抜けた鬼鍾馗 一覧

抜けた鬼鍾馗 第六回

抜けた鬼鍾馗 第6回 森 雅裕

 それから数日後、心春はすみ花の演奏を聴くために音校の第一ホールまで足を運んだ。

 さすがに作業服では場違いなので、ごく普通にオーバーシャツにスカートという出で立ちだった。ただでさえ、美校生でありながら普段から練習室を借りている異分子なので、音校内で目立つのは遠慮したい。

 公開試験ではあるが、雛壇となっている客席に陣取るのは学生仲間がほとんどだった。すみ花はお洒落ではあるが派手ではない育ちの良さを感じさせるワンピース姿でステージに現れた。伴奏者は天浪鈴ノ介。

 曲目はベートーヴェンの協奏曲。大曲である。本来は三分もあるオケの序奏部分は短縮され、登場するヴァイオリンのソロはドミナント和音をなぞって上昇し、高音で第一主題を弾く。オケの伴奏であれば最高音あたりで木管とヴァイオリンとの間に不協和音が発生するのだが、ピアノ伴奏なら抵抗なく聴ける。それでも、すみ花は微妙に高音に寄せて処理していた。

(ピアノがうまいのか、すみ花がうまいのか……)

 第一楽章だけでも二十分以上かかるので、試験は適当なところでブツ切りである。

(あれっ。終わり?)

 気持ちよく聴いていたところで唐突に演奏が止まり、すみ花も伴奏者も一礼してステージから捌けてしまったので、心春は拍子抜けしたが、学生の実力は教官たちも普段からわかっているので、フルで完走する必要はないのだろう。

 他の学生たちの試験が続いているが、ひと段落したところで、心春はホールの外に出た。廊下ですみ花が学生仲間と立ち話していたが、心春が近づくと、目を見開いた。

「ど、ど、どーしたの、心春。ツインテールなんて」

 珍しく髪を左右に分けて結んでいる。とはいっても結び目はアニメやアイドルのような高い位置ではなく、耳のうしろである。

「試験とはいえ、客席に座るから違和感ないようにしてみた」

「ステージから客席に可愛いすぎる子がいるのは気づいてたけど、ポニテに作業着やジャージ姿を見慣れてるから、誰かと思ったよ」

「ツインテールというより、おさげ、だよ。ちょっと高めに結んでるだけ。ポニテは頭をうしろに引っ張られるから疲れるのよ」

 心春とすみ花のそんな会話に割り込むように、学生たちの間から声が上がった。 

「いっそ、ショートにしても似合うと思うけれども」

 すみ花の伴奏者だった天浪鈴ノ介の屈託ない声だった。いきなりこんなこという男には冷ややかな視線しか向けない心春だが、

「申し訳ない。差し出がましいことをいいました」

 と、電光石火で頭を下げられたので、むしろ恐縮してしまった。この男と心春が言葉を交わすのは初めてである。

「いつもうちのすみ花がお世話になってます」

 彼はそんなことをいった。心春も負けじと、

「こちらこそ。うちのすみ花が御迷惑おかけしています」

 そう返した。天浪鈴ノ介は鷹揚に微笑む。ノリの軽い男らしいが、自信ありげに胸を張っている。

「奈良さんについては色々噂を聞いています。イケメンが嫌い、リア充が嫌い、空腹だと機嫌が悪い」

 心春がどう切り返そうかと迷っていると、イケメンの天浪君は学生に囲まれ、離れてしまった。なかなかの人気者であり、音校はアンサンブルの授業などで横のつながりがあるため、美校とは違い、一匹狼の傾向は(表面上だけでも)薄いようだ。

 心春はそんな学生たちを見送りながら、すみ花に背を向け、いった。

「空腹だから機嫌を良くしに行くよ。来る?」

「うん。空腹じゃなくてイケメンのせいで機嫌悪いんだよね、やっぱり」

「ついでにいっとくと、私はあんたみたいなぶりっ子も嫌いだよ」

「相性ってさ、好きとか嫌いとか関係ないよね」

 すみ花はヴァイオリンケースを背負い、上機嫌でついてきた。すれ違う学生に手を振って愛嬌を振り撒き、ぶりっ子の本領発揮だが、見る者を脱力させ、フヌケにしてしまう破壊力がある。

 ごく最近「芸大さくら通り」と呼ぶことになったらしい、キャンパスを横貫する旧「屏風坂通り」を渡って音校から美校に入り、美術館併設の食堂へ向かう。学食は音校にもあり、美校より高級なイメージが昔からあるようだが、父の左絵門は「んなこたぁねーよ!」と語気を強める。あまりいい思い出がないらしい。父の在校当時とは経営する業者もかわっているが、客種はお嬢様が多い音校の方が上品な雰囲気ではある。心春が多く利用するのは当然、美校である。

「あの人、いい伴奏だったじゃない。時々、突っ走りそうになるけど、ちゃんとあなたの意図を酌んで、合わせてくれてた」

「ソリストとしてもたいした実力なんだよ。コンクールで『うますぎる』という理由で上位に入れなかった人だから」

「うますぎる? クラシックらしい理由だね」

「もはやプロの個性であり、面白さであって、今さらコンクールでもないだろうというのが審査員の先生方の言い分」

「なんだそれ」

「でもねぇ、それまでは普通のピアノ科の学生だったんだけどね。急にうまくなった」

「ふう……ん」

「私の伴奏をやってくれるようになったのはわりと最近なんだけどね。彼がうまくなったのはそのおかげかも」

 すみ花は罪もなく笑った。

 鬼神展の看板が出た正面入口前に並ぶ行列を横目に美術館を回り込み、学食の入口をくぐる。

「ヴァイオリン・ソロに入る時、声が聞こえた……ような気がした」

「声? 誰の?」

「ベートーヴェン」

「わお。何て?」

「短二度の不協和音を楽譜通り弾くヴァイオリニストはほとんどいない。皆、低音に寄せる。お前は楽譜通りに弾け、と」

「はあ。それで?」

「反抗して高音に寄せた。AisをAではなくHに。旋律の流れ的にはその方が気持ちいい。そもそも、自然倍音列の管楽器が鳴り響いてるオーケストラや平均律のピアノ伴奏に純正律のヴァイオリンを合わせるのが無茶な話なんだから」

「ベートーヴェンに逆らうとはたいした度胸だけど、あの大先生が日本語しゃべったの?」

「ドイツ語だよ。と、いいたいところだけど頭の中に直接伝わってきたから何語かはわからない。でも、ベートーヴェンだと直感した」

「ベートーヴェンもまたヨーロッパの鬼の名簿に載っていたとしてもおかしくない怪物よね」

「こういう話を疑いもせずに受け入れる私たち……。なんか変だね」

「あなたも鬼に語りかけられる女だってことよね」

「子供の頃から時々あるんだ、不思議な声が聞こえる。親にいうと叱られるから黙ってたけど。でも、ヴァイオリンの先生だけは『そういう声はちゃんと聞きなさい』とアドバイスしてくれた」

「んん? あなたのヴァイオリンの先生は母親じゃなかったの?」

 すみ花は音楽家の両親のもとで育ち、母親はヴァイオリニストだったと聞いている。その母親はすでに故人らしいが、現在は著名なヴァイオリニストを芸大で担当教官としている。

「母には最初の手ほどきを受けただけ。母は不思議な体験を理解しなかったというより、へんてこな私を心配してたって感じかなあ」

「私の家も母なら心配してくれ、父は笑い飛ばすって感じかな」

 心春も幼い頃から不思議な体験は時折あったが、歴史上の音楽家の声を聞いたことはない。いや、偉大なギタリストに実際に会い、声を聞いたことはある。まだ彼女がギターを始めていなかった小学校入学の頃、お茶の水の楽器店へ母と一緒に行き、ちょうど「その男」が来ているというので、馴染みの社長が案内してくれたのである。ボサボサ髪で、目力の強烈な初老のギタリストだった。怖い人相を崩し、心春に声をかけてくれた。英語だったので理解できなかったはずだが、どういうわけか意味は直感した。当時は母の指導でヴァイオリンやキーボードに親しんでいる程度だったが、彼は「きれいな音で弾こうとするな」といったのである。心春がいずれプロのミュージシャンを志向することを予見していたのか。

 赤鬼のようなこの男が何者なのか、ずっとあとになって心春は知ったのだが、最後の来日を果たしたゲイリー・ムーアで、この翌年に急死しているのである。

「私もジミヘンの声とか聞きたいなあ」

「心春は彫金の学生でしょ。聞きたいのは加納夏雄の声じゃないの?」

 学食から目と鼻の先に夏雄の胸像が建っている。すみ花はその方向を指した。

 だが、テーブルに着き、食券番号が呼び出しパネルに表示されるのを待っていると、聞こえてきたのは岩本琴太郎の声だった。

「心春! お前、今度は何やった!?」

 心春を探していたらしく、彼は食堂に現れるなり、憤慨と困惑と苦笑の混じった叫びをあげた。

「鍾馗が……あれっ、どどどーしたんだ、その髪」

「うるさいなあ。ポニテに作業着やジャージ姿を見慣れてるっていうんでしょ。で、鍾馗が何?」

「あ。今度は鍾馗が消えた。消えたぞ!」

「ん?」

「展示してあった鐔から鍾馗が抜け出て、行方不明だ」

 心春は興奮している琴太郎にかまわず、

「ところでさあ……」

 すみ花に尋ねた。

「声をちゃんと聞けとアドバイスしてくれたヴァイオリンの先生って何者?」

「もともと母に教わり、母の友達のヴァイオリニストにも可愛がってもらってたけど、母が亡くなってからはその友達に教わったのよ。アドバイスしてくれたのはその人」

 すみ花は難関の芸大に入るくらいだから、幼少時からヴァイオリンはやっているはずで、入学前には複数の指導者についていたわけだ。子供の頃の先生の名前まで心春は気にしていなかった。オーケストラの団員だったという母親の名前は聞いたが、畑違いの心春が知っている名前ではなかった。その母親の没後は母親の友達に習ったのか。それは……。

「交換ノートも書いてたんだよ」

「交換ノート?」

「うん。子供の頃だけどね。その人も若くして亡くなっちゃったから」

「じゃあ、その人って……」

「もしもし。心春!」

 心春があわてるでもなく食券の呼び出しパネルを見ているので、琴太郎が語気をさらに強めた。

「美術館、見に行く状況だろ、これ」

「御飯ができるのを待ってるんだよ」

「いいからっ。飯くらいあとで奢ってやるよ」

「あ、そう」

 心春が立ち上がると、すみ花も腰を浮かしながら、傍らに置いたヴァイオリンケースに手を伸ばした。

「そちらは弦の学生か」

「私の仲間」

 仲間という言葉には色んな意味があるが、岩本琴太郎は何か直感したのか、

「じゃあ君も来い」

 女たちをせわしなく外へと促し、彼は先に立って歩き出した。 

 美術館と図書館の間にある照葉樹林の前にキッチンカーが停まっていて、今風の小洒落たランチを売っている。

 伴奏者の天浪鈴ノ介が学生仲間とそちらを覗いて、メニューを選んでいる様子だったので、心春とすみ花は駆け寄り、

「これ食べていいよ」

 食券を押しつけた。心春はバター豆腐定食、すみ花は日替わり定食だった。鈴ノ介は反射的に受け取り、戸惑いながら、すでに背中を向けている女たちに声を投げた。

「ありがたいけど、何をあわててるんだ?」

「鍾馗さんがいなくなった!」

「は?」

 鈴ノ介は意味を理解したのかしないのか、叫び声をあげたが、心春たちは彼の表情は見ていない。

 大股で歩く琴太郎を追い、学生証を水戸黄門の印籠のごとく掲げて美術館に入り、三階の展示室に上がって、ガラスケース越しに「元」鬼鍾馗鐔を見た。鬼も鍾馗もいなくなった殺風景な鉄鐔だ。質素な橋桁と橋脚がむなしく残っている。

「うわあ……。随分すっきりしちゃったわね、この鐔」

 心春は両手で頬をはさみ、驚きの表情で、琴太郎に訊いた。

「いつから鍾馗さんは消えてるの?」

「学芸員が気づいたのは今朝だが、もっと前から消えていたのかも知れん」

「のんきなもんね」

「お前が何かやらかしたのでないなら、何が起きてるんだ?」

「何が起きてるのか。あるいは何が起こるのか……」

 一般の見学者たちが「ほらほら。あれえ。なんだこれ」と押し寄せてきたので心春は鐔の前を明け渡し、展示室を歩いた。やや離れたところに、すみ花が見つめている展示物がある。月岡芳年が描いた巨石をバックにした美女の姿絵だ。

「これも妖怪?」

「九尾の狐が変化した玉藻前という平安美女。朝廷軍に討たれて殺生石に姿を変えた。その殺生石を打ち砕いたのが玄翁という坊さん。ハンマーを玄翁と呼ぶのはその故事が由来らしいよ」

 以前、土生鐘平に見せられたのは図録に縮小された印刷物だったが、実物はモノクロの下絵とはいえ、その前を素通りできない異様なオーラがある。

「へええ。九尾の狐かあ……」

「私たちには身近な妖怪かもね」

「私たち?」

 そんなやりとりをしていると、琴太郎がのんきな声で割り込んだ。

「この絵の影響を考えて、鐔とは離して展示したんだが、同じフロアじゃ意味なかったか」

「封印のための和歌も覆輪もとっくになくなってるんだから、芳年の絵がここにあろうがなかろうが関係ない。むしろ鍾馗が今まで抜けたかったのが疑問よ」

「じゃ、どうして今になって抜けたのかが気になるところだな。鍾馗も誰かに憑依するのかな」

 琴太郎は心春を探るように見つめた。

「私じゃないわよ」

「どこへ行ったのか、お前なら気配くらい感じるんじゃないかと思ったが」

「獲物の痕跡を何日も追いかける狩猟民族じゃあるまいし……。とりあえず、またどぶさんに報告しなきゃね。鐔が殺風景になりましたって」

「はぶさんだ。しかし、報告は俺の役目なのかな」

「あの人、岩本さんを信頼してるよといってたやん」

「しょーもないことは覚えてるんだな、お前は」

 心春は展示室をしばらく歩き、すみ花と視線をぶつけ合った。

「ここから南へ何かが飛んでいった……ような気がする」

 心春の言葉にすみ花も頷いた。

 周囲を見回すと、琴太郎はいつの間にかいなくなっている。美術館の職員に呼ばれて展示室から出たらしい。心春は別の世界を見ているような目つきだったが、我に返った。

「あ。しまった。奢らせる約束だったのに逃げられた」

 心春はたちまち不機嫌になる。

「こうなったら、天浪鈴ノ介君に渡した食券の代金を回収しよう。食堂へ行く」

 歩き出すと、すみ花は笑顔でついてきた。

「心春ちゃんって妙にセコいところあるよね」

「焼肉定食から焼肉抜けばライス単品と同じ値段で味噌汁とお新香がついてきてお得だと計算する生活してるのよ。自分が花の女子大生だということも忘れるわ」

 しかし、学食に鈴ノ介の姿はなかった。アテがはずれた心春が仏頂面を作っていると、顔見知りの音校の学生たちが、そんな心春に怯えたように身じろぎし、教えてくれた。

「天浪なら俺たちに食事譲ってくれたよ。イワシは苦手、豆腐も苦手とかいって……。大豆がダメらしい。アレルギーなのかな」

 心春が買っていた食券はバター豆腐定食。かつて芸大に存在した大浦食堂の名物だったバター丼を後継の学食である芸大食楽部が受け継いだリニューアル飯である。オリジナル版はバター丼とはいいながら、豆腐ともやし(金がある時は肉を追加)をバターではなくマーガリンで炒め、醤油で味付けして丼飯にぶっかけたものだったが、リニューアル版は名前通りバターを使い、ライス別盛りになっている。

