門である。

 一目も二目も置かれている「首斬り」であるから、入れ替わり立ち替わり、加右衛門の前では挨拶が繰り広げられている。助広には近づき難い雰囲気だった。普通の人間なら、挨拶する方が知らぬ顔を決め込むよりも簡単なのだが、助広はあえて精神的労力の大きい方を選ぶ性癖がある。

 しかし、前回、加右衛門に無礼を働いたのは事実である。筋を通さねば――。その思いが何よりも優先した。

「先日は失礼いたしました」

「忘れたな。おぬしも忘れた方がよい」

 加右衛門はあっさりしたものだ。人間が練れているというより、世慣れている。無益な出来事は忘れることができるようだ。

「今日は杖をお持ちでないのですか」

 武器としても有効だったあの杖だ。助広には気になっていた。

「先日は雨降りだったので、杖を携行した。万一、身に危険が迫った時、雨の中で刀は抜きたくないからの」

 助広はその答を予想していた。加右衛門は、刀を濡らさぬこと、鯉口(鞘口)に水を入れぬことを心がけたのだ。ある意味、この男も職人気質だった。

「さて。あらためて、酒席をもうけるか」

「あいにく、不調法でございまして」

「おぬし、虎徹と気が合うかも知れぬな」

「え……?」

「あの男も酒は飲まぬ」

 刀鍛冶で下戸、というのは珍しいかも知れない。

「そのくせ、奴の仕事場には枡がいくつも転がっている」

「枡……ですか。御覧になったのですか」

「おお。奴も相手によっては飲むのかも知れぬな」

「虎徹を……御存知なのですね」

「江戸の主立った刀鍛冶なら、皆、わしは知っておる。どのような刀が折れず曲がらずよく斬れるものか、誰もがわしに尋ねるからの。わしの方から仕事場を見ることもある」

 虎徹を個人的に知っていながら、伊達家が依頼した虎徹銘の――個人作ではないかも知れないが――脇差の試し斬りを行なわなかったのか。この男には、人のつながりよりも経済が優先するのか。

「虎徹に興味があるか」

 加右衛門は唇の片方を吊り上げるような笑いを見せた。

「今日、来ておるぞ」

「え……?」

「虎徹も御前鍛錬を行なう」

「あ。江戸からの参加は、安定師と虎徹師、お二人ですか」

「将軍家お膝元ゆえ、それも当然であろう」

 将軍家には、今は三代目となっているお抱え刀工の越前康継がいる。しかし、御前鍛錬には刀鍛冶たちの競争という意味合いもあり、幕府工を江戸の代表とするわけにはいくまい。上総介兼重も江戸在住ではあるが、津藩工という立場上、人選からはずれる。

「安定や虎徹よりもっと若い者を、それも彼らのごとき同門ではない刀鍛冶を選ぶべきだと、わしは腰物奉行に進言したが、今回の人選には、もっと上の意向が働いたようだ」

「もっと上……」

 それが幕府のどのあたりを指すのかも心にひっかかったが、

「安定師と虎徹師は同門なのですか」

 その方が助広には興味深かった。安定はそんなことはいっていなかった。

「同門のようなもの、というべきか。江戸鍛冶の多くは直接と間接の違いはあれ、越前がらみでつながっておる。康継も兼重も安定も虎徹も越前出身ゆえ」

 彼らの作風には似通ったところがあり、合作など交流の記録も後世まで残されることになる。したがって、師弟関係は混乱している。

「そういえば、おぬしが受領しているのは越前守だな。名前だけは彼奴どもの親玉だな」

 確かに。越前という土地が徳川一門の領地で、格式も文化水準も高いことがこうした職人たちにも影響しているのだ。

 しかし、その親玉にしては、

(まったく、俺は何も知らんわ……)

 助広は取り残された気がした。

 もちろん、越前派閥ばかりが江戸鍛冶ではなく、刀工の数では近江守正弘を筆頭とする法城寺派が最大であり、この時代には少ない備前伝丁子刃を焼く近江出身の石堂派など、有力な刀鍛冶は他にもいる。

「山野様は、安定師、虎徹師の実力をいかにお考えですか」

「買っておるさ。いや、買ってくれたのは向こうかな。両名とも、わしにだいぶ金を使ってくれたからの」

「優劣をつけるとしたら……?」

「虎徹が上だ」

「それは虎徹師がより金を使ったということですか」

 加右衛門は目を細め、その奥を隠すように笑った。

「助広殿。不調法などといわず、気が変わったら、いつでも拙宅を訪ねられよ。その気にならぬ刀鍛冶はおらぬ」

 
 
 寛永寺に東都随一といわれる根本中堂が建立されるのは元禄十一年(一六九八)のことだから、まだその壮大な姿はない。しかし、承応三年(一六五四)、尊敬(守澄)法親王が入山して以来、事実上の天台宗総本山であり、将軍家菩提寺の性格も帯びているだけに、上野の山を埋め尽くすどの建造物も壮麗を競うものであった。

 これでも一部は三年前の明暦の大火で罹災しているのだが、市内各地で焼失した寺院の多くが移転してきたため、東叡山全山の規模は以前よりもむしろ大きくなっていた。

 寛永四年建立の法華堂の中庭に御前鍛錬の準備が進められていた。鍛冶屋によって、設備の使い勝手は違うが、ここまでは江戸鍛冶が指図したようだ。鞴と火床が五基据えられて、雨風を避けるためだけの簡素な板壁と屋根が、大工たちによって、設えられている。

「まるで、長屋の惣後架(便所)だな」

 そんなことを呟いたのは、およそ刀鍛冶らしからぬ愛敬に満ちた若者だった。

「お前様も刀鍛冶かね」

「大坂の助広と申します」

「これは御丁寧に……」

 苦笑いをこぼした。よく動く目が妙に人なつこい男だ。助広のような無愛想には、どういうわけか、こういう人物が近づいてくる。

「俺は奥州会津の山猿だ。長道という」

「では、陸奥大掾殿ですか」

「よしましょう、そんな呼び方」

「では、長道殿」

「やめてほしいのは、『殿』をつけることだが」

「…………」 

 のちに「会津虎徹」と賞讃される業物刀工だが、本家の虎徹自身がまだ無名である。初代長道もこの年、二十八歳にすぎない。しかし、すでに万治元年、陸奥大掾に任じられている。初銘は道長だったが、受領の際の口宣案に長道とあったので、そのまま長道にあらためたという。

 後年、長道は助広の弟子筋にあたり、受領の推挙も助広によるものだという巷説が生まれるほど因縁浅からぬ二人である。しかし、助広は以前から彼の名を知っていたわけではない。今日、寛永寺へ来て、ようやく参加する刀鍛冶の名前だけ聞いたのである。

「ここに火床が五つ……ということは、刀工も?」

「五人だ。そんなことも知らないのかね。大坂の刀鍛冶は世間離れしているな」

 大坂の刀鍛冶ではなく、助広が世間離れしているのである。

「肥前佐賀からは三代忠吉。あそこで、大工たちにうるさく注文をつけているでかいのがそうだ」

 精悍さと朴訥さが同居する背の高い男だった。忠吉は江戸初期の巨星・初代忠吉(武蔵大掾忠広)の孫である。父は近江大掾忠広。この父も名工だが、若き忠吉はそれを凌ぎ、祖父と肩を並べる腕だと声望が高い。この年の十月には、この三代忠吉も陸奥大掾に任じられ、翌年には陸奥守を受領することになる。助広と同年の二十四歳である。

