「雙」第18回

雙 第18回 森 雅裕

「ところで――」

 食い終わり、器を返すと、隅田川沿いに二人は歩いた。

「薫の身の上は聞いたかね」

「父親が病気で、薬湯代やらの借金があって、身売りしたのだと……。その甲斐もなく、父親は亡くなったようです。薫は進んで身の上話をするようなことはありませんでしたが、遊郭で金をばらまけば、いろんな話を聞かせてくれる者たちがいます」

「遊郭には限らない、それは」

 助広は春蔵と名乗った若者を江戸橋まで送った。親切心からではなく、家業の橘屋とやらが嘘ではないことを確かめたのである。刃物を振り回す男に対しては慎重にならざるを得ない。水路(日本橋川)の南岸にある春蔵の店は材木問屋だった。

「江戸は火事が多いようだ。材木商は忙しいな」

「このあたり、材木商が多かったのですが、深川を貯木場とするのがお上の方針。うちも近く移転いたします」

「材木が罹災せぬように、か」

「鉄と違って、材木は焼け跡から拾い集めるわけにいきませんから」

「それはそうだ……」

 助広はわずかに歯を見せたが、すぐにやめた。口を尖らせるような訝る表情となった。

「江戸では、古鉄が手に入りやすいということかな」

「いえ。火事場で焼け釘など買い集めることは、禁止となっております」

 以前、大和守安定からもそんなことを聞いた。禁令は承応元年(一六五二)。つまり、明暦の大火の五年前である。

 春蔵は寄っていかぬかと名残惜しげだったが、助広にその気はなかった。今夜は傷心を癒すための話し相手が欲しいだろうが、明朝になれば、恥をさらした相手がうっとうしくなる。そんなものだ。

 春蔵は何度となく助広へ頭を下げ、潜り戸の向こうへ消えた。

 

 春蔵と別れた助広は、胸の奧がささくれ立ってしまっていた。嫉妬だった。誓詞が不実なものだったとしても、あの男が薫ことすみのと身体を交わしたことは現実だ。

 成長したすみのを知らない助広だが、まさのの容姿と重なった。すると、助広が嫉妬する筋合いでもないのに、痛みとも重みともつかない感覚に突き上げられた。

 そんな気分を逸らすべく、夜道を歩きながら、思案した。

 本阿弥光温に見せられた刀の銘「天一止雨下在餘名」は、止雨の名前に注目すれば、これに前後の文字を組み合わせることに気づく。天つまり上に一を加えれば、止は正。続く文字が雨冠なのだから、この人名はもはや想像がつく。雨の下の餘は片仮名でヨ。

(正雪……)

 その名からは謀反人しか思い浮かばない。あの刀は虎徹と由比正雪の合作だ。正雪が事件を起こして自殺するのは慶安の末である。虎徹は慶安の初めに江戸へ出たというのだから、時期的には合う。父親がともに近江国長曽祢の出ということで、何かの因縁があったのかも知れない。

(となると、残るはもう一本……)

 安定のところで見た脇差銘「絃唯白色――」の方はもっと銘文が長く、こんなことになるとも思わなかったから、記憶していなかった。ただ、これも推測はできた。確認するのは気が進まなかったが。

 

 白戸屋の寮まで戻ってくると、裏庭から台所へ入った。まさのは大抵ここにおり、助広も台所から出入りする習慣になっている。まさのは何やら放心した様子で座っていたが、眼光だけは強く輝いていた。

「どうした? 怒り疲れたような顔をしているぞ」

「お屋形様が……」

「陸奥守様が?」

「隠居なさったと、今しがた知らせが来ました」

「え?」

 これより先立つ万治三年七月十七日、伊達家一門、重臣たち連判による綱宗隠居願いが老中へ提出され、早くも翌十八日には酒井雅楽頭邸に伊達兵部、立花忠茂、茂庭定元、原田甲斐らが呼び出され、綱宗の逼塞すなわち隠居が申し渡されていた。綱宗本人には寝耳に水というべき政変であり、まさのがその知らせを受けるにも数日を要したのである。

