「雙」第12回

「雙」第12回 森 雅裕

  まさのが湯飲みを運んできた。虎徹はそれに手をのばし、

「ちっ……」

 舌打ちするように呻き、口へは運ばずに膝元へ戻した。

 助広は自分の湯飲みを取り上げた。なるほど熱いが、持てぬほどではない。まさのの横顔を、ちら、と見やった。すました鼻先を虎徹へ向けている。

 弟子が運んできた茶菓子を、虎徹は顎先で指した。

「止雨殿を覚えておろう。あの仁が作ったかりんとうだ」

「花梨糖は植物の花梨の砂糖煮だと思っていましたが……」

「字が異なる。これは小麦粉で作って、揚げた花林糖だ」

「いただきます」 

 まさのがまず口へ運んだ。味見だけだ。慎重に噛み砕いている。

 感想を待たず、虎徹は彼らを鍛錬場へ促した。

「古鉄を御所望であったな」

 鍛錬場では、弟子たちが刀の整形などやっていた。火床の火は落とされているが、熱がこもっている。

 卸し鉄は火床に素材の古鉄などを投入し、炭火をくぐらせることで、鉄が含有する炭素量を調節するのだが、溶けた鉄が羽口(鞴の送風口)にこびりつき、これをこわしてしまう。

 案内された鍛錬場には火床が三つそなわっていた。どうせこわれるのだから、使い込んで羽口の傷んだ火床を選んで、卸し鉄をやるのだろう。羽口の修理は比較的簡単だ。

 長方形の鉄塊がいくつかあった。

「わしの古鉄卸しの腕を見込まれたからには、古鉄のまま渡すこともできぬ。鍛錬はしておいた」

「それは……お手間を取らせました」

「二回だけ折り返してある。これで充分、刀に使える。それとも、古鉄をそのままお持ちになるか」

「古鉄というのは、釘やかすがいのことでしょうか」

「そう考える連中が多いが、釘やかすがいに使われる鉄は産地によって、あたりはずれがある。『好人兵に当たらず、好銑釘に打たず』というぞ。むろん、そうしたものも使わぬではないが、わしは古い刀の折れたもの、焼け身など集めている」

 そうした古鉄をつぶしただけで折り返し鍛錬せず、助広が下鍛えをすませてある鉄に交ぜ、上鍛えに回せば、肌はより顕著に出る。しかし、荒い肌になるだろう。

「せっかくですから、鍛錬されたものをいただきます」

 虎徹はおよそ六百匁(約二・二キロ)ほども寄こした。それに芯鉄用の鉄も別に渡してくれた。

「同業者だ。礼の仕方は知っているだろうな」

「私にできることなら……」

 鍛冶場の隅には何本もの作りかけの刀が立てかけてある。虎徹はそのうち一本を取り上げた。

「焼入れはすませたが、気に入らぬので、放ってある」

 薄錆の刀身を光に透かすと、刃文が浮かぶ。意外なことに丁子乱れだ。備前伝の刃文であり、虎徹の作風からは遠い。

「虎徹師はこのような刀も作られるのですか」

「地鉄と刃文を極めようと思うなら、備前伝が出発点となる。備前伝の丁子刃を会得すれば、他伝も行くとして可ならざるはなし……。違うか」

「それは……」

 助広が安定に初対面の折、いった言葉である。虎徹は安定から聞いたのか。偶然の一致か。

「もっとも、備前伝がわしの理想ではない。今どきの気風もそれを許すまい」

 江戸に限らず、全国的な作刀の流れが沸え出来の相州伝を志向している。

「匂い出来で、映りを出した備前物は曲がりやすくて、使いものにならぬ。実はそうでなくとも、そう吹聴する輩がいて、信じる者どもがいる。本阿弥だとは、わしはいわぬぞ。相州物とて折れやすいという声があるではないか。だが、わしは人気のない備前伝の作を今の世に出そうとは思わぬ。だから、おぬしの商売仇にはならぬ。安心しろ」