 すみ花の食券は本日の日替わりで、イワシのトマトチーズ焼き。イワシに下味をつけて小麦粉をまぶし、オリーブオイルを熱したフライパンで蒸し焼きにして、トマトとチーズとパセリをのせたものである。

「天浪君、変だなあ。以前は豆腐もイワシも平気で食べてたけど」

 と、すみ花が呟いた。

 心春は食事中の学生に尋ねた。

「で、彼は御飯も食べずにどこ行ったの?」

「さあ。虎の吼えるのが聞こえるとかいってたけど……。わけわかんないことをいうのは珍しくない奴だから」

「虎が呼んでるとでもいうのかな」

 芸大は上野動物園に隣接しているので、図書館で象の鳴き声が聞こえたりもするが、虎の咆哮は心春には聞いた覚えがない。

「行ってみようよ、動物園」

 すみ花が心春の袖を引っ張ったが、

「なんでよ。めんどくさい」

 心春は空腹だと機嫌が悪い。動くのも面倒になる。

「美術館から何かが南へ飛んでいったんでしょ。動物園の方角だよ」

 そういいながら、すみ花は人差指を立て、宙空を指した。

「聞こえない?」

「カラスの鳴き声くらいしか……」

 いいかけた心春だが、窓の外に視線を泳がせた。学食の喧騒に混じり、猛獣の息づかいが聞こえた。激しく響き渡るような咆哮ではない。

 他の学生たちは何事もなく食事を続けているので、心春とすみ花以外には聞えないようだ。

「行こう」

 と、すみ花が先に立って歩き出した。

 美校の教務では、学生に動物園の通行証を貸し出してくれる。名目上は動物写生のためということになっており、一枚で二人まで有効だ。すみ花はヴァイオリンケースを背負っているので、写生目的には見えないのだが、その通行証を持って、心春とすみ花は都美館の裏通りから動物園へ向かった。

 すみ花は遊び気分なのか、うれしそうだ。心春は公園内を食べ歩く家族連れを恨めしく睨みながら、いった。

「知ってる? 鬼はイワシと大豆が苦手なの」

「ふうん。そうなのか」

「焼いたイワシの頭を柊の枝に差して鬼除けにするし、節分には炒った大豆を投げつけるからね。でも、鬼はイワシと大豆が好きだという逆の説もある。結局は伝説や習慣の牽強付会よ。鬼が虎柄パンツをはいているのも虎が好きだからという解釈があるし、好きなら殺して皮を剥がないだろうという反論もある」

「それが天浪君とどう関係するの?」

「彼も私たちも虎の声が聞こえる」

「親近感が湧く?」

「さあ。敵対心かもよ。私たちはイワシも豆腐も食べるんだから彼と同類じゃない」

「同類とは、つまり鬼の仲間ということ?」

「最近、急にピアノがうまくなったといってたよね」

「うん。彼とは芸高(東京芸大付属音楽高校)からのつきあいだけど、人が変わったみたいなんだ。この半年ほど……」

「何かが憑いたように、か」

 鐔から抜け出て一時は岩本琴太郎に憑依した鬼のナカマロが今度は天浪鈴ノ介に……。だとしたら、彼は求めるものを見つけたのか。

 心春は並んで歩くすみ花の楽しげな横顔を見やった。なんだか切ない気分になった。

抜けた鬼鍾馗 第五回

抜けた鬼鍾馗 第5回 森 雅裕

 夕食のための食材を買い込んで帰宅すると、左絵門は改造したヘッドルーペのライトを試していた。

「明るすぎない?」

 心春はそうはいったが、まったく見向きせずに父の傍らを通り過ぎる。左絵門は出来映えに満足しているのか、上機嫌で応えた。

「照度は調整できるようにした。年とると明るくしなきゃ見えねぇから将来に備えてる」

「将来には、自作しなくてももっと優秀なヘッドルーペが売られてると思うけど」

「そんな他力本願という言葉は俺の辞書にはない」

「へええ。実体顕微鏡をくれるって人もいるけど、それじゃいらないね」

 金工の中には手元を拡大するために双眼実体顕微鏡を使う者もいる。ヘッドルーペなど比較にならない数十万の高額機器だが、他界した金工の遺品整理で心春に形見分けの話がある。心春は何度か試させてもらったことがあるが、靴の上から足を掻くような感覚で、馴染めなかった。慣れの問題ではあるだろうが、彼女にはぜひとも欲しいものではない。

「いや。俺は人の好意は素直に受けることにしている」

 左絵門がそういった時には、心春はその場にいない。持ち帰った食材を台所に置き、自室へ入った。

 棚の奥から子供の頃の荷物を引っ張り出した。忘れていたタイムカプセルともいうべき、長いこと眠っていたリングノートだ。表紙にペタペタと幼女趣味のシールが貼られている。幼稚園の年長さんの頃、母から渡された交換ノートだった。小学校に入っても続けた。高学年になると書き込みが減っているが、母が亡くなるまで続けている。

 表紙を開くと中の一枚目だけは透明なビニール製のポケットになっていて、カードなど収納できる。年月を経て破れたポケットは粘着テープで何度も補修されていた。そこに入っているのは銀の薄い彫金板だ。母親が入れておいてくれたものである。

 現代的なローラーで均一に伸ばしたものではなく、きれいな四角形でもなく、叩いて整形した板なのだが、古いものらしく細かい傷も多い。破れた箇所は裏から薄い銀板をあてて蝋付けされている。ここに九尾の狐がいた。裏からの打ち出しと片切彫りと毛彫りの技を駆使し、父の左衛門が彫刻したものだと聞いている。

 スイレンかガザニアのような長い花びらが重なる中に獣の姿がある。幼い頃は花に囲まれた犬かと深く考えもせずに漠然と思っていたが、花びらに見えるのは尻尾で、流麗にデザインされた九尾の狐だ。この狐は口を開けている。動物を彫る際には口を閉じている方が簡単である。しかし、それでは迫力も表情も出ない。この彫刻の印象が口の大きな狐が喧嘩に強いという通説と結びついていた。

 隅にはドクロと肋骨が小さく毛彫りされており、旧字の「寿」の文字を肋骨に見立てているのは結構なセンスだが、これが何を意味するのかはわからない。作者の変わり銘かとも思えるが、左絵門の銘ではない。

 全体がくすんだ彫金板だが、その底には輝きが潜んでいる。純銀は経年変色するので、銀製品には混ぜ物や加工が施されたものもあるが、黒ずんでいるのは純銀ということだ。純銀とはいっても、純金に比べれば価値ははるかに低い。金が雌、銀が雄だとすれば、これは雄の妖狐ということになる。

 ノートの文面を見ると、文中のあちこちに人や動物やハートマークを描き交えながら、幼い文字が無秩序に並んでいる。

「あのね、こはるはなっとーたべないんじゃないんだよ。おなかいっぱいでたべられないのよ。むりにたべなさいといわないでね」

 五歳の心春が全文字ひらがなで弁明している。今は特に好き嫌いもない心春だが、幼い頃は納豆が苦手だった。

「すきなものばかりたべるからおなかいっぱいになるのです。どれもおなじようにたべてね」

 母もひらがなで応じている。

 小学校に入ると、漢字が出現し、成長するにつれて、勉強や人間関係の悩みが綴られるようになる。連続して書き込む日もあれば、何か月も間隔があくこともある。母はそれらにいちいち返事を書いていた。

 ノートは母と二人だけの秘密のツールだ。だが……ふと疑問が湧いた。兄弟姉妹が何人もいたなら、一人一人と母が向き合うために交換ノートは大切なアイテムだったかも知れない。だが、心春は一人っ子である。このようなコミュニケーションの取り方が必要だっただろうか。

 夕刻から心春は餃子作りを始めた。母が作る餃子のタネは豚肉、野菜というノーマルなものから納豆、チーズ、ツナ、明太子、エビ、キムチ、梅干しなどの変化球まで多種多様だった。冷蔵庫にある食材の一掃セールだともいえる。

 そこまで多彩なラインナップではなくても、色々工夫できる餃子作りは心春も好きだ。黙々と作業を続ける。ショウガはおろして入れると風味が強くなりすぎるので刻んで入れる。母のやり方だ。

 具材を皮に包んでいると、左絵門が通りかかり、調理台を横目で見て、いった。

「お前、子供の頃はひきわり納豆あまり好きじゃなかったよな」

「かーちゃんは小さな子供にはひきわり納豆が食べやすいかと思ったみたいだけどね。今は丸大豆なら食べるようになった。でも、餃子に入れるには丸大豆は大きい」

「お前が餃子作るのは母親を思い出してる時」

「食材対戦よろしく」

「こんなに大量に作ったことにも気づかず、どんな考えごとしてるんだ?」

 調理台を見れば、百個以上が整然と並んでいる。

「はああ……」

 吐息とともに心春は時計を見やった。下準備からどれだけ時間をかけたことか。

「交換ノート覚えてる?」

「ええと……そういや、かーちゃんとお前、そんなことやってたかな。中身は知らんが」

「一人っ子なのに、なんで交換ノート?」

「文字を覚えたばかりの年長さんは手紙を書きたがるもんだ。お前とかーちゃんの場合はそれが交換ノートだったのよ」

「彫金板に九尾の狐を彫ったのはとーちゃんでしょ」

「うーん」

「忘れたの?」

「昔の仕事は忘れるのが精神衛生のためだ」

「仕事じゃないよ。交換ノートにはさみこまれてるんだよ」

「それは俺が彫ったというより修復したといった方が正確かな。古くて傷だらけの彫金板で、もとからあった彫刻はつぶれてたから」

「初めて聞いた」

「戦時中の金属供出で隣組の組長がうちから色々と強奪していった中に混じっていたらしい。金工の家だから目をつけられていたんだ。それで曽祖父さんが取り返してきたのよ。やくざの親分とも親しかった人だから、隣組も拒否できなかったんだろう。だけど、傷だらけにされていた。貴金属も色々あったから、隣組の組長がつぶして着服しようとしたんじゃないか。そのまま何十年もうちに置いてあったのをかーちゃんが引っ張り出してきて、俺に修復させた。裏から打ち出して、彫刻も補足した」

「じゃあ、ドクロに肋骨の変わり銘は……」

「もともとの彫刻の作者だ。肋骨が寿の旧字になってたろ。察するに奈良利寿の銘ではあるまいか。貴重なものだからこそ、供出から取り返してきたのよ」

「九尾の狐はもとからの画題だったということか。なんで九尾の狐を彫ったんだろう?」

「江戸の名人が考えることなんか、知らんよ」

「それをなんでかーちゃんは交換ノートにはさんでたんだろう。私はただのデコレーションくらいに思ってたけど」

「お守りにしたいんだといってたような気がするな。そのつもりで心をこめて、金と銀の板に九尾の狐を彫り直してくれ、と」

「金と銀?」

「金工の家だから金や銀の素材がそこらに転がっていてもおかしくはないが、あの古くて汚れた板にこそ意味があったんだよ」

「いやいや。金の板ってどういうこと? 銀板だけじゃないの?」

「金と銀の二枚だったと思うが、俺の記憶をアテにするな」

「金は? 金はどこにあるの?」

「あの頃からすると、金の値段は何倍にもなってるから、地金としてもひと財産だよなあ」

「金銭の問題じゃなくて、誰が持ってるのかが気になるのよ。もしかして、もう一冊、ノートがあるってこと?」

「あれっ。そういうことになるのかな」

 複数の子供とのコミュニケーション・ツールとしてならば、交換ノートは理解できる。

「私に姉妹はいない。でも、親戚はいるよね、たぶん」

「俺の方はいないが、母方はどうかな。金工としての奈良派は一大勢力で、江戸期を通して派生した流派も多い。血がつながる分家もあった。しかし、現代でもそうした家系が続いているのかどうか、俺はしがない婿養子だから知らん。かーちゃんは知っていたかも」

奈良派が続いた何百年の間には分家支流もあるし、血流が絶えて養子が継ぐこともあっただろうが、現在の奈良本家とは交流が絶えている。奈良家に親類縁者が皆無ということはなかろうが、これまた心春がすぐに思い出せるほどの交際はない。

 左絵門は親戚づきあいにまったく興味がない男で、自分の親や親戚とも関係断絶しており、子供の頃の品物は何もない。写真もないし、小中高の卒業証書すら残っていない。持っているのは大学の卒業証書のみ。極貧だった若い頃に親戚中から爪はじきされたらしい。

「どこかに私以外の奈良家の血を引く娘がいて、鬼はその子を求めているのかも」

「つかぬことを伺いますが、お嬢さん。鬼って何の話だ?」

「例の鬼鍾馗の鐔に封じ込められていた鬼が抜け出して、キンタロウに取り憑いてた。今は行方不明」

「あらま」

 左絵門は娘が素っ頓狂なことを言い出すのは慣れている。

「芸大は昔とは様変わりしたとは感じていたが、とうとうお化け屋敷になったのか。もともと魑魅魍魎が跋扈する伏魔殿ではあったが」

「奈良派には利寿という名人がいて、前妻の子が利寿の二代目を継ぎ、後妻の子が奈良本家に嫁いだ……。そうだよね」

「奈良家に伝わる伝承だが」

「本家とは別に、二代利寿の子孫が現代に至っている可能性はあるわけだ」

「仮にそれがお年頃の娘だとしてだ、しかし、その娘とお前とどこが違うんだ? 同じ利寿の末裔だぞ」

「同じじゃない。奈良利寿の前妻というのは鬼が嫁に欲しがった奈良利永の娘なんだから、その血筋とか面影を求めているのかも」

「そりゃまたロマンチックな話だ」

 心春は餃子をフライパンに並べながら、唸るように呟いた。

「金と銀……」

 心当たりはなくもない。京都では、鬼にまつわる場所を訪れた時に異変が起きた。心春一人ではなく、すみ花が一緒だった。あの娘もタダ者ではないことは察していた。もしや、あの子は……という予感はずっと前からあったのだが、追究することに積極的にはなれなかった。

「あー。もうめんどくさいっ」

 それが理由である。

 

