「雙」第7回

「雙」第7回 森 雅裕

 江戸城に近い葺屋町東側「五町」に広がっていた吉原は、明暦の大火ののち、浅草寺の裏手へ移転して、新吉原という別天地を築いている。

 そこへ至る道筋は三つ。下谷坂本から金杉入谷を通り、三ノ輪から日本堤へ出る。浅草寺の東側の馬道通りあるいは裏側の田圃道をたどって、日本堤へ出る。または船で隅田川をさかのぼり、山谷堀から日本堤へ上がる。

 伊達綱宗は船を使った。芝の伊達家上屋敷は江戸湾に臨んでいる。船宿の多い汐留も間近だ。

 明暦の大火直後は、船という船が江戸再建のための資材運漕に収用され、船遊びどころではなかったが、ようやくこの万治三年、涼み船が川面を賑わすようになっている。

 柱を立て、屋根をのせ、幕や簾または障子を張り回した屋形船が次第に華美になり始めるのも、この頃である。もっとも、屋形船といういい方は元禄以降のもので、当時は御坐船という。普段、大名たちは専用の御坐船を船宿に預け、必要な時に船頭を雇って、漕ぎ出す。

 助広は、両国橋上流の船宿で待つようにいわれている。神田川が隅田川へ合流する川口の北側に建っており、助広が着いたのは夕刻近くだった。夏の西陽が川面で跳ね、岸辺を濃い茜色に染めている。やや上流の対岸には公儀の御材木蔵(のち御竹蔵)が居並んでいる。

 寛永年間に現在の熊谷市久下で荒川の瀬替えが行なわれ、河道が入間川に移されて、隅田川は荒川下流の本流となった。荒川放水路(現在の荒川)が造られて隅田川が分流に縮小されるのは明治末の洪水が契機であるから、江戸時代の隅田川は現代よりもかなり大きい。ただ、橋は川幅の狭いところを選んで架けるので、この御材木蔵付近から両国橋方向へは川幅が狭まり、蛇行している。

 船宿の二階では、安定、安倫の師弟と伊達家家臣数人が、吉原から戻る伊達綱宗の御坐船を待っていた。遊女を身請けするとなれば、引祝いと称して、祝儀、配りものなど、大盤振舞いせねばならない。ましてや大名である。助広には想像つかない段取りがあるのだろう。綱宗は早くから吉原へ繰り出している。

 行きも帰りも、この船宿で乗り換える手はずだった。船着場には、定紋入りの幕を張った堂々たる御坐船が係留されている。

 大名たちは華美を競い、屋敷がそのまま浮かんでいるような御坐船が続々と建造されている。だが、そんな派手な巨船で、吉原へ乗りつけるわけにはいかない。大名の遊興がお忍びである分には公儀も目をつむるが、寛容なわけでは決してない。

「汐留から目立たぬ船でお出ましになれば、乗り換えずともよろしいのでは……?」

 助広は首をかしげたが、

「大名には見栄というものがある」

 安定が一笑に付した。

 船宿の裏手が川べりへ張り出し、涼み台の造作になっている。陽が落ち、助広は茜色から紫へと色を変えていく空に、燃え立つ雲を見ていた。

「あんなふうに、ふわりとした匂口の刃文を焼きたいものです」

 呟くと、安定がさらに苦笑を転がすような声で、いった。

「おぬしは、見るものすべてを刀作りに結びつけてしまうのだな」

「それはそうです。刀を作ることが私には一番楽しいのですから」

 安定の頬が不快げに隆起した。

「わしとて、刀作りが一番楽しいことに変わりはないわ」

 何故、安定の機嫌をそこねたのか、助広にはわからない。

 安定はそっぽを向くように、

「安倫」

 と、傍らにいた弟子へ声をかけた。

「助広殿が江戸にいる間、せいぜい勉強させてもらうがよい」

 安倫こと余目五左衛門は元来が伊達家家臣だから、周囲の侍たちとも面識がある。時折、挨拶は交わしていたが、特に話し込む様子はなかった。

「おとなしいな」

 と、助広。安倫は小さく頷いた。

「主家を脱したことになっているんですよ。大きな顔はできません」

「山野加右衛門様は、もうおぬしのことは忘れたといっていた。あの脇差ともども帰参したらどうだ?」

「脇差は主家へお返ししました。でなきゃ、この場にいられませんよ」

 盗んだ脇差を返せば、それですむというものでもないだろう。許可なく禄を離れるのは主従関係を揺るがす重罪なのである。やはり、この男が主家を脱したというのは方便にすぎない。

