童子切り転生 第八回

童子切り転生 第8回 森 雅裕

 中川を渡り、水戸街道を墨田区方向へ南下しながら、私はこの三人が同乗している状況を観察していた。異常すぎる事態には人間は他人事のように冷静になるものらしい。

「呉越同舟とはこのことだな。そういえば、頼光様は出会った人間を意のままに操れるそうだが、私が今、運転手なんぞやっているのは、自分の意思ではないのかな」

 頼光は一切の愛想も洩らさずに答えた。

「お前が私におとなしく従わぬ時には、そういうことも有り得るな。だが、今のところ、その必要はなかろう。それに――」

「それに?」

「現在、舞琴が宿っている依吏子の父親だからな。敬意を表している」

「そんな殊勝な頼光様でもあるまい」

 茨木が、いった。

「依吏子の父親となれば、どうせ常人ではない。精神に欠陥を持つ一種の異常者だ。簡単には操れないのさ」

「異常だといわれるのは慣れているが、それでうれしく感じたのは初めてだ」

「よかったな」

「お前、茨木……。吉野とそっくりだぞ、そのねじ曲がった物言い。記憶だけでなく性格まで引き継いだのか」

 私が嘆くと、頼光がドスのきいた笑い声を発し、いった。

「もともと、茨木の性格はねじ曲がっているから吉野とは相性がいい。それだけのことだ」

「停めろ」

 茨木が叫んだので、喧嘩でも始まるのかと思ったが、

「病院がある。診断書をもらってくる」

 目に入ったのは産婦人科の看板だったが、茨木は躊躇なく飛び込んでいった。

 頼光と車内で二人きりになり、この男が放つ猛烈なオーラを体感したが、私は無視した。依吏子の無事を願う焦りや苛立ちの方が大きかった。

 そんな私の心情を頼光もまた無視して、

「吉野とは友人だったのか」

 と訊いた。

「まアな」

「変人だったようだ」

「他人と言葉のキャッチボールができない男だったよ」

 大学から刀鍛冶へと寄り道しなかったので、社会経験が偏っていた。矛盾するようだが、お人好しではあったものの、性格は悪かった。

 私が「こういうことに興味があるんだ」というと「つまんないな」

「こうなるといいな」といえば「まあ無理だな」

「こういう困ったことがあって」といえば「お。よかったね」

 そういう男だった。これでは会話が成立しない。心理学でいう不全感だ。

 何年もつきあううち、私は娘が宝塚にいることを話す機会を探っていた。ある時、一緒に入った食堂のTVが、早起きをテーマにした番組をやっていた。今だと思い、

「宝塚音楽学校の生徒は早朝に登校して掃除するらしいよ」

 私はそう切り出した。何でそんなこと知ってるの? と訊いてくれば「実は──」と話が広がったのだが、吉野の反応は、

「へっ。母里さんはそんな早起きしたことないよね」

 というものだった。かくして、私は娘の存在さえ、彼に告げる機会を失った。

「ありゃあ刀鍛冶になるために生まれてきた男だったな。私はね、家庭を持たず、文壇でも干されたが、そうした世俗的な幸福と引き替えにしても、吉野と友達ならそれでいいやと思っていた」

「ふん。お前なら、茨木とも友情を育めるだろうよ」

 頼光は、うれしくもないことを請け合ってくれた。

 戻ってきた茨木は病院名の入った封筒を寄こした。中身を見ると「両足脱臼全治二週間」と走り書きしてある。

「文句いうな」

 茨木に機先を制され、私は無言で、再び車のギアを入れた。

 

 横十間川沿いに建つ龍眼寺の駐車場へ車を入れた。檀家でもないのに図々しいとは思ったが、レッカー移動されようが、ヤンキーに傷つけられようが、乗ってきた我々には痛くも痒くもない。

 龍眼寺は室町初期の創建で、萩寺の別称で知られる名刹ではあるが、現在では特に大きいわけではない。

 芭蕉の句碑など、いくつもある記念碑の中で、河野春明の石碑は脇役の扱いだ。不動堂の脇にひっそりと建っている。その表面に「春明法眼之碑」とあり、裏面には発起人たちの連名と「本来無一物ヲ身ヲ以ッテ実践シタ名工ノ江戸ッ子気質ヲ偲ビ──」という碑文が刻まれている。