 それから半年は大きな騒ぎも起こらずに過ぎた。だが、妙な噂は流れた。

 会津坂下町には阿倍仲麻呂神社という小さな社があるが、地元の若い無名の刀鍛冶のもとに「ナカマロ」と名乗る男が現れ、作刀を手伝ってどこへともなく消えた。それはコンクールで特賞を獲得する驚異的な出来だった。刀鍛冶は阿倍仲麻呂神社の御利益と考え、奉納するために御神剣の制作を始めたという。

 奈良県桜井市にある安倍文殊院は安倍一族の氏寺が現在地に移転したもので、安(阿)倍仲麻呂の坐像が安置され、歌碑も建てられているが、この地の刀鍛冶の家族が難病に冒された時、夢枕に「ナカマロ」が立ち、お前の娘を安倍文殊院の金閣浮御堂に参拝させよと告げた。それに従うと、一時は医者も見放した患者だったが、奇跡的に恢復した。

 一方では逆の話もある。ガタガタの鞘しか作らないくせにコンクールの審査員をつとめ、出品者に「丁寧な仕事を心がけてください」と講評する鞘師、古物商の免許も持たずに刀剣ブローカーとしての売買に精を出す刀鍛冶、普段は刀作りなどしていないのにイベントには参加してキーホルダーの銘切り実演で小遣い稼ぎする刀鍛冶、既存の鉄を材料にしているのに「自家製鋼でやっています」と看板を掲げる刀鍛冶、某国の博物館で学芸員をつとめたという触れ込みの自称日本刀スペシャリストなどが、出世や商売繁盛を祈願してこれらの社寺を訪ねても何の御利益もないという。それどころか、帰路で交通事故や泥棒被害に(ダメージは少ないが)遭ったりするらしい。

 いずれも噂の発信源は刀剣関係者であるが、父と二人でそんな情報に接して、心春はなんだかうれしくなった。

「ナカマロはなかなか筋の通った鬼のようね」

「どうかな。御利益があった連中は共通点を持っている。家族に妙齢の妹や娘がいる」

「ナカマロが嫁に欲しいと申し入れてきた?」

「そこまで些細な噂は伝わってこないが、その娘たちが結婚したという話も聞かない。地方に鬼が切望するような奈良家の血筋が伝わっているとも思えんし」

 左衛門と心春は「うーん」と同時に唸った。

「お望みの花嫁候補は見つからんかあ」

「会津や奈良に鬼が現れたのはあくまでも阿倍仲麻呂ゆかりの地だからであって、嫁探しではあるまい。しかし、鬼のナカマロ君は若い娘に甘いようだ」

「しょーもない奴……」

 筋の通った鬼だと感心したことを後悔した。

 

 こうして、しばらくは平穏な学生生活が続いた。心春は大学生でありながら遊ぶ習慣がない。出歩くよりもギターを弾いていたい。練習しながらギターを抱いて寝落ちしてしまうくらいだから、身なりに気を配ることもない。

 とはいっても、心春の学生としての本分は彫金だ。学校は集中力を切り替える場所でもある。ただ、木工・金工棟と彫刻棟が隣接する区画は工場か工事現場みたいなもので、学生も埃や火花を浴びてもかまわない格好をしているから、身なりの切り替えはないようなものだ。

 楽器演奏は膨大な反復練習の積み重ねであり、精神的な負担も少なくないのだが、彫金の作業中は頭の中が空っぽになり、雑念に悩まされることは(あまり)ない。聴覚と視覚という感性の違いかも知れない。金工棟で過ごす時間はホームに帰ったような、他では得られない安心感がある。彼女の根っ子はここにあるのだった。

 そんな場所で、心春はタガネを削っていた。タガネの基本的な種類は決まっているが、先端部分は使用者が目的に合わせた形状に削って加工する。焼きが入ったタガネはヤスリで削れない。ホルダーにタガネをセットして、円盤状の研ぎ機で削るのが教育機関では一般的らしいのだが、職人育ちの心春は研磨力の大きなベルトグラインダーで手っ取り早く削る。回転するベルトに当たるタガネの先端がどう削れているかは見えない。ホルダーなど使わず、指先の感覚でタガネがベルトに当たる角度を調整する。心春にしてみればあたりまえの工作なのだが、こうした勘が働かず、自分でタガネを作れない学生もいる。

 工作機械が並ぶ作業場を出入りしていると、異質な何かが視界の隅をよぎった。

(……?)

 見やると、才喜すみ花だ。吹きさらしのような広い間口の屋根の下へ笑顔を振りまきながら入ってきた。

「本来の専攻科目にいそしんでる心春の姿も新鮮でいいね」

「お嬢様が来るところじゃない。何してるのよ?」

「美術館に展示されてる不思議な鐔を見に来た」

 芸大美術館では予定通り「鬼神展」が開催されている。鬼が抜けた鬼鍾馗の鐔も展示され、図録には異変前の写真と異変後の写真が掲載されており、テレビの埋め草的なニュースに取り上げられたこともあって、見学者は「へええ。これかあ」と足を止めるが、会場を出ると何を見たかも忘れた足取りで「さて、何食おうか」と去っていく。そんな平穏な展示期間が続いていた。

「抜け出た鬼はナカマロと名乗っているらしいよ」

「抜け鬼」について心春が知る限りを話すと、すみ花は「ふーん」と唇を尖らせた。

「心春の奈良家は鬼と因縁がある家系なんだね。抜け出る前の鐔の写真見たけど、鬼さんの顔見たら悲しくなっちゃったよ」

「江戸時代にしては表情が面白いよね。私も人物や神仏の彫刻では顔に力を入れる。現代の顔だと批判する人もいるけど、そりゃそうだよ、私、現代人だもん」

 教室にすみ花を誘い、置いてある荷物から小さな桐箱を取り出した。

「あげる」

「えっ」

 小さなペンダントが入っている。 

「私だよね、私だよね。うれしいっ」

 銀製のペンダントトップはヴァイオリンを手にしたすみ花の姿をデフォルメした丸彫りで、裏に心春の刻印を打ち、市販のチェーンをつけている。顔の部分は五ミリにも満たないが、小さくても人物の表情を彫ることには自信がある。

「凄いなあ。心春って人間離れしてるよね。ホモ・サピエンスじゃなくホモ・モンストローズというやつかな」

「褒め言葉と受け取っとく」

「受け取れ受け取れ」

 すみ花は抱きついてきた。芸大生は個人主義が強く、仲間意識をあまり持たず、醒めている者が多いので、珍しい感情表現だが、違和感がない。これがこの娘の常人ではないところだ。

 金工棟の出入口へ向かうと、外に人影が見えた。心春とすみ花が作業場と教室の間を移動するにともない、物陰にちらちら見えていた男子学生だ。心春と目が合うと、距離があるのに笑顔で会釈した。

 怪訝な表情を作る心春に、すみ花が両手を彼の方に広げて、何者かを教えた。

「伴奏をやってくれてる天浪鈴ノ介君。美術館を一緒に見たんだけど、このあと二人で練習」

「ふうん。ピアノ科か」

 弦や管、声楽などの学生にはピアノ伴奏者が必要だ。学生各自が自分で探し、三拝九拝して頼み込むのである。

 天浪君とやらは愛想はよさそうな雰囲気だが、のんきに何やら飲んでいて、心春には近づかない。手にしているのは瓶ラムネのようだ。すれ違う女子学生がいちいち振り返るくらいで、見た目は悪くない。

「ちっ。ホモ・モンストローズには男子も寄ってきやしない」

「心春が怖いんじゃない? 心春はイケメンが嫌いで有名だし」

「別に好きでも嫌いでもないけど……」

 誰がそんな噂を流しているのかと問いかけた心春をすみ花は笑顔でさえぎり、細い身体を翻した。

「演奏試験、聴きに来て」

 美校の場合は年間のスケジュールに従って、いくつかの課題を制作し、そのつど教官たちの講評を仰ぐのだが、音校は年度末に公開の演奏試験がある。

 すみ花はスキップでもしそうな足取りで心春から離れ、金工棟につながる木工棟の前で、天浪鈴ノ介君とやらと合流した。ペンダントを見せられた天浪はにこやかに心春を振り返った。しかし、その時には心春は背を向けていて、見ていない。

抜けた鬼鍾馗 第四回

抜けた鬼鍾馗 第4回 森 雅裕

 土生鐘平は鬼が抜けた鐔を見ても馬鹿馬鹿しいと一蹴するでもなく、苦笑いを浮かべた。

「なるほど。抜け鬼か……。元禄の頃からおよそ三百数十年ぶりに解き放たれたわけか」

 六十過ぎだろうが、目に力があり、目鼻立ちがしっかりして、顔面の圧も強い。白髪頭をうしろで結んでいる。この髪型の男にろくな人間はいない。偏見であるが、幼い頃から父親にそう教えられてきたので、本能的に警戒してしまうのである。教育効果とは侮れないものだ。

 だが、その土生は心春に悪い感情は持っていないようだ。

「おお。奈良派の末裔とはあなたか。彫金よりも音楽畑で御活躍のようだね」

「活躍というほどでは……」

「いやいや。バンドやったり、あちこちのアーティストのレコーディングに参加したり、あなたは知る人ぞ知る注目株だ」

「あははは。その『知る人』は少ないですけど」

 しかし、土生は心春の音楽活動を知っているようだ。好意的な興味なら結構なのだが……。

「岩本さんから鐔の覆輪の下から和歌の金象眼が現れたと連絡もらった時、私も仕事で京都にいてね。実をいうと、ライブを見に行ったよ。覆輪を苦もなくはずすのはどんな人なのかと気になってね。圧巻というのはあのような演奏のことだな」

「いやいやいやいやいや……」

 ライブハウスで感じた視線の主はこの男だったようだ。しかし、心春にはほめられ耐性がない。苦手だ。逃げ出したくなる。実際、一歩下がってしまった。土生がこの場の主導権を握ってしまったわけである。しかし、単純な心春は罪もなくニヤついている。

「ギターやったり彫金やったり、脇道に逸れるのがもったいない……。そんな声もあります。ひとつのことに集中しろという意味でしょうかね」

 ライブの喧騒の中ですみ花が聞いたという声はこの男の声なのか。カマをかけると、土生は意味ありげに笑った。心春は続けて尋ねた。

「もしや……下鴨神社にもいらっしゃいませんでしたか。干支ごとの守護神が祀られている言社です」

「それであなたの誕生年がわかって、ワインを贈ったというのかね。当たりだ」

 あっさり認め、土生は丸いケースに入った方位磁石らしきものを見せた。「らしきもの」というのは、市販品ではなく手作り感があったからである。しかも古びている。

「これで、あなたがいる方向がわかった。殺生石のカケラで作られたコンパスだよ。戦時中、私の先祖はこいつに導かれて何度も命を拾ったらしい」

「殺生石……ですか」

 土生は薄い図録を鞄から取り出した。

「以前、うちの美術館で展示した時の図録だ」

 ページを開き、ひとつの絵を指した。

「これは私の個人的な所蔵品だが……」

 急降下する二羽の雁と岩の前に立つ和装の美女の図だった。水墨でスッと描いただけの簡素な絵だが、独特の個性と雰囲気がある。

「月岡芳年の『新形三十六怪撰那須野原殺生石之図』の下絵だよ」

「しんけいさんじゅうろっかいせんなすのがはらせっしょうせきのず……?」

「よくいえました。本来は浮世絵だから世間に流通しているのは摺り物だが、これは芳年の直筆だ。絶世の美女に変化した平安時代末期の九尾の狐『玉藻前』(たまものまえ)を描いている。落ちる雁は殺生石の毒気でやられたのだろう」

 平安末期、狐は玉藻前という名の宮廷婦人として鳥羽上皇の寵愛を得たが、上皇の命を狙ったという話もあり、陰陽師にその正体を見破られて、宮中から出奔。下野国那須(現在の栃木県那須町)で朝廷軍に討たれて、巨石に姿を変えた。しかしその石は毒を発生させ、人や生き物の命を奪い続けたため、殺生石と呼ばれるようになる。この土地は古くより温泉地として知られ、付近一帯は火山性の有毒ガスが噴出し、怪しげな溶岩が点在していた地域である。殺生石の言い伝えは、こうした自然現象がもたらしたものと考えられいる。

 十四世紀末、那須にやって来た名僧・源翁が、呪いを解くため、殺生石を三つに打ち砕いた。石片の一つは会津に、もう一つは美作に飛んで、最後の一つは那須に残った(安芸・越後・豊後など諸説がある)。それ以来、妖狐の魂を鎮めるために、那須では毎年五月に御神火祭と呼ばれる夜の儀式が行われている。たいまつを持った参加者たちが那須温泉神社から殺生石へと向かい、金毛狐の面と白装束をまとった太鼓奏者が焚き火の前で太鼓を叩く。現在では無病息災と豊作を祈る行事でもある。九尾の狐の伝説は能や歌舞伎などの演目にもなっており、松尾芭蕉も元禄二年(一六八九年)に当地を訪れ、「おくのほそ道」に記している。

「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂、蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す」

 現在ではガスの噴出量は減り、鳥や動物が死ぬようなことはない。今なお祀られる殺生石だが、二○二二年三月初め、真っ二つに割れているのが発見された。ひびに染み込んだ水が凍結したために割れた自然現象と考えられているが、SNS上には

「悪しき九尾の狐が復活する」と恐れる投稿が相次いだ。そこで、那須町観光協会は三月末、割れた殺生石の前で「殺生石九尾狐慰霊及びに平和祈願祭」を執り行っている。

 心春には伝奇的な物語は彫刻のモチーフにすぎない。アカデミックな現代の彫金作家はあまり取り上げないテーマであるから、奈良派の末裔である彼女は異質かも知れない。

 一方、土生は興味津々という口ぶりではあるのだが、不思議なほど感情が伝わって来ない。

「この芳年の絵も芸大美術館の鬼神展に出展する予定だ。美術館に預けて、今は資料室の金庫に仕舞われている。鐔とこの絵は金庫の中で密閉されていたわけだ。鐔の金象眼の和歌が消えたのは絵の妖力ではないかと思うね。すぐれた芸術家と作品には鬼神や妖怪の力が宿るものだ。芳年が描いた玉藻前が呪文の和歌を溶かして封印を解いた」

 心春の前にあるのは絵の実物ではなく図録に掲載された玉藻前である。縮小された墨一色の印刷物であっても、芳年の画力は感じる。美術館に展示したくなるのも当然だ。

「鐔と一緒に展示するわけですか。鐔と絵は、混ぜるな危険では?」

 心春がそういうと、琴太郎がお気楽に告げた。

「展示は前後期に分かれているから、絵は前期だけだ。展示場所も離す予定だよ」

 さらに土生も、

「展示中止にするには理由が曖昧すぎる。まあ、美術館が爆発するわけでもあるまい。それはそれで見たい気もするがね。ともあれ、九尾の狐も鬼神展の企画にかなう。違うかね」

