「雙」第5回

「雙」第5回 森 雅裕

 助広は話の接ぎ穂を探りながら、尋ねた。

「安定師は虎徹師と同じ兼重門下とか。つきあいはおありですか」

「ないな」

 安定はまるで自慢でもするように高らかに、いった。

「虎徹が江戸へ現われたのは、慶安の初めであった。鍛冶屋としての腕はすでに持っていたから、刀作りを修得するのに長くはかからなかった。むろん、名刀作りとはまた別だが……。あちこち渡り歩きはしたものの、人づきあいは悪い。特に同業者は」

 そんな虎徹が、昨日は助広を自分の鍛錬場へ招いたのはどういう理由なのか。

「わしもまたもとは越前から流れ始めて、紀州石堂派で学び、江戸へ出てきた。つまり、虎徹にしろわしにしろ、兼重師のもとで、鍛冶屋としてさまにはなったが、年少の頃から寝起きをともにした兄弟弟子ではない」

「長道は、虎徹師が半百の五十歳で江戸へ出たにしては様子が若い、とかいっていましたが……」

「ふん。それは誉めているのではなく、おかしいといっているのだろうな」

「はい。宣伝だとは虎徹師本人も認めておりました」

「宣伝とな。彼奴は言葉まで作りおる」

「売り込みという意のようです」

「ふん。逸話の売り込みは馬鹿にならぬぞ。虎徹が金沢城下にいた頃、加賀中納言・前田利常様の御前で、志摩兵衛正次の刀と虎徹の兜とで試し斬りがあった。まさに斬りつけようとしたその刹那、虎徹は、待ったと声をかけ、兜の位置を直した。気を殺がれた正次は、そのあと斬りつけるのに失敗したが、声をかけねばおのれの兜が断ち割られていたと感じた虎徹は、甲冑師をやめ、刀鍛冶を志したという」

「なるほど。面白い」

「もっとも、場所は越前福居(福井)で、虎徹ではなく和泉守兼重の逸話だとする異説もあり、相手の刀鍛冶は正次ではなく兼巻だとも陀羅尼勝国だともいう。第一、微妙公(前田利常)は二年ほど前に亡くなられたが、隠居されたのは二十年以上も前で、時代が合わぬ。それに、虎徹は甲冑師をやめたわけではなく、今も作っている」

「今も……?」

「もっとも、長曽祢派の職人は江戸に何人もいるから、代作ということも充分に有り得るが」

「虎徹師にはもっと妙な噂もあるようだと聞きましたが」

「長道あたりが何かいっていたか。奴は口が達者なようだ」

「江戸の刀鍛冶から聞け、といっておりました」

「虎徹ははたして虎徹なのか。そんな噂がある」

 安定はあっさりいったが、助広にはその意味するところがつかめない。

「虎徹の出府が五十を過ぎてからというのは誇張だが、若くなかったのは事実だから、彼奴には江戸に旧友もおらぬ。特に、ここ数年は人前に出ることも少ない。われらの師匠の初代兼重が死んだのは万治元年つまり二年前だ。虎徹は葬儀に参列もしなかった。その後、虎徹に会った者たちの間から、以前とは面変わりしたという声があがった。本人は病んだと称しているようだが……。わしも昨日、ひさしぶりに顔を合わせたが、ろくに会話をしておらぬ」

 安定は淡々と語る。

「小伝馬町で百叩きにあったろくでなしが、兼重一門にいた。江戸を追われ、今は消息不明だが、牢の中で、そいつは虎徹に会ったそうだ」

「え……?」

「それも二年前だ。ちゃんと言葉を交わしたという。その虎徹は打ち首になったそうだ。彼奴が欠席した初代兼重の葬儀はそのあとだった」

「それは、つまり――」

「今の虎徹は偽者――替え玉かも知れぬということだ」

「牢に入ったというのは、どういうことでしょうか。何をやったのですか」

「さあ……な」

「虎徹師が刑死したなら、一門は連座しなかったのでしょうか」

「今も鍛冶屋を続けているのだから、そういうことだろう。奇妙なことだ。秘密裏に処刑されたフシがある」

 死罪になれば、家屋敷、家財は闕所つまり没収される。罪状にもよるが、関係者は連座、家族には縁座という累が及ぶことがある。もっとも、連座していないからこそ、真偽がわからず、噂の域を出ないのであるが。

