「雙」第6回
「雙」第6回 森 雅裕
助広は呆然と床板の杢目を見つめている。彼がついていける話ではない。すみのは大坂での彼の幼馴染みである。それ以外のすみのなど知らない。
「私が存じているすみのは、興光という職方の家におりました。それが今、吉原で薫と呼ばれ、陸奥守様の妹君であると仰せられますか」
「いかにも。わが父、大慈院様(伊達忠宗)の情けを受けた女子が――あきの殿というたな――奉公を終えてまもなく、産んだ娘じゃ」
助広の知るすみのは、興光の妻の連れ子だった。その妻の名は記憶にないが、伊達家先代の手つきだったというのか。そのような貴種がどうして苦界へ身を売るはめになったのだろうか。興光は彼女の血筋を知らなかったのか。大名家ゆえに騒動の火種となることを危惧して、母のあきのは口をつぐんでいた――いや、口止めされていたということは有り得るが……。
「そして、あきの殿は興光と、それ、世間でいう所帯とやらを持った。すみのを伴って、な。あきの殿存命のうちは東下を避けていたが、亡くなってから、興光は江戸へ出た。が、借金を作って、その工面のために、すみのを吉原へ沈めた。大火の年――今より三年前のことじゃ。翌年、興光は死んだようじゃが、むろんのこと、すみのは死に目にはあえなかった。義理の父娘ゆえ、どのくらい情が通っていたかはわからぬが」
「もっとも、興光の死に目にあった者がいるという話は聞いたことがございません」
と、安定が愚痴でもこぼすように口をはさんだ。
助広は低く声をしぼり出した。
「陸奥守様。長く離れ離れであった薫様が――」
薫とやらに敬称をつけるしかない
「どうして妹君に間違いないといえるのでございますか」
「会えばわかる。決め手はある。いずれ……」
綱宗はそれだけをいった。いずれ、助広にもわかるというのだろうか。
「そのような妹君がおられることは、以前から御存知だったのですか」
なら、今まで、どうして放っておかれたのか。
「行方の知れぬこと、わが父が亡くなる時に聞いた」
「それにしても、陸奥守様が自らお出ましにならずとも、御家来のどなたかの名前で落籍(ひか)せればよろしいのでは……」
「そうした卑怯未練な大名ではありたくない」
この程度の方便を卑怯未練というのだろうか。潔癖さは政治の世界ではたいした役には立たない。助広は、この青年大名と伊達家の将来に少々不吉なものを感じた。むろん、後年の「伊達騒動」など予見できるはずもなかったが。
「陸奥守様がこのようなお家の事情を私ごときに打ち明けてくださる理由がわかりかねます」
「お前は薫の――いや、すみのの幼馴染み。それが理由じゃ」
「それはつまり、面通しをせよとの仰せでございますか」
「うむ」
伊達家の血筋であるかどうかはともかくとして、すみのと薫が同一人物か否かを助広に確認させようというのだ。助広の記憶にあるすみのは九歳の少女だが、面影くらいは見出せるだろう。
苦界に沈んだ幼馴染みを目にするのは気分のいいものではなさそうだが、助広はもう後戻りできない。
「では、吉原におられるということは、どうして御存知になったのですか」
「伊達家当主となって以来、気にかけていたが、ようやく興光の兄にたどり着き、興光に多額の借金があったことは突き止めた。そんな男に娘がいれば、行方は想像できよう。評判の美貌であったそうじゃからの」
「兄とは……興里虎徹でございますか」
その名を出すと、
「この助広は昨日、興里虎徹の仕事場を訪(おとな)ったようでございます」
安定が補足した。
綱宗の細い顎が、やや上を向いた。
「何か刀作りの秘伝でも盗み見たか」
「そのようなことは別に……。しかし、いささか気になるものを目にいたしました」
「何か、それは」
「枡です」
「枡……?」
「刀身彫刻など行なう工作場に、二つ三つございました。台所にあったならば米でも計るのでしょうが……」
「そんなものが気になるのか」
「虎徹師は下戸とも聞き及びます。酒を酌まぬなら、枡を何に使うというのか……」
「そんなことに着目するからには、何に使うかを知ってのことであろうな」
「鐔作りに使うのでございます」
「鐔……? 枡を、か」