「将軍家お膝元の江戸からは、大和守安定」

 すでに見知ったその安定は、弟子たちに指図して、火床に炭粉を敷き固め、高さを調節している。

「そして、長曽祢興里――虎徹だ、あれが」

 その男は、入道と称するのだから剃髪していた。小さな顔に大きな目が鋭く、口許に生気を漂わせ、表情の隅々に意志の強さを年輪のように刻んでいる。引き連れた弟子たちは動きに無駄がなく、いかにも優秀そうだ。

「虎徹師匠があのようなお歳とは思わなかった」

 越前の甲冑師から転身したというのだから、若いとは思っていなかったが、五十歳を越えているように見えた。

「そうかね。俺はむしろ若いと思うが」

「若い……?」

「虎徹の作刀には、『至半百居住武州江戸』とやら添銘したものがあって、刀工を志して江戸に出たのが五十歳と称しているらしいが……。さて、どうかな」

「どうかな……とは?」

「甲冑師だから鉄の鍛錬は習熟していたとしても、刀剣の修業はまた別だ。五十歳から江戸で何年も修業したにしちゃ、若くないか、あの様子は」

「ふむ。独自の年齢の数え方をお持ちのようだ」

「独自なのは年齢だけかな」

「どういう意味です?」

「虎徹には、もっと妙な噂もある」

「それは……?」

「迂闊なことは会津の山猿ごときの口からはいえぬよ。江戸の刀鍛冶から聞け」

「…………」

「ともあれ、あの師匠、なかなかの宣伝上手だと俺は見ているがね」

「長道殿」

「よせ、といった。藤四郎で結構だ」

「素人(トーシロー)……?」

「ふざけた名前だが、三善藤四郎というのが通称だ」

 鎌倉期、粟田口派の名工・藤四郎吉光にちなんでいるのか。何にせよ、そうすぐに呼べる助広ではない。

「私は、あの虎徹師によく似た人物を知っている」

「ほお。どこの何者だね?」

「以前、大坂にいた近所の金工だ」

「なるほど。忘れ難い面魂ではあるな」

 法華堂の広間へ集合の声がかかり、端座した刀鍛冶たちの前に腰物奉行が現われた。ようやく、参集した彼ら五人が正式に引き合わせられた。各地を代表する刀工たちである。ただ虎徹だけが異質だった。名門の嫡流でもなければ、官位も得ておらず、有名でもない。しかも最年長である。

(宣伝上手と長道はいうたが、そればかりではなさそうやなあ……)

 法華堂から再び内庭へ下りると、関係者たちの人垣越しに、助広は盗み見るように虎徹の様子をうかがっていたが、ふと視線が合ってしまった。逃げようとしたが、なにしろ弟子も連れず、孤独な助広には、行き場もない。虎徹の方から近づいてきた。先刻、名乗りだけは互いにあげている。

「助広殿……だったな」

「あ。お見知りおきください」

「場違いな刀鍛冶がいると、お思いのようだが」

「いえ。知人に似ていらっしゃったもので、つい……。失礼いたしました」

「ほお。知人……」

「長曽祢興光という名前を御存知ありませんか」

「弟だ」

 虎徹は、あっさりといってのけた。

「鍛冶の仕事をせず、切り物師として、大坂で開業していた」

「はい。十年ほど前に江戸へ出られましたが」

「うむ。わしの近くに住んで、行き来もあったが、死んでしもうた。明暦の大火の翌年――今より二年前の春だった」

「あ……。左様でしたか」

「同じ頃、わしも病を得てな、面変わりがしたといわれるのだが……興光はわしに似ていると思うか」

「はい」

 助広が知っているのは十年より以前の興光である。その子供とは幼馴染みといえる。しかし、親の方は、職人仲間とはいっても、助広はまだ少年だったし、社交性にも乏しいから、記憶に曖昧な部分があるかも知れない。が、同一人かと思うほど似ている。

「双子だ」

 虎徹は、そういった。目つきも口調も穏やかで、引き込まれるものがある。しかし、つけ入る隙のないきびしさも含んでいる。常人なら隠居の年齢で刀工を志したというのも、この人物なら有り得るかも知れない。

 助広はこの男に珍しく、会話に意欲的となった。

「興光師の一作金具で拵えた脇差を持っております。法華堂の控えの間へ置いてありますが……」

 今は腰物奉行の前に出るので、儀礼用の黒一色の脇差を帯びている。

「ほお。見たいものだな」

「では――」

「拙宅へお持ちにならぬか。池之端だ。ここから目と鼻の先だ」

「あ」

 人づきあいは苦手だとばかりはいっていられない。

(虎徹とは、どれほどの刀工か)

 研究心と好奇心が、助広の孤独癖に勝った。

「では、お邪魔させていただきます」

 

 池之端を吹き渡る風が、鉄の風鈴を打ち鳴らしている。軒下に揺れるその風鈴へ手をのばし、

(器用なもんや)

 助広は感嘆した。鋳造ではなく鍛造となると、鉄板を赤めながら叩いて、釣鐘状にしぼるのだから、簡単ではない。

(鉄味もええ)

 錆が見事な黒紫色だ。いい鉄を使っているということか――。

 母屋と鍛錬(鍛冶)場が向き合う内庭へ案内され、助広は縁側の風鈴に見入った。こんな風鈴にもほほえましい銘がある。だが、「長曽祢興里」でも「虎徹入道」でもなく、「止雨」とある。

(山野加右衛門様と一緒におった菓子師や……)

