童子切り転生 第三回

童子切り転生 第3回 森 雅裕

 翌日、私は吉野義光の部屋を訪ねるつもりだった。昨日のことは幻覚だったかも……。幻覚でなかったとしたら、吉野の家族に異変が起きているかも知れない。確認せねば。

 しかし、私は律儀な人間なのである。訪問の口実は何にしよう……。そんなことを悩みながら、結局は何も思いつかず、無為に時間を過ごしていると、チャイムが鳴った。

 借金取りに追われている私は、覗き穴を確認しなければドアを開けない。吉野だった。いや、茨木童子だった。鬼にしては礼儀正しいが、警戒しながら開けた。

「おう。待たせたな」

「別に待っちゃいないが」

「状況からいえば、俺に会いたいと思ってただろう」

 昨日の出来事は幻覚ではなかったらしい。

「吉野の家族は無事か」

「もちろん。俺の正体もバレていない」

「もともと吉野は奇人変人だったからな」

「破壊された部屋については、模様替えしていたら、一番でかい棚が派手に倒れたと説明した」

「それで信じるとは、なんと心の広い家族だ」

「吉野の家族は信頼関係で結ばれていたようだ」

「どうかな。鬼の通力で、懐柔したわけじゃなかろうな」

「ふふ。だとしたら、お前も自覚せぬうちに、俺に籠絡されているのかも知れぬぞ」

「それにしちゃ、私はお前に友情を感じないし、何か手助けしようとも思わないがな」

「そういえるのは今のうちだけさ」

「とにかく、家族が無事ならいい。私はね、出かけるところなんだ。お前は家族サービスでもしてろ」

「おや。どちらへ?」

「日比谷」

「千代田城の近くだな」

「人に会う約束がある」

「一緒に行く」

「何で、そうなるんだ」

「ついでだ。俺は上野の博物館にあるという『童子切り』を見たい。頼光が奪っていった安綱こそ霊力を持つ本物ではあるが、もう一本がどんな刀なのか、確認しよう」

「頼光の愛刀は一本とは限らない。東博の童子切りも本物かも知れんぜ」

「酒呑の血を吸った刀なら、霊力が宿っている。鬼の悲鳴が俺には聞こえる」

 興味深い話だった。私も上野へ同行することにした。

 

「鬼が電車移動するのか」

 私たちは京成線で上野へ向かった。ただし、改札では切符もパスモも必要なかった。駅員も自動改札も、通り抜ける私たちに反応しなかった。視覚にはとらえているのだろうが、それが脳に届かないようだった。最先端の機械もまた機能停止するらしい。

「この移動手段は釈然としない」

 私が首を傾げると、茨木は物珍しげに駅舎を歩き回ったあと、いった。

「吉野の車は家族が乗り回してる。貧乏なお前は車を持っていない。都内じゃ自由に停められない。タクシーより電車の方が早い」

「そういうことをいってるんじゃないんだが……」

「俺にしても、電車は初体験だ。楽しませろ」

「吉野の鍛錬場は新潟と岡山だ。一年の半分はそちらで仕事している。彼になりすますなら、嫌というほど電車に乗れるさ」

「江戸の昔に電車があれば、春明師はどこまで旅をしたことか」

 河野春明は本所柳島に住んだらしいが、家族、一門と不仲で放浪癖があり、「諸国に遊歴を好み、常に雲遊し蹤を止めず」と伝わっている。特に北越、東北を好み、滞在先での作品も多く残している。

「お前、河野春明とはどういう関係だ?」

「彼の娘と私は宿命の仲だった」

「その娘はどうした?」

「私の身体とともに彼女の身も滅んだ。あの時の火災で」

「安政二年の大地震か。春明の年齢から考えると、娘は若くなかったのではないか」

「いや。春明師が五十になってからの娘だ。すでに正妻とは離別していた」

「おい……。目貫は対になっている。お前の魂が鬼の表目貫に移ったなら、もしかして、裏目貫にはその娘が?」

「そういうことだ」

「その目貫はどうした?」

「対を揃えて、春明師が持っていたはずだが、いつしか引き離されたようだ」

「他人事みたいにいうが、お前自身のことだぞ」

「魂は休眠状態だったからな。目貫が破壊されるような危機に陥れば、目覚めもするが、あくまでも自分の身の上に限る。相手のことはわからん」

「春明は安政四年には死んでいる」

「漂泊の人だったから、家族とは絶縁。遺品がどうなったかはわからんな。鎌倉の方に数少ない友人がいるとも聞いていたが」

「鎌倉ねえ……」

 安政四年十二月、新潟で客死した春明の骨は翌年になって、亀戸の龍眼寺に葬られたが、供養する者もなく、のちに惣墓つまり共同墓地へ改葬されたという。従って、墓碑は現存しない。