「刑死は何かの間違いでは……? 忽然と江戸に現われた刀鍛冶ですから、いろんな憶測が流れるのでしょう」

「確かに、江戸に現われる前の虎徹を知っている者は、この町にはいない。弟子たちの中には、虎徹が越前の甲冑師だった頃から師事している者もいるが、師匠に秘密があっても、口外するまい」

「身内はどうなのですか。家族は……」

「いない。したがって、弟子の中から興正を選んで養子にした」

「しかし、替え玉に刀が作れますか」

「おぬし、昨日、虎徹のところへ行ったのだろう。元気な盛りの弟子たちを見たはずだ。虎徹こと長曽祢興里には興正を初め、興久、興直といった腕のいい弟子たちがいる。刀はそいつらに作らせることができる」

 機械化されていないこの時代、刀剣はどんな名人でも一人では作れない。師匠が監督する工房の作といえる。むろん、師匠がどこまで自ら手がけるかは、場合によって差があるが、すべて弟子による代作ということも、職人の世界には珍しくない。それは贋作とは違う。助広自身、十代後半から、父である初代助広の代作代銘を行なっている。

「しかし、今回の御前打ちは人前での鍛刀です。それも、公方様じゃありませんか」

「公方様は初日の火入れ式と最後の献納式に臨席なさるだけだ。他の幕閣、役人たちも作刀の一部始終を御覧にはならぬ。われら刀工がやってみせるのは、数日に及ぶ工程の一部だけだ。おぬしとて――」

 安定は目を細めるようにして、助広を見やった。

「すでに下鍛えした鉄を持参している、というたではないか」

「はあ……」

 そもそも、風通しのよすぎる仮設の火床では火力が安定しない。満足いく仕事ができる保証はないのだ。

「どうせ、制作中の刀は監視されているわけではない。むろん、鍛錬場は役人たちが警固しているが、刀には素人ばかり。刀鍛冶が失敗作を成功作にすり替えることは容易。虎徹の鍛錬場は池之端にある。東叡山寛永寺の麓だ」

「では、虎徹師になりすましているのは……」

「誰だか、いうまでもあるまい」

「双子の興光師ですか」

「虎徹にそういう弟がいることは以前から知っていた。実をいえば、顔を見たこともある。先日、おぬしには黙っていたが……」

 その先日、安定が「人の世は面白いもの」といったのは、このことだったようだ。

「興光師は二年前の春に亡くなったと、虎徹師から聞きました」

「さて。死んだのは虎徹の方かも知れぬ、ということよ」

「安定師匠。そこまでいえば、噂や憶測を越え、他人への中傷に聞こえます」

「そうよな。身内の証言が聞きたいところだ」

「しかし、虎徹師に身内は……」

「興光の身内だ」

「え……?」

「興光には娘がいた」

「はい」

「妻の連れ子だがな。その妻はすでに……」

 大坂で没している。それは助広も知っている。

「そして、興光は血のつながらぬ娘を棄てた。いや。売ったのだ」

「売った……? まさか」

「その、まさかだ。娘は吉原におる。三年前の夏に売られ、禿を経ずに『突き出し』で見世に出た」

 助広は驚くよりも、咄嗟には理解できなかった。

「今や吉原京町二丁目山本屋で、薫という評判の格子女郎となっておる」

「格子女郎……というのは?」

「太夫の次の位だ。もっとも、つとめを続けておれば、遠からず太夫に出世するはずの傾城だ」

「その薫とやらが、自分の素姓をぶちまけたとでもいうのですか」

 下級遊女ならともかく、太夫の次位ともなれば、気安く身の上話をするとも思えなかった。

「にわかには信じられまいな」

「吉原へ行けば、会えるのですか」

「一介の鍛冶屋がいきなり行って、会える端女郎じゃねぇ。会える人間は限られ、しかも、身の上話を聞くことができる人間はもっと限られる。おぬしもまず、そうした選ばれたお方と近づきになることだ」