「妖怪も鬼神も一緒ってわけですね」

「日本らしいだろ」

 と、琴太郎。

 心春は口元を尖らせて思案顔だ。

「月岡芳年には鍾馗と鬼の絵もあったと思うけど」

 心春にしてみれば、そっちの方が興味がある。単なる嗜好だが。

「摺り物の浮世絵ではなく貴重な直筆だからこの殺生石の下絵を展示するわけだよ」

 琴太郎はそうはいうが、この絵には九尾の狐の姿は描かれていない。巨石の傍らに復活した玉藻前を描いており、説明がなければ妖怪画とはわからない。

「月岡芳年の怪異シリーズは妖怪や鬼神そのものを描くのではなく、隠し絵のように表現して、それを見る人間の驚きを描く傾向がある。『新形』という表題は芳年が病んでいた『神経』に掛けたものとも考えられている」

 と、解説したのは土生だが、心春は聞いておらず、殺生石のコンパスを見ている。

 殺生石がなぜ心春に反応するのか。この場でも北ではなく心春を指している。コンパスを持つ手を左右に動かしてみたが、針の向きは彼女に固定されている。

 不思議そうな心春の様子に、土生が当たり前のように、いった。

「それはあなたが変態だからだよ」

「喧嘩売ってます?」

「凡庸ではないという褒め言葉だ。音楽でも変態系と呼ばれるジャンルがあるでしょう」

「複雑怪奇な楽曲や演奏ですけど……それって人間の場合は褒め言葉なのかなあ」

 変態でもいいが、それがコンパスが彼女を指向する理由だとは納得できない。

「土生さんって……月岡芳年の妖力がこもった絵を持ち、殺生石で作られたコンパスも……どうしてお持ちなんですか」

 コンパスを土生に返し、変態視線で睨んだが、土生もまた強い眼力で跳ね返した。

「お嬢さん。吉備真備を知っているかね」

「最近、昔の人の名前をよく聞きます」

「私の遠い先祖だ」

「ふへええ」

 思わず、間抜けな相槌を発してしまった。教科書に載る偉人の子孫だと称する人物はあちこちにいるようだから、鵜呑みにしたわけではない。あまりにも昔の人物なので、実感も乏しい。

「真備に関わりのあるものは私のもとにやってくる。そんな宿命のようだ」

「あっ……。吉備真備の帰朝には九尾の狐が同船していたという話もありますね」

「よく御存知だ。中国では恐ろしい妖怪として扱われる九尾の狐だが、日本に渡ると愛すべきキャラクターへと換骨奪胎していく。鬼もまた人間に災いをもたらす悪の象徴から祀られる対象に変化する。日本は妖怪には住みやすい国なのかも知れないね」

 中国の九尾の狐は人を食う妖怪とされる反面、天下泰平を象徴する瑞獣・神獣でもあるが、様々な物語があり、中国やインド、朝鮮、ベトナムの君主の美しき妃となって、裏側から政治を支配してきたことにもなっている。

 それが日本に渡ってくると、玉藻前なる美女に姿を変えて鳥羽上皇を惑わしたという物語が生まれる。玉藻前の正体が狐であったという物語は、十四世紀に成立した「神明鏡」にすでに見られる。しかし、室町時代の「玉藻前物語」では尾が二本ある七尺の狐という描写であり、九尾の狐とは言明されていない。玉藻前すなわち九尾の狐となったのは江戸時代以降で、殷王朝の悪女を代表する妲己(だっき)が九尾狐と見なされ、玉藻前はその後身であるとする物語が人口に膾炙する。だが、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」に善玉である九尾の狐が登場して以降、愛すべきキャラクターへと次第に変貌していく。現代ではむしろサブカルチャー化して、純朴なイメージを持つ霊獣として商品化さえされている。

「吉備真備は阿倍仲麻呂の生霊である鬼とは切っても切れぬ仲……ですね」

 と、心春。土生は唇の端だけで笑った。

「腐れ縁というやつかね」

 口調は柔らかだが、いかにも教養人らしい自信をのぞかせている。

「十二世紀初めに書かれた『江談抄』が仲麻呂の鬼伝説の発端らしい。吉備真備の一度目の遣唐使派遣は阿倍仲麻呂と一緒だった。高齢となって二度目の入唐を果たした吉備真備の前に現れた鬼は、前回、帰国できずに餓死した阿倍仲麻呂の怨霊と書かれているが、仲麻呂は餓死などしていないし、生きて真備ら遣唐使を接待しているので、いつのまにか生霊ということに修正されたようだ。さらに筆写や転載を重ねて、誤謬が発生し、不正確な伝奇物語が広まることになる。『江談抄』にある伝奇的説話を十二世紀末に絵巻物としたのが『吉備大臣入唐絵巻』で、現在はボストン美術館所蔵だ。鬼になった阿倍仲麻呂や空を飛ぶ仲麻呂と真備の姿が描かれている。ところで、阿倍仲麻呂は日本に帰国していたという話もある。紀貫之の『土佐日記』、平安末期の『今昔物語集』、唐の正史である『旧唐書』、『新唐書』などにそうした記載がある。むろん、仲麻呂は唐で客死しており、帰国した史実はない。ならば、帰国したのは仲麻呂の生霊すなわち鬼だったのではないか」

「はあ。なるほど」

 心春はそういうしかない。

「当時の海路は大冒険だ。吉備真備は鬼に守られて帰朝したという。それが仲麻呂の化身なら、二度目の帰国時ということになる。一度目の帰国の翌年に天然痘の大流行が始まっているが、それが疫鬼・疫神がもたらしたものだとしても仲麻呂の鬼とは無関係というわけだ」

「まあ、そりゃそうでしょうね」

 そんなことを力説されても、心春は困るだけである。

「一度目の帰国時には、十六、七の少女に化けた九尾の狐が同船していたとする伝承がある。この妖怪が船旅に強運をもたらしたのかも知れない。阿倍仲麻呂が正学を追求したのに対して、吉備真備は実学を修得した。暦法、測量器具、音楽の呂律
(りょりつ)や楽書、工芸など、森羅万象に及ぶ。遣唐使としての目的は一度目が書物、文物、武具にあり、二度目は大仏造建の鍍金に使う金の調達だったという」

「伝承では『金烏玉兎集』を持ち帰ったことになっていますけど、でも、この陰陽道の聖典はもっと後世の成立でしょ」

「金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで、この二つは『陰陽』を表す」

「では、真備が唐から持ち帰ったのは書物ではなく、太陽であり月であったと……」

「太陽は金で女、月は銀で男を象徴する」

「うーん。それが具体的に何を指すのか、あるいは誰を指すのか」

「女と男、雌と雄なら、番(つがい)とは考えられないか」

「ツガイですか。まさか……」

「金と銀の九尾の狐」

「九尾の狐は二匹いたというんですか」

「二匹がどういう形態だったのかは不明だが、真備と同船していた九尾の狐は日本に着くと姿を消したという」

 天平の昔、日本へ渡ってきた九尾の狐は聖武天皇の妻であった光明皇后に取り憑いた。天皇崩御後、光明皇太后が政治の実権を握り、藤原仲麻呂が政務を独占した結果、政治の混乱を招いた。これを九尾の狐による策謀であると見抜いたのが吉備真備だった。唐では、玄宗が楊貴妃を寵愛したことで国が傾いた。これが九尾の狐の仕業であると真備は伝え聞いていたのだ。

 光明皇太后が亡くなり、取り憑いていた九尾の狐が離れると、立場が悪化した藤原仲麻呂は乱を起こし、真備はこれを討って、九尾の狐も日本から追放された。

 土生は講義でもするように一方的に言葉を連ねた。

「こんなもの、ほとんどは後世の作り話だ。時代によって妖怪は善玉にも悪玉にも見方が変わるからね。真備と九尾の狐が良好な関係だったことも有り得る」

 そもそも鬼とか九尾の狐とかの存在自体が世間の常識では作り話だろう。

(大真面目にこんな話していて、大丈夫なのか、私たち)

 と、心春が遠くに泳がせた視線を、土生のよく通る声が引き戻した。

「ところで、鬼は何か目的があって鐔から抜け出たのかな」

「落語の『抜け雀』なら餌を求めて抜けるんですが」

 心春はそのあたりの事情をしらばっくれたが、土生は知っていた。

「そうか。鬼はお嫁さんを求めているようだね」

 知っていて、訊いたのである。

「鐔にまつわる鬼の話は聞いている。刀剣界にはありがちな奇談で、気にとめる者もないがね。コレラが流行った元禄十二年当時に作られたとすれば、三百数十年越しの純情物語というわけだな」

(令和の現代にそんな花嫁候補がいるのか)と、土生は探るような視線をぶつけてきたが、心春は(心当たりなんぞございません)と無言で見つめ返した。

「あはは。一途な奴ですね」

 笑ってごまかしてしまった。

「そう。意外と生真面目な奴だ。鐔の鬼鍾馗は病魔退散を祈願するために鬼が彫ったそうだが、鬼こそ病魔と考えられていた時代だからね、鬼も困ったろう。それがこの鐔の鬼の困り顔になったと思うのだが」

「鬼だけでなく鍾馗もまた困り顔に彫られています」

「そりゃあ、鬼としては天敵である鍾馗を強く格好いい容姿には彫りたくないだろう」

「奈良家の言い伝えでは、鐔を仕上げたのは奈良利寿です。利寿が鬼を鐔に封じ込めたらしいので、封印の和歌を象嵌したのも彼でしょうが、利寿は鬼と鍾馗の表情に手を加えなかったのでしょうか」

「さあ。利寿に尋ねてみたいところだ」

 土生は傍らの岩本琴太郎に顔を向け、

「こんなに会話が噛み合うお嬢さんに初めて会った」

 本気なのか皮肉なのか、そんなことをいい、琴太郎は作り笑いで受け流した。

「そりゃめでたい。彼女の親でさえ、時々何いってるのかわからないとあきらめてますからね」

 琴太郎にはそんなことより重要な課題がある。

「で、怪奇現象についてはどのように扱いますか。図録も編集に入ってます。展示品の解説文は何人かで分担しますが、この鐔については私が書きます」

「センセーショナルに宣伝するのは感心しないね。軽薄な連中に面白がられるだけだし、信憑性を疑う連中にいちいち説明するのも面倒だ」

「世の中には鬼や妖怪を斬ったという伝承の刀が何本もありますが、いちいち真偽なんか問題にされません。この鐔にしても、もとは覆輪もあり、鬼の彫刻もあったが、それが失われてしまったと事実だけを事務的に解説して、信じるも信じないも見学者におまかせする……。それでどうです?」

「なるほど。鬼神展という企画の洒落っ気が漂うね。よろしい。じゃあ、そういうことで」

 土生はちらりと愛想笑いを見せ、それを振り払うように頷いた。

「岩本さんを信頼してるよ」

 そう言い残して、去った。

 心春は研究室のドアの外まで出て、頭を下げて見送った。

「お前は意外と礼儀正しいところがあるよな」

 琴太郎は感心するよりあきれている。

「自由業は世渡りが大事。お辞儀ひとつで仕事を得ることも失うこともある。奈良家の家訓よ」

「何はともあれ、なんてことをしてくれたんだと怒られなくてよかったな。下手したら弁償だぞ」

「何だ。私が悪いのかよ」

「お前が鐔の覆輪をはずした時からこの異様な現象が始まった」

「あの人、ものわかりが良すぎる……」

「何だ。不服か」

「あんなアスペルガー症候群の言葉は鵜呑みにできない。自分が正しいと思ってることは周囲を踏みつけても押し通すタイプ」

「じゃあ、お前と同じじゃないか」

「私は謙虚だもの。常に自分は正しいのだろうかと自省してる」

「どの口がそんなことをいうんだ」

「口といえば、狐の喧嘩は口や牙の大きな方が強いという通説があるよね」

「実際は気性の荒い方が勝つだろうけどな」

「あれっ。私、なんでこんなこと知ってるんだろ?」

 心春は「アッ」と口を開けた。

「思い出した。そういや、うちに九尾の狐がいるわ」

「え。何の話だ?」

「帰る」

 さっさと研究室をあとにした。琴太郎に対しては別れの挨拶などしない。

抜けた鬼鍾馗 第三回

抜けた鬼鍾馗 第3回 森 雅裕

 二日目もライブ後の物販を終えると、ライブハウスのオーナーが心春とすみ花の誕生年ワインを差し入れてくれた。

「ワインの専門業者から届いたんだ。その業者は君たちのファンから依頼されたらしい。何者かは知らん」

 打ち上げのために予約した店へ向かうにはまだ時間があったので、客席の隅でメンバーと飲んだ。ワインに添えられたカードには「最強の弦コンビに」とはあるが、贈り主の名前はない。心春もすみ花も学外活動しているし、ネット社会であるから、調べれば、弦コンビの二人が大学の同学年であることも誕生年もわかるだろう。いや、あるいは……。心春には疑念が湧いた。

 下鴨神社の言社では自分たちの干支の守護神を祀った社に参拝をした。

「誰かに見られている気配を感じたのは気のせいではなかったのかもね」

 心春の胸中を見抜いたように、すみ花がいったが、にこやかな口調なので悪い予感はしなかった。届けられたワインにも何らあやしい様子はなく、バンドのメンバーは喜んで飲んでいる。

 オーナーがさらに言葉を続けた。

「大阪で開催するフェスの事務局から参加しませんかという申し出が来てる。特に君たち女の子二人が興味を持たれてるらしい」

「最強の弦コンビは混ぜるな危険のまがまがしい『最凶』コンビだよなア」

 バンドのドラマーがスマホをいじりながら嘆いた。

「可愛い女の子は差し入れはもらえるし仕事のスカウトも来る。音楽が演奏家の人生経験を反映するものなら、人生の辛酸をなめた俺たち年長さんのミュージシャンも感動的な演奏をしていると思うんだがな」

 彼は起動したChatGPTに話しかけていた。ユーザーが発する質問に対して人間のように回答するAIチャットサービスである。バンドの男たちは心春よりも年上で、豊富な下積み経験も傷だらけの過去も持っており、日頃から冗談まじりに愚痴っているので、深刻な発言でもないのだが、AIは律儀に応答した。

「芸術家の身体は神の力の出口に過ぎない。だから世間知らずのお嬢様でも名演奏ができる。でも、神は気まぐれだからあっさり見捨てる。天才は長続きしない。でもね、心春ちゃんも長続きするために人知れず頑張ってるんだよ。彼氏も作らず、お洒落もせず、人生経験の足りない分は毎日の練習で補ってる。すみ花ちゃんはお洒落だけど」

「いいたいこといってやがる」

 と、心春は呟き、グラスを空けた。だが、

「あれっ。こいつに女子二人の名前を教えたかな」

 スマホを見つめながら、ドラマーは首をかしげた。

「変だな」

「変なのは機械が神の力なんて言い出すことよ。でも、うちの父は神も仏も信じないと常々いってるけどね。善人や人格者が早死にして、人間のクズがピンピンしてるのをさんざん見てきたからって……。神仏をモチーフとして格好よく彫刻することはあるけど」