 研究のためだけに備前伝を試みているのか。この男、やはり職人気質の持ち主である。

「もっとも、おぬしもまた備前伝に拘泥する鍛冶屋とは思えぬが、な。さて、丁子の土取りを教えろ。それが古鉄の見返りだ」

 助広は虎徹の作に見入った。

「焼きの頭に眼鏡のような丸く抜けた部分が……ところどころ見られますな。刃側の引き土を鎬に向けて厚く塗るように心がければ、防げると思います」

「そんなことを聞きたいのではない」

「…………」

 虎徹の焼いた丁子刃は足が直線的で、味わいに欠けた。焼入れは、焼刃土という粘土を刃の部分に薄く、地の部分に厚く塗って行なう。基本的には、その境界が刃文となる。互ノ目や丁子などの細かな切れ目を入れるためには、足土を細く置く。この足土は通常、ヘラで置いていくので、直線的になるのは当然だ。

「古作一文字(鎌倉期備前の刀工一派)にまま見る複雑な丁子は、あるいは素焼きではないかと思います」

 まったく焼刃土を塗らず、火で赤めた刀身を水舟へ沈めても、刃文が生じる。水中に発生する蒸気の泡が刀身を包み、それが複雑な丁子模様となるのである。ただし、炭素量の多い鉄でなければならない。つまり、固く、脆くなりやすい。しかも、偶然性に頼る刃文だから、美的には破綻することもある。

「わが父の作にも私の作にも素焼きがあります。しかし、職人たる者、焼刃土を塗り、計算した刃文を焼くのが腕の見せどころ、面白いところだと私は考えます」

「……で、おぬしはどのように足土を置く?」

「ヘラではなく、筆を使います」

 虎徹は大きな目で助広を見据えたまま、しばらく動かなかったが、突然、口が裂けたように笑った。破顔とはよくいったものだ。

「なるほど、そうか。秘伝とは一目見ればわかるからこそ秘伝とはいうが、ヘラではなく筆を使うか。面白い」

 しかし、笑顔も一瞬だった。すぐまた渋い表情に戻り、鍛えた古鉄を汚れた布に包んでくれた。現在の振分髪が虎徹作の偽物なら、同じ材料でその写しを作ることになる。

「またいつでも来られるがよい」

「我々はこれから寛永寺へ出向きますが、虎徹師は行かれぬのですか」

「弟子たちにまかせてある」

 御前鍛錬など、歯牙にもかけぬ表情で、いった。

「もっとも、時には顔を出さねばなるまいな」

 
 
 寛永寺の仁王門をくぐり、広大な参道の坂をのぼりながら、まさのが訊いた。

「師匠。あれには気づいてくれましたか」

「虎徹師が湯飲みを熱がったことか」

「師匠と同じ熱さなのに……」

「あの男が本当に鍛錬をやっていたということだ」

 鍛錬直後の手指は軽い火傷状態にあり、日常生活には支障ないのだが、湯飲みの熱にも過敏となる。

「でも、虎徹師に仕事ができるなら、寛永寺の晴れ舞台を弟子にまかせず、自分がやるでしょう」

「あの虎徹師は本物なのか、偽者なのか、わからんな。わからんといえば――」

 助広は汗を拭いながら、いった。

「お前もわからん」

「私が……?」

 この娘は相変わらず涼しげだ。

「鍛錬のあとは、湯飲みも持てぬことをどうして知っているのか」

「伊達家御刀奉行の養女ですから、刀鍛冶のことも多少は知っております。でなければ、助広師匠の弟子もつとまりますまい」

「お前は弟子ではなく弟子がわりだ」

 がちゃ、と足許で金属音がした。まさのに持たせてあった古鉄が放り出された。

「弟子でなきゃ、こんな重いもの、持つ理由はありませんね」

 足早に先を歩いていく。寛永寺の壮大華麗な伽藍の群れが、行手に広がっている。

「どうすれば、弟子と認めてくれますか」

「先手の大鎚が使えなきゃ、役に立たん」

「なあんだ、そんなことですか」

 昨日のまさのは、安定門下とともに助広の下鍛えを手伝いはしたが、ほとんど真似事にすぎなかった。

 助広は古鉄を拾い、まさのの背中に怒鳴った。

「一人で鍛錬場へ入ると、奥州の山猿と九州の熊に女人禁制だと叱られるぞ! もっとも、警固の役人が入れてくれまいが」

 ところが、法華堂へ、まさのは平気で入っていく。役人はむしろ助広の方にこそ、胡散臭そうな視線を注いだ。

 まさのが着替える間、助広は控えの間の外で待つしかなく、入れ替わりに作業衣を着込んだ助広が鍛錬場へ追いかけた時には、まさのは作業を始めている。稲藁を燃やして、鍛錬用の灰を作るなど、力仕事でなくてもやることはある。