 伊達家内部にはお屋形様に対抗する勢力もある――。御船蔵にすみのの死体が浮かんだ時、まさのはそんなことをいっていた。その名前までは口にしなかったが。

「先日、江戸家老と普請総奉行が連署して、お役御免を願い出たので、不穏な空気は感じていましたが……」

「で、どうする?」

「今さら私が駆けつけたところで何ができるでもなし、お屋形様の側近も粛清に怯えているでしょうから、屋敷に近づけるかどうかもわかりません。とりあえず、明朝、様子を見てきます」

「安定・安倫の師弟はこのことを知っているのかな」

「知らせに来たのが安倫さんです」

「そうか」

「ししゃますししゃます、とお経のように唱えながらお帰りになりました。大変だ大変だ、そんな意味です」

 江戸滞在も終わり近くになって、殿上人のお家騒動を身近に聞くとは思わなかった。しかし、助広の覚悟は決まっている。今さらではなく、まさのをこの寮に同道したあたりから決まっていた気さえする。

「助直は……?」

「白戸屋さんの若い者の案内で、湯屋へ。師匠が公方様献上の短刀をお打ちになると聞いて、骨など砕けてもかまわぬから、先手をやりたいとか」

「あれはうちの一番弟子だ。養生してもらわねば困る」

「鉄にさわるのが何よりの養生だとかおっしゃるもんで、公方様鎚入れの鉄を鼻先に置いて差し上げたら、まるで猫にマタタビ……」

 家綱が鍛錬を手伝った南蛮鉄は床の間に鎮座している。助広にしてみれば、邪魔にならない場所へ押しやっただけだが、白戸屋善兵衛が小さな座布団を敷いて、飾っていた。このまま置いておくと、神棚まで作りかねない。

「あの若旦那に聞いたんだが、薫――すみの殿の育ての父は病気だったらしいな」

「興光ですか」

「む。薬石効なく死んだことになっている」

「そんなことが気になりますか」

「今の虎徹師の正体が興光師なら、娘を売り飛ばさなきゃならなかったほどの病人には見えない」

「遊女の身状話など、あてになるものですか」

「ところで、妙なことを訊いてもいいだろうか」

「どうせ訊くんでしょう。何です?」

「由比正雪という謀反人は尾張家と何か関わりがあっただろうか」

「またほんとに妙なことですね。どうして私に……?」

「ここにはとりあえずお前しかいない」

「尾張様ではなく……正雪の謀反のうしろだてが紀伊様であった、という噂は御存知でしょう」

「聞いたような気はする」

 大坂でも正雪に党与する者たちの捕り物騒ぎがあったとはいえ、助広である。そうした情報には疎い。

 正雪はその遺書の中で、紀伊家の名前で人を集めたが、実はどこからも扶持は受けていない、とわざわざ弁明している。

「紀伊大納言様御名ヲ借不申候へは、謀計難成故、御扶持之者と申候――」

 しかし、これはむしろ藪蛇であった。紀伊家当主・徳川頼宣は剛毅をもって鳴り響いた人物で、逸話も多い。

 水軍の演習を大々的に行なったことが江戸に聞こえ、家臣たちはとがめられることを心配したが、ここで中止しては本当に演習ということになる、このまま続けて、船遊びとして押し通してしまえ、と強行した頼宣である。

 また、頼宣は改易された福島正則の遺臣を召し抱え、重職につけた。批判する者もあったが、新参者を重用することで、天下の有能な牢人が馳せ参じるであろう、と深読みする声もあった。もっとも、寛永末には紀伊家も余裕がなくなり、加須屋左近(武成)を含む家臣たちの召し放ちが行なわれるのであるが。

 そうした頼宣であるから、公儀には不気味な存在ではあった。公儀は喚問を行ない、正雪の遺品から出たという頼宣の書状まで突きつけたが、頼宣の釈明は堂々たるものであった。

「かの徒党人らが外様大名の判に似せて謀計を行なったならば、その大名が逆心を企てたかと疑心暗鬼にもなるところであるが、わしの判に似せたるは偽書とわかりきったこと。この判は天下安泰のもとである。めでたし」

