「雙」第20回
雙 第20回 森 雅裕
端午の節句は菖蒲が尚武に通じることから鎌倉期に男子中心となったが、もともと中国では穢れを祓い、災厄から逃れる行事であり、日本では田植えの季節ということで、豊穣を祈り、労働者である娘たちが身を清める休養日とされたものだ。男子の節句と限ったものではない。
助広の頭にあるのはまさのだ。まさのは寛永十九年(一六四二)、端午の節句に生まれ、干支は午だ。
(何を考えとるのや、俺は――)
まさののために短刀を作ろうとしているのか。驚き、あきれながら、自問した。近日中には自分は江戸を離れ、もう二度とまさのに会うこともあるまい。短刀を打ち、拵を制作するとなれば、半年はかかろう。そんなものをどうやって贈ろうというのか。第一、贈る理由が思い浮かばない。
助広にしてみれば、まさのの存在が創作意欲をかきたてるのである。それ以外の理由は見つからない。もっとも、助広のような男には、そういう女こそ理想なのだが。
「あいにく、馬はございませんなあ。いや、先日、売れてしまいましてな。この先に御様(おためし)御用の山野様のお屋敷がございます。あそこには午年はいらっしゃらないのに、どういうわけでしょうか、お買い上げいただきました」
「山野様はこの店の常連か」
「何。玩物趣味などありはしませんさ。だから奇妙なのですよ。あの人の金の使い道は、何も食わず何も着ない死人の供養がもっぱらでございますからね」
「供養……?」
「三ノ輪の方の荒寺を買い取り、永久寺というのを建てましてな」
永久は加右衛門の名乗である。もとは日蓮宗蓮台寺といったが、加右衛門の首斬りが千人に達したのを機会に改築され、天台宗永久寺となった。後年、目黄不動として知られることになる。
「自分が斬った罪人どもの石碑を据え、供養しているという話です。むろん、内緒ですよ。表向きは山野流刀術の顕彰碑ということになっております」
「常連でないにしては、よく知っているな」
「会うだけなら、いつも会ってますからな。うちの軒先から裏へ回って、釣りをなさる。今も加右衛門様が――」
「いるのか」
「はい」
節句図の金具を買い求め、助広は教えられた店の裏手へ回った。百姓地を少し歩くと、小さな崖になっている。下の水路を覗くと、孤独な人影があった。
「釣れますか」
近づいて、声をかけた。加右衛門は振り向きもしない。
「何をもってして、釣りの上手と呼ぶか、わかるか」
「大物を釣る、もしくは数を釣ることでは……?」
「そんなものは偶然にすぎぬ。不漁の時に釣る。それが上手、名人というものだ。まったく釣れぬ状況で釣るのだから、百尾も千尾も釣ることはない。古来、釣り名人の派手な伝説を聞かぬのは、そういうわけだ」
「はあ……」
「本所界隈で多く釣りたいと思うなら、多少遠くとも隅田川へ行く。御材木蔵から両国橋へかけて、川が蛇行している東岸だ。やたらと杭が打ってある。釣りと水死体の名所だ。それだけ人も多く、わしには居心地が悪い。夜釣りをする連中もいる。つまり、死体を沈めるには人目があるということよ」
この男、何をいいたいのか。
「鈎(はり)は古きほど鉄練れ合いてよし、という言葉がある。古鉄を用いる虎徹の刀にも通じるものがあるな」
「その虎徹師の首を山野様はお斬りになりましたか」
会話の手順を踏むのが面倒で、唐突に訊いた。偏屈と偏屈のやりとりである。
「何だ、またその話か」
「今の虎徹師は弟の興光師が入れ替わったもの。兄の興里は小伝馬町で死罪となったとか」
さすがに保科正之から聞いたとはいうわけにいかなかった。
「以前にも申した。年に何百という首を斬る。いちいち覚えてはおらぬ」
加右衛門は相変わらず取りつく島もないが、珍しく笑顔らしき表情を作った。