 その菓子師の名前がどうしてここに刻まれているのか、助広には疑問だったが、この男の性格で、口には出さない。

 虎徹はその風鈴がささやく縁側に庭先から腰を掛け、助広が手渡した脇差に見入っている。視線は興光の金具よりも助広の刀身にこそ向いていた。安定がそうだったように。

「よい地鉄だ。江戸では、南蛮鉄が全盛でな。御公儀が鉄砲作りのために大量に輸入したものを康継が刀作りに使って以来、猫も杓子も『以南蛮鉄』と銘を切るようになった」

「私のその脇差も南蛮鉄を使っています」

「ほお。大坂では江戸よりもよい南蛮鉄が入手できるようだ。江戸鍛冶の刀は、これほど地も刃も明るく冴えぬ」

 南蛮鉄はインド産のウーツ鋼に類するものだが、寛永十六年(一六三九)の鎖国以降、まとまった量の供給は絶えている。貴重な輸入鉄だが、産出地によって、品質に差がある。

「刀鍛冶の腕はいい鉄をいかにうまく処理するかにかかっている。悪い鉄は名人にもどうにもならぬ。御前鍛錬でも南蛮鉄を使うのか」

「はい。下鍛え済みのものを持参しました」

「なるほど。鍛錬ぶりを見られたくないか」

「いえ。南蛮鉄そのものも持参していますから、鍛錬もやります」

「以前は海の向こうへのあこがれから、南蛮鉄も重宝されたが、今は冴えぬ刀を作る言い訳にすぎぬ。南蛮鉄を使うのは助広殿の勝手だが、銘にはそのことをうたわぬことよ」

「…………」

「いや。よけいな口出しだったな」

「虎徹師匠」

 助広は、胸にひっかかっていた質問を切り出した。 

「興光師は亡くなられたということですが、御家族はいかがなされたのでしょうか」

「妻は大坂で死んでいる」

 それは助広も知っている。妻の死後、それをきっかけとしたかのように、すぐに江戸へ下ったのだ。

「娘さんがいらっしゃいましたが……」

「妻の連れ子だった娘だな」

「それは私の知らぬことですが」

「このあたりにはおらぬ」

 意味がわからない。確かめようとしたが、虎徹は背を向け、縁側を離れている。

「仕事場を御覧になるか」

 鍛錬場へ招かれた。

 弟子たちが作業中だ。邪魔にならぬよう、肩をすぼめながら観察した。奇抜な造作でもなければ、変わった道具があるわけでもない。が、生気を感じる仕事の場だ。

(できる……)

 そう直感させるものが漂っている。

 鍛錬場の隣の建物は板の間になっていて、框を上がると、刀剣の仕上げに使う工作場らしく、鍛冶押し(荒研ぎ)用の研ぎ台が据えられている。

 鍛冶押しなどほとんどやらずに研師へ回してしまう刀鍛冶もいるが、それでは姿形を決めるのは研師になってしまう。虎徹はしっかり下地まで作る方針らしい。 

 荒砥がかけられた刀を手に取り、光に当てると、互ノ目が整然と並んだ刃文が浮かぶ。しかし、単調ではなく、足が刃先へ抜けそうなほど深く入り、沸えが強い。

「数珠刃とわしは呼んでいる」

 虎徹は、いった。安定のところで見た脇差とは雲泥の出来だ。研師に預ける前のこの段階では、地鉄のよしあしまではうかがえないが、刃がこれなら、地鉄も凡庸ではあるまい。さすが、御前鍛錬に選ばれる技量ではある。

「数珠刃……ですか」

「もう少し高低のついた瓢箪刃をさらに進化させたものだ」

 安定のところで見た例の脇差がその瓢箪刃だった。

「沸えづいたのたれ調の互ノ目を連ねるのが江戸のこれからの主流だ。もっとも、数珠刃のさきがけは上総介兼重だ。しかし、いずれ世間はそれを忘れる」

 虎徹の方が技量が上なら、確かに世間は兼重よりも虎徹に目を奪われるだろう。

「雙」第2回

「雙」第2回 森 雅裕

「弟子を一人だけ同行させたのですが、箱根で、水を求めて崖から落ち、足を折ってしまいました。やむなく、宿に置き去り、私が単身で江戸へまいりました」

「それでは、鍛錬ができまい」

 刀は刀鍛冶一人では作れない。向こう鎚をふるう先手(助手)が必要である。

「いえ。実は、下鍛えをすませたものを大坂から持参しております。御前鍛錬の仮設の鍛冶場では、思うような仕事ができぬかと思い……」

 そうした鉄、道具類は白戸屋の寮宛てに、先に送ってある。

「正直な」

 安定はいったが、誉めているわけではないことを醒めた視線が語っている。

「他の刀鍛冶たちも似たようなものではあろう。下鍛えどころか、すでに完成した刀を用意している者もいるとさえ聞く。しかし、いわぬが華だ。それを口にすれば、御前打ちにならぬ」

「…………」

「それにしても、上鍛えや素延べには先手が必要であろう」

「力自慢の若者を白戸屋に探してもらおうと考えてはおりますが……」

 刀鍛冶は地方の有力者に招かれて、旅することが多く、行く先々で臨時の先手を雇うことは珍しくはない。むろん、誰にでも務まるわけではないが。

「心得のない素人では心許ない。何なら、うちの弟子の中から、お貸ししようか」

「そんな……」

「遠慮は無用だ。それとも、江戸鍛冶ごときは頼りにならぬか」

「滅相もない」

「お疑いなら、わしの刀をお見せしよう」

 それなら、ぜひとも願いたい。安定の実力を疑うわけではなく、刀に対してはいつも好奇心が働いているのだ。

 刀を見る前に、

「では、適当な人手が得られぬ時には、お借りいたします」

 これでも胸襟を開いたつもりで、いった。恐縮している。初対面の同業者に甘えるわけにはいかない。しかし、世の中にはこんな親切な人間もいるのだ、とあっさり受け入れるのが、助広の性格である。人がいい。

「わしの作刀の他に、例の脇差もお目にかけよう」

 と、安定は五左衛門に指示した。

「あれは御屋形様(伊達綱宗)の御蔵刀です」

 五左衛門はわずかに異を唱えた。「例の脇差」は仙台藩主の所有だ。勝手に他人に見せてよいものではない。

「どうせ盗んだものだろうが。かまわぬ。お前が腹を切ればすむこと」

「では、その節は安定師匠に介錯をお願いします」

 五左衛門は二本を運んできた。刀剣保存用の白鞘が普及するのは元禄以降のことだが、それに類する仮鞘に安定の作刀は納まっていた。もう一本の「例の脇差」とは、山野加右衛門の前で抜くことができなかった脇差――つまり、伊達家から盗んだことになっている問題の一刀だ。

 助広はまず安定の作を一礼して受け取り、抜いた。刃文の高低差が激しく、箱がかった互ノ目乱れである。

(面白い――)

 自分もやってみたくなる。しかし、何よりこの刀は地鉄がいかにも強く、凄味がある。

「茎を御覧あれ」

 柄を抜くと、誇らしげな金象嵌の截断銘がある。

「三ツ胴截断 万治三年五月廿五日 山野加右衛門永久」

 加右衛門の試し斬りにより、凄絶な刃味が証明されている。

「江戸の刀は、大坂から見れば、野暮ったくござろう」

「いえ……」

 反りが浅く、元と先の身幅差が大きいのが江戸鍛冶の特徴だ。慶長以前の古刀期にはない姿である。

「安定師匠、覇気あふれる作柄でございますな」

「まだまだ途中でござるよ」

 安定はすでに功なり名遂げた刀工である。それなのに過渡期の作風というのだ。たいした向上心と創作意欲だった。

「江戸の刀はこれからもっと変わっていく」

「どのように……ですか」

「御覧(ごろう)じろ」

 二本目を寄こした。こちらは五左衛門が帯びていた脇差だから、拵に入っている。

 抜くと、五左衛門の養父が腹を切ったという痕跡が、ごくわずかな刃こぼれとなって残っている。よほど深く刺し、背骨に当たったのだろう。血を吸った刀は匂いが残るものだが、入念に手入れされたらしい。血腥さはない。

 地鉄は今しがたの安定の作と似ているが、刃文は大きく乱れず、瓢箪のような互ノ目が並んでいる。しかし、一部が沸え崩れており、うまい焼入れではない。姿は安定よりも江戸鍛冶の特徴が強く、いかにも野暮ったかった。