 これが墓の代用だから、私は手を合わせた。私だけがそうした。茨木と頼光は、何をやっているのかといいたげに傍観している。

 安政四年の末、春明は新潟で客死し、現地で火葬した翌年、龍眼寺に遺骨を埋めている。

「寺の過去帳には、こんな悪い仏はないと記されていたという。お布施など一切なかったらしい。墓は遺族からほったらかしにされたので、共同墓地へ改葬された。その共同墓地も今となっては正確な場所はわからない」

 私の説明を噛みつきそうな表情で聞いていた頼光は、

「骨がこの境内のどこかに埋まっているなら、それで充分だ」

 釣竿入れに隠していた童子切りを抜き出した。

 繰り返すが、ここは大きな寺ではない。目と鼻の先に寺務所があり、参詣客だか観光客だかも歩いている。だが、例によって例のごとく、我々の行動には誰も見向きしなかった。

 頼光は童子切りを春明記念碑の前に、まっすぐ突き立てた。二尺七寸にも及ぶ長刀だが、ハバキ近くまで深々と沈んだ。

「まるでアーサー王のエクスカリバーだな」

 と、私は感心した。

「こいつを引き抜くことができたら受験合格とでも謳って、観光資源にするか」

「河野春明を呼び出す」

「……イタコはここにはいないようだが」

「口寄せなどではない。本人がここに現われる」

「かねてから、霊を呼び出すとかUFOを呼び寄せるって話を聞くたびに思うんだが、霊にも宇宙人にも都合ってもんがあるだろう。見ず知らずの他人が呼んでるからって、いちいち現われるものかね」

「まんざら、知らねぇ仲じゃねーよ」

 聞き慣れぬ声が地中から湧いた。童子切りは放電するかのような光を放ち、地面と木々に含まれていた水分が一気に蒸気となって、視界を真っ白にした。

 蒸気が消えると、あたりのハナモモやアジサイに季節を無視した花が咲き、石碑の台座には男が座り込んでいた。小さな髷を結い、格子縞の着物を着込んだ老人だ。

(これが河野春明か──)

 いささか粗野だが、知性は感じさせる。その老人が、いまいましそうに、我々を見上げた。

「源頼光だな。一度、会ったことがある。安政の地震の修羅場でよオ。おや。そっちは――」

 茨木を見やった。見た目は吉野義光だが、

「お久しい。茨木童子です」

 そう名乗っても、老人は驚かなかった。そのかわり、しみじみと嘆息した。

「お前、冴えねぇとっつあん姿になっちまったなア。で、も一人は絵描きかな」

 私のことである。

「何故、そう思います?」

 尋ねると、

「だって、お前はあの先生の生まれ変わりだろ。俺には見えてるぜ」

「だ、誰の生まれ変わりだって?」

「そんなことはどうでもよいわ」

 頼光の声が割り込んだ。

「春明法眼。お前を呼び出したのは他でもない」

「面白い話なんだろうな。こちらの都合もかまわず呼び出しやがって」

 何だか私と気が合いそうな老人だった。彼は立ち上がり、伸びをすると、周囲を見回した。

「ここは萩寺だろう。随分、こぢんまりとしちまったな。おい。ありゃ何だい。巨大なウナギ捕りのドウみたいだ。ひでぇ造作だな」

 彼の視線の先には建設途中のスカイツリーがあった。

「俺の娘の姿が見えねぇ。察するに、そこの先生の娘に生まれ変わったものを舞琴として復活させようって算段か」

「そこの先生」とは私のことらしい。

「察しがいい」

 と、頼光。

「けっ。頼光が俺に用ありとすりゃあ、舞琴のことだろう。もっとも、俺の娘として生まれた時には、輪っかの環と書いてタマキという名だったが……。どうでエ、いい名だろ」

「いいですね」

 お世辞でなく、私は即答した。実は、私も娘にそう名付けたかったのだ。しかし、私が依吏子の誕生を知った時には、すでに命名されていた。河野春明の娘が環だったとは初耳だが、これも因縁か。

