童子切り転生(2011年5月の再連載) 一覧

童子切り転生 第十回

童子切り転生 第10回 森 雅裕

 車を東博構内に停め、渡辺綱を携帯で呼び出して、迷いそうな上野の地下を案内させた。

 私はそれこそ鬼気迫る形相だっただろう。それで、私が依吏子再生の解決策を持ってきたことを察したのか、綱は何も尋ねず、別の話題を口にした。

「警察の帝刀保ガサ入れは、地味なものだったようですな」

「テレビは見ていない。新聞は取っていない。若い頃、何年も新聞社でバイトしてたから、ああいうものに金を使いたくないんだ。いい思い出が少ない職場だったもんでね」

「テレビでは、NHKが控え目に報道したのみです。それもガサ入れの映像はなく、協会本部の外観写真がチラリと出ただけでした」

「そんなものさ。今後も世間が気にすることはないだろう」

「むしろ、上野公園から鳩やカラスがいなくなったことの方が、ニュース番組を賑わせている」

 と、茨木が補足した。

「先日まで亡霊たちが跋扈していたこともあって、パワースポットとやらで注目されてるんだ。上野の観光振興会も歓迎してらア。菓子屋は彰義隊せんべい、そば屋は彰義隊丼を売り出した。動物園の売店じゃ彰義隊パンダのぬいぐるみを試作してるらしい。亡霊どもは鳴りをひそめちまったから、いずれ終息するだろうが」

 彰義隊パンダとはどんなものなのか、興味があったが、今はそれどころではない。

「で、協会のガサ入れは?」

「警察は所蔵品の管理体制を捜査しただけで、業者と癒着した鑑定書の濫発については、目を向けていないようだ」

 当然といえば当然なのである。このガサ入れは、官僚が協会の手綱を締める茶番にすぎない。

 綱が、いった。

「文化庁の意向ですよ。世の名刀が偽物だらけという話になれば、文化庁が管轄する国宝や重要文化財の刀剣にも疑惑の目が向けられる。二十数年前にも、重文指定した上古刀が現代の作ではないかと問題化して、国会でも取り上げられたが、結局、文化庁は押し通した。無機物の刀剣でも、鉄を木炭で還元している以上、含有炭素から年代測定ができます。だが、そんな研究をやっている大学に文化庁は圧力をかけたという噂もあります。自らのミスは認めないのが官僚です」

「頼光の遺志を継いで、そんな刀剣界を刷新するのが、お前さんを含めた四天王じゃないのか」

「過去の指定品を俎上にあげたところで、何になります? 高価な名刀の中に偽物が混じっていると指摘すれば、所有者が泣くだけでしょう」

「泣いたって、かまうものか。大体、真の愛刀家なら指定品なんていう肩書きで刀を選んだりしないものだ」

「何だか、ひがみっぽく聞こえますな」

「どうせ貧乏人のひがみさ」

「とにかく、今後、デタラメな指定がなされぬよう、この業界を整備していくことが肝要。過去より未来を考えるべきです。そもそも――」

「何だ?」

「刀剣界刷新のために何ら働きもせぬ者に、とやかくいう資格などありますまい」

「ふん。返す言葉がないね」

 地下室には、協会の鯉墨が預けていった隠匿刀剣、小道具が置かれたままだ。

「そうそう。鯉墨は詰め腹切らされて、協会を辞めることになりましたよ」

「失業しても、この隠匿物を処分すれば、当分は遊んで暮らせるだろう」

「当分じゃなく、一生ですよ」

 そして、革包みの太刀拵に納まった童子切り安綱が置かれていた。

「その童子切りは頼光所持の本物なのか」

「本物です。展示品の国宝と再び入れ替えた」

 綱はそれを茨木に渡した。

「お前の責任で、多田神社へ戻しておけ」

「御神刀がまた自ら戻ってきたと伝説化するかな。拵がピカピカの新品同様になってしまったのも、霊力だと信じてくれれば世話ないが……。とりあえず、童子切りを盗まれた吉野義光にしてみれば、ひと安心だ」

 私がそういうと、当の吉野──ではなく茨木は鼻で笑った。 

「吉野とは俺のことか。お気遣い、ありがとうよ。盗品なんか、俺にはどうでもいいことだがな」

 奥の部屋に入ると、依吏子が以前と変わらず、静止している。今にも動きそうに見えるのが、かえって、痛々しかった。

 私はポケットから目貫を取り出した。

「依吏子の胸の傷に当てろ」

 茨木がいった。それは頼光が童子切り安綱で刺し貫いた傷である。服には血の染みた穴が開いている。それを広げると、直視したくない傷口がある。目貫を押し当てた。

 私の脳が震動した。眼前を猛烈な速度で走馬燈が走った。依吏子が生まれ、成長する過程の映像だ。一緒に暮らしたことはほとんどない私が記憶していないはずの映像も織り込まれていた。

 それどころか、現代とは思えない光景も駆けめぐった。平安時代なのか江戸時代なのか、フィクションの豪華時代劇では見たこともない、細部までリアルで、匂いさえ感じられそうな映像だった。これは舞琴の記憶なのか。

 弾かれるような衝撃が指先にあって、私は目貫から手を離した。目貫は依吏子の膝に落ちた。

 依吏子の前に蒸気のようなものが光を放ちながら立ちのぼり、人の形へと変わった。顔立ちは依吏子のようでもあったが、垂髪に着物姿だ。白小袖に単、袿を重ねた、平安の装束である。バックに音楽さえ聞こえそうな美女の出現だった。

「舞琴……」

 茨木の呼びかけには、千年の重みを持つ万感の思いがこもっていた。吉野の姿ではなく、本来の美青年に変わっている。

 彼と視線を交わし、舞琴は花がほころぶように微笑んだ。美術家なら、その姿を作品に残したいと願う、輝くような美しさだった。実際、光を放っていた。

 茨木が手を差し伸べたが、指先は彼女の身体を空振りし、発光が強くなった。舞琴は光そのものになり、その光は小さくなって、目貫へ吸い込まれた。

 茨木は目貫を拾い、

「依吏子の心臓が動いているぞ」

 と、いった。地獄耳の彼は鼓動を感じるのだろう。私に聞こえたのは別の振動音だ。振り向くと、傍らの童子切りがマナーモードのように震えていた。それがおさまると、今度は地鳴りが聞こえ始めた。地下全体が揺れている。

「娘さんを連れていきなさい」

 綱が素っ気なく、いった。私はまだ目覚めない依吏子を抱き上げた。

 壁がきしみ、天井から破片が落ち始めた。地下室が崩れる。床までもが揺れ動き、不気味な割れ目を開いた。私が転ぶと、茨木がかわりに依吏子を抱え上げた。彼は頭上に落ちてきたコンクリート片をモノともせず、歪んだドアを恐ろしい力で突き飛ばし、通路へ出た。そのあとに続きながら、私は振り返った。

 渡辺綱は泰然と立っていた。私と目が合った。だが、それは一瞬で、崩れる壁と猛烈な埃が、彼我の空間を埋め尽くした。

 地下のどこをどうくぐり抜けたのかもわからぬまま、もがき出た地上は東博資料館の近くだった。揺れはおさまっていた。

「一体、どうしたんだ?」

「おおかた、霊力のバランスが崩れて、地下の古い構造物は崩壊したんだろう」

「いよいよ、この国を壊滅させる大地震かと思ったぞ」

「崩壊したのは上野の地下だけだ。京成の電車はしばらく動けないかも知れんが」

 地上の光景には何の変化もなかった。茨木がまた吉野の姿に戻っているくらいだ。何故だか、こいつを殴りたくなり、数発、八つ当たりした。こっちの手が痛くなっただけだ。

 嘆息混じりに、私はいった。

「渡辺綱はどうしただろう?」

「こんなことでつぶされるタマじゃないさ」

「鯉墨が隠匿した刀や小道具も埋もれちまったぞ。選びに選んだ名品揃いだったらしいが」

「それもまた刀や小道具が持つ運命だ」

 私の足元をつかむ手があった。依吏子だ。

「どこ? ここ」

 目を開き、起き上がると、二回ほど嘆息して、乱れた髪をかき上げた。

「何してるの? 私を巻き込まないでよ」

「ここは上野の博物館だ」

「ええぇ? 私、さらわれたんだよね。誘拐犯、どうした?」

「とりあえず、私たちの前からはいなくなった」

「うわ、埃だらけ」

 彼女には誘拐事件よりも身なりの方が気になるらしい。

「どーせ、おとうさんがろくでもないことやらかした巻き添え被弾を食らったんだよね。あとで穴埋めしてもらうわよ」

「穴といえばなあ……お前、胸は痛まないか」

「別に」

「傷があるはずだ」

「あ。もうヤダ。服に穴開いてるし」

 衿元から、自分の胸を覗き込んだ。

「こっち見ないでよ。……別に傷なんかないけど」

「消えたのか。それは何より」

 依吏子は立ち上がり、青い空を見上げた。

「ひさしぶりに空を見る気がする。──ところで、そちら、どなた?」

 考えてみれば、依吏子は吉野とは初対面である。帝都ホテルで会った時は、茨木の姿だった。 

「吉野義光さんだ」

「ああ。アパート大家の刀鍛冶さん。──どうも、いつも父がご迷惑おかけしています」

 茨木はなげやりに会釈した。手には大切そうに目貫を握っている。彼には、それが恋人だ。

「長居は無用だ」

 私は茨木と依吏子を駐車場へ促した。茨木は傍らに転がった童子切りへ手を伸ばそうとしたが、依吏子が拾い上げる方が早かった。

「さわるな!」

 私は叫んだが、遅かった。依吏子は硬直し、呼吸さえ忘れた様子だったが、

「うわ」

 声を上げ、弾かれたように顔を上げた。

「感電したよ。この刀」

 茨木がその手から刀を奪った。

 私は茨木を責めた。

「何故、さわらせた!? こんな刀に触れたら、また何が起こるか、わからんぞ!」

「おいおい。転がっていたのを親切に拾ってくれただけだ」 

「いいや。お前は何か企んでる。だって、おかしいだろ。茨木は死んで転生しても、舞琴は目貫のままじゃ転生しない。来世で二人が出会うためには、舞琴は近くの女の身体に入る必要がある。え、違うか!?」

「また舞琴の魂が彼女に入ったと?」

「口にするのも恐ろしいこと、いうな!」

「娘を見ろ。何も変わったところはない」

 確かに、依吏子は怪訝そうに私を見ているだけだ。

「どうしたのよ。夢でも見た?」

 私は恐る恐る声をかけた。 

「依吏子。具合は悪くないか」

「全然。感電したら、むしろリフレッシュしたくらい」

 さっきまで死体同然だったのだが、本人には自覚がないらしい。

「何も覚えてないけど、私、何日、こんな有様だったの?」

「五日……かな」

「うわ。公演、どうなってんだろ? あーもう、携帯もバッグも何もないし。携帯貸して」

 貸してやると、依吏子は宝塚の仲間へ連絡を入れた。 

 西門の方向から、黒塗りの乗用車が空気を押しのけるように近づいてきた。私たちの傍らで停まり、後部席の窓が下りた。

「何だか、埃だらけですな」

 菊尾文化庁長官の顔が、そこにあった。

「生き埋めになりかけたからな。上野公園限定の地震があった」

「童子切りはどうした?」

「埋もれた」

「ま、そういうことにしておこう。私には必要なものでもない」

 目の前で、茨木が長いものを持っているのだが、菊尾は追及しなかった。

「おや。……みやび心華さん、御無事でしたか」

 そういうところを見ると、彼女の身に起こったことを承知しているらしい。電話中の依吏子は、恐ろしく爽やかな笑顔で菊尾に会釈したが、ほとんど見向きしなかった。私は彼女を隠すように、菊尾の視線の前をふさいだ。

「菊尾センセイ。地下に用があるなら、消防か自衛隊を引き連れて出直さなきゃ」

「何、地上にだって、私はいろいろ用がありましてね」

 後部席に納まっているのは菊尾だけではなかった。無表情だが、自信にあふれているのが伝わる、年齢不詳の男が同乗していた。哲学者にも凶悪犯罪者にも見えた。ゆっくりと視線が動き、目が合ったのだが、この男は会釈すらしなかった。私も、だが。

 菊尾の車が離れると、茨木がぼそりと呟いた。

「吉備武彦だ」

「え?」

「菊尾の隣の男……。吉備武彦だ。ヤマトタケルの東征に従い、彼が病に倒れると、臨終の言葉を景行天皇に伝えたという、古代の武将だ」

「娘がヤマトタケルの複数いた妃の一人だったという人物だな」

「何、わけのわかんない話してんのよ」

 依吏子は数カ所に連絡していると見え、さらに携帯のボタンを操作しながら、いった。

「お前、『古事記』や『日本書紀』くらい、学校で習わなかったのか」

「音楽学校だよ、私が行ったの」

 世界の違う依吏子にかまわず、茨木は言葉を続けた。

「渡辺綱は、現世に復活して霞が関に入り込んでいるのは、頼光四天王ばかりではない、と匂わせていた。古代史の英雄も蘇ったのかも知れない」

「時代を越えて働かされる人材なら、さぞ優秀なんだろうが、そんな吉備武彦がどうして、菊尾と一緒にいる?」

「以前、鬼が現代にも棲息していない理由はない、と俺がいったのを覚えているか」

「すると、まさか……」

「菊尾は現代の鬼族かも知れない。肚の座りようは人間離れしているし、あの若さでの閣僚入りも鬼だからと考えると、納得できる。あの野郎、盟友あるいは手駒として、古き英雄たちを復活させているのかも」

「鬼が源頼光やその郎党ばかりでなく、日本史上の英雄と手広く結託しているということか」

「目的が同じなら、手を組むさ」

「一騎当千の豪傑どもがぞろぞろ蘇ったとしたら、その目的は物見遊山じゃあるまい」

「この世を変えるつもりなのかもなあ。刀剣を初めとする日本文化にとどまらず、この国そのものを。いや、この小さな島国からも飛び出すかも知れんぜ、あの化け物ども」

「どうでもいい。私の前に現われなければ。お前も消えてくれ。その容姿は不満だろうが、せっかく復活したんだ。自分の時間を有意義に使え」

 車へ乗り込んだ。

「俺の時間とは吉野義光として生きていくことだ。つまり、お前のアパートの大家だ」

「勘弁してくれ」

 電話を終えた依吏子が、バックミラーで顔を覗いたあと、後部席へ乗り込んできた。

「私、とにかく劇場へ行かなきゃ。でも、このボロボロの格好で行って、『拉致されてました』というべきなの?」

「一旦、自宅へ戻れ。送っていく」

 世田谷の高級住宅地だ。地元では知られた家である。娘がタカラジェンヌであることも知られている。地下から這い出た姿では歩けまい。

「休演の段取りはしてあるんだから、急いで駆けつける必要はないだろ」

「そっか。うちにも連絡しなきゃ」

 携帯をいじり続けながら、いった。

「そういや、劇団に妙な診断書が出てるって聞いたけど、何のこと?」

「ああ……。いや、そんなことより、何日も行方不明だったんだ。育ての親に何と説明するか、考えろ」

「あ」

 電話をかけようとしていた手を止め、依吏子は思案し始めた。

 西門から出た車は博物館動物園駅跡を左折して、東博と上野公園の間へ入っていく。鳩が路上をうろつき、カラスが木から木へ飛んでいるのに気づいた。上野から姿を消していた鳥たちが戻っていた。

 しかし、彼らが忌避する童子切り安綱はまだ上野を離れていない。この車の後部席で、茨木が携えている。

(おい、そいつは本物の童子切りなのか)

 尋ねたいが、口には出せなかった。もう関わりたくなかった。

 先刻、依吏子がこの刀に触れてしまったことの意味も考えないことにした。とりあえず、事件は終わったのである。

「依吏子さんは茨木を覚えてますよね」

 唐突に、茨木が訊いた。

「ああ。見た目の涼やかな人ね」

「見た目だけじゃなく、中身もいい奴です。加納夏雄の煙管を持っているんで、あなたが欲しいといえば、くれますよ」 

「馬鹿野郎!」

 私は怒鳴った。こいつ、舞琴と束の間の再会を果たし、殊勝にも感傷的となっていたが、もう立ち直ったらしい。

「茨木! いや吉野! 茨木にいっとけ。俺の家族に近づくな!」

「お前、ほんとに頼光に似てきたな」

「将を射んとすれば馬を射よ、だ。煙管は私に寄こせ」

「前言訂正。頼光以下だ」

「すぐれた芸術作品はアーティストの創作意欲を喚起するんだ。私が持つべきだ」

「俺だって、刀鍛冶というアーティストだぜ」

「お前は──」

「いい加減にしなさい! そこの馬鹿二人!」

 依吏子が怒鳴った。

「大体、ナツオって、誰さ」

「おいっ!」

 私と茨木は声を揃え、同時に嘆息した。

「どういう教育をしているんだ、母里さん」

「私の責任か」

「これが現代日本人の常識レベルか」

「降りやがれ。お前は電車で高砂へ戻れ」

「地下トンネルが崩れて、京成は動いてませーん」

「じゃ、徒歩でもタクシーでも、好きにしろ」

「誰の車だよ、これ──」

「うるさいっ!」

 依吏子の声が車内に響いた。

「目上の人間に向かって、うるさいとは何だ。そもそも、お前、何日も消息不明だった女なのに、男に連絡している様子もないが、大事な相手はいないのか。そんな性格だから──」

「こちとら旅芸人なんだから、男なんて長続きしやしないわよ。でも、降るような縁談が関西の政財界から──」

「親子喧嘩か。子は親の鏡とは、よくいったもんだぜ」

 三人はそれぞれ、勝手に言葉を続けた。

 外は陽が射している。私たちは両大師橋から上野の山を下った。埃っぽい町が行く手にあった。とりあえず、平和だった。

 

お知らせ。
「童子切り転生」は今回で最終回です。

童子切り転生 第九回

童子切り転生 第9回 森 雅裕

 校門まで戻ると、茨木が美校の警備員と揉めていた。……と思ったが、見れば、揉めているのは和服姿の痩せた老人で、茨木はむしろなだめていた。

 老人は胸を張って、怒鳴っている。

「出ていけ、とわしに指図するのか。いつから、美校は番犬が教官より偉くなったのだ!?」

「うるさいっ!」

 ボキャブラリーに乏しい番犬、いや警備員は単純な怒声を返すばかりだが、爺さんは口が達者だった。

「貴様のような奴を地球のゴミ、人間のクズというのだ」

「うるさいっ!」

「芸術家に敬意を払わぬ奴はクビにしてやる! 校長室はどこだ!?」

「うるさいっ! 入るな!」

 まあまあ、と茨木は老人を抱き留め、私たちの前まで引っ張ってきた。

「茨木。どうしたんだ?」

「美術館でこの爺さんと意気投合してな。美術館は歩きにくい構造で頭に来るし、感動するような展示品もなかったが、キャンパスを見て歩くうち、爺さん、誰かの銅像を見つけて、実物の方がいい男だとか文句いいながらも、えらく喜んじまった。しかし、鳩のフンまみれなので、校舎のどこかからバケツ運んできて、洗おうとした。それで、警備員が、部外者が何をするか、出ていけと注意して、この騒ぎだ」

「わしの銅像だ」

 どこかで見たような老人だった。痩せさらばえているが、風格があり、人を見る目がある者なら、粗略に扱ってはいけない人物と直感するだろう。

「あなたの銅像とは、つまり、作者ということですか」

「彫る側ではなく、彫られる側だ。わしの胸像だ」

 芸大キャンパスには多数の彫刻が設置されている。歴代教官の銅像、胸像もあるが、故人ばかりのはずである。「学長」ではなく「校長」という言葉を発していたところを見ると、この男、昔の教官なのか。東京芸術大学美術学部の前身である東京美術学校時代の……。

「もしや、地下から蘇ったのでは……?」

 私の疑問に、老人はあっさり答えた。

「わしの墓はすぐそこ、谷中だ」

「あの、あ、あなたは……」

「お。墓へ戻る時が来たようだ」

 渡辺綱が彰義隊の霊を鎮めるといっていたが、他の霊にも波及したようだ。

「失礼するぞ」

 老人は谷中方向へ駆け出した。見た目に似合わぬ俊敏さだ。

「あ、待って……」

 私の声が届く前に、彼の後ろ姿は陽光の中へSFXのようにかき消えた。

「おい」

 私は茨木に詰め寄った。

「胸像って、どこの、どういう胸像だ?」

「門から右へ入って、左側の雑木林にある。烏帽子かぶった胸像だ」

「加納夏雄だ」

「あ。あれが……」

 彫金史上最高ともいえる名人である。幕末には刀装具を制作したが、明治に入ると、彫金全般で活躍し、美校でも教鞭をとった。

「うわ。せっかく夏雄と出会えたのに、もったいないことをした。彫金の技法を尋ねたかった」

「お前も奇特な奴だな。何か記念の品をもらいたかったとは思わないのか」

「私はそんな俗物ではない。学生時代には仙人と呼ばれていた」

「あ、そ」

 茨木は指先で細長いものを器用に回転させている。煙管だ。

「何だ、それ」

「あの爺さん、これで警備員を殴ろうとしてたから、取り上げた。金具は、犬、猿、キジを従えた桃太郎を片切彫りしている」

「まさか、在銘じゃなかろうな」

 茨木は東博へ向かって歩きながら、煙管を確認した。

「あれ。夏雄、とある」

「お前、お前な、そんなもの欲しがる俗物か」

「しょせん、俺は鬼だよ。仙人じゃない」

「桃太郎なんて、鬼の天敵じゃないか。そんなの、いらんだろ」

「そうでもない。夏雄は吉野も欲しがっていたからな。お前はいらないようだが」

「いや。決して、そんなことは……」

「お前は河野春明師に私淑しているんだろ」

「それはそうだが……」

「でも、こんなのがそばにあれば、彫金家にはいい手本になるよなあ」

「茨木クン。ここは話し合おうじゃないか」

 やりとりを聞いていた頼光が露骨に嘆息した。侮蔑と怒りが混じっていた。

 博物館動物園駅から、我々は再び地下へ潜った。

 

 東博の地下へ戻ると、すでに渡辺綱が戻っていた。大きな目が明るく、鼻が高く、本来は明朗な若者であることを想像させる風貌なのだが、今は表情が固い。

「鯉墨はやたらと霊を気にしていましたよ。でも、車の後部席に霊が一人、乗っているのも気づかずに引き上げていきました。彰義隊の侍ではなく、かなりタチのよくない悪霊のようでしたが」

「低級な人間には低級な悪霊が取り憑くものよ。で、彰義隊の霊は?」

「私が鎮めておきましたが、この地にはさまざまな魑魅魍魎がうごめいておりますな。今は童子切りが彼らを封じているものの、これを上野から動かすと、またぞろ怨霊どもが這い出るかも知れませぬ」

「ふん。春になれば、上野では人間どもが花見と称する乱痴気騒ぎを起こすと聞いている。怨霊の方がつつましいではないか」

 奥の部屋に入ると、椅子の上の依吏子は先刻と同じ姿勢だった。父親が童子切りで胸を貫かねば、彼女は仮死状態のままだ。

 頼光は覚悟を決めたようだ。 

「母里よ。お前は小説を書き、彫金をやるのだったな。お前の作品を見ることができず、残念に思うぞ」

 別れの言葉のつもりらしい。だが、覚悟を決めたのは彼だけではない。

 童子切りは粗大ゴミみたいな机の上に置いてあった。私がそれに手を伸ばしても、頼光は制止もしなかった。

 私は童子切りの鞘を払った。切っ先を返し、刀身を握って、自分の胸に突き立てようとした。しかし、トラックにでもぶつけられたような衝撃があり、渡辺綱に腕をはたかれただけなのだが、私の身体は壁際まで弾き飛ばされていた。

 童子切りは綱の手に奪われ、その刃をつかんでいた私の掌には切り口が開いた。ゆっくりと血が流れ出した。

 私は綱に飛びかかったが、再び跳ね返された。

「殺せ!」

「この安綱を揮えば思うつぼ。だが、あなたを殺すのに太刀などいらぬ。腕一本で殴り殺せますよ」

 この騒ぎにも動じず、依吏子と向き合っていた頼光が、ようやく振り返った。

「自分の命を捨てて娘を救おうとするとは、見上げた親心だな」

「でもないさ。種の保存という見地で考えれば、親が子を守るために命を投げ出すのは美談でも何でもない。生物としての本能だ」

「その本能、お前だけが持っているのではない」

 頼光が上着を脱ぎ捨て、綱に向かって、おのれの胸元を示した。

「綱よ。私を刺し貫け」

「頼光様。しかし、それでは御身は滅びますよ」

「かまわぬ。あとのことはお前に頼む」

「そうですか」

 渡辺綱はどこまでも屈託がない。綱は童子切りを両手で握り直した。切っ先が頼光へ向けられた。平安の武将二人は落ち着いていて、悲壮感はない。整然と進められる芝居の舞台のようでもあった。だが、鑑賞や傍観はしていられない。私には毒づくしかできなかったが。

「この野郎。奏楽堂でいやにしみじみしていやがると思ったが、ベートーヴェンが冥土の土産か」

「土産はこの世で見聞きしたこと。お前のようなろくでなしとの出会いを含めて、な」

「けっ。もしかして、普通に出会っていれば友達になれたかも、なんていうなよ」

「母里よ。お前は煩悩の絶えぬ奴。生き続けて、苦しむがいい。そして、新旧二つの刀剣協会の今後を、私にかわって、見届けよ」

「御免!」

 渡辺綱が叫び、頼光の胸板に童子切り安綱の切っ先が入った。刃が一気に進み、背中へ抜けた。

 頼光は膝を折り、唸りながら童子切りを胸から引き抜いたが、血が噴き出るようなことはなかった。そして、倒れた。

 私はよろよろと這い寄り、頼光の胸と顔に触れ、心臓が動いていないこと、息をしていないことを確かめた。

 茨木は傍らに立ち尽くし、呟いた。

「御臨終か、頼光。淋しくなるな。長い長いつきあいだったからな」

「もともとこいつは怨霊だぞ。心臓が動いていなくても、これが健康な状態なのかも知れん」

「死んだよ、この男は」

「どうして断言できるんだよ!?」

 怒鳴る私の足元で、頼光の身体はガサゴソと音を立て、黒いヒビが細かく走り、崩れ始めた。次第に人の形をなさなくなり、砂と化した。その砂も風などないのに吹き散らされるように消えていった。

「これでわかったろ」

 だが、奇妙だった。依吏子の身体は動かない。舞琴は覚醒しない。

 私は血まみれの自分の両手を拭いながら、いった。

「茨木。起動ディスクがどうとか御託を並べていたが、この有様はどういうことだ?」

「俺の責任のようにいうな」

 茨木は私の手を握った。何をしやがる、と罵倒しかけたが、安綱による創傷がたちまちふさがった。やはり、こいつは友達にしておくと便利かも知れない。

 茨木は険悪な人相をさらに凶悪にして、しばらく瞑目していたが、その瞼を開くと、渡辺綱を睨みつけた。綱は綱で、主人を手にかけた自責の念があるのだろう、呆然としている。

 茨木はその手から童子切りをひったくり、刀身を一瞥したが、すぐに返した。

「綱よ。ちょいとつき合ってくれ。東博の刀剣室へ行きたい。案内しろ」

 地下を伝って博物館へ入った。迷路のような階段、廊下を過ぎ、平成館から古い本館へ踏み込むと、周囲の空気が変わる。立入禁止のロープを越え、展示室を半周もすると、刀剣室だった。

 そこには「国宝」の童子切りが鎮座している。

「母里よ。この童子切り……何か感じないか」

「さて。お馴染みの童子切り安綱だが」

「これは頼光の童子切り。つまり、本物の方だ」

「何をいってる。頼光の童子切りは雉子股茎だ。国宝の童子切りとの違いは一目瞭然……」

 いいかけて、私は言葉を失った。あらためて凝視すると、何かが違う。目の前の童子切りの茎は確かに通常の形状をしているし、刀身も垢抜けない作りで、写真でも現物でも見慣れた国宝の姿である。だが、ガラスケースの中に妖気が充満している。以前、茨木が口にした「鬼の悲鳴」というやつか。

「どういうことだ、これは」

「感じるか。お前の感性も鬼に近づいたな」

「すり替えられたのか」

「そうだ。童子切りの霊力によって、二本の安綱は姿を入れ替えた。国宝の童子切りで頼光の胸を刺し貫いても、舞琴の魂を蘇らせるには至らなかったわけさ」

「だが、あの妖怪変化を滅ぼすとは、さすがは国宝。これまた千年の歴史を持つ付喪神としての霊力を秘めていたということか。しかし……」

「龍眼寺で春明師の霊を呼び出した童子切りは確かに頼光愛用の本物だった。すり替えられたのは我々が芸大で音楽や美術を鑑賞し、夏雄とお近づきになっていた時しかない。そんなことができたのは……」

 茨木と私は渡辺綱を睨んだ。ここには職員も一般客もいるし、防犯カメラもある。平凡な人類には白昼堂々、国宝を盗み出すことはできない。綱は否定せず、語った。

「ここまで、私は頼光様に従ってきたが……はたして、それでよかったのかな。千年の間、頼光様に真の安らぎは訪れなかった。もう、いいでしょう」

「成仏させたというのか。それは親切心なのか」

「どうかな。ただ、舞琴殿が蘇っても、彼女の心は茨木にある。無理矢理に私の嫁にしようとは思いませんな」

「格好つける奴だ。しかし、頼光ともあろう者が、安綱をすり替えられたことに気づかないとも思えないな」

「何をおっしゃりたいんです?」

「頼光も覚悟していたのではないかな。そもそも、お前と舞琴を夫婦にするつもりなら、邪魔な茨木を生かしておくはずがない。なのに、この忌々しい鬼は追い払われもせずにここにいる。つまり、頼光は子離れして、成仏することを選んだ」