「鐔は肉置きや面取りが命、と申します。特に耳(外周の縁)は目立ちますので、素人の目にも上手下手がわかります。この部分に一定の角度でヤスリがけを行なうために、鐔を枡へはめ込むように斜めに入れるのです。そうすれば、工作中の鐔は安定します。場合に応じて、通常の一合枡ではなく浅い枡を使うこともあります。虎徹師のところには、上部を切り取った枡もありました」
「なるほど。枡を使うとは面白い」
笑っても、綱宗の端整な顔立ちは崩れない。
「面白いのは、つまり余人が考えつかぬ工夫だからでございます」
「ふむ。なら、どうしてお前にはわかったのか」
「以前に枡を使う職方を見たことがございますゆえ。長曽祢興光です」
「虎徹の弟ならば、技法を教え合うこともあったのではないか」
「しかし、虎徹師のところにあったのは京枡でした」
織田信長、豊臣秀吉が容積の公定を図った京枡だが、江戸には江戸枡があって、一定していない。京枡に全国統一されるのは寛文九年(一六六九)のことである。その京枡も豊臣時代の古いものは若干小さい。
「ちらりと見ただけですからはっきりは申せませんが、古いもののようでした」
「ふむ。江戸枡でないとなると、その枡は興光が上方から持ってきた遺品ということも有り得るが……」
「とはいえ、安定師匠」
と、助広は寄せた眉を安定へ向けた。
「虎徹師はなかなかに器用な人物のようですが、鐔をも作るのでしょうか」
「刀工が鐔を作ることは昔からある」
古くは、刀を一本打ち上げるごとに刀鍛冶自らがハバキ(刀身と鞘を固定する金具)と鐔を鉄で作り、添えることがあったようだ。分業が進んだ江戸期でも刀鍛冶が鐔を作ることはあるが、あくまでも余技である。したがって、武骨すなわち素朴を身上としている。本職の金工のような濃密な彫刻はもちろんやらないし、肉置きや面取りも精巧なものではない。
助広は鐔は作らない。余技に精を出す暇があったら、刀作りを研究したいと考えている男である。これは性格の問題であって、職人としてどちらが正しいかの問題ではない。
「虎徹は多芸を誇るところがあるから、枡を使って、精巧な鐔を作ってもおかしくはない。あの男の刀身彫刻を見ると、見事なものだ」
安定が、いった。
「昔から器用な職人ではあったわけだが、もはや余技の域を越えている」
綱宗も涼しい目許を助広へ向け、説得でもするように、いった。
「余技ではなく、本職かも知れぬな」
「刀工ではなく金工かも知れぬということでございますか」
「今の虎徹は興里ではなく興光……という風聞が立つのも無理からぬことじゃ」
綱宗の耳にも達しているらしい。となると、もはや一笑に伏すべき風聞ではない。
「興光師の墓所はどうなっているのでしょうか」
「興里虎徹の住む池之端近辺なら、上野山内が手っ取り早いだろうが、東叡山の諸院は天台宗だ。長曽祢の一族は法華宗ゆえ、ここらではあるまいな」
と、安定。過去帳も疎漏なきものでは到底なく、墓所だからといって、埋葬の記録が残っているとは限らない。
「しかし……わかりませぬ。どうして兄弟が入れ替わらねばならぬのでしょうか」
助広は低いところから疑問を口にしたが、綱宗は、
「まあよい」
と、一言で振り払った。
「薫が吉原を出たなら、虎徹にも会わせればよい。他人に見分けがつかずとも、興光に育てられた娘ならわかるはず」
めまぐるしいほどに、行く先々で話が飛躍する。これが江戸という土地柄なのか。助広は綱宗の屈託ない微笑の前で、頭を下げるしかできない。
二・地鉄研
翌日は寛永寺で御前鍛錬の最終準備をすませたあと、助広は三善長道と肥前忠吉に誘われ、山野加右衛門を訪ねた。
このあと、助広は吉原からの帰り船を迎えに出向くことになっている。が、黙っていた。とはいえ、気になることがあった。あるいは加右衛門なら、何か教えてくれるかも知れない。
加右衛門の屋敷は本所に開削されたばかりの横川の東岸にある。白戸屋の寮がある隅田川寄りの地域とは、同じ本所とはいっても格段の差があった。まだ沼地と田畑が多く残り、ところどころに雑木林がわだかまっている、そんなところだ。閑静というより陰鬱なたたずまいだった。
長道の声がそんな空気の中に響いた。
「虎徹も以前は本所に住んでいたという。神田鍛治町にもいたらしい。落ち着かん男だな」
「本所には山野加右衛門。神田には大和守安定。行く先々でそうした知己を作り、さっさと離れる。それが虎徹の生き方なのだろう」
と、助広。
忠吉はそんな会話には加わらず、破れた黒板塀の先に現れた門構えを見ている。
