童子切り転生 第四回

童子切り転生 第4回 森 雅裕

 この日の東京宝塚劇場は昼公演だけで、夜には劇場前は閑散としていた。

 劇場と道を隔てる帝都ホテルのロビーで、私は娘の携帯に連絡した。伊上依吏子。養女に行った先の姓を名乗っている。彼女は宴会場を途中で抜けてきた。

「遅かったじゃない。くっだらないセレブどものパーティをどうやって抜け出そうかと思案してたわよ」

 娘役だから、女らしい装いである。金髪だが、和服姿だった。周囲の注目をかき集める佇まいだ。

「何のパーティだ?」

「歌舞伎の人間国宝がどうしたこうしたっていってたけど」

「いやなら出席しなきゃいいだろ」

「そうもいかないのよ。私たち、盛り上げ要員として、劇団の上層部から駆り出されるんだもの。政財界の御曹司とお近づきになれるメリットもあるけど、愛想振りまくのに忙しくて、料理も食べられやしない」

 東京公演の際、一部のスターはホテル暮らしだが、多くの生徒は恵比寿にある寮に宿泊する。だが、依吏子は東京に「実家」があるから、公演中はそこから通う。

「家には、帰りが少し遅くなるっていってあるけど」

「じゃ、そのへんに飯食いに行くか」

「着替えなきゃ。劇団が控え室がわりに借りてくれてる部屋があるから」

 彼女が身を翻そうとすると、男が一直線に近づいてきた。エレベータを降りた時から、異様な存在感を放っていた男だ。四十代初め。こいつ、見覚えがある。

「みやび心華さんでしたね」

 芸名で声をかけてきた。なるほど、御曹司というにはトウがたっているが、パーティに駆り出されると、こういう人種とお近づきになれるわけだ。

 文化庁長官・菊尾曜一郎。一見は見栄えするが、若くして抜擢されたエリートだけに、傲慢が服を着ているような人物だった。このエライさんもパーティ途中で帰るらしい。

「今日は楽しかったです。またお会いできるといいですね」

 何をいってやがる、と仏頂面した私には一瞥もくれず、菊尾は依吏子からまったく視線をはずさないまま、

「こちらは?」

 と訊いた。

「父です。挨拶が苦手で、申し訳ありません」

 さすが、わが娘である。菊尾の無礼こそを皮肉っている。ようやく彼が私に視線をくれたので、名乗ってやった。

「母里真左大です」

「お仕事は?」

「今、メインでやっているのは彫金です」

「というと……?」

「刀装具です。おわかりですか」

「ああ……。刀剣界は今、大変なことになってますね」

「そのようです」

 長く刀剣界に君臨してきた帝国芸術刀剣保存協会の不正をめぐって、内部抗争、分裂が起こり、監督官庁である文化庁を巻き込んだ騒動となっている。

「日本刀文化、存亡の危機ですな。協会は分裂して、日本刀伝統振興協会というものが新たに立ち上げられたんですね。母里さんはどちらに所属しているのですか」

「会費の安い方です」

「なるほど」

 なるほど、とは興味ない会話を打ち切る言葉である。

「では、また」

 菊尾は背を向け、秘書やら取り巻きやらを従えて、歩き去った。ロビーには腹立たしいほどのしらけた空気が残った。

「どうして、小説家だといわなかったの?」

「どんな小説書いてるのか、必ず訊かれる。答に困る。どうせ向こうは丁寧な返事なんか求めちゃいないだろうが、私は適当にあしらえない」

「あの人、うちらの公演も見に来てくれたわよ。政治家に宝塚ファンは珍しくないけど」

「トップスターの名前も知るまいよ。宝塚が好きな自分が好きなのさ」

「ひねくれてるなア……。じゃ、着替えてくるから待ってて」

 依吏子がエレベータに消えると、ロビーに座り込んだ私の視界に、茨木が飛び込んできた。美男の姿だが、服装が変わり、青年実業家風な爽やかさだ。

「おい。置いていきやがったな」

「ふん。よくここがわかったじゃないか。妖力か」

「帝都ホテルのパーティがどうだとかいっていたではないか」

「その格好は何だ?」

「途中で調達した。吉野の趣味はひどいからな」

 金を払ったのか、盗んだのか、敢えて尋ねなかった。

「鯉墨は怒り狂っていたか。電話したんだろ」

「警察に知らせたのかと訊くから、犯人の心当たりがあるからまかせとけ、と答えといた。強盗と格闘したなんていったら、根掘り葉掘りうるさいだろうから、留守中になくなったことにした。刀が歩いていったのかも知れない。さすがは神剣・童子切りでございますなーと笑ったら、あんたは頭がおかしいと罵倒された」