「なるほど」

 綱は無表情だ。孤高というべき雰囲気を放っている。私は今さら、この男に興味を持った。

「それで、頼光を失って、お前はどうする気だ?」

「これでも、弑逆という自責の念は有しています。頼光様はあとは頼むと仰せられた。その期待は裏切れません。頼光様は日本刀を代表とする大和文化の行く末を案じておられた。我ら、その遺志を継ぎます」

「我ら……?」

 私は聞き返した。

「お前には仲間がいるのか。おい、まさか……」

「ええ。頼光様のもとへ馳せ参じたのが私だけと考える方が不自然でしょう」

「頼光四天王が蘇ったのか。お前の他に、坂田金時、碓井貞光、卜部季武が……」

「それだけなら、まだ少数勢力ですがね」

「うわ。他にもいるのか」

「文化庁も警察も、すでに彼らが牛耳っています」

「それはそれで、危険な匂いがするぞ。そもそも、美術や工芸は官庁が監督するべきものじゃない」

「我らも未来永劫、現世にとどまることはできません。利権に群がる者どもを掃除し、再び不正がはびこらぬよう、組織、法令の整備を終えれば、墓に戻ります。どうなるかは人間ども次第ですが、救いようがなければ……」

「最悪の場合は、この国ごと壊滅か」

「それもないとはいえませんね」

「利権に群がる連中も不愉快だが、私としては、いい加減な仕事ぶりのくせに『先生』と祭り上げられている刀関係の職人たちを掃除して欲しいがな」

「母里さん。そうした職人をもてはやすのは、どうせ愚かな人間ども。放っておくに限ります」

「そうだな。私には、もっと切実な問題がある」

 依吏子を救わねばならない。

「渡辺綱。あんたは舞琴が蘇ることは望まないのだな」

「私は結構です。だが、茨木」

 と、鬼に声をかけた。

「お前はどうなのかな。恋人との再会をあきらめられるか」

「あきらめはしない。楽しみは何百年か先にとっておく」

 私は彼らに友情を感じてもいい気分になった。

「二人の厚情に感謝するよ。じゃ、この本物の童子切りをガラスケースから出して、私に渡してくれ。本物の童子切りで、私が死ねば、それで解決するはずだ」

「まあ待て」

 茨木が手で制した。

「別の手を考えよう。母里ならではの方法があるはずだ」

「別の手?」

「依吏子が息を吹き返す方法、そして削除された舞琴の魂も消滅せずにすむ方法だ」

「依吏子はどうする? ここへ置いておくのか」

「お前の狭い部屋じゃ、依吏子の居場所なんかないだろう。かといって、仮死状態の彼女を預かってくれるところもない」

「それはそうだが」

「ここなら、近くに本物の童子切りがあるから、彼女に悪戯しようとする悪霊どもも現われない。現われても、綱が守るさ」

 だが、私は渡辺綱という武将が信用できる男かどうかを知らないのである。茨木は私のそんな疑念を察し、

「綱は、信頼されれば裏切ることはできぬ性分だ」

 そういって、冷たく笑った。

 綱は私たちに背を向け、刀剣室を出ようとしている。振り返りもせず、

「解決策を待っています。私への連絡は依吏子の携帯へ寄こしてください」

 と、言葉を残した。

 

 時計を見ると、宝塚の舞台は昼の部を終え、夜の部にそなえている時間だ。依吏子の同期に電話し、診断書を渡すと告げた。

 日比谷の劇場へ車を走らせながら、私は茨木に訊いた。

「どうしたものかな」

「煩悩が絶えぬ奴という、頼光の捨て科白を気にしているのか。その煩悩を創作に昇華するのが芸術家だろ」

「……私の心臓に童子切りを突き立てることなく、依吏子を救う手立てについて、話している」

「何だ。お前にもわかっていると思ったが」

「帯留となった目貫だな」

「ああ。舞琴の魂はもともとあの目貫に宿っていた。なら、戻ることもできる理屈だ」

「目貫を帯留に改造されるのがいやで抜け出した魂だぞ。戻すなら、目貫に修復しなきゃなるまいな」

「依吏子の身体から舞琴の魂が抜ければ、依吏子の魂が起動するはず……」

「しかし、あの目貫は頼光が真っ二つに切断してしまった。その修復もせねばならない」

「できないのか」

「もしかして、俺に尋ねているのか。プロの彫金家の仕事だろう」

「そんな連中に依頼すれば、完成まで半年や一年待たされることも珍しくない。お前もよく知っているだろう」

「できるかできないかと問われれば……裏側に補強用の銅の薄板を張って、鑞付けすれば、とりあえず二つを一つに接着はさせられるが、熱を加えるから、表面は酸化するし、形も歪む。色絵や象嵌も傷む。そうした部分まで、制作当時のままに復元するのは不可能だ。かなり、私の手が入ることになる」

「いいじゃないか。舞琴は江戸末期には環という春明師の娘で、現代の依吏子はお前の娘だ。父親同士が合作した目貫こそ、彼女らを救うにはふさわしい」

「依吏子はともかく……舞琴は救われるのかな、それで」

「何をいいたい?」

「目貫に移った魂は、いつかまた抜け出なきゃ憑依も転生もできないだろう」

「理屈馬鹿だな」

 茨木は私の疑問を一蹴した。

「将来のことはお前は心配しなくていい。鬼の血筋をなめるな。魂は永遠だ。お前が目貫を見事に修復すれば、な」

「そりゃ、全力を尽くすが……」 

「銅の薄板を張るといったな。目貫と同じ材料がいいだろ。鬼が作った山銅だ」

「そういえば、協会の展示室に春明師の彫金板があったな」

「目貫を作った残りの銅板だ。あれをいただいてこよう」

「盗むのか」

「証拠は残さない。心配するな」

「そうじゃなくて、良心の問題だ。目貫の修理に必要な銅板はごく少しでいい。彫金板を丸ごと寄こされても、彫刻のない端っこをちょいと切り取るだけだ。彫刻部分は人目をはばかって死蔵することになる。美術工芸品はそんな扱いをすべきじゃない」

「わーかった。じゃ、端っこを切り取ってくるだけにするよ」

 協会は閉館の時刻が近づいているが、茨木には支障はないだろう。タクシーで協会へ向かうという彼とは日比谷で別れ、私は依吏子の同期を携帯で呼び出した。

 劇場の正面ではファンの目がうるさい。劇場を回り込んだ場所へ現われた人のいいタカラジェンヌは、

「依吏子、大丈夫なんですか」

 心配というよりは疑惑の表情だ。しかし、明るい眼差しで見つめられると、こちらこそ勇気づけられた。

「大丈夫。それより、元気になった時、問題なく公演に復帰させてもらえるよう、エライさんや上級生に取りなしを頼む」

「まかせといてください」

 診断書を見た彼女は病院名を見て、怪訝そうではあったが、何かいわれる前に、

「あ。これやるよ」

 私は携帯につけていた自作のストラップを彼女に押しつけた。銀無垢で、宝塚娘役の姿を彫っている。フィナーレ衣裳の定番である羽根つきドレス、手には羽根扇だ。もっとも、私の前にいる彼女は男役なのだが……。

「今度、男役の姿で作ってやるから。よろしく頼む。じゃっ!」

 逃げるように、その場を離れた。

 

 その夜から私は目貫の修復を始めた。目貫本体を傷めぬよう、慎重に帯留金具をはずしたところで、茨木が現われ、ポケットから小さな金属片を取り出した。山銅だ。

「協会の展示室へ乗り込んで、いただいてきた。職員どもが上を下への大騒ぎかと思いきや、終業後は人気がなかったぞ」

「末端の職員は不正とは無関係だし、ガサ入れが迫っていることも知るまい。悪い奴は悪い奴で、とっくに証拠湮滅しているさ」

 金属片の切断面はきれいだった。

「今さらの質問だが、どうやって切り取った?」

「爪だ」

 茨木は人差指の爪先で宙を切る動作を見せた。こいつの爪はすでに人体の一部ではなく、工具であり、凶器だ。

「金ノコや糸ノコが不要なら、職人として便利だな」

「吉野義光はますます偉大な刀鍛冶になるぜ」

「ほお。お前、刀鍛冶として生きていくつもりか」

「結構、面白そうだからな」

 茨木を追い出し、修復が終わるまで会わなかった。こんなに一つのことに没頭したのは、文学賞の応募作を執筆していた若い頃以来だ。

 この山銅の板を目貫の裏に入るサイズに切り、鑞付けするわけだが、目貫そのものを何度も加熱することを避けるために、銅板には先に根っこを鑞付けし、さらにそれを目貫へ鑞付けした。

 鑞付けに際して、目貫の表に蝋が回らぬよう、砥の粉を塗った。それでも、切断された目貫を接着させた境目は見えてしまう。それを表と裏から叩いてナラし、舞琴の衣服の部分なので、上から金と赤銅を着物の柄として象嵌することで、この傷を隠した。むろん、対となっている鬼との釣り合いもとらねばならない。

 他にも鑞付けの加熱で傷んだ部分を修復し、最後に色上げをすませ、作業は完了した。いうだけなら簡単だが、二日は完全徹夜し、三日目はダウンして寝てしまったが、起きてまた一日徹夜だった。

 すぐにも東博へ飛んでいきたかったが、風呂にも入っていなかったので、精進潔斎の意味もあって、シャワーを浴び、頭上の階に住む茨木童子を電話で呼び出した。

「終わった。出かけるぞ。車のキーを持ってこい」

「寝てないだろ。運転、大丈夫か」

「依吏子を連れ帰るのに、電車ってわけにはいくまい」

 アパートに隣接するコンビニで買ったおにぎりを口へ押し込みながら、吉野の車に乗った。いや、彼の家族の車だが、吉野が刀剣商に届けねばならない刀が何本かあるから、と借りる理由をでっちあげた。

 完成した目貫を見た茨木は、

「春明師の技には及ぶべくもないが、的は外していないな」

 素っ気なく評したが、それは最上級の賛辞といえた。 

童子切り転生 第八回

童子切り転生 第8回 森 雅裕

 中川を渡り、水戸街道を墨田区方向へ南下しながら、私はこの三人が同乗している状況を観察していた。異常すぎる事態には人間は他人事のように冷静になるものらしい。

「呉越同舟とはこのことだな。そういえば、頼光様は出会った人間を意のままに操れるそうだが、私が今、運転手なんぞやっているのは、自分の意思ではないのかな」

 頼光は一切の愛想も洩らさずに答えた。

「お前が私におとなしく従わぬ時には、そういうことも有り得るな。だが、今のところ、その必要はなかろう。それに――」

「それに?」

「現在、舞琴が宿っている依吏子の父親だからな。敬意を表している」

「そんな殊勝な頼光様でもあるまい」

 茨木が、いった。

「依吏子の父親となれば、どうせ常人ではない。精神に欠陥を持つ一種の異常者だ。簡単には操れないのさ」

「異常だといわれるのは慣れているが、それでうれしく感じたのは初めてだ」

「よかったな」

「お前、茨木……。吉野とそっくりだぞ、そのねじ曲がった物言い。記憶だけでなく性格まで引き継いだのか」

 私が嘆くと、頼光がドスのきいた笑い声を発し、いった。

「もともと、茨木の性格はねじ曲がっているから吉野とは相性がいい。それだけのことだ」

「停めろ」

 茨木が叫んだので、喧嘩でも始まるのかと思ったが、

「病院がある。診断書をもらってくる」

 目に入ったのは産婦人科の看板だったが、茨木は躊躇なく飛び込んでいった。

 頼光と車内で二人きりになり、この男が放つ猛烈なオーラを体感したが、私は無視した。依吏子の無事を願う焦りや苛立ちの方が大きかった。

 そんな私の心情を頼光もまた無視して、

「吉野とは友人だったのか」

 と訊いた。

「まアな」

「変人だったようだ」

「他人と言葉のキャッチボールができない男だったよ」

 大学から刀鍛冶へと寄り道しなかったので、社会経験が偏っていた。矛盾するようだが、お人好しではあったものの、性格は悪かった。

 私が「こういうことに興味があるんだ」というと「つまんないな」

「こうなるといいな」といえば「まあ無理だな」

「こういう困ったことがあって」といえば「お。よかったね」

 そういう男だった。これでは会話が成立しない。心理学でいう不全感だ。

 何年もつきあううち、私は娘が宝塚にいることを話す機会を探っていた。ある時、一緒に入った食堂のTVが、早起きをテーマにした番組をやっていた。今だと思い、

「宝塚音楽学校の生徒は早朝に登校して掃除するらしいよ」

 私はそう切り出した。何でそんなこと知ってるの? と訊いてくれば「実は──」と話が広がったのだが、吉野の反応は、

「へっ。母里さんはそんな早起きしたことないよね」

 というものだった。かくして、私は娘の存在さえ、彼に告げる機会を失った。

「ありゃあ刀鍛冶になるために生まれてきた男だったな。私はね、家庭を持たず、文壇でも干されたが、そうした世俗的な幸福と引き替えにしても、吉野と友達ならそれでいいやと思っていた」

「ふん。お前なら、茨木とも友情を育めるだろうよ」

 頼光は、うれしくもないことを請け合ってくれた。

 戻ってきた茨木は病院名の入った封筒を寄こした。中身を見ると「両足脱臼全治二週間」と走り書きしてある。

「文句いうな」

 茨木に機先を制され、私は無言で、再び車のギアを入れた。

 

 横十間川沿いに建つ龍眼寺の駐車場へ車を入れた。檀家でもないのに図々しいとは思ったが、レッカー移動されようが、ヤンキーに傷つけられようが、乗ってきた我々には痛くも痒くもない。

 龍眼寺は室町初期の創建で、萩寺の別称で知られる名刹ではあるが、現在では特に大きいわけではない。

 芭蕉の句碑など、いくつもある記念碑の中で、河野春明の石碑は脇役の扱いだ。不動堂の脇にひっそりと建っている。その表面に「春明法眼之碑」とあり、裏面には発起人たちの連名と「本来無一物ヲ身ヲ以ッテ実践シタ名工ノ江戸ッ子気質ヲ偲ビ──」という碑文が刻まれている。

 これが墓の代用だから、私は手を合わせた。私だけがそうした。茨木と頼光は、何をやっているのかといいたげに傍観している。

 安政四年の末、春明は新潟で客死し、現地で火葬した翌年、龍眼寺に遺骨を埋めている。

「寺の過去帳には、こんな悪い仏はないと記されていたという。お布施など一切なかったらしい。墓は遺族からほったらかしにされたので、共同墓地へ改葬された。その共同墓地も今となっては正確な場所はわからない」

 私の説明を噛みつきそうな表情で聞いていた頼光は、

「骨がこの境内のどこかに埋まっているなら、それで充分だ」

 釣竿入れに隠していた童子切りを抜き出した。

 繰り返すが、ここは大きな寺ではない。目と鼻の先に寺務所があり、参詣客だか観光客だかも歩いている。だが、例によって例のごとく、我々の行動には誰も見向きしなかった。

 頼光は童子切りを春明記念碑の前に、まっすぐ突き立てた。二尺七寸にも及ぶ長刀だが、ハバキ近くまで深々と沈んだ。

「まるでアーサー王のエクスカリバーだな」

 と、私は感心した。

「こいつを引き抜くことができたら受験合格とでも謳って、観光資源にするか」

「河野春明を呼び出す」

「……イタコはここにはいないようだが」

「口寄せなどではない。本人がここに現われる」

「かねてから、霊を呼び出すとかUFOを呼び寄せるって話を聞くたびに思うんだが、霊にも宇宙人にも都合ってもんがあるだろう。見ず知らずの他人が呼んでるからって、いちいち現われるものかね」

「まんざら、知らねぇ仲じゃねーよ」

 聞き慣れぬ声が地中から湧いた。童子切りは放電するかのような光を放ち、地面と木々に含まれていた水分が一気に蒸気となって、視界を真っ白にした。

 蒸気が消えると、あたりのハナモモやアジサイに季節を無視した花が咲き、石碑の台座には男が座り込んでいた。小さな髷を結い、格子縞の着物を着込んだ老人だ。

(これが河野春明か──)

 いささか粗野だが、知性は感じさせる。その老人が、いまいましそうに、我々を見上げた。

「源頼光だな。一度、会ったことがある。安政の地震の修羅場でよオ。おや。そっちは――」

 茨木を見やった。見た目は吉野義光だが、

「お久しい。茨木童子です」

 そう名乗っても、老人は驚かなかった。そのかわり、しみじみと嘆息した。

「お前、冴えねぇとっつあん姿になっちまったなア。で、も一人は絵描きかな」

 私のことである。

「何故、そう思います?」

 尋ねると、

「だって、お前はあの先生の生まれ変わりだろ。俺には見えてるぜ」

「だ、誰の生まれ変わりだって?」

「そんなことはどうでもよいわ」

 頼光の声が割り込んだ。

「春明法眼。お前を呼び出したのは他でもない」

「面白い話なんだろうな。こちらの都合もかまわず呼び出しやがって」

 何だか私と気が合いそうな老人だった。彼は立ち上がり、伸びをすると、周囲を見回した。

「ここは萩寺だろう。随分、こぢんまりとしちまったな。おい。ありゃ何だい。巨大なウナギ捕りのドウみたいだ。ひでぇ造作だな」

 彼の視線の先には建設途中のスカイツリーがあった。

「俺の娘の姿が見えねぇ。察するに、そこの先生の娘に生まれ変わったものを舞琴として復活させようって算段か」

「そこの先生」とは私のことらしい。

「察しがいい」

 と、頼光。

「けっ。頼光が俺に用ありとすりゃあ、舞琴のことだろう。もっとも、俺の娘として生まれた時には、輪っかの環と書いてタマキという名だったが……。どうでエ、いい名だろ」

「いいですね」

 お世辞でなく、私は即答した。実は、私も娘にそう名付けたかったのだ。しかし、私が依吏子の誕生を知った時には、すでに命名されていた。河野春明の娘が環だったとは初耳だが、これも因縁か。

「おや」

 春明は彼の鼻先で、地面に突き刺さっている太刀に目をとめた。

「童子切りか」

「この神剣の霊力をもってしても、舞琴は蘇らぬ」

「頼光よ。俺が目貫を作った時には、生命を捨てる覚悟だったぜ。実際、精も根も尽き果てて、それから二年で死んじまった。お前ももう死んでいるわけだが、現世を未練たらしく彷徨ってちゃア生きてる者が迷惑する。その妖怪変化の魔力を捨てて、成仏しな」

「わしが成仏すれば、舞琴は蘇るのか」

「少なくとも、舞琴はそれを望んでいると思うぜ。平安の頃から……えーっと、何年くらい経った?」

「千年と少々」

「千年もの長きにわたって、お前は娘をしつこく追いかけ、色恋の邪魔をしてきた。いい加減に子離れしやがれ」

「成仏したら、あの世でまたお前と相まみえることになる。舞琴が蘇らなかったら、ただではおかぬぞ」

「そうはいってもなア……。俺はもう死んでるんだぜ。これ以上、どうしようってんだ?」

「ふん」

 頼光は童子切りの柄に手をかけ、ズルズルッと音が聞こえそうな勢いで、引き抜いた。再び、周囲に真っ白な蒸気が湧き上がった。春明の姿が消えかかる。彼は抗議した。

「おいおい。この世のうまいものも食わせねぇで、もう追い返すのかよ」

 私は蒸気をかき回し、叫んだ。

「待て! 私にも訊きたいことがある。春明先生! 針先ほどの点象嵌のやり方とか、いや、あ、そうだ、奈良利寿の大森彦七図の鐔は鉄地に赤銅の人物を高彫象嵌しているが、鉄と一緒には色上げできないし、かといって、あらかじめ色上げした赤銅を象嵌すると、彫り込むことはできない。なのに、表から裏へ彫りがぐるりと回ってる。どうやって、あんな――」

「何でエ。お前さん、彫り師か。絵描きか黄表紙書きかと思ったが」

「わ、私が生まれ変わりだという人物は黄表紙も書くのか」

 黄表紙とは、要するに大衆小説である。

 閃光が迸り、目が眩んだ。春明の姿は消えてしまった。

「行くぞ」

 頼光は身を翻し、駐車場へ歩いていく。私はしばらく石碑を見つめていた。

「せっかく河野春明に会えたのに、ろくに話もできなかった」

 ぼやきながら振り返ると、茨木の姿も近くになかった。しかし、聞こえていたらしく、駐車場で追いつくと、答えてくれた。

「とっととお引き取り願って、正解だ。長時間、こちらにいると、あっちに戻れなくなって、彷徨うことになる。それに、長く話なんかしたら喧嘩になる。あれはそういう人物だ」

「そういう奴ばかりだよ、私の周囲は」

「呼び寄せているのさ。お前の宿命だ。――なあ、頼光もそう思うだろ?」

「お前たちと世間話をする気はない」

 頼光の声は重く冷たい。車に乗り込んだが、後部席の彼を振り返る気になれなかった。ルームミラーを盗み見ると、悪魔の姿でも映っているかと思えば、気むずかしそうな偉丈夫が現世を拒否する表情で、目を閉じているだけだった。

「依吏子のいるところへ向かうぞ。どこだ?」

 私が訊くと、頼光は嘆息するように答えた。

「上野の国立博物館だ」

「ふさわしいようなふさわしくないような、微妙な場所だな。文化庁の菊尾に世話してもらったか」

 ギヤを入れ、慎重に走り出した。墓参りなどすると、霊は事故などの「お礼」を見舞うという。若い頃、浅草にある葛飾北斎の墓へバイクで出かけ、帰り道でぶつけられたことがある。そんなは「お礼」は遠慮したい。

「私が生まれ変わったという人物は誰なのかな」

 私が呟くと、茨木と頼光は同時に、

「知りたいか」

 底意地の悪い笑みを浮かべた。

「いい。いうな。いうんじゃない」

 私の語気は強くなった。

 

 上野公園へ入り、東博を回り込むように西門へ向かっていると、TVの取材クルーらしいのが、何組か見えた。

「上野公園で何かあるのかな」

 私が呟くと、頼光はろくでもない返事を寄こした。

「おかしなものが見えるという噂を聞きつけてきたんだろう」

「おかしなもの?」

「亡霊だ。そこにも」

 教えられなくても、木々の間に「それ」は見えた。髪を振り乱した、袴姿の男だ。しかし、確かめようとすると、消えてしまった。

「何だ、ありゃあ」

「彰義隊とやらの亡霊が彷徨っている。一人や二人ではない」

「あんたの影響か」

「私と童子切り安綱の影響だ。我らの霊力によって、上野の山から鳩やカラスがいなくなった一方、眠っていた怨霊どもが目を覚ました。まあ、あいつらは悪さはせぬ」

「だけど、どうするんだよ、上野公園を丸ごとお化け屋敷にするつもりか」

「私としても、うっとうしい者どもだ。魂を鎮めてやれば、また眠りにつく。気にするな」

 最後の「気にするな」は、飛び出してきた怨霊を轢いてしまったことだ。思わずブレーキを踏んだが、衝撃は感じなかった。気にしないことにした。

 東博に到着すると、用済みの運転手は「始末」されるかと思いきや、頼光は私や茨木には目もくれず、平成館へ足を早めた。私たちがあとに続いても、追い払おうとはしなかった。

 駐車場には見覚えのある傷だらけのGT-Rが停まっていた。代々木の帝刀保にあった車だ。

「車が可哀想だ。買われた相手が悪かったな」

 私はこの車の運命に同情した。その反面、満身創痍の有様を見るのは気分爽快でもあったが。

 我々は平成館に入り、明るく長い、しかし窓が一切ない通路を進んだ。途中、何箇所か警備員の詰め所があったが、例によって、彼らの目が私たちに向くことはない。

 廊下、階段を紆余曲折するうち、明るい通路をはずれ、地下へ下りていた。そして、別世界へ出た。地下道である。汚ないトンネルだった。

 廃止された博物館動物園駅の構内らしかった。私の時代の芸大生が使っていた駅である。ところどころ電気が通じており、それだけでなく空気そのものもぼんやりと発光している。

「菊尾が虎ノ門へ案内してくれた時、政治家という妖怪変化は暗い密室が好きではないという話になったが、さすがに本物の怨霊の隠れ家は趣味が悪いな」

 私の言葉に、雷光は苦虫を大量に噛み殺した声で答えた。

「仮住まいだ。すぐに去る」

「舞琴が蘇れば、六本木ヒルズにでも引っ越すのか。渡辺綱も一緒に」

「お前たちと会わずにすむ場所なら、どこでもいいさ」

「お前たちというのは、私と茨木のことか。私は絶縁してくれてかまわないが、茨木は連れていかないのか。喧嘩友達だろ」

「鬼が暮らすのは地獄と決まっている。共生はできぬ」

 通路とドアをいくつか抜け、カビ臭い地下室へ入った。用途は不明だが、複数の部屋がつながっているようだった。オカルト映画だと、壁中に聖書やら新聞の切り抜きやら張り巡らせてあるのだが、ここはまったく殺風景だ。

 一室で、渡辺綱がもう一人の男とともに待っていた。

「頼光様あ!」

 すがるような声を発したその男は、帝国芸術刀剣保存協会の鯉墨寿人だった。

「えらいことですう!」

 いいかけたが、私と茨木がいたので、目で何やら頼光に訴えた。だが、頼光は意に介さず、

「今さら、この二人の耳を気にすることはあるまい。いえ」

 促すと、鯉墨は背を伸ばし、軍人が上官に報告でもするように、いった。

「明日、うちの協会に警察のガサ入れがあると、タレ込みがありましたあ……」

 協会は警察の天下り先でもあるから、情報のパイプがあってもおかしくはないが、家宅捜索とは意外だった。もはや警察も協会の味方ではないのか。

 ところで、嫌疑は何なのか。不正の心当たりが多すぎる協会だが。

「ほれ、あの、去年の地下倉庫工事中に未登録の刀が七百本発見された件です。協会はどういう管理体制なのか、表向きはそれを調べるということですが、こりゃもう、協会は不正の温床と見なされたっちゅうことですわな。で、私の自宅にもガサ入れがあるらしいんで、見つかるとまずい刀や小道具、こっちに持ってきました。人間は信用できませんっ。預かってください。七百本の中から、私が着服した品物です。選びに選んだ名品です。刀に付属していた拵をぶっこわして、取った小道具もあります。へへ」

 部屋の机に積み上げられた刀は約十本。風呂敷包みは小道具だろう。未登録の刀は警察に発見届けを出し、教育委員会の審査を受けねばならないが、鯉墨はまったく悪びれない。

「登録はどうにでも抜け道がありますからね。協会の地下で埋もれるくらいなら、私が世に出してやった方が、この刀や小道具も幸せというもの。そうでしょ?」

 私は侮蔑を浮かべたりはしなかったが、もともと仏頂面には定評のある人間である。小心者から「俺を馬鹿にした」と食ってかかられることには慣れている。鯉墨も小心者だった。

「も、母里! 馬鹿にしてるのか。まさか私や協会のことを書いたりしないだろうな。あんたはやたらと悪口書くからな。ゆ、許さんぞ」

 鯉墨を見ると、茨木や頼光たち妖怪や怨霊の方がよほど眉目秀麗で、上等に思われた。

「許してくれなくても構わないよ。私は確かに人の悪口を書いてきたが、嘘は書いてない。そして、悪口を書いた相手とは、いつだって差し違える覚悟だ」

「大体、なんで、あんたがここにいるんだ? 頼光様の悪口を書く気か。頼光様と差し違えるなんて、何様のつもりだ?」

「私はそんなことはいっていない」

 喧嘩が始まる前に、頼光が鯉墨を制した。

「用がすんだら、引き取ってくれ。証拠湮滅に忙しいだろう」

「頼光様。この博物館の周辺には不気味な亡霊どもが徘徊しておりますな。恐縮ですが、車に乗るまで、見送っていただけませんかな。あはは」

「ふん。お前ごとき、亡霊どもの眼中にあるものか。だが、あ奴らを放ってもおけぬ。綱よ――」

 頼光は渡辺綱に声をかけた。

「童子切りを持って、霊を鎮めてくるがよい。西郷隆盛とやらの像の北側に彰義隊戦死者の碑がある。あのあたりで、戦死者は荼毘に付されたらしい」

「承知しました」

 綱は頼光から童子切りを受け取った。西郷像のすぐ近くという通行人の多い場所で、鎮魂の儀式をやる気らしい。

 鯉墨は綱の背中にへばりつくように、部屋を出ていった。何度も頼光を振り返り、さかんに頭を下げながら。

 いい加減、焦れていた私は、

「依吏子は?」

 頼光を睨んだ。彼の手に童子切りがなければ、こちらは二人がかりだ。取っ組み合いになっても、善戦できるのではないか。しかし、頼光は悠然と私の視線を跳ね返し、奥の部屋へと先導した。

 そこに娘の姿があった。椅子の背もたれに身を預け、首を傾けて、動かずにいる。椅子は立派だが、何の救いにもならない。服の胸元には無惨な穴が開いていた。眠っているように見えたが、脈はなかった。心臓が動いていない。