「まあまあ。神様にも色々あるからね」

 と、すみ花。

「子は親の鏡。親から言い聞かされてきたことって、無意識のうちに人格を形成するよね」

「父からは竹内まりやの『駅』を聴いて涙を流すような人間になれといわれて育った」

 心春がしみじみと語ると、ベーシストも真面目な顔で訊いた。 

「それが何でハードロックやってるんだよ」

「バラードだって、出来らア」

 心春は近くに置いてあったアコースティックギターを取り上げ、手早く調弦した。

「この曲の歌詞の解釈には二通りあって、彼が私だけ愛していたのか、私だけが彼を愛していたのか、中森明菜バージョンは後者らしいけど、私は前者の竹内まりやバージョンだよ。野郎ども、泣け」

「駅」を弾き語りで聴かせた。突き放すような歌い方の底に情感をこめ、誰も止めないので、フルコーラスを終えた。

「これって東横線の旧渋谷駅が舞台になっているという説が……ちょッとお、何?」

 心春は少々あきれたが、バンドメンバーの男たちは涙ぐんでいる。

「いまいましいが、泣けるね。情景が浮かぶ。ひとつ隣の車両から、かつての恋人を見ながら、あそこが変わった、あそこが変わってない、と見ているんだ。心春にこんな経験があるとも思えないのに、才能って不公平なもんだぜ」

「しかも美人だしね」

 と、心春が自賛すると、ChatGPTがまた応答した。

「人生の一部だけ見て不公平と決めつけることはできないよ。歴史上の人物たちを見てごらん。のしあがる時はそれこそ神がかり的なのに転落する時はあっけない。順風満帆に見えても一寸先は闇。大きな病気したり家族に不幸があったり事件に巻き込まれたり裏切られたり、必ずトラブルに見舞われる。本人が見舞われなければ子や孫や家族がツケを払うことになる。それが人生。なーんにも羨ましがる必要はない」

 スマホが発する不穏な音声に、心春は眉根を寄せた。

「ちょっとぉ。さっきから何なのよ、そのChatGPT。ぶっこわれてるんじゃないの。寄こしなさい」

 心春が手を伸ばすとドラマーは抵抗した。

「やめてくれエ。俺は潔癖症だから他人にスマホさわられたくないんだア」

「へっ。こっちの手が汚れるわ」

 ドラマーがグラスを倒し、赤い中身がこぼれた。悲鳴があがる中、すみ花が落ち着いた声で、

「大丈夫大丈夫。ワインをこぼすのは縁起がいいんだよ」

 いいながら、彼女はテーブルにこぼれたワインで指先を濡らし、耳の裏にこすりつけた。

「Portafortuna! イタリアじゃこれが幸運のおまじないなんだよ」

 おや、と心春はテーブルを拭きながら心にひっかかるものを感じた。その幸運の習慣は以前にも聞いたことがある。

 

 ライブの日程を終えた翌日、帰京すると、舞妓がギターを弾いている絵柄のTシャツを左絵門への土産に差し出した。ライブハウスのオリジナルだ。左絵門の作業机には鉄鐔が置かれ、存在感を放っている。宝剣を手にして虞美人が舞う名場面で、傍らに項羽の兜が転がり、裏面には虞美人草が彫られている図柄だ。心春が京都へ出かける前には下図さえ満足に出来ていなかったが……。

「えっ。嘘。早すぎる」

「その虞美人の顔、お前そっくりだろ」

「いやまあ、そういわれると照れちゃうけど……」

 左絵門が苦心していた下図と比較した。

「下図より全然いい。とーちゃんにこんなセンスあった?」

 鐔に銘は入っていない。

「俺が彫ったんじゃねぇんだよ。岩本琴太郎だ」

「へ。どういうこと?」

「話せば長くなるんだが」

「じゃあいい」

「聞けよ。岩本がお前を嫁にくれといってきた」

「へ。幻聴?」

「俺が苦心してる中国故事の鐔を一日で作り上げたら、嫁にやるといった」

「勝手に決めないでよ」

「地金の下地を作って下絵を描き、彫刻、象眼した上で錆付けだぞ。テレビ時代劇に出てくる職人じゃあるまいし、一日でできるわけないだろ。しかし、奴は作ってきた」

「妙だなあ」

「うん。不思議だろ」

「あいつと私、結婚話が出るような関係ではないと思うんだけど」

「そっちかよ。一日で鐔を作り上げたことに驚けよ」

「最近、変なことが続くからあまり驚かないけど」

「それでだな、思い出した昔話があるんだが……」

「あとにして。奴の家に行ってくる。京都のお土産もあるし」

「だから話聞けよ。おーい」

 心春は外へ飛び出している。夜である。岩本琴太郎の自宅へ自転車を漕いだ。

 岩本派本家・岩本昆寬の末裔は昭和中頃まで四谷に残り、その昔には岩本を名乗る金工が浜松町にもいたというが、琴太郎の家は葛飾に多かった職人のひとつである。遠祖の岩本昆寬は養子に跡を継がせているので、いずれにせよ血はつながっていない。

 琴太郎は両親とは離れ、傾いた一軒家で一人暮らしである。心春は玄関ドアを小刻みに連打した。琴太郎が庭に向いた窓から顔を出すと、そちらへ回って睨みつけた。

「キンタロウ。血迷ったようだな。長年の友情をぶちこわす気か」

「口が悪いな。育ちが良くないのか」

「どんな育ちか知ってるでしょうが」

「お前、俺が作った虞美人の鐔を見ただろ。何か感じたか」

「お上手ですこと。それだけ」

「心が騒ぐというようなことは?」

「何いってんのさ」

「妙だな」

「妙?」

 この日も頭頂部に団子を作っていた。その髪を岩本琴太郎は無造作につかみ、窓越しに心春の顔を覗き込んだ。しばらく強い眼光で睨んでいたが、やがてその光も萎むように消えた。

「お前ではない」

「え?」

「俺が欲しいのはお前ではない」

「何いってんの。どういうことよ、それ」

「うーむ。お前に姉妹はいないな」

「知ってるでしょ。それが何……」

「帰れ」

「帰れだあ……?」

 窓を閉ざされてしまった。そのガラス窓に京都土産のスライス羊羹を投げつけてやろうと振りかぶったが、寸前で思いとどまり、持ち帰ることにした。帰り道で、土産のかわりに石投げてやりゃよかったと気づいたが、引き返すのも面倒で、まっすぐ帰宅した。

 左絵門はヘッドルーペに装着したライトをバッテリーにつなぐための配線をハンダづけしていた。モノ作りの仕事の半分は道具作りだ。LEDライト搭載のヘッドルーペも市販されているが、自分好みの道具を自作したくなるのが職人の性である。

 心春は床に噛みつくような足取りで仕事場から台所へ通り抜けた。

「人違いみたいよ。嫁に欲しいのは私じゃないってさ。それはそれで傷つくけど」

 心春は食パンを取り出し、スライス羊羹をのせてオーブントースターに入れる。冷蔵庫を漁って、アーモンドミルクを取り出した。心春がそんなことをやっているので、左絵門も食べる気満々で台所へやって来た。

「人違いとはどういう意味だ?」

「他に狙ってる女がいるってことでしょ。あいつ、脳回路がぶっこわれたんじゃないの。おかしいよ。キンタロウと呼んでもコトタロウだと訂正しなかった。このやりとりするのが挨拶代わりなんだけど……。長いつきあいなのに、今さら口が悪いとか育ちが良くないとか文句いってた」

「ふざけた野郎だな。大体、卒業後に大学に残って先生ヅラする奴にろくなもんは……」

「ところで、私が飛び出していく前に何かいいかけてたわね、とーちゃん」

「実は、気になる昔話があるんだよ」

 心春はスライス羊羹トーストを口に入れ、表情がにこやかになる。

「俺にもくれよ、それ」

「やだよ。昔話って何さ」

「うーん。奈良派三代目の利永に娘があってな。弟子の一人が嫁に望んだ。利永は下地もまだ出来ていない鉄の地金を渡して、一晩で鐔の彫刻を完成させたら許してやろうと約束した。元禄のその頃、江戸ではコロリが流行っていたので、病魔退散を祈念する鬼鍾馗の図柄を命じた。幕末に黒船がもたらしたコロリはコレラのことだが、江戸前期は原因不明の頓死を適当にコロリと呼んだらしい」

「それで?」

「無理難題をふっかけられた弟子は仕事場に籠った。明け方近くに利永が覗くと、人ではなく鬼が彫金台に向かい、タガネと槌を物凄い勢いで振るっていた。驚いた利永が悲鳴を上げると、鬼は振り返り、悲しげな表情で飛び出していった。その場に残された鐔は九割方完成していた。奈良派お家芸の鬼鍾馗図だ。……聞いてるのか、心春」

「聞いてる」

 トーストを食らいながら、心春は少しだけ真顔になった。

「まあ、ありがちな昔話よ。それが刀鍛冶の場合だと、一晩で百本の刀を打てという無理難題にチャレンジして、九十九本打ったところで正体が鬼とバレるのよね。それと同じようなことが令和の現代にも起こって、虞美人の鐔が作られた、と。銘がないけど、どうすんの?」

「代作してもらったということで、俺の銘を入れてギャラリーに展示……」

「とーちゃん」

「そういうわけにもいかねぇよな」

「ところでその鬼さん、悪い奴なら気に入った娘がいたら誘拐でもしそうなものだけど、親の許しを得ようというんだから良心的だわね」

「普通に市民生活を送りたいと望んだのかも知れん」

「その後、どうなったの?」

「鬼が残していった鐔を完成させたのは利永の弟子の利寿だった」

「ふーん。名人利寿が……」

「利寿は鐔に鬼を封じ込めたんだという話もある」

「利寿にそんな力があったのかな。だとしたら、利寿も人間離れしてる」

「その人間離れした利寿も利永の娘に惚れていたらしくて、嫁にもらってる」

「それがつまり、鬼が望んだ娘か。それで、利寿は恋敵である鬼を封じ込めた」

「しかし、その娘は息子を産んで、すぐに亡くなった。利寿は一代限りとか二代があるとか論じられているが、この息子が二代目だとする説がある。そして、利寿は再婚するが、後妻の産んだ娘を奈良本家へ嫁に入れる。相手は利永の子の利光だとか孫の利勝だとか異説があって、はっきりしないが、ともあれ、それがお前の遠い御先祖ということになる。以上が奈良家に伝わる昔話だ」

「つまり、あれか。キンタロウが大学で私に見せてくれた鬼鍾馗の鐔にまつわる物語か」

「銘は奈良小左衛門になってるが、利寿の手が入っていそうだと、お前はいっていたな」

「そんな匂いはしたね」

 利永の通称は七郎左衛門だが、小左衛門と記録した古書もある。江戸前期の職人に関する伝聞や通説などどこまで正確なのか、わからない。

「でも、よくもそんな由来のある鐔を売り飛ばしたもんね、とーちゃん」

「しょせん俺は出来の悪い養子さ。奈良家の親父も祖父さんもそのまた祖父さんも喧嘩ッ早くて遊び人だった落ちこぼれどもだ。御先祖なんて尊重する気になるかよ」

「あの鐔にそんな由来があったとすると……時空を超えた現代に何かが起きるのかも知れない。私が覆輪はずしちゃったし」

 覆輪の下に金象眼されていた阿倍仲麻呂の和歌も呪文のような役割だったのか。

 左絵門が冷蔵庫からアップルタイザーの瓶を取り出すのを見て、心春はいった。

「ワインを倒して中身をこぼすのは縁起がいいというよね」

「あー。お前のかーちゃんがそんなこといってたな。イタリア留学で経験したあっちの習慣だろ」

 左絵門は耳を指した。

「耳の裏につけるんだ」

「ふーん」

 心春はぼんやりと風呂場の方を見やった。風呂というやつは入るまでが面倒臭い。出てからも髪を乾かしたりするのが面倒臭い。何とか手短にすませられないかと不毛な考えをめぐらせ、左絵門がスライス羊羹トーストに手を出すのを見ても文句はいわず、

「ほれ。これもお乗せ」

 と、バターの容器も押しやった。

 

 翌日、大学へ行くと、岩本琴太郎の研究室へ直行した。怒鳴り込むような勢いだ。琴太郎は大量のタガネを研いでいた。

「来たな」

「来たよ、キンタロウ」

「コトタロウだ」

「あれっ。……ほおお。ふーん」

 雰囲気が昨夜とは変わり、通常運転に戻っている。

「昨夜いってたお前じゃないってどういう意味よ?」

「鬼が……」

「あ?」

「鬼が探し求めている運命の女はお前じゃないという意味だ」

「何いってるの。私を嫁にくれとうちのとーちゃんにいったのはあんたでしょ」

「俺じゃないんだ。俺に乗り移っていた鬼だ」

「……何か変なものでも食べたのか、キンタロウ」

「人違いだったんだよ。鬼はかつて奈良派の娘を嫁にしようとして果たせなかったから、その血を引く末裔を求めているんだ」

「やばいよキンちゃん。悩みがあるなら聞くぞ」

「悩みというか何というか……」

 琴太郎は桐箱を心春の前で開けた。

「図録の写真撮影のために写真センターに預けてあったんだが、問題が発生してな……」

 鬼鍾馗の鐔である。赤銅の覆輪ははずれたままだ。しかし、覆輪をはずしたあとから和歌の金象眼が現れたはずだが、それが消えている。その残骸の溶け落ちた金がもつれた糸クズのように桐箱の中に転がっていた。何よりも驚いたのは、橋桁の下で橋脚にしがみついて隠れていた鬼の姿もないことだ。きれいさっぱり抜け落ちているのである。

「なんじゃ、こりゃあ」

「鬼は鐔から抜け出した」

「抜け雀というのは落語にあるけど、こいつは抜け鬼ってか……。さすが名人利寿が仕上げた彫刻」

「和歌の金象眼は溶け落ちていた。和歌が消えたあとに鬼が抜け出た」

 やはり、和歌は鬼を封じ込める呪文だったようだ。

「赤銅覆輪は和歌を保護するためのもので、それを私がはずしてしまった……」

「しかし、お前が金象眼を溶かしたわけじゃないからな。どういう力が働いてこうなったのか、それはわからん」

「ともあれ、この鐔の画題は鬼鍾馗でなくただの鍾馗さんになってしまった」

「抜けた鬼はあろうことか俺に取り憑いた。取り憑かれていた間の記憶はあるんだ。お前を嫁に欲しいと言い出したことも覚えているが、むろんそれは鬼の仕業だ。お前が鬼の求める花嫁候補なら、あの虞美人の鐔を見れば、鬼の魂に触れて感動するはずだったんだが」