「虎徹の刀で虎徹自身の死体を試し斬りしていたとしたら、笑い話だな」
笑い話なものか。人の生がおぞましく、死が簡単なのは浄瑠璃や芝居の世界だ。
「虎徹が生きていようが死んでいようが、虎徹の名を持つ刀は今後も生み出され、世に受け入れられていく。今の虎徹が何者であるかは問題ではない」
要するに「虎徹」は個人ではなく商標なのである。
「わしが虎徹の刀を称揚するのは、首をはねた虎徹への供養だとでもいいたいのか。死者の機嫌をとったところで、金にはならぬ」
一種の偽悪家であった。これで世渡りできるのだから、助広は羨望さえ覚えた。
ただ、助広も根は偏屈な男だから、返事もせずに突っ立っていた。手土産も持参しなかったのだから、迷惑がられてもしかたがない。
「武家を事前の約束もなしに訪ねるものではない。おぬしの無骨な道連れはそれを教えてくれなかったのか」
「は……?」
加右衛門は川面を見つめたままである。
「ほお。道連れではないようだ」
助広が振り返ると、男が立っていた。袂に川の風を入れながら、俳句でもひねりそうな風情だが、身のこなしには張りつめたものがある。柳生兵助だった。
ゆっくりと踏み出した兵助へ、助広は律義に頭を下げようとしたが、加右衛門の刺すような声が早かった。
「柳生殿とわしは、気楽に行き来する間柄でもないが」
「左様ですな」
兵助の声は沈んでいる。
「私としては、助広殿に用がある」
「斬りに来たか」
助広は加右衛門の背中と兵助の硬い表情を見比べた。
「……何のことです?」
兵助は答えず、刀の柄に手をかけた。同時に、加右衛門の釣竿が川面から跳ね上がり、宙空に弧を描いた。ようやく加右衛門は兵助を振り返った。その釣竿の先で、兵助の手許を押さえながら。
「およしなされ。武芸者でもない刀鍛冶を斬ったところで、柳生の名誉にはならぬ」
「ならば、山野殿が助広殿に助太刀なされよ」
「大義なき殺生を好む柳生兵助殿とも思われぬが」
「牢人の山野殿にはわからぬこと」
「主命か」
助広は、
「どういうことですか!?」
再び訊いた。主命とは何だ。尾張家が兵助に助広の抹殺を命じたというのか。理由は何だ。
兵助の腰から白刃が走った。彼の顔を打とうとする釣竿を切り飛ばし、わずかに動きが遅滞した。その隙に、助広は繰り出される刃先を避け、駆け出した。刀の届かない土手へ張りついた。
兵助は追わない。加右衛門が立ちはだかった。先端のない釣竿を手にしている。
「そんなもので、私と渡り合うおつもりか」
「斬り合いでは、どうせおぬしにかなわぬ。刀を抜いて負けるくらいなら、釣竿で立ち向かって負けるのが、牢人には牢人なりの名誉というもの」
二人が対峙するのを、助広は土手の小さな崖下から見ていた。
ふと、兵助の構えがゆるんだ。白刃を鞘へ納めた。
「やめた」
「それはうれしいが、主命はどうする?」
「剣術のみならず、君たる道も御指南申し上げるのが柳生のつとめ。それに耳を貸さぬ中納言様(徳川光義。のち光友。大納言)なら……」
「おぬし、腹を切るか」
「あるいは牢人となって、技を磨くのも悪くないな。山野殿が仙台伊達家を離れられたように、な」
兵助は踵を返し、
「助広殿。無礼をした。お許しくだされ」
大股で歩を運んだ。
「おぬしに会えて、面白かった」
そう言葉を残し、土手を越えた。
助広は急に疲労を覚えた。何が起きているのか、わからなかった。しかし、自分が落ち着いているところを見ると、身近にある剣呑な空気を以前から感知していた気もした。
加右衛門は短くなった竿をぼんやり眺めている。
「竹を伐るのは、竹の中に生気がこもらず虫食いのない新月の頃に限るという。これに油を塗って、火にあぶりながら、毎日少しずつ回して、まっすぐにしながら青竹を枯らし、固い琥珀色に変化させてやると、重さも減る。普段の手入れには鰻の油を塗り、火気にあてる。戦場における旗指物の旗竿と同じだ。そうやって、手塩にかけた釣竿だったが……」
