抜けた鬼鍾馗 第三回

抜けた鬼鍾馗 第3回 森 雅裕

 二日目もライブ後の物販を終えると、ライブハウスのオーナーが心春とすみ花の誕生年ワインを差し入れてくれた。

「ワインの専門業者から届いたんだ。その業者は君たちのファンから依頼されたらしい。何者かは知らん」

 打ち上げのために予約した店へ向かうにはまだ時間があったので、客席の隅でメンバーと飲んだ。ワインに添えられたカードには「最強の弦コンビに」とはあるが、贈り主の名前はない。心春もすみ花も学外活動しているし、ネット社会であるから、調べれば、弦コンビの二人が大学の同学年であることも誕生年もわかるだろう。いや、あるいは……。心春には疑念が湧いた。

 下鴨神社の言社では自分たちの干支の守護神を祀った社に参拝をした。

「誰かに見られている気配を感じたのは気のせいではなかったのかもね」

 心春の胸中を見抜いたように、すみ花がいったが、にこやかな口調なので悪い予感はしなかった。届けられたワインにも何らあやしい様子はなく、バンドのメンバーは喜んで飲んでいる。

 オーナーがさらに言葉を続けた。

「大阪で開催するフェスの事務局から参加しませんかという申し出が来てる。特に君たち女の子二人が興味を持たれてるらしい」

「最強の弦コンビは混ぜるな危険のまがまがしい『最凶』コンビだよなア」

 バンドのドラマーがスマホをいじりながら嘆いた。

「可愛い女の子は差し入れはもらえるし仕事のスカウトも来る。音楽が演奏家の人生経験を反映するものなら、人生の辛酸をなめた俺たち年長さんのミュージシャンも感動的な演奏をしていると思うんだがな」

 彼は起動したChatGPTに話しかけていた。ユーザーが発する質問に対して人間のように回答するAIチャットサービスである。バンドの男たちは心春よりも年上で、豊富な下積み経験も傷だらけの過去も持っており、日頃から冗談まじりに愚痴っているので、深刻な発言でもないのだが、AIは律儀に応答した。

「芸術家の身体は神の力の出口に過ぎない。だから世間知らずのお嬢様でも名演奏ができる。でも、神は気まぐれだからあっさり見捨てる。天才は長続きしない。でもね、心春ちゃんも長続きするために人知れず頑張ってるんだよ。彼氏も作らず、お洒落もせず、人生経験の足りない分は毎日の練習で補ってる。すみ花ちゃんはお洒落だけど」

「いいたいこといってやがる」

 と、心春は呟き、グラスを空けた。だが、

「あれっ。こいつに女子二人の名前を教えたかな」

 スマホを見つめながら、ドラマーは首をかしげた。

「変だな」

「変なのは機械が神の力なんて言い出すことよ。でも、うちの父は神も仏も信じないと常々いってるけどね。善人や人格者が早死にして、人間のクズがピンピンしてるのをさんざん見てきたからって……。神仏をモチーフとして格好よく彫刻することはあるけど」

「まあまあ。神様にも色々あるからね」

 と、すみ花。

「子は親の鏡。親から言い聞かされてきたことって、無意識のうちに人格を形成するよね」

「父からは竹内まりやの『駅』を聴いて涙を流すような人間になれといわれて育った」

 心春がしみじみと語ると、ベーシストも真面目な顔で訊いた。 

「それが何でハードロックやってるんだよ」

「バラードだって、出来らア」

 心春は近くに置いてあったアコースティックギターを取り上げ、手早く調弦した。

「この曲の歌詞の解釈には二通りあって、彼が私だけ愛していたのか、私だけが彼を愛していたのか、中森明菜バージョンは後者らしいけど、私は前者の竹内まりやバージョンだよ。野郎ども、泣け」

「駅」を弾き語りで聴かせた。突き放すような歌い方の底に情感をこめ、誰も止めないので、フルコーラスを終えた。

「これって東横線の旧渋谷駅が舞台になっているという説が……ちょッとお、何?」

 心春は少々あきれたが、バンドメンバーの男たちは涙ぐんでいる。

「いまいましいが、泣けるね。情景が浮かぶ。ひとつ隣の車両から、かつての恋人を見ながら、あそこが変わった、あそこが変わってない、と見ているんだ。心春にこんな経験があるとも思えないのに、才能って不公平なもんだぜ」

「しかも美人だしね」

 と、心春が自賛すると、ChatGPTがまた応答した。

「人生の一部だけ見て不公平と決めつけることはできないよ。歴史上の人物たちを見てごらん。のしあがる時はそれこそ神がかり的なのに転落する時はあっけない。順風満帆に見えても一寸先は闇。大きな病気したり家族に不幸があったり事件に巻き込まれたり裏切られたり、必ずトラブルに見舞われる。本人が見舞われなければ子や孫や家族がツケを払うことになる。それが人生。なーんにも羨ましがる必要はない」

 スマホが発する不穏な音声に、心春は眉根を寄せた。

「ちょっとぉ。さっきから何なのよ、そのChatGPT。ぶっこわれてるんじゃないの。寄こしなさい」

 心春が手を伸ばすとドラマーは抵抗した。

「やめてくれエ。俺は潔癖症だから他人にスマホさわられたくないんだア」

「へっ。こっちの手が汚れるわ」

 ドラマーがグラスを倒し、赤い中身がこぼれた。悲鳴があがる中、すみ花が落ち着いた声で、

「大丈夫大丈夫。ワインをこぼすのは縁起がいいんだよ」

 いいながら、彼女はテーブルにこぼれたワインで指先を濡らし、耳の裏にこすりつけた。

「Portafortuna! イタリアじゃこれが幸運のおまじないなんだよ」

 おや、と心春はテーブルを拭きながら心にひっかかるものを感じた。その幸運の習慣は以前にも聞いたことがある。

 