 そういい放ち、煙に巻いた頼宣ではあったが、翌年には印章をあらためた。正雪が頼宣の印を詐謀したからである。さらに紀伊への帰国を十年禁止されたともいわれる。

 実はこれに先立ち、紀伊家家老の牧野兵庫頭長虎が、頼宣に謀反の心ありと公儀へ提訴する事件があった。慶安三年(一六五○)十一月、頼宣は長虎を領内の田辺城下に幽閉したが、この長虎こそが紀伊家と正雪の仲介役だったとする説がある。長虎に関わった家臣たちは切腹したともいうし、長虎の幽閉は表面上のことで、実は厚遇されていたともいう。

「噂のいい加減なこと、仙台高尾の件で、おわかりでしょう」

「噂といえば、酉年の大火は正雪一味の残党の仕業という流言が飛んだと白戸屋はいっていたが、残党というより、正雪本人が生きていたということはないかな」

「……何です?」

 謀反が発覚した由比正雪は、役人に包囲された駿府の宿で、自刃した。慶安四年七月二十六日のことである。この宿「梅屋」は町年寄の邸宅だったともいい、紀伊家の定宿であった。一行のうち、正雪と死をともにした者が七人。二人が捕縛された。首は阿倍川原に晒されたが、正雪の顔が公儀役人たちに知られていたわけではない。正雪一行の死体数が合わず、湯殿や雪隠まで探し回ったという報告もある。

「いや。遊女の薫は生きているかも、と考えたあの若旦那を見ていると、ふと由比正雪も生きているかも、と――」

「冗談でもいうべきことじゃありません。一族郎党、地の果てからも探し出され、ことごとく打ち首、獄門になった天下の大罪人ですよ」

 まさのの剣幕に、助広はあとずさりしそうになった。

「まさの殿」

「何ですか」

「先手の向こう鎚を頼みたい。短刀一本くらいなら、お前の細腕でもなんとかなるだろう」

「……自慢の一番弟子はどうなさいますか」

「あの足では、大鎚を持って、踏ん張ることはできまい。汚れても、一人で風呂にも入れぬのでは困る」

「虎徹師のお弟子たちが手伝ってくれるのでは……?」

「私はお前に手伝って欲しいのだ。むろん、陸奥守様のことが気がかりでそれどころでないなら、無理強いはしない」

 まさのは吐息をつき、いった。

「わかりました。働いていた方が気が紛れます。微力ながら、向こう鎚をつとめさせていただきます」

 

 翌朝、助広は助直を伴って池之端の虎徹の鍛錬場へ直行し、まさのは愛宕下の伊達屋敷へ走った。鍛錬場で合流したが、綱宗の所在さえつかめなかったようだ。

「広大な屋敷ですからね。伏魔殿で何が起きていようと、気づかぬ家臣もいるようです」

「噂や流言などは遠くに届いても近くには聞こえぬものだ」

「虎徹師には聞こえているでしょうか」

「ああいう人だから顔には出さない。こっちも黙っているさ」

 鍛錬場では、仕事以外の話題など無用の緊張感が漂っている。

 二人は日が暮れるまで、口を閉ざして汗と炭塵にまみれた。間近に興正ら若い弟子たちの仕事ぶりは充分に見ることができた。しかし、虎徹自身が刀を作っているのを見ることはなかった。

 ただ、刀身彫刻の技は目のあたりにした。鍛冶押し(荒研ぎ)を終えた脇差をヤニ台に固定し、大黒天を彫っていた。もともと大黒は武神だが、虎徹が彫る大黒は俵に乗って小槌を掲げた福神である。虎徹の彫刻は倶利迦羅、神仏、人物、いずれも力強く見事なものだ。