「それはお生憎だったけど、私がお望みのお嫁候補ではなかったと悟って、鬼はあんたから離脱した?」

「そうだ。今朝、目が覚めたらいつもの俺に戻っていた。今、奴がどこにいるかはわからん」

「そりゃ、いちいちどこへ行きますと別れを告げてったりしないだろうけど……」

「鬼に取り憑かれると、超人的な力が出るようだ。あの鐔は自宅の仕事場で作ったが、道具が鬼の力量についていけなくて、タガネやヤスリが何十本もつぶれたり折れたり……錆付薬もうちにあったのを全部使い切った。だから、こっちの研究室に置いてあったタガネをこうして手入れしてる。残念ながら、憑きものが落ちると、俺の彫金の腕も元に戻ってしまったが」

「そもそもどういう類いの鬼なのよ」

「鬼の遠い過去の記憶は断片的にではあるが、俺の脳に転写されて残ってる。阿倍仲麻呂の化身というか、仲麻呂の怨念が具現化したというか、天平時代に生まれた鬼だ」

「随分、話が遡っちゃったわね。ざっと千三百年後の学校では、天の原ふりさけ見れば……と例の和歌を暗誦できなきゃ教師に怒鳴られることをどう思いますかと仲麻呂さんに訊いてみたいわ」

「今度会ったら訊いてみろよ」

 阿倍仲麻呂は七一七年、第九次遣唐使として入唐している。三歳年上の吉備真備も一緒である。仲麻呂は主に文学の分野で官職に就いたが、皇帝の側近、顧問という扱いだったようである。七三四年、真備ら他の遣唐使は唐を離れ、種子島漂着を経て、翌年に帰国。仲麻呂は玄宗が手元から離さず、唐に残っている。

 七五二年、吉備真備を含む第十二次遣唐使が入唐し、高官に登っていた仲麻呂が彼らを接待、案内している。七五三年、帰国する彼らの船団に仲麻呂も便乗するが、当時の航路は命がけであるから失敗。やむなく現在のベトナム経由で唐に戻り、その後は玄宗、粛宗、代宗と歴仕して、七七○年に七十三歳で没している。

 一方、吉備真備は最初の遣唐使を終えて帰国すると、異例の昇進を果たしたものの、宮中の権力争いの余波を受け、九州へ左遷されることになる。のちに呼び戻されて二度目の遣唐使をつとめ、その任を終えると今度は屋久島漂着を経て帰国。しかし再び九州太宰府へ飛ばされ、新羅に対抗する軍備を整え、帰京後は藤原仲麻呂の乱の追討軍を指揮して鎮圧に功を挙げるなどの活躍を見せ、ついには右大臣へと破格の出世を遂げた。七七五年、八十一歳で没。仲麻呂も真備も当時としては長命といえる。

 琴太郎は自慢するかのように語った。 

「阿倍仲麻呂は唐の玄宗に重用され、吉備真備もまた玄宗から気に入られた。真備は重臣たちのやっかみを受けて、幽閉されたり、難解な予言詩の読解力を試されたり、囲碁の勝負を課せられたり――ちなみに日本に囲碁をもたらしたのは真備だとする説がある――かくして幾度も危機に陥ったが、そのたびに仲麻呂が生きながら鬼となって救ったという。仲麻呂はついに帰朝できなかったが、真備は仲麻呂の化身である鬼に守られながら帰朝した。であれば、その鬼も日本に渡っていることになる」

 琴太郎は口調が真面目であればあるほど、どこか滑稽な男である。心春の口も軽くなる。

「鍾馗さんは抜け出さないのかしら。鬼をとっ捕まえるために」

 鐔に彫られた鍾馗は困り顔だが、これはもともとである。心春はその意味ありげな表情を見つめた。

「物騒なことをいうんじゃないよ、お前は。この上、鍾馗まで抜けたら始末に困るだろ」

 心春は指を立てて空中に回した。

「鬼が日本に渡来しているなら、鍾馗もこのあたりをうろうろしているんじゃないの? 鬼と鍾馗なんてセットみたいなものなんだから」

「鬼と鍾馗をセットにしているのはお前たち奈良派の彫刻だろ」

 病に伏した玄宗の夢に現れて鬼を追い払い、回復させたのが誰あろう鍾馗だった。玄宗の時代には臣下は鍾馗図を除夜に下賜され、新年にはそれを邪気除けとして門に貼る風習が行われていたというから、吉備真備の時代には鍾馗も日本に入っていただろう。

 平安末期の国宝絵巻「辟邪絵」に鍾馗が描かれているからこの頃には日本で普及しているわけである。この絵巻は地獄がテーマらしいが、ここで責めさいなまれているのは人間ではなく、疫病や災厄をもたらす疫鬼である。悪鬼を退治する善神を描いた作品であることから国宝指定は「辟邪絵」という名称となっている。

 中国では明代末期から清代初期には鍾馗が端午の節句の飾り物となり、それが日本でも江戸時代末には定着するわけだが、勇ましいその風貌は疫鬼と戦う姿であり、赤色が病魔退散には効果倍増と考えられて赤一色の赤鍾馗が絵画に描かれることもあった。

「真備の最初の帰国の年(七三五)から二年ほど天然痘が大流行している。当時の日本の人口の三○パーセント前後が死んだという推計もある。疫病は疫鬼・疫神がもたらすと考えられていた時代だ。鍾馗に祈りたくなるかもな」

「帰国した遣唐使が天然痘を持ち込んだのかも知れないけどね」

「そういう見方もある」

「で、この鐔、この状態で美術館に展示するの?」

「和歌や鬼が消える前の写真は撮ってある。写真を抜け殻の鐔と並べて展示することもできるが、検討中だ。鐔から鬼が抜け出すなんて『鬼神展』の企画にぴったりではあるが、荒唐無稽だもんな。持ち主が今日、来ることになってる。そこで相談だ」

「持ち主は何者?」

 岩本琴太郎はカード入れからその人物の名刺を取り出して寄こした。

 京都にある美術館の館長という肩書きのみがついている。仰々しい肩書が並んでいるわけではないのが、かえって大物アピールしていた。名前は「土生鐘平」とある。

「どぶ……さん?」

「国語が嫌いなお前らしい大胆な読み方だが、『はぶ』さんだ。文化庁を退職して京都の美術館の館長をやってる」

「私は教師が嫌いなのであって、国語が嫌いなわけでは……」

「会ってみるか」

「は?」

「どぶさんに」

「そうね。覆輪をはずしちゃった張本人としては……」

 その日の午後、土生という初老の男はやってきた。

抜けた鬼鍾馗 第二回

抜けた鬼鍾馗 第2回 森 雅裕

 本殿前授与所の向かい側に渡辺綱の灯籠というものがある。源頼光四天王の一人・渡辺綱が一条戻橋で美女に化けた鬼に襲われ、連れ去られようとした時、名刀「髭切」で鬼の腕を切り落としたのが北野天満宮の上空だったので、御加護に感謝して寄進したと伝わる石灯籠だ。以来、髭切は鬼丸もしくは鬼切と改称し、名家の間を流転して、明治初めにこの北野天満宮へ奉納されている。

 本殿に参拝したあとで立ち寄った宝物殿は破風の屋根に鬼の顔らしき大きな瓦が掲げてある。にぎやかな旗幟に囲まれた入口を抜けると、展示室には多くの刀剣が並んでいる。心春とて奈良派の末裔であるから刀剣に興味がないわけではない。しかし、展示品の目玉である鬼切には刀剣女子が殺到しており、人垣をかき分けねばならなかった。

 鬼切は展示ケースの中に悠然と鎮座している。二尺八寸に近い大変な長さなのだが、先細の太刀姿のためか豪壮さは感じられない。肌に映りが出ており、刃文は小乱れで、いかにも古色がある。拵は現存していないが、新調するクラウドファンディングが進行しているようだ。

 すみ花が尋ねた。

「どう? フレッシュな気持ちになった?」

「なったような気がする」

 心春はこの刀に拵をつけるならどんな金具がいいだろうかと考える。そんなイメージが湧くのが名刀というものだ。ならば、この刀は名刀ということになるし、心春にフレッシュさをもたらしたことになる。

 すぐ隣には現代刀匠が作った鬼切の「写し」が並べて展示してある。研ぎ減り前の制作当時の姿を再現しており、身幅も広く、見た目の迫力はこちらの方がある。堂々たる力作だが、ジャネーの法則に抵抗できるような新鮮な感動があるかという点では、古い本歌に及ぶべくもない。背負っている歴史が違うのだから、仕方ないともいえる。今後、どのような外装をまとい、どのような持ち主のもとで「物語」を作っていくのか、イメージが広がらない。

 ガイドなのか引率者なのか不明だが、展示品の傍らには声の大きな解説者が立っており、刀剣女子たちに上機嫌で説明していた。

「平安時代中期の源満仲が筑前から刀鍛冶を呼び寄せ、二振りの太刀を鍛えさせたんです。八幡大菩薩から『六十日かけて鍛えた鉄で二振りを打ちなさい』とお告げを受けましてね、長さ二尺七寸余の太刀を作り上げたのです。一振り目は、罪人を使った試し斬りで髭まで斬ったことから『髭切』と名付けられました。これがのちの鬼切安綱――まさにこれ、ここに展示してある刀です。二振り目も、同じく試し斬りで上半身から膝まで、あるいは両膝を骨ごと斬り落としたという由来で『膝丸』と名付けられました。のちの別名を『薄緑』といいます。これら髭切と膝丸の二振りは、源満仲の子・源頼光――酒呑童子を討伐したことで有名な武将に伝えられました。彼の愛刀『童子切安綱』は東京国立博物館所蔵の国宝で、日本刀の横綱といわれていますね。『髭切』『膝丸』はそのあとも勝利をもたらす宝刀として源氏に代々受け継がれたのです」

 六十日も鍛錬し続けたら鉄は飛び散って消失してしまうだろう。俗に百鍛錬などという言葉もあるが、多く鍛えれば良いというものではない。

 膝丸こと薄緑は京都の大覚寺に現存するが、その銘はかろうじて「忠」の文字が見える程度。一方の鬼切には「国綱」の銘があるとはいうものの、これは安綱を改竄したものと考えられており、「鬼切安綱」と通称されている。この二振りは兄弟刀という伝説だが、作風が異なり、同時代というのも異説があり、そもそも安綱は筑前ではなく伯耆の刀鍛冶である。

 歴史はかくも曖昧なものであり、諸説入り乱れ、鬼や妖怪を斬ったという由来を持つ刀はいくつもあって、混同されたりもする。人は刀剣に超常的なロマンを求めるのである。

 源満仲から源頼光、渡辺綱へと渡った「髭切」は「鬼切」として源氏重代の宝刀となり、「獅子の子」「友切」などの異名もさらに増え、源義家、源頼朝、新田義貞といった歴史上のスターや斯波兼頼(しばかねより)の手を経て、出羽山形の最上家に伝わった。

 ガイドの解説はさらに熱を帯びる。

「斯波兼頼の子孫である最上家に鬼切は伝来しましたが、最上家はお家騒動がありましてね、江戸前期に出羽山形の大名から近江大森を領地とする交代寄合に格下げされているんです。交代寄合というのは旗本ながらも参勤交代を義務づけられた上級の家柄です。で、参勤交代には鬼切も同道いたしました。それがもう霊験あらたかで鬼切がおさめられた箱の下をくぐれば病魔退散するという評判が広がり、沿道の民衆は冥加金出して箱の前に列をなしたという逸話が伝わっております」

 ガイドは誇らしげに声量を上げ、隣に並べられた現代刀を指した。

「写しですが、これも傑作ですね。形はもちろん、重さも〇.一グラムまで本物と同じにしてあるんですよ」

(あらまあ)と心春は心の中で呟く。そんな現実離れした誇張話を吹聴する者がいて、不勉強な連中が面白さ優先で拡散する。人は自分が信じたいことを信じる。

 その写しもなかなかの人気で、人をかき分けて展示ケースの前に陣取る気のない心春は他の展示品、特に刀装を見て回った。

 ガイドの声が追いかけてくる。

「刀鍛冶は精進潔斎して、材料の玉鋼もお祓いを受けて、この写しを作ったんです。もはや写しというより現代の鬼切そのものですよ。きっと皆さんにも御利益がありますっ」

 刀剣ファンなら刀鍛冶はそうあって欲しいと思うだろう。実際の刀鍛冶は、神仏に祈って名刀ができりゃ苦労しないと笑っていたり、作った刀さえ良けりゃ制作態度や人間性なんかどうでもいいんだと本音を漏らす職人も少なくないが。

「さ。下鴨さんに行こう」

 心春とすみ花がその場から離れようとすると、展示ケースに張り付いていた見学者たちから悲鳴とも歓声ともつかない叫びが上がった。何事かと振り返ると、絶賛されていた「写し」に変化が起きていた。現代刀らしく光り輝いていた刀身が真っ赤に錆び、たちまち褐色から黒錆へと一変し、原形をとどめぬほどに腐食して、一部がポロリと落ちた。

 腐食したのは現代製「鬼切」だけで周辺には何の異変もない。ガイドはしどろもどろではあるが、絶賛することを忘れない。

「あまりにも素晴らしい写しなんで、本物の鬼切が嫉妬したんですかね。へへへっ」

 突飛な話なのだが、刀剣女子たちは「へえええ」と感心している。(なるほど)と、心春も反発せずに聞いていた。心春の疑問はこんな現象が起きた理由よりも、何故自分たちの目の前で起きたのかにあった。

 奈良小左衛門の鐔の耳覆輪が自分の手の中であっさりはずれたことを思い出した。あの鐔の画題は鬼と鍾馗だった。モチーフとなった鬼に自分が近づくと何か非科学的な反応が起きるのだろうか。

「これも鬼の魔力ですよね。うわあ、テレビが来るぞ。ほっほっ」

 と、ガイドがはしゃぐ声に心春とすみ花は背を向けた。

「あれは何事? 何が起きたの?」

 宝物殿の外で、すみ花が首を大袈裟にかしげた。オーバーアクションはこの娘の持ち芸のようなものだ。

 心春はポケットから小袋を取り出した。干し梅の中にレーズンを入れた菓子だ。

「食べる?」

「いい。歩きながら食べる習慣はない」

 心春も同様だ。ポケットに仕舞いながら、いった。

「私、何故だか自分でもわからないけど彫金の画題に鬼を彫ることが多いのよね。鍾馗さんとセットだったり、太公望の魚籠を鬼の姿の雷神が盗もうとしていたり……。鬼鍾馗は奈良派のお家芸でもあるんだけど」

「鬼切の刀には興味なさそうな心春だったのに」

「興味ない女が来ちゃったから、鬼さんが張り切ってパワーをアピールしたかな」

「興味ないわりに刀のことはよく知ってる心春……。あのガイドさんの解説に納得してないでしょ」

「そんなのが顔に出てた?」

「頭の上にびっくりマークが出てた」

「すみ花だって、クエスチョンマークが出てたよ」

「疑問はあるのよ」

 鬼切の銘は不鮮明ながらも国綱だが、これは改竄したもので、元は安綱だったことになっている。いや、その安綱銘も元々は後銘だとする説もある。それでも世間の通り名は鬼切安綱である。