「おや」

 春明は彼の鼻先で、地面に突き刺さっている太刀に目をとめた。

「童子切りか」

「この神剣の霊力をもってしても、舞琴は蘇らぬ」

「頼光よ。俺が目貫を作った時には、生命を捨てる覚悟だったぜ。実際、精も根も尽き果てて、それから二年で死んじまった。お前ももう死んでいるわけだが、現世を未練たらしく彷徨ってちゃア生きてる者が迷惑する。その妖怪変化の魔力を捨てて、成仏しな」

「わしが成仏すれば、舞琴は蘇るのか」

「少なくとも、舞琴はそれを望んでいると思うぜ。平安の頃から……えーっと、何年くらい経った?」

「千年と少々」

「千年もの長きにわたって、お前は娘をしつこく追いかけ、色恋の邪魔をしてきた。いい加減に子離れしやがれ」

「成仏したら、あの世でまたお前と相まみえることになる。舞琴が蘇らなかったら、ただではおかぬぞ」

「そうはいってもなア……。俺はもう死んでるんだぜ。これ以上、どうしようってんだ?」

「ふん」

 頼光は童子切りの柄に手をかけ、ズルズルッと音が聞こえそうな勢いで、引き抜いた。再び、周囲に真っ白な蒸気が湧き上がった。春明の姿が消えかかる。彼は抗議した。

「おいおい。この世のうまいものも食わせねぇで、もう追い返すのかよ」

 私は蒸気をかき回し、叫んだ。

「待て! 私にも訊きたいことがある。春明先生! 針先ほどの点象嵌のやり方とか、いや、あ、そうだ、奈良利寿の大森彦七図の鐔は鉄地に赤銅の人物を高彫象嵌しているが、鉄と一緒には色上げできないし、かといって、あらかじめ色上げした赤銅を象嵌すると、彫り込むことはできない。なのに、表から裏へ彫りがぐるりと回ってる。どうやって、あんな――」

「何でエ。お前さん、彫り師か。絵描きか黄表紙書きかと思ったが」

「わ、私が生まれ変わりだという人物は黄表紙も書くのか」

 黄表紙とは、要するに大衆小説である。

 閃光が迸り、目が眩んだ。春明の姿は消えてしまった。

「行くぞ」

 頼光は身を翻し、駐車場へ歩いていく。私はしばらく石碑を見つめていた。

「せっかく河野春明に会えたのに、ろくに話もできなかった」

 ぼやきながら振り返ると、茨木の姿も近くになかった。しかし、聞こえていたらしく、駐車場で追いつくと、答えてくれた。

「とっととお引き取り願って、正解だ。長時間、こちらにいると、あっちに戻れなくなって、彷徨うことになる。それに、長く話なんかしたら喧嘩になる。あれはそういう人物だ」

「そういう奴ばかりだよ、私の周囲は」

「呼び寄せているのさ。お前の宿命だ。――なあ、頼光もそう思うだろ?」

「お前たちと世間話をする気はない」

 頼光の声は重く冷たい。車に乗り込んだが、後部席の彼を振り返る気になれなかった。ルームミラーを盗み見ると、悪魔の姿でも映っているかと思えば、気むずかしそうな偉丈夫が現世を拒否する表情で、目を閉じているだけだった。

「依吏子のいるところへ向かうぞ。どこだ?」

 私が訊くと、頼光は嘆息するように答えた。

「上野の国立博物館だ」

「ふさわしいようなふさわしくないような、微妙な場所だな。文化庁の菊尾に世話してもらったか」

 ギヤを入れ、慎重に走り出した。墓参りなどすると、霊は事故などの「お礼」を見舞うという。若い頃、浅草にある葛飾北斎の墓へバイクで出かけ、帰り道でぶつけられたことがある。そんなは「お礼」は遠慮したい。

「私が生まれ変わったという人物は誰なのかな」

 私が呟くと、茨木と頼光は同時に、

「知りたいか」

 底意地の悪い笑みを浮かべた。

「いい。いうな。いうんじゃない」

 私の語気は強くなった。

 