「その刃文は瓢箪刃と呼ばれておる。誰の作か、おわかりか」

 安定が訊いた。

(上総守兼重……)

 助広の脳裏に浮かんだのは、その名前である。先年、没した和泉守兼重の子で、伊勢津藩主・藤堂家のお抱えだが、江戸在住である。父の存命中は代作をつとめていたが、この万治年間、ようやく自身の作品が世に出始めていた。前例のない互ノ目を焼く刀工である。しかし、兼重なら、もっと整然とした互ノ目のはずだし、こんなに下手ではない。兼重と同派同門の誰かの習作だろうか。

「わかりません」

 そう答えた。

「では、銘を御覧になるがよい」

 安定の許可を得て、柄をはずした。

 まず目に入ったのは、片削ぎになった茎の形状である。加州茎といい、加賀の刀鍛冶に見られる特徴だ。

「長曽祢興里古鉄入道 絃唯白色剛無刀有室不至視不見」の銘があるが、制作の年紀はない。

「長曽祢……古鉄」

「古鉄を卸して使うゆえにコテツと称し、虎徹とも銘を切る。御存知か」

「いえ。聞いたことがありません」

 当然だった。のちに刀剣界の横綱として、東の虎徹、西の助広と並び称される両雄ではあるが、虎徹の作刀が現われ始めたのは明暦の初め、つまり五年ほど前に過ぎず、全国的にはまだ無名なのである。

「加賀の刀鍛冶でしょうか」

「いや。金沢あたりにいたこともあるらしいが、加州茎は初期作に限られる。今は入山形に近い栗尻に変わっておる。本国は越前福居(福井)で、名は興里。明暦の初めに入道して、コテツとなった。江戸では知る者ぞ知る刀工だが、大坂までは名前は聞こえますまいな」

(この程度の作で、注目されているのか)

 助広の表情にそんな色を読み取ったのだろう、安定はむっつりと頷いた。

「名刀には見えまい。無理もない。しかし、そんな脇差が伊達家に納まっているということは、何かしらのいわくがあるのかも知れぬな」

「この絃唯白色……という銘がそのあたりの事情を語っているのでしょうか」

「おそらく」

 虎徹が一人で作ったものではなく、誰かとの合作かも知れない。この焼入れは素人臭かった。

「が、そんなことより、作風に着目されたい」

「兼重師につながるものを感じますが……」

「兼重に限った作風ではない」

「では、これが江戸のこれからの刀と……?」

「その脇差は傑作とはいえぬが、目的とするところは同業者ならおわかりになろう。江戸のみならず、全国に広がるやも知れぬ作風だ」

「この虎徹という刀工、長曽祢と称するからには甲冑師の系統でしょうか」

 長曽祢派は室町末期、近江国長曽祢庄に発生した鍛冶集団で、戦国時代の終焉とともに越前へ移住した。何でも作る雑武具鍛冶ではあるのだが、とりわけ甲冑の制作が目立っている。

「いかにも虎徹の前身は甲冑師と聞くが……。助広殿は長曽祢派を御存知か」

「実は、大坂でも、長曽祢を称する職方を一人、知っておりました」

「鍛冶屋か」

「いえ……。その仁は刀装金具、切り物(彫刻)を生業としていましたが……」

 助広は、自分の腰に視線を落とした。彼は町人の体だが、脇差を差している。町人でも脇差だけなら許されるし、助広は官位さえ受領している身である。しかし、むき出しで帯刀する神経は持ち合わせず、質素な袋に納めてあった。それも一尺そこそこの寸延び短刀で、大仰なものではないから人目は引かない。が、安定は最初から気づいていただろう。

「なるほど、わかった。その腰のものに使われている金具の作者ですな」

「はい。長曽祢興光といっておりました」

「ほお。興光……」

「あるいは、この興里入道……虎徹とやらの縁者かも知れません」

「助広殿。そこまでいえば、その腰のものを見せてくださるのが普通ですぞ」

「あ……。失礼いたしました」

 助広は腰から抜き、鞘ぐるみ、安定に差し出した。気がきかないというより、押しつけがましいことができない性格なのである。

 安定は拵の外装金具を見やった。

「なるほど、大坂の洒落心というものか」

 梶の葉、唐墨に筆と七夕図でまとめてある。王朝時代には短冊でなく梶の葉に想いを記したという。江戸前期の、まだ侍たちに武張った美意識が生きている時代には、こうした優雅な画題の刀装具は珍しい。

「刀身は御自身が打った作かな」

 安定の興味はむしろそちらにあるようだ。

「お目汚しながら、御覧ください」

 夜である。室内には、弱い灯火しかない。しかし、安定が鞘を払うと、そこに仄青い光が射した。

「……鮮やかな丁子刃だ」

 のちには押し寄せる波頭のごとき濤瀾刃を創始する助広だが、若いこの頃は父譲りの備前伝丁子刃を焼いている。

「なるほど。刀身にも洒落心が現われておる」

 誉め言葉なのかどうか、わからない。

 五左衛門もしばらく真剣な表情で覗き込んだあと、脇差は助広の手に返されたが、

「腕のいい彫り師ですな」

 安定が口にしたのは、刀身ではなく金具についての感想だった。

「刀装金具は鉄とは限らぬが、固い鉄に手慣れた鍛冶屋の出身なら、他の金属の扱いも自家薬籠中のものということか……。その興光とやら申す工人、助広殿とは親しかったのか」

「家が近くでしたから、親同士、子供同士は親しかったのですが……」

「幼馴染みというわけか」

「私より五つ六つ年下の娘がおりました」

 助広は赤くなりかけた。余計なことまで話したと気づいたためだ。その娘に対する記憶のためではない。助広はそう思っている。

「その金工、江戸でも大成しそうな腕だ」

 と、安定。江戸の方が大坂より高水準だという意味ではあるまい。客筋が違うということだ。

「当人もそう考えたらしく、十年ほど前に江戸へ出ております」

「それで……?」

「以後の消息は聞きません」

「ふむ……」

 安定は助広を見据えた。目鼻立ちのすべてが大振りで、これで真顔になられると圧迫感さえある。

「人の世は面白いものだな」

 ちっとも面白そうには見えない安定の表情だ。

「長曽祢興光の名前……。以前にも聞いたことがある」

「あ。それは……」

「いや。わしの方に話すことは何もない」

 安定は突き放したが、薄く笑いを浮かべている。

「ところで、助広殿は今後も丁子刃を続けておいでか」

「いえ……。ただ、備前伝の丁子刃が鍛錬も焼入れももっともむずかしく、これを会得しておれば、他伝も行くとして可ならざるはなし、と考えております」

「ほお。では、相州伝など苦もないと申されるか」

 安定の語気に皮肉が混じる。

 戦国期以前の古刀には地域別に大きく分類して、山城、大和、備前、相州、美濃の五カ伝がある。幕府御用の研磨師にして鑑定家でもある本阿弥は、鎌倉期の正宗を頂点とする相州伝を称揚しており、江戸の刀鍛冶たちも相州伝を理想としている。