 それがすみ花の疑問だった。

「なんで国綱の銘を入れたんだろう?」

「名刀や名物の伝説が流布するのは桃山時代あたり。大名たちが自身の権威づけや贈答用に名刀蒐集に血道を上げた。その頃には正宗や粟田口吉光や国綱の名前は知れ渡ったけど安綱のランクは今ひとつ。それでも安綱には童子切安綱という大名物があり、鬼切安綱ではインパクトが弱い。一方、国綱には鬼丸国綱という名刀があって、天下五剣にも加えられているので、それに紛れさせようと誰かが考えたのかも知れない。偽銘を入れる人間の考えることなんて、わからないよ」

 

 下鴨神社は太古の森に覆われている。バスで賀茂川を渡り、下鴨神社前で降りて西参道から入るのが本殿へ最短なのだが、緑深い境内の雰囲気に敬意を表して、糺ノ森で降りた。これとて長い表参道からはずれているが、悠久の原生林の一端に触れることはできる。

 楼門を入り、授与所で心春は波紋柄の「鴨の音守」、すみ花は縮緬生地で縫われた「媛守」を受けた。それから堂々たる建築群の間を抜け、干支ごとに守護神が七つの社に分かれている言社で参拝をすませた。

 心春は怪訝な表情で周囲を見回す。

「どした? 心春」

「何か感じる」

「神様のパワーかな」

「そんな有難いものじゃない。私らを珍しい動物でも見るような視線……」

 しかし、彼女たちにそんな視線をぶつけてくる者は見つけられなかった。気のせいだと思うことにした。

 中門を出て、御手洗社で水みくじを引き、御手洗池に浸した。この神社には楼門の外に縁結びの相生社もあり、女子好みの空気が漂っていて、すみ花は無邪気に楽しんでいる。

「乙女だね、すみ花は」

「心春もお守りを欲しがるとは意外に可愛いところがあるよね。女子らしく河合神社で美麗祈願するか、それともみたらし団子でも食べて帰る?」

「時間があればそうするけど、他に寄りたいところができた。あんたはついてこなくていい」

「行くよ。私ね、中学の時の渾名がポケモンだったんだよ。人について歩くから」

 心春はスマホでバス路線を検索する。

「ねぇ。どこ行くの?」

「一条戻橋」

 渡辺綱が鬼に襲われ、さらわれそうになったという伝説の橋である。

 下鴨神社からは北野天満宮へ少々遠回りで戻る経路になる。北大路堀川でバスを乗り継いで、現在の一条戻橋へ足を延ばした。

 彼女たちの前に現れた一条戻橋は石材で装飾されているが、平成の世に架け替えられたコンクリート製だ。普通の街中にある普通の短い橋だが、橋の下に降り、鬱蒼とした木陰に入ると都会の喧騒から遮断され、神秘的な風情がある。堀川に架かる橋ではあるが、現在、流れている小川は琵琶湖疎水の水を還流させたものらしい。安倍晴明は自分が使役する式神たちを一条戻橋の下に隠していたというが、それも有り得る雰囲気だ。

 以前の戻橋は北へ百メートル離れた晴明神社に一部の部材を移して再現されている。安倍晴明の屋敷跡に造営された神社である。

「行ってみるか」

 心春は歩くのは苦にならない。すみ花も芸大音校のお嬢様らしくもなく足腰はタフだった。

「安倍晴明って陰陽師とかいう平安時代のお役人でしょ。そこら中に鬼がいた時代らしいけど、興味あるの?」

 すみ花にそう訊かれたが、心春にもわからない。

「安倍晴明というより阿倍仲麻呂に……ちょっとだけ興味がある」

 心春は鬼鍾馗の鐔を思い出していた。耳には阿倍仲麻呂の「天の原……」の和歌が象眼されていた。

「安倍晴明は阿倍仲麻呂の一族だという。阿倍仲麻呂には安倍の字をあてることもある。仲麻呂は陰陽道の聖典である『金烏玉兎集』を持ち帰ることが遣唐使としての目的だったという説もある。けれどもに玄宗に重用されて帰朝もかなわず、吉備真備がその任を果たすことになる。真備が唐の重臣たちの妨害を受け、窮地に陥るたびに鬼と化した仲麻呂が助けた。真備は『金烏玉兎集』を日本に持ち帰ることに成功し、彼はこれを仲麻呂の子孫に伝えた。そんなわけで吉備真備を日本の陰陽道の祖とする説もある」

「バスの中で何を熱心にスマホ見てるのかと思ったら、そんなこと調べてたの?」

「金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで、この二つは「陰陽」を表す。北野天満宮の三光門も陰陽の思想と無関係じゃない。でもさ、『金烏玉兎集』は晴明が用いた陰陽道の秘伝書とされているけど、鎌倉時代末期か室町時代初期に成立した書と見られている。要するにフィクションの世界よ。私が興味あるのは、仲麻呂は帰朝できずともその生霊が鬼となって真備を守ったという伝説。その鬼は真備とともに日本に渡ってる」

「それこそフィクションの世界」

 そんな会話を交わすうちに晴明神社へ着いた。

「ここもその世界のひとつよ」

 大規模だったという創建当時の面影はない街中の神社である。一の鳥居を入ると旧戻橋を見ることができるが、欄干の親柱が名残として移設されたミニチュアだ。むろん、平安時代の遺物ではなく、近代の橋だ。傍らには晴明が従えていた式神の石像が据えてある。下級神らしいが、これも鬼の姿だ。愛嬌がある顔つきで手には払子を持っている。目には黒い石が嵌め込まれており、それが心春から視線を逸らすように動いた。

「動いた」

 と、声を発したのはすみ花だ。

「ねぇ、目が動いたよ。どういう仕掛けなんだろう?」

「仕掛けじゃない。口もブルッと震えた。石なのに」

 心春はかがみ込んで式神に顔を近づけ、睨みつけた。

「おい。なぜ目を逸らす?」

 心春の言葉にすみ花がツッコミを入れた。

「ええ? 疑問に思うのはそれ? どうして動いたかじゃなくて?」

「まあいい」

 心春は背筋を伸ばし、歩き出した。

「私の美しさを直視するのが恥ずかしかったのね。そういうことにしとこう」

「恐るべし、平安の鬼。もっと恐るべし、奈良心春」

 すみ花はのんきに感心している。

 晴明神社も今では観光地だ。晴明と式神の顔出しパネルまで設置されている。

「写真撮っていこうよ」

 と、すみ花は誘ったが、

「断るっ。これ以上、何か異変が起きても困る」

 心春はスマホでバス停を検索しながら歩き出している。タクシーなどという移動手段は非常時でなければこの娘の発想にない。

 晴明神社は鬼の侵入から内裏を守るために平安京の鬼門である北東に建てられたという。平安京は四神相応の考えに基づいて造営され、北に船岡山、東に鴨川、南に巨椋池、西に山陽道を配置してる。

 心春は早足で歩きながら、いった。

「平安京は巧妙な魔除けが構築されていて、朱雀大路とりわけ大極殿に『気』が集中するように設計されたらしいけど、それでも大極殿のすぐ近くの宴の松原にさえ鬼が頻繁に出没したというんだから、この都の防御システムも無力だったわけね」

「鬼も悪い奴ばかりじゃないと思うんだけどな。人を襲う乱暴者もいれば人を助けるいい奴もいる」

「もとは山奥や孤島に住む異様な者たちを鬼と呼んだのでしょ。古くは大和朝廷と敵対した製鉄業者が鬼にたとえられたという説もある」

「平安の末頃から、鬼は角のある恐ろしげな姿に描かれるようになるけど、実際には角を持つ動物は牛や鹿のような草食獣ばかりで攻撃的な肉食獣はいない。だから角は悪者のシンボルというわけじゃない」

 意外なすみ花の熱弁だった。

「すみ花も鬼の話になると熱が入るね。そうね。いつのまにやら鬼と神が混同され、戦乱の時代になると鬼神という言葉が使われるようになる。どちらかというと、これは褒め言葉だよね」

「鍾馗も鬼神の仲間だね」

 鍾馗が正義で鬼が悪とは限らないし、両者が敵同士と決めつけることもできない。心春は鳥居の下から本殿を振り返り、「そうだよね」と呟いた。

 

 初日のライブは二時間半ほどで終え、自主制作のCDやTシャツや生写真を売り、自由になったのは夜も遅くなってからだった。心春もすみ花もこんな時刻でも食事をすることに抵抗がない。

「餃子にビールで食事して帰ろうか」

 ライブ終わりのテンションですみ花がそういい、心春も気分は高揚しているのだが、ライブの反省点を頭の中で整理しているので、会話は上の空である。

「胡麻サバ食べたい」

「ここ京都だよ。福岡じゃないし」

「私に式神が使えたら福岡までひとっ飛びさせるんだけど」

 ライブハウスの外に出ると、心春は周囲を見回した。夜の繁華街には気だるいような喧噪しかない。

「演奏中、異様な視線を感じた」

 と、心春が呟くのをすみ花は大きく頷きながら聞いていた。

「そりゃあんな怒涛のギター弾きまくってたらお客さんの注目も集まるよ。ほとんど、あきれられてるんだけど」

「そんなのは慣れてるんだけどさ。なんだか刺すような視線……。誰だかわからないけど」

「ミニスカートなんかはいてるからじゃないの」

「うーん。かも知れん」

「下鴨神社でもそんなこといってたね」

「悪意はなさそうなんだけど」

「私も感じたけど、視線というより声みたいだった」

「声? お客さんの歓声ではなく?」

「違う。才能ある子は脇道に逸れる。もったいない……。そんな声」

「演奏と歓声の中で、そんな声が聞こえた?」

「聞こえたような気がした。私もトランス状態だったのかも」

「脇道に逸れるのがもったいない……か。ひとつのことに集中しろという意味かな」

「まあいいじゃん。さ、餃子餃子」

 すみ花に手を引っ張られ、中華屋へ向かった。

抜けた鬼鍾馗 第一回

抜けた鬼鍾馗 第1回 森 雅裕

 奈良系の金工集団は後藤系、橫谷系と並んで彫金界の三大門閥を形成した。奈良の流名を許された一門は数十人にも及ぶ。奈良本家は江戸前期の奈良利輝を家祖とするが、元来は建築金物などを制作する錺職であったといい、刀装金工としては二代目の利宗を初代と数える。町彫りの基礎を確立し、もっとも傑出していると見なされているのは金工二代目の利治であり、一派を隆盛に導いたのが金工三代目の利永である。

 以後も代を重ね、分家、分派を生み、自分の流派を打ち立てる名人たちも輩出し、奈良の名跡は廃れても、そうした末流は幕末まで続いた。

 

 奈良心春がその鐔を見せられたのは上野の芸大の研究室だった。鉄地で、鍾馗から逃げる鬼が橋桁にしがみついて隠れている。ありがちな画題ではある。しかし、鬼の泣きそうな表情に愛嬌があり、鬼を探す鍾馗もまた困り顔で途方に暮れているのだ。江戸の彫金師にこんな表現力があったとは意外だった。

 銘は武州江戸住奈良小左衛門作。小左衛門は奈良派の本家が襲名する名乗りである。

「お前の遠祖だろ」

 と、見せてくれたのは彫金の講師・岩本琴太郎。建前上の指導教官である教授は講評の時に顔を出す程度で、普段の指導者はこの講師である。江戸中期から後期にかけての名人・岩本昆寬の末裔と称している。

 岩本家は町彫りの代表格である橫谷・奈良派の長所を取り入れ、洒脱な江戸前の作風が特徴だ。とはいえ、岩本琴太郎は現代の彫金家らしく刀装具などはほとんど作らず、商売っ気のあるジュエリーも作らず、ホテルのロビーや美術館に飾るような置物の制作が多い。この男は心春とはひと回り年が違うが、金工の家に育った者同士で、幼馴染である。

 心春は彫金科の学生だ。鐔を一見して、奈良派二代目の利治あるいは三代目の利永かな、そう思った。ただの勘だ。江戸彫金界の名人といわれる奈良利寿はこの二人に師事したとする説が有力だ。師匠とはいえ、彼らは利寿ほどの技量ではない。だが、この作は抜きん出ている。

「面白いね。ちょうだい」

「やるか。今度、美術館に展示するんで持ち主から大学が借りたんだ。お前の遠祖の作だから見せてやった。これから図録に載せる写真の撮影に回す」

 芸大には撮影機材を揃えた写真センターが設置されている。必要な写真は自前で用意できる。

 芸大付属の美術館では半年後に「鬼神展」を開催する。美術に描かれた鬼神の特集である。美術館の企画は二、三年前から準備するのが普通だが、予定が変更されることも珍しいことではない。鬼神展もそれなりに時間をかけているが、この鐔の展示は最近になって急遽決まったものらしい。予定変更は美術館も慣れたもので、事情をいちいち詮索しない。

 この鐔には不釣り合いな赤銅覆輪がかかっており、岩本琴太郎は疑問を口にした。

「耳の覆輪は後補のようだが、鉄地が朽ち込んで補修したのかな」

「朽ち込んだ様子はないわね。鐔全体の形も崩れてない。なんでこんな余計な覆輪をかけたのか、謎ね」

 ミスマッチだが、うまく嵌め込んである。

「あえていえば、彫刻に比較して鉄地の部分が小さいような気もする。覆輪をかけるために鉄地の周囲を削って整形したとも考えられ……」

 いいかけた琴太郎の鼻先に心春は鐔を突きつけた。

「はずれたよ」

「え……?」

 心春の左手に鉄の鐔、右手に赤銅の覆輪がある。

「おいっ。がっちり嵌まっていたはずだぞ。何をしたんだ?」

「別に。どうやって嵌め込んだのかなあと撫で回していたらストンと取れた」

「そんなアホな……」

 琴太郎は戻そうとしたが、鐔と覆輪のサイズにまったく余裕がなく、合わない。

「そんなことより、これ見て」

 覆輪がはずれた鉄地の耳には金象眼が施してあった。崩し文字である。まるでこの文字を隠すための覆輪のようでもあった。心春は平仮名だけ拾い読みした。

「……の、り、さけ……読めない」

「お前という奴は……」

 琴太郎は数文字で内容を理解したらしい。

「天の原、ふりさけ見れば春日なる、三笠の山に出でし月かも」

「ああ。高校一年の時、国語教師が明日までに全部暗記してこなきゃ痛い目に遭わすぞと恫喝した百人一首にそんなのがあったような気がする。ろくな教師に出会ってないから私は大学で教職課程も取らない」

「たいした心がけだが、では、これが阿倍仲麻呂の歌だということはわかるだろう」

 心春は挙手して応えた。

「もちろんですっ。玄宗に重用された遣唐使ですわ。私は勉強はできないけど教養はありますっ」

 刀装具は故事伝説を題材とすることが多いので、歴史の知識は持っている。かなり偏ってはいるが。

 琴太郎は首をかしげた。

「この文字は布目象眼で入れてある。覆輪をがっちり嵌め込めば、こすれて傷つくか剥落してしまいそうなものだが、全然傷ついてない。昔の職人仕事はどうやったのか謎のものもあるにはあるが……」