 上野公園へ入り、東博を回り込むように西門へ向かっていると、TVの取材クルーらしいのが、何組か見えた。

「上野公園で何かあるのかな」

 私が呟くと、頼光はろくでもない返事を寄こした。

「おかしなものが見えるという噂を聞きつけてきたんだろう」

「おかしなもの?」

「亡霊だ。そこにも」

 教えられなくても、木々の間に「それ」は見えた。髪を振り乱した、袴姿の男だ。しかし、確かめようとすると、消えてしまった。

「何だ、ありゃあ」

「彰義隊とやらの亡霊が彷徨っている。一人や二人ではない」

「あんたの影響か」

「私と童子切り安綱の影響だ。我らの霊力によって、上野の山から鳩やカラスがいなくなった一方、眠っていた怨霊どもが目を覚ました。まあ、あいつらは悪さはせぬ」

「だけど、どうするんだよ、上野公園を丸ごとお化け屋敷にするつもりか」

「私としても、うっとうしい者どもだ。魂を鎮めてやれば、また眠りにつく。気にするな」

 最後の「気にするな」は、飛び出してきた怨霊を轢いてしまったことだ。思わずブレーキを踏んだが、衝撃は感じなかった。気にしないことにした。

 東博に到着すると、用済みの運転手は「始末」されるかと思いきや、頼光は私や茨木には目もくれず、平成館へ足を早めた。私たちがあとに続いても、追い払おうとはしなかった。

 駐車場には見覚えのある傷だらけのGT-Rが停まっていた。代々木の帝刀保にあった車だ。

「車が可哀想だ。買われた相手が悪かったな」

 私はこの車の運命に同情した。その反面、満身創痍の有様を見るのは気分爽快でもあったが。

 我々は平成館に入り、明るく長い、しかし窓が一切ない通路を進んだ。途中、何箇所か警備員の詰め所があったが、例によって、彼らの目が私たちに向くことはない。

 廊下、階段を紆余曲折するうち、明るい通路をはずれ、地下へ下りていた。そして、別世界へ出た。地下道である。汚ないトンネルだった。

 廃止された博物館動物園駅の構内らしかった。私の時代の芸大生が使っていた駅である。ところどころ電気が通じており、それだけでなく空気そのものもぼんやりと発光している。

「菊尾が虎ノ門へ案内してくれた時、政治家という妖怪変化は暗い密室が好きではないという話になったが、さすがに本物の怨霊の隠れ家は趣味が悪いな」

 私の言葉に、雷光は苦虫を大量に噛み殺した声で答えた。

「仮住まいだ。すぐに去る」

「舞琴が蘇れば、六本木ヒルズにでも引っ越すのか。渡辺綱も一緒に」

「お前たちと会わずにすむ場所なら、どこでもいいさ」

「お前たちというのは、私と茨木のことか。私は絶縁してくれてかまわないが、茨木は連れていかないのか。喧嘩友達だろ」

「鬼が暮らすのは地獄と決まっている。共生はできぬ」

 通路とドアをいくつか抜け、カビ臭い地下室へ入った。用途は不明だが、複数の部屋がつながっているようだった。オカルト映画だと、壁中に聖書やら新聞の切り抜きやら張り巡らせてあるのだが、ここはまったく殺風景だ。

 一室で、渡辺綱がもう一人の男とともに待っていた。

「頼光様あ!」

 すがるような声を発したその男は、帝国芸術刀剣保存協会の鯉墨寿人だった。

「えらいことですう!」

 いいかけたが、私と茨木がいたので、目で何やら頼光に訴えた。だが、頼光は意に介さず、

「今さら、この二人の耳を気にすることはあるまい。いえ」

 促すと、鯉墨は背を伸ばし、軍人が上官に報告でもするように、いった。

「明日、うちの協会に警察のガサ入れがあると、タレ込みがありましたあ……」

 協会は警察の天下り先でもあるから、情報のパイプがあってもおかしくはないが、家宅捜索とは意外だった。もはや警察も協会の味方ではないのか。

 ところで、嫌疑は何なのか。不正の心当たりが多すぎる協会だが。

「ほれ、あの、去年の地下倉庫工事中に未登録の刀が七百本発見された件です。協会はどういう管理体制なのか、表向きはそれを調べるということですが、こりゃもう、協会は不正の温床と見なされたっちゅうことですわな。で、私の自宅にもガサ入れがあるらしいんで、見つかるとまずい刀や小道具、こっちに持ってきました。人間は信用できませんっ。預かってください。七百本の中から、私が着服した品物です。選びに選んだ名品です。刀に付属していた拵をぶっこわして、取った小道具もあります。へへ」