「虎徹師の刀なら、彫刻で飾らずとも、高く評価されるでしょうに」

 思わず、助広はそう洩らした。が、虎徹の眉間に刻まれたシワは深いままだ。

「助広殿と違って、わしは若くはない。高い評価とやらを一日も早く得なければならぬのだ。人目を引くには、派手なことをやらねば、な。名前さえ売れれば、やめるさ」

 この商売っ気を軽蔑はできない。職人は他人とは違う自分の特徴を世間に訴えねばならないのだ。

 一日で、助広は鍛錬と素延べまでを終えた。同行した弟子の助直は足手まといでしかなく、どうせ翌日も仕事があるので、

「厠に一人で行けるのであれば、泊まってもかまわん」

 といってくれた虎徹の仕事場の隅に置き去りにした。

「以前、厠で自殺した弟子がいてな」

 おそらくは冗談だろうが……。

 

 本所の寮へ戻ると、白戸屋善兵衛が裃姿で端座していた。

「どうした? そのなりは。江戸の盂蘭盆会はそんなに居住まい正して、祖霊を迎えるのですか」

「いえ。盂蘭盆会は着流しに羽織というのが慣例で……あ、いや、盂蘭盆会には遅うございます。とうに過ぎました。お座りなさい、助広師匠。そこへお座りなさい、早く」

「何事ですか」

「今日を何の日だと思し召しですか」

「はて……」

「紀伊様、尾張様へのお呼び出し、昨日のうちに連絡がございましたな。茶会という名目ではございますが、実は刀を献上されたお返しが下されるということで」

「ああ……」

「ああ、じゃありません。師匠もまさの様も助直さんも、朝早くから仕事着持ってお出かけになったと知らされ、仰天いたしました。やむなく、師匠は急病ということで、私が冷や汗まみれになりながらも、名代として御両家におもむく名誉にあずかりました。それにしても、子供じゃあるまいし、挨拶が苦手で逃げ出すとは、どういう料簡――」