 手順を教えているのは、奥州の愛敬ある山猿と九州の朴訥な熊だ。

「鍛冶の仕事場に女を入れるとは、甚さん(助広)は心が広い。俺の仕事場には近づかないでくださいよ」

 長道はそうはいったものの、

「夏は作業衣を何枚も替える。足りなくなれば、俺のを貸そう」

 と、笑っている。

 忠吉も、

「なら、俺は献納式で着る肩衣でも貸そうか」

 真面目な口調で、いった。

 御前鍛錬で打ち上げた刀は、研ぎ上げたのちに将軍家へ献納される。助広の刀も、一旦は献納式に提出の形をとる。

「女に肩衣なんか無用だろう」

「いやしかし、刀鍛冶の弟子が打掛というわけにもいくまい。――ちなみに家紋は何ですかな」

「今はどこぞの養女だが、御実家は竹に雀だ」

 助広が伊達家の紋を口にすると、長道と忠吉の表情が止まった。

「以前にお会いしたことがありませんかな」

 いったのは忠吉だ。女に軽口を叩く男ではないが。

「そちらのお国の方へは行ったことがありません」

「いや。私も江戸は初めてではない」

「この男の記憶はあてにならんぞ。肥前鍋島家には、題目を銘に刻んだ村正があるそうだな、と訊いても、知らんといっていた」

 と、長道。

 忠吉は口を尖らせた。

「周囲に耳があるのに、迂闊なことを答えられるか」

「ほお。では、やはりあるのだな」

「……肥前小城の鍋島分家に伝わっている。分家の家祖・祥光院様(鍋島紀伊守元茂)は柳生流の皆伝で、大猷院様(徳川家光)の打太刀をつとめた達人。刀剣もお好きだった。御当主の加賀守直能様とて――」

「いや。鍋島家は刀剣ではなく、村正がお好きだと聞いているぞ」

「ふむ。鍋島家伝来の村正は刀身に倶利伽羅龍を彫り、銘に『妙法蓮華経』と題目を刻み、茎の棟に『鍋信』の銀象嵌がある。泰盛院様(佐賀「藩」祖・鍋島信濃守勝茂)の御遺愛刀だ。上これを好めば、下も従うのは道理。鍋島家家中では村正の人気は高い。が、このこと、人にはいうな」

 かつて、家康の祖父、父、長男の命を奪ったのが村正の刀で、家康自身も村正の槍や小刀で負傷したことから、徳川家に祟ると喧伝され、大坂の陣では真田幸村が愛用したという。

 御三家、徳川一門にも村正は所蔵され、後世に伝わるから、別にその所有が禁じられたわけではない。しかし、将軍家に遠慮して、破棄する武士も多い。

 肥前鍋島家は豊臣恩顧の大名であり、関ヶ原で東西両軍が衝突する寸前まで、鍋島勝茂は石田三成に与していた。勝茂は明暦の大火後に江戸で没したが、その後裔たちも将軍家をはばかる家風ではない。

「かの由比正雪も村正を欲しがったので、謀反が発覚したという巷説がある」

「ふん。妖刀か。刀に霊力が宿るなら、われらも苦労せぬわい」

 長道と忠吉のとりとめのない会話に背を向け、

「一体、この人たちは何を話しているんです?」

 まさのは助広に頬を寄せて、尋ねた。

「人じゃない。刀鍛冶だ」

 なるほど、とまさのは呟いた。

 
 