「食いませんか」

 饅頭が箱で差し出された。黄色に黒味さえあるのが見慣れた小麦粉の饅頭だが、光沢ある白い饅頭だ。丸い形で、両端が尖っている。

「今朝から陸奥守様の家臣たちとともに準備に駆け回っておりましたが、出先で買ってきました。吉原の入口、浅草待乳山の名物となりつつある米饅頭です」

 饅頭は安いものではなく、享保期までは店売りもまだ少ない。

「名前の由来は、よねという女が作り始めたからとも、皮に米粉を使うためとも、女郎の俗称を『よね』と呼ぶからとも、いいます」

 口へ運ぶと、なるほど名物にもなりそうな饅頭だ。止雨の菓子とどちらがうまいだろうか。助広は胸の奧で、止雨の求肥や羊羹と比較した。

「待乳山の鶴屋という菓子屋のものです。かの由比正雪が十七歳で奉公にあがり、やがては養子にもなったが、不首尾があって、勘当されたという店ですよ。むろん、真偽不明の噂話ですが」

 米饅頭を食いながら時を過ごすうち、川面に薄闇が流れ、西の空は濃紺に色を変えた。暗くなると、船の交通量は目立って減る。

 川岸に待機していた伊達家家臣たちが、そわそわと動き始めた。まず、供侍や小者たちが乗った小型の屋根船が着岸した。

「お戻りのようだ」

 安定が、夜の色となった川面を指した。先着の屋根船よりだいぶ遅れて、灯りをともした御坐船が現われた。格別に大きな船ではない。侍臣が分乗する供船をもう一艘、後方に従えている。大名の御坐船は人数分の槍を船端に立てるというが、それもなく控えめだ。しかし、あたりの船とはさすがに風格が違う。

 夏のことで、障子ははずしてある。簾を半分ほど巻き上げ、人影が見える。姿や形はわからないが、あの中にすみのがいる――。

 たちまち、助広の心拍が落ち着かなくなった。そして、それは胸騒ぎに変わった。

「あの船も、お付き衆でしょうか」

 奇妙な動きを見せる三艘がある。追走してきたのではなく、逆方向から隅田川を上ってきて、すれ違いざま、御坐船の前後に回ったのだ。

 安定が口を尖らせるように、いった。

「お付き衆なら、吉原から従ってくるだろう」

 一艘は葦簀(よしず)で屋根をかけた小型の屋根船で、二艘はごく普通の荷運び船だが、荷は空のようだ。その舳先は御坐船を包み込もうとしているとしか見えなかった。

 川岸の誰もが声をあげた。荷船二艘が御坐船と供船それぞれの進路をふさぎ、同時に衝突した。荷船へのし上げる形となった御坐船は大きく揺れ、その揺れがおさまらぬうち、周囲が赤く染まった。御坐船は炎に包まれた。横に並んだ屋根船から、火を投げ込まれたのである。

 船宿の周辺は騒然となった。助広は何が起きているのかもわからず、またわかったところで、なすすべもなかったが、とりあえず立ち上がった。周囲がそうしたからだ。

 もつれあう船の間で、槍らしきものを振り回す者もあった。傾(かし)いだ船から人影が次々と水面へ転がり落ち、水柱が立った。

「これはいかん」

 安定が叫び、涼み台から駆け下りた。安倫も伊達家家臣たちも続いたが、助広は突っ立っている。茫然自失しているわけではなく、自分が右往左往したところで、何の役にも立たないとわかっているからだ。傍目には、こうした性格が冷淡とか傲慢と見られるのである。

 綱宗の御坐船に従っていた供船が舳先をふさいだ荷船をおしのけ、ようやく追いついて、落ちた者たちに手を差し伸べている。

 川岸にいた家臣たちも、係留してあった複数の船へ飛び乗り、船頭を怒鳴りつけながら、漕ぎ出した。

 衝突した二艘の荷船は転覆し、もう動いていない。乗っていたのはおそらく船頭だけで、その船頭は残る屋根船に拾われたのだろう。屋根船はすでに御坐船を離れ、下流へと足を早めている。夜の帳(とばり)の奥底へとその姿は溶け消えた。