「人斬り屋敷と近所では呼ばれているらしい」
忠吉は、いった。が、けろりとしている。
「誰も近づかない」
加右衛門は公式にも首斬りではなく人斬りと呼ばれている。
助広は開け放しの門を先頭に立ってくぐった。
「なのに、新三郎さん、藤四郎さん、どうして近づく?」
「俺たちは刀鍛冶だ。刃味の奥義を授けてもらわねばならん」
そういったのは長道だ。のちに彼が「会津虎徹」と称揚されるのも、本家の虎徹と同じく山野加右衛門及び養子の山野勘十郎による実用面での指導の賜物である。
江戸後期の柘植平助方理の『懐宝剣尺』及び山田浅右衛門吉睦による『古今鍛冶備考』の刃味位列では、忠吉、長道はともに虎徹と並んで第一位の最上大業物に列せられ、助広はどういうわけか青年期の楷書銘の作が大業物(第二位)、壮年期の草書銘の作が業物(第四位)という評価にとどまっている。もっとも、この位列は刃味を称揚される安定が良業物(第三位)でしかないという、いささか偏向した内容ではあるが。
名門の三代目ともなると、愛敬を振りまかずとも世渡りできるのか、忠吉は求道者風だ。それに対して、長道は垢抜けている。むろん、忠吉に比べれば、という程度ではあるが、丸顔に稚気が残り、親しみやすい容姿の持ち主だ。声もいい。芸能面での才能がありそうだ。
「無抵抗な肉塊を斬り刻んだところで、刀としての評価のすべてが決まるものかね」
「何を斬るかによって、刃の固さ、刃角のつけ方も異なる。人体ばかりが相手とは限らん」
「それはそうだ。戦となれば、相手も得物を振り回して抵抗する。打ち合った場合の強靱さも刀の値打ちだろう。刃味が悪くとも、鉄棒で殴れば、人は倒れる」
「大体、人を殺すなら、斬るより刺す方が確実だ。斬れ味なんぞ、たいした意味はない」
こんな話をしている刀鍛冶たちも充分に「誰も近づかない」人種だった。
玄関で案内を請うと、屋敷内には思いのほか、人気(ひとけ)があった。加右衛門には後継者・勘十郎ばかりでなく門人たちがいる。
牢人とはいえ、旗本並みの拝領屋敷である。荒れてはいるが、広い庭で、彼らは巻き藁を斬ったり、太い木刀をふるい、土壇へ撃ち込む稽古をしていた。山野家では、朝三百回、夕八百回、首をはねる稽古をするという。
山野勘十郎成久(のち久英)は二十六歳。養父にもまして、肩の筋肉が発達している。彼が手にしていた抜き身を見せた。刃先の鉄色が生々しい。
「寝刃(ねたば)を合わせてある」
刀は磨き上げた状態で使うものではない。刃先に微細な疵をつけた方が、摩擦係数が減り、刃味は向上する。そのため、実用の前には刃先に軽く砥石をあてる。それが寝刃である。理屈ではそうなのだが、助広の経験では、磨き上げた刀と格段の差はない。
「斬る対象によって、寝刃にあてる砥石の角度を変える。また刀によって、砥石の使い方も違う。備前物は名倉砥で大筋違いに研いだ上を合わせ砥で仕上げ、相州物は名倉砥で研いだあと、合わせ砥で横に――」
勘十郎の説明を忠吉は熱心に聞いているが、長道は稽古の方法に興味があるらしく、門弟から太い木刀を借りて、振り回している。気鋭の刀工たちは貪欲に何かを吸収する気だ。
助広は彼らからやや距離を置いていた。この屋敷の主、山野加右衛門も門弟たちから離れ、
「……その気にならぬ刀鍛冶はおらぬ」
二日前、寛永寺で聞かされた言葉を繰り返した。「気が変わったら、いつでも拙宅を訪ねられよ」という誘いのあとの言葉だった。
「やはり来たな、おぬしも」
いいながら、池を見ている。多くの巻き藁が放り込んである。青竹を人骨に見立てて藁を巻き、これに一晩、水を吸わせると、ほぼ人体に近い手応えになるのである。
「助広殿。手を貸してくれるか」
それを引き上げるのを手伝わされた。そして、台に立てる。江戸前期には横たわった死体ばかりでなく生きた罪人でも試し斬りを行なうので、相手が立っている場合も想定しているのだ。
助広は周囲に人がいないのを見計らい、いった。
「虎徹師が小伝馬町で打ち首になったという話を聞きました」
「…………」
「二年前だとか。もしや、山野様が御存知ではないかと、こちらへうかがったのですが……」
「虎徹は今、生きておるではないか」
「はい。ですから、それが――」
「わしはな、すでに六千の首を斬った。勘十郎にお役を譲るまでには、あとどれほど斬ることか。どこの何者を斬ったか、いちいち覚えてはおられぬ」