 部屋の机に積み上げられた刀は約十本。風呂敷包みは小道具だろう。未登録の刀は警察に発見届けを出し、教育委員会の審査を受けねばならないが、鯉墨はまったく悪びれない。

「登録はどうにでも抜け道がありますからね。協会の地下で埋もれるくらいなら、私が世に出してやった方が、この刀や小道具も幸せというもの。そうでしょ?」

 私は侮蔑を浮かべたりはしなかったが、もともと仏頂面には定評のある人間である。小心者から「俺を馬鹿にした」と食ってかかられることには慣れている。鯉墨も小心者だった。

「も、母里! 馬鹿にしてるのか。まさか私や協会のことを書いたりしないだろうな。あんたはやたらと悪口書くからな。ゆ、許さんぞ」

 鯉墨を見ると、茨木や頼光たち妖怪や怨霊の方がよほど眉目秀麗で、上等に思われた。

「許してくれなくても構わないよ。私は確かに人の悪口を書いてきたが、嘘は書いてない。そして、悪口を書いた相手とは、いつだって差し違える覚悟だ」

「大体、なんで、あんたがここにいるんだ? 頼光様の悪口を書く気か。頼光様と差し違えるなんて、何様のつもりだ?」

「私はそんなことはいっていない」

 喧嘩が始まる前に、頼光が鯉墨を制した。

「用がすんだら、引き取ってくれ。証拠湮滅に忙しいだろう」

「頼光様。この博物館の周辺には不気味な亡霊どもが徘徊しておりますな。恐縮ですが、車に乗るまで、見送っていただけませんかな。あはは」

「ふん。お前ごとき、亡霊どもの眼中にあるものか。だが、あ奴らを放ってもおけぬ。綱よ――」

 頼光は渡辺綱に声をかけた。

「童子切りを持って、霊を鎮めてくるがよい。西郷隆盛とやらの像の北側に彰義隊戦死者の碑がある。あのあたりで、戦死者は荼毘に付されたらしい」

「承知しました」

 綱は頼光から童子切りを受け取った。西郷像のすぐ近くという通行人の多い場所で、鎮魂の儀式をやる気らしい。

 鯉墨は綱の背中にへばりつくように、部屋を出ていった。何度も頼光を振り返り、さかんに頭を下げながら。

 いい加減、焦れていた私は、

「依吏子は?」

 頼光を睨んだ。彼の手に童子切りがなければ、こちらは二人がかりだ。取っ組み合いになっても、善戦できるのではないか。しかし、頼光は悠然と私の視線を跳ね返し、奥の部屋へと先導した。

 そこに娘の姿があった。椅子の背もたれに身を預け、首を傾けて、動かずにいる。椅子は立派だが、何の救いにもならない。服の胸元には無惨な穴が開いていた。眠っているように見えたが、脈はなかった。心臓が動いていない。

「この有様だ」

 と、頼光。

 私には言葉がなかった。ただ立っていることさえ、重労働だった。饒舌な茨木もいつになく沈黙していた。

 渡辺綱が童子切りを持って戻れば、この娘の二人の父親のどちらかは死を選ばねばならない。

 頼光は怨霊だか妖怪だかのくせに苦悩していた。命が惜しいわけではなく、死ねば舞琴の復活に立ち会えぬからだ。

 私は私で、娘をこんな目に遭わされて、胃が焼け、髪が逆立つほど憤慨していた。武器を持ってこなかったことを後悔した。これでも愛刀家のはしくれだから、業物の一本くらい持っているのだ。かなわぬまでも、頼光に一太刀浴びせるくらいは……と彼を睨んでいると、

「何か聞こえぬか」

 頼光は表情を変えずに、いった。

「私の耳には何も。こちとら、ただの人間なんでね」

「音楽のようだ」

「文字通り、地獄耳だな。京成線が通るトンネルの上には東京芸大の奏楽堂がある。電車の震動が伝わらないよう、浮いた構造になっているという話だ。そこで、演奏会でもやっているんだろう」