 御坐船は派手に燃えていた。救助の船を照らし出す炎が漁火のようだった。

 ようやく助広も川岸へ下りた。安定が、冷たく振り返った。のんきな男だ――。そんな眼差しを向け、いった。

「陸奥守様は、どうされたかな」

「叫んでおられます」

 助広は愛想なく、いった。

 しばらくすると、怒号とともに一艘が岸へ近づいてきた。叫んでいるのは、綱宗だった。救い出されたのである。

「戻せ! 戻せ!」

 水中にまだ人がいるらしい。それを引き上げるために船を戻せというのだ。しかし、救助の船は他にも出ている。

 綱宗は岸へ上がった。家臣たちの、

「とりあえず、着替えを」

 という声を振り切り、ずぶ濡れのまま、仁王立ちして、

「薫を探せ! あきらめるな!」

 叫び続けている。

 とても近づけた空気ではないのだが、安定は声をかけた。

「おお。お前たちか」

 振り返った綱宗の目許がきびしい。

「船がぶつかったと思ったら、油をまかれて、松明が投げ込まれた。槍も突き立てられた」

「すみの、いえ薫様は……?」

「一緒に飛び込んだが、水中で手が離れた。傷を負ったようだったが……」

「何者でしょうか、あの屋根船は」

「すみのに吉原から出てこられては困る輩がいる、ということよ」

 続々と濡れた者たちが岸へたどり着く。

「お屋形様が濡れたままでは、他の者たちも着替えるわけにまいりませぬ」

 と、家臣が数人がかりで、綱宗を船宿へと促した。それを見送りながら、安定が助広と安倫へ、いった。

「どこかの岸に上がっているやも知れぬ。手分けして、探してみるか」

 助広は安倫に小声で尋ねた。

「このあたりは深いのか」

「背が立たないだけの深さがあれば、充分に深いといえますね」

 溺れるには、という言葉が省略されている。着衣のままでは泳げるものではない。

 龕灯や松明をかざして、男たちは川岸を駆け回った。隅田川の蛇行を考えると、対岸の方が漂着しやすい。かなり迂回することになったが、両国橋を渡り、見回りもした。

 芝の伊達屋敷からも応援の船が駆けつけた。しかし、一時(二時間)ほど費やしても、すみのの姿も手がかりも見つけられなかった。野次馬が増えるばかりだ。

「今夜はもはやこれまで」

 綱宗が打ち切りを告げた。屋敷から届けられた小袖に着替え、袴をはき、颯爽とした若侍という出で立ちである。

「夜明けとともに、家臣を繰り出して、川沿いを捜索せい」

 焦燥しているが、声は強い。 

「あの屋根船もどこのものか、きっと突き止めよ」

 焼け焦げた御坐船は半ば水没した姿で、船着き場へ引き寄せられている。人目につかぬよう、早々に処分されることになるだろう。

「役人が乗り出すと面倒ゆえ、今夜のこと、他言せぬよう」

 綱宗の侍臣から、助広たち、船宿の者たちに釘が差された。江戸初期に牢人を大量発生させた大名取り潰し政策は過去のものではある。しかし、江戸市中で問題を起こせば、家名の危機となりかねないことに変わりはない。

「両国橋から遠目だったのが不幸中の幸いだな」

 安定が独りごちた。

 両国橋は現在の橋よりも下流寄りで、隅田川が大きく蛇行する真ん中に架けられており、事件現場の一部は死角に入るばかりか、五町(約五四五メートル)ほども距離がある。でなければ、人目が増えただろう。 

 
 
 両国広小路は明暦の大火後の防災対策として、市内要所に作られた火除地のひとつである。江戸中期の明和・安永年間には見世物小屋や茶店の建ち並ぶ盛り場となるが、両国橋もまだ仮橋しか架かっておらず、その完成は二年後となるこの頃、さしたる賑わいもない。今夜の船火事を面白がる通行人たちの声が一瞬だけ、風に混じった。

 その広々とした夜道を歩きながら、三人の刀鍛冶は互いの重い足音を聞いていた。助広は本所、安定と安倫は神田へ戻るのである。両国橋までのほんの数歩の道連れだが、あっさりとは別れられなかった。

「先刻の陸奥守様の御言葉ですが――」

 助広が切り出した言葉が終わらぬうち、安定は気短に応じた。

「何かな」

「すみの様に吉原から出てこられては困る輩がいる、と仰せられたのは――」

「決まっておる。すみの様と顔を合わせれば正体が露見してしまう者がいるということだ」

「虎徹師ですか」

「いうまでもない」

「しかし、天下の伊達様の船を襲うというのは――」

 やり方が派手すぎはしないか。一介の刀鍛冶にできることではない。

「虎徹には、うしろだてがいるのだろうよ」

「打ち首になったとか、替え玉とさえいわれる虎徹師に、うしろだてが……?」

「いや。うしろだてがいるからこそ、打ち首になった虎徹に替え玉を立てることが可能だったとも考えられる」

 安定はそういったが、助広には南蛮の言葉を聞いている気さえした。自分とは関わりのない世界のように遠いのである。すみのの安否を除けば――。

「すみの様のことは、明日の捜索に望みを託すしかないな。我々は手助けできぬが」

 と、安定。明日から、彼らには御前鍛錬が始まる。

 安定の言葉には助広の心中の動揺を探るような気配があったため、彼は冷静であろうと意地になった。

「今夜は充分に寝ることにします」

 助広は曇りのない声で、いった。

「助広師匠」

 安倫が背後から声をかけた。

「太守……お屋形様はお休みになれぬと思いますよ」

「私は御前鍛錬のために江戸へ来た」

 両国橋西詰にある番所の明かりが近づき、助広は振り返った。安定師弟との分かれ道だった。

「明日は火入れ式です」

 
 
