童子切り転生 第九回

童子切り転生 第9回 森 雅裕

 校門まで戻ると、茨木が美校の警備員と揉めていた。……と思ったが、見れば、揉めているのは和服姿の痩せた老人で、茨木はむしろなだめていた。

 老人は胸を張って、怒鳴っている。

「出ていけ、とわしに指図するのか。いつから、美校は番犬が教官より偉くなったのだ!?」

「うるさいっ!」

 ボキャブラリーに乏しい番犬、いや警備員は単純な怒声を返すばかりだが、爺さんは口が達者だった。

「貴様のような奴を地球のゴミ、人間のクズというのだ」

「うるさいっ!」

「芸術家に敬意を払わぬ奴はクビにしてやる! 校長室はどこだ!?」

「うるさいっ! 入るな!」

 まあまあ、と茨木は老人を抱き留め、私たちの前まで引っ張ってきた。

「茨木。どうしたんだ?」

「美術館でこの爺さんと意気投合してな。美術館は歩きにくい構造で頭に来るし、感動するような展示品もなかったが、キャンパスを見て歩くうち、爺さん、誰かの銅像を見つけて、実物の方がいい男だとか文句いいながらも、えらく喜んじまった。しかし、鳩のフンまみれなので、校舎のどこかからバケツ運んできて、洗おうとした。それで、警備員が、部外者が何をするか、出ていけと注意して、この騒ぎだ」

「わしの銅像だ」

 どこかで見たような老人だった。痩せさらばえているが、風格があり、人を見る目がある者なら、粗略に扱ってはいけない人物と直感するだろう。

「あなたの銅像とは、つまり、作者ということですか」

「彫る側ではなく、彫られる側だ。わしの胸像だ」

 芸大キャンパスには多数の彫刻が設置されている。歴代教官の銅像、胸像もあるが、故人ばかりのはずである。「学長」ではなく「校長」という言葉を発していたところを見ると、この男、昔の教官なのか。東京芸術大学美術学部の前身である東京美術学校時代の……。

「もしや、地下から蘇ったのでは……?」

 私の疑問に、老人はあっさり答えた。

「わしの墓はすぐそこ、谷中だ」

「あの、あ、あなたは……」

「お。墓へ戻る時が来たようだ」

 渡辺綱が彰義隊の霊を鎮めるといっていたが、他の霊にも波及したようだ。

「失礼するぞ」

 老人は谷中方向へ駆け出した。見た目に似合わぬ俊敏さだ。

「あ、待って……」

 私の声が届く前に、彼の後ろ姿は陽光の中へSFXのようにかき消えた。

「おい」

 私は茨木に詰め寄った。

「胸像って、どこの、どういう胸像だ?」

「門から右へ入って、左側の雑木林にある。烏帽子かぶった胸像だ」

「加納夏雄だ」

「あ。あれが……」

 彫金史上最高ともいえる名人である。幕末には刀装具を制作したが、明治に入ると、彫金全般で活躍し、美校でも教鞭をとった。

「うわ。せっかく夏雄と出会えたのに、もったいないことをした。彫金の技法を尋ねたかった」

「お前も奇特な奴だな。何か記念の品をもらいたかったとは思わないのか」

「私はそんな俗物ではない。学生時代には仙人と呼ばれていた」

「あ、そ」

 茨木は指先で細長いものを器用に回転させている。煙管だ。

「何だ、それ」

「あの爺さん、これで警備員を殴ろうとしてたから、取り上げた。金具は、犬、猿、キジを従えた桃太郎を片切彫りしている」

「まさか、在銘じゃなかろうな」

 茨木は東博へ向かって歩きながら、煙管を確認した。

「あれ。夏雄、とある」

「お前、お前な、そんなもの欲しがる俗物か」

「しょせん、俺は鬼だよ。仙人じゃない」

「桃太郎なんて、鬼の天敵じゃないか。そんなの、いらんだろ」

「そうでもない。夏雄は吉野も欲しがっていたからな。お前はいらないようだが」

「いや。決して、そんなことは……」

「お前は河野春明師に私淑しているんだろ」

「それはそうだが……」

「でも、こんなのがそばにあれば、彫金家にはいい手本になるよなあ」

「茨木クン。ここは話し合おうじゃないか」

 やりとりを聞いていた頼光が露骨に嘆息した。侮蔑と怒りが混じっていた。

 博物館動物園駅から、我々は再び地下へ潜った。

 