のんきなことをいっている。
「山野様。何故、柳生様は私を斬ろうとしたのでしょうか」
「おぬしは知りすぎた。そういうことだ」
「何を知りすぎたというのですか」
「わしには関わりのないこと。わしまで狙われてはかなわぬ」
助広は話題を変えた。
「山野様はかつて仙台侯の家臣でしたな」
「困った家臣が多い仙台侯よの」
「伊達家には、さらに困ったお方がいらっしゃるのでは?」
「御一門に伊達兵部少輔宗勝という人物がおる」
伊達政宗の十男。忠宗の弟つまり綱宗の叔父で、伊達家六十二万石のうち、一ノ関一万石(のち三万石)の領主である。江戸初期の仙台伊達家は一門親戚が各々の領地で館主(たてぬし)と呼ばれ、年貢も直接徴収しており、大藩の中に小藩が分立するという状況になっている。
「陸奥守様が当主の座を下りるようなことになれば、世嗣の亀千代君(のち綱村)は幼君ゆえ、後見人として一族の実権を握るのは、この兵部だ」
では、仙台高尾の醜聞を煽っているのも、伊達兵部なのか。
「そして、兵部の息子・東市正宗興(いちのかみむねおき)に酒井雅楽頭様の娘との縁談がある」
「酒井様に妙齢の姫がおられましたか」
酒井忠清はまだ三十代ではないか。
「姉小路公景(公量ともいう)卿の息女を養女とするのだ。名ばかりの娘は武家には珍しくもないこと」
「ああ……」
「閨閥作りはそればかりではない。おぬしには女の弟子がいたな。牢屋敷でも寛永寺でも、あんな場違いな娘、いやでも目につく」
仙台侯御刀奉行の養女だろう、とも加右衛門はいった。目についただけで、そこまでわかるわけはない。
「はい。酒井雅楽頭様の弟君の継室として、輿入れすることに決まっているとか」
「その婚姻は伊達兵部のお膳立てだ」
「え……?」
「雅楽頭様は伊達陸奥守様の吉原通いにきびしく諫言したと聞き及ぶ。雅楽頭様がよしみを通じているのは仙台伊達家ではなく伊達兵部という個人だ。つまり、陸奥守様の政敵の閨閥にその娘は道具とされるのだ。というのも、御刀奉行・楢井俊平は兵部派であって、太守(綱宗)派ではないからの」
加右衛門が珍しく情緒的になっている。喜怒哀楽は表面に出さないが、この男らしくもなく多弁だ。
「山野様はまさの殿のことを御存知なのですか」
「太守(伊達綱宗)の腹違いの妹君」
「そのこと、真実でありましょうか」
「何を疑っておるのか」
「いえ。伊達家の血筋でなければ、もっと自儘に生きられるものを、と思うだけです」
「自儘とは、どのように……?」
「さあ……」
「わしには娘がいた」
加右衛門は朗読でもするように、いった。
「わしは伊達家江戸詰めであった。二十年近く前のことだ。娘は義山公(伊達忠宗)のお目にとまり、お側にあがった。惚れた男がいたが、別れさせられた。娘は懐妊したが、奧向きに騒動の起こることを避けて、義山公から家臣へお下げ渡しになった。そして、子供を産んだ。しばらくすると、その家臣からは離縁された。義山公の未練絶ち難く、またお側にお返し申せ、と命ずる者があったのだ」
加右衛門の声が高くなる。
「伊達兵部だった、それが」
「では、離縁した家臣というのは御刀奉行ですか」
「刀を何のために差しているのかも知らぬ腰抜けよ。兵部とて、義山公への忠義心から気をきかせたのではない。主君の勝手わがままを増長させることで、家臣団の離反を目論んでおったのだ」
仙台侯六十二万石を伊達兵部が独占できるものではない。兵部の最終目的は伊達宗家の取り潰しと一族による領土分割である。いわば、仙台伊達家の解体だ。