「行ってみるか」

 いいだろう。地下室で沈黙しているよりマシだ。頼光も私も、娘と自分の命を引き換えるジレンマから逃れるように部屋を出た。

「現代の音楽に興味があるなら、クラシックばかりじゃなく、ロックも歌謡曲も聴いて欲しいところだが……」

 廃駅の構内を歩くと、傍らを京成の電車が通過していく。ドアをいくつか抜け、階段を上がり、鉄扉を開けると、地上だった。封鎖されている博物館動物園駅だ。芸大キャンパスと東博の境目へ出たわけだ。

「オペラやミュージカルも面白いぞ。出演者が格好よくて上手だったら、な」

「お前の娘の仕事だな」

「あんたに宝塚の舞台を見せたいね」

「見た。お前と茨木が劇場にいた時、私もそこにいた。お前たちは二階席、私は一階席だったが」

「へえ。どうだった?」

「主演コンビは格好よくもなく、上手でもなかった」

「はは。あんたが現代人だったら、気が合ったかもな」

 茨木よりも鬼のような男なのに、憎めなかった。これが源頼光の魅力あるいは魔力なのか。

 芸大へ向かう途中、煉瓦造りの黒田記念館をふと見やると、半地下の低い窓に髷を結った侍の顔が見えた。目が合ったが、私は見なかったことにした。

「ところで、頼光さん。あんた、何を企んでる?」

「何のことだ?」

「帝刀保にガサ入れが入るのは、あんたの差し金だろ。文化庁はもちろん、警視庁にもあんたが操る人間どもがいるようだ」

「そうだな」

「協会はすでに文化庁にそっぽを向かれ、公益財団法人どころか一般財団法人の認可さえ危うい状況だ。今回のガサ入れは、警察にも協会がお荷物になっているということだ。狙いは協会の掃除だろうが、その先はどうなるのかな」

「もともと協会は文化庁と警視庁の天下り先だったが、役員どもの長年の不正が問題になって、官僚どもには迷惑な存在となった。そこで、日本刀伝統振興協会という新たな公益法人つまり天下り先を作り、古い協会はつぶす――。だがな、これは私がこの世に復活する前に、官僚どもが描いていた絵図だ」

「あんたはその絵図に変更を加えたわけか。鯉墨の奴、頼光様は日本刀を集大成とする伝統文化を正しい方向へ導くお方だと賛美していたぞ。当の鯉墨は日本刀を食い物にしているクズだが」

「日本刀は守るが、鯉墨のような小悪党や腐った官僚どもを守る気はない」

「官僚どもはあんたの魔力で心を入れ替えるとでもいうのか。利権しか頭になかった連中が、本気で日本刀を守るために働くのか」

「それは新旧二つの協会の今後を見れば、わかることだ」

「おや。古い協会も存続させることになったのか」

「そのための家宅捜索だ」

「帝刀保を公益法人とするためには掃除が必要ということか。官僚には天下り先は多い方が都合がいいだろうからな」

「刀剣界を牛耳る団体が一つでは、また利権独占団体となることは目に見えている」

「意外と正義の味方だな、頼光」

「呼び捨てにするな」

「しかし、帝刀保はともかく、刀伝協は官僚どもの餌場になるかな。利権団体としての帝刀保に反発し、理想主義の職人たちが中心になって作った組織だ。損得だけで動く連中じゃない。扱いにくいぞ」

「それも面白い」

 芸大は美校と音校、二つの正門が横断歩道をはさんで、向かい合っている。

 同行していた茨木は、美校の門に近接する箱のような白い建物に目を留めた。

「要塞かな。敵意や殺意を感じる」

「大学の付属美術館だ。作者たちの怨念が建物にこもっているんだろう。芸大が所蔵する国宝・重文は二十二点。所蔵品二万八千点という数は東京国立博物館に次いで国内二位だと聞いたことがある」

「見てみよう。刀鍛冶の姿で世を忍ぶ俺としては、音楽より美術に興味がある」

 茨木は私と頼光から離れ、美校へ入っていく。私の時代の守衛は全学生の顔を覚えていて、部外者は誰何したものだが、今は警備会社のガードマンが詰めている。誰が通過しようと、見向きもしない。

 私と頼光は音校の門をくぐった。もはや、私が知る教官、職員は定年を過ぎ、一人も残っていない。

 音校奥の突き当たりが奏楽堂だ。芸大の奏楽堂といえば、わが国初のコンサートホールである旧音楽学校時代の木造建築は都立美術館の裏に移築され、大学構内には、私の卒業後に新しい奏楽堂が建てられた。客席一一〇〇余。大学そのものがこぢんまりしているのだから、壮麗な建物ではないが、見すぼらしい校舎群に慣れていた卒業生の目には、立派なコンサートホールに見える。