「…………」
「虎徹が刑死したなら、その工房が今なお鍛冶職を続けているというのもおかしな話だ」
「そうです。連座しそうなものですが」
「もっとも、罪の軽重はお上の裁量だ。町人の場合は連座もさほどきびしくはない」
『公事方御定書(御定書百箇条)』の成立は八代将軍・吉宗の寛保年間で、それまでは前例に従う慣習法である。
気づくと、長道が思わぬ近くにいた。
「杏子の木が何本も植わっていますね。実を取ってもよろしいですか」
そのあとに続けた。
「山野様はお役目とはいえ、罪人につながる身内――女、子供もお斬りになるのでしょうな」
長道の言葉は遠慮がない。しかし、どういうものか、表情の豊かなこの男には、憎めない空気がある。加右衛門も気にさわった様子はない。
「そうよな。女、子供も数知れず斬った。誰もが知っている例をあげれば、慶安の変だ」
天下を震撼させた由比正雪を首魁とする謀反事件である。慶安四年(一六五一)七月。三代将軍・家光が薨じた三カ月後のことだ。
正雪は駿河出身の楠流軍学者で、神田連雀町に道場を開いて、旗本や大名家臣の声望を集めた。彼は幕府の牢人対策を憂えていたという。
幕府転覆の壮大かつ無謀な計画は――一味は二手に分かれ、正雪自らが駿河の久能山を攻略し、駿府城も乗っ取る。江戸では塩(煙)硝蔵に火をかけ、江戸の町々にも火を放つ。あわてて登城する幕閣をも襲撃する、というものである。しかし、直前に訴人する者たちが相次ぎ、正雪は駿府の宿を包囲されて、自害した。
「一味の身内、三十数人が鈴ヶ森と小伝馬町で処刑された。磔になった者もいたし、打ち首となった者もいる。二歳、五歳という子供たちも目こぼしされなかった」
その幼児の首を加右衛門がはねたのだろうか。さすがに、それは訊けなかった。
加右衛門はしかし、明瞭な声で、いった。
「この屋敷が抹香臭いのは、年中、仏壇の罪人どもに焼香しているからだ」
「実の成る木が多いのも、その匂いで抹香臭いのをごまかすためですか」
と、長道。ちぎった杏子の実で、左右の袂をふくらませている。
「果実は止雨殿の菓子用だ。杏子は果肉をつぶして、寒天に交ぜ、竹の皮に延ばす。あるいは砂糖漬けにする」
助広は加右衛門に尋ねた。
「止雨殿はおいでですか」
彼は山野家の居候と自称していた。
「ほお。助広殿はあの菓子師に関心がおありか」
「いささか」
「裏の離れが止雨殿の住まいになっておる。が、今は来客中だ」
「どこぞの茶の宗匠でも……?」
「下総佐倉の堀田上野介様の御用人だ。この屋敷に大名、旗本の使いは珍しくないが、わしよりも止雨殿を訪ねる方が面白いらしい。刀の試し斬りを依頼すると、その足で離れの方へ行ってしまう。おぬしら、止雨殿の菓子が目当てなら――」
加右衛門は門弟に命じて、菓子を運ばせた。紙に包んである。
「これを進ぜる。羊羹だ。室町の頃より伝わる、小麦粉と赤小豆餡を練ったあとで蒸すものではなく、赤小豆に砂糖と心太を合わせて煮た新しい試みだ。ただし、茶は出さぬゆえ、持ち帰って食されるがよい」
人斬り山野加右衛門、変わった男だった。
「近江国長曽祢庄には、晒し屋の井戸というものがあるそうだ」
唐突に、そういった。
「晒し屋……?」
「染物屋のことだ。由比正雪は駿河由比の染物屋の倅だが、その父がもとは長曽祢の住人で、石田三成の佐和山城が落城した折、多くの職人と同様、他国へ逃げた。その父が使っていた井戸だそうな」
正雪は駿河、虎徹は越前の生まれだから、むろん、二人に直接の接点はない。しかし、両方の親が長曽祢の出身というのは、何かの因縁なのだろうか。
「斬ってみるか」
加右衛門は巻き藁を立て並べ、離れていた忠吉も誘った。三人の刀鍛冶は普段の差料としている自作脇差を持参している。交替で斬った。そして、それぞれの作について、加右衛門からいくつかの指導を受けた。
その帰り道で、
「有意義な訪問だった」
忠吉は素朴に目を輝かせていた。
「ところで、二人は山野様と何を話していた?」
「杏子の食い方を教わった」
長道はそう答え、助広は、
「長曽祢の井戸の話だ」
簡単に、いった。
「それは焼入れによい水質の井戸の近くには杏子の木が育つというようないい伝えか何かなのか」
「違う」
助広と長道の返事が重なった。