 江戸ばかりではない。刀が実用の道具ではない平和な時代には、刀剣界は鑑定家主導となっていく。匂い出来の備前伝はすたれ、沸え主体の作刀が全国に広がっていく。

 刃文を構成する粒子の細かいのが匂い、荒いのが沸えである。とはいっても、多くの刀はその両方が混在する。

 安定の機嫌をそこねたことに助広は気づき、

「あ、いや」

 笑おうと努力さえしながら、いった。

「江戸の刀工は相州伝とはいっても、鎌倉期を目標にして作刀しているとは思われません。江戸には江戸独自の流行というものが――」

「流行とは、また軽く見られたものよな。時代が変われば、武器の有様も変わる。馬に乗り、甲冑をつけて戦うことのない今の世に、反りの浅い無骨な刀が生まれ、より刃味と強靱さを求めて、直刃に互ノ目足入りという刃文が工夫されるのは当然のこと。それを流行の一言でかたづけるか」

「いえ」

 若き刀鍛冶は師伝の継承と古名刀の写しに試行錯誤するものだが、助広の場合、父譲りの丁子刃は数としては多くなく、古作にならった作品もない。そもそも、助広の丁子刃は鎌倉・室町の備前伝に拘泥した作風ではなく、結局、助広もまた彼なりの相州伝を追及していくのである。

「私も互ノ目の刃文はやってみたいと思います。ただ、もう少し――」

「何だ」

 大海原の波濤のようなゆったりとした大互ノ目――といえば、のちの助広の作風だが、まだそこまでは自分でも思い至っていない。

「もうよろしい」

 安定の機嫌は直らなかった。風貌そのものは剽軽であるだけに、この男が怒ると、相手はいたたまれない。

 助広にしても、取り繕う努力をした卑屈さとそれが失敗したことで、猛烈な自己嫌悪に陥りながら、辞した。

 余目五左衛門が表まで見送りに出た。

「また御前鍛錬の場で、お目にかかります。助広師匠さえよろしければ、私が向こう鎚をつとめますが」

 助広は答えない。

「お気になさらないでください、助広師匠。うちの師匠は少々変わり者ではありますが、悪意はないんです」

「ありがとう、余目様」

「その名はもう捨てました。安倫とお呼びください。刀工としてはあなたが先輩。おつきあいいただけるなら、ていねいな言葉遣いも御無用に願います」

 助広は頷き、歩き出した。もう雨はあがり、夏の星空が涼やかに広がっている。

 

 明暦の大火後、本所・深川の地へと人家がのび、今年(万治三年)から、この地は本所築地奉行の支配となった。町奉行の管轄外であるから、まだ江戸市内に組み入れられてはいない。下総国葛飾郡である。昨年、仮橋が架かり、工事が本格化した大橋が両国橋と俗称されるのも、ふたつの国を結ぶことによる。本所が武蔵国に編入されるのは貞享三年(一六八六)、町奉行の管轄に入るのは享保四年(一七一九)だ。

 小名木川、竪川、横川など多くの水路が整備され、割下水の開削が進んでいる最中である。助広が逗留する白戸屋の寮の目前まで、そうした土地開発が迫っている。寮といえば聞こえはいいが、農家を改築したもので、いずれ開発のために取り壊されても惜しくはなさそうだ。

 戻ると、

「助広師匠。お待ちしておりましたよ」

 白戸屋善兵衛が迎えた。白戸屋江戸店の責任者である。店と本宅は日本橋だから、普段、この男は寮へは現われないのだが。

「何か御用でしたか」

「そんな言葉は、今日一日が平穏無事であった人がいうことです。山野様をすっぽかして、その山野様を襲った賊をかばうなんて……。つきあう相手はお選びなさい」

「出合い物、という言葉を知っていますか」

「梅に鶯、竹に雀など、釣り合うものという意味でございましょ。食べ物でも、山椒と昆布、筍とわかめなど……」

「ただ釣り合うのではない」

 出合うことによって、双方がより向上する相乗効果を生む。そういう関係をいうのだ。

「今日は江戸で知り合いができた。これも出合い物といえるかも知れぬ」

「助広師匠の出合い物は山野加右衛門様のはずだったんですよ」

「悔いがあるとしたら、食い物にありつけなかったことくらいだ。腹が減った」

「菓子なら、ございますよ」

 善兵衛は紙包みを寄こした。

「山野様のお連れからいただきました。あの方がお作りになったものです」

「ほお。職人風には見えたが……」

 菓子師にしては、白刃を前にして、度胸がよすぎた。

「今、江戸では知る者ぞ知る菓子師でございますよ。もっとも、店なんぞ持っちゃおりません。あちこちの菓子屋を指導したり、大名家に呼ばれて腕をふるったり……。めったにお目にかかれないお方ですが、私もお菓子が好きで、山野様にお連れいただきました。お名前は止雨様と申されます。その名もむなしく、今日は雨降りでございましたが」

「絵描きの号みたいだ」

「絵もお描きになるようですよ」

 紙包みは煎餅だった。

「米粉の煎餅です。上方じゃ珍しゅうございましょ。あっちは平安の昔の唐菓子にある小麦粉の煎餅から進歩しておりませんからね」

「そうかね」

 助広は聞き流している。食材に乏しく、文化的な歴史も浅い江戸は、料理においては上方の比ではない。先代の善兵衛の父は京都の本店から江戸へ差し向けられたのだが、息子の舌は上方を知らないのだ。

 しかし、口に入れてみると、なるほど、江戸を見直したくなるいい塩味だった。

「お茶が欲しいな」

「台所で、勝手にお淹れなさい。その前に……お召し物を持参いたしました」

 善兵衛は傍らに置いていた包みを開いた。御前鍛錬のための礼服である。肩衣(裃)袴だった。

「烏帽子直垂なら、大坂から持ってきましたが」

「どうせそんなことだと思って、用意いたしました。肩衣袴を着用せよ、との御腰物奉行からのお達しだそうでございますよ」

「大坂では、そこまで聞いていなかった」

「左様でしょうよ。急な出府だったようでございますから」

 もともと、今回の御前鍛錬には、大坂からは助広ではなく二代目和泉守国貞にお召しがあったのだ。のちに井上真改と改称し、「大坂正宗」と賞讃される名工である。が、一転、助広が指名された。大坂城代・水野忠職や大番頭・青山宗俊の推薦だったとも、国貞は彼の主人である日向飫肥藩伊東家が出府を許可しなかったとも、助広は聞いている。真相は不明だ。ちなみに、青山宗俊はのちに大坂城代となり、助広を召し抱える信州小諸藩主である。助広の実力は認めている。

「私が聞いていないことを、よく白戸屋さんは知っていたものだな」

「山野加右衛門様からうかがっております」

「ああ。あの人も御前鍛錬に関わっておいでらしいな。役人や刀鍛冶に顔が広いようだ」

「顔がきく、というべきでございましょうな」

 のちに『鉄鍛集』という鍛刀技法書をも著し、試刀家ばかりか刀剣研究家としても一家言を持つ男である。

「お会いになったら、今日の無礼を詫び、きちんと挨拶なさいませよ。――まったくもう、何で私が世話女房みたいに気を回さなきゃならんのですか。大坂から御内儀をお連れになればよかったものを」