「平安末期の鬼が江戸末期の娘と恋仲になるというのは、時代を超越したロマンというべきなのだろうか」

「いや。彼女も本来は平安末期の人間だったさ。源頼光の娘だからな」

「あ。何といった?」

「頼光の娘。名は舞琴といった」

「すごい話になってきたな。平安版ロミオとジュリエットかよ」

「舞琴の母は鬼の血を引いていたという」

「ほお。つまり、舞琴もまた鬼の血筋ということか」

「そして、俺は都の娘たちの憧れを独占した麗しき茨木童子だ。しかし、俺の気持ちは舞琴にしかなかった。頼光四天王の一人、渡辺綱のごときは怒り狂って、一条戻り橋で俺の右腕を斬り落とした」

 茨木は私の目前へ、右腕を突き出した。吉野義光という刀鍛冶のごつい手だ。

「俺が腕を取り戻した伝説は、芝居にも絵にもなっているだろう」

「刀装具にも彫られている馴染みの図柄だ。河野春明の鐔にも作例がある」

「俺と舞琴は丹波大江山へ逃げ、酒呑童子たち鬼族と一緒に暮らした。頼光の一党が舞琴を連れ戻すために襲撃してきた時、鬼たちは滅んだが、俺と舞琴は逃げのびた。舞琴には鬼の血が入っているし、鬼と交わった女は鬼と同様の生命力をも得る。そうはいっても、永遠の不老不死ではない。何百年もの間、俺たちは輪廻転生を繰り返した。すれ違うばかりで、再び出会うのは幕末だが……」

「一方の源頼光は英雄とはいっても寿命は人間。調べたところ、治安元年(一〇二一)七月に七十四歳で死んでいるが……」

「頼光は娘を取り戻すという怨念を抱き、多田神社で眠り続けていたのだ」

「ラブストーリーがホラーになったぞ」

「幕末に至り、転生した俺は会津松平家の江戸詰めで、武具奉行の配下だった。安政と改元された頃、松平家が安綱を買い上げ、その太刀拵の調達を俺が命じられた。『童子切り』だと直感した。神社から盗まれたものが、どういう流転をしたものか、俺の前に現われたわけだ。俺たちは引き寄せ合う宿命だから、そうなるのも当然ではあったが」

「太刀拵なら、金具の制作は河野春明に依頼したわけじゃあるまい」

「春明師は町彫りだし、太刀金具には専門の金工がいるからな」

「じゃ、お前と河野春明、そしてその娘との接点は……?」

「童子切り安綱だ」

「あ……?」

「長年放置されて錆身だった安綱は拵の制作と並行して、本阿弥本家の光仲に研ぎに出されていたが、この刀が舞琴にも触れることになった」

「どういうことだ?」

「本阿弥家の連中と春明師は親しくはなかったが、つきあいはあった。春明師の使いで、舞琴が本阿弥を訪ねることも珍しくなかった。そこに安綱が預けられていた」

「舞琴がそれに触れる機会があったというのか」

 現代のように誰でもが博物館で名刀を実見できる時代ではない。室町以来続く幕府御用の研磨師・本阿弥でさえ、大名家所有の刀は、隣の部屋から遠望することしか許されなかったという。

 しかも、研ぎ師は塵や埃が刀剣に傷をつけるのを恐れて、来客を仕事場に入れないものだ。そもそも、本阿弥ともあろう者が預かった刀を町娘ごときに触れさせるはずはない。普通なら……。

「本阿弥は童子切り安綱の霊力に操られたのさ。童子切りを舞琴の前に突き出した。刃ではなく棟で、舞琴の肩を軽く叩いただけだったが、その瞬間、電光が走り、本阿弥は我に返った」