「だろうなあ。しかし、それで納得したのかな」

「安綱は自分の持ち物じゃないから、責任さえ逃れられりゃ、それでいいのだろう」

「悪いのは間抜けな吉野というわけか」

「俺は明日、協会へ行ってみる」

「電話だけじゃすまないもんな。鯉墨は俺もイベントで何回か会っているがね、ありゃ協会に巣食う利権野郎で、保身ばかり考えてる小心者だ。お前に多田神社へ急行して、土下座でもしてこいとわめくぞ。人を許す度量の大きさはない」

「許してもらわなくても、俺は別に困らぬ」

 まあ、こいつみたいな鬼には人間社会に恐いものなしだろう。

「勝手にしろ。何か手がかりがつかめるかも知れないな。吉野義光が童子切りを預かっていたことを頼光がどうして知ったのか――。多田神社の頼光廟が破壊されたという新聞記事があったな。あれによると、鯉墨は神社の所蔵品調査に出向いていたようだから、復活した頼光と接触している可能性もある」

「いやいや。そんなことより、俺としては、舞琴の目貫を捜索するために、協会に何か資料がないか、調べたいのさ」

「はいはい。私は止めないよ」

「ところで、お前の娘は?」

「あれだ」

 依吏子がロビーに現われた。カジュアルだが、隙のない服装だ。

「お待たせっ」

 派手な装いでなくても、どこか異彩を放つ娘である。私の傍らにいた茨木も呆然と見つめている。

 大体、姿勢がよすぎる。ボクサーも相撲取りもクラウチングスタイルが臨戦態勢だというのに、役者だけは背筋を伸ばすのが職業ポーズである。無防備だ、と文句をいいたくなる。……いわないが。

 依吏子は大変な早足で、

「さ。パーティの関係者に見つからないうちに、とっとと逃げましょ」

 先に立って歩き出し、あとに従う私と茨木をチラリと振り返った。

「……ところで、どなた? こちら」

「茨木さんだ」

「茨木……。薔薇のことね。なるほど」

「何が、なるほどだ?」

「魔夜峰央が描くところの、そっちの趣味の人みたいだもの」

 讃め言葉と受け取ったのか、茨木はうれしげだ。「そっちの趣味」の意味がわかっていない。

「その、魔夜……というのは月岡芳年みたいな絵師ですか」

「当たらずも遠からずかなあ……」

 この娘、ツキオカヨシトシって誰? と訊かないのだから、まずまず無教養ではない。

「私、宝塚歌劇団花組のみやび心華です」

 芸名を名乗った。

 茨木はまだ気が抜けた表情で、呟いた。

「信じられない」

「は……?」

「舞琴にそっくりだ」

 おいおい、と私は嘆息した。

「平安の時代にこんな顔立ちの日本人がいるか」

「はるか昔、海の向こうからやってきた鬼の祖先たちは黄色い髪、青い目の巨人だったという。俺も舞琴もそうした血を引いているのだから、平安人の容貌とは異なるのも当然」

「いっておくが、わが娘が金髪なのは役柄のためだ。まあしかし、酒呑童子にしても、丹後に漂着したシュタイン・ドッチというドイツ貴族の名前が転訛したものという説があるくらいだからな。私には笑い話としか思えないが」

 依吏子が屈託なく、

「月岡芳年だの酒呑童子だの、茨木さんは美術史の先生?」

 そう訊くと、茨木は喜色を浮かべた。

「心華さんは酒呑童子の伝説を知っていますか」

「ああ。逸翁美術館で見たことがあるなア。現存最古だとかいう重要文化財の大江山絵詞」

「ほお。勉強してますね。どこの美術館ですか」

「宝塚歌劇団創設者・小林一三先生の蒐集品を所蔵している大阪池田の美術館。宝塚の生徒は誰だって行きますって。でもあれ、甲冑姿の武将たちによってたかって切り刻まれてる鬼の表情が泣いてるみたいで、切ないんだ。だから覚えてる。えーっ、これが悪い鬼? てな感じ」

「うんうん。あなたとは話が合いそうだ」

「合わなくていいっ」

 私が叫ぶと、

「そんな話、もういいから、さっさとお歩き。こちとら腹ペコだよ」

 依吏子は私たちの真ん中に入って背中を押し、ガード下を銀座方向へ促した。

 