 東博の地下へ戻ると、すでに渡辺綱が戻っていた。大きな目が明るく、鼻が高く、本来は明朗な若者であることを想像させる風貌なのだが、今は表情が固い。

「鯉墨はやたらと霊を気にしていましたよ。でも、車の後部席に霊が一人、乗っているのも気づかずに引き上げていきました。彰義隊の侍ではなく、かなりタチのよくない悪霊のようでしたが」

「低級な人間には低級な悪霊が取り憑くものよ。で、彰義隊の霊は?」

「私が鎮めておきましたが、この地にはさまざまな魑魅魍魎がうごめいておりますな。今は童子切りが彼らを封じているものの、これを上野から動かすと、またぞろ怨霊どもが這い出るかも知れませぬ」

「ふん。春になれば、上野では人間どもが花見と称する乱痴気騒ぎを起こすと聞いている。怨霊の方がつつましいではないか」

 奥の部屋に入ると、椅子の上の依吏子は先刻と同じ姿勢だった。父親が童子切りで胸を貫かねば、彼女は仮死状態のままだ。

 頼光は覚悟を決めたようだ。 

「母里よ。お前は小説を書き、彫金をやるのだったな。お前の作品を見ることができず、残念に思うぞ」

 別れの言葉のつもりらしい。だが、覚悟を決めたのは彼だけではない。

 童子切りは粗大ゴミみたいな机の上に置いてあった。私がそれに手を伸ばしても、頼光は制止もしなかった。

 私は童子切りの鞘を払った。切っ先を返し、刀身を握って、自分の胸に突き立てようとした。しかし、トラックにでもぶつけられたような衝撃があり、渡辺綱に腕をはたかれただけなのだが、私の身体は壁際まで弾き飛ばされていた。

 童子切りは綱の手に奪われ、その刃をつかんでいた私の掌には切り口が開いた。ゆっくりと血が流れ出した。

 私は綱に飛びかかったが、再び跳ね返された。

「殺せ!」

「この安綱を揮えば思うつぼ。だが、あなたを殺すのに太刀などいらぬ。腕一本で殴り殺せますよ」

 この騒ぎにも動じず、依吏子と向き合っていた頼光が、ようやく振り返った。

「自分の命を捨てて娘を救おうとするとは、見上げた親心だな」

「でもないさ。種の保存という見地で考えれば、親が子を守るために命を投げ出すのは美談でも何でもない。生物としての本能だ」

「その本能、お前だけが持っているのではない」

 頼光が上着を脱ぎ捨て、綱に向かって、おのれの胸元を示した。

「綱よ。私を刺し貫け」

「頼光様。しかし、それでは御身は滅びますよ」

「かまわぬ。あとのことはお前に頼む」

「そうですか」

 渡辺綱はどこまでも屈託がない。綱は童子切りを両手で握り直した。切っ先が頼光へ向けられた。平安の武将二人は落ち着いていて、悲壮感はない。整然と進められる芝居の舞台のようでもあった。だが、鑑賞や傍観はしていられない。私には毒づくしかできなかったが。

「この野郎。奏楽堂でいやにしみじみしていやがると思ったが、ベートーヴェンが冥土の土産か」

「土産はこの世で見聞きしたこと。お前のようなろくでなしとの出会いを含めて、な」

「けっ。もしかして、普通に出会っていれば友達になれたかも、なんていうなよ」

「母里よ。お前は煩悩の絶えぬ奴。生き続けて、苦しむがいい。そして、新旧二つの刀剣協会の今後を、私にかわって、見届けよ」

「御免!」

 渡辺綱が叫び、頼光の胸板に童子切り安綱の切っ先が入った。刃が一気に進み、背中へ抜けた。

 頼光は膝を折り、唸りながら童子切りを胸から引き抜いたが、血が噴き出るようなことはなかった。そして、倒れた。

 私はよろよろと這い寄り、頼光の胸と顔に触れ、心臓が動いていないこと、息をしていないことを確かめた。

 茨木は傍らに立ち尽くし、呟いた。

「御臨終か、頼光。淋しくなるな。長い長いつきあいだったからな」

「もともとこいつは怨霊だぞ。心臓が動いていなくても、これが健康な状態なのかも知れん」

「死んだよ、この男は」

「どうして断言できるんだよ!?」

 怒鳴る私の足元で、頼光の身体はガサゴソと音を立て、黒いヒビが細かく走り、崩れ始めた。次第に人の形をなさなくなり、砂と化した。その砂も風などないのに吹き散らされるように消えていった。