「見ていたような話しぶりだな」

「見ていたさ。その時、俺も所用があって、本阿弥を訪ねていた。それが舞琴との八百年ぶりの再会だった。童子切りが引き合わせてくれたのだ。俺は会津松平家の家臣。舞琴は河野春明の娘。それぞれ名前は違っていたが、本人同士であることは瞬時に理解した。そしてまた恋仲となった。俺は春明師とも親しくなった」

「それはまあ感動的だが、世の中、禍福はあざなえる縄のごとし。童子切り安綱がお前や舞琴と接触したことで、遠く離れた墓廟で頼光が目覚めた……わけか」

「安綱の霊力に導かれ、頼光は娘の奪還のため復活した」

「源氏の英雄の娘が鬼の嫁では我慢ならないというのはわかるが、娘といっても、後世に転生すれば別人じゃないのか」

「別人とはいえない。鬼の血を引く者は前世の記憶を持っている」

「それにしても、すでに源氏の世の中ではないぞ。しかも頼光は怨霊だ。娘を連れ戻して、人里離れた秘境で暮らすとでもいうのか」

「そんな世をはばかる野郎かよ。頼光はいつの世でも、自分の世界を築き上げる力を持っている」

「迷惑な親父だ。いうことを聞かなきゃ、娘といえども成敗するってか」

「童子切り安綱の泥棒には多田神社内に手引きした者があった。そこからたどって、頼光は我々に迫った。頼光はわが主家から拵ごと安綱を奪い返した」

「大江山の鬼が滅ぼされたように、お前たちの周囲に厄難が降りかかることになったか。だが、お前たちだって、頼光の復活を予感していたなら、手をこまねいていたわけじゃあるまい。あの目貫だ」

「春明師は俺と舞琴の姿を写した目貫を作ってくれた。婚姻の引き出物というわけだが、その材料は俺が上州雙林寺で入手した山銅だ」

「雙林寺?」

「曹洞宗の巨刹で、左甚五郎作の門前小僧が夜ごと山門から抜け出したという伝説がある。住職が片腕を折ったところ、出歩かなくなったというその像は、今も片腕を失った姿で残っている。角こそないものの、どう見たって、こいつは鬼の形相だ。その昔、この寺は鬼をかくまっていた。鍛冶師、精錬師としての鬼だ。彼らが作った山銅を求め、春明師に託した」

「その山銅にもまた鬼の通力が籠もっていたわけか。一つ疑問がある」

「何だ?」

「河野春明は、お前が茨木童子で、娘が舞琴だと説明されて、信じたのか」

「お前、自分が信じられないことを春明師が信じたのか、疑問なんだろう。河野春明はお前が私淑する金工だからな」

「江戸時代とはいえ、春明は無教養な男じゃないぞ」

「むろん、いきなりは信じなかったさ。頼光が現われ、俺たちが殺されるまで、半信半疑だっただろう。一度も娘を舞琴とは呼ばず、自分が命名した名前で呼んでいた」

「当然だ」

「だが、俺は遺言を伝えておいた。俺たちが死ぬようなことになったら、目貫を俺たちと思ってくれ、いつかまた復活できるから、と。春明師はその言葉に従って、目貫を守った。お前よりはロマンを解する男だったな」

「いつかまた転生して恋人と再会できるなら、目貫に逃げ込む必要もなさそうだが」

「童子切りで命を奪われた者は転生しないのだ。大江山で殺された酒呑童子以下の鬼たちも転生していない。あれ以来、この国から鬼は激減した」

「で、頼光は目貫のことは知っているのか」

「晩年には気乗りしない仕事なら手抜きした春明師がいやに真剣に目貫を作っていたこと、弟子が頼光に密告したからな。下図も見ただろう。それがどういう意図で作られたものか、頼光は察したはずだ。だからこそ、頼光は春明師をも襲おうとした」