「そんなものはいない」

「なら、いっておきますが、押しの強い女がよろしゅうございますよ、師匠には。わがままなくらいの女がよろしい。師匠は無愛想なようで、妙に気を使いすぎるところがありますからな。放っておいても、好きなように振舞う女の方が、かえって楽です」

 さすがに商家の主人ともなると、多少は人を見る目があるようだ。

「女よりも先手が必要だ。頼んでおいた力自慢は見つかりましたか」

「見つかりません」

「随分とあっさりいうものだな」

「いくつかの野鍛冶をあたってみましたが、刀鍛冶は嫌われておりますな。鍛冶屋の中でも別格だと威張るからですよ。そんなお偉い刀鍛冶を公方様の御前で手伝うなど、恐れ多いとか」

「私は威張った覚えはないが……」

 しかし、一般の鍛冶屋から反発を食った覚えは多々ある。 

「引き続き、探してはみますが」

「今日の出合い物だった刀鍛冶から弟子を借りられそうだ」

「あ。なら、私は御内儀にふさわしい娘を探しましょうか。しかし、それまた難題ですなあ」

「……台所へ行く」

 助広は煎餅の包みを抱えて、善兵衛の前を離れた。この男は、座敷で上げ膳下げ膳されるよりも、台所の板の間でつまみ食いしたり、お茶を飲んでいることの方が多い。

「雙」第1回

「雙」第1回 森 雅裕

一・霜露

 職人気質という言葉は、頑固一徹で世渡り下手な職人への誉め言葉だろう。しかし、職人の社会にも政治があり、富や名声を得る者は権力に阿(おもね)り、他人を貶(おとし)めることに熱中し、職人気質とは対極の世界に住んでいる。

(苦手やなあ、こういうの……)

 男はもう半刻(はんとき)も茶屋の店先を動かない。視線の先にある料理屋が、その「対極の世界」だった。彼が待ち合わせた相手がそこにいる。なのに、料理屋の前で、

(こういうの苦手や……)

 足が動かなくなった。

 男の名を甚之丞という。世の通り名は津田越前守助広。大層な名乗だが、まだ数え年二十四歳の刀鍛冶だった。

 寛永十四年(一六三七)、摂津打出村の産。初代助広の子で、四年前の明暦二年に二代目を継いだ。すなわち、今は万治三年(一六六○)六月。数日前、この男は江戸へ着いたばかりだった。

 雨が降り出し、この男が飛び込んだのは、目指していたはずの料理屋ではなく、向かい側に見つけた茶屋だった。

 雨雲に夕暮れが重なって、あたりの色が洗い落とされ、薄闇の底へと流されていく。

 浮世のしがらみを忘れさせるような雨だ。そのせいで、助広はますます現実から逃避しそうになる。

(丁寧に頭さげて挨拶して、御高名は常々、とお世辞のひとつも奉って、まあ一献といわれたら、受けさせてもろて、それでもどうせ生意気な奴いわれんのや。いつものこっちゃ――)

 会いたいと希望したわけではない。世の中には人を紹介したがるお節介がいるのだ。

 うつむきながら視線をめぐらすと、茶屋の客はもう一人いた。若い武士である。その若者も助広と同様に、料理屋の出入口を睨んでいる。しかし、視線は助広よりもさらに暗い。

 職業柄、助広は相手の佩刀へ目が行く。大は腰からはずして、傍らへ引きつけている。

 この時代、「藩」という概念はあっても公称ではないが、各藩にはお国拵というものがあり、腰の差料を見れば、どこの家臣か、わかる場合がある。柄は頭(かしら)が小さめで、立鼓(りゅうご)が強く、中央が大きくくびれている。

 仙台侯伊達家の拵(刀の外装)ではないか、と思った。柄も鞘も黒一色で、粗末とも質実ともいえる拵である。

 しかし、腰にたばさむ脇差は、柄も鞘も雨よけの革をかぶせている。そして、長い。二尺(約六○センチ)近い。脇差というより、ほとんど刀の長さである。

 正保二年(一六四五)に刃長一尺八寸(約五四センチ)を越える脇差は禁止され、以後、一尺八寸が脇差の定寸となっている。もっとも、禁令の効果はなく、武士、侠客たちには長脇差が流行し、助広にも大坂の富裕商人から長脇差の注文が多い。

(いわくありげな脇差やな……)

 目が合いそうになり、逃がした視線の先では、料理屋から出てきた男たちが傘を開いていた。

 武家一人と町人二人。助広が会う約束をしていた男たちである。帰るには早いようだ。大坂の刀鍛冶ごときに待たされる気はないのだろう。

 歩き去る彼らから、助広は顔を隠した。

 茶屋にいた若侍が傘を手に立ち上がっている。雨はさらに強くなっている。雨宿りしていたわけではなさそうだ。

(血相変えて、雨の中を飛び出していくとなれば、掛け取りに追われているか、親の仇でも見つけたか……。剣呑やなあ。これが江戸かいな)

 

 神田川に架かる浅草橋を南へ渡ると、神田・日本橋側には町屋と武家地が混在している。男たちの足は表通りをはずれ、武家地に入っていた。板塀と林に囲まれたこのあたりに人気は絶える。

 若侍は、前を行く三人の男たちに声をかけ、前へ回った。六十歳を越えたほどの侍が、彼らの中心である。

「山野先生。かようなところで失礼いたします」

 深々と頭を下げ、相手がそれに応じた瞬間、若侍は傘を捨て、抜き打ちに斬りつけている。

 山野、と呼ばれた男は左手に傘を差していた。右手には杖をついている。この老いてさえ見える侍は、その杖で相手の一撃目を払いのけた。落ち着いている。よろけた相手の腰を打ち、ぬかるみの中へ倒してしまった。