「何をいただいたのですか」

 まさのがにこやかに、善兵衛をさえぎった。座敷の奥には、それらしい箱が鎮座している。

「紀伊様からは白銀十枚と織部のお茶碗、尾張様から白銀十枚と光悦のお茶碗です」

「茶道具か……」

 箱から出し、並べた。

「師匠のまわりには、まさの様しか茶を解しそうな風流人はおりませんなあ……。何なら、私がずうっとお預かりしても――」

「お客だ」

「は……?」

 助広は開け放しの縁側を指した。足音が近づく。寮の使用人が顔を見せた。

「刀鍛冶の長道様、忠吉様がお見えですが」

 善兵衛は顔を輝かせた。御前鍛錬の名誉ある刀鍛冶の来訪だ。粗末な徳利で安酒を持参するような連中だが。

「われらは明朝には江戸を発つ。別れを惜しみに来た」

「お二人は公方様から何を賜ったのでございますか」

 と、善兵衛。

「白銀十枚と焼け跡から拾ってきたような薄汚れた墨跡だったな」

 と、長道。

「生嶋なんとか所持とか、以前の持ち主の未練たらしい箱書がある虚堂とやらの墨跡です」

「生、生嶋、ええええっ、虚堂! それはもしや大坂城落城の折に焼けたといわれる――」

「同じく白銀を賜った。それからひび割れた竹製の花入です。あれじゃ水漏れするだろう」

 と、忠吉。

「あ。それはもしや利休が韮山竹を用いて作ったとかいう――」

 善兵衛は目を見開き、口を尖らせたが、じきにあきらめを浮かべた。刀鍛冶という人種――彼らは助広と同類なのだ。

 首を振りながら善兵衛が席をはずすと、長道は徳利の栓を抜いた。忠吉が、目についた茶碗を膝元に置いた。麗々しく飾ってあった拝領の茶碗だ。

「そいつは光悦の茶碗だそうだ」

「本阿弥の一族か。研ぎ屋の落ちこぼれが作った茶碗なんぞ有難がる刀鍛冶があるか」

 無造作に酒を注いだ。長道も織部の茶碗で酒を受けた。

「仙台の方はえらいことになっているようだな」

 長道は、ボソリといった。助広の表情を見た忠吉が、

「何だ。ただの噂かと思ったら、ほんとのことだったか」

 そうはいったが、追究しなかった。

「俺らには余計なことよ」

 彼らの興味はまったく別のところにあった。

「甚さん。公方様へ短刀を献上するそうだな」

「もう噂になっているのか」

「うまくいけば世渡り上手の刀工と陰口を叩かれ、失敗すれば二流工だと笑われる。意味のない冒険をするものだ」

「そういう性分だ。それに私はおぬしらのように主家持ちではない。気楽なものだ」

「おぬしのことゆえ、下手は打つまいが……。研ぎはどうする?」

 打ち上げた短刀を本阿弥光温に研がせるのは気が進まなかった。しかし、

「将軍家献上となれば、そのお抱え研師の顔を立てぬわけにはいくまい」

「甚さんはやはり、筋を通したがる性格だな。気をつけろ。光温は余計なことをするぞ」

 刀鍛冶にしてみれば、刀の作品管理は刀鍛冶が主、研師は従であるべきものだが、研師の多くは逆に考えている。刀鍛冶の意図よりも自分の美意識を優先させる研師もいないわけではない。今回の御前鍛錬でも、光温が研ぎを担当した刀鍛冶の間では、そうした不満が――まさのの手回しの甲斐あって、助広はさほどでもなかったが――少々出ていた。

「わかっている」

 まさのが人数分の盃ではなく湯飲みを運んできたが、刀鍛冶たちは見向きもしない。数物の陶磁器でさえ、庶民には縁のない時代である。が、彼らは天下の名器で飲んでいる。

 まさのは竹編みの弁当箱をふたつ差し出した。

「明朝のお発ちなら、途中でお召し上がりください。饅頭です。蔬菜の煮たものを入れてあります」

「おお。有難い」

 と、長道と忠吉は両手で押しいただいた。

「まさの殿の菓子なら、今評判の止雨よりもうまい。――さ、飲んで」

 長道は名器を空にし、まさのに押しつけた。

 厠へ向かう忠吉を助広が案内すると、

「甚さん」

 縁を歩きながら、肥前鍛冶は低いがまっすぐな声を発した。

「まさの殿とどこかで会ったといったのを覚えているか」

「ああ」

「思い出した。外桜田の佐賀鍋島屋敷で会っている。四年ほど前だ。親父の名代で、病床の泰盛院様(鍋島勝茂)を見舞うために江戸へ来た。その時だ」

「鍋島屋敷に……あの娘がいたのか」

「今回、気になったので、屋敷の知り合いに尋ねたが、名はまさの殿ではない。すみの殿といった。行儀見習いだろうが、それにしちゃ早くから奉公にあがっていたようだ。何か事情があったのかも知れん」

 確かに事情は匂う。すみのは金工の家に育っている。職人の家族は舌が肥えているので、質素を旨とする武家の食卓に耐えられず、大体、ガラもよくない職人の子は武家屋敷にはあがらせてもらえないものなのだ。それが鍋島屋敷にいたとは……。