「この覆輪は私が難なくはずしてしまったように無理なく嵌め込むことができたのかも」

「そんなこと、普通の金工には無理だ。お前みたいな変態ならともかく……」

「じゃあ、変態の力で戻してみようか」

 心春が鐔と覆輪を合わせようとすると、

「待て待て。せっかく隠されていた和歌が現れたんだ。持ち主に報告して、この状態で美術館に展示するかどうかを相談する。

「お好きなように。キンタロウさん」

「コトタロウだ」

 琴太郎をキンタロウと呼ぶのは子供の頃からの習慣だ。

「変態は帰りますっ」

 言い残して、心春は美校をあとにした。

 この娘は通学にギターケースを背負っている。アコギではなくエレキである。普段から音校の練習室を使っている。ギターはクラシックで使う楽器ではないから芸大にギター科などない。あれば、心春は入学しただろう。芸大はアカデミックな教育の場ではあるが、教官も学生もクラシックにこだわらない。ロックも演歌も同じ音楽として尊重するのが本物の音楽家だ。

 やむなく美校の彫金科に入学したが、美校と音校は道一本を隔てて向かい合っており、互いの空気は環流している。音校内の楽器練習室はネット予約することになっており、学生数に対して部屋数は不足がちだが、時期や時間帯によっては空いている。使っても文句をいわれたこともない。

 心春は音が外に漏れないヘッドホンアンプで練習することが多いが、バンド演奏の音源を再生しながら練習する場合もあり、芸大らしからぬヘヴィメタ系のサウンドが鳴り響く。最初の頃は「何者だ、あいつ」という目で見られることもあったが、今は教官たちからもその実力に一目置かれている。

 

 心春の自宅は葛飾柴又にある。葛飾区はかつては日本刀関係の一流職人が何人も住んでいる地域だったが、高齢で亡くなったり、再開発のために立ち退いてしまったりで、今ではさびしくなってしまった。元々理由があって職人たちが集まったわけではなく、偶然であったらしい。奈良家もそのひとつだった。だが、父の奈良左絵門は奈良家の出ではない。東京芸大彫金科の貧乏学生だったが、練馬石神井にあった学生寮で母と出会った。母こそが奈良家の娘で、ヴァイオリン学生だったが、音の問題があるから柴又の実家を離れて寮生活していたのである。二人は卒業後に結婚して、父が奈良家を継いだ。左絵門というレトロな名前が奈良家歴代が襲名する小左衛門に似ているのが祖父に気に入られたらしい。奈良家は女系家族で、彫金の伝統も途絶えかけていたが、養子の左絵門によって、なんとかつながったのである。

 とはいっても、母も祖父もすでに亡くなり、左絵門と心春の父娘暮らしである。すき焼きといって食卓に出るのが牛丼であるような家だ。

 住居と仕事場はつながっているが、両方に玄関があり、出入りに使うのはほとんど仕事場の方である。仕事場には父娘それぞれ専用の作業机がある。一見すると、二人とも乱雑に道具類を散らかしているが、本人だけにわかる秩序がここには存在する。

「ちゃんとするな。そんな奴が作ったもの、誰も見ない」

 心春は左絵門からそう教育された。そうはいいながら、真面目さから脱却できないのが左絵門だった。 

「御先祖の鐔を大学で見たよ。鬼鍾馗の図」

 そう報告すると、父は読んでいた「パタリロ西遊記!」を置いた。

「奈良派の鐔は江戸の町彫りとしては人気だったが、格調がどうのこうのいわれて芸術性は今いちとされている。そんなもんを芸大が有難がるのか」

「美術館で展示するらしい。鬼神展だって。小左衛門さんにしては面白い作だった。ひょっとするとひょっとして、名人利寿の代作かも」

 利寿は奈良派の門人筋だが、娘を奈良本家に嫁に入れており、その末裔が現在に至っている。つまり、心春である。

「鬼鍾馗とは……鬼と鍾馗の隠れんぼか」

「うん。奈良派には珍しくもない画題だけど、鬼と鍾馗さんの表情が……」

「どちらも奇妙な困り顔か」

「奇妙なのは耳に赤銅覆輪が嵌め込んであることも。なんであんなことしたのか、違和感がある。はずれちゃったけど」

「はずれた? はて。しっかり嵌まっていたはずだが」

「何よ。知ってるの?」

「うーん」

「なんでかわからないけど、私が触ったらあっさりはずれたわよ」

「それが一番奇妙だな」

「とーちゃん」

 心春は父の顔を覗き込んだ。

「正直に話しなさい。怒らないから」

「実はな……昔から奈良家に伝来していた鐔だ」

「あらまあ」

「お前が小学生の頃、売り飛ばした。出入りの骨董屋だ。どこへ転売したかは知らん」

「御先祖が嘆くわよ」

「お前のかーちゃんが死んで、何もかも嫌になってた時期だ。俺だけじゃなくお前も落ち込んでた。気分転換にとその金でギターを買ってやった」

「どういう発想なのかね。理解に苦しむ」

「かーちゃん亡くしたお前は、公園に誰かが忘れていった一輪車を一日中練習してたんだぞ。やばいぞこいつ、と心配になるだろ」

 心春の母は在京オーケストラのヴァイオリニストだった。心春も幼い頃に少しだけ手ほどきを受けた。なのに、左絵門が娘に違う楽器を与えたのは「思い出させないため」だという。本当は自分が思い出したくなかったのだと心春は思っている。

 どうせ楽器を修業するなら、心春にしてみればピアノの方がよかったのだが、

「持ち運びできない楽器は生活環境が変わったら続けることができない。何年も修業したのが無駄になる」

 それが若い頃から貧乏生活を続けてきた左絵門の持論だった。しかし、ギターは独習でも上達するが、ヴァイオリンやピアノは教師につかないと上達しにくい。金がかかるのである。それもまた理由だっただろう。

 心春は左絵門の作業机を見やった。鐔の下図を描いている。銀座のギャラリーで現代刀職者の作品展を開催することになっており、その準備だが、まだ下図の段階から進捗していない。美術館博物館の企画と違い、準備期間は短いのだが、絶望的なほど遅れている。間に合わなければ、旧作を出品することも有り得るが、新作は現代の奈良派の作として中国故事を題材にする予定で、下図は中国王朝の貴婦人だ。武具の図柄には珍しい。

「何? これ」

「虞美人だ」

「なら、『パタリロ西遊記!』じゃ参考にならないやね。宝剣・青峰をふるう剣舞でもさせたら?」

「お、いいね。お前、作ってくれよ」

「そんな暇ない」

 父は下手ではないが格別の腕でもない。腕がどうであれ、今どき刀装具だけでは生計が立たないことは岩本琴太郎と同様だ。ただ、芸術家気質の琴太郎とは違い、左絵門は雑多な装飾金具やアクセサリーなども手がけている。彫金のセンスは心春の方が上で、鳶が鷹を産んだと世間は評している。もっとも、心春には彫金で身を立てる気はない。

「三、四日、京都行ってくる」

「仕事か」

「バンドのライブ」

「お前にギターを与えたのは正解だったのか失敗だったのか、考えるよなあ」

「安物だったけどね。伝来の鐔の代金で買ったにしては」

「それでも大喜びで抱いて寝てたけどな。可愛いもんだったぞ、あの頃は」

 むろん、今はもっといいギターを何本か自力で買っている。敬愛するギタリストを訪ねて、教えも受けた。

「今だって可愛いでしょうが」

「幼稚園の頃には、可愛いではなく格好いいといわなきゃ喜ばなくなったけどな」

「どっちでも喜ぶよ」

「可愛いくて格好いいよ、お前は」

「えへへへへ」

 こういう父娘である。

 

 翌日、バンド仲間の才喜すみ花と東京駅で落ち合い、京都へ向かった。すみ花は芸大のヴァイオリン学生である。ロックバンドにヴァイオリンの参加は異色のようだが、特に珍しいわけでもない。

 すみ花との出会いは入学した年の芸祭(学園祭)だった。美校音校の各科一年生が組み、グループごとに張りボテの御輿を作って上野公園内をパレードするのが毎年の行事である。彫金とヴァイオリンは別のグループだったが、御輿制作の現場では互いに顔を合わせることもあった。しかし、心春は学内ライブ出演のためパレードには参加しなかった。

 学内ライブのあと、声を掛けてきたのが才喜すみ花だった。この日、ディープパープルの難曲を数曲披露したのだが、

「ジョン・ロードのキーボード・パートまでギターで弾きまくるなんて、すごいね」

 と、すみ花はハードロックに理解があることを示した。しかも聞く者の脳が溶けるような甘い声だ。

「あんなに楽しそうに弾く人、初めて見た」

「あなたは楽器やってて楽しくないの?」

「ヴァイオリンは可愛いと思ってる」

「可愛い?」

「うちは音楽一家だったから当然のように楽器始めたの」

 そういう「当然のように」世襲する学生が音校にはまま見られる。

 学内ライブは学生仲間と組んだ芸祭限定のステージだったが、学外では心春はプロと組んでいる。

「私もバンドやりたいな」

「やりゃいいじゃない」

「仲間に入れてくれる?」

「いや。そういう意味じゃなくて……」

 面倒臭そうだから避けようとする心春だったが、芸大は狭い学校なので、次第に言葉を交わすことも増える。おかしなもので、数日顔を見ないと、どうしているのかと気になる。

 何でも「可愛い」で表現し、楽器を嫁入り道具と考えている音校には珍しくもないタイプかなという第一印象だったが、後日の学内演奏会で彼女が弾くパガニーニを聴き、半端な才能ではないことを知った。こんな才能の持ち主に「一緒に練習しようよ」とアタックされると無下にもできない。

「心春に合わせてエレキバイオリン買ったんだよ」

「それ、私のせいか?」

「エレキバイオリンは骨組みだけでボディはスカスカだから、アコースティックより軽いかと思ったら意外に重かったよ」

「あなた、ロックバンドの沼にはまっちゃったら、親や先生に叱られないの?」

「父はなんでも屋みたいな音楽家だからジャンルにこだわらないし、母はもう死んじゃった。芸大の先生は生徒の人生に干渉しない。それがこの学校」

 それはそうだ。そんな経緯があって、すみ花は心春が参加しているバンドのライブにも出入りするようになった。プロのバンドである。

 ある時、ライブハウスのスピーカーが「飛んで」しまったことがあった。キーボード奏者がコンプレッサーの設定を勝手にいじったとかいじってないとか店側の音響担当者と大声で揉めているのを尻目に、すみ花がヴァイオリンでキーボードのパートを弾き始め、誰もを唖然とさせた。

 心春もキーボードのパートをギターで弾くことがあり、その怒濤の技巧を驚愕されたりあきれられたりするが、宮地のヴァイオリンは甘く周囲を包み込み、それでいて芯の強さもある。

 メンバーはあっさりと彼女の虜となった。

「前々からヴァイオリンのメンバー欲しいと思ってたんだ」

「嘘つけ」

 心春は吐き捨てるように呟いたが、それ以来、すみ花は不定期で助演しており、二人は「混ぜるな危険コンビ」と呼ばれている。

 芸大は美校も音校も実技最優先であるから授業の出席率など問題にされない。むしろ皆勤の学生などは教官から「何か目的があるのか」と怪訝な顔をされてしまうほどだ。

 

 今回のライブハウスは北野天満宮の近くだった。

「行ってみようよ、天神様」

 京都に前乗りした翌朝、ホテルで同室だったので、すみ花は寝起きの心春の髪をいじりながら誘った。心春は手鏡を自分の前に置き、されるがままになっている。

「私は下鴨神社の方がいい。音守とかいう音楽家向けのお守りをゲットしたい」

「北野天満宮から下鴨神社はバスで三十分くらいだよ」

「充分遠い」

「今さ、鬼を斬ったとかいう名刀が展示してあるらしいんだ」

「有難がるのはアニメかゲームのファンでしょ。私は二次元にはまったく興味がないっ」

「心春さあ、ジャネーの法則って知ってる?」

「何それ」

「時間の心理的長さは年齢に反比例するという法則。人は年を取るほど時間の流れを早く感じるようになる。新鮮な経験をすればその印象が強く残って時間を長く感じるけれど、変化のない慣れた生活を続けていると時間を意識しなくなり、あっという間に時が過ぎていく。だからね、充実した人生には好奇心とかチャレンジ精神とかフレッシュな気持ちが大切ということ」

「それはどうかな。ジャネーさんとやらには悪いけど、子供の頃の方が日々の変化もなく漫然と過ごしていたと思うんだよね。家と学校と習い事しかない生活なんだから。子供には見るもの聞くものすべてが新鮮だといっても、たかが知れてる。大人になってからの方がやることいっぱいあるし、行動半径も広がって見聞も深まってるよ。名刀見て、フレッシュな気持ちになるかなあ」

「刀の小道具作ってるんでしょ。何かインスピレーションが湧くかも」

「うーん。……それはいいけど、私の頭で遊ぶな」

 すみ花は心春の黒髪で奇妙な団子を頭頂部に高々と捻りあげている。結局、その頭で北野天満宮へ出かけた。

 

 菅原道真を祀った天神社の総本社「北野さん」は外国人の観光客であふれ返っている。灯籠が並ぶ石畳の参道を進むと、楼門の先は緑に囲まれ、平安の空気が満ちている。参拝者を迎えるのはきらびやかな三光門である。

 門を潜りながら、すみ花は装飾を見上げた。

「三光というのは太陽と月と星を指すんだけど、この門には太陽と月の彫刻があっても星はない。だから星欠けの三光門というんだって」

「だったら最初から二光門とすればいいじゃん」

「星は不動の北極星なのであえて彫らなかったと……」

「なるほど。この三光門こそが宇宙の中心ってか」

 そのような彫刻よりも建築を装飾している金具に注目してしまうのは彫金家の性だ。技術や方法を無意識に考察するし、表面処理にムラなどあれば気になる。

 外国人観光客から話しかけられるのを適当にやりすごしたり、カメラマンを頼まれたりしながら玉砂利を踏み進むと、目前に迫る天満宮の本殿はさすがに荘厳な桃山建築だ。回廊には吊り灯籠と欄間彫刻が整然と並んでいる。

「鳴くかとて聞きにきたののホトトギス」

 心春はあでやかな色彩の装飾を見上げながら呟いた。すみ花がにこやかに首をかしげた。

「『か』とか『とて』とか『なら』とか『でも』なんて人を疑う言葉でよくないよ。鳴け聞こう聞きにきたののホトトギス」

「するとホーホケキョという鳴き声が……」

「ホトトギスはホーホケキョなんて鳴かないよ」

「ここの境内は梅だらけだよ。梅にはウグイスでしょ」

「実際は梅の木にやってくるのは蜜を吸うメジロであって、ウグイスじゃないらしいけど」

 すみ花のこういう妙な知識も心春と波長が合う理由だった。