 外部にも貸し出すのだが、ここの舞台に立つのは、ほとんど芸大関係者である。私と頼光が足を踏み入れた時、そこでは学生オーケストラがベートーヴェンを演奏していた。

 私の学生時代にはなかった場所なのに、一気に記憶があの頃に戻った。生活費を稼ぐためにバイトに追われていた私は、親の金で遊んでいる学生たちと距離を置いていた。妬みや嫉みもあった。将来への不安も大きかった。それでも、それなりに楽しさもあった。若さとは、たいしたものだ。

 頼光がそんな私の感慨を見透かしたように、いった。 

「お前の学生時代に、あの娘は生まれたのだな」

「おい。ここは私が感傷的になる場面だ。あんたがしみじみするな」

「娘を入れたかったか」

「そうだなあ。裕福な学生が多いのはムカつくがね。私は子供の頃から、親や教師、周囲の大人たちから異常者扱いされてきた。自分は人間じゃないんだと開き直らなきゃやりきれなかった」

「お前が鬼という異形の者に理解があるのは、そういうトラウマのためか」

「この学校でも奇人変人と見られはしたが、とりあえず人として認められたのは初めての経験だった。娘が入学したら、うれしかったかも知れないな。だが、宝塚も大変な難関なんだぜ。芸大以上にカネとコネを含めた運がモノをいう世界だがね。昔は入学願書に親の資産と収入を書く欄があったくらいだ。文部省から注意されて、なくなったようだが」

 演奏中、こうした会話を交わしていても、周囲の誰も私たちには見向きもしなかった。それよりも、時折、舞台の隅に影のように出現する、血刀ひっさげた侍の姿に、ざわめきが起きていた。

 悲鳴よりも歓声に近い。携帯をかざし、写メを撮る連中も多い。いやな世の中だ。

 頼光は言葉を続けた。

「依吏子がお前の愛娘なら、舞琴とて、私にはかけがえなき娘。あれの母親は鬼の血を引く、恐ろしいほど美しい女だった。鬼族の頭領である酒呑童子はわが妻を引き戻そうとしたが、妻はそれに逆らって、娘を生んだ。その娘が成長すれば、今度は茨木童子が現われた。忌々しいことよ。当時のこととて、夫は妻子と一緒に暮らしてはおらぬ。娘が大江山へ駆け落ちなんぞして、私は悔いたぞ。妻を責めもした。私の鬼討伐は娘を取り戻すため……それが真の目的であった。正史に鬼征伐の記録がないのは、私闘だったからだ。しかし、私たちが暴れ回り、血の海になった鬼の岩屋で見つかったのは、巻き添えで死んだあれの母親。娘を連れ戻そうと、私に内緒で大江山へ来ていたのだ。だが、娘の姿はなく、茨木童子も消えていた」

「以来、あんたの魂魄はこの世にとどまり、娘を探し求めてきたか」

「手元で育てた子でないからこそ、格別の想いがあるもの。お前にもわかるはず」

「死んだのちまで、追いかけようとは思わないけどな」

「ところで、この大学には──」

 頼光は父親同士の話題を振り捨てた。

「美術と音楽の二学部があるとはいっても、美術の方に日本刀科というものはないのだろう」

「専攻もないし、授業もない。偏っているんだよ。浮世絵だって、ここじゃ美術とは認めていない。ただ、明治の頃には刀装具出身の彫金家が教授陣にいたから、それなりに作品も所蔵している。しかし、何十年だか前に、超音波洗浄なんかして、古色をキレイさっぱり落としてしまったがね。そういう学校さ。そのくせ、私の卒業後に先端芸術表現科なんて、デジタル専攻が新設された。もはや芸術はアカデミックでもアナログでもない。ましてや職人仕事なんぞ、眼中にない。タガネを研ぐこともできない彫金科の学生がいるんだからな」

「愚痴か、それは」

「単なる真実だ」

 舞台上の演奏が終わると、七割ほど埋められた客席から拍手が湧いた。

 頼光はすでに踵を返し、背を向けている。