 銀座のビヤホールで、茨木はメニュー全品を食い尽くすほどの注文でテーブルを埋めた。

「お前、現代の通貨を持ってるんだろうな」

「心配無用。どうせ吉野の金だ」

「そういうことなら、私も追加注文するぞ」

 依吏子にも、遠慮するなと促した。いわずとも、食欲旺盛な娘である。

「心華さんは母親似ですか」

 しつこく、茨木は心華の容貌にこだわっている。

「パーツの一つ一つは父親似なんですけどね、トータルすると母親似かなあ」

「おかあさんはお元気ですか」

「たぶん。数年に一度しか会いませんけど」

 母親はニューヨークへ行ったきりのはずだったが、依吏子は私を見やり、いった。

「そういや、一時帰国してるみたいよ。こないだ電話あったもの」

「それでも、会おうとはしないのか」

「あの人、のほほんとしてて、再婚もせずに世俗から超越してるっていうか、あんなの見ると、何かくやしいんだよね。そろそろ人生のツケを払ったかなと会ってみると、ちっとも老けてないしさ。姉妹ですかっていわれるもの。その点、おとうさんは順当にみすぼらしくなっていくんで、ほっとする。あはは」

「ほお。老けないおかあさんねえ……」

 と、茨木。

「宝塚はお金がかかるんじゃないですか」

「そういう意味じゃ、お金持ちの養女になったのは幸運でしたよ」

 依吏子は母親の弟夫婦の養女として育っている。

「この父親ともほとんど一緒に暮らしていません。学生結婚だったけど、父は学生寮に住んでいたし、大学卒業後もその日暮らしだったから、入籍はしても一度も同居なんかしてないんですよ。私はその間、母に育てられたけど、彼女が渡米したのは私が小学六年の終わり近くでね、卒業までの数カ月だけ、父に預けられました。その後、中学入学と同時に叔父夫婦の養女に入りました」

 初対面の相手に身の上話をする娘とは思わなかった。茨木の妖力のなせる技か。

「ジェンヌのプライバシーは公開しない決まりだろ」

 私は割って入ったが、茨木の切れ長の双眸は意味ありげに光っていた。

「よほど魅力的なおかあさんなんでしょうね」

 そういわれりゃ、私も肯定せざるを得ない。

「大学でも屈指の美形だったからな」

「今日、私が着てた着物もおかあさんのお下がりだったのよ。おばあちゃんからおかあさんへのお下がり。気がついた?」

「知るかよ」

「大学の卒業式で着たらしいわよ。覚えてないか。女の衣裳なんか興味ないものね、あなたは」

「女にもよるさ。卒業式は覚えてる。袴姿の女が多かったが、彼女は普通に着物姿だったから、異彩を放っていた。紫っぽい色だったとおぼろげに覚えているが、柄はまったく記憶にない。私は黒のスーツで――」

「聞いてない。それは」

 舌を噛みそうな名前のサラダを豪快に、しかし上品に食らう依吏子を、

「ふうん。着物を着ていたのか」

 茨木が目を細めて、楽しげに見つめた。

「見るな」

 私が足を蹴ると、茨木は微笑を崩さず、目だけに怒気を浮かべ、いった。

「母娘三代に着物を伝えるなら、しっかりした家柄らしい」

 私への皮肉か。そりゃまあ確かに……子供の頃に一家離散し、親兄弟、親戚一同と絶縁した私のような根無し草とは違う。そういう嫁だったが。

 

「いい娘だ」

「わかってる」

 依吏子と別れたあと、茨木は勝手に納得していた。

「やはり、俺を引きつけるものがお前の行手にあった」

 私と茨木は新橋から都営地下鉄に乗った。高砂へは直通一本だが、夜はうんざりするほど混む。

 周囲に聞こえる会話はしたくないが、茨木は声に指向性を持たせることができるらしく、ダイレクトに私の耳へ入った。私も小声だが、鬼の耳には問題なく聞こえるようだ。

「母里さん。お前の年齢から計算すると、学生時代に心華さんは生まれてるな」

「私も嫁も大学四年の夏だった。芸大生はマメに通学しないし、夏休みも長いから、彼女の妊娠に気づく同級生もいなかった。卒業前、嫁は単位が足りなくて、教官に直訴した。就職も決まってるし、結婚もしたから、卒業できなきゃ困ります、と。教官も毎年、そんな学生はお馴染みだ。嘘ついちゃいかん、子供でもできたというなら話は別だが、と口走ったものだから、じゃ、私の赤ちゃん連れてきます、ということになった。うちの娘は生後六カ月で芸大の門をくぐった女さ。学友たちは、あれは誰の子かと驚いていたよ。結婚したことは別に内緒というわけじゃなかったが、個人主義の強い学校だから、お披露目もしなかったんだ」