 町人のうち、商家にしか見えない男は悲鳴をあげ、傘を放り捨てて、板塀へ張りついた。もう一人の町人は職人風だった。この男も冷静だ。傘を拾い、

「濡れるぞ」

 震えている商家の男へ差し出した。

 山野は刀を抜かず、傘を差したまま、片手に杖を構えている。赤樫の頑丈な杖だが、こうしたものの助けを必要とする足腰には到底見えなかった。

 若侍は立ち上がり、果敢に二撃目を繰り出したが、打ち合うと、彼の刀は折れ飛んだ。

 山野の頬が不快を浮かべて、歪んだ。

「いやはや。あきれはてた鈍刀よの。そんなもので、このわしを斬れると思うたか」

 若侍は腰の脇差の柄に手をかけた。しかし、抜かない。

「どうした。そのつもりで用意した長脇差であろう。遠慮はいらぬ。抜け。それとも、また折られては困るような宝刀か」

 挑発され、若侍は柄袋をはずした。

 雨音が変わったのは、近づく助広が足を早めたためだ。

「もうおよしなさい」

 傘の上に雨足を躍らせながら、声をかけた。

「あ。助広師匠じゃありませんか」

 板塀に張りついていた商家の男が叫んだ。やや非難が混じった。

「や、約束は暮れ六ツ(午後六時頃)でございましたよ。山野様は待ちきれずにお帰りになるところで――」

「あいすみません」

 助広は、杖を手にした侍の前へまっすぐに歩いた。

「山野加右衛門様。このような形でのお目もじ、お許しくださいませ。津田助広でございます」

「取り込み中である」

「ですから、声をおかけしました。勝負はもうついておりましょう」

「この場を納めろというのか。わしが手を下さずとも、この若侍、腹を切るぞ。それが侍の面目というもの」

 その言葉に触発されたように、若侍は折れた切先部分を素手で拾い上げた。しかし、腹へ突き立てるより早く、その腕を職人風の町人がつかんだ。

 筋骨たくましくもなく、若くもない男だが、体術の心得でもあるのか、若侍は動きを封じられ、刃物を取り落とした。掌を切ったらしく、滴る雨が赤い色に染まった。

「侍の面目など世のため人のためになるわけでもない。やめておけ」

 男は、そういった。山野加右衛門よりは年少に見える。五十代半ばだろうか。この時代なら老齢だが、衰えは微塵もなく、せいぜい初老というべきか。目の前で刃物沙汰が起きているのに、まったく無表情だった。

 若侍は駄々をこねるように、叫んだ。

「面目を棄てては、侍ではない」

「ならば、侍をやめるがいい。おぬし、何か好きなこと、やりたいことはないのか」

 若侍が怒らせていた肩が、やや落ちた。

「あるのだな。では、その道へ進め」

 奇妙な説得力があった。若侍は雨に打たれながら、もう動かない。

 加右衛門もすでに杖を下ろし、野良犬でも追い払うように、いった。

「今日のことは忘れよう。わしは仙台侯を相手にことを構える気はない」

(やはり、この若侍は伊達家の家臣か――)

 助広はこの男に傘を差しかけようかどうか、迷った。結局、やめた。余計なことだ。

 加右衛門が助広へ向き直った。

「さて。とんだ初対面になったが、おぬしが助広か。どうする?」

「は……?」

「場所を変えて、あらためて一献といくか、と尋ねている」

「いえ……。こちらのお武家が気になりますので」

「そうか。では、これにて」

 加右衛門と初老の町人は悠然と背を向けた。商家の男があとを追いながら、助広を振り返った。

「師匠。あとで、お話がありますよ。商人にだって、面目があるんです。あなたはそれをつぶしたんですからね」

 煙る雨足の中に男たちを見送ると、助広は傘を若侍に預け、手拭いを取り出して、彼の手の傷を縛った。

「かたじけなし。茶屋にいた人ですね」

「つまらぬ邪魔をいたしましたな」

「いや。救われました……」

 物腰の柔らかな若侍だった。助広をただの町人とは見ていないようだ。

 助広は刀の破片を拾い、懐紙に包んで、この男へ渡した。

「子供たちが玩具にして、けがでもするといけません」

「あなたは山野加右衛門の知り合いですか」

「今日、知り合いにならせていただくはずでしたが、茶屋での雨宿りが長すぎたようです」

「あの商人が仲立ちですか」

「左様」

 白戸屋という呉服太物屋(絹・木綿商)だ。本店が京都にあり、助広が江戸へ下るにあたって、当地の支店で面倒を見てくれることになっている。

「もう一人、一緒にいた男は何者かな」

 助広は尋ねるともなく呟いた。白戸屋の連れではなく山野加右衛門の知己という雰囲気だった。が、若侍は首を振った。

「存じません。加右衛門が交誼を持つのは役人か金持ちと決まっていますが」

「そのどちらにも見えなかったが……」

 若侍は足を引きずり、顔をしかめた。転んだ時、挫いたらしい。

「いけませんな。肩をお貸しいたしましょう」

「造作をおかけします。私は余目五左衛門」

「名乗ると、主家に御迷惑がかかりませんか。仙台侯……と聞こえましたが」

 江戸市中で抜刀するなど、切腹覚悟の蛮行である。本人だけでなく、主君にも累が及ぶことになりかねない。

「何。逐電したことになっております。このお刀を盗んで……」

 腰の脇差を目で指した。使うのをためらっていたのだから、よほど大切な刀らしい。

「で、どちらへ戻られる?」

「神田白銀町へ……」

 武家地ではない。そこまでこの傷ついた若者を送り届けずにすむ理由が、助広には見つからなかった。

 

(同業者や……)

 助広は胸中で呟いた。余目五左衛門の案内に従い、訪ねた先には、鍛冶場が建っていた。野鍛冶ではない。刀鍛冶である。

 そこの主人は、

「冨田(とんだ)宗兵衛と申す」

 と、名乗った。体躯はたくましく、丸顔の風貌には愛嬌があるが、眼光は鋭い。

「世間の通り名は大和守安定と申します」

「……甚之丞でございます」

 安定といえば、その斬れ味を称揚される刀工である。これより二百年後、幕末の騒乱時には、武士たちは争って、その作を求めたという。この時、四十三歳。刀工としては、精力あふれる盛りだ。

 助広は、同業者であることをいいそびれた。隠す気はないが、先輩に対して、わけもなく気が引けた。

「五左衛門が御迷惑をおかけいたした」

「何。おかげで山野加右衛門様の腕前を拝見できました。失礼ながら、余目様のかなう相手ではなさそうだ。なのに、主家を離れてまで、かの仁を討とうとなさるからには、よほどの理由がおありと見える」

「山野加右衛門永久のことはどのくらい御存知かな」

「御様(おためし)御用と」

 罪人の首斬り役である。正式な役職ではなく、牢人扱いだが、本業は首斬り後の死体を用いて、将軍や大名たちに託された刀で試し斬りを行なう嘱託であり、武家社会では一目置かれている。何より、斬った首の数が六千を越えるというから、畏怖されて当然である。

「何。金の亡者よ」

 安定は苦笑した。試し料ばかりでなく、茎(柄の部分)に金象嵌で截断銘を入れるのも安くはない。依頼主が高級武士に限られる所以である。

「安定師匠の作刀にも、山野様の截断銘が多く入れられているのでは……?」

「だから、いうのだ」

 刀工が試し斬りを依頼する場合もある。山野加右衛門の截断銘が目立って多いのは、他ならぬこの安定の作刀なのである。それだけ、貢いでいるということでもあるだろうが。

「斬れ味の評価も金次第。並みの遣い手なら鈍刀でも、加右衛門ほどの練達者がふるえば利刀。金を積めば利刀となり、積まねば鈍刀となる」

「はあ……」

 助広は門外漢ではない。今さら驚くような話でもなかった。白戸屋が助広を引き合わせようとしたのも、加右衛門のそうした社会的な力と近づきになるために他ならない。

 別室でけがの治療を終えた余目五左衛門が現われ、あらためて頭を下げた。

「おかげさまにて、助かりました」

「いえ……」

「この五左衛門が山野加右衛門を襲った理由も、そこにありましてな」

 と、安定は五左衛門に発言を促した。五左衛門は案外、恬淡と語り始めた。

「私の父は(伊達)陸奥守家にて、御刀奉行支配の手代をしておりました。わが太守(伊達綱宗)より脇差一振りを託され、試し斬りを加右衛門に依頼してございます。が、しかし、法外な試し料を求められ……それを断わり申した」