「偉大な芸術家を狙うなんて、とんでもない野郎だ」

「当時はもう全盛期を過ぎて、仕事の多くは弟子にまかせ、本人は遊興三昧だったけどな」

 春明がやたらと旅行しているのは、無頼の徒と交流したためにトラブルが多く、江戸にいられなくなったためだという説もある。

「俺と舞琴は手に手を取って逃げようとしたが、そこへあの大地震だ。春明師が心配で、そこら中が燃えている江戸市中を師が住む本所柳島へ向かった」

「まさか、お前たちをおびき寄せるために地震と火事が引き起こされたんじゃあ……」

「平安の頃には天変地異は怨霊の仕業と恐れられた。頼光は怨霊の仲間入りしたわけさ」

「地震と火災の修羅場で、茨木童子と源頼光が衝突するアクション場面となったか」

「結果、俺と頼光は差し違えた。俺は童子切りで刺し貫かれ、頼光も満身創痍。我らの間に入ろうとした舞琴も巻き添えとなった。だが、春明師は脱出できた。江戸を離れ、二年後に新潟で死んだ」

「ふん。そして、頼光はわがまま娘を手にかけて、呆然自失か」

「業火に包まれた俺と舞琴の身体は灰になり、あとには焼け身となった童子切りが残ったが、新作の拵は焼失した。霊力が減衰した頼光は江戸を離れるのが精一杯で、もはや春明師を追う余力はなく、焼け身を携えて多田神社へ戻った。神社の伝承では、童子切り安綱が自ら戻ったことになっているが」

 私のような理屈馬鹿は、辻褄が合えばそれでよしとしてしまう。「鬼の」身の上話であることは疑う理由にならない。超常現象も現代科学も、私には同程度の信憑性しかないのだ。

「厄介だな。茨木も舞琴も滅びていないことを頼光は知っているわけか。そして、今回の復活でも娘を探し求めている……」

「ほお。理解はしたようだな」

「裏目貫の行方が問題だな。表目貫からお前が抜け出したように、裏目貫に安綱が触れれば、舞琴が抜け出すわけだ。お前、博物館で刀を見ている場合か。目貫を探さなきゃあ……」

「東博にも童子切り安綱がある。舞琴が蘇るには霊力が必要だ。本物の童子切りなら霊力を持つはずだ」

「おい。本物なら、どうするつもりだ? 天下の東京国立博物館から盗み出すのか。小龍景光を盗んですり替えるという有名作家のトンデモ小説があったが、人間の犯行なら嘘っぽいのに、鬼の仕業となると、可能に思えるから妙なものだ」

 我々は京成上野駅から公園内を縦断した。噴水広場の向こうに見える博物館は霞んでいるように遠い。博物館動物園駅の廃止に抗議したくなる。

 茨木が歩くにつれ、いたるところから鳩が飛び出し、上空へと逃げていく。上野の鳩は餌やりが禁止されて以来、激減しているのだが、まだこんなに残っていたかと驚くほどの数だ。

「頼光の目的は舞琴の奪還だけでは終わらないかも知れぬ」

 茨木は呟いた。

「今の世には、強欲と頽廃が満ちている。頼光は嘆き、怒るだろう」

「それで……?」

「頼光は源氏の英雄だ。彼なりの強烈な正義感を持っている」

「まさか、世直しを志すとでもいうのか。それはそれで、支持したい気もするな。腐った果実は根こそぎ捨てる。爽快だろうよ。天変地異が操れるなら、手っ取り早いのは大地震だ。この都会は一旦、灰燼に帰さなければ、掃除もできない。明暦の大火だって、江戸の都市計画のために幕府が放火して一切合財を焼き払ったという説があるくらいだ」

「下層階級の自暴自棄な発想だな。お前にだって、守りたいものがあるだろう」

「きれいな女が何人か……。しかし、私が守らなくても、誰かが守るさ」

「現代社会を壊滅させ、天地創造をやり直すのも有効だが、それじゃあ『神』にも負担が大きすぎるから、そいつは最後の手段だ。頼光は直情径行ではあるが、有能だぜ。ぶっこわすよりも利用する。なんとかとハサミは使いよう。それが上層階級の考え方だ」

 茨木は冷たく、いい放った。

「ただし、お前のことは利用するにも値しないと、頼光は考えてるだろうぜ」

 

 上野公園の北側に敷地を広げる東博は、隣接する東京芸大の学生だった頃から、私には馴染んだ場所である。かつて、ここの工芸課長だった人物にはいろいろ指導してもらったが、彼が定年退職して以降、私は入館料を支払う「客」として、ごくたまに正門から入るだけになっている。目当ては刀剣室しかない。