「どこのお大尽ですか」

「お大尽なものか。殿様だ。お大名だ」

 大名道具といえば、遊女の世界では太夫を指す。宝暦年間に絶えるまで、最高位の遊女であり、茶の湯、活花、和歌、音曲などを嗜む教養婦人である。吉原では七十余人の太夫を数えるという。それらを差し置いて、大名を惹きつける格子女郎がいるのか。

「あ。では、安倫が仕えていた……」

「いかにも。仙台候だ」

 仙台伊達家の当主・綱宗は独眼龍と畏怖された政宗の孫である。万治元年に没した父・忠宗のあとを継いだ。それから二年。

「今年で二十一歳におなりだ」

 そんな歳で、吉原通いをしているのだろうか。

「理由があるのだ。いろいろと」

「理由とは……?」

「お大名の事情をわしの口からいえるものか。聞きたければ、じかにうかがえ」

「しかし、仙台候などとは……」

「仲立ちしよう。わしが」

 安定は仏頂面で、いった。しかし、唇の端が自慢げだ。

「わしはこう見えても、陸奥守様(綱宗)お気に入りの刀工でな」

 引き合わせたいお方とは、伊達綱宗のことだった。  

 これが江戸の刀工なのか。大名とつながりがあることに、助広は敬意よりも生臭さを感じた。

「これよりお目もじにまいろうというのだ。何か不服か」

「いえ。しかし、突然のことで……」

「おぬしには突然でも、陸奥守様に突然でなければ、かまわぬさ」

「どういうことですか」

「おぬしのこと、すでに殿様のお耳には入れてある。引見してくださるとのこと」

「あ……」 

 安定は、こうした勿体つけた話の運び方をする男らしい。

(苦手やな、こんなん……)

 助広は半ば放心状態で、安定の勝手ぶりに抵抗することさえ忘れている。大体、仙台六十二万石の当主が大坂の刀鍛冶なんぞに目通りさせてくれる理由がわからない。若いとはいえ、西に島津、北に前田、東に伊達と称せられる天下三侯の一人であり、家臣からも「お屋形」「太守」と呼ばれる大大名である。

 が、謁見の理由など訝れば、また生意気といわれるだろうから、口には出さなかった。もっとも、黙っていれば黙っているで、張り合いのない奴、といわれるのだが。

 谷中から中仙道へ出て、南へ下ると、長大な侍長屋を連ねる加賀前田家江戸屋敷の向かいに、寺地が広がっている。

「本郷丸山本妙寺だ」

 門は林の奥だ。その前にさしかかり、安定がいった。

「酉年の大火の火元だ」

 明暦三年(一六五七)正月十八日、この地から起こった火は、前年十月末以来、一滴の雨も降らない井戸涸れの江戸にたちまち広がり、神田、日本橋、八丁堀を焼いて、対岸の本所、深川にまで飛び火した。一旦は鎮静したが、翌十九日には小石川の新鷹匠町から再び出火、市ヶ谷、番町、京橋、新橋まで焦土と化し、江戸城天守閣をも類焼。さらに夕刻には麹町から三度目の火があがり、外桜田、日比谷、芝までが灰燼に帰した。江戸市街をまるごと焼き尽くし、海に至って、ようやく鎮火したのだった。焼失した大名屋敷五百(百六十とも)、旗本屋敷七百七十、町屋四百町、焼死者は十万を越えたと伝えられ、遺骸収容と供養のために本所回向院が建てられた。

 後年いう「振袖火事」である。寺小姓に恋し、焦がれ死んだ娘の振袖が古着として売られ、それを着た娘たちが続々と死ぬので、本妙寺で大施餓鬼を修し、振袖を燎火に投じたが、一陣の龍巻が火の粉を散らす振袖を吹き上げた――という怪談めいた因縁話だが、むろん後人の創作であって、事実ではない。この当時の記録には「丁酉の火事」「酉年の大火」と表記されている。