 昼過ぎに、助広は火床へ火を入れた。虎徹からもらった卸し鉄を赤めてテコにつけ、細長く叩き延ばしていく。

 先手はまさのである。作業用の襦袢に袴、髪はうしろで団子にまとめ、手拭いを巻いている。

 助広と息を合わせるのは早かった。いい勘をしている。大鎚は腕力よりコツといえなくもないが、いかんせん、軽いものでも二貫(七・五キロ)弱。刀鍛冶が使う大鎚は野鍛冶のそれより大きいのである。慣れぬ女の細腕に負える大鎚ではない。強がってはいたが、実は昨日からの鍛錬の真似事で、両腕は肩より上がらぬ筋肉痛だろう。

 安倫が飛んできた。

「まさの様に大鎚を持たせたら、私が伊達家家中の皆様に叱られます。ますます帰参が遠のきます。私がやります」

 安倫が大鎚をつかもうとしたが、まさのは離さない。

「邪魔です」

「まさの様。あなたの気力は立派だが、先手は気力ではなく体力で行なうものです。そんな腰つきでは、ろくな刀はできません。助広師匠にも御迷惑です」

「その通りだ」

 助広は鞴を吹きながら、いった。

「安倫にかわれ」

 鉄を細く延ばせば表面積が増えるから、作業をもたついていると、その表面から脱炭してしまう。

「大体、お前が手にしている大鎚は公方様がお使いになったもので、白戸屋がいくらでも出すから譲ってくれといっていたお宝だ。粗略に扱わず、控えの間に置いておけ」

「それはそれは。私ごときの手垢で汚して、申し訳ございません」

 まさのは彼女の汗を吸った手拭いで、大鎚の柄を乱暴に、しかし満遍なく拭った。将軍の手の痕跡などどこにもなくなったその大鎚を控えの間へは運ばず、無造作に放り出した。

 古鉄は安倫の大鎚で、すべて延ばし終えた。これにタガネで切れ目を入れて折り、揃えていく。大きさにより、短冊、拍子木、木の葉と呼ばれる三種類に分けるのが一般的だが、助広は小さな拍子木、木の葉に揃えた。基本的には、大きく切った鉄を積み重ねて上鍛えすると地肌も大きく出る。もっとも、あくまでも基本であって、一概にはいえないのが鉄の神秘のひとつではある。場合により、切り揃える手間をかけずに下鍛えの鉄塊のまま上鍛えへ直行することもある。

 この古鉄を混入する南蛮鉄はすでに前日までに下鍛えを終えていた。ただ、将軍が鎚入れした鉄は別にしてある。これは後日、特別な作品に利用したかった。

 まさのを邪険に扱ったことを、助広は彼なりに気遣い、言い訳するように、いった。

「これから上鍛えをやる。鍛錬には、先手は二、三人欲しいんだ。女が一人では、どうにもならん」

「二、三人欲しいなら、俺たちがやってやる」

 と、三善長道と肥前忠吉が声をかけた。

「ただし、甚さんのためじゃない。こちらのお嬢様の熱意にほだされて、というところだ」

「……何でもいい」

 古鉄の切り口を見やり、

「よさそうな鉄だ」

 と、長道。いい鉄はきれいに折れる。その断面から鉄質、炭素量を判断し、地肌を想定して按配よく組み合わせ、上鍛えに回すのである。

「短冊に切っては肌が大きくなる。拍子木に切って適度な肌を出そうというのはわかるが、木の葉では詰んだ肌になるだろう。何故、二種類を用意している?」

「肌を違えて、二本作る」

「いやはや。手間のかかることが好きな刀鍛冶が顔を揃えたものだな。こっちの新さん(忠吉)も木の葉どころか、まるで豆粒みたいに細かく切った鉄を上鍛えに回している」

「それが肥前のやり方だ」

 と、忠吉。

「そんな面倒なことやっていたら、皮鉄を節約したくなるのも当然だな」

 と、長道。

 日本刀は柔らかくて鉄質も劣る芯鉄を固くて良質な皮鉄で包むのが基本構造である。肥前刀の皮鉄は小糠肌と呼ばれ、精美なのが売り物だが、これが薄く、芯鉄が多いといわれている。