「この有様だ」

 と、頼光。

 私には言葉がなかった。ただ立っていることさえ、重労働だった。饒舌な茨木もいつになく沈黙していた。

 渡辺綱が童子切りを持って戻れば、この娘の二人の父親のどちらかは死を選ばねばならない。

 頼光は怨霊だか妖怪だかのくせに苦悩していた。命が惜しいわけではなく、死ねば舞琴の復活に立ち会えぬからだ。

 私は私で、娘をこんな目に遭わされて、胃が焼け、髪が逆立つほど憤慨していた。武器を持ってこなかったことを後悔した。これでも愛刀家のはしくれだから、業物の一本くらい持っているのだ。かなわぬまでも、頼光に一太刀浴びせるくらいは……と彼を睨んでいると、

「何か聞こえぬか」

 頼光は表情を変えずに、いった。

「私の耳には何も。こちとら、ただの人間なんでね」

「音楽のようだ」

「文字通り、地獄耳だな。京成線が通るトンネルの上には東京芸大の奏楽堂がある。電車の震動が伝わらないよう、浮いた構造になっているという話だ。そこで、演奏会でもやっているんだろう」

「行ってみるか」

 いいだろう。地下室で沈黙しているよりマシだ。頼光も私も、娘と自分の命を引き換えるジレンマから逃れるように部屋を出た。

「現代の音楽に興味があるなら、クラシックばかりじゃなく、ロックも歌謡曲も聴いて欲しいところだが……」

 廃駅の構内を歩くと、傍らを京成の電車が通過していく。ドアをいくつか抜け、階段を上がり、鉄扉を開けると、地上だった。封鎖されている博物館動物園駅だ。芸大キャンパスと東博の境目へ出たわけだ。

「オペラやミュージカルも面白いぞ。出演者が格好よくて上手だったら、な」

「お前の娘の仕事だな」

「あんたに宝塚の舞台を見せたいね」

「見た。お前と茨木が劇場にいた時、私もそこにいた。お前たちは二階席、私は一階席だったが」

「へえ。どうだった?」

「主演コンビは格好よくもなく、上手でもなかった」

「はは。あんたが現代人だったら、気が合ったかもな」

 茨木よりも鬼のような男なのに、憎めなかった。これが源頼光の魅力あるいは魔力なのか。

 芸大へ向かう途中、煉瓦造りの黒田記念館をふと見やると、半地下の低い窓に髷を結った侍の顔が見えた。目が合ったが、私は見なかったことにした。

「ところで、頼光さん。あんた、何を企んでる?」

「何のことだ?」

「帝刀保にガサ入れが入るのは、あんたの差し金だろ。文化庁はもちろん、警視庁にもあんたが操る人間どもがいるようだ」

「そうだな」

「協会はすでに文化庁にそっぽを向かれ、公益財団法人どころか一般財団法人の認可さえ危うい状況だ。今回のガサ入れは、警察にも協会がお荷物になっているということだ。狙いは協会の掃除だろうが、その先はどうなるのかな」

「もともと協会は文化庁と警視庁の天下り先だったが、役員どもの長年の不正が問題になって、官僚どもには迷惑な存在となった。そこで、日本刀伝統振興協会という新たな公益法人つまり天下り先を作り、古い協会はつぶす――。だがな、これは私がこの世に復活する前に、官僚どもが描いていた絵図だ」

「あんたはその絵図に変更を加えたわけか。鯉墨の奴、頼光様は日本刀を集大成とする伝統文化を正しい方向へ導くお方だと賛美していたぞ。当の鯉墨は日本刀を食い物にしているクズだが」

「日本刀は守るが、鯉墨のような小悪党や腐った官僚どもを守る気はない」

「官僚どもはあんたの魔力で心を入れ替えるとでもいうのか。利権しか頭になかった連中が、本気で日本刀を守るために働くのか」

「それは新旧二つの協会の今後を見れば、わかることだ」

「おや。古い協会も存続させることになったのか」

「そのための家宅捜索だ」

「帝刀保を公益法人とするためには掃除が必要ということか。官僚には天下り先は多い方が都合がいいだろうからな」

「刀剣界を牛耳る団体が一つでは、また利権独占団体となることは目に見えている」

「意外と正義の味方だな、頼光」

「呼び捨てにするな」

「しかし、帝刀保はともかく、刀伝協は官僚どもの餌場になるかな。利権団体としての帝刀保に反発し、理想主義の職人たちが中心になって作った組織だ。損得だけで動く連中じゃない。扱いにくいぞ」

「それも面白い」

 芸大は美校と音校、二つの正門が横断歩道をはさんで、向かい合っている。

 同行していた茨木は、美校の門に近接する箱のような白い建物に目を留めた。

「要塞かな。敵意や殺意を感じる」

「大学の付属美術館だ。作者たちの怨念が建物にこもっているんだろう。芸大が所蔵する国宝・重文は二十二点。所蔵品二万八千点という数は東京国立博物館に次いで国内二位だと聞いたことがある」

「見てみよう。刀鍛冶の姿で世を忍ぶ俺としては、音楽より美術に興味がある」

 茨木は私と頼光から離れ、美校へ入っていく。私の時代の守衛は全学生の顔を覚えていて、部外者は誰何したものだが、今は警備会社のガードマンが詰めている。誰が通過しようと、見向きもしない。

 私と頼光は音校の門をくぐった。もはや、私が知る教官、職員は定年を過ぎ、一人も残っていない。

 音校奥の突き当たりが奏楽堂だ。芸大の奏楽堂といえば、わが国初のコンサートホールである旧音楽学校時代の木造建築は都立美術館の裏に移築され、大学構内には、私の卒業後に新しい奏楽堂が建てられた。客席一一〇〇余。大学そのものがこぢんまりしているのだから、壮麗な建物ではないが、見すぼらしい校舎群に慣れていた卒業生の目には、立派なコンサートホールに見える。

 外部にも貸し出すのだが、ここの舞台に立つのは、ほとんど芸大関係者である。私と頼光が足を踏み入れた時、そこでは学生オーケストラがベートーヴェンを演奏していた。

 私の学生時代にはなかった場所なのに、一気に記憶があの頃に戻った。生活費を稼ぐためにバイトに追われていた私は、親の金で遊んでいる学生たちと距離を置いていた。妬みや嫉みもあった。将来への不安も大きかった。それでも、それなりに楽しさもあった。若さとは、たいしたものだ。

 頼光がそんな私の感慨を見透かしたように、いった。 

「お前の学生時代に、あの娘は生まれたのだな」

「おい。ここは私が感傷的になる場面だ。あんたがしみじみするな」

「娘を入れたかったか」

「そうだなあ。裕福な学生が多いのはムカつくがね。私は子供の頃から、親や教師、周囲の大人たちから異常者扱いされてきた。自分は人間じゃないんだと開き直らなきゃやりきれなかった」

「お前が鬼という異形の者に理解があるのは、そういうトラウマのためか」

「この学校でも奇人変人と見られはしたが、とりあえず人として認められたのは初めての経験だった。娘が入学したら、うれしかったかも知れないな。だが、宝塚も大変な難関なんだぜ。芸大以上にカネとコネを含めた運がモノをいう世界だがね。昔は入学願書に親の資産と収入を書く欄があったくらいだ。文部省から注意されて、なくなったようだが」

 演奏中、こうした会話を交わしていても、周囲の誰も私たちには見向きもしなかった。それよりも、時折、舞台の隅に影のように出現する、血刀ひっさげた侍の姿に、ざわめきが起きていた。

 悲鳴よりも歓声に近い。携帯をかざし、写メを撮る連中も多い。いやな世の中だ。

 頼光は言葉を続けた。

「依吏子がお前の愛娘なら、舞琴とて、私にはかけがえなき娘。あれの母親は鬼の血を引く、恐ろしいほど美しい女だった。鬼族の頭領である酒呑童子はわが妻を引き戻そうとしたが、妻はそれに逆らって、娘を生んだ。その娘が成長すれば、今度は茨木童子が現われた。忌々しいことよ。当時のこととて、夫は妻子と一緒に暮らしてはおらぬ。娘が大江山へ駆け落ちなんぞして、私は悔いたぞ。妻を責めもした。私の鬼討伐は娘を取り戻すため……それが真の目的であった。正史に鬼征伐の記録がないのは、私闘だったからだ。しかし、私たちが暴れ回り、血の海になった鬼の岩屋で見つかったのは、巻き添えで死んだあれの母親。娘を連れ戻そうと、私に内緒で大江山へ来ていたのだ。だが、娘の姿はなく、茨木童子も消えていた」

「以来、あんたの魂魄はこの世にとどまり、娘を探し求めてきたか」

「手元で育てた子でないからこそ、格別の想いがあるもの。お前にもわかるはず」

「死んだのちまで、追いかけようとは思わないけどな」

「ところで、この大学には──」

 頼光は父親同士の話題を振り捨てた。

「美術と音楽の二学部があるとはいっても、美術の方に日本刀科というものはないのだろう」

「専攻もないし、授業もない。偏っているんだよ。浮世絵だって、ここじゃ美術とは認めていない。ただ、明治の頃には刀装具出身の彫金家が教授陣にいたから、それなりに作品も所蔵している。しかし、何十年だか前に、超音波洗浄なんかして、古色をキレイさっぱり落としてしまったがね。そういう学校さ。そのくせ、私の卒業後に先端芸術表現科なんて、デジタル専攻が新設された。もはや芸術はアカデミックでもアナログでもない。ましてや職人仕事なんぞ、眼中にない。タガネを研ぐこともできない彫金科の学生がいるんだからな」

「愚痴か、それは」

「単なる真実だ」

 舞台上の演奏が終わると、七割ほど埋められた客席から拍手が湧いた。

 頼光はすでに踵を返し、背を向けている。

童子切り転生 第七回

童子切り転生 第7回 森 雅裕

 東京宝塚劇場の周辺は静かだった。公演が始まっている時刻だ。チケットを持つ客は劇場に入っており、楽屋口に出待ちのファンが集まるには早すぎる。

 売り切れらしく、当日券は出ていない。しかし、茨木は例によって、平然と正面入口へ向かっていく。負傷で減退していた鬼の通力は回復したらしく、係員がいたが、目の前を横切る私たちに見向きもしなかった。こういう特典があるなら、茨木と友達でいたいと思うが……。

「茨木。舞台の邪魔だけはするな。娘が一生、口をきいてくれなくなる」

「彼女の無事を確認するだけだ」

「それなら、最後列の立ち見でいいだろう。それ以外には私たちの居場所はない」

 四階から客席に入った。構造的には二階席となる。本来なら、上演中の入場は遠慮すべきだが、ここでもドア際にいた係員は振り返りさえしなかったし、客たちも舞台に集中していた。

 階段をたどり、最後列まで上がった。客席のうしろの通路が立ち見席になっている。

 私は依吏子が出演する公演はいつも見てきた。ただそれを彼女に知らせなかった。彼女に手配してもらえばいい席が手に入るのだろうが、それは育ての親に与えられるべき権利だと私は考え、劇場やプレイガイドで買っていた。

 この公演も初観劇ではないし、依吏子の出番もしっかり頭に入っている。彼女の無事な姿は確認できた。確認するだけでなく、入団以来の舞台を走馬燈のごとく思いめぐらせもした。

 彼女の育ての親は宝塚受験に反対だった。私は友人の宝塚OGから、合格発表と同時に入学手続きや制服採寸があることを聞いていたので、二次試験のため宝塚へ向かう依吏子に、

「合格したら、さっさと手続きしてしまえ」

 と、東京駅で現金を渡した。

 入学時には、彼女が独り立ちする時のために用意しておいた短刀も渡した。舞台小道具の取り扱いを教わる授業では、刀剣に慣れていた彼女は一目置かれたと聞いている。同時に変人視もされたようだが。

 私は必要以上に依吏子と接触することは避けてきた。初舞台の時も、彼女が口上を述べる日に宝塚大劇場まで遠征したが、連絡はとらなかった。

 彼女の生みの母親は、その時は日本にいて、劇場近くのホテルに娘を呼び、一緒に寝たそうだ。夜中に足が痛いと泣くので、見ると、パンパンに腫れていたという。こんな足で踊れるのかと驚く母親に、皆、同じだからと歯を食いしばっていた。その姿に、この子はもう親の手を離れたことを実感したと、あとあと母親から聞いた。

 この娘が、舞琴の化身とは、どういうことなのか。

 

 公演後、劇場の前は出待ちのファンが何重にも列を作っていた。多くは女だ。

 茨木はこの異様な混雑を冷たく見渡した。

「こりゃ何だ。揃いの上着を着ている団体もいる。オバサンたちの祭りでも始まるのか」

「楽屋から出る出演者を見送るんだ。楽屋入りは入り待ち。出る時は出待ち。恒例の行事さ」

 私たちは楽屋口と車道を隔てた歩道に陣取り、一時間以上、待った。

「信じられない。見送るためだけに、ただひたすら待ち続けるのか」

 嘆息する茨木の横で、私は携帯をしばらく睨んでいた。依吏子の母親──元妻である伊上磨優の番号は登録してあるが、もう何年も、電話であれ直接であれ、話したことがない。依吏子によれば、彼女は今、日本にいるという。意を決し、耳に当てた。

 学生時代には「声の恐い女」と評された磨優である。その低い声が返ってきた。

「伊上です」

「母里真左大」

「あら」

「効きたいことがあるんだが――」

 挨拶など省き、弁解するように早口でまくし立てた。

「依吏子が持っている帯留だが、あれは君の家にずっと伝わったものに間違いないか」

「帯留? どんなヤツ?」

「女が彫刻してある」

「ああ……。そうね。幕末の御先祖の形見だったって、聞いてるけど。明治に入ってから、目貫を帯留に直したらしいわよ。当時のことだから、美術品を損なうという意識はなかったんでしょうよ」

「御先祖は河野春明とつきあいがあったのか」

「誰? それ」

「作者だ」

「知らないわよ。もとは目貫だったんだから、片割れがあったんだろうけど、それは戦時中の金属供出の際、他の貴金属と一緒に持ち逃げされたとか」

 その「片割れ」は人間の姿に実体化し、今は私の横でタカラジェンヌの出待ちをしているとはいえなかった。持ち逃げした奴のおかげで、救われたわけである。

「幕末以来、君の家では直系女子が絶えたことはないのか」

「ええ」

「おかしなことを尋ねるが、君は依吏子を産む前、兵庫県の多田神社に行ったことはあるか」

「知らないわよ、その神社」

「なら、神社所蔵の刀に触れたこともあるわけないよな」

 束の間の安堵はたちまち打ち砕かれた。

「ああ、それならあるかも」

「どういうことだ?」

「鎌倉で源氏の秘宝展みたいな催しがあって、そこに関西の神社から刀が貸し出されていた覚えがある。私、その会場でバイトしてたから、展示品に触れたこともあるわよ」

「源頼光が酒呑童子を斬ったという伝説の太刀だぞ」

「そんな触れ込みだったような気がする。錆だらけでちっともきれいじゃなかったけど、そういえば、刀なんて興味ないのに、なんだか引き寄せられるような感じだったなあ。さわった途端に猛烈な眩暈がして、落っことしたもんで、関係者から怒られたのを覚えてる。何でも、焼きが入ってなかったから無傷で助かったらしいけど」

 当時の童子切りは焼け身だったのだ。焼きが戻っていて、硬度を失っているので、欠けたり折れたりしなかったのである。

「い、いつのことだ?」

「大学三年……の秋かな。依吏子を妊娠した頃だったと思う」

 私は吐き気まじりの眩暈に襲われた。

「何よ何よ、依吏子がどうかしたの? お願いだから、あの子の足を引っ張るような事件は起こさないでね」

「その方針だからこそ、この電話をしている」

「信じてるわよ。御免。野暮用あるんだ」

 何年ぶりかも思い出せない元妻との通話を終えたが、茨木の耳には、電話越しの磨優の声が聞こえていたらしい。

「これで明らかになったな。君の元嫁の家では、代々の女子が何も知らぬまま、舞琴の霊魂を受け継いできた。君の元嫁は妊娠中に童子切りに触れたため、眠っていた舞琴の魂が遺伝子に織り込まれ、伊上依吏子として現代に蘇ったんだ。焼け身の童子切りでもそれくらいの霊力は持っている。つまり、彼女は生まれ変わりだ」

「ごくまれにキメラ──つまり一人の人間が二種類のDNAを持つ例があるらしいが」

「生まれ変わりの場合、DNAは一種類だ」

「しかし、依吏子には自分が舞琴だという自覚はないぞ。鬼の血を引く者は前世の記憶を持つという話だったが」

「依吏子の場合、事情が少々複雑だからな。きっかけを与えれば思い出すさ」

「きっかけとは何だ?」

「さて。いろいろ試してみるしかあるまい」

「依吏子と舞琴の魂は簡単には分離できないといっていたな」

「舞琴の魂は依吏子以外の身体に入ることはできない。そういった」

「それはつまり、ややこしいことになるのか」

 茨木は答えず、夜空を見上げた。

「いやな気配だ」

「ん……?」

「空が赤い。低い雲が流れている」

「雨だ」

「ただの雨じゃない」

 小さな雨粒が落ちてきた。あちこちで、宝塚ファンたちが動き始めた。ファンクラブなら傘など使わずに合羽を着るが、突然の空の変化にその用意がなかったようだ。根性あるファンは動かないが、一部は雨宿りできる場所を求めて、移動を始めた。

「頼光の仕業だ」

 茨木は呟いた。雨粒はこいつの身体に落ちた瞬間に蒸発していく。

 私は服に染みの斑点を作りながら、いった。

「安政の大地震を起こし、天候まで左右できる頼光様の怨霊か」

「今の時代に蘇った怨霊は強力だぞ。人間どもの欲や怒りを吸収して、頼光は鬼以上の化け物となっている。現代社会を壊滅させる気にならないことを祈ろう」

 楽屋口に現われた出演者たちは、ファンの拍手に送られ、それぞれ急ぎ足で去っていく。スター路線の男役にはファン代表が「お付き」として付き従うが、娘役にはそんなこともなく、一人ずつ夜の町へ消えていく。

 劇場正面は男役スターたちのファンクラブが居並んでいるので、娘役や下級生は反対側──有楽町方向へ向かう。

 依吏子が現われた。他の娘役同様、一人である。足は有楽町方向へ向いている。私たちは舗道を横断して追いかけようとしたが、ふいに雨音が変わり、後ろから傘が差しかけられた。

「動くな」

 振り返ると、身長一八〇センチを越えそうな男が、私たちの傍らに立っていた。

「綱!」

 茨木が吼えるように呻いた。

「おや。知り合いか」

 尋ねる私に、茨木は答えた。

「渡辺綱。頼光四天王の一人。こいつも復活したと見える。かつて、一条戻り橋で俺の腕を斬り落とした野蛮人さ」

 その野蛮人は意外にも優男で、端整な顔立ちに微笑さえ浮かべながら、いった。

「動いたら、刺しますよ」

 柔和な男だが、短刀を突きつけている。私に。

 道の向こうに依吏子を見やると、彼女の前にも立ちはだかる者がいた。源頼光である。頼光も綱も放出品みたいなフィールドコートを着ていて、およそ平安の武将とは見えないが、その悠揚迫らぬ態度は現代人とも見えない。

 すでに依吏子の顔は知られてしまったらしい。ネットで顔写真くらいいくらでも検索できる時代だ。

 頼光は自分についてこなければ、あそこに間抜け面で突っ立っている親父が死ぬとでも彼女にいったのだろう、依吏子は困惑の視線を周囲へめぐらせ、私たちに気づいて、抗議めいた表情を作った。

「何やってるのよ」

 口の動きがそう読めた。私たちの方へ歩き出そうとさえしたが、バタバタと音を立てて、大粒の雨が落ち始め、彼女の足を止めた。頼光が傘を差しかけ、依吏子を有楽町の方向へ促した。

 彼女は何度もこちらを振り返ったが、雨の中で右往左往する宝塚ファンの人垣にまぎれ、見えなくなった。ちょうど楽屋口から男役スターが現われたため、依吏子に目を向ける者もなかった。

 私は渡辺綱を振り返った。

「頼光は依吏子をどうするつもりだ?」

「頼光様にとっては、あれは依吏子さんではありませんよ。舞琴殿だ。舞琴として覚醒させるんです」

 綱は傘を私の頭上に投げ出した。それを払いのけた時には、綱の姿はなかった。

「どこへ消えた?」

 茨木は首を振り、傘を拾った。

「わからん」

「虎ノ門へ行ってみるか」

「あんなところにはもういないさ」

「しかし……」

「落ち着け。いずれ向こうから接触してくる」

「どうしてそんなことがいえる?」

「まだ何か役に立つと思えばこそ、渡辺綱は俺たちを殺さなかった。ま、あんたはともかく、俺は簡単に殺せないがね」

「舞琴を覚醒させるといっていたな。それで、頼光は娘をどうする? 現代社会で就職でもして、親子水入らずで暮らすのか」

「親子だけじゃない。綱も現われた」

「どういうことだよ。三人で暮らすってか。まさか――」

「そのまさかだ。頼光は娘を綱の嫁にする考えだ。平安の昔から、その心づもりだった」

「そして、子孫にこの国を牛耳らせるとでもいうのか。なかなか壮大な夢だな」

 携帯で渡辺綱を検索し、彼が万寿二年(一〇二五)に七十二歳で没していることを知った。墓所は多田神社と同じ兵庫県川西市にある小童寺である。

「どう見ても七十代には見えなかったぞ。青年だった」

「あの男も千年の間には何度か転生している。最近、若死にしたのだろう」

「人間はそんなにしつこく輪廻転生するものなのか」

「頼光のように怨念が強すぎる者は転生しないこともある。そして、前世の記憶を持つのは鬼や妖怪の類だけだ。つまり、渡辺綱も今や妖怪変化なのさ」

「依吏子の中に眠っていた舞琴が復活すると、依吏子はどうなる?」

「肉体は依吏子のまま、魂は舞琴ということになる」

「その場合、依吏子の魂は……?」

「休眠するだけか死んでしまうのか、わからんね」

「何だよ、そりゃ」

「過去に例のないことだからな。まあ、俺にはどっちでもいいことだ」

 私は茨木の首根っこに飛びつき、締め上げた。

「この野郎! どっちでもってことがあるか! 俺の娘だぞ! 無事に戻らなかったら、今度は俺が怨霊になって、何百年かかろうとお前を殺すからな!」

「わかったわかった」

 茨木は私を引きずったまま、平気で歩いていく。雨は嘘のようにもうあがっており、茨木は傘を畳んで、投げ捨てた。

 鬼を相手にマナーを説いても始まらない。傘は街路樹に当たって四散し、街路樹もまた幹を砕かれて、ゆっくりと傾いた。宝塚ファンや通行人の視線を集める前に、私は茨木から離れて、先に歩き出した。

「母里。娘を思う心境は頼光もお前と同じなんだぞ」

 茨木の声が追いかけてきた。そうだ。そして、茨木も恋人である舞琴の復活を望んでいる一人なのである。

 背後で、街路樹が倒壊する音が響いた。

 

 食欲などなかったが、何だか疲労困憊した私はとにかく座りたかった。新橋のうどん屋で、茨木と向かい合った。

「依吏子を舞琴として復活させるための方法というか儀式というか、それはどうやるんだ?」

「聞かない方がいいと思う」

「いえよ。げそ天を追加していいから」

「野菜かき揚げも」

 私が百円玉を三枚渡すと、茨木はカウンターへ行き、てんぷらを皿にとって戻った。そして、説明を始めた。

「依吏子の身体には彼女自身と舞琴の魂が同居している」

「今さらわかりきったことを尋ねるが、二重人格みたいなものとは違うよな」

「違う。多重人格には基本となる主人格というものがあるが、依吏子と舞琴は対等だ」

「パソコンでいえば、二つのシステムが入っているんだろ。お前の中に茨木と吉野が同居しているように」

「俺の場合とはわけが違う。吉野というシステムはすでに死んでいる。俺は彼の記憶データを共有しているだけだ。しかし、依吏子と舞琴のシステムはともに生きている」

「じゃあ、どうやって、そのシステムを切り替える? パソコンなら起動ディスクをチェックして、再起動だが」

「童子切りがその切り替えスイッチだ」

「具体的にいえよ」

「依吏子の心臓を童子切りで刺し貫く。普通に考えれば、そうなる」

 私は茨木の皿からげそ天を取り上げ、自分のうどんに入れた。

「何をしやがる!?」

「どうしてそれが普通の考えなんだ。異常者の考えだ」

「そうだよ。俺たちは皆、異常者だ」

「その『俺たち』に私を入れないでくれ」

 げそ天を噛もうが、うどんを啜ろうが、味などわからなかった。

「また文化庁へ乗り込んで、菊尾に頼光の居所を吐かせるか」

「いや。これまでにも鯉墨や菊尾を拷問にかけると脅してきたが、無駄だ。信義を重んじる連中じゃないだろうが、奴らが身も心も頼光に支配されているとしたら、どんな拷問を加えても、御主人様を売るようなことはしない」

「お前は菊尾に憑依もできないし、な」

「焦るなよ。はたして、童子切りが切り替えスイッチとしてうまく働くかどうか……。平安中期の刀だからな。電化製品なら保証期間は切れてる」

 うどんを食い終わり、外に出ると、青く冴えた月が浮かんでいた。冷たい色合いだが、流れる風には妙な熱気がこもっていた。

 

 夢を見た。

 いかにも地下室のような空間で、依吏子は縛られたり拘束されているわけではないが、異常なほど姿勢がいいはずのタカラジェンヌである彼女が床に足を投げ出して座り、動かずにいる。

 目は強く静かに開かれ、何かを訴えているが、麻薬でも効いたかのごとく知性が抜けている。彼女の前にいるのは源頼光だ。

 頼光は覚悟を決めた様子で深呼吸して、童子切りの鞘を払った。

 鉄の重い輝きが彼女に迫った。切っ先が依吏子の胸にあてがわれ、一気に沈んだ。背中まで貫通した。

 依吏子はせつなげな表情で頼光を睨んでいたが、その目を閉じ、動かなくなった。何も起こらない。

 絶叫したのは頼光だ。その爆発的な絶望と切迫感は他人事ではなかった。私の感覚そのものだった。

 そのショックで目を覚ますと、すでに朝だった。私は普段着のまま、土下座でもするような姿勢でベッドに転がっていた。走り出したいほどの焦燥に駆られた。

 無駄とは思ったが、依吏子の携帯を呼び出した。昨夜から何度となく繰り返したのだが、「電源が入っていないか、電波の届かないところに――」というアナウンスが返ってくるだけだ。

 次に、依吏子の同期で一番の友人に電話した。小説好きということで、珍しくも私の読者だったから、紹介してもらったジェンヌだった。

 非現実的な事情は説明しようもないが、依吏子は休むと連絡した。期間は予想できない。

「すまない。とりあえず、数日だ」

 そういうしかなかった。宝塚の生徒は育ちがいいせいか、人を疑うことを知らない。反応は屈託なかった。

「宝塚じゃあ、休演者が出たら誰が代役をやるか、あらかじめ決めてあるんで、公演そのものに支障はないんですが……依吏子、一体、どうしたんです?」

「説明はむずかしい。父親が危篤だといっても、劇団は納得しないか」

「そんな理由で休演する生徒はいませんよ。私たち、プロの舞台人ですよ」

「じゃあ、依吏子本人が急病ということにしよう」

「了解。診断書を出してくださいね」

 電話を切ると、私はアパートの四階に茨木を訪ね、例によって、踊り場まで引きずり出した。

「いやな胸騒ぎがする。夢を見た」

「この状況で眠れたなら、何よりだ」

「いや。寝ていたのかどうか……。リアルな夢だった」

「依吏子が頼光に刺される夢か」

「どうしてわかる?」

「俺も見た。現実だよ、それは。正夢というより、実況放送だな」

「依吏子は無事なのか」

「彼女が動かなくなって、頼光がうろたえていた。『放送』がそこで途切れたのは、発信元である依吏子の身体が機能していないということだ」

「まさか、死んだんじゃないだろうな」

「仮死状態だと思うのだが……」

「どうして、そんなことになる?」

「童子切りが切り替えスイッチとして作動しなかったわけだ。依吏子はお前の娘だけあって、なかなか頑固でしぶといようだ」

「鬼なら、居場所くらい感知できないのかよ」

「生憎、そこまで感度良好じゃなくてね。敵だって、結界くらい張っているだろうし」

「お前、こうなることを予想していたな」

 茨木はボサボサの髪を懸命に撫でつけている。

「どうも、吉野の天然パーマは気に入らんな。茨木童子といえばシャンプーのCMに出られそうなサラサラのヘアだったのだが……」

「おい」

「焦るな。死んだも同然の彼女を蘇らせるためにはどうすればいいのか、肉体派ではあっても頭脳派ではない頼光は、この茨木童子にお知恵拝借を求めてくる」

「お前に、貸すほどの知恵があるのか」

「頼光も交えて、童子切りをスイッチとして作動させる方法を考えてみようぜ。そこに、彼女を救うチャンスがある」

「はたして、救うとはどういう意味なのかな。お前も恋人の舞琴を蘇らせたい願望では、頼光と意気投合だろ」

「しかし、舞琴は依吏子を犠牲にして復活することなど望まないはずだ。そういう心やさしい女なんだよ」

「お前はどうなんだ? 心やさしい男なのか」

「やさしくはないさ。鬼だからな。しかし、俺が格好のいい若者に憑依していりゃ、依吏子の身体で蘇った舞琴と似合いだろうがね、あいにく、今の俺は妻子持ちのオッサンだぞ」