 翌日。

 東叡山に据えられた鍛錬場の火入れ式が、将軍・家綱臨席のもと、執り行なわれた。五人の刀工のために作られた五基の火床、それぞれに火を入れていく。

 刀工たちは金敷の上で長い釘を叩き、それだけで赤く発熱させる。これで付け木に火をつけ、火床の炭へ移す。

 あざやかな職人技を見せつけられ、家綱は身を乗り出した。まだ少年の面影を残す二十歳の四代将軍である。蒲柳の質で、何度か生死にかかわる病をくぐった体躯には肉が薄く、頬に疱瘡のあとを残している。しかし、目の輝きは強い。

 注連縄をめぐらせた各自の火床で、刀工たちが鞴を吹くと、花が開くように紫色の炎が噴き上がった。熱が回るにつれ、炎は橙色となる。ここまでは孤独な助広にも可能だが、ここから先の鍛錬となると、手が足りない。他の刀工たちには弟子たちが先手(助手)についている。しかし、助広は弟子を伴っていない。

 白戸屋が手配してくれたのだが、どういう手違いがあったのか、この場に現われなかった。

「私があとでお手伝いしましょう」

 そういったのは、安定の弟子の安倫だった。しかし、手は空きそうにない。刀工たちは将軍御前で、鎚音の高さを競うように、火花を散らしている。鉄塊をつぶし始める者、下鍛えを始める者、それぞれだ。

 とりわけ、派手な鍛錬ぶりを見せているのが虎徹だった。もちろん、大鎚をふるうのは弟子たちで、三人の若者が交互に打っていた。横座に座る師匠は小さな鎚で金敷を叩きながら彼らに合図を送るわけだが、一糸乱れぬ呼吸の合わせ方を見ると、よく鍛えられた弟子たちであることがわかる。

 助広にしてみれば、下鍛え済みの鉄を大坂から持参しているので、この場で鍛錬の必要はないのだが、それとは別に実演披露のための南蛮鉄も用意している。ひとつひとつが瓢箪形をした鉄塊である。

 さほど大きなものでもないので、ひとつずつ箸にはさみ、火床へ入れて、赤めてはつぶした。もともと南蛮鉄は平べったい形状であり、力自慢の刀鍛冶だから独力でも何とかなるが、できれば、先手の大鎚に頼りたいところだ。

 形だけの臨席だろうと予想された家綱だが、腰を据えて、刀鍛冶たちを見守っている。意外な長時間の作業となった。

 助広はつぶした南蛮鉄を熱いうちに水へ入れ、焼入れする。水ベシと呼ぶ工程だ。これがある程度の量になると叩き割り、割れ口から鉄質、炭素量を選別していく。日本刀は皮鉄と芯鉄の二重構造であるから、良質の鉄は前者に、劣る鉄は後者に用いる。場合により、炭素量を調整して卸し鉄とすることもある。

 今の助広にできるのはここまでである。割り揃えた南蛮鉄は下鍛えに回すなり、上鍛え段階の和鋼に混入するなりするわけだが、一人ではそれはかなわない。

 家綱は寛永寺法華堂の広縁に設えられた席を立ち、庭へ降りた。若き将軍の好奇心の強さに、侍臣たちは当惑している。鍛錬の場に近づけば、炭塵にまみれ、飛び散る火花を浴びることになる。

 刀工たちは遠慮して、仕事の手を止めた。

「かまわぬ。間近で見たい。続けよ」

 侍臣を通じて、そう命じられはしたが、途端に鎚音がおとなしくなった。が、虎徹だけは挑戦的とも聞こえる音量で、鍛錬を続けている。自然、家綱の目と耳もそちらを向く。

 そんな光景をよそに、照れ性の助広はせいぜい小さくなっていた。しかたなく、つぶした南蛮鉄を割り続けていたが、人とは違うその作業が、かえって目立った。虎徹の散らす火花から顔を逃がした家綱が、助広に着目した。歩み寄った。

「それは何をしているのか」

 お答え申せ、と腰物奉行が促した。

「鍛錬前の鉄をつぶしましたので、割れ口から性質を見極め、選り分けております」

「どのように見極める?」

 助広は家綱ではなく腰物奉行の鼻先に南蛮鉄を示した。が、奉行は遠慮し、家綱が覗き込んだ。

「このように鋼の部分はきれいに割れます」

「おお。割れ口が白い」

 南蛮鉄はタタラ製鉄で生まれる和鉄ほどには部位による性質のばらつきはないが、そのまま鍛錬できるほど均質でもなく、不純物を含んでいる。輸入時期、輸入経路によっても差違がある。