「そういう藤四郎さん(長道)こそ、四方詰めの造り込みをやっているではないか。手間入りということでは、人後に落ちぬ」

 忠吉は、ぼそりといった。単に芯鉄と皮鉄の組み合わせではなく、刃鉄、芯鉄、棟鉄を両側から皮鉄ではさみ込むやり方が四方詰めである。長道も前もって下鍛え済みの鉄を用意していたらしく、すでに造り込みの段階に進んでいる。

 助広はテコ台に南蛮鉄と古鉄を互い違いに積み上げ、藁灰と粘土汁をまぶして、火床へ入れる。

「紙で包まぬのか」

「あれは積み上げた鉄が崩れ落ちぬよう、紙で包むのだろう。崩すヘマはせぬ」

「格好つける奴ばかりだな」

「女の前では特に、な」

「じゃ、殿方のいいところを拝見させていただきます」

 と、まさのがけしかけた。  

 上鍛えが始まる。助広は赤熱の音を発する鉄塊を火床から取り出し、金敷へのせた。彼の小鎚が刻む調子に合わせ、安倫、長道、忠吉の三人が交互に大鎚を振り下ろす。さすがに彼らはうまく、助広が叩いて欲しい箇所を叩いて欲しい強さで打つ。

 もっとも、彼らにも助広の仕事ぶりを観察しようという下心はあっただろう。が、奇妙な連帯感が生まれつつある。

(驚いたな)

 助広は思った。女のまさのには刀鍛冶たちは反発するかと危惧していたのだが、逆に彼らの垣根を取り払っている。

 
 
 二本も作る助広は、夜明けから日没まで、誰よりも仕事をする。夏の灼熱の下で行なう鍛冶仕事は過酷だが、陽の長いのが有難かった。

 安倫たちの助力で、すべての鍛錬は翌朝には終わった。芯鉄に皮鉄を組み合わせ、素延べしていく工程も未来の名人たちの大鎚が助けた。

 安定、虎徹ら年長の刀鍛冶は、そうした若者たちの華やいだ仕事ぶりをよそに、日々、黙々と仕事をこなしていた。

 が、火作りに入ったところで、

「助広殿は二本の刀をお作りなのだな」

 安定が唇を歪めた。責めるような口調だ。

「それが何か……?」

「短い脇差だから二本で帳尻合わせというものでもあるまい。御前打ちは一本とすべきではないか」

「そんな決まりはないでしょう」

 たとえ名工であっても、刀剣の制作には予期せぬ失敗が起こり得る。特別注文の場合、何本も作ったうち、最良のものを納めるのが刀工の慣例である。

「御前打ちは一本を打ち上げることに精魂を傾けるべきもの。他の者たちは一本しか作っておらぬぞ。それで失敗したなら、腹を切るくらいの覚悟は皆、しておる」

 そんなものは建前にすぎない。町人の腹などに切るだけの値打ちがあるものか。そもそも、事前に完成刀を用意することさえ暗黙の了解であることは、安定も知っているではないか。

「私は失敗にそなえて、二本を作っているわけではありません」

 大肌の交じる杢目と柾交じりの杢目と、二通りの地鉄で作っているのである。肌を出すために、虎徹から提供された卸し鉄を使っている。

「では、何のためか」

 伊達家の振分髪が新刃の偽物だから、その偽物の写しと、本来の振分髪はこうであるはずだという写しと、その二本だなどと事情はいえない。

「二本とも成功させます。一本でも失敗したら、腹を切りましょう」

 安定の声が高くなる。

「失敗せぬというなら、二本も作る理由があるのか」

 しつこい。どうして、安定はこんなことにこだわるのだろう。安定はあの振分髪が偽物であることは承知しているはずだが……。怪訝には思いながら、助広も気の長い男ではないから、

「成功作が二本であってはいけないという法もありますまい」

 そう開き直ったが、安定はもう聞いていなかった。音を立てて、夕立の雨粒が地面を叩き始めた。屋外の鍛錬場である。火床に屋根は差しかけてあるが、風があると、用をなさない。

 役人たちは法華堂へ逃げ込み、安定も猛烈な雨足の中で、身を翻した。助広もすばやく炭火を壺へあげ、あとに続いた。