「本来の若い姿にも化けられるじゃないか」

「見た目を欺瞞しているだけだ。本質じゃない」

「よくわからんが……だからって、舞琴との再会をあきらめるのか」

「吉野の身体を出られない俺は、吉野として老いて死に、いずれまた転生する。誰かに憑依するのではなく、美しい自分の身体を持つ。その時に舞琴も蘇り、再会するさ。たぶん、依吏子の子孫だ。あ、そうなると、お前の子孫でもあるわけか」

「お前も大概しつこいな」

「しつこさとロマンは紙一重だ」

「ところで、鬼の通力で診断書を捏造できないか。依吏子を休演させる口実だ」

「律儀だな。病気の診断書なのか。死亡診断書になるかも知れないぞ」

 私は茨木の首を絞めた。

「殺す。今度こそお前を殺す」

 彼は抵抗しなかった。むろん、私ごときの暴力など、痛くも痒くもないのだろう。

「電話だ」

「何い!?」

「お前の携帯が鳴ってる」

 鬼の聴力だ。携帯は部屋に置いてある。三階の自室へ下り、ドアを開けると、携帯は能天気に「すみれの花咲く頃」を歌っていた。発信元は「依吏子」と表示されている。耳に当てた。

「どうした!? 無事か!?」

「無事とはどういう意味だ? 生を生ずる者は生きず、というぞ」

「貴様あ……。頼光か。依吏子の携帯に登録してあった私の番号へかけてくるとは、文明を学んだか」

「こんなものがなければ言葉をかわすこともできぬ。それが文明か」

「ふん。舞琴を蘇らせるのに失敗した原始人が何をいってやがる」

「そうか。事情はそちらに伝わっているようだな。なら、話は早い。お前と茨木を舞琴復活の儀式に招待したいと思ってな」

「どこにいる?」

「お前の住まいの前だ」

 電話が切れると、私は上着に財布やカード類を押し込み、飛び出した。

 この間に、自宅へ戻っていた茨木も階段を下りてきた。着替えている。こういうところが吉野とは違う。吉野は服装なんかにはまったく無頓着だった。

「お前と出かけると知ると、気のいい吉野の家族も機嫌が悪くなる。苦労するぜ」

「うれしい話だ。しかし、電話の内容が聞こえたのか」

「聞こえなくても、想像はつくさ。怨霊の気配がプンプンしてら」

「頼光は私たちに刀を振り回した野蛮人だ。大丈夫かな」

「ああ。あの程度はスポーツみたいなものだ。奴が本気になったら、あんなものじゃない」

 アパートの前に、フィールドコートの大男が立っていた。一人だ。私は周囲を見回した。

「何だ。招待とかいいながら、車じゃないのか。まったく、鬼も怨霊も機動力がないんだな」

 頼光は長い袋を背負っている。釣竿入れのようだが、中身は童子切りとわかる。警官に職務質問を受けたところで、恐いものなしだろうから、カムフラージュではなく、単に携帯しやすいからだろう。

「こんなところで抜くなよ」

「さて。それは話の進展次第だ」

 この近辺は朝や昼でもヤンキーや酔っ払いがうろついている。そいつらも頼光が発するオーラに圧倒され、逃げていく。

「車なら、吉野の車がある」

 茨木はキーを掲げた。正確には吉野の家族の車だ。金を出したのは吉野だが、彼は免許を持っていないので、子供たち専用となっている。

「母里。お前が運転しろ」

「そんなの勝手に乗ったら、吉野家の親子関係に亀裂が入るぞ」

「俺はかまわないよ」

 こいつには吉野を演じ続ける必要はないのだ。むしろ、吉野の家族と縁を切って、自由になりたいだろう。そもそも吉野の偽者なのだから、ボロを出す前に離縁でもしてもらった方が、丸くおさまるというものだ。

 駐車場に吉野のミニバンが停まっている。だが、この顔ぶれで車内にこもり、密談したくないのは三人とも同様らしい。車の傍らで、立ち話だ。

「どこへ行く? 依吏子はどこだ?」

「案内する前に、舞琴を目覚めさせる手段について訊きたい。何かあるか、茨木」

「ふん。頼光よ。パソコンにたとえて説明しても理解できるかな」

「俺とて、この時代に復活して、無為徒食しているわけではない」

 頼光はその学習成果を語り始めた。

「あの娘が仮死状態になったのは、一つの身体に二つの魂が同居しているからだ。パソコンでいえば、似た機能を持つファイル同士がコンフリクトして、フリーズしている状態だ。これまでは舞琴の魂というファイルのチェックがはずされた設定だったから、依吏子の魂が機能していたんだ。依吏子の魂というファイルのチェックをはずせば、舞琴の魂が機能するはずだが」

「いや」

 茨木は小さく首を振った。

「依吏子が舞琴の生まれ変わりであるなら、魂は単なるファイルではなく、起動ディスクつまりOSというべきだ。二つのシステムを切り替えても、コントロールパネルの設定は共有される。母里が愛用する安物の旧型マックにたとえれば、システムに関連した設定は、一部の情報は初期設定ファイル類に記録されるが、ハードウェアに関わる部分の多くはPRAMへと記録される。PRAMは一つしかないから、二つのシステムで完全に別の設定を使うことは原理的に無理だ。つまり、どちらかのOSは削除するしかない」

「パソコンのたとえなんか、もうたくさんだ」

 口をはさんだのは私だ。こいつらに娘を呼び捨てにされるのも不愉快だった。

「安物の旧型マックで悪かったな。つまり、依吏子か舞琴か、いずれかのシステムを削除すれば問題解決といいたいのか。削除された方はどうなるんだよ。魂とOSを一緒にするな」

 茨木と吉野の魂はコンフリクトを起こしていない。吉野は死んでいるからである。私の怒声を聞いた茨木は、

「もちろん、魂とOSは違うさ。だから、削除されたからといって、消滅するとは限らない」

 珍しく真剣な表情で、いった。

「最後にもう一つ、パソコンにたとえさせてくれ。パソコンが起動しない場合はどうする?」

「システムCD-ROMで起動した上で、起動ディスクの選択だ」

「そうだな」

 しばらく沈黙があった。私と頼光は同時に茨木を睨みつけ、言葉の先を促した。茨木は涼しい顔で、いった。

「システムCD-ROMとは、この娘の親ということになる」

「なるほど。それが魂とOSの違いか。で、具体的な方法は?」

 茨木は唇の両端をニヤリと歪めた。なるほど、こいつは鬼だと納得させられる笑いだった。

「システムCD-ROMが死ねば、以後、起動するのはその娘の魂ということになる。頼光が死ねば舞琴、母里が死ねば依吏子が、そのシステムつまり遺伝子を継ぐ者として起動する。つまり、現世に戻ってくる。源頼光もしくは母里真左大、このどちらかが自己犠牲を選べばいいのさ。童子切り安綱で自分の胸を刺すんだ」

 冗談ではないらしいが、頼光は薄笑いを浮かべている。

「この頼光に死ね、と?」

「何をおっしゃる。お前さん、怨霊だろ。すでに死んでるじゃないか。死後の復活はボーナスみたいなものさ。今さら死ぬわけではない。成仏すりゃいいだけだ」

「お前なんかに相談するんじゃなかったな」

「ふん。なら、他の誰かに尋ねるか。行くところがあるなら、つきあうぜ」

 怨霊と鬼はしばらく見つめ合い、同時に、

「河野春明」

「春明法眼」

 と、呟いた。頼光は悠然と頷いた。

「お前と舞琴の魂を宿す目貫を作ったほどの男だ」

「春明師か……」

 茨木は私を見やった。

「春明師の墓所は亀戸の龍眼寺のはずだが……」

「知っている。私も行ったことがある。しかし、墓は残っていない。三十数年前に建てられた石碑だけだ」

「墓がないのか。まあ、驚くようなことでもないな。春明師は一族郎党と不仲だったからな」

「そこへ行こう」

 と、さっさとミニバンの後部席へ乗り込んだのは頼光だ。私は運転席のドアを開けながら、尋ねた。

「待てよ。墓へ行って、どうするんだ?」

「会うのさ、春明法眼に」

 茨木が助手席で、いった。

童子切り転生 第六回

童子切り転生 第6回 森 雅裕

 霞が関の官庁街は、若い頃に新聞社でバイクに乗っていた私には慣れた場所だった。しかし、省庁の改変や改築が進み、当時とは一変している。昔はセキュリティも甘く、ヘルメットかぶったまま庁舎に入っても何もいわれなかったものだが、さすがに今はそうもいくまい。

 かつての文部省も今は中央合同庁舎第7号館東館の文部科学省に名を変えている。私は受付へ向かおうとしたが、茨木はかまわず先へ進んでいく。職員も警備員も目を開いたまま寝ているような表情で、誰何も制止もしないので、私も茨木のあとに従った。

「感じるぞ。こっちだ」

 茨木は五階の文化庁長官室まで迷わなかった。ドアを開けると、秘書らしいのが理解しがたい何かを見たという表情で迎えたが、やはり無抵抗、無反応だった。

 奥の部屋に菊尾がいた。むろん、挨拶などしなかった。

「寄こせ」

 これは私の言葉だ。こいつに対して、丁寧に接する気はなくなっていた。

 菊尾は帯留を差し出し、茨木が手に取った。しばらく無言で眺め、私に寄こした。私もじっくり見るのは初めてだ。

 垂髪の娘の図で、帝刀保の展示室で見た彫金板に似ているが、鬼の面など彫られていない点が異なる。確かに目貫を作り替えたものだった。素材はやはり山銅だ。銘などなくても、河野春明の作とわかる。晩年には出来不出来が激しい春明だが、こいつは力作だ。

 帯留への改造は春明の死後のことだ。幕末から明治にかけて流行ったパチン式帯留である。金具部分は銀。

 茨木は自分の片割れである目貫を知っているはずである。小さく頷いたところを見ると、間違いないようだが、なら、どうして、菊尾は簡単に返してくれるのか。

「これは頼光が探していた目貫ではないのか」

「少なくとも、そこに舞琴の魂は宿っていない」

 と、菊尾。相変わらず傲慢だが、どことなく芝居がかっている。私の方が、人に悪印象を与えることでは勝っていそうだ。

「魂が宿っていない……って、どうしてわかる? 頼光はどこだ?」

 菊尾は挑発的に笑っている。

「さて。そちらの茨木童子は人間に憑依し、記憶を共有できると聞いている。頼光の居所を知りたければ、私に乗り移ったらどうだ?」

「さっきから試みている」

 茨木は呟いた。額に汗さえ浮かべている。

「ついでに、文化庁長官を操って、吉野義光を人間国宝にしてくれようとも考えたんだが」

 そんな冗談を口にしたが、こいつのこれほど真剣な顔を初めて見た。

 対する菊尾は、悠然と唇の端だけで笑っている。

「その身体から出られないか」

 そうらしい。茨木は物凄い音を立てて、歯ぎしりした。私は代替案を口にした。

「仕方ない。じゃ、文化庁長官を拷問だ」

「それには及ばないよ」

 菊尾は余裕の表情で、いった。

「ついて来い。案内する」

 

 運転手つきの公用車は虎ノ門方向へ三分も走らないうちに停まった。燃料の浪費だ。近代的なビルへ案内された。

「何なら、茨木だけ行ってもらって、私は近くで待っているが」

 私はそう申し出たが、菊尾は黙殺した。愛想のない奴だ。

「ここに私が借りている部屋がある。頼光はそこだ」

 あやしげな地下へ引きずり込まれるのかと思ったら、乗せられたエレベータは上昇した。

 私は半ば自暴自棄だった。

「ここなら帝都ホテルに近い。欲しいものはすぐ盗みに行けるな。霞が関の地下には、戦前からトンネルが張り巡らされ、有事にそなえたシェルターがあるという。そんな国家機密の場所へ案内されるのかと思ったが、妖怪変化は暗い密室が好きとは限らないのかな」

「頼光は怨霊であって、妖怪ではないぞ」

「その定義については茨木とも議論したから、承知している。私がいう妖怪変化とは、あんたのような政治家のことさ。地下に自分たち専用の快適空間を作っていそうだぜ」

「はは。作りたいものだな。シェルターとて、芸術的な快適空間であるべきだ。有名建築家のデザインに有名作家の装飾――」

「ふん。芸術とは本質的に反体制であるはずだ。霞が関の御用芸術家なんざペテン師だよ」

「一世紀前、パリ地下鉄が作られた時、エクトール・ギマールは鉄とガラスという無機質な材料で駅をデザインしたが、あまりにエキセントリックであったため、激しい批判を浴び、オペラ座広場駅などは取り壊された。それが、現代に残る一部の駅はアール・ヌーヴォーを代表する鉄の芸術と評価されている。世間とは愚かなものよ」

「あのなあ、あんた、私のいってることの意味がわかってないだろ。まあ、それでこそ政治家だが」

 エレベータを下りると、様々な表札、看板を掲げたドアが廊下に並んでいる。

 一室に入り、内部のもう一つのドアを開けると、そこには熱気がこもっていた。窓は広く、明るいのだが、気分のいい熱気ではない。

 ジャージ姿の男が一人いて、刀を振り回していた。長髪はうしろでまとめている。オヤジのポニーテールなど大嫌いな私だが、この男には妙に似合っていた。

 部屋に調度品の類はほとんどなかった。というより、机、椅子、冷蔵庫に至るまで、切り刻まれた破片となって、床に散乱していた。試し斬りの犠牲になったらしい。

 栗塚旭を凶悪にしたような男が、我々を振り返った。

「来たか、茨木。ひさしいの。その身体の住み心地はどうだ?」

「頼光……。随分とモダンになったものだ」

「烏帽子直垂か甲冑姿でも想像していたか。それほど時代錯誤ではない」

「刀を振り回してりゃ、充分に時代錯誤だ」

「こいつが振り回してくれと泣くのよ」

 頼光は手にした刀へ視線を落とした。吉野義光の仕事場から奪った安綱だ。しかし、今、肌は青く研ぎ澄まされ、伝来品なら重文指定は確実な革包みの立派な太刀拵がつけられていた。吉野の部屋にあったあのボロ拵が、霊力とやらで復活したのか。

「そちらは現世での友人か」

 頼光が私を指すと、茨木は大雑把に紹介した。

「吉野のアパートの居候さ」

 当たらずも遠からず。とりあえず、私は名乗った。

「母里真左大。駄文を書き散らし、彫金を少々嗜む」

「つまり、ろくでなしか」

「まあね」

「帯留の持ち主の父親だな。見知りおくぞ」

 少しは興味を持ってくれているらしい。しかし、不愉快でしかなかった私は「尊大には尊大」と、

「苦しゅうない。オモテを上げい」

 と、返した。むろん、頼光は最初から面を上げているが。

 そこへ、茨木が割って入った。

「帯留の目貫に舞琴の魂は宿っていなかったそうだな」

「茨木よ。お前がそれを確かめにここへ来たからには、探していた目貫に間違いないということだ。その帯留に使われている目貫、河野春明がお前と舞琴を対にして彫ったものかどうか、当のお前が知らぬわけがないからな」

「そうか。帯留を菊尾の手から返してくれたのは、俺があんたに会おうとするかしないか、反応を見るためだったか」

「気づくのが遅いぞ、茨木」

「ふん。どうせ、あんたとは相まみえる宿命」

「では、ここで問題だ。目貫からすでに舞琴の魂が抜けていたのはどういうわけか……」

「あ、いや。こいつが探し物だと決めつけるのは早計じゃないかな。ははは」

 茨木は笑ってごまかそうとした。こいつ、結構、間が抜けている。

「とぼけるな、茨木。目貫が脱け殻なら、舞琴はすでにこの世のどこかに実体化している。私もお前も今、それに気づいた」

「違う」

「違わない」

「違う」

「違うというなら、試してみるか。帯留を渡せ」

 頼光は童子切り安綱を突き出した。帯留は私が持っている。茨木が目くばせするように頷いたので、私はそれを安綱の平地の上へ乗せた。頼光が構える刀に近づくのは、さすがにへっぴり腰となった。

 頼光は安綱の刀身を跳ね上げ、帯留を真上へ飛ばした。安綱が一閃し、光の筋が走った。帯留は吸い込まれるように、宙空で切断された。

「何、しやがる!?」

 叫んだのは茨木だ。

「芸術の破壊だぞ、コラ」

「春明みたいな江戸の職工とつきあったせいか、言葉が悪いな、茨木。そんな帯留にはもう用はあるまい。そいつにわが娘、舞琴が宿っていたら、この安綱が触れた時に娘は蘇る。魂は私の意識に直接、話しかけることもできる。近くの誰かに憑依もできる。だが、何も起こらぬではないか」

「待て待て」

 私は二つになった帯留を拾い上げた。

「こいつが抜け殻だとしたら、安綱は幕末以来、多田神社にあったはずだから、安綱の霊力が目貫に触れなくても魂は抜けられるということになる」

「そうだな。人智を越えた何かが起こったのかも知れぬぞ」

「その安綱の霊力だか妖力だかはともかくとして、切れ味はわかったよ」

 帯留の切り口は尋常ではなかった。こんな大型刃物を振り回すゾンビとは同じ部屋にいたくない。

「じゃ、茨木クン。そろそろお暇しようか」

「安綱を渡して欲しいものだ」

 茨木は動かない。私は嘆息した。

「あんなもの、くれてやれ」

「舞琴がすでに実体化しているとしても、彼女と再会するには安綱の霊力が必要だ。頼光に持たせてはおけない」

「あのな、恋人の父親を呼び捨てにするのは感心しないぞ」

「父と呼ばれるよりマシよ」

 と、頼光は安綱の切っ先をこちらへ向けた。

「取れるものなら、取れ」

 茨木は顔を歪め、歯を鳴らした。頼光は嘲笑を浮かべたが、意外と明るい表情だった。こいつ、根っからの極悪非道ではないのかも知れない。

「ふはは。茨木よ。私に憑依しようと試みているようだが、無駄だ。お前にはもはやそんな力はない」

「何だとお……?」

「吉野を襲い、この刀を奪った時、お前が近くにいる気配を感じた。吉野を殺したのは、お前が憑依して復活させることを予測したからだ。うわべだけの復活だが」

「吉野の死体に細工したのか」

「二度とお前がその身体から出られないように、な。自由勝手にうろつかれちゃ迷惑だ。首のうしろに十字の傷があるだろう」

 衿首を見ると、強力な治癒力を持つ鬼のくせに小さな傷跡が残っている。

 頼光は安綱のハバキ元を指した。

「ほんのちょっとだが、刃を欠いて、その鉄片を吉野の首に埋め込んでおいた。その身体に憑依した魂は封印される」

「何だよ、そりゃ」

「鉄片を取り除こうとすれば、宿主の身体もろとも、滅びるのみ」

「貴様あ……」

 茨木の顔が怒りで変化する。角が生え、唇が裂け、牙を剥く。

 私も怒気や恐怖が錯綜し、思わず罵倒した。

「そんなことのために吉野を殺したのか。そういう奴だから、娘に逃げられるんだ」

 頼光も顔色が変わった。

「お前、不愉快な奴だ」

「お互い様だ」

 非難はしてみたものの、こちらに勝ち目はなさそうだ。私は茨木の肩に手をかけ、

「ここは帰るしかなさそうだ。じゃっ」

 頼光に敬礼しかけたが、その時には至近距離に迫っていた。安綱が一筋の光を放ち、どさり、と茨木の片腕が落ちた。

 茨木は咄嗟に頼光の腹を蹴り、十メートル向こうの壁まで飛ばした。衝撃で部屋が揺れた。

 私は今にも吐くか気絶するかと恐れながら、何とか立っていた。

「茨木! 大丈夫か!?」

「畜生。渡辺綱に腕を切り落とされて以来、二度目の痛みだ。母里。逃げるぞ」

 茨木は腕を拾い、ドア付近にいた菊尾を睨みつけた。菊尾は意外なくらい肚が座っており、動じなかった。

「もう帰るのか。気ぜわしいことだ」

 菊尾は我々に通路を空けた。茨木はドアを破ったが、さすがに動きが鈍い。頼光が悠然と追ってきた。

「源氏の英雄がこんな暴力主義者とは」

 と、私。茨木は慣れているのか、取り乱しもせず、ニヒルなままだ。

「怨霊は性格がねじけるものさ。もしてや娘のことになると、奴は狂う」

 頼光の投げた椅子が私の眼前で砕け散り、茨木の腕から落ちる血で足が滑った。私たちが隣室の机の陰に倒れ込むと、頭上で、頼光のふるう安綱が電気スタンドやパソコンを薙ぎ倒した。

「茨木! 敵地に乗り込んでも怨霊と鬼が乱闘なんてことにはならないはずだったろ!」

「文化庁の中では、と俺はいったんだ。ここは文化庁じゃない」

「こ、この、理屈鬼!」

 暴れながら、頼光は笑い声をあげていた。先刻、根っからの極悪非道じゃないかも、と感じたことを後悔させられた。

「頼光! あんた、文化の救世主じゃないのか!? まずモノを大切にしろ!」

「利用できるものは残す。だが、邪魔なものは破壊あるのみ。童子切り安綱は鬼の血を求める。お前は鬼の友達だからな。仲間だ」

「どうやら誤解があるようだ」

 その時、私のポケットで、のどかな「すみれの花咲く頃」のメロディが鳴った。依吏子が歌っている着歌だ。

 頼光の動きが硬直した。というより、安綱の切っ先が方位磁石の針のように私──ではなく、携帯を指し示し、動かなくなった。

 それを見た茨木が、

「今のうちだ!」

 叫んだ。

 私はそのへんのガラクタを頼光へ投げつけながら、物陰から這い出た。同時に、通話ボタンに触れてもいないのに、携帯から依吏子の声が大音量であふれ出した。

「もしもーし。おとうさん? 聞こえてる? 何やってんのよ」

 私は携帯を取り出し、

「今、取り込み中だ!」

 怒鳴った。

「何よ、もうすぐおとうさんの誕生日だから、私――」

 茨木が私の肩をつかみ、怒鳴った。

「何やってる!? 電話を切れ!」

「違う! 通話ボタンは押してない!」

 これも頼光あるいは安綱の霊力か。

 頼光を振り返ると、彼は目を見開き、何かを探すように私の手元を睨んでいる。口元だけは意味ありげに笑っていた。

「いい加減にしなさいよ、この能天気オヤジ! 公演にだって来てくれないしさ、何よ、私の育ての親に遠慮してる!? ばっかじゃないの――」

 依吏子の罵倒をそのあたりまでは私も聞いていたが、あとの言葉は耳に届かなかった。

 茨木は廊下へ私を促し、転がり出た。頼光は追ってこなかった。

 この騒ぎは何事かと他の部屋から顔を出す者もあったが、茨木は美青年ではなく、文字通り、鬼の形相となっていた。しかも、切られた片腕をつかんでいる。

「TVの撮影です、引っ込んでいてください!」

 私が叫ぶと、邪魔をする者はなかった。というより、私たちに反応しなかった。姿が見えていても、私たちが何であるのか認識できず、反応しようがないのだろう。

 階段口へ飛び込んだ。携帯はまだつながっている。

「彼女に会おう。今すぐだ」

 と、茨木は階段を飛ぶように駆け下りる。

「おい。どういうことだ!?」

「とりあえず、彼女に身を隠すようにいえ!」

「理由は何だ!?」

「早く伝えろ!」

 私は携帯を耳に当てた。

「依吏子。どこかへ身を隠せ!」

「何いってるのよ。私、労働者なんだよ。これから夜の部の公演が始まるの」

「何時に終わる?」

「ふふん。娘の仕事が終わる時刻も知らないんだ。もういいよ」

 切られてしまった。

「身を隠すどころか、これからライトを浴びるらしい」

 折り返し電話しようとしたが、指が震えて何度か失敗し、ようやくつながっても、出てくれなかった。

「まずい、まずいぞ」

 茨木は赤くなったり、青くなったり、せわしなく顔色を変えている。

「童子切り安綱が携帯に反応して、彼女の正体を頼光に教えた。奴は狙いのものを見つけた。だから、今は俺たちを追ってこない」

「何だ、どういうことだ!? 説明しろ」

 茨木は血まみれの上着を脱ぎ捨てた。すでに片腕はもとに戻っていた。トイレで血を洗い、こけつまろびつ一階ロビーへ出ると、彼は吉野の姿を取り戻している。

「お前の娘が舞琴の魂の宿主だ。彼女自身は知らぬことだろうが」

 思わず茨木を見やったが、冗談ではないらしい。

 流出した血液の補充なのか、彼は自販機でミネラルウォーターを何本も買い、ものすごい勢いで次々と飲み干した。

 ひどい身なりなので、上着を貸してやった。親切心というより、世間から注目されたくなかったからだ。さすがの鬼の通力もこの傷で減退したのか、見て見ぬはずの通行人が、いちいち視線を向けてくる。

 外はすでに日暮れが近づいている。

「依吏子は今日は劇場にいるのか」

「人の娘を呼び捨てにするな」

「おや。お前も娘のことにはムキになるじゃないか。あの娘には俺の恋人の魂も宿っているのだぞ」

「どうして、そういうことになるんだ?」

「目貫はすでに脱け殻だった。そこに宿っていたはずの舞琴の魂が抜け出したのは、帯留に加工された時しかない」

「そういえる根拠は何だ?」

「帯留への改造は、目貫として片割れと引き離されるということだ。下手な細工をされたら、目貫として台無しにもなりかねない」

「まあ、鬼の目貫を鐔に象眼しようとした奴もいたからな。それを救ったばかりに、私はお前とつきあうハメになった」

「あの時、お前の夢の中に俺が現われたように、安綱の霊力なしでも、意識に訴えかけることはできる」

「しかし、こうして実体化したのは、目貫が安綱に触れたからだろ」

「霊力の発揮は安綱に限るわけではない」

「じゃ、他に霊験あらたかな何かが?」

「いや……。舞琴の場合は、懸命の情念が強すぎるほどに強く、安綱のような霊力なしでも目貫から抜け出ることを可能にしたのかも」

「懸命の情念……? 頼光がいっていた、人智を越えた何かとは、それか」

「俺への想念といってもいい」

「勝手にのろけてろ。だが、抜け出た魂はどこへ行った?」

「女の魂は女の身体に入りやすい。近くにいた女を宿主としたのだろうが、おそらく、生粋の鬼ではない舞琴にはそれが限界で、霊力を使い果たし、長い眠りに入った……」

「つまり、それが……?」

「依吏子の祖先だ。宿主にはその意識はないが、代々、受け継がれてきた」

「今は依吏子がその魂を受け継いでいるのか」

「受け継いでいるだけなら、話は簡単だ。身体を貸しているに過ぎないからな。童子切りの霊力で魂を目覚めさせられる」

「簡単じゃない場合があるのか」

「依吏子自身が舞琴の化身、つまり生まれ変わりである場合だ。二人の女の魂はDNAに織り込まれ、生命の根幹部分を共有しているから、簡単には分離できない」

「わかりやすく、いえ」

「舞琴の魂は依吏子以外の身体に入ることが不可能になってしまうんだよ。まあ、しかし──」

「何だ?」

「依吏子が舞琴の化身として現世に誕生するためには霊力が必要となる」

「たとえば、童子切り安綱のような……か」

「ああ。依吏子の母親が妊娠中に童子切りに触れなければ、そんなことにはならない」

「あるわけないだろ、そんなこと」

「だよな。ふははははは」

「とにかく……頼光も依吏子が何者か、気づいたわけか」

「当然」

 私はどこかへ引き返したい気分だった。だが、行く先は一つしかなかった。

「劇場へ行くぞ」

 虎ノ門から日比谷くらいなら、普段は徒歩の距離だ。私は走り出そうとしたが、振り返ると、茨木はタクシーを停めていた。

「無駄遣いだ。飛ばしても、どうせ終演まで依吏子には会えない」

「劇場へ行く前に、銀座で服を買う」

 これは余裕なのか。単にこいつが能天気なのか。たぶん前者だろうと希望的な推測をしながら、私もタクシーに乗った。

童子切り転生 第五回

童子切り転生 第5回 森 雅裕

 翌朝、私は依吏子に電話をかけた。

「昨日、お前が使っていた帯留だがな、茨木が見たいというんだ」

「なくなっちゃったわよ」

「あ?」

「昨日、おとうさんたちと別れたあと、一旦、帝都ホテルへ戻って、着物や私物は家へ持ち帰ったんだけどね、帯留だけ見つからないのよ」

「ホテルでなくしたのか」

「そうみたい。他のものは無事だから、泥棒にしちゃ妙だし、私がどこかに置き忘れたか、落っことしたか……」

「そうじゃない」

 盗まれたのだ。茨木と同じものを追跡している奴がいる。そいつはあのホテルで、依吏子の着物姿を見たのだ。

「なあ。パーティに栗塚旭みたいな迫力ある目鼻立ちの男は出席していなかったか」

「クリヅカアサヒ……。誰? それ」

「いないよなあ……」

 頼光がそんな場所へ出向く理由はなさそうだ。依吏子に興味を示していた出席者といえば――。菊尾曜一郎の人を見下す笑いが浮かんだ。文化庁長官がホテル荒らしをするとも思えないし、彼は依吏子が着替える前にホテルを出ている。第一、部屋には鍵がかかっているのだ。それを破る特技も持つまい。