 連日、長蛇の列だという何かの特別展には見向きせず、私は本館の刀剣室へ直行した。

 童子切り安綱は貫禄充分の姿をガラスケースに横たえていた。反りのある日本刀として最初期の作だから、完成された機能美とはいえないが、霊力が宿るとしたら、こういう刀だと思えるオーラを放っている。

 が、吉野の姿をした茨木は冷たく眺めているだけだ。表情には何の変化もなかった。

「こいつが酒呑童子を斬った刀だとお……」

 声だけが笑っていた。

「違うのか」

「鬼の悲鳴など聞こえない」

「そんなものが聞こえたら、むしろ刀じゃないと思うがなあ」

「長命の生物や古道具には精霊が宿り、付喪神となるという。考えてみろ。平安時代の品物が身の周りにあるか。こいつは千年もの間、尊重されてきた名刀だから、それなりのパワーは秘めているが、童子切りではない」

 源頼光による酒呑童子討伐は南北朝の頃から各種の文献資料に登場するが、異同や混同が錯綜している。頼光の刀は「血吸い」で、渡辺綱の刀を「鬼切」と記録したものもある。元来、綱の佩刀は頼光から貸与された「髭切」だったが、他ならぬ茨木童子の腕を斬り落としたので「鬼切」と呼ばれるようになり、現在、北野天満宮が所蔵する重要文化財がそれだとする説がある。それもまた安綱の作で、何故か国綱銘に改竄されているという。

 この国綱とは別物で、北条時頼の愛刀であった「鬼丸国綱」という現在の皇室御物も存在する。「鬼切」
「鬼丸」の号を持つ刀は多いのである。

 また刀の号が変更されることも珍しくなく、源頼光所有の一振であった「膝丸(膝切丸)」は「蜘蛛切丸」「吠丸」「薄緑」と改名を繰り返し、渡辺綱の「鬼切」も「獅子ノ子」「友切」と変遷している。それに加えて、不勉強な研究者たちが曖昧な資料の孫引きを繰り返すので、何が何やら、手がつけられない錯綜状態になっている。

 とりあえず、源頼光の愛刀が安綱の作であることは室町初期には通説化していたようだが、これこそがその現物という触れ込みで今日まで伝来している安綱は東博所蔵の一本だけではない。

「お。正宗も展示してあるな」

 茨木は石田三成が結城秀康に贈ったという「切込正宗」に目を留めた。棟に敵の刀を受け止めた二カ所の切り込み跡が残る重文である。

「安綱ほどの迫力はないな」

「それでも、刀に興味のない者でも正宗の名前は知っている」

「ふん。時の権力が認めて称揚する芸術にろくなものはない」

「正宗は鎌倉、室町を通して格別の人気でもなかったのに、秀吉の時代に突然、評価が跳ね上がった。だから、恩賞や贈答用として、本阿弥や曽呂利新左衛門が共謀してでっちあげた名刀で、実在の刀鍛冶ではないという『抹殺論』が明治の刀剣界で論争の的となった。千年の歴史をくぐってきたお前なら、正宗の正体を知っているんじゃないか」

「情実や金次第で凡刀に高い格付けをする。本阿弥が日常的にやっていたことだ。そして、偽物を本物と鑑定するよりも刀鍛冶そのものを捏造すれば、もっと手っ取り早いと考えつくのは自然の流れ。世にある正宗の多くが無銘というのもミソだ。無銘に偽物なし。どう鑑定しようが見る者の勝手だ。犯罪ではない」

「正宗と極める目的で他工の在銘品を無銘に工作した場合には犯罪だろう。古いとされる相州物は慶長新刀をそのように加工した偽物が多いぜ。備前物と違って、相州物は時代をごまかしやすい」