「その美人嫁の卒業式の衣裳もはっきり覚えてないとは、アーティストの風上にも置けない」

「金具なら覚えてるぞ。帯留の金具。今日の娘は卒業式の時の母親と同じ帯留を使っていた。北斎風の美人図だった」

「待て。何といった?」

「卒業式の母親と同じ――」

「図柄だよ」

「北斎風の美人だ」

「そいつ、見たいものだな」

「お前の探し物は目貫だろ。河野春明作の」

「これは博識の母里真左大とも思えぬ言葉。明治九年に廃刀令が出ると、用なしとなった刀装具は帯留や煙草金具に転用された」

「そんなことは先刻承知だよ。特に芸者衆は客の刀の刀装具を『契りの証』として、帯留に作り替えて用いた。だがな、私の娘をお前の千年越しの恋人探しに巻き込むな」

「俺と舞琴は互いに引き合う運命だ。心華さんの帯留が舞琴の魂が宿る目貫を改造したものだとしたら、俺が出会ったことは偶然ではない」

「お前、地球は自分中心に回ってると思っているだろう」

「この世には自浄作用が働く。人間が間違った方向へ暴走する時、それをリセットするために鬼が復活する。そこには地球の意志が作用する」

「間違った方向とは、どういうことだ?」

「現代社会は健全とは思えないぜ」

「おや。でかい話が始まるのかな。小さなことにこだわらず、大きなことは考えない。それが私の方針だが」

「手近なところでいえば、日本刀文化が存亡の危機。違うか」

「吉野の記憶から見つけたデータか。正確にいえば、帝国芸術刀剣保存協会が危機なのさ」

 刀剣団体はいくつかあるが、帝刀保は全国に支部を擁して、最大の規模と権威を誇り、鑑定書の発行を大きな財源としてきた。市場に流通している日本刀は、この鑑定書がついているのが当然とさえ見なされている。

 鑑定書には数種類あり、最高ランクの鑑定書がつけば、刀の値段は跳ね上がる。そこで、協会幹部と刀剣商が結託して、凡刀あるいは偽物に最高の鑑定書をつけ、高価で売り飛ばすことが恒常的に行なわれてきた。こうした不正を告発した職員が馘首されて裁判沙汰にもなっている。

 文化庁は、是正するよう幾度となく行政指導し、国会でも取り上げられたのだが、協会はのらりくらりと逃げ続けた。面子をつぶされた形の文化庁は絶縁を決め、それまで後援してきたコンクールや研修会などのイベントからも手を引いた。協会と持ちつ持たれつだったはずの職人たちの諸団体も離反した。

 今のところ財団法人と謳ってはいるが、平成二十五年に始まる制度改革では、公益法人の認定は絶望的だ。一般財団法人なら認可される可能性はあるが、税制の優遇措置が低くなり、長年にわたって築き上げた「億」単位の資産も吐き出すことになる。

 かわって、文化庁が後ろ盾となったのが、協会に造反した職員と職人団体が立ち上げた日本刀伝統振興協会、略して刀伝協である。こちらはすでに公益法人の認定も受けている。しかし、資産がなく、財源となる鑑定書発行も行なっていない。幹部たちが持ち出しで運営している有様だ。

 当面、帝刀保が商売団体、刀伝協が職人団体という棲み分けが行なわれているが、いずれ帝刀保が解散に追い込まれたら、その資産は類似目的の公益法人に贈与することになるので、引き継ぐのは刀伝協という目算もある。それまでの辛抱というわけだ。

 どちらの協会が生き残るのか、どちらに与すれば得なのか、天秤にかけている刀剣関係者も多い。私などは刀装具を作るとはいっても、プロと見なされていないから、両方の関係者と交際しても日和見と批判されることはないが。