 しかし、頼光なら人心を意のままに操れるという話だから、ホテルの従業員に解錠させることも可能だ。すると、菊尾から頼光へ依吏子の帯留の情報がもたらされ、私たちが銀座で食事中に、頼光がホテルへやってきたということなのか。あのゾンビはあの界隈に潜んでいるのか。

 では、菊尾は頼光とつながっているのか。しかし、両者にどういう因縁があるのだ? 両者をつなぐ者がいるはずだ。

 多田神社の頼光廟が破壊されたという新聞記事を思い出した。あれが頼光の復活だった。その場に文化庁長官がいたという話は伝わっていないが、所蔵刀の調査に赴いていた人物の名前が載っていた。鯉墨寿人。風前の灯火となっている帝国芸術刀剣保存協会の利権理事だ。

 電話を切った私はアパートの四階へ駆け上がり、吉野の部屋のチャイムを鳴らした。顔を出した茨木を、家族をはばかり、踊り場まで引きずり出した。こいつ、もちろん吉野の姿だった。

「ショックだ」

 いきなりそういうので、何事かと思ったら、

「ネットを見ていたら、大阪の茨木市じゃあ、茨木童子が三頭身のマスコットキャラクターになってるのを知った。イメージダウンもいいところだ」

 そんな愚痴をこぼした。むろん、私は取り合わなかった。

「おい。安綱の再刃は協会の鯉墨が仲介したんだったな」

「そうさ。だから、あいつが頼光とつながっているのかも――」

「協会は文化庁から嫌われているとはいえ、鯉墨はいろんな交渉をしているから、菊尾ともつながっている可能性がある。つまり、鯉墨が頼光と菊尾を結びつけた」

「何の話だ? 菊尾って誰だ?」

「協会へ行くぞ。急げ」

「何だ。行かないといっていたじゃないか」

「事情が変わった。道々、話す」

 

 帝刀保こと帝国芸術刀剣保存協会の所在地は代々木。高砂からは東日本橋で乗り越えて、初台まで行くことになる。

 ラッシュ時は過ぎていた。車内で携帯を使ってわめき立てている阿呆がいて、茨木が冷たく睨んでいるので、

「おい。小便垂れ流しで車内を駆け回らせたりするなよ。周囲が迷惑する」

 とりあえず、制止したが、

「そんなことはしない」

 茨木は爪先をドライバーがわりに、手摺りのパイプをつないでいるビスを抜き、それをレーザービームのごとく弾き飛ばした。阿呆の手から携帯が落ちた。五、六メートルは離れていたが、ビスは携帯を砕いていた。

 阿呆は呆然と破片を拾い、何が起きたのか理解できず、小声で文句をいいながら、周囲を見回した。ズボンの中では少量を垂れ流したかも知れない。

 私はその醜態から目をそむけ、茨木との会話を続けた。

「鯉墨が頼光の手下となったなら、長年の眠りから覚めた時代ボケの頼光が、どうやって移動したのかもわかる。鯉墨に兵庫の多田神社から東京まで案内させたんだ」

「だろうな」

「頼光も例の目貫を探しているんだろ」

「そうだ」

「奴一人じゃ手が足りないよな」

「まあ、童子切りがあれば、俺や舞琴を引き寄せるから、人海戦術で探し回る必要はないが、人手は必要だろうな。頼光の手先となった連中はアンテナみたいなもので、彼らが目貫と出会えば、頼光に伝わる。霊波を送受信するんだ」

「菊尾が目にした帯留は、たちまち頼光にキャッチされるということか」

「だから、菊尾って、誰なんだ? 帯留がどうかしたのか」

「文化庁長官。刀剣界とも無関係ではない」

「ああ。吉野の記憶にもそんな名前があったかな」

「昨日のセレブのパーティとやらに出席していた。依吏子の帯留に目をつけやがったんだ」

「依吏子って?」

「みやび心華の本名だよ! 伊上依吏子!」

「あー。なるほど……って、おい、帯留が奪われたのか!?」

「頼光は、例の目貫がどんなものか、知っているのか」

「春明師の弟子の協力で、おそらく下図を見ている。俺と舞琴を『成敗』した時、俺たちの思念にある目貫をイメージとしてとらえたことも有り得る」

「となると、それらしい金具を手当たり次第にチェックするわけか。あの帯留が目当ての目貫とは限らないな」

「何度いわせるんだ。童子切りと俺や舞琴は引き寄せ合う宿命だ。その刀を頼光が持ち、奴が張った網に目貫が引っかかるとしたら、それは偶然ではない。必然だ」

 茨木は真剣だが、もともと吉野の顔は真面目な表情には向かない作りだ。不思議な違和感があった。

「ところで、お前の娘の帯留、どういう謂れがあるんだ?」

「知るか」

 彫金をやっているくせに熟視もしなかった。そんな暇があれば、それを身につけている人間の方に視線を向ける。めったに会えない娘なのだ。

 母親も大学の卒業式で身につけていたが、これまた同じ理由で、着物の中身にばかり気をとられていた。

「お前の嫁は名家の出だったな」

「名家かどうかは知らないが、鎌倉の旧家だ」

「なら、帯留は由緒ある伝来品ということも有り得る。覚えてるか。春明師には鎌倉に友人がいた、といったよな」

「ああ。いやな予感がしていた。河野春明の作なら、せいぜい百数十年。由緒ある伝来品ってほどのものじゃないけどな」

「そこに宿る魂は平安以来千年以上の古さだぞ」

「舞琴が現代に蘇っても、そんな年寄りじゃお目にかかりたくないな」

「幕末に死んだ時の実年齢なら、舞琴は若いままさ」

「待てよ。お前と舞琴の身体は火災で灰になったんだろ。舞琴が蘇れば、誰かに憑依するのか」

「誰かの身体を借りるか、あるいは……」

「何だ?」

「生まれ変わるか、だ」

 ますます、いやな予感が強くなった。

 

 代々木のマンション群に囲まれて、帝国芸術刀剣保存協会、そして付属の刀剣博物館が建っている。

「何だか、傷だらけの車があるぜ」

 茨木は目がいい。駐車場はいささか離れているが、通りすがりに、そこに停められたGT-Rの惨状に気づいていた。

「ああ、あれか。鯉墨自慢の車だ。傷だらけなのは、奴に恨みを持つ連中が年中やってきては釘で引っ掻いたり、蹴飛ばしたりするからさ」

「車は持ち主の鏡ってわけだな」

 博物館とはいっても、展示スペースは二階だけだ。茨木はそちらへ足を向けた。

「この霊安室みたいな雰囲気は……展示室か。ちよっと見ていこう」

「寄り道するな」

「何やら感じるんだ」

 売店を兼ねた受付係は、私たちに見向きもしなかった。茨木の通力のおかげだかどうか。普段もエラソーな客はフリーで通してしまう受付なのだ。

 展示室に陳列してあるのはほとんど刀剣だが、奥に小道具や資料が並んでいる。茨木は迷うことなくその前に直行した。

 三寸角ほどの彫金版があった。鬼の面を手にした女の図だ。先日、図録で見たものだ。

 茨木は視線で穴をあける気かと思うほど、凝視している。

「春明師の作だな」

「ああ。千早姫の図かとも思ったが、それなら大森彦七の逸話が劇化される明治以降でなきゃおかしいよな」

「舞琴だ」

「これが?」

「春明師は娘の姿を彫ったんだ。鬼の面を持っているのは鬼族の血筋であることを暗喩している。目貫もこれと同様の姿に彫っている。面は持たないが」

「ふう……ん」

「これはこの協会の所蔵品なのだな」

「刀剣、刀装具、それに関係資料のコレクションは日本で唯一無二だ。もっとも、研究したいと申し込んでも、簡単には見せてくれないがね」

 銅板のようだが、黒っぽい。山銅だろう。私が入手した鬼の目貫と同様である。

「探している舞琴の目貫も山銅なのか」

「目貫とこの彫金版は同じ素材から作られている」

「上州雙林寺で調達したという山銅だな」

 いわくありげではあったが、今は鯉墨を「襲撃」する方が優先だ。

「行くぞ」

 階段で、鯉墨が勤務する三階へ上がった。

 

 理事の席にふんぞり返る鯉墨は異常なほど血色がいいが、肛門から空気を送り込んだ蛙を連想させる体型だった。この巨大な腹で、どうやってGT-Rに乗り込めるのか、謎でさえあった。私は秘かにメタボ・ガマと呼んでいた。こいつを見ると、人類は鬼族よりも下等なのだという気になる。

「お。吉野さん」

 メタボ・ガマは茨木をそう呼び、落ち着きなく机を叩いた。

「困りますよ、預けた刀を盗まれるなんて」

 いつもニヤニヤと薄笑いを浮かべている男だが、今回はそれと交互に怒りの表情も見せた。しかし、どうしても笑う癖が出る。小心者だった。

「吉野さん。多田神社へ行って、土下座でもしてください。私は知りませんよ。責任とりませんからね」

「ふん。最初からそのつもりだろ。頼光に刀を渡すなら、協会や神社から盗まれるより、俺が盗まれた方が、お宅らの責任問題にならない。だから、俺が襲われた」

「何いってるんですか、吉野さん」

「俺には謝る必要なんかないってことさ」

 茨木の言葉が悪くなっている。鯉墨は我々を見下そうと懸命に薄笑いを作っていたが、顔色は赤くなったり青くなったり、まるで信号機だった。

「へへ。ライコーって、何ですか」

 私が答えた。

「あんたが東京まで案内し、文化庁長官にも引き合わせた、源頼光のことだ」

「へっ。あの、童子切りの持ち主の、平安時代の頼光ですか」

「文化庁に愛想尽かされて、協会は存続の危機だ。あんたは頼光と菊尾長官の仲を取り持つことで、保身を図った。菊尾の力を借りて協会の再建を図り、それが駄目なら、あんただけでも再就職先を斡旋してもらおうって算段だろう。そして、菊尾は頼光の力を借りて政治的権力を拡大しようというところかな」

「いかれてる。あははははは」

 笑い声は長続きしなかった。茨木が指一本で鯉墨の胸を小突くと、彼はメタボな身体を折り曲げ、激しく咳き込んだ。

「げほげほげほげほ。息が、息が……」

「俺がここへ来たのは謝るためじゃなく、お前を拷問するためさ」

「……あああ、その態度の悪さは、お前、吉野じゃないのか」

 茨木はニタリと笑った。吉野の顔のままだが、唇の両端から牙が伸びた。

「えっ。うわっ。そうか。お前が茨木童子か!?」

「おや。有名だな、俺も。頼光から聞いたか」

「極悪の女たらしの単細胞の鬼だと」

「……拷問はやめて、バラバラにしてやろうか」

「待て待て。待ってください。訊きたいことがあるなら、拷問なんかしなくても大丈夫ですっ。ハイ、おっしゃる通り、頼光様と菊尾先生はお仲間です。僭越ではございますが、私がお二人の中継ぎをさせていただきました。私の努力です。いやー、苦労しました。あははははははははははははははは」

 鯉墨は、笑っているうちはこの窮地から逃避できるとでも思ったようだ。いつまで息が続くかなと放っておいた。次第に声も細くなり、必死で笑い続けようとしたが、

「は、は……はあ。ゼエゼエゼエ……」

 青息吐息となった鯉墨に、私は冷たく声をかけた。

「あんたが彼らにとっての重要人物なら、当然、頼光の居所を知っているよな」

「ら、頼光様に何の用が……?」 

「昨夜、帝都ホテルで、菊尾は帯留に姿を変えた目貫に目をつけた。そいつが頼光の手に渡ったはずだ」

「ああ。パーティがあったようですね。伝統文化の関係者が出席していて、愛刀家も多かったはずです。私も行きたかったですが、こっちの協会の人間は今はおとなしくしていろと菊尾先生がおっしゃるもんで……。ええと、帯留というと?」

「会場には宝塚の生徒も数名いた。そのうちの一人が着物の帯留を盗まれた。それを取り戻したい」

「目貫とか帯留とか、それが、あんたと何の関係が?」

「被害者は私の娘だ」

「へへ。吉野さんも母里さんも奇人変人とは思っていたが、吉野は鬼になっちゃうし、あんたもいよいよ毒が回りましたか。娘さんも奇抜な人なんでしょうね」

 私は鯉墨へ向かって踏み出した。鬼よりも凶悪な人相となっていただろう。胸倉つかんで、怒鳴った。

「メタボのガマ野郎! てめえが自分にそっくりで可愛くて可愛くてたまらんといつも自慢している孫たちを呪われたガマの化身として、本名で小説に書いてやろうか! ええええ!」

 どうせこいつの孫の名前など知らないので、書きようもないのだが、茨木があきれ顔で、私を押しとどめた。

「人間というのは鬼より凶悪だな。よせ。俺が調べる」

 茨木が笑いながら鬼の形相となり、角が生え、唇が耳のあたりまで裂けた。私だって恐ろしいのだから、鯉墨はたまらず悲鳴をあげ、腰を抜かした。

 茨木は、ドアへ這って逃げようとするガマ男の衿首をつかんで、引きずり戻した。

「俺がこいつに乗り移って、記憶を探ればすむことだ」

「助けて!」

 そう絶叫しようとしたメタボのガマ男だが、茨木に背中を踏みつけられると、声はくぐもってしまい、人間の言語にはならなかった。

 茨木はしばらくこの醜悪な人類を見下ろしていたが、何の変化も起きなかった。そのうち、恐ろしい鬼の形相は吉野の姿へと戻ってしまった。

「茨木。どうした?」

「鯉墨に憑依できない……」

「どういうことだ?」

「わからん。この吉野の身体を離れられないんだ」

 鯉墨が茨木の足の下から這い出て、再びドアへ向かおうとした。

「お前ら、わけのわからんことを――」

 悪態をつこうとしたその時、ドアが開いて、さらに険悪な空気が割り込んできた。

「こ、こいずみぃぃぃ!」

 若い男が現われ、叫びながら、何やら振り回した。鯉墨は咄嗟に背を丸めて避けたが、何度も打ち据えられた。

「死ね死ね死ね、こぉいぃずみぃ!」

 一番近くにいた私は制止せざるを得ない。男を抱き留めた。手にしていたハンマーが落ちた。

「何だ、どうした!? 何やってる!?」

「この協会のせいで、こいつら悪党のせいで、俺の夢が、俺の夢が――」

 鯉墨の仲介で偽物の日本刀でもつかまされた恨みが爆発したのかと思ったが、そうではないらしい。

「俺は刀鍛冶の弟子だ。協会の不正のせいで、文化庁は今年の研修を取り止めた。この試験にそなえて、こちとら五年も修業してきたんだ。他人の人生、踏みつけにしやがって!」

 刀鍛冶になるためには、刀匠のもとで五年以上の修業を積み、文化庁が主催する研修(実技試験を含む)を終えて、作刀承認を得なければならない。従来、その研修は年一度、島根県横田町に帝国芸術刀剣保存協会が設立した鍛刀場で行なわれていた。講師は刀匠団体である全日本刀工会から派遣されるが、その刀工会も文化庁も帝刀保と絶縁したため、研修が中止になってしまったのである。

 職業訓練者のチャンスを奪うという、裁判沙汰になったら文化庁も困るだろう一大事件であるが、マスコミはまったく黙殺した。大衆はこんな事件に興味を示さないからである。

「同情するが、チャンスはまたある。来年も中止ってことはないだろう。文化庁も何か考えるはずだ」

「作刀承認がなきゃ刀を作れない。生活できない。貧乏暮らしの親の援助で、修業してきたんだ。また一年、犠牲にはできないっ」

 泣き出した。

 茨木は冷たく笑った。

「いいじゃないか。鍛えたハンマーを鯉墨にふるえ。鯉墨だけが悪人というわけじゃないが、ここは代表してもらおうぜ。帯留のありかも知らないなら、助ける価値もないし」

「駄目だ」

 私はハンマーを拾い、茨木に渡した。

「鍛冶屋のハンマーを人間相手にふるうなど言語道断だ。ただの棒っ切れなら、かまわんと思うが」

「なるほど」

 茨木はその怪力で、ハンマーから鉄の頭を引き抜き、柄だけを若者に返した。

「こいつで思う存分、殴れ」

 鯉墨は涙声で抗議した。

「あ、頭おかしいぞ、お前ら、け、警備員を呼ぶぞ。協会は警察の天下り先でもあるんだぞ。私は警察に知り合いが多いんだ。手を出したら――」

 男は柄を振り上げて、鯉墨に迫った。鯉墨は泣き顔をちぎれんばかりに左右に振った。

「御免なさい、いいすぎました。母里さんっ。お願いします。このチンピラを止めてくださいっ!」

「これまでの協会の悪行の数々を洗いざらい懺悔しろ。そしたら、許してもらえるかも知れんぜ」

 鯉墨の身体の至るところを若き刀鍛冶志望者は乱打した。

「ぎゃっ!」

 悲鳴のあと、鯉墨は猛烈な早口で、まくしたてた。

「ハイハイッ。私ども家族名義の審査物件に最高ランクの鑑定書をつけました。刀屋と結託して、偽物や安物にも鑑定書をつけ、売りまくってボロ儲けしました。調子に乗って、九州の刀鍛冶に偽物を量産させました。協会創設以来、倉庫に眠っていた無登録の刀七百本のうち、ほんの二百本ばっかし横流ししました。告発した職員に背任の濡れ衣着せて、クビにしました。つけ届けのない職人はコンクールで賞を与えませんでした。すみません、すみません、でも、私一人の仕業じゃありません。協会まるごと甘い汁を吸い続けました。それで儲けるといっても、年に二、三百万円ぽっちです。ボーナスみたいなもんですよ。そんなに目クジラ立てることじゃありませんっ。ね、そうでしょ!?」

 懺悔ではなく自慢に聞こえた。

「協会ほど刀剣界に貢献した団体がありますか。たたら製鉄を復興し、刀鍛冶に玉鋼を供給して、材料不足から救ったでしょうが。恩知らずどもめ。インチキ鑑定書を濫発したなんていうが、協会の鑑定書があったからこそ、素人の骨董屋やブローカーでも刀剣の売買ができたんです。業界活性化のために必要だったんです。ちょっと疑わしい刀剣に鑑定書がついていると、協会はデタラメだの無責任だのと非難する連中がいるが、本物の可能性もある刀剣を偽物だと難癖つけて葬る方がよほど傲慢だし、犯罪的だ。悪いのは鑑定書を発行する協会ではなく、利用した業者です。愛刀家だって、損得抜きで刀が好きなんて奇特な奴は滅多にいない。友達を出し抜いて入手した刀を高く転売しましたとか、二束三文で掘り出した刀に帝刀保の審査で鑑定書がつき、ガッツポーズしましたとか、下世話な自慢話しかしない俗物ばかりだ。昔の本物の愛刀家は趣味の道で儲けるのは不名誉だといって、自分が買った値段より高くは手放さなかったものだ。だが、文化は金なり。それが現実だ。とはいっても、人間は金のためだけには動かないものなんだよ。協会にも正義があるんです。非難するのは利権にありつけなかった負け犬の妬みですっ」

 この確信犯は一気にまくし立てた。こいつなりに鬱積したものがあったようだ。

 私には、この建物の空気を吸うのもうんざりだった。

「盗っ人にも三分の理だな。ま、人間、自分が悪いことしていると自覚したら、生きにくいよな」

 若者は馬鹿馬鹿しくなったのか、ハンマーの柄を捨てた。

 私も、もうこのガマ男の醜態をこれ以上、見る気はない。

「理事殿。おしゃべりはもういいから、頼光の居場所を教えろ」

「知らない。菊尾先生に訊け。いや、訊いてください。あ、私は重要人物ではないわけじゃないぞ。頼光や菊尾から軽んじられているわけじゃないぞ。どうだ、呼び捨てにしてやったぞ」

「せいぜい、自慢してろ。だが結局、頼光に利用されるだけだぞ」

「源頼光は英雄だ。間違った伝統文化を正しい方向へ導いてくださる救世主だ。わが帝国芸術刀剣保存協会がそのお手伝いをするのだ。公明正大な団体だからな。日本刀は単なる武器にあらず、冶金、彫金、木工、漆塗り、組紐、わが国の伝統技術の集大成だ。日本刀は日本文化そのもの。どーだ、まいったか」

 茨木は、机の上にあった鯉墨の携帯を取り上げた。

「この能天気野郎にはもう用はない。引き上げよう」

 刀鍛冶の弟子だという若者はふてくされて、半ば放心状態で立っている。

 現代屈指の刀鍛冶である吉野の姿をした茨木は、先輩風を吹かせた。

「どうせ刀鍛冶なんて、食える仕事じゃない。コンクールで特賞を取り続けても、十年で短刀一本の注文しか来ない刀鍛冶もいる。作刀承認が一年や二年遅れても、生活は変わらないさ。しかし、鯉墨を痛めつけて、少しは気が晴れただろ。お前も早いところ帰れ」

「こんなことしたら、もう……」

「傷害で訴えられることはないさ。たいしたケガはさせてないし、警察沙汰になれば、マスコミが面白おかしく取り上げて、鯉墨も協会も汚れた痛い腹を探られる」

 鯉墨は立ち上がれず、恨みの目で我々を見上げている。

「なあ、鯉墨さん。若者の前途を奪うようなことをしたら、この次は棒っ切れで殴られるだけじゃすまないぜ」

 捨てゼリフを残し、私たちは部屋を出た。廊下にいた職員たちが、たじろいだ。

「またかよ……」

 という囁きも聞こえた。何らかの被害を受けた者の殴り込みは珍しくないらしい。

 

 帝刀保を出て、足早にこの利権の館を離れた。茨木は奪ってきた鯉墨の携帯をいじり回している。

「菊尾の携帯番号が登録されている。かけるぞ」

「お前、鬼なら、頼光がどこにいるか、察知できないのか」

「霊波より電波の方が早い」

 茨木は吉野よりも文明の利器に通じている。聴力が「人間離れ」しているから、耳に当てはしないが、お客様係へクレームつけるかのように文化庁長官を呼び出した。

「菊尾か。俺が誰か、どんな用件か、わかってるよな。おいおい。保険の勧誘じゃねーよ。こんな上品な声だぜ。待て。替わる」

 茨木は携帯を私へ寄こした。

「母里といいます。昨日、帝都ホテルのロビーでお会いした……」

「ああ。心華さんの父上ですか。今さっきの下品な声はあなたの友達ですかな」

「私よりもむしろ源頼光と旧知の仲だと思いますよ。茨木童子だ」

「ほお……」

「彼と私は帯留を取り返すつもりです。頼光の手に渡ったようだが」

「渡りましたよ」

 長官殿はあっさり認めた。

「しかし、アテがはずれたようです」

「何だって……?」

「私が預かっています。お返ししますから、霞が関まで御足労願えますか」

「それは御丁寧に……。いや、礼をいう必要はなかったな。頼光は文化庁にいるのか。まさか、な」

「では、待っているぞ」

 菊尾の口調が一変したところで、通話が切れた。

 茨木はすでに新宿方向へ歩き出している。

「文化庁へ行くなら、タクシーだな。使うのはどうせ吉野の金だ」

「茨木。使うばかりじゃなく、補充することも考えろよ」

「銀行を襲うくらいは簡単だが」

「そうじゃなくて、鬼は鍛冶屋のルーツのはずだ。名刀を作って、本物の吉野義光になれ」

「そんなことより、母里。何で、菊尾ごときを相手に、あんな丁寧な言葉遣いなんだ?」

「私の人間性というものだ。しかし、あいつ、最後の一言はエラソーだった。何だか傷ついた」

「こちらが丁寧に接すると、なめてかかる奴がいるものだ」

 私は鯉墨の携帯を近くのマンションのゴミ捨て場へ放り込んだ。

「アテがはずれたと菊尾はいっていたが、どういう意味かな。目貫は目当てのものじゃなかったのか。あっさり返してくれるというのも何か引っかかる……」

「俺としては、運命の出会いを信じたいところだが」

「鬼が運命なんて言葉を使うかね。ところで、お前、鯉墨に憑依できなかったことは問題じゃないのか。鬼の通力とか妖力とやらが不安になる。これから、敵地へ乗り込むんだぞ」

「ほお。乗り込む気か。怨霊が恐ろしくないか」

「何。いざとなれば、お前だけ頼光に突撃してもらって、私は喫茶店あたりで待っている」

「憑依できなかったのは、何というか、この身体が俺を離してくれない感覚だったが」

「お前の魂が離れれば、身体は死ぬということか」

「まあ、すぐに戻れば、影響はないんだが……」

 鬼にも調子が悪いなんてことがあるのかな、と私は深く考えなかった。そもそも、この非現実的な状況を深く考えてしまったら、頭がパンクする。

「頼光みたいな怨霊は倒せるものなのか」

「心臓を貫けば、滅びる。鈍刀じゃ駄目だ。それこそ、国宝クラスの名刀でなきゃ」

「しかし、奴に勝てる剣豪がいるかな」

「ともあれ、敵地とはいっても、文化庁の中で、怨霊と鬼が乱闘なんて展開にはなるまいよ」

「妖怪変化の頼光だって、そこまでセンセーショナルな騒動を起こして、世間の注目を浴びちまったら、以後の活動がやりにくいからな」

「待て。怨霊は妖怪とは異なるぞ。まあ、東洋と西洋では定義も異なるし、研究者によっても持論は様々で、妖怪は生命を超越したものという解釈も成り立つが、とりあえず生命体だと考えてくれ。ついでにいっておくと、鬼も妖怪ではない。民俗学者の中にも混同している奴がいるが、鬼神というように、むしろ神に近いのが鬼だ。折口信夫は正しい」

「そうかね。折口信夫がいう『神』とは何なのかと問題も生じるが、補足しておくと、折口説では、古くは精霊を『もの』といい、それに『鬼』の字を当てたのだともいっている。それに対し、精霊に限らず、その名を口に出すことをはばかる対象が『もの』であるという説もある。中国では『鬼』は死者の霊魂を指すらしい。となると、鬼と怨霊は同類だ。『日本書紀』や『万葉集』には『鬼』を『もの』『しこ』ばかりでなく『かみ』と訓じた例があるというが、それを否定する研究者もいる。要するに、定義は人それぞれだ」

「あー、めんどくさい奴だな、お前も」

「そんなことより、頼光は文化を正しい方向へ導くとか、鯉墨はいっていたな」

「昨日、俺も似たようなことをいったぜ。人間が間違った方向へ暴走する時、それをリセットするために鬼が復活する。そこには地球の意志が作用する──」

「やれやれ。どいつもこいつも自分が日本文化を背負ってると思っていやがる」

「頼光が帝刀保のような団体に肩入れするとは思えない。荒療治をするかも知れない」

「その場合、地球の意志を代表する鬼としてはどうする?」

「う……ん」

 茨木のテンションが急に落ちた。

「その鬼は俺ではないかも知れない」

「どういうことだ?」

「現代に棲息している鬼が俺一人であるとは限らない。一人だと考えるべき理由はないだろう」

「そりゃどういう意味だ?」

 茨木は答えず、表通りに出て、タクシーを拾った。

童子切り転生 第四回

童子切り転生 第4回 森 雅裕

 この日の東京宝塚劇場は昼公演だけで、夜には劇場前は閑散としていた。

 劇場と道を隔てる帝都ホテルのロビーで、私は娘の携帯に連絡した。伊上依吏子。養女に行った先の姓を名乗っている。彼女は宴会場を途中で抜けてきた。

「遅かったじゃない。くっだらないセレブどものパーティをどうやって抜け出そうかと思案してたわよ」

 娘役だから、女らしい装いである。金髪だが、和服姿だった。周囲の注目をかき集める佇まいだ。

「何のパーティだ?」

「歌舞伎の人間国宝がどうしたこうしたっていってたけど」

「いやなら出席しなきゃいいだろ」

「そうもいかないのよ。私たち、盛り上げ要員として、劇団の上層部から駆り出されるんだもの。政財界の御曹司とお近づきになれるメリットもあるけど、愛想振りまくのに忙しくて、料理も食べられやしない」