「三代忠吉。たいした覚えのよさだ」

「美しいものは忘れぬ。人でも物でも。向こうは覚えておらぬらしいが」

「すみの殿はまさの殿の双子の妹だ」

「なるほど。それなら、覚えていない道理。俺の誇りも傷つかずにすむ」

 朴訥な匂いのするこの男には、精一杯の軽口だ。似合わない。

「四年前といったな」

「明暦二年の暮れだ。俺が江戸を発った翌月、大火が起きた」

 すみのが吉原に沈んだのは大火の年だったと以前に伊達綱宗は語っていた。

 鍋島勝茂は大火後まもない明暦三年三月に没している。

「泰盛院様は床を脱けて、火事を検分され、兵火ではない、と家臣たちを落ち着かせたという話がある。しかし、具足を身につける家臣たちもいたそうだ」

「つまり、謀反の兵火だと思ったのだな、家臣たちは」

「何かを予測していたのかも知れぬ」

「村正を大事にするような御家中だからな」

「おかしなことをいい出しそうだ。この話はやめだ」

 座敷へ戻ると、長道は背中を向け、ぼんやり庭を見ている。

「泣き上戸みたい」

 まさのが、いった。

 なるほど、長道は目許を拭っている。そう飲んでもいないのに、安上がりな男だ。涙声で、いった。

「おぬしらのことは忘れぬ。俺が鍛冶屋として大成したら、おぬしらとこの夏、切磋琢磨したおかげだ」

 後世、どういうわけか長道は助広の弟子という巷説が流れる。会津と大坂に離れ、作風も似ていない二人に世間は共通するものを見るのである。

 長道は濡れた目で天井を仰いだ。

「泰平の世になれば、刀鍛冶なんぞもう流行らぬ。この稼業で陽の目を見るのは、俺たちが最後かも知れぬ」

「そういうことだ。次の動乱の時代まで、われらの後継者には耐え忍んでもらわねばならん。が、子や孫のことなど知ったことか」

 と、忠吉。 

 とはいえ、彼らの後裔は幕末明治まで家業を重ね、三善長道、肥前忠吉の名跡はともに九代に至る。津田助広は五代まであるとはいうものの、三代以降の作品は確認されない。つまり、ここにいる二代目で、実際には終わる。

 助広が江戸で出合った裏のない人間は、この二人だけだった。

 

 短刀は制作二日目の夜には焼入れまで終えた。虎徹一門が舌を巻く助広の早業だった。屋内でも常時たばさむことができるよう、刃長は一尺近い寸延び短刀とした。江戸の前・中期には、泰平の世を象徴して、刀工たちは短刀を制作することがきわめて少ない。そもそも短刀という言葉さえ使われることが少なく、本阿弥の折紙でも脇差または小脇差と表現している。

 問題の研ぎであるが、本阿弥光温を訪ね、

「肉を落とさず、反りを伏せることなく、お願いいたします」

 深々と頭を下げて、そんな注文をつけた。「余計なこと」を危惧したのである。

「それでは、研師に何もするなというのか。渡されたものをただ磨き上げるだけにせよ、と」

 光温はもはや喧嘩腰であった。

「そのようなお偉い刀工の宝刀など、わしごときには研げぬ。恐れ多いわ。釣り合う名人をお探しあれ」

 断わられてしまえば、かえって気楽だった。本阿弥にはいくつも分家があり、幕府お抱え研師としては他に木屋、竹屋もあるが、本阿弥宗家に断わられた刀を持ち込むのは失礼というものだろう。本阿弥たち「家研ぎ」に対して、市井の研師を「町研ぎ」という。助広は、その町研ぎの評判を調べ、信頼できそうな職人に持ち込んだ。

 研ぎ上がった短刀が真新しいハバキと鞘を装ったのは、七月末のことである。普段の仕事にはもったいぶって時間をかける職人たちだが、将軍家献上となると、助広も驚きあきれるほどの早業を見せた。その分、工賃も破格ではあったが。

 受け取ったその短刀を助広はまさのに示した。杢目の地鉄に小沸え出来の互ノ目を焼いている。江戸鍛冶に触発された刃文だった。

「江戸で得た人脈を目一杯活用して、打ち上げた甲斐がありましたね」

 これから茎にヤスリ目を入れ、銘を切るのだが、

「『雙』と添え銘を入れようと思う」

 助広は、ぼそ、といった。

「何かのおまじないですか」

「二人で作ったという意味だ。お前と」

「あら」

「簡潔でよかろう」

「絃唯白色――」だの「天一止――」だのと意味ありげな長銘には食傷していた。江戸では、こうした言葉の遊びが喜ばれるのかも知れないが、助広の頭脳も性格ももっと単純だ。

 虎徹の仕事場で銘切り用の鉛台を借りた。この上で助広がタガネを打つ間、短刀は誰かに押さえておいてもらわねばならない。こういうことには、まさのは呼吸が合う。

 表に「右大臣様御鎚入 助廣」、裏に「雙」と、銘を切った。

「雙とは、公方様との合鍛え(合作)という意味か」

 虎徹はそう解釈したようだ。当然である。助広は笑って、答えなかった。

 江戸では、ふたつという数に行く先々で出会った。虎徹と興光、まさのとすみのという二組の双子、虎徹と誰かの合作が二本。その締めくくりが「雙」だ。しかし、こればかりは助広が自分で選んだ「二人」という意味の言葉である。