「とはいっても、正宗はまったく架空の刀鍛冶ではない」

「南北朝の頃から文献に名前が見えるもんな」

「そうではない。俺は会ったことがある」

「……やれやれ」

 茨木はガラスケースに爪を立てた。何やら文字を刻んでいる。こいつの爪先はダイヤモンド刃みたいなものらしい。

「しかし、室町末期の村正の方が面白味のある人物だったな。奴は妙な宿命を背負っていた」

「刀鍛冶も輪廻転生するのか」

「そうそう。吉野義光の作風は備前伝だから村正とは異なるが、ひねくれた性格は通じるものがあるな。生まれ変わりだとしたら……」

「吉野が草葉の陰で泣くぞ。それじゃ、私にも前世があるのかよ。現世がその反動だとしたら、前世はとんでもない悪人で、さぞや酒池肉林の人生だった因果を感じるが……」

「悪人ではない。桁外れのろくでなしではあったが」

 茨木はそれ以上いわず、正宗の前を離れた。ガラスケースには爪痕が川柳となって残っていた。

「本阿弥はいわしの値まで付けてやり」

 足早に刀剣室を出る彼と肩を並べ、私は呟いた。

「ろくでなしより悪人の方がよかったかな」

「そんな奴なら、俺とこうしてめぐり会うこともない」

「じゃ、なおさら悪人がいい」

 茨木は滑るような足取りで、私の前を歩く。吉野であれば、椎間板ヘルニアを患っているので、俯き加減になる癖があるのだが、そんな様子はない。健康そのものだ。振り返らずに、いった。 

「ここの安綱は酒呑童子を斬った実物ではないが、このあたりには何やら妖気が漂っているな」

「博物館や美術館は芸術の墓場だ」

「そういうことではなく……」

「もともとは寛永寺の境内だし、戊辰戦争の折には彰義隊が壊滅した場所だからな。そこら中、亡者の怨念だらけだろう」

「楽しい場所だ」

 博物館を離れ、上野駅へ向かう茨木の周囲から、鳩もカラスも猫も逃げていく。どういうわけか、犬はじっと彼を見つめるだけだ。幼稚園以下の子供は笑顔さえ作って見送っている。こいつ、案外、善良なのか。

「母里。日比谷で人に会う約束だといっていたな」

「お前、私と一緒に出歩いていないで、目貫でも童子切りでも、その行方を探したらどうだ?」

「予感がするのさ。お前の行手にある何かが、俺を呼び寄せようとしている」

「気のせいだと思うぞ。私は娘に会うだけだ」

「娘? 吉野の記憶にはお前の娘に関しては何もない」

「彼女が子供の頃に離婚して、私とは一緒に暮らしていないからな。中学の三年間なんて、一度も会ってないくらいだ。吉野も私の娘には会ったことはない」

「歳は?」

「二十七……かな」

「仕事は?」

「舞台に立ってる。本拠地は関西だ。頼光が東京を滅ぼすなら、娘があっちにいる時か地方公演中にして欲しいな。今は東京公演で、日比谷の劇場に出ている」

「ほお。女だけのマニアックな劇団があるらしいが」

「東京公演の時には、食事くらいするようにしている」

「では、今日も公演か」

「公演後、帝都ホテルで何やら派手なパーティに呼ばれているらしい。途中で呼び出す」

「それは楽しみだ」

 振り向いた茨木の顔が変わっている。吉野とは似ても似つかぬ美形だった。しかも、若い。身体の線も細く変化していた。角は見えず、そこいらのイケメン俳優よりも凄みがある茨木童子の美しさだった。

 私は立ちすくんだ。足を止めない茨木とたちまち距離が開き、吐息を吐き散らしながら追いかけ、文化会館の前で肩を並べた。

「どうして、その姿になる!?」

「美人と会うなら、こちらも釣り合いを考えねば」

「考えて、どうするんだよ。まあ、確かに美人だが、娘とは口をきくな」

「ふん。俺はな、平安の昔、都の姫たちを魅了した鬼だぞ」

「だから、お前には一緒に来て欲しくない」

「いっておくが、お前が長いこと家賃滞納していても追い出されないのは、吉野の情けだぞ。お前以外の誰もがこの俺を吉野と信じている。俺が出ていきやがれといったら、路頭に迷うってことを忘れるなよ」

「心得ておくよ。しかし、今のお前が吉野義光でもあるなら、やることがあるだろう。預かっていた刀を盗まれたこと、報告したのか。再刃の話を持ち込んできたのは協会理事の鯉墨寿人だろ」

「面倒だな」

「電話くらい入れとけ」

 奴のポケットには吉野の携帯がある。そいつを取り出し、操作する茨木を置き去りに、私は公園口の改札をくぐり、ホームへ急いだ。知り合ったばかりの化け物と友情を育むほど、私は博愛主義じゃないのだ。電車には一人で乗った。