 東京公演の際、一部のスターはホテル暮らしだが、多くの生徒は恵比寿にある寮に宿泊する。だが、依吏子は東京に「実家」があるから、公演中はそこから通う。

「家には、帰りが少し遅くなるっていってあるけど」

「じゃ、そのへんに飯食いに行くか」

「着替えなきゃ。劇団が控え室がわりに借りてくれてる部屋があるから」

 彼女が身を翻そうとすると、男が一直線に近づいてきた。エレベータを降りた時から、異様な存在感を放っていた男だ。四十代初め。こいつ、見覚えがある。

「みやび心華さんでしたね」

 芸名で声をかけてきた。なるほど、御曹司というにはトウがたっているが、パーティに駆り出されると、こういう人種とお近づきになれるわけだ。

 文化庁長官・菊尾曜一郎。一見は見栄えするが、若くして抜擢されたエリートだけに、傲慢が服を着ているような人物だった。このエライさんもパーティ途中で帰るらしい。

「今日は楽しかったです。またお会いできるといいですね」

 何をいってやがる、と仏頂面した私には一瞥もくれず、菊尾は依吏子からまったく視線をはずさないまま、

「こちらは?」

 と訊いた。

「父です。挨拶が苦手で、申し訳ありません」

 さすが、わが娘である。菊尾の無礼こそを皮肉っている。ようやく彼が私に視線をくれたので、名乗ってやった。

「母里真左大です」

「お仕事は?」

「今、メインでやっているのは彫金です」

「というと……?」

「刀装具です。おわかりですか」

「ああ……。刀剣界は今、大変なことになってますね」

「そのようです」

 長く刀剣界に君臨してきた帝国芸術刀剣保存協会の不正をめぐって、内部抗争、分裂が起こり、監督官庁である文化庁を巻き込んだ騒動となっている。

「日本刀文化、存亡の危機ですな。協会は分裂して、日本刀伝統振興協会というものが新たに立ち上げられたんですね。母里さんはどちらに所属しているのですか」

「会費の安い方です」

「なるほど」

 なるほど、とは興味ない会話を打ち切る言葉である。

「では、また」

 菊尾は背を向け、秘書やら取り巻きやらを従えて、歩き去った。ロビーには腹立たしいほどのしらけた空気が残った。

「どうして、小説家だといわなかったの?」

「どんな小説書いてるのか、必ず訊かれる。答に困る。どうせ向こうは丁寧な返事なんか求めちゃいないだろうが、私は適当にあしらえない」

「あの人、うちらの公演も見に来てくれたわよ。政治家に宝塚ファンは珍しくないけど」

「トップスターの名前も知るまいよ。宝塚が好きな自分が好きなのさ」

「ひねくれてるなア……。じゃ、着替えてくるから待ってて」

 依吏子がエレベータに消えると、ロビーに座り込んだ私の視界に、茨木が飛び込んできた。美男の姿だが、服装が変わり、青年実業家風な爽やかさだ。

「おい。置いていきやがったな」

「ふん。よくここがわかったじゃないか。妖力か」

「帝都ホテルのパーティがどうだとかいっていたではないか」

「その格好は何だ?」

「途中で調達した。吉野の趣味はひどいからな」

 金を払ったのか、盗んだのか、敢えて尋ねなかった。

「鯉墨は怒り狂っていたか。電話したんだろ」

「警察に知らせたのかと訊くから、犯人の心当たりがあるからまかせとけ、と答えといた。強盗と格闘したなんていったら、根掘り葉掘りうるさいだろうから、留守中になくなったことにした。刀が歩いていったのかも知れない。さすがは神剣・童子切りでございますなーと笑ったら、あんたは頭がおかしいと罵倒された」

「だろうなあ。しかし、それで納得したのかな」

「安綱は自分の持ち物じゃないから、責任さえ逃れられりゃ、それでいいのだろう」

「悪いのは間抜けな吉野というわけか」

「俺は明日、協会へ行ってみる」

「電話だけじゃすまないもんな。鯉墨は俺もイベントで何回か会っているがね、ありゃ協会に巣食う利権野郎で、保身ばかり考えてる小心者だ。お前に多田神社へ急行して、土下座でもしてこいとわめくぞ。人を許す度量の大きさはない」

「許してもらわなくても、俺は別に困らぬ」

 まあ、こいつみたいな鬼には人間社会に恐いものなしだろう。

「勝手にしろ。何か手がかりがつかめるかも知れないな。吉野義光が童子切りを預かっていたことを頼光がどうして知ったのか――。多田神社の頼光廟が破壊されたという新聞記事があったな。あれによると、鯉墨は神社の所蔵品調査に出向いていたようだから、復活した頼光と接触している可能性もある」

「いやいや。そんなことより、俺としては、舞琴の目貫を捜索するために、協会に何か資料がないか、調べたいのさ」

「はいはい。私は止めないよ」

「ところで、お前の娘は?」

「あれだ」

 依吏子がロビーに現われた。カジュアルだが、隙のない服装だ。

「お待たせっ」

 派手な装いでなくても、どこか異彩を放つ娘である。私の傍らにいた茨木も呆然と見つめている。

 大体、姿勢がよすぎる。ボクサーも相撲取りもクラウチングスタイルが臨戦態勢だというのに、役者だけは背筋を伸ばすのが職業ポーズである。無防備だ、と文句をいいたくなる。……いわないが。

 依吏子は大変な早足で、

「さ。パーティの関係者に見つからないうちに、とっとと逃げましょ」

 先に立って歩き出し、あとに従う私と茨木をチラリと振り返った。

「……ところで、どなた? こちら」

「茨木さんだ」

「茨木……。薔薇のことね。なるほど」

「何が、なるほどだ?」

「魔夜峰央が描くところの、そっちの趣味の人みたいだもの」

 讃め言葉と受け取ったのか、茨木はうれしげだ。「そっちの趣味」の意味がわかっていない。

「その、魔夜……というのは月岡芳年みたいな絵師ですか」

「当たらずも遠からずかなあ……」

 この娘、ツキオカヨシトシって誰? と訊かないのだから、まずまず無教養ではない。

「私、宝塚歌劇団花組のみやび心華です」

 芸名を名乗った。

 茨木はまだ気が抜けた表情で、呟いた。

「信じられない」

「は……?」

「舞琴にそっくりだ」

 おいおい、と私は嘆息した。

「平安の時代にこんな顔立ちの日本人がいるか」

「はるか昔、海の向こうからやってきた鬼の祖先たちは黄色い髪、青い目の巨人だったという。俺も舞琴もそうした血を引いているのだから、平安人の容貌とは異なるのも当然」

「いっておくが、わが娘が金髪なのは役柄のためだ。まあしかし、酒呑童子にしても、丹後に漂着したシュタイン・ドッチというドイツ貴族の名前が転訛したものという説があるくらいだからな。私には笑い話としか思えないが」

 依吏子が屈託なく、

「月岡芳年だの酒呑童子だの、茨木さんは美術史の先生?」

 そう訊くと、茨木は喜色を浮かべた。

「心華さんは酒呑童子の伝説を知っていますか」

「ああ。逸翁美術館で見たことがあるなア。現存最古だとかいう重要文化財の大江山絵詞」

「ほお。勉強してますね。どこの美術館ですか」

「宝塚歌劇団創設者・小林一三先生の蒐集品を所蔵している大阪池田の美術館。宝塚の生徒は誰だって行きますって。でもあれ、甲冑姿の武将たちによってたかって切り刻まれてる鬼の表情が泣いてるみたいで、切ないんだ。だから覚えてる。えーっ、これが悪い鬼? てな感じ」

「うんうん。あなたとは話が合いそうだ」

「合わなくていいっ」

 私が叫ぶと、

「そんな話、もういいから、さっさとお歩き。こちとら腹ペコだよ」

 依吏子は私たちの真ん中に入って背中を押し、ガード下を銀座方向へ促した。

 

 銀座のビヤホールで、茨木はメニュー全品を食い尽くすほどの注文でテーブルを埋めた。

「お前、現代の通貨を持ってるんだろうな」

「心配無用。どうせ吉野の金だ」

「そういうことなら、私も追加注文するぞ」

 依吏子にも、遠慮するなと促した。いわずとも、食欲旺盛な娘である。

「心華さんは母親似ですか」

 しつこく、茨木は心華の容貌にこだわっている。

「パーツの一つ一つは父親似なんですけどね、トータルすると母親似かなあ」

「おかあさんはお元気ですか」

「たぶん。数年に一度しか会いませんけど」

 母親はニューヨークへ行ったきりのはずだったが、依吏子は私を見やり、いった。

「そういや、一時帰国してるみたいよ。こないだ電話あったもの」

「それでも、会おうとはしないのか」

「あの人、のほほんとしてて、再婚もせずに世俗から超越してるっていうか、あんなの見ると、何かくやしいんだよね。そろそろ人生のツケを払ったかなと会ってみると、ちっとも老けてないしさ。姉妹ですかっていわれるもの。その点、おとうさんは順当にみすぼらしくなっていくんで、ほっとする。あはは」

「ほお。老けないおかあさんねえ……」

 と、茨木。

「宝塚はお金がかかるんじゃないですか」

「そういう意味じゃ、お金持ちの養女になったのは幸運でしたよ」

 依吏子は母親の弟夫婦の養女として育っている。

「この父親ともほとんど一緒に暮らしていません。学生結婚だったけど、父は学生寮に住んでいたし、大学卒業後もその日暮らしだったから、入籍はしても一度も同居なんかしてないんですよ。私はその間、母に育てられたけど、彼女が渡米したのは私が小学六年の終わり近くでね、卒業までの数カ月だけ、父に預けられました。その後、中学入学と同時に叔父夫婦の養女に入りました」

 初対面の相手に身の上話をする娘とは思わなかった。茨木の妖力のなせる技か。

「ジェンヌのプライバシーは公開しない決まりだろ」

 私は割って入ったが、茨木の切れ長の双眸は意味ありげに光っていた。

「よほど魅力的なおかあさんなんでしょうね」

 そういわれりゃ、私も肯定せざるを得ない。

「大学でも屈指の美形だったからな」

「今日、私が着てた着物もおかあさんのお下がりだったのよ。おばあちゃんからおかあさんへのお下がり。気がついた?」

「知るかよ」

「大学の卒業式で着たらしいわよ。覚えてないか。女の衣裳なんか興味ないものね、あなたは」

「女にもよるさ。卒業式は覚えてる。袴姿の女が多かったが、彼女は普通に着物姿だったから、異彩を放っていた。紫っぽい色だったとおぼろげに覚えているが、柄はまったく記憶にない。私は黒のスーツで――」

「聞いてない。それは」

 舌を噛みそうな名前のサラダを豪快に、しかし上品に食らう依吏子を、

「ふうん。着物を着ていたのか」

 茨木が目を細めて、楽しげに見つめた。

「見るな」

 私が足を蹴ると、茨木は微笑を崩さず、目だけに怒気を浮かべ、いった。

「母娘三代に着物を伝えるなら、しっかりした家柄らしい」

 私への皮肉か。そりゃまあ確かに……子供の頃に一家離散し、親兄弟、親戚一同と絶縁した私のような根無し草とは違う。そういう嫁だったが。

 

「いい娘だ」

「わかってる」

 依吏子と別れたあと、茨木は勝手に納得していた。

「やはり、俺を引きつけるものがお前の行手にあった」

 私と茨木は新橋から都営地下鉄に乗った。高砂へは直通一本だが、夜はうんざりするほど混む。

 周囲に聞こえる会話はしたくないが、茨木は声に指向性を持たせることができるらしく、ダイレクトに私の耳へ入った。私も小声だが、鬼の耳には問題なく聞こえるようだ。

「母里さん。お前の年齢から計算すると、学生時代に心華さんは生まれてるな」

「私も嫁も大学四年の夏だった。芸大生はマメに通学しないし、夏休みも長いから、彼女の妊娠に気づく同級生もいなかった。卒業前、嫁は単位が足りなくて、教官に直訴した。就職も決まってるし、結婚もしたから、卒業できなきゃ困ります、と。教官も毎年、そんな学生はお馴染みだ。嘘ついちゃいかん、子供でもできたというなら話は別だが、と口走ったものだから、じゃ、私の赤ちゃん連れてきます、ということになった。うちの娘は生後六カ月で芸大の門をくぐった女さ。学友たちは、あれは誰の子かと驚いていたよ。結婚したことは別に内緒というわけじゃなかったが、個人主義の強い学校だから、お披露目もしなかったんだ」

「その美人嫁の卒業式の衣裳もはっきり覚えてないとは、アーティストの風上にも置けない」

「金具なら覚えてるぞ。帯留の金具。今日の娘は卒業式の時の母親と同じ帯留を使っていた。北斎風の美人図だった」

「待て。何といった?」

「卒業式の母親と同じ――」

「図柄だよ」

「北斎風の美人だ」

「そいつ、見たいものだな」

「お前の探し物は目貫だろ。河野春明作の」

「これは博識の母里真左大とも思えぬ言葉。明治九年に廃刀令が出ると、用なしとなった刀装具は帯留や煙草金具に転用された」

「そんなことは先刻承知だよ。特に芸者衆は客の刀の刀装具を『契りの証』として、帯留に作り替えて用いた。だがな、私の娘をお前の千年越しの恋人探しに巻き込むな」

「俺と舞琴は互いに引き合う運命だ。心華さんの帯留が舞琴の魂が宿る目貫を改造したものだとしたら、俺が出会ったことは偶然ではない」

「お前、地球は自分中心に回ってると思っているだろう」

「この世には自浄作用が働く。人間が間違った方向へ暴走する時、それをリセットするために鬼が復活する。そこには地球の意志が作用する」

「間違った方向とは、どういうことだ?」

「現代社会は健全とは思えないぜ」

「おや。でかい話が始まるのかな。小さなことにこだわらず、大きなことは考えない。それが私の方針だが」

「手近なところでいえば、日本刀文化が存亡の危機。違うか」

「吉野の記憶から見つけたデータか。正確にいえば、帝国芸術刀剣保存協会が危機なのさ」

 刀剣団体はいくつかあるが、帝刀保は全国に支部を擁して、最大の規模と権威を誇り、鑑定書の発行を大きな財源としてきた。市場に流通している日本刀は、この鑑定書がついているのが当然とさえ見なされている。

 鑑定書には数種類あり、最高ランクの鑑定書がつけば、刀の値段は跳ね上がる。そこで、協会幹部と刀剣商が結託して、凡刀あるいは偽物に最高の鑑定書をつけ、高価で売り飛ばすことが恒常的に行なわれてきた。こうした不正を告発した職員が馘首されて裁判沙汰にもなっている。

 文化庁は、是正するよう幾度となく行政指導し、国会でも取り上げられたのだが、協会はのらりくらりと逃げ続けた。面子をつぶされた形の文化庁は絶縁を決め、それまで後援してきたコンクールや研修会などのイベントからも手を引いた。協会と持ちつ持たれつだったはずの職人たちの諸団体も離反した。

 今のところ財団法人と謳ってはいるが、平成二十五年に始まる制度改革では、公益法人の認定は絶望的だ。一般財団法人なら認可される可能性はあるが、税制の優遇措置が低くなり、長年にわたって築き上げた「億」単位の資産も吐き出すことになる。

 かわって、文化庁が後ろ盾となったのが、協会に造反した職員と職人団体が立ち上げた日本刀伝統振興協会、略して刀伝協である。こちらはすでに公益法人の認定も受けている。しかし、資産がなく、財源となる鑑定書発行も行なっていない。幹部たちが持ち出しで運営している有様だ。

 当面、帝刀保が商売団体、刀伝協が職人団体という棲み分けが行なわれているが、いずれ帝刀保が解散に追い込まれたら、その資産は類似目的の公益法人に贈与することになるので、引き継ぐのは刀伝協という目算もある。それまでの辛抱というわけだ。

 どちらの協会が生き残るのか、どちらに与すれば得なのか、天秤にかけている刀剣関係者も多い。私などは刀装具を作るとはいっても、プロと見なされていないから、両方の関係者と交際しても日和見と批判されることはないが。

「しかしなあ、芸大の出身者として思い知らされたことだが、美術や音楽も公明正大ではないし、作家として、文学の腐敗も実見した。新人賞は応募者の顔写真で選ぶ。もっと大きな賞になると、男であれ女であれ、審査員が身体を要求することも珍しくない。そんなところで生き残るのは詐欺師みたいな作家ばかり。だがね、娘とその仲間を見ると、演劇もカネとコネの力はたいしたものだと実感する。日本刀の世界だけが悪党どもの温床となっているわけじゃない。いや、文化芸術ばかりか、すべての業界が滅茶苦茶。もっと根本に目を向けるなら、この国の教育がすでに狂っているんだよ。少なくとも、私が出会った教師のほとんどはロクデナシだったからな。このデタラメな世を掃除してくれるなら、頼光でも鬼でも拍手喝采したいところだ」

「お前……」

 茨木は憐れみを浮かべた。

「そんなに人を批判ばかりしていて、むなしくないか」

「何をいいやがる。私は自分が経験したことしか批判しないが、吉野はもっと病的だ。妄想で人の悪口いいまくるぞ。道ですれ違った知人が気づかずに挨拶しなくても、あいつは自分に反感持ってる、と解釈する奴だった」

「被害妄想は才人の常だ」

「まあ、むなしいとしたら、この性格では友達ができないことかな」

「だろうな。ストイックというか融通がきかないというか、頼光にも通じる性格だ」

「褒められた気がしないな」

「褒めてない。頼光は目的のためなら手段を選ばない。吉野をむごたらしく殺したことでもわかるだろう」

「鬼の方が人道的ってか」

「歴史や真実は権力者の都合がいいように歪曲され、善と悪は入れ替わる。遣唐使・吉備真備を救ったのは鬼と化した安倍仲麻呂の霊だった。まあ、この話は二人の足取りを考証すると無理があるが……。平安の漢学者・紀長谷雄に希望通りのサイボーグ美女を作ってやったのも鬼だ。百日触れなければ本物の人間になるはずだったものを我慢できずに抱いてしまったのは長谷雄ではないか。なのに、約束を破ったのは鬼とされている。理不尽だ」

 西洋の悪魔も同様だ。神は何もしてくれない。人間の願いをかなえようと契約してくれるのは悪魔である。そして、その契約を破るのはいつも人間の方なのだ。

 私はここは素直に茨木に同情した。

「異質なもの、理解できないものは排斥されるのさ。折口信夫は神・鬼同義説を唱えている。畏怖と侮蔑は紙一重だ」

 高砂に帰り着き、アパートの前まで来ると、物陰で立ち小便しているオヤジがいた。ここいらでは珍しいことではない。背後から蹴りでも入れてやろうかと思ったが、茨木の方が早かった。蹴ったわけではなく、そいつの尻のあたりを軽く叩いただけだったが――。

 オヤジは奇声を発し、踊るような足取りで、周囲を駆け回り始めた。性器を露出したまま。しかも、何としたことか、勃起させていた。勃起させたまま、小便を垂らしていた。

「何これ何これ、止めて止めて!」

 そう、悲鳴をあげていた。性器を仕舞おうにも、両手は高くバンザイしたまま動かせないらしい。足は勝手に踊っている。

 その勢いで、表通りへ飛び出した。通行人たちから歓声とも悲鳴とも罵声ともつかない叫びが湧いた。

「違うんだ違うんだ、助けて!」

 オヤジはなお絶叫し、恥ずかしいモノを露出したまま、半狂乱で駅の方へ――つまり、人通りの多い方へ走り去った。

 茨木はすでにアパートの階段へ向かっている。その背中に声をかけた。

「お前、何をした?」

「下半身を刺激しただけさ」

「人間をあんなふうに操れるのか」

「品性の卑しい人間は簡単に操れる。聖人君子では、そうはいかぬ」

「あのオヤジ、駅前交番の方へ走っていったぞ」

「留置場で一晩明かせば、下半身のあの状態はおさまってるさ」

「一晩……」

 品性の卑しいオヤジに同情はしないが、私は茨木を恐ろしいと初めて感じた。

 階段の途中で、彼はあきれるほど明るい声を発した。

「あ。それから、明日、俺は協会へ出向くが、お前も一緒にどうだ?」

 そう誘われたが、

「断わる」

 三階の踊り場で別れた。あいつ、茨木童子の若い姿のままだったが、私は黙っていた。四階の様子に耳をそばだてていると、彼が玄関へ入った気配のあと、しばらくして、またドアが開いたらしく、家族の悲鳴とともに、

「すみません、部屋を間違えましたあ!」

 茨木の声が階段に響いた。

童子切り転生 第三回

童子切り転生 第3回 森 雅裕

 翌日、私は吉野義光の部屋を訪ねるつもりだった。昨日のことは幻覚だったかも……。幻覚でなかったとしたら、吉野の家族に異変が起きているかも知れない。確認せねば。

 しかし、私は律儀な人間なのである。訪問の口実は何にしよう……。そんなことを悩みながら、結局は何も思いつかず、無為に時間を過ごしていると、チャイムが鳴った。

 借金取りに追われている私は、覗き穴を確認しなければドアを開けない。吉野だった。いや、茨木童子だった。鬼にしては礼儀正しいが、警戒しながら開けた。

「おう。待たせたな」

「別に待っちゃいないが」

「状況からいえば、俺に会いたいと思ってただろう」

 昨日の出来事は幻覚ではなかったらしい。

「吉野の家族は無事か」

「もちろん。俺の正体もバレていない」

「もともと吉野は奇人変人だったからな」

「破壊された部屋については、模様替えしていたら、一番でかい棚が派手に倒れたと説明した」

「それで信じるとは、なんと心の広い家族だ」

「吉野の家族は信頼関係で結ばれていたようだ」

「どうかな。鬼の通力で、懐柔したわけじゃなかろうな」

「ふふ。だとしたら、お前も自覚せぬうちに、俺に籠絡されているのかも知れぬぞ」

「それにしちゃ、私はお前に友情を感じないし、何か手助けしようとも思わないがな」

「そういえるのは今のうちだけさ」

「とにかく、家族が無事ならいい。私はね、出かけるところなんだ。お前は家族サービスでもしてろ」

「おや。どちらへ?」

「日比谷」

「千代田城の近くだな」

「人に会う約束がある」

「一緒に行く」

「何で、そうなるんだ」

「ついでだ。俺は上野の博物館にあるという『童子切り』を見たい。頼光が奪っていった安綱こそ霊力を持つ本物ではあるが、もう一本がどんな刀なのか、確認しよう」

「頼光の愛刀は一本とは限らない。東博の童子切りも本物かも知れんぜ」

「酒呑の血を吸った刀なら、霊力が宿っている。鬼の悲鳴が俺には聞こえる」

 興味深い話だった。私も上野へ同行することにした。

 

「鬼が電車移動するのか」

 私たちは京成線で上野へ向かった。ただし、改札では切符もパスモも必要なかった。駅員も自動改札も、通り抜ける私たちに反応しなかった。視覚にはとらえているのだろうが、それが脳に届かないようだった。最先端の機械もまた機能停止するらしい。

「この移動手段は釈然としない」

 私が首を傾げると、茨木は物珍しげに駅舎を歩き回ったあと、いった。

「吉野の車は家族が乗り回してる。貧乏なお前は車を持っていない。都内じゃ自由に停められない。タクシーより電車の方が早い」

「そういうことをいってるんじゃないんだが……」

「俺にしても、電車は初体験だ。楽しませろ」

「吉野の鍛錬場は新潟と岡山だ。一年の半分はそちらで仕事している。彼になりすますなら、嫌というほど電車に乗れるさ」

「江戸の昔に電車があれば、春明師はどこまで旅をしたことか」

 河野春明は本所柳島に住んだらしいが、家族、一門と不仲で放浪癖があり、「諸国に遊歴を好み、常に雲遊し蹤を止めず」と伝わっている。特に北越、東北を好み、滞在先での作品も多く残している。

「お前、河野春明とはどういう関係だ?」

「彼の娘と私は宿命の仲だった」

「その娘はどうした?」

「私の身体とともに彼女の身も滅んだ。あの時の火災で」

「安政二年の大地震か。春明の年齢から考えると、娘は若くなかったのではないか」

「いや。春明師が五十になってからの娘だ。すでに正妻とは離別していた」

「おい……。目貫は対になっている。お前の魂が鬼の表目貫に移ったなら、もしかして、裏目貫にはその娘が?」

「そういうことだ」

「その目貫はどうした?」

「対を揃えて、春明師が持っていたはずだが、いつしか引き離されたようだ」

「他人事みたいにいうが、お前自身のことだぞ」

「魂は休眠状態だったからな。目貫が破壊されるような危機に陥れば、目覚めもするが、あくまでも自分の身の上に限る。相手のことはわからん」

「春明は安政四年には死んでいる」

「漂泊の人だったから、家族とは絶縁。遺品がどうなったかはわからんな。鎌倉の方に数少ない友人がいるとも聞いていたが」

「鎌倉ねえ……」

 安政四年十二月、新潟で客死した春明の骨は翌年になって、亀戸の龍眼寺に葬られたが、供養する者もなく、のちに惣墓つまり共同墓地へ改葬されたという。従って、墓碑は現存しない。

「平安末期の鬼が江戸末期の娘と恋仲になるというのは、時代を超越したロマンというべきなのだろうか」

「いや。彼女も本来は平安末期の人間だったさ。源頼光の娘だからな」

「あ。何といった?」

「頼光の娘。名は舞琴といった」

「すごい話になってきたな。平安版ロミオとジュリエットかよ」

「舞琴の母は鬼の血を引いていたという」

「ほお。つまり、舞琴もまた鬼の血筋ということか」

「そして、俺は都の娘たちの憧れを独占した麗しき茨木童子だ。しかし、俺の気持ちは舞琴にしかなかった。頼光四天王の一人、渡辺綱のごときは怒り狂って、一条戻り橋で俺の右腕を斬り落とした」

 茨木は私の目前へ、右腕を突き出した。吉野義光という刀鍛冶のごつい手だ。

「俺が腕を取り戻した伝説は、芝居にも絵にもなっているだろう」

「刀装具にも彫られている馴染みの図柄だ。河野春明の鐔にも作例がある」

「俺と舞琴は丹波大江山へ逃げ、酒呑童子たち鬼族と一緒に暮らした。頼光の一党が舞琴を連れ戻すために襲撃してきた時、鬼たちは滅んだが、俺と舞琴は逃げのびた。舞琴には鬼の血が入っているし、鬼と交わった女は鬼と同様の生命力をも得る。そうはいっても、永遠の不老不死ではない。何百年もの間、俺たちは輪廻転生を繰り返した。すれ違うばかりで、再び出会うのは幕末だが……」

「一方の源頼光は英雄とはいっても寿命は人間。調べたところ、治安元年(一〇二一)七月に七十四歳で死んでいるが……」

「頼光は娘を取り戻すという怨念を抱き、多田神社で眠り続けていたのだ」

「ラブストーリーがホラーになったぞ」

「幕末に至り、転生した俺は会津松平家の江戸詰めで、武具奉行の配下だった。安政と改元された頃、松平家が安綱を買い上げ、その太刀拵の調達を俺が命じられた。『童子切り』だと直感した。神社から盗まれたものが、どういう流転をしたものか、俺の前に現われたわけだ。俺たちは引き寄せ合う宿命だから、そうなるのも当然ではあったが」

「太刀拵なら、金具の制作は河野春明に依頼したわけじゃあるまい」

「春明師は町彫りだし、太刀金具には専門の金工がいるからな」

「じゃ、お前と河野春明、そしてその娘との接点は……?」

「童子切り安綱だ」

「あ……?」

「長年放置されて錆身だった安綱は拵の制作と並行して、本阿弥本家の光仲に研ぎに出されていたが、この刀が舞琴にも触れることになった」

「どういうことだ?」

「本阿弥家の連中と春明師は親しくはなかったが、つきあいはあった。春明師の使いで、舞琴が本阿弥を訪ねることも珍しくなかった。そこに安綱が預けられていた」

「舞琴がそれに触れる機会があったというのか」

 現代のように誰でもが博物館で名刀を実見できる時代ではない。室町以来続く幕府御用の研磨師・本阿弥でさえ、大名家所有の刀は、隣の部屋から遠望することしか許されなかったという。

 しかも、研ぎ師は塵や埃が刀剣に傷をつけるのを恐れて、来客を仕事場に入れないものだ。そもそも、本阿弥ともあろう者が預かった刀を町娘ごときに触れさせるはずはない。普通なら……。

「本阿弥は童子切り安綱の霊力に操られたのさ。童子切りを舞琴の前に突き出した。刃ではなく棟で、舞琴の肩を軽く叩いただけだったが、その瞬間、電光が走り、本阿弥は我に返った」

「見ていたような話しぶりだな」

「見ていたさ。その時、俺も所用があって、本阿弥を訪ねていた。それが舞琴との八百年ぶりの再会だった。童子切りが引き合わせてくれたのだ。俺は会津松平家の家臣。舞琴は河野春明の娘。それぞれ名前は違っていたが、本人同士であることは瞬時に理解した。そしてまた恋仲となった。俺は春明師とも親しくなった」

「それはまあ感動的だが、世の中、禍福はあざなえる縄のごとし。童子切り安綱がお前や舞琴と接触したことで、遠く離れた墓廟で頼光が目覚めた……わけか」

「安綱の霊力に導かれ、頼光は娘の奪還のため復活した」

「源氏の英雄の娘が鬼の嫁では我慢ならないというのはわかるが、娘といっても、後世に転生すれば別人じゃないのか」

「別人とはいえない。鬼の血を引く者は前世の記憶を持っている」

「それにしても、すでに源氏の世の中ではないぞ。しかも頼光は怨霊だ。娘を連れ戻して、人里離れた秘境で暮らすとでもいうのか」

「そんな世をはばかる野郎かよ。頼光はいつの世でも、自分の世界を築き上げる力を持っている」

「迷惑な親父だ。いうことを聞かなきゃ、娘といえども成敗するってか」

「童子切り安綱の泥棒には多田神社内に手引きした者があった。そこからたどって、頼光は我々に迫った。頼光はわが主家から拵ごと安綱を奪い返した」

「大江山の鬼が滅ぼされたように、お前たちの周囲に厄難が降りかかることになったか。だが、お前たちだって、頼光の復活を予感していたなら、手をこまねいていたわけじゃあるまい。あの目貫だ」

「春明師は俺と舞琴の姿を写した目貫を作ってくれた。婚姻の引き出物というわけだが、その材料は俺が上州雙林寺で入手した山銅だ」

「雙林寺?」

「曹洞宗の巨刹で、左甚五郎作の門前小僧が夜ごと山門から抜け出したという伝説がある。住職が片腕を折ったところ、出歩かなくなったというその像は、今も片腕を失った姿で残っている。角こそないものの、どう見たって、こいつは鬼の形相だ。その昔、この寺は鬼をかくまっていた。鍛冶師、精錬師としての鬼だ。彼らが作った山銅を求め、春明師に託した」