「本来、失火は寺格取り上げの重罪であるにもかかわらず、本妙寺はおとがめなし。おかしな話よ」

 安定が何をいいたいのか、助広にはわからない。

 しかし、大火後、多くの寺が市街化計画によって移転させられた中で、本妙寺は動かず、こののち寛文七年(一六六七)には法華宗八派のうち七派の触頭職という寺社奉行の通達役に任じられて、寺格が上がり、境内も広げることになる。江戸の大半を壊滅させた火元としては、腑に落ちない話ではある。

「大火に乗じた者もおる。虎徹は焼け跡から古鉄を買い集めてはならぬという禁を犯して、かなりの量を仕入れた。彼奴の作刀が見るべきものとなるのは、それ以降だ。酉年の大火が名刀を生んだともいえる」

「他の刀鍛冶は大火に乗じなかったのですか」

「金儲けはさせてもらった」

 江戸には幕臣だけでも二万以上の武士がおり、彼らがまたそれぞれ家臣を抱えている。諸大名の江戸詰めの家臣をも含めると、江戸の武家人口は五、六十万に達し、彼らが焼失した刀剣は厖大な数になる。その復興需要が発生したのである。江戸鍛冶の隆盛は大火の恩恵ともいえる。

「大火の折、大慈院様(伊達忠宗)は武装した家臣五百名を率いて、江戸城へ駆けつけ、桜田門を守ったという。若き藤次郎様――あ、今の陸奥守様だが」

 安定は伊達家とのつながりを誇示したいのか、わざとらしくここで言葉を切った。藤次郎は綱宗の通称である。

「若き陸奥守様は伊達家江戸屋敷の蔵刀を井戸へ放り込ませ、火から守った。智も勇もそなえた若殿だ」

 居並ぶ武家屋敷の間を抜けると、森が覆う神田川の崖だ。足場が組まれ、工事中だった。二人は御茶の水の崖沿いに坂を下る。夏の西陽が木々の間から彼らの横顔を焼いていた。

「独眼龍貞山公(政宗)が台徳院様(徳川秀忠)と碁を打ちながら、江戸を攻めるなら本郷台地から、と脅かしたもので、御公儀は伊達家に台地を削り、御茶の水を開削することを命じた。口は散財のもと。それにちなみ、神田川のこのあたりを仙台堀あるいは伊達堀という」

「では、仙台候のお屋敷はこのようなところにあるのですか」

「とぼけたことをいうものだな。伊達家の江戸屋敷は上屋敷が芝、中屋敷は愛宕下、下屋敷が麻布白金台と品川高輪だ」

「では……」

「陸奥守様は今年二月から、小石川堀の堀浚えと土手修復を課せられておいでなのだ。偉大な祖父の仕事を引き継がれたわけだな」

 牛込門から筋違門まで(和泉橋までともいう)およそ六百六十間(約一・二キロ)の距離を船が運航できるよう拡張せよ、という公儀の命令である。下命直後の二月に準備が始まり、五月末には普請鍬始めが営まれ、六月から工事は本格化した。これ以降、工期十カ月、総工費五万両に及ぶことになる大事業である。

 一日あたり六千二百人の土工人夫を動員するという、さすがの伊達家にも大きすぎる負担であったが、若き当主は張り切り、陣頭指揮に乗り出している。

「普請小屋は市ヶ谷、江戸川(神田川中流部)、桜馬場など五箇所に建てられておる」

 安定は台地の森を指した。

「この向こうが桜馬場だ。このあたり、馬場と湯島天神の飛び地が入り組んでいる」

 森に囲まれているので、桜馬場の普請小屋は視界に入らない。安定はそちらへは背を向け、水道橋の方向へと堀沿いをたどった。

「本陣というべき普請小屋はあちらだ」

 明暦の大火で罹災し、駒込へ移転準備中の吉祥寺が水道橋の北岸にあり、その門前に普請小屋が建てられていた。小屋とはいっても、伊達家の前線基地であり、公儀の普請奉行や石奉行を接待する場所だから、貧弱な造作ではない。