「娘が産んだのは双子だった。武家では、畜生腹と呼んで、嫌うことがある。一人は寺へ入れるように命じられた。しかし、側室に戻ることも赤ん坊を仏門へ預けることも娘は拒んだ。いや、娘を玩具にされ、わしの意地も強かった。赤ん坊の一人は仙台へ送られており、どうにもならなかったが、江戸に残る一人と娘を出奔させ、大坂へ逃がした。わしの知己であった刀装金工に託して」
子供だった助広の前に興光・すみの父娘が現れたのも、それ以後のことだ。
「むろん、わしも禄を離れた。勝手な行動をとがめられなかったのは、せめてもの義山公の御厚情というもの」
「山野様。止雨殿ですが、もしや、あの方は――」
「わしは帰る」
加右衛門は魚籠を水中から引き上げた。
「竿をなくしては釣りはもうできぬ」
屋敷までついていく社交性など持ち合わせない助広である。能もなく棒立ちしていると、加右衛門は土手へ向かう足を止めた。
「わしとおぬしが初めて会うた時、余目五左衛門――安倫が後生大事に持っていた長脇差があったな」
「はい。山野様に試し切りを断わられ、遺恨を生じた一刀でございますな」
「おぬしは知りすぎたとはいえ、まだすべてではない。この夏の出来事が何であったのか、あれが教えてくれるはずだ」
安倫が住み込む大和守安定の仕事場は、神田白銀町だ。さほど遠くはない。行ってみる気になった。安定と安倫が伊達綱宗の隠居をどう受け止めているのかも気になる。
助広が一介の刀鍛冶にしては知りすぎたことといえば、保科正之の茶室で聞いた例の件である。振分髪は虎徹作の偽物で、その興里虎徹は刑死し、今の虎徹は弟の興光が入れ替わった――。保科正之にしてみれば、助広の口数の多少が心配だろう。
しかし、おかしな点もある。あの茶席は、今にして思えば、酒井忠清に虎徹兄弟の入れ替わりを教えるためのものだった。助広はその証人として呼ばれたのだ。何のために、保科正之はそんなことをしたのか。酒井忠清から話を切り出したところを見ると、忠清はこの件を調査追及していたのか。その目的は……?
もうひとつ、助広を抹殺したいなら、そこでどうして尾張徳川家の人間である柳生兵助が差し向けられたのか。尾張家も一枚噛んでいるということなのか。
兵助がさっさと助広を斬っておれば、こうした疑問も生じない。藪蛇となった。
(いや――)
あるいはもしや、兵助はそのつもりで刀を納めたのかも知れない。助広に考えさせ、兵助の立場ではいうわけにいかない真実を知らしめようとした――。兵助なら、ありそうなことだ。
応対に出た弟子は、鎚音の響く鍛錬場へ助広を案内した。安定は弟子たちを向こう鎚に回して、鍛錬をやっている。
「虎徹の鍛錬場で、公方様献上の短刀を打ったそうだな。わしのところでは不足だったか」
嫌味なはずの言葉だが、安定は仕事の手をゆるめず、熱中している。その様子には他人への毒気はない。
「御前鍛錬とは違い、わしの本気の沸かしは見せぬぞ。出ていってくれ」
ここまで通したくせに、そんなことをいう男である。
安定は大柄な体型に似合わぬ稚気を宿し、山野加右衛門や虎徹は体型も性格も鋭利だが、いずれも仏頂面の底に純粋なものを隠している。ある意味、彼らは似ている。
「安倫殿は……?」
鍛錬の場に姿は見えなかった。
「樋(刀身の溝)を掻いておる」
そうした工作場は別になっている。
「お邪魔してもよろしいか」
「かまわぬが、弟子たちは皆、忙しい。茶は出ぬぞ」
助広は鍛錬場を回り込んで、工作場の引戸を開けた。安倫を見つけるなり、
「あの脇差の銘を覚えているか」
と、訊いた。
「あの脇差……?」
「おぬしが伊達家を脱するきっかけとなった脇差だ。すでに伊達家へ返したといっていたが」
「はあ……。絵図をとってあります」
経眼した刀は記録するのが安倫の習慣らしい。工作場の続きになっている座敷で、それを広げた。
「絃唯白色剛無刀有室不至視不見」