「その山銅にもまた鬼の通力が籠もっていたわけか。一つ疑問がある」

「何だ?」

「河野春明は、お前が茨木童子で、娘が舞琴だと説明されて、信じたのか」

「お前、自分が信じられないことを春明師が信じたのか、疑問なんだろう。河野春明はお前が私淑する金工だからな」

「江戸時代とはいえ、春明は無教養な男じゃないぞ」

「むろん、いきなりは信じなかったさ。頼光が現われ、俺たちが殺されるまで、半信半疑だっただろう。一度も娘を舞琴とは呼ばず、自分が命名した名前で呼んでいた」

「当然だ」

「だが、俺は遺言を伝えておいた。俺たちが死ぬようなことになったら、目貫を俺たちと思ってくれ、いつかまた復活できるから、と。春明師はその言葉に従って、目貫を守った。お前よりはロマンを解する男だったな」

「いつかまた転生して恋人と再会できるなら、目貫に逃げ込む必要もなさそうだが」

「童子切りで命を奪われた者は転生しないのだ。大江山で殺された酒呑童子以下の鬼たちも転生していない。あれ以来、この国から鬼は激減した」

「で、頼光は目貫のことは知っているのか」

「晩年には気乗りしない仕事なら手抜きした春明師がいやに真剣に目貫を作っていたこと、弟子が頼光に密告したからな。下図も見ただろう。それがどういう意図で作られたものか、頼光は察したはずだ。だからこそ、頼光は春明師をも襲おうとした」

「偉大な芸術家を狙うなんて、とんでもない野郎だ」

「当時はもう全盛期を過ぎて、仕事の多くは弟子にまかせ、本人は遊興三昧だったけどな」

 春明がやたらと旅行しているのは、無頼の徒と交流したためにトラブルが多く、江戸にいられなくなったためだという説もある。

「俺と舞琴は手に手を取って逃げようとしたが、そこへあの大地震だ。春明師が心配で、そこら中が燃えている江戸市中を師が住む本所柳島へ向かった」

「まさか、お前たちをおびき寄せるために地震と火事が引き起こされたんじゃあ……」

「平安の頃には天変地異は怨霊の仕業と恐れられた。頼光は怨霊の仲間入りしたわけさ」

「地震と火災の修羅場で、茨木童子と源頼光が衝突するアクション場面となったか」

「結果、俺と頼光は差し違えた。俺は童子切りで刺し貫かれ、頼光も満身創痍。我らの間に入ろうとした舞琴も巻き添えとなった。だが、春明師は脱出できた。江戸を離れ、二年後に新潟で死んだ」

「ふん。そして、頼光はわがまま娘を手にかけて、呆然自失か」

「業火に包まれた俺と舞琴の身体は灰になり、あとには焼け身となった童子切りが残ったが、新作の拵は焼失した。霊力が減衰した頼光は江戸を離れるのが精一杯で、もはや春明師を追う余力はなく、焼け身を携えて多田神社へ戻った。神社の伝承では、童子切り安綱が自ら戻ったことになっているが」

 私のような理屈馬鹿は、辻褄が合えばそれでよしとしてしまう。「鬼の」身の上話であることは疑う理由にならない。超常現象も現代科学も、私には同程度の信憑性しかないのだ。

「厄介だな。茨木も舞琴も滅びていないことを頼光は知っているわけか。そして、今回の復活でも娘を探し求めている……」

「ほお。理解はしたようだな」

「裏目貫の行方が問題だな。表目貫からお前が抜け出したように、裏目貫に安綱が触れれば、舞琴が抜け出すわけだ。お前、博物館で刀を見ている場合か。目貫を探さなきゃあ……」

「東博にも童子切り安綱がある。舞琴が蘇るには霊力が必要だ。本物の童子切りなら霊力を持つはずだ」

「おい。本物なら、どうするつもりだ? 天下の東京国立博物館から盗み出すのか。小龍景光を盗んですり替えるという有名作家のトンデモ小説があったが、人間の犯行なら嘘っぽいのに、鬼の仕業となると、可能に思えるから妙なものだ」

 我々は京成上野駅から公園内を縦断した。噴水広場の向こうに見える博物館は霞んでいるように遠い。博物館動物園駅の廃止に抗議したくなる。

 茨木が歩くにつれ、いたるところから鳩が飛び出し、上空へと逃げていく。上野の鳩は餌やりが禁止されて以来、激減しているのだが、まだこんなに残っていたかと驚くほどの数だ。

「頼光の目的は舞琴の奪還だけでは終わらないかも知れぬ」

 茨木は呟いた。

「今の世には、強欲と頽廃が満ちている。頼光は嘆き、怒るだろう」

「それで……?」

「頼光は源氏の英雄だ。彼なりの強烈な正義感を持っている」

「まさか、世直しを志すとでもいうのか。それはそれで、支持したい気もするな。腐った果実は根こそぎ捨てる。爽快だろうよ。天変地異が操れるなら、手っ取り早いのは大地震だ。この都会は一旦、灰燼に帰さなければ、掃除もできない。明暦の大火だって、江戸の都市計画のために幕府が放火して一切合財を焼き払ったという説があるくらいだ」

「下層階級の自暴自棄な発想だな。お前にだって、守りたいものがあるだろう」

「きれいな女が何人か……。しかし、私が守らなくても、誰かが守るさ」

「現代社会を壊滅させ、天地創造をやり直すのも有効だが、それじゃあ『神』にも負担が大きすぎるから、そいつは最後の手段だ。頼光は直情径行ではあるが、有能だぜ。ぶっこわすよりも利用する。なんとかとハサミは使いよう。それが上層階級の考え方だ」

 茨木は冷たく、いい放った。

「ただし、お前のことは利用するにも値しないと、頼光は考えてるだろうぜ」

 

 上野公園の北側に敷地を広げる東博は、隣接する東京芸大の学生だった頃から、私には馴染んだ場所である。かつて、ここの工芸課長だった人物にはいろいろ指導してもらったが、彼が定年退職して以降、私は入館料を支払う「客」として、ごくたまに正門から入るだけになっている。目当ては刀剣室しかない。

 連日、長蛇の列だという何かの特別展には見向きせず、私は本館の刀剣室へ直行した。

 童子切り安綱は貫禄充分の姿をガラスケースに横たえていた。反りのある日本刀として最初期の作だから、完成された機能美とはいえないが、霊力が宿るとしたら、こういう刀だと思えるオーラを放っている。

 が、吉野の姿をした茨木は冷たく眺めているだけだ。表情には何の変化もなかった。

「こいつが酒呑童子を斬った刀だとお……」

 声だけが笑っていた。

「違うのか」

「鬼の悲鳴など聞こえない」

「そんなものが聞こえたら、むしろ刀じゃないと思うがなあ」

「長命の生物や古道具には精霊が宿り、付喪神となるという。考えてみろ。平安時代の品物が身の周りにあるか。こいつは千年もの間、尊重されてきた名刀だから、それなりのパワーは秘めているが、童子切りではない」

 源頼光による酒呑童子討伐は南北朝の頃から各種の文献資料に登場するが、異同や混同が錯綜している。頼光の刀は「血吸い」で、渡辺綱の刀を「鬼切」と記録したものもある。元来、綱の佩刀は頼光から貸与された「髭切」だったが、他ならぬ茨木童子の腕を斬り落としたので「鬼切」と呼ばれるようになり、現在、北野天満宮が所蔵する重要文化財がそれだとする説がある。それもまた安綱の作で、何故か国綱銘に改竄されているという。

 この国綱とは別物で、北条時頼の愛刀であった「鬼丸国綱」という現在の皇室御物も存在する。「鬼切」
「鬼丸」の号を持つ刀は多いのである。

 また刀の号が変更されることも珍しくなく、源頼光所有の一振であった「膝丸(膝切丸)」は「蜘蛛切丸」「吠丸」「薄緑」と改名を繰り返し、渡辺綱の「鬼切」も「獅子ノ子」「友切」と変遷している。それに加えて、不勉強な研究者たちが曖昧な資料の孫引きを繰り返すので、何が何やら、手がつけられない錯綜状態になっている。

 とりあえず、源頼光の愛刀が安綱の作であることは室町初期には通説化していたようだが、これこそがその現物という触れ込みで今日まで伝来している安綱は東博所蔵の一本だけではない。

「お。正宗も展示してあるな」

 茨木は石田三成が結城秀康に贈ったという「切込正宗」に目を留めた。棟に敵の刀を受け止めた二カ所の切り込み跡が残る重文である。

「安綱ほどの迫力はないな」

「それでも、刀に興味のない者でも正宗の名前は知っている」

「ふん。時の権力が認めて称揚する芸術にろくなものはない」

「正宗は鎌倉、室町を通して格別の人気でもなかったのに、秀吉の時代に突然、評価が跳ね上がった。だから、恩賞や贈答用として、本阿弥や曽呂利新左衛門が共謀してでっちあげた名刀で、実在の刀鍛冶ではないという『抹殺論』が明治の刀剣界で論争の的となった。千年の歴史をくぐってきたお前なら、正宗の正体を知っているんじゃないか」

「情実や金次第で凡刀に高い格付けをする。本阿弥が日常的にやっていたことだ。そして、偽物を本物と鑑定するよりも刀鍛冶そのものを捏造すれば、もっと手っ取り早いと考えつくのは自然の流れ。世にある正宗の多くが無銘というのもミソだ。無銘に偽物なし。どう鑑定しようが見る者の勝手だ。犯罪ではない」

「正宗と極める目的で他工の在銘品を無銘に工作した場合には犯罪だろう。古いとされる相州物は慶長新刀をそのように加工した偽物が多いぜ。備前物と違って、相州物は時代をごまかしやすい」

「とはいっても、正宗はまったく架空の刀鍛冶ではない」

「南北朝の頃から文献に名前が見えるもんな」

「そうではない。俺は会ったことがある」

「……やれやれ」

 茨木はガラスケースに爪を立てた。何やら文字を刻んでいる。こいつの爪先はダイヤモンド刃みたいなものらしい。

「しかし、室町末期の村正の方が面白味のある人物だったな。奴は妙な宿命を背負っていた」

「刀鍛冶も輪廻転生するのか」

「そうそう。吉野義光の作風は備前伝だから村正とは異なるが、ひねくれた性格は通じるものがあるな。生まれ変わりだとしたら……」

「吉野が草葉の陰で泣くぞ。それじゃ、私にも前世があるのかよ。現世がその反動だとしたら、前世はとんでもない悪人で、さぞや酒池肉林の人生だった因果を感じるが……」

「悪人ではない。桁外れのろくでなしではあったが」

 茨木はそれ以上いわず、正宗の前を離れた。ガラスケースには爪痕が川柳となって残っていた。

「本阿弥はいわしの値まで付けてやり」

 足早に刀剣室を出る彼と肩を並べ、私は呟いた。

「ろくでなしより悪人の方がよかったかな」

「そんな奴なら、俺とこうしてめぐり会うこともない」

「じゃ、なおさら悪人がいい」

 茨木は滑るような足取りで、私の前を歩く。吉野であれば、椎間板ヘルニアを患っているので、俯き加減になる癖があるのだが、そんな様子はない。健康そのものだ。振り返らずに、いった。 

「ここの安綱は酒呑童子を斬った実物ではないが、このあたりには何やら妖気が漂っているな」

「博物館や美術館は芸術の墓場だ」

「そういうことではなく……」

「もともとは寛永寺の境内だし、戊辰戦争の折には彰義隊が壊滅した場所だからな。そこら中、亡者の怨念だらけだろう」

「楽しい場所だ」

 博物館を離れ、上野駅へ向かう茨木の周囲から、鳩もカラスも猫も逃げていく。どういうわけか、犬はじっと彼を見つめるだけだ。幼稚園以下の子供は笑顔さえ作って見送っている。こいつ、案外、善良なのか。

「母里。日比谷で人に会う約束だといっていたな」

「お前、私と一緒に出歩いていないで、目貫でも童子切りでも、その行方を探したらどうだ?」

「予感がするのさ。お前の行手にある何かが、俺を呼び寄せようとしている」

「気のせいだと思うぞ。私は娘に会うだけだ」

「娘? 吉野の記憶にはお前の娘に関しては何もない」

「彼女が子供の頃に離婚して、私とは一緒に暮らしていないからな。中学の三年間なんて、一度も会ってないくらいだ。吉野も私の娘には会ったことはない」

「歳は?」

「二十七……かな」

「仕事は?」

「舞台に立ってる。本拠地は関西だ。頼光が東京を滅ぼすなら、娘があっちにいる時か地方公演中にして欲しいな。今は東京公演で、日比谷の劇場に出ている」

「ほお。女だけのマニアックな劇団があるらしいが」

「東京公演の時には、食事くらいするようにしている」

「では、今日も公演か」

「公演後、帝都ホテルで何やら派手なパーティに呼ばれているらしい。途中で呼び出す」

「それは楽しみだ」

 振り向いた茨木の顔が変わっている。吉野とは似ても似つかぬ美形だった。しかも、若い。身体の線も細く変化していた。角は見えず、そこいらのイケメン俳優よりも凄みがある茨木童子の美しさだった。

 私は立ちすくんだ。足を止めない茨木とたちまち距離が開き、吐息を吐き散らしながら追いかけ、文化会館の前で肩を並べた。

「どうして、その姿になる!?」

「美人と会うなら、こちらも釣り合いを考えねば」

「考えて、どうするんだよ。まあ、確かに美人だが、娘とは口をきくな」

「ふん。俺はな、平安の昔、都の姫たちを魅了した鬼だぞ」

「だから、お前には一緒に来て欲しくない」

「いっておくが、お前が長いこと家賃滞納していても追い出されないのは、吉野の情けだぞ。お前以外の誰もがこの俺を吉野と信じている。俺が出ていきやがれといったら、路頭に迷うってことを忘れるなよ」

「心得ておくよ。しかし、今のお前が吉野義光でもあるなら、やることがあるだろう。預かっていた刀を盗まれたこと、報告したのか。再刃の話を持ち込んできたのは協会理事の鯉墨寿人だろ」

「面倒だな」

「電話くらい入れとけ」

 奴のポケットには吉野の携帯がある。そいつを取り出し、操作する茨木を置き去りに、私は公園口の改札をくぐり、ホームへ急いだ。知り合ったばかりの化け物と友情を育むほど、私は博愛主義じゃないのだ。電車には一人で乗った。

童子切り転生 第二回

童子切り転生 第2回 森 雅裕

 吉野義光はアパート四階のすべてを使って、家族で住んでいる。銘切り程度の仕事はここで行なうことがあり、そんな時は音が響くが、普段は静かな家族である。

 夕刻、三階に住む私の頭上で、破壊音と震動が炸裂した。何かを落としたとか叩いたという程度の騒音ではない。絶叫も轟いた。尋常ではない。

 家族が殺し合ったり、自宅に放火する時代だ。とりあえず、私は吉野の友人である。「気がつきませんでした」ではすまない。部屋を飛び出し、階段を駆け上がった。

 インターフォンを鳴らした。ドアの向こうが静かになり、私はノブに手をかけた。その瞬間、鉄のドアが弾けるように開いた。私は踊り場まで吹っ飛ばされた。身体が四つ折りに畳まれたかと思うような衝撃があった。

 吉野の部屋から何かが悠然と現われた。大男だ。長い髪を振り乱し、噴き上げる火炎のような眼光を放っていた。

 それは夢で見た鬼よりもよほど迫力があった。だが、こいつには角がない。人間だ。醜悪な容姿ではなく、むしろ美形だったが、人間の暗黒部分を集約したような表情が、それを台無しにしていた。

 私を一瞥し、その頬に笑いが走った。親愛の情ではない。見た者に一生の傷を残すような侮蔑の笑いだ。

 階段を降りていくその男の腕には、長い袋が握られていた。刀のようだった。私は声を発することもできず、見送るしかなかった。

 痛む身体が動くことを確かめ、私は部屋へ転がり込んだ。小型のブルドーザーでも通過したのかと思うような散らかりようだった。

「吉野お!」

 仕事場へ飛び込むと、彼は倒れていた。見た瞬間に、絶望的な気分になる姿だった。学生時代にはウエイトリフティングをやっていた男だから、立派な体格なのだが、背中が折れ、首が奇妙な方向へねじれていた。

 家族は留守のようだった。何が起こったのか不明だが、巻き込まれずにすんだのは幸運だ。

 警察、いや救急車か、と近くの電話機へ手を伸ばした。情けない話だが、番号を押そうとしても、指が震えて狙いが定まらない。

 視界の隅に、空気が揺れる気配があった。動いている。吉野の死体だ。折れ曲がった背中と首がガチガチと音を立てて修復され、不自然だった姿勢が人間らしい格好に戻った。彼は身を起こした。

「救急車なら無用だ。どうせ吉野は死んだ」

「何だ、どういうことだ!? 何が起きた!? 大丈夫か!?」

 吉野は手を上げて、私の叫びを制した。

「夢の中で会っただろう。あれは俺だ」

「はあ……!?」

「今は吉野義光の身体を借りているが、中身は違う。つまり、わかりやすくいえば、憑依した」

「吉野。頭を打ったのか。それとも、俺かな。そんな自覚はないが、やはり救急車を呼んだ方がいいかも知れない」

「俺がこの身体から離れたら、吉野は死体に戻る。それでいいのか」

「私は別にいいような気もするが」

「吉野の家族が悲しむだろう。それに、お前も友達をなくす」

「あんたの中身が変わったというなら、友達じゃない。……夢で会った?」

 今さら、私は言葉の意味に気づいた。

「夢の内容なんか、誰にも話した覚えはない」

「そうだな。多田神社まで一緒に飛んでいった夢だったな」

「あれがお前だというのか。鬼だったぞ。名前は……」

「茨木だ」

「酒呑童子の息子とも手下ともいわれる茨木童子か。目貫に彫られた鬼が実体化したというのか。へっ。さすがは名人春明が彫った目貫だ」

 なんだか、私は自棄になってきた。

「珍しいものが見られて、よかったよ」

「礼には及ばない」

「その人を食った態度は吉野そのものだぞ」

 口調が少々違うが、顔と声が同じなのだから、別人とは感じない。

「お前も小説家なら、もっと夢を持て。ロマンを理解しろ」

「ロマンだとお。この部屋を見ろ。棚はへし折れ、テーブルは真っ二つ、天井には血で濡れた足跡、壁はお前の顔の形にくっきりと凹んでる。夢やロマンなんて雰囲気じゃない。第一、茨木童子が吉野の記憶を持っていて、言葉遣いが現代的ってのは都合よすぎやしないか」

「今、吉野の記憶は俺の記憶でもある。パソコンでいえば、魂はOSだ。お前が使っている旧型マッキントッシュにたとえるなら、システムに関連した設定は、一部の情報は初期設定ファイル類に記録されるが、ハードウェアに関わる部分の多くはパラメータRAM──PRAMへと記録される。PRAMは一つしかないから、共有となる」

「はて。吉野は機械音痴だ。俺のパソコンが旧型マックであることもその仕組みも知らないはずだが」

「目貫が安綱の霊力に触れた時……」

「目貫が磁力で引っ張られるように動いたと、お前──いや吉野がいっていた、あの時か」

「俺の魂は自由になり、お前のパソコンに入り込んで、世間のことを勉強した。旧型である上に安物のマックだったが、とりあえず現代的な鬼となったところで、この部屋で大立ち回りが聞こえ、忌まわしき怨霊の気配を感じた」

「旧型だの安物だのと失礼な物言いだが……怨霊とは、飛び出していった奴のことかな」

 確かに人間離れした形相だったが。

「で、覗いてみたら、この有様で、吉野は殺されていた。この身体を借りたのはお前と話をするためだ」

「私と友達にでもなる気か」

「友達というより、利用しやすい人材かな」

「正直な奴だ」

 茨木と名乗った吉野は、洗面所を水浸しにして、身体の血を洗った。

「なあ、やはり病院へ行った方がよくないか」

 そういう私を吉野は睨みつけた。濡れた顔から蒸気が上がり、乾いた時には顔つきが一変していた。六十過ぎの吉野が全くの別人――二十代の美青年へと変化していた。

 私は腰を抜かしこそしなかったが、手近にあった消火器をつかんで身構えた。

「何だ、誰だ、お前!?」

「だから、茨木童子だとさっきからいっている。これが俺の本来の姿だ」

 髪を振ると、二本の角が突き出しているのが見えた。

「どういうことだ?」

「これが茨木童子の真の姿だ」

「吉野はどこへ行った?」

「本来の姿と吉野の姿はどちらでも好きに選べる」

「美形の鬼なんて、妖怪より気持ち悪いぞ」

「じゃあ、吉野に戻ろう」

 美青年の顔と体型が重力に引っ張られたように弛み、見慣れたオヤジの姿に戻った。

「信じてくれたか」

「超一流のマジシャンなら、それくらいやってのけそうだが」

 吐気がしてきたが、どういうわけか恐怖心はなく、好奇心が勝った。

「話は聞いてやってもいい気分だ」

「さすがは非常識な小説家だ」

「出会ったのが俺で感謝しろ。襲ってきた奴も、お前の同類か」

「鬼はあんなに野蛮ではない。奴は人間だ。ミイラ状態で眠っていたが、復活にあたり、元の姿を取り戻した。つい先日のことさ。奴が地下から飛び出す時に破壊した墓廟を見ただろう」

「夢じゃなかったのか」

「夢の形を借りただけだ」

「すると、あの大男は源頼光なのか!? 何でまた源氏の英雄が吉野を襲うんだ?」

「長いもの持っているのを見ただろう。童子切り安綱を奪っていった。頼光の愛刀中の愛刀。幕末に神社から盗まれ、江戸にあったが、安政二年の大地震に遭い、その火災で焼けて以来、神通力が減退していた。だが、吉野が再刃して生命を吹き込んだものだから、その霊波が頼光を眠りから覚めさせた。吉野義光という刀鍛冶はあたら名人であったがために、厄難を呼び寄せたな」

「頼光は愛刀を追いかけて、多田神社からはるばる東京まで飛んできたのか」

「さて。怨霊にしても鬼にしても、気持ちを飛ばすことはできるが、身体は飛べぬ。何者かの助けで移動したものと思うが……」

「童子切りがここにあるという情報も誰かが知らせたか」

「そもそも、頼光や鬼は童子切り安綱と引きつけ合う宿命にある。どこの刀鍛冶が再刃したのか、多田神社の関係者からでも聞き出したんだろう。頼光は人を意のままに操ることができる」

「人間的魅力で人を心酔させるのかな」

「魅力ではない。魔力だ」

「怒れる栗塚旭みたいな形相の男が刀なんか持って、ここから飛び出していったんだ。人目につきそうなものだが、運転手つきの車でも待たせていたか」

「かもな」

「変じゃないか」

「何だ?」

「人を操れるなら、吉野を殺さずとも安綱を奪えただろうに」

「それは俺も気になるところだ。頼光は見境もなく人を殺しはせぬが……」

「そうなのか」

「理由さえあれば、簡単に殺すが」

「お前、鬼なら、頼光を止められなかったのか。力自慢じゃないのか」

「ゾンビ野郎の頼光と違って、俺には実体はない。魂だけだ。誰かに憑依せねば、何もできない。一方の頼光は憑依はできない」

「昔はお前も実体があったのだろう」

「平安の頃には自分の身体を持っていたし、その後も転生したが、幕末の安政二年に焼けて灰になった」

「さっき、童子切りも安政二年の地震で焼けたといったが……」

「同時だ。魂だけは春明師のおかげで目貫に移ることができたが」

「河野春明と面識があったのか」

「お前や吉野に負けず劣らず、偏屈な人物だった」

「どうせなら、河野春明に蘇って欲しかったな。彫金の技について教わりたいことが山ほどある」

「気安く教える人物じゃなかったさ」

「そりゃまあ、歴史上の人物に憧れる奴は多いが、本人に会ったら、とても友情なんか生まれないイヤな野郎ばかりだろうな」

 吉野いや茨木は散乱した家具の破片をまとめ始めた。

「手伝え。吉野の家族が帰ってくる前に、ここをかたづける」

 こいつ、この事件を内緒にする気だ。家族が帰宅すれば、何もなかったではすまないほどの破壊ぶりだが、どう説明するのだろうか。

「警察には知らせないのか」

「警察が怨霊をつかまえてくれるのか」

「いや……。お前、その身体から離れたら吉野は死ぬといったな。じゃあ、もしかして、吉野になりすまして、ここで暮らす気か」

「とりあえず」

「そりゃ無茶じゃないか。憑依したというより身体を乗っ取ったことになるぞ」

「吉野が死ねば、困るのはお前だろ。家賃滞納で、たちまち追い出されるぞ」

「私のために吉野の家族をだます、みたいなことをいうな」

「頼光はお前の友人を殺した。放っておけまい」

「今ひとつ実感がないがな……。しかし、鬼と頼光、どちらが正義の味方だか、わからんな」

 部屋に飛び散った血痕は、吉野いや茨木が手を触れると、蒸発して消えた。吉野の身体にも傷は一切残っていなかった。

 この期に及んでも、何かのトリックという可能性はないかと、私は彼を観察しながら、いった。

「そもそも、鬼の伝説は被征服民を暗喩しているというのが民俗学者たちの解釈だから、頼光が悪者でも意外ではないが」

 酒呑童子は越後国砂子塚の城主の子と伝わるが、近江国伊吹山の神・伊吹大明神の子という異説もある。伊吹大明神はヤマタノオロチと同一とされる。出雲の古代製鉄を象徴化したのがヤマタノオロチであり、その尻尾から出た天叢雲剣(草薙剣)は被征服民の鍛冶技術を意味している。酒呑童子と結びつけるには、かなり時代の開きがあるが……。

 酒呑童子は為政者や京の人々には敵であり、妖怪、化け物の類だっただろう。しかし、酒呑童子からすれば、自分たちから土地を奪った仏教僧や、抹殺しようとする武将や陰陽師、その中心にいる帝の方こそが悪人なのである。

「理屈馬鹿のお前にいっておきたい」

 茨木は語った。

「童子は幼い頃に仏門に預けられた。長じて、大変な美貌ゆえ一方的に恋い焦がれて死ぬ娘があとを絶たず、居場所をなくして、各地の寺を流浪した。溜まりに溜まった恋文から煙があがって、鬼と化したという。女が勝手に熱をあげただけで、男が鬼にされてしまう理由があるか。一方の源頼光は山伏に化けて酒呑童子に近づき、歓待されている。それを裏切って、寝込みを襲うのが童子切り伝説だ。だまし討ち以外の何物でもない。どちらが非道かな」

「伝説だか史実だか知らないが、昔のことは俺には判断できないね。今のことが肝心だ。再刃した刀は協会経由で神社へ戻されるだろう。それも待てないほど、頼光が童子切りを求める理由は何なんだ?」

「頼光には探し物がある。その目的を果たすためには童子切りの霊力が必要なんだ」

「探し物とは?」

「俺に協力してくれれば、お前にも知れるさ」

「そこまでして知りたくはないが、どうやら頼光の目的とやらはお前にも関わりがあるようだ」

「ほお。小説家の勘だな」

「だが、刀は研ぎ上げて、拵に入れなければ実用に使えない。安綱は鍛冶押しされただけだぞ」

 茨木は柱を指した。深さ十センチほどの切り込み傷がある。

「奴が安綱を振り回した痕跡だ。奴が手にした瞬間、安綱は武器として生き返った」

 部屋をかたづけながら、私は床の間を見た。そこには太刀拵があったはずだが、空の桐箱が転がっているだけだ。

「ここに朽ち果てそうな年代物の拵が納まっていたが、頼光はそれも持っていったか」

「安綱の拵もまた新品同様に蘇った。頼光と安綱の霊力は相乗効果で強力になっている」

「あちらの霊力はポンコツを再生するというのに、お前の通力は部屋の掃除くらいしか役立たないのか。えらい違いだ」

 部屋の惨状は、ここで怪物が荒れ狂ったとは思えない程度には回復していた。このかたづけ上手には何より感心した。

「吉野とは喧嘩して別れたのが最後だ。彼が死んだというなら、後悔して感傷的になりそうなものだが、実感がない」

「外見が同じで記憶も同じ俺がピンピンしているんだから無理もない。しかし、パソコンにたとえれば、吉野義光というOSはすでに削除されている。性格も能力も違う」

「性格の悪さは変わらないような気もするが……。吉野は現代屈指の刀鍛冶だった。お前、その能力は持っているのか」

「鬼が人間以下ということはない」

 鬼は古代の製鉄業者や鍛冶屋を象徴しているという説がある。各地に残る鬼退治の昔話は大和朝廷による製鉄業者の征服、天下平定を伝説化したものである。鬼は悪者とは限らず、鎌倉初期の豊後国行平が鬼を弟子とした話など、刀鍛冶を助けた伝説も多々ある。茨木童子が刀鍛冶に変化しても、あながち的外れではない気もするが、吉野の家族は納得するだろうか。

「吉野の家族をだますことに私は加担できないぞ」

「嘘も方便だ」

「うわ。吉野よりさらに性格が悪いぞ。いっておくが、お前の口調は知的すぎる。吉野はもっと軽いからな。気をつけろ」

「まあ、すぐに違和感はなくなるさ」

 この場を立ち去るのは気がかりだったが、家族が帰ってくれば、口裏を合わせざるを得ない。その前に、私は逃げることにした。

「お前と頼光には長年にわたる因縁があるようだが、私を巻き込まないでくれ。では、失礼する。ごきげんよう」

 彼を残して、私は三階の自室へ降りた。

 鬼の目貫を取り出し、あらためて眺めた。茨木童子の脱け殻だとしても、何ら変わったところはない。しっかり彫られた名品だ。先刻、少しだけ茨木が見せた本来の美形に似ていなくもない。彫られた顔が右を向いているところを見ると、これは表目貫である。裏目貫はどうしたのだろうか。