「しかしなあ、芸大の出身者として思い知らされたことだが、美術や音楽も公明正大ではないし、作家として、文学の腐敗も実見した。新人賞は応募者の顔写真で選ぶ。もっと大きな賞になると、男であれ女であれ、審査員が身体を要求することも珍しくない。そんなところで生き残るのは詐欺師みたいな作家ばかり。だがね、娘とその仲間を見ると、演劇もカネとコネの力はたいしたものだと実感する。日本刀の世界だけが悪党どもの温床となっているわけじゃない。いや、文化芸術ばかりか、すべての業界が滅茶苦茶。もっと根本に目を向けるなら、この国の教育がすでに狂っているんだよ。少なくとも、私が出会った教師のほとんどはロクデナシだったからな。このデタラメな世を掃除してくれるなら、頼光でも鬼でも拍手喝采したいところだ」

「お前……」

 茨木は憐れみを浮かべた。

「そんなに人を批判ばかりしていて、むなしくないか」

「何をいいやがる。私は自分が経験したことしか批判しないが、吉野はもっと病的だ。妄想で人の悪口いいまくるぞ。道ですれ違った知人が気づかずに挨拶しなくても、あいつは自分に反感持ってる、と解釈する奴だった」

「被害妄想は才人の常だ」

「まあ、むなしいとしたら、この性格では友達ができないことかな」

「だろうな。ストイックというか融通がきかないというか、頼光にも通じる性格だ」

「褒められた気がしないな」

「褒めてない。頼光は目的のためなら手段を選ばない。吉野をむごたらしく殺したことでもわかるだろう」

「鬼の方が人道的ってか」

「歴史や真実は権力者の都合がいいように歪曲され、善と悪は入れ替わる。遣唐使・吉備真備を救ったのは鬼と化した安倍仲麻呂の霊だった。まあ、この話は二人の足取りを考証すると無理があるが……。平安の漢学者・紀長谷雄に希望通りのサイボーグ美女を作ってやったのも鬼だ。百日触れなければ本物の人間になるはずだったものを我慢できずに抱いてしまったのは長谷雄ではないか。なのに、約束を破ったのは鬼とされている。理不尽だ」

 西洋の悪魔も同様だ。神は何もしてくれない。人間の願いをかなえようと契約してくれるのは悪魔である。そして、その契約を破るのはいつも人間の方なのだ。

 私はここは素直に茨木に同情した。

「異質なもの、理解できないものは排斥されるのさ。折口信夫は神・鬼同義説を唱えている。畏怖と侮蔑は紙一重だ」

 高砂に帰り着き、アパートの前まで来ると、物陰で立ち小便しているオヤジがいた。ここいらでは珍しいことではない。背後から蹴りでも入れてやろうかと思ったが、茨木の方が早かった。蹴ったわけではなく、そいつの尻のあたりを軽く叩いただけだったが――。

 オヤジは奇声を発し、踊るような足取りで、周囲を駆け回り始めた。性器を露出したまま。しかも、何としたことか、勃起させていた。勃起させたまま、小便を垂らしていた。

「何これ何これ、止めて止めて!」

 そう、悲鳴をあげていた。性器を仕舞おうにも、両手は高くバンザイしたまま動かせないらしい。足は勝手に踊っている。

 その勢いで、表通りへ飛び出した。通行人たちから歓声とも悲鳴とも罵声ともつかない叫びが湧いた。

「違うんだ違うんだ、助けて!」

 オヤジはなお絶叫し、恥ずかしいモノを露出したまま、半狂乱で駅の方へ――つまり、人通りの多い方へ走り去った。

 茨木はすでにアパートの階段へ向かっている。その背中に声をかけた。

「お前、何をした?」

「下半身を刺激しただけさ」

「人間をあんなふうに操れるのか」

「品性の卑しい人間は簡単に操れる。聖人君子では、そうはいかぬ」

「あのオヤジ、駅前交番の方へ走っていったぞ」

「留置場で一晩明かせば、下半身のあの状態はおさまってるさ」

「一晩……」

 品性の卑しいオヤジに同情はしないが、私は茨木を恐ろしいと初めて感じた。

 階段の途中で、彼はあきれるほど明るい声を発した。

「あ。それから、明日、俺は協会へ出向くが、お前も一緒にどうだ?」

 そう誘われたが、

「断わる」

 三階の踊り場で別れた。あいつ、茨木童子の若い姿のままだったが、私は黙っていた。四階の様子に耳をそばだてていると、彼が玄関へ入った気配のあと、しばらくして、またドアが開いたらしく、家族の悲鳴とともに、

「すみません、部屋を間違えましたあ!」

 茨木の声が階段に響いた。