 すると、加右衛門は、この刀は試し斬りに及ばず、と突っ返して寄こした。 

「武名で聞こえた伊達家には値せぬ鈍刀とまで、いってのけたのです。わが主君のお刀を笑われては、御刀奉行手代には立つ瀬がない。父は腹を切りました。その脇差で」

「何と……」

「刃味を、身をもって証明したのでございますよ」

「あなたが盗んだといわれた脇差がそれですか」

「左様です」

「その脇差で、今度は山野様の身をもって、刃味を知らしめようと……?」

「そのつもりでした。しかし、斬り結ぶわけにはいかぬ」

 刀と刀で打ち合えば、疵がつく。刃こぼれも生じる。

「どうせ盗んだ刀なら、疵など、かまうこともありますまいに。あくまでも御主君に義理立てなさる御所念ですな」

 逐電というのは、伊達家上層部も承知の方便だろう。仙台侯を辱めた山野加右衛門を斬るための――。

「あくまで、加右衛門の首を落とすためだけに使うつもりでした」

「だから、抜かなかったのですか。しかし、そんな余裕をもって、立ち向かえる相手と思われたか」

「試刀家は縛られた罪人もしくは死人を斬るのが専門。生きた相手と斬り合うことはまた別。しかも、彼奴は齢(よわい)六十を二つ三つ越えている。そう考えましたが……」

「この五左衛門は伊達家中でも、腕自慢でござってな」

 安定の言葉に苦笑が混じる。

「もっとも、こやつは死体すら斬ったことがない。加右衛門にかなうわけもなかった」

「山野様にかなわなかった余目様が、身と心の傷を癒す場所に、こちらの安定師匠のもとを選んだ理由は何です? もちろん、仙台侯のお屋敷にはもう戻れまいが……」

「以前から、こやつはわしが預かっておりましてな」

「つまり、刀工の弟子として、ですか」

 刀鍛冶は他の職方とは格式が違う。貴人や武家の中にも「慰め打ち」を行なう例は珍しくなく、家臣に刀鍛冶の修業をさせる大名家もある。

 安定は越前の出身だが、奥州仙台との関係は深く、明暦元年(一六五五)に仙台へ招かれ、仙台東照宮への奉納刀を打ち、さらに伊達政宗の霊を慰めるべく瑞巌寺(瑞鳳寺という記録もある)にも奉納している。

 助広の耳には、余目五左衛門以外の安定の弟子たちにも奥州訛りが聞き取れた。

「刀工名は安倫(やすとも)と申します」

 と、五左衛門は名乗った。

「実を申せば、御刀奉行手代は養父です。わが血流は倫助と称した父祖の代から陸奥守家お抱えでございました。私の実兄はこちらの安定師匠に入門し、安倫の名をいただきましたが、五年前に亡くなっております。私は養父とともに手代として陸奥守家に御奉公しておりましたが、実兄のあとを継ぎ、二代目の安倫となります」

 雨の中で腹を切りそこね、好きなこと、やりたいことはないのか、と訊かれた時に、この男の胸中を過(よぎ)ったのは、刀作りだったようだ。

「では、修業を続けて、刀工になられるのか」

「実は、加右衛門に叩き折られた刀も自作。まだまだ未熟です」

「弟子の未熟は師匠の恥」

 と、安定。 

「加右衛門の首を土産にせねば、仙台侯への帰参もかないますまい。せいぜい、わが弟子として、こき使ってやりましょう」

 この師弟は苦笑さえしているが、助広は大真面目に問いかけた。

「もう、山野加右衛門様を狙うのは断念されましたか」

「要は、お家の面目を保てばよいこと。他の方法を考えましょう」

 何をするのか。疑問には思ったが、助広が立ち入るべきことでもない。

「しかし、余目様をかばうと、安定師匠と山野様との仲が気まずくなりませんか」

「わしはもう名を広めた。今さら、彼奴の試し斬りの恩恵など必要とはせぬ。人のことより、甚之丞殿こそ、やりにくいのではないかな。今後も加右衛門とお会いになるだろうからの」

「今後……?」

「上野寛永寺」

 と、安定はいった。寛永寺では、全国から刀工を招き、将軍来臨の「御前打ち」の準備が始まっている。

「そこで打ち上げた刀は加右衛門が試し斬りをすることになっておる。甚之丞殿は、その御前鍛錬に参加のため出府されたのであろう」

 確かに。しかし、助広は名乗っただけで、自分の素姓を明かしていない。なのに、

「御同業ですな」

 安定はあっさりといい当てた。

「それ、その腕の無数の火傷跡。鍛冶屋の看板を掲げているようなもの。しかも、上方訛り」

「恐れ入ります。甚之丞の世間での通り名は、大坂の津田助広と申します」

 あ、と五左衛門が頷いた。

「あの商人から師匠と呼ばれていらっしゃったが、やはりそういうことでありましたか」

 安定は値踏みするような視線で、助広を見据えている。

「わしも御前鍛錬に招かれておる」

 参加者の顔ぶれは事前に知らされているはずだ。はず、というのは助広は江戸の刀剣界に人脈がないため、聞いていないのである。が、安定は助広の参加を知っていた。

「お若い」

 安定の目が、すっと細くなる。

「『ソボロ』の異名をとる、音に聞こえた業物の名が助広でしたな」

「父です」

「ふむ……」

 初代助広はもとは播州津田(姫路)の数打ち(量産刀)工であったが、大坂で初代河内守国助の門に入り、成功した。すでに隠居して、名を息子に譲ったが、作刀に「そほろ」と添銘したものがあり、ソボロ助広の異名で呼ばれている。

「一族郎党、身なりにかまわず、ボロをまとっている故に『諸人惣ぼろなり』と伝えられているが……いや、失礼」

「『中庸』にいう『霜露の隊(お)つるところ』から引いている言葉です。もっとも、確かにボロをまとってはおりますが」

 天の覆うところ、地の載するところ、日月の照らすところ――およそ血気ある者は尊親せざることなし、の一節だが、刀鍛冶風情の知識の範疇ではない。

 しかし、

「天道論だな。おのれの技芸が天下に轟き渡るという寓意か」

 安定は理解した。案外な教養人だった。ありとあらゆる方法で自分を磨いてきた、そんな職人なのだろう。

 霜露は触れれば落ちる露から斬れ味をも意味し、江戸後期の首斬り役・山田浅右衛門吉睦が刃味を順位づけした最上大業物にも、ソボロ助広は名を連ねることになる。

「なるほど。息子もまた業物のお墨付きを得るべく、料理屋で加右衛門に挨拶をなされようとしていたのか」

「気が進まず、逡巡しているところへ、血相変えた余目様に出くわした次第です」

「どうせ、金持ちの紹介でしょうな」

「白戸屋という呉服太物商です。その寮が本所にあり、そちらに逗留しております」

「大坂から引き連れてきたお弟子たちも、そちらか」

「それが……」

 助広は小さく苦笑した。