 茨木の魂は安政二年の大地震の際に目貫へ移ったという話だったが……。

 私の部屋は小さな古本屋を凌駕する蔵書で埋まっている。資料を引っ張り出すと、この年には作者の河野春明は六十九歳。没する二年前である。

 安政二年の大地震は十月二日。元禄十六年以来の大地震といわれ、「頽たる家々より火起り、熾に燃上りて黒煙天を翳め、多くの家屋資財を焼却す」――江戸全市焦土と化し、死者は六千人とも一万人ともいう。

 吉野は読書などしない男だから、歴史にも疎い。彼の作り話とは思えなかった。では、やはり中身は別人いや別鬼なのか。

 あいつ、吉野の家族と夜を過ごすのだなと思うと、頭上の気配が気にかかったが、耳栓をした上からオーディオプレイヤーのイヤホンを突っ込み、完全に外の音を遮断した。

 吉野は本当に死んだのだろうか。あいつは本当に茨木童子なのだろうか。何一つ実感はなかった。

 翌朝になれば、何もかも元通り、何も変わっていないのではないか。そうも考えた。望み薄ではあったが。

童子切り転生 第一回

童子切り転生 第1回 森 雅裕

 この物語は御覧の通りフィクションであり、登場す る人物、団体、出来事はまったく架空のものです。

 

 私は鬼に愛着がある。たぶんそれは……私自身が「ろくでなし」「落ちこぼれ」「負け犬」に始まり「変態」「異常者」「疫病神」に至る罵倒を若い頃から浴びせられ続け、五十歳過ぎた今、ホームレス同然の生活をするに及んで、どうやら自分はまともな人間ではないらしいと気づかされたことが原因である。

 私は鬼を好んで彫刻する。刀装金具の制作が私の日常の大半を占める。生計を立てるほどの収入は得られないので、これが職業だとは自称できないが。

 元々は小説家である物珍しさから新聞社が取材に来て、「自分は鬼。人間であることを辞め、彫金に魂をこめる」なんて気恥ずかしい記事が掲載されたこともある。

 貧乏生活では自前の仕事場など持てないから、騒音やゴミを発生するような作業だと刀鍛冶の工房の隅を使わせてもらうことも多い。問題がここに発生する。工房の隅を使うのは私だけではないのである。正式な弟子たちもいるし、体験入門みたいな見学者やら有象無象やら総勢十人ほどが通ってくる。

「私ハ日本ガ大好キダカラ〜」が口癖の南米人もまた週一回、道楽で鐔や刃物を作りに来る。本業はダンス教師だというが、相撲取りのような体型を見れば、どの程度のダンサーだか推察できる。

 刀鍛冶の工房においても迷惑なだけの存在で、材料は無駄にする、道具はこわす、惨憺たる有様であるが、私の指導など聞かないから、他者の評価なら耳を貸すかと「鐔をコンクールに出してみたら」とすすめたところ、「人ト争ソウノハ嫌イデース」と一蹴してくれた。争うレベルじゃないことを知ってもらうために出品しろといったのだが……。

 この男、約百枚の鐔を持っているという。外国人の愛刀家は日本人より多いといわれるくらいで、刀装具のコレクターも珍しくない。タイプは二つに分かれ、日本人よりも真摯に日本文化を尊重する者、あるいは表面だけの日本かぶれである。後者の場合、日本刀に金メッキして、「ドーデスカ、キレイデショ」と自慢したりする。まあ、この男がどちらに分類されるか、いうまでもあるまい。真夏でも必ず作務衣と足袋を着用し、「暑イ暑イ」といっているのだ。日本趣味のつもりらしいが、それメイドイン・チャイナだよ。

 そんな彼が、

「コレ、蚤ノ市デ買イマシタ。材料ニシマース」

 工房で見せびらかしていたのは片目貫である。本来、柄の表と裏に装着するため二つが対になっているものだが、片方が失われていた。図柄は鬼である。

「材料?」

「ウン。私ガ作ッタ鐔ニ象嵌スルネ」

 古い目貫を高彫据文として鐔に象嵌し、図柄として再生する例はたまにあるが、傷つけずに象嵌するには技術が必要となる。大体、彼の「象嵌」は嵌め込みの技術ではなく、金属用接着剤で貼りつけてしまうことである。

「駄目ですよ」

 私の声は怒気を含んだ。

「この目貫を使うなら、あなたの鐔もそれに匹敵する出来でなきゃ釣り合わないでしょ。今日まで伝えられてきた日本の文化遺産を破壊することになるんですよ」

 彼はこれまでにも似たような文化破壊を何度もやらかしており、無文の献上鐔を安物と勘違いして、ぼろぼろの透し鐔に改造してしまったり、名品の鐔に象嵌された高彫据文を引き剥がし、「ドウヤッテ、クッツケテアルノカ、調ベマシタ」なんて、すましていたこともある。

 注意するとふてくされるのが常なので、私は彼のやっていることに背を向け、何もいわないようにしていた。だが、この時ばかりは黙っていられなかった。なにしろ、鬼の目貫なのだ。しかも、タダモノならぬ出来と見えた。

「こわすくらいなら、私に売ってください」

「こわす」と決めつけるのも失礼だが、そもそも、この男が鐔作りを成功させているのを見たことがなかった。

「いくらですか」

 もはや喧嘩腰である。相手は日本文化への理解度は低くても人間的には私よりハイレベルと見え、

「ウーン、シカタナイネ。私ガ買ッタ値段デイイデス」

 二万円で売ってくれた。本来ならもっと値打物だろうが、彼の見る目のなさに心から感謝した。とはいえ、定期収入のない身には痛かった。彼みたいな男が毎週のようにどこかの骨董市でこんな買い物をしているという経済格差にむなしさを覚えた。しかし、目貫そのものは気に入った。

 赤銅ではなく山銅容彫。銘はないが、時代は江戸後期だろう。河野春明の匂いがする。洒脱な江戸趣味を特徴とし、文政年間の中頃に法眼に叙された名工である。私が目標とする金工だ。

 好きなものに対する直感は磨かれる。雰囲気を一見しただけで、作者がわかることも多い。山銅は銅の精錬技術が低かった時代の素材で、春明の時代には使われることも少ないが、独特の味わいがあるので、平成の現代でも古い山銅を探してきて使う金工がいるくらいだ。

 この目貫の失われた片方はどういう図柄だったのだろう? 鬼と来れば「金棒」か。しかし、刀装具における鬼は大津絵のようなユーモラスな姿で彫られるのが常である。なのに、こいつは妙にスマートだった。角こそ生えているが、美形である。しかも、虎の褌という定番ファッションではなく、着物をだらしなく(つまり妖しく)まとっている。

(何だ、こいつ……?)

 帰宅して、何かいわくある画題なのかと調べてみた。帝国芸術刀剣保存協会なる団体が発行している図録に河野春明在銘の彫金板が載っていた。刀装具ではなく、四角い銅板に鬼の面を手にした女を彫ったものだ。垂髪で、桃山時代より前の女の姿である。

 画題は不明だが、まず、楠木正成の娘・千早姫が候補にあげられる。湊川合戦で正成を討ち、その愛刀を得た大森彦七から父の遺品を奪還するため、千早姫は鬼に化けて彼を襲う。彦七は正成が覚悟の討死だったことを告げ、刀を返すと、千早姫を逃がしてやる。そして、正成の亡霊に刀を奪われたと狂気を装って、姫を捕捉しようとする者たちから彼女をかばう。

「太平記」では正成の亡霊に悩まされ、これを大般若経で退散させたことになっている。彦七が鬼女を背負っている図柄で、刀装具でもお馴染みである。重要文化財に指定された奈良利寿の鐔が知られている。

 しかし、鬼が正成の亡霊ではなく千早姫の仮の姿として登場するのは歌舞伎の世界だ。明治三〇年、福地桜痴の作である。河野春明の時代ではない。

 では、この彫金版に彫られた鬼面を持つ娘は誰だ? 不明だった。いずれにせよ、目貫の鬼と関係はなさそうだ。私はそう考えた。

 これが奇妙かつ面倒臭い事件の始まりであった。

 

 その夜、夢に鬼が出た。目貫と同じ、美男の鬼だった。

「母里真左大」

 私の名を呼び、

「台無しにされそうなところを救ってくれて、ありがとうよ」

 と、彼は冷たく微笑んだ。

「日本昔話なら、御礼を持参するところだが」

 そういう私に、

「百数十年の眠りから覚めたばかりで、何も持ってない」

「じゃ尋ねるが、百数十年前にお前さんを作ったのは誰だ?」

「河野春明という彫り師だ」

「思った通りだ」

「土産はないが、空でも飛んでみるか」

 返事も待たず、鬼は私とともに雲の高さまで一気に舞い上がり、猛烈な速さで日本列島を西へ飛んだ。空の散歩といえるほど優雅なものではない。風圧で呼吸もできず、目からは涙がちぎれ飛んだ。

 高度を下げると、緑に囲まれた神社仏閣らしき建造物が近づいてきた。境内の隅に、階段だか塔だか不明の石塊が転がっていた。廃墟のようでもあった。

「何だ、これ。ここはどこだ?」

 鬼は石塊の傍らに建っている石碑を指した。刻まれた文字の中に「頼光」の文字が読めた。古い墓所らしかった。しかし、噴火でもしたかのように、墓碑は破壊されている。

 内部を覗いてみた。石室の底は空洞だった。

「頼光が復活した」

 と、鬼はいった。

「ライコーって、何者だ? それにお前も……名前くらいあるんだろ」

「俺は茨木」

「あれっ。頼光に茨木……。それはつまり……」

「戻るぞ」

 茨木と名乗った鬼はニタリと笑い、再び私の身体を宙に飛ばした。その衝撃で、目が覚めた。 

 

 私は葛飾に住んでいる。この地は日本刀の世界では全国屈指のハイレベルを誇っている。刀鍛冶では帝国芸術刀剣保存協会が認定した無鑑査が四人(うち二人は東京都指定文化財)、研ぎ師と白銀師も無鑑査が一人ずつ居住している。

 私が住みついたのもこうした職方たちと交流し、学ぶためである。本業は文筆業であるが、そっちのけで、刀装具の彫金をやっている。おかげで本業は開店休業状態、執筆依頼はほとんどなくなってしまったが、それは今は置いておく。

 こうした職人たちの中心的存在である宮原芳人刀匠の工房に私が通い始めて、二十年近くなる。最初の頃は弟子も一人か二人しか置かず、それなりに仲間意識もあったが、現在は十人近くに増員され、徒弟制度というより、もはや学校と化してしまった。それも偏差値の低い学校だ。人数が増えれば、レベル低下は自明の理というもの。

 四十年近く前、まだ偏差値が高かった頃に弟子であった吉野義光という刀鍛冶がいる。宮原師の最初の弟子で、文字通り一番弟子であり、今は日本を代表する刀鍛冶の一人となっている。そして、私が住むアパートの大家である。私が三階、吉野は家族と四階にすんでいるが、ここでは銘切りや鍛冶押しを行なう程度で、火を使う鍛錬場は出身地である新潟とスポンサー企業の本拠地である岡山の二カ所に持っている。

 したがって、東京には年の半分もいないのだが、その彼から「面白い刀があるから見に来る?」と声をかけられた。

 彼の部屋で、私の前に置かれたのは、鞘にも納まっていない太刀だった。

「古い焼け身だったが、先日、俺が岡山で再刃した」

 吉野はプライドの高い職人で、刀剣の修理依頼などは受けない。修理したことを隠して売買される不正が横行しているからだ。

 刀剣修理は再刃ばかりでなく、埋鉄、銘消し、切断された茎尻の溶接、果ては茎そのものを刀身に「合体」させる継ぎ茎などの偽物作りまで、実に幅広く行なわれている。器用な刀鍛冶なら、見破れない工作をやってのける。レーザー溶接という文明の利器を使えば、刃中の傷を溶接で埋めても、焼きが戻るような高熱は発しない。

 だが、刀鍛冶は手間賃しかもらわず、あくまでも職人として客の依頼に応えただけ。悪いのは売買する商売人という理屈も成り立つ。

 しかし、たとえ友人の依頼でも、居合刀の曲がり直しさえ断わるのが吉野義光なのである。その彼が再刃したなら、並大抵の刀ではあるまい。

 再刃後、鍛冶押しを施した段階だから、研ぎ上げられておらず、刃文は見えるが、地肌など詳細はわからない。それでも尋常ならざる雰囲気は漂う。

 茎に「安綱」の銘がある。平安中期、日本刀の形が完成された最初期の刀剣で、古伯耆の代表格である。

「本物かな」

「真贋はわからんが、古くは見える。それも尋常な古さじゃない。兵庫県の神社が持ち主で、協会を通して、俺に依頼してきた」

 協会というのは帝国芸術刀剣保存協会。略称は帝刀保。刀剣関係者は単に「協会」と呼ぶ。

 終戦直後、進駐軍による刀狩りから日本刀を守ったお歴々を中心に設立された団体で、刀剣界に権力をふるってきたが、長年続いた組織であるから、今やキレイ事だけではすまなくなっており、諸問題が噴出している。吉野はこの協会のいいなりになるような性格ではない。

「興味ある刀だから再刃を引き受けた。こいつに命を吹き込めるのは俺しかいない」

 自信家である。確かに、焼入れの技術は日本一と自他ともに認める刀鍛冶だ。

「協会が神社の所蔵刀を調査しているうち、こいつは名刀だから再刃しましょうという話になったらしい。売り物買い物なら、再刃の依頼なんか受けないが……」

 過去、日本では火災で多くの美術品が焼失してきた。刀剣も例外ではない。ただ、鉄製品なので、熱で焼きが戻った程度ならば、焼入れをやり直して再生できる。オリジナリティが失われるので、美術的価値は大幅に下がるが。

 価値はともかく、この刀には目につく箇所が一つあった。

「この茎(なかご)、安綱にしちゃ珍しい形だな」

 雉子股と呼ばれる鳥の脚のような特殊な形状をしている。安綱ほど古い刀がそう何本も現存しているわけではないが、こんな茎は他に見たことが……。

「あるなア。何かの押形で見たことあるぞ」

「うん。俺も手に入れた」

 吉野は古文書のコピーを一枚、私の前に広げた。

「『本阿弥光悦押形集』にこの刀が掲載されている。これがそのコピーだ」

 現代なら押形という拓本を採録するが、そのための石華墨は幕末以降の輸入品なので、昔は手書きである。従って、押形というより臨模である。

 安綱と銘のある茎が描かれている。雉子股茎は目の前の現物と確かに似ているが、なにしろフリーハンドで、正確さを期していない刀絵図だ。寸法も記録されていない。ただ傍らに「童子切」と書き込まれているのみだ。

 いうまでもなく、童子切りと号した安綱は東京国立博物館の所蔵で、日本刀の横綱といわれている国宝だ。茎は通常の形状で、この絵図のような雉子股ではない。

 吉野は語った。

「光悦押形に国宝とは別物の『童子切り安綱』が載っていることは、研究者の間では知られている。光悦の時代は安土桃山から江戸初期。その頃には童子切りが複数あったのか、あるいは長い歴史の間にすり替わってしまったのか、それはわからない」

 押形の矛盾は珍しくない。豊臣秀吉の形見として伊達政宗に譲られたという鎬藤四郎と呼ばれる吉光の短刀も、現物は明暦の大火で焼失したが、押形は三種類が伝来しており、これが全部異なっている。

 安綱は時代の古さのわりには現存数が多いといわれるが、稀少には違いないから、目の前の安綱が刀絵図の安綱と同一ということも有り得なくはない。まあ、それでも正真の安綱かという疑問はあるわけだが。

 千年の昔、一条天皇の御代(九八六〜一〇一一)、丹波大江山(近江伊吹山ともいう)に棲む鬼の一党を源頼光と彼の四天王が退治したというのが酒呑童子伝説である。童子切り安綱はその際の頼光の佩刀であったといい、のちには足利将軍家から秀吉の手に渡り、さらに家康、秀忠を経て越前松平家、津山松平家と伝来して、戦後は愛刀家の間で所有権をめぐる裁判沙汰もあったが、文部省が買い上げて、現在に至っている。

 私は夢を思い出した。頼光の名前を刻んだ墓所が崩れる夢だ。因縁を感じずにはいられない。人生は不思議なものである。だが、予知だの神秘というほどのことではなさそうだ……。

 当然のことながら、鬼退治の信憑性には問題があり、山賊退治が伝承化したものという常識的な見方もある。仮に鬼退治が史実としても、東博所蔵の「童子切り」がその刀だという証拠はない。そもそも「鬼切り」あるいは「鬼切り丸」と号した安綱は各地に複数が伝来しているのだが、東博の安綱がそうした逸話にふさわしい国宝だから、誰も異を唱えないだけである。

「けど、こいつも童子切りと呼ばれるにふさわしい雰囲気があると思わないか」

 そういう吉野は整形や焼入れの作業を通して、タダモノならぬ手応えを感じたらしい。

 古くから神社にあったためか、研ぎ減りはさほどでもないが、何といっても再刃である。平成の名工による再刃とはいえ、東博の安綱に比べるとグレードはだいぶ下がる。もともと東博の「童子切り」は安綱の作刀の中でも群を抜く出来映えなのだ。同列には評価できない。

「不思議なことに、この刀をここに持ち込んで以来、アパートの屋上にいつも集まっていたカラスどもが寄りつかなくなったよ」

「ああ。それは私がカラスを見るとエアガンを撃ちまくるからだ」

 刀剣にはロマンがつきものだ。もっとも、歴史のロマンだなどと感慨を深くするのは、私や吉野のように呑気な人間だけだ。刀剣にまつわるそんな逸話は商売に利用されるだけなのである。そうした付加価値には値段がつき、刀の本質よりも肩書きを喜ぶ愛刀家が財布の紐を緩める。売り物でない場合は、博物館や神社仏閣で客寄せに利用される。

 たとえば、新選組隊士の刀だとか坂本龍馬ゆかりの刀という触れ込みの「商品」がどれだけ世間にあふれているか。しかも、そんなものをどこからか「発掘」してくるのはいつも同じ「歴史研究家」「刀剣研究家」のグループなのだ。

 幕末でさえそうなのだから、平安時代の刀剣伝説など鵜呑みにはできない。

「こいつには古い太刀拵も付属しているんだよ」

 吉野は床の間に置かれた長い桐箱を開け、太刀拵を取り出し、毛氈を敷いた机上に安綱と並べて置いた。

「焼け身で反りが変わって以来、この拵には納まっていなかったらしいが、今回の再刃では拵に合わせてくれという依頼だった」

 もっとも、こんな古い拵に安綱を入れて保管するわけにはいかないから、白鞘を新調する手はずなのだろう。

 私は息を殺しながら拵を眺めはしたが、手を触れるのは遠慮した。再刃した安綱はこれから研ぎなどの仕上げにかかるので、私の指紋がついてもどうということはなかろうが、古い拵となると、持ち主の了解もなく気軽には触れられない。

 なにしろ、迂闊に触れれば崩壊しそうなボロさだった。拵には刀剣ほどの耐久性がないから、さすがに平安の制作ではないが、室町後期くらいだろうか。実戦的な革包みの太刀拵である。

 ふと疑問に感じた。

「刀身は火事に遭ったのに、拵は残っているということは、別の場所に保管されていたのかな」

 江戸中期以降なら、刀身は白鞘に入れて保管するようになる。それにしても、拵も同じ場所に置いておきそうなものだが。

 吉野がいった。

「神社の記録だと、江戸末期に刀身だけ盗み出されたことがあるらしい。戻った時には焼け身となっていたとか」

「なら、焼ける前と見た目は一変していただろう。どうして同じ刀だとわかったのかな」

「刀は自ら戻ってきたというんだ」

「何だ、そりゃ。まさか刀が歩いて戻ったわけじゃあるまい」

 しかし、ありがちな伝説だった。大火事でも刀だけが焼け残ったなど、神がかり的な話は珍しくない。

「あ、そうだ。私の方も見せるものがあったんだ」

 私はポケットからティッシュにくるんだ目貫を取り出し、吉野の前で開いた。

「無銘の片目貫なんだけど、変わった鬼が彫ってある」

 吉野はそれを手に取ろうとしたが、

「あ」

 小さく叫んで、落とした。毛氈の上で弾んだ目貫は安綱の刀身にカチンと当たった。

「今、動いたよ、この目貫」

「あ?」

「いや。勝手に滑り落ちたような気がした。目貫が刀に磁力で引っ張られるような……」

「更年期障害で手が震えたんじゃないのか。それで目貫がスッパリ切れていたら、それこそ鬼切りだが」

 研ぎ上げ前で、刃はついていないから、切れるわけもない。

 吉野はしみじみと目貫を眺めた。

「ふうん。うまい彫りだな」

「河野春明だと思う」

「でも、山銅だぜ。一流工なら赤銅を使いそうなものだが」

「何か事情があったのかも」

 赤銅は銅と金の合金なので、高価である。河野春明の壮年期の作品は良質な赤銅に種々の色金を象嵌、色絵した華やかで緻密なものだが、晩年には鉄、四分一、素銅など安価な材料を使い、技巧的にも単純なものが多くなる。これは偏屈な性格ゆえに経済的に恵まれず、創作意欲も衰えたためと考えられている。

 安綱には白鞘もなく、吉野は新聞紙で作った紙鞘へ納めようとした。その活字の中に「頼光」の文字が見え、

「ちょっと待て」

 私は紙鞘を手に取った。刀身の形に細く巻いてあるのだが、ばりばりと破って、紙面を広げた。吉野は文句をいったが、こちとら聞いちゃいなかった。

「源頼光の墓廟、破壊される」の見出しがあり、崩れた石塊の写真が掲載されている。

 吉野が口を尖らせた。

「何だよ、気になる記事か」

 この光景を夢で見た、とはいえなかった。

 夢で見たのは崩れた墓碑だけで、場所は特定できなかったが、記事によれば、源頼光の墓廟は兵庫県川西市の多田神社にあり、父の満仲と合祀されていた。

 記事を私の横から覗き込んだ吉野は、たいして興味もなさそうに、いった。

「あ。これね。この多田神社が安綱の持ち主なんだ」

「何……だってえ!?」

「所蔵刀の調査なんかで、協会ともつながりがあるらしい。あ、俺に再刃を依頼してきたのが協会理事の鯉墨寿人だ」

 事件が起きたのは一週間前だった。深夜にカラスが騒ぎ、轟音が響き、上空が光ったという証言もある。翌朝、神社の関係者が境内を見回ると、墓が破壊されているのが発見された。

【所蔵品調査のため、同神社を訪れていた帝国芸術刀剣保存協会・鯉墨寿人さんの話「落雷じゃないですかね。火事にならなかったのが不幸中の幸いです」】

 マスコミが注目するようなニュースではない。記事は小さく、落雷もしくは悪質な悪戯くらいの扱いでしかなかった。重機でも持ち込まねば不可能な悪戯だが。

 墓廟の中は暴かれていたのかどうか、記事では触れていなかった。遺骨などの現状については、神社側は「畏れ多いのでコメントできない」としている。そもそも、そこに満仲や頼光の骨が実在したものかどうか。史蹟なのだから、確認するのは不遜というものだろう。東京大手町にある平将門の首塚だって、関東大震災で崩れた折、中を調査したら空だったという話がある。

「頼光の墓がある神社の所蔵なら、この安綱が童子切りだという信憑性も出てくるだろ。鬼を斬ったかどうかはともかくとして、頼光の愛刀だった可能性はある」

 と吉野はいったが、私はそう単純には考えなかった。 

「歴史上の人物の愛刀については、俺も執筆のために随分調べて回ったがね、子孫が所蔵している刀の中にも、帳尻合わせのために買ってきたというものが結構あるし、矛盾点を追及すると、平然と、あれは間違いでしたけど、それが何か? と開き直る研究者もいる。無批判には信用できないね」

「疑り深いな。神社の言い伝えでは、刀が所蔵庫から盗まれた江戸末期にも、盗難直後に頼光の墓が崩れたそうだ」

「まるで、盗まれた刀を追いかけるために頼光が出ていったかのごとく、か」

「神社では墓廟を修復したが、まもなくまた崩れたという」

「まるで、頼光がその中に戻ったかのごとく、か」

「そして、この刀は墓の前で見つかった」

「まるで、頼光が取り戻してきたかのごとく、か」

「小説のネタになりそうだね」

「ふん。誰が主人公になるんだ? 源頼光の名前を知っている日本人がどれだけいるかな」

「そこを啓蒙するのも小説家の役割だろ」

「二十年もそのつもりで小説書いてきたがね、その結果、私はホームレス同然になって、このアパートに転がり込んだ」

「記録的な家賃滞納されて、その点は大家としても非常に迷惑している。源頼光がモデル体型の美男子で、兜に『愛』だか『恋』だかの前立を飾って、博愛と義理に生きた正義の武将だという小説でも書いて、ドラマ化やパチンコ化で稼いでくれよ」

「私は嘘は書けない。世の中には嘘八百書いてる小説がどれだけ多いか。日本刀の反りは焼入れの時に芯鉄が縮むから生じるとか、へっ、ありゃ刃の組織がマルテンサイトに変わって体積が増えるためだ。冶金の常識だぜ。曲がった刀は一晩吊しておけば真っ直ぐに戻るとか、偽物の茎で塩鮭を焼くと絶妙の錆がついて見破れないとか、甲伏せは粗製濫造の造り込みだとか、達人が刀を振ると風切り音がするとか、ありゃ刀に樋があるから音を発するんだろ、それからそれから、小龍景光を一度も見たことのない刀鍛冶がその偽物を作って、東博所蔵の本物とすり替えても誰も気づかないなんて、無知蒙昧、考証無視、馬鹿馬鹿しい小説が横行している。そんなのを原作にした時代劇は輪をかけてひどい。刀で石灯籠を斬るかと思えば、甲冑武者も刀でバッタバッタと斬り倒す。一体、何のための甲冑だ。そうかと思うと、有名作家いわく、据物斬りとしての兜割りは絶対不可能だと。冗談じゃない。兜だって、やり方次第でスッパリ斬れらア」

「随分、文句を並べたなあ」

「大体、東京の刀鍛冶を代表する宮原師のところにTVや雑誌の取材は毎月のように来るが、小説家は後にも先にも私しか来ていない」

 私が宮原工房へ出入りするようになったのも、取材に訪れたのがきっかけだった。

「一体、私以外の、刀の小説を書いている連中はどこで取材しているんだ? しちゃいねーだろ。作家がそんなだから、編集者も不勉強。『磨り上げ』は『磨き上げ』に、『焼き手腐らかし』は『焼いて腐らせる』に必ず書き換えられる。専門用語なんだと説明すると、そんな日本語があるかと怒り出す。許せん。出版業に関わる資格なしっ」

「そういうお前さんの生真面目さというか堅苦しさが、小説に真実を求めない一般読者に受けないんじゃないのかね。嘘でも面白きゃいいという考え方もあるぜ」

「面白くねえよ、嘘なんか書いたって」

「現代刀匠や関係者だって、TVや雑誌で面白がられてるのは決まって大ボラ吹きだよ。鍛錬は鉄を駄目にするから洋鉄素延べが一番ですと力説する奴。私の刀は釘が切れますなんて自慢する奴もいる。鋼で鉄が切れるのはあたりまえだろ。飛んでくる弾丸を刀で切ってみせるなんて番組、それ用の特注弾丸で、何度も実験したヤラセだぜ。『なんとか散歩』って番組じゃあ、俳優が散歩中に刀鍛冶の仕事場を発見したふりしてたが、二週間も前にスタッフが打ち合わせに来てる。他にも、先祖伝来の刀は家宝なので、一度も抜いたことがありませんなんて、登録してないことをNHKの番組で公言する奴。詐欺、経歴詐称、銃刀法違反、そんなのがゴロゴロしてら。世間は真実なんか求めてないよ」

「おや。そんな奴らの肩を持つ吉野義光とも思えないが」

 普段、私の何倍も他人を批判、攻撃する性格なのである。その吉野が、

「プライドばかり高くたって、飯は食えないっていってるんだ」

 まともなことをいう。ひねくれ者だから、反射的に私に反論しているのである。 

「よくいうぜ。お前だって、刀の修理は引き受けないじゃないか。過去の自作刀の注文銘、持ち主が変わったから消してくれって頼まれて、やりたくないと断わったのは誰だ?」

「しつこいから消してやったよ。二度と来るなといったけど」

「それで二十万も要求して、せめて半額にしてくださいと泣きつかれていたじゃないか。お前の師匠の宮原師だって、一、二万のお手頃料金だぞ」

「俺は師匠とは違うよ」

 同じ町内に住みながら、吉野は宮原師と不仲である。こんな性格だから当然ではあるが。ただ、偏屈では私も負けていないのである。

「私だって、他の小説家とは違うわい」

 私は不愉快になり、鬼の目貫をポケットに押し込むと、吉野の部屋を辞した。

 その数時間後に彼を襲う災難など予想もできず、頼光の墓廟へ鬼とともに飛んだ夢が、その前兆であるとも考えなかった。