 しかし、贅沢はしていない。派手を意味する「伊達者」の由来となった本家でありながら、飾り気はなく、調度品も最低限なら、通された部屋には畳も敷かれていなかった。

「陸奥守様は、ここを戦場と思し召しだ」

 安定はそう説明した。「藩」祖の政宗から三代目なら、当然、実戦は知らない。大名たちには軍事力ではなく政治的手腕が必要な時代となっている。

 豪傑肌の殿様であれ、戦に憧れるだけの苦労知らずであれ、助広は自分とはどうせ無縁の人物だと思っている。人間関係にはあきらめがよすぎる男である。したがって、伊達家当主と聞いても、緊張もしなかった。

 しかし、現われた綱宗はひ弱ではない。予想より小柄で細めの体躯ではあるが、さすがに血筋というものか、華奢というのではなく、屈強な筋肉をまとっている。そして、美形である。睫毛が長く、唇が赤い。

 許しを得て、助広は名乗った。

「津田助広でございます」

 越前守、とは称さなかった。従四位下左近衛権少将陸奥守という本物の大名の前では、刀鍛冶の官位など虚飾でしかない。

「よう来た」

 綱宗の声は柔らかく、落ち着いている。その声で侍臣たちに、

「ここはよい。仕事があるであろう。戻れ」

 凛々しく命じた。

 助広と安定を残し、人払いのあと、

「これで気兼ねはいらぬ。いいたいことを申せ」

 一直線に助広を見やった。しかし、その視線は助広を突き抜けて、遠くを見ており、どこか浮世離れしている。

「大坂から、江戸の刀鍛冶に喧嘩を売りに来たか」

「将軍家のお膝元で切磋琢磨している江戸の刀鍛冶には、かなうものではございません」

「それはどうかな。武家すなわち客の少ない大坂の刀鍛冶こそ、よほどの腕でなければ、生計を立てられまい」

 綱宗という若殿、頭は切れる。父祖の余徳に浸かっている凡庸な三代様ではなかった。大坂の武家人口はわずか一万という推算があり、江戸の五十分の一にすぎない。

「助広よ。薫が吉原にいることを聞き、そんな突飛な話があるものかと、わしのところへ確かめに来たか」

「恐れながら……。しかし、私が知っている娘は薫という名前ではございません」

「いうてみよ」

「すみの、と申します。今、十九歳かと……」

「薫の実の名がすみのじゃ。歳も十九歳。わしよりふたつ下。すみのの顔を見たくば、明日、船宿で引き合わせる」

「では、すみのは吉原の外へ出られるのですか」

「わしは薫ことすみのを身請けいたす」

「え……!?」

 綱宗の目許はあくまでも涼しい。

「女色に溺れる放埒な大名がここにおる」

「世間はそう見ましょうな」

 と、相槌を打ったのは安定である。

「しかし、苦界に墜ちた妹をお引き取りになるのは、兄として当然のこと」

 そうも、いった。

 助広は、

「何のことでございますか」

 そう尋ねるしかない。

「すみのは腹違いのわが妹。そういうことじゃ」

 綱宗は二代仙台「藩」主・忠宗の六男で、正室の子ではない。しかし、母は側室とはいえ公家・櫛笥隆致の次女・貝姫で、その姉・隆子は後水尾天皇の側室となって、後西天皇をもうけている。つまり、綱宗は伊達家においては部屋住みの冷飯食いとして育ったが、母系からすると、天皇の従弟という尊貴性を帯びているのだ。

「すみのも妾腹である。とはいえ、身売りは一族の不名誉。そんな恥を世にさらさずとも、わしが不行跡な『お屋形』になればすむこと」

 そこまでして守りたい秘密を初対面の助広に打ち明ける理由があるのか。