「これでわかったろ」

 だが、奇妙だった。依吏子の身体は動かない。舞琴は覚醒しない。

 私は血まみれの自分の両手を拭いながら、いった。

「茨木。起動ディスクがどうとか御託を並べていたが、この有様はどういうことだ?」

「俺の責任のようにいうな」

 茨木は私の手を握った。何をしやがる、と罵倒しかけたが、安綱による創傷がたちまちふさがった。やはり、こいつは友達にしておくと便利かも知れない。

 茨木は険悪な人相をさらに凶悪にして、しばらく瞑目していたが、その瞼を開くと、渡辺綱を睨みつけた。綱は綱で、主人を手にかけた自責の念があるのだろう、呆然としている。

 茨木はその手から童子切りをひったくり、刀身を一瞥したが、すぐに返した。

「綱よ。ちょいとつき合ってくれ。東博の刀剣室へ行きたい。案内しろ」

 地下を伝って博物館へ入った。迷路のような階段、廊下を過ぎ、平成館から古い本館へ踏み込むと、周囲の空気が変わる。立入禁止のロープを越え、展示室を半周もすると、刀剣室だった。

 そこには「国宝」の童子切りが鎮座している。

「母里よ。この童子切り……何か感じないか」

「さて。お馴染みの童子切り安綱だが」

「これは頼光の童子切り。つまり、本物の方だ」

「何をいってる。頼光の童子切りは雉子股茎だ。国宝の童子切りとの違いは一目瞭然……」

 いいかけて、私は言葉を失った。あらためて凝視すると、何かが違う。目の前の童子切りの茎は確かに通常の形状をしているし、刀身も垢抜けない作りで、写真でも現物でも見慣れた国宝の姿である。だが、ガラスケースの中に妖気が充満している。以前、茨木が口にした「鬼の悲鳴」というやつか。

「どういうことだ、これは」

「感じるか。お前の感性も鬼に近づいたな」

「すり替えられたのか」

「そうだ。童子切りの霊力によって、二本の安綱は姿を入れ替えた。国宝の童子切りで頼光の胸を刺し貫いても、舞琴の魂を蘇らせるには至らなかったわけさ」

「だが、あの妖怪変化を滅ぼすとは、さすがは国宝。これまた千年の歴史を持つ付喪神としての霊力を秘めていたということか。しかし……」

「龍眼寺で春明師の霊を呼び出した童子切りは確かに頼光愛用の本物だった。すり替えられたのは我々が芸大で音楽や美術を鑑賞し、夏雄とお近づきになっていた時しかない。そんなことができたのは……」

 茨木と私は渡辺綱を睨んだ。ここには職員も一般客もいるし、防犯カメラもある。平凡な人類には白昼堂々、国宝を盗み出すことはできない。綱は否定せず、語った。

「ここまで、私は頼光様に従ってきたが……はたして、それでよかったのかな。千年の間、頼光様に真の安らぎは訪れなかった。もう、いいでしょう」

「成仏させたというのか。それは親切心なのか」

「どうかな。ただ、舞琴殿が蘇っても、彼女の心は茨木にある。無理矢理に私の嫁にしようとは思いませんな」

「格好つける奴だ。しかし、頼光ともあろう者が、安綱をすり替えられたことに気づかないとも思えないな」

「何をおっしゃりたいんです?」

「頼光も覚悟していたのではないかな。そもそも、お前と舞琴を夫婦にするつもりなら、邪魔な茨木を生かしておくはずがない。なのに、この忌々しい鬼は追い払われもせずにここにいる。つまり、頼光は子離れして、成仏することを選んだ」

「なるほど」

 綱は無表情だ。孤高というべき雰囲気を放っている。私は今さら、この男に興味を持った。

「それで、頼光を失って、お前はどうする気だ?」

「これでも、弑逆という自責の念は有しています。頼光様はあとは頼むと仰せられた。その期待は裏切れません。頼光様は日本刀を代表とする大和文化の行く末を案じておられた。我ら、その遺志を継ぎます」

「我ら……?」

 私は聞き返した。

「お前には仲間がいるのか。おい、まさか……」

「ええ。頼光様のもとへ馳せ参じたのが私だけと考える方が不自然でしょう」

「頼光四天王が蘇ったのか。お前の他に、坂田金時、碓井貞光、卜部季武が……」

「それだけなら、まだ少数勢力ですがね」

「うわ。他にもいるのか」

「文化庁も警察も、すでに彼らが牛耳っています」

「それはそれで、危険な匂いがするぞ。そもそも、美術や工芸は官庁が監督するべきものじゃない」

「我らも未来永劫、現世にとどまることはできません。利権に群がる者どもを掃除し、再び不正がはびこらぬよう、組織、法令の整備を終えれば、墓に戻ります。どうなるかは人間ども次第ですが、救いようがなければ……」