それが銘である。身分ある者が余技で鍛刀した場合は、変名や隠し銘を切ることが多い。
「読めますか、これが」
「みみずくは頭隠して逆さ立ち――。わかるかね」
「みみを取って、残る言葉を逆さにすれば、くず」
「そんなようなものだ。絃は糸偏に玄と書く。『ただ白色』とは、絃に黒がない、つまり糸のみということだ。同様に、剛に刀がなければ、岡。室の字に至がなければ、ウ冠だけとなる。視の字に見がなければ、示……」
これら、糸と岡とウ冠と示を組み合わせれば、
「綱宗……」
助広は隠し銘を解いて得意になるよりも、怒りが湧いてきた。
「知っていたのではないか、安倫」
安倫は何とも答えなかった。
虎徹は保科正之の息子・正頼に鍛刀の手ほどきをしたと聞いている。正頼と伊達綱宗は昵懇だったというから、この脇差が虎徹と正頼の合作ならば、綱宗が所蔵していてもおかしくないと思ったが、虎徹と綱宗の合作だ。若者二人はともに虎徹から教えを受けたのかも知れない。
「陸奥守様が綱宗と名乗られるのはいつからかな」
「承応三年の暮れと記憶しますが……」
六年前だ。脇差はそれ以降の作ということになる。もっとも、綱宗は今現在が二十一歳にすぎないから、そう昔から刀作りを経験していたはずはない。問題なのは古さではなく、新しさだ。綱宗がいつまで虎徹とつきあいがあったのか。虎徹自身によれば、「古鉄」銘は明暦初めの作ということだったから、せいぜい四、五年前である。
宣伝上手な虎徹はあちこちの名士の相槌をつとめている。その一人だった綱宗が、今現在は安定とのつながりを深め、虎徹との過去の交流を口外しないのはどういう理由なのか。綱宗が虎徹と旧交の仲ならば、替え玉かどうか、知らぬはずはない。だが、知らぬことにしたいわけだ。
すみのは佐賀鍋島家の江戸屋敷に行儀見習いにあがっていたというから、綱宗は彼女の存在も消息も知らなかったことは有り得る。しかし、虎徹にしても、そして、すみのの養父である興光にしても、すみのと伊達家のつながりを知ることはなかったのか。ならば、どうして遊女に売ったのか。
「わからぬ。おぬしら師弟と初対面の時、私はこの脇差を見せられた。陸奥守様には封印しておきたい脇差のようだが、ならば、どうして銘を見ることまで許した?」
「うちの師匠は偏屈だから。そうとしか私には申し上げられません」
綱宗の意図には、安定は全面的に同意しているわけではないのか。
「この脇差は今、どうなっている?」
「お屋形様が普段差しになさっておいでです」
大柄とはいえぬ綱宗だが、剛毅な性格に長脇差は合っている。
「陸奥守様の近状が気になるが……」
「お屋形様は世間離れされていますからね。隠居はむしろ背負った重荷を下ろす好機だったかも」
安倫は隠居した綱宗を相変わらず「お屋形」と呼んでいる。山野加右衛門も「太守」と呼んでいた。彼らには呼び方を変える気はなさそうだ。もっとも、幼い世嗣はまだ正式に跡目相続しておらず、元服するまでは綱宗の名義も生きているのだろう。
「まさの殿も陸奥守様を案じていた」
「まさの様はもうお屋形様と関わらぬのが身のため。私もあぶない橋を渡っています」
「そうか」
「明日、お屋形様は吉原へ遊びに出られます。実は、薫でも高尾でもなく、以前から薄雲太夫という遊女に馴染んでおられて……」
高尾にふられた綱宗を、
「薄雲で少しは晴れた御胸也」
江戸市民はそう揶揄した。
「公儀からは逼塞を命じられているはずだが」
助広は綱宗の心底がわからず、戸惑いながらそういったが、安倫もまた困ったように苦笑するのみだ。
「そうはいっても、逼塞の刑は閉門よりも緩く、門戸も窓もふさいで外部との接触を断つわけではありませんし」
外出禁止は昼間だけである。もっとも、夜は「有事」にそなえ、自宅待機が武家生活の基本だ。