「最悪の場合は、この国ごと壊滅か」

「それもないとはいえませんね」

「利権に群がる連中も不愉快だが、私としては、いい加減な仕事ぶりのくせに『先生』と祭り上げられている刀関係の職人たちを掃除して欲しいがな」

「母里さん。そうした職人をもてはやすのは、どうせ愚かな人間ども。放っておくに限ります」

「そうだな。私には、もっと切実な問題がある」

 依吏子を救わねばならない。

「渡辺綱。あんたは舞琴が蘇ることは望まないのだな」

「私は結構です。だが、茨木」

 と、鬼に声をかけた。

「お前はどうなのかな。恋人との再会をあきらめられるか」

「あきらめはしない。楽しみは何百年か先にとっておく」

 私は彼らに友情を感じてもいい気分になった。

「二人の厚情に感謝するよ。じゃ、この本物の童子切りをガラスケースから出して、私に渡してくれ。本物の童子切りで、私が死ねば、それで解決するはずだ」

「まあ待て」

 茨木が手で制した。

「別の手を考えよう。母里ならではの方法があるはずだ」

「別の手?」

「依吏子が息を吹き返す方法、そして削除された舞琴の魂も消滅せずにすむ方法だ」

「依吏子はどうする? ここへ置いておくのか」

「お前の狭い部屋じゃ、依吏子の居場所なんかないだろう。かといって、仮死状態の彼女を預かってくれるところもない」

「それはそうだが」

「ここなら、近くに本物の童子切りがあるから、彼女に悪戯しようとする悪霊どもも現われない。現われても、綱が守るさ」

 だが、私は渡辺綱という武将が信用できる男かどうかを知らないのである。茨木は私のそんな疑念を察し、

「綱は、信頼されれば裏切ることはできぬ性分だ」

 そういって、冷たく笑った。

 綱は私たちに背を向け、刀剣室を出ようとしている。振り返りもせず、

「解決策を待っています。私への連絡は依吏子の携帯へ寄こしてください」

 と、言葉を残した。

 

 時計を見ると、宝塚の舞台は昼の部を終え、夜の部にそなえている時間だ。依吏子の同期に電話し、診断書を渡すと告げた。

 日比谷の劇場へ車を走らせながら、私は茨木に訊いた。

「どうしたものかな」

「煩悩が絶えぬ奴という、頼光の捨て科白を気にしているのか。その煩悩を創作に昇華するのが芸術家だろ」

「……私の心臓に童子切りを突き立てることなく、依吏子を救う手立てについて、話している」

「何だ。お前にもわかっていると思ったが」

「帯留となった目貫だな」

「ああ。舞琴の魂はもともとあの目貫に宿っていた。なら、戻ることもできる理屈だ」

「目貫を帯留に改造されるのがいやで抜け出した魂だぞ。戻すなら、目貫に修復しなきゃなるまいな」

「依吏子の身体から舞琴の魂が抜ければ、依吏子の魂が起動するはず……」

「しかし、あの目貫は頼光が真っ二つに切断してしまった。その修復もせねばならない」

「できないのか」

「もしかして、俺に尋ねているのか。プロの彫金家の仕事だろう」

「そんな連中に依頼すれば、完成まで半年や一年待たされることも珍しくない。お前もよく知っているだろう」

「できるかできないかと問われれば……裏側に補強用の銅の薄板を張って、鑞付けすれば、とりあえず二つを一つに接着はさせられるが、熱を加えるから、表面は酸化するし、形も歪む。色絵や象嵌も傷む。そうした部分まで、制作当時のままに復元するのは不可能だ。かなり、私の手が入ることになる」

「いいじゃないか。舞琴は江戸末期には環という春明師の娘で、現代の依吏子はお前の娘だ。父親同士が合作した目貫こそ、彼女らを救うにはふさわしい」

「依吏子はともかく……舞琴は救われるのかな、それで」

「何をいいたい?」

「目貫に移った魂は、いつかまた抜け出なきゃ憑依も転生もできないだろう」

「理屈馬鹿だな」

 茨木は私の疑問を一蹴した。

「将来のことはお前は心配しなくていい。鬼の血筋をなめるな。魂は永遠だ。お前が目貫を見事に修復すれば、な」

「そりゃ、全力を尽くすが……」 

「銅の薄板を張るといったな。目貫と同じ材料がいいだろ。鬼が作った山銅だ」

「そういえば、協会の展示室に春明師の彫金板があったな」

「目貫を作った残りの銅板だ。あれをいただいてこよう」

「盗むのか」

「証拠は残さない。心配するな」

「そうじゃなくて、良心の問題だ。目貫の修理に必要な銅板はごく少しでいい。彫金板を丸ごと寄こされても、彫刻のない端っこをちょいと切り取るだけだ。彫刻部分は人目をはばかって死蔵することになる。美術工芸品はそんな扱いをすべきじゃない」

「わーかった。じゃ、端っこを切り取ってくるだけにするよ」

 協会は閉館の時刻が近づいているが、茨木には支障はないだろう。タクシーで協会へ向かうという彼とは日比谷で別れ、私は依吏子の同期を携帯で呼び出した。

 劇場の正面ではファンの目がうるさい。劇場を回り込んだ場所へ現われた人のいいタカラジェンヌは、

「依吏子、大丈夫なんですか」

 心配というよりは疑惑の表情だ。しかし、明るい眼差しで見つめられると、こちらこそ勇気づけられた。

「大丈夫。それより、元気になった時、問題なく公演に復帰させてもらえるよう、エライさんや上級生に取りなしを頼む」

「まかせといてください」

 診断書を見た彼女は病院名を見て、怪訝そうではあったが、何かいわれる前に、

「あ。これやるよ」

 私は携帯につけていた自作のストラップを彼女に押しつけた。銀無垢で、宝塚娘役の姿を彫っている。フィナーレ衣裳の定番である羽根つきドレス、手には羽根扇だ。もっとも、私の前にいる彼女は男役なのだが……。

「今度、男役の姿で作ってやるから。よろしく頼む。じゃっ!」

 逃げるように、その場を離れた。

 

 その夜から私は目貫の修復を始めた。目貫本体を傷めぬよう、慎重に帯留金具をはずしたところで、茨木が現われ、ポケットから小さな金属片を取り出した。山銅だ。

「協会の展示室へ乗り込んで、いただいてきた。職員どもが上を下への大騒ぎかと思いきや、終業後は人気がなかったぞ」

「末端の職員は不正とは無関係だし、ガサ入れが迫っていることも知るまい。悪い奴は悪い奴で、とっくに証拠湮滅しているさ」

 金属片の切断面はきれいだった。

「今さらの質問だが、どうやって切り取った?」

「爪だ」

 茨木は人差指の爪先で宙を切る動作を見せた。こいつの爪はすでに人体の一部ではなく、工具であり、凶器だ。

「金ノコや糸ノコが不要なら、職人として便利だな」

「吉野義光はますます偉大な刀鍛冶になるぜ」

「ほお。お前、刀鍛冶として生きていくつもりか」

「結構、面白そうだからな」

 茨木を追い出し、修復が終わるまで会わなかった。こんなに一つのことに没頭したのは、文学賞の応募作を執筆していた若い頃以来だ。

 この山銅の板を目貫の裏に入るサイズに切り、鑞付けするわけだが、目貫そのものを何度も加熱することを避けるために、銅板には先に根っこを鑞付けし、さらにそれを目貫へ鑞付けした。

 鑞付けに際して、目貫の表に蝋が回らぬよう、砥の粉を塗った。それでも、切断された目貫を接着させた境目は見えてしまう。それを表と裏から叩いてナラし、舞琴の衣服の部分なので、上から金と赤銅を着物の柄として象嵌することで、この傷を隠した。むろん、対となっている鬼との釣り合いもとらねばならない。

 他にも鑞付けの加熱で傷んだ部分を修復し、最後に色上げをすませ、作業は完了した。いうだけなら簡単だが、二日は完全徹夜し、三日目はダウンして寝てしまったが、起きてまた一日徹夜だった。

 すぐにも東博へ飛んでいきたかったが、風呂にも入っていなかったので、精進潔斎の意味もあって、シャワーを浴び、頭上の階に住む茨木童子を電話で呼び出した。

「終わった。出かけるぞ。車のキーを持ってこい」

「寝てないだろ。運転、大丈夫か」

「依吏子を連れ帰るのに、電車ってわけにはいくまい」

 アパートに隣接するコンビニで買ったおにぎりを口へ押し込みながら、吉野の車に乗った。いや、彼の家族の車だが、吉野が刀剣商に届けねばならない刀が何本かあるから、と借りる理由をでっちあげた。

 完成した目貫を見た茨木は、

「春明師の技には及ぶべくもないが、的は外していないな」

 素っ気なく評したが、それは最上級の賛辞といえた。