 ライブの日程を終えた翌日、帰京すると、舞妓がギターを弾いている絵柄のTシャツを左絵門への土産に差し出した。ライブハウスのオリジナルだ。左絵門の作業机には鉄鐔が置かれ、存在感を放っている。宝剣を手にして虞美人が舞う名場面で、傍らに項羽の兜が転がり、裏面には虞美人草が彫られている図柄だ。心春が京都へ出かける前には下図さえ満足に出来ていなかったが……。

「えっ。嘘。早すぎる」

「その虞美人の顔、お前そっくりだろ」

「いやまあ、そういわれると照れちゃうけど……」

 左絵門が苦心していた下図と比較した。

「下図より全然いい。とーちゃんにこんなセンスあった?」

 鐔に銘は入っていない。

「俺が彫ったんじゃねぇんだよ。岩本琴太郎だ」

「へ。どういうこと?」

「話せば長くなるんだが」

「じゃあいい」

「聞けよ。岩本がお前を嫁にくれといってきた」

「へ。幻聴?」

「俺が苦心してる中国故事の鐔を一日で作り上げたら、嫁にやるといった」

「勝手に決めないでよ」

「地金の下地を作って下絵を描き、彫刻、象眼した上で錆付けだぞ。テレビ時代劇に出てくる職人じゃあるまいし、一日でできるわけないだろ。しかし、奴は作ってきた」

「妙だなあ」

「うん。不思議だろ」

「あいつと私、結婚話が出るような関係ではないと思うんだけど」

「そっちかよ。一日で鐔を作り上げたことに驚けよ」

「最近、変なことが続くからあまり驚かないけど」

「それでだな、思い出した昔話があるんだが……」

「あとにして。奴の家に行ってくる。京都のお土産もあるし」

「だから話聞けよ。おーい」

 心春は外へ飛び出している。夜である。岩本琴太郎の自宅へ自転車を漕いだ。

 岩本派本家・岩本昆寬の末裔は昭和中頃まで四谷に残り、その昔には岩本を名乗る金工が浜松町にもいたというが、琴太郎の家は葛飾に多かった職人のひとつである。遠祖の岩本昆寬は養子に跡を継がせているので、いずれにせよ血はつながっていない。

 琴太郎は両親とは離れ、傾いた一軒家で一人暮らしである。心春は玄関ドアを小刻みに連打した。琴太郎が庭に向いた窓から顔を出すと、そちらへ回って睨みつけた。

「キンタロウ。血迷ったようだな。長年の友情をぶちこわす気か」

「口が悪いな。育ちが良くないのか」

「どんな育ちか知ってるでしょうが」

「お前、俺が作った虞美人の鐔を見ただろ。何か感じたか」

「お上手ですこと。それだけ」

「心が騒ぐというようなことは?」

「何いってんのさ」

「妙だな」

「妙?」

 この日も頭頂部に団子を作っていた。その髪を岩本琴太郎は無造作につかみ、窓越しに心春の顔を覗き込んだ。しばらく強い眼光で睨んでいたが、やがてその光も萎むように消えた。

「お前ではない」

「え?」

「俺が欲しいのはお前ではない」

「何いってんの。どういうことよ、それ」

「うーむ。お前に姉妹はいないな」

「知ってるでしょ。それが何……」

「帰れ」

「帰れだあ……?」

 窓を閉ざされてしまった。そのガラス窓に京都土産のスライス羊羹を投げつけてやろうと振りかぶったが、寸前で思いとどまり、持ち帰ることにした。帰り道で、土産のかわりに石投げてやりゃよかったと気づいたが、引き返すのも面倒で、まっすぐ帰宅した。

 左絵門はヘッドルーペに装着したライトをバッテリーにつなぐための配線をハンダづけしていた。モノ作りの仕事の半分は道具作りだ。LEDライト搭載のヘッドルーペも市販されているが、自分好みの道具を自作したくなるのが職人の性である。

 心春は床に噛みつくような足取りで仕事場から台所へ通り抜けた。

「人違いみたいよ。嫁に欲しいのは私じゃないってさ。それはそれで傷つくけど」

 心春は食パンを取り出し、スライス羊羹をのせてオーブントースターに入れる。冷蔵庫を漁って、アーモンドミルクを取り出した。心春がそんなことをやっているので、左絵門も食べる気満々で台所へやって来た。

「人違いとはどういう意味だ?」

「他に狙ってる女がいるってことでしょ。あいつ、脳回路がぶっこわれたんじゃないの。おかしいよ。キンタロウと呼んでもコトタロウだと訂正しなかった。このやりとりするのが挨拶代わりなんだけど……。長いつきあいなのに、今さら口が悪いとか育ちが良くないとか文句いってた」

「ふざけた野郎だな。大体、卒業後に大学に残って先生ヅラする奴にろくなもんは……」

「ところで、私が飛び出していく前に何かいいかけてたわね、とーちゃん」

「実は、気になる昔話があるんだよ」

 心春はスライス羊羹トーストを口に入れ、表情がにこやかになる。

「俺にもくれよ、それ」

「やだよ。昔話って何さ」

「うーん。奈良派三代目の利永に娘があってな。弟子の一人が嫁に望んだ。利永は下地もまだ出来ていない鉄の地金を渡して、一晩で鐔の彫刻を完成させたら許してやろうと約束した。元禄のその頃、江戸ではコロリが流行っていたので、病魔退散を祈念する鬼鍾馗の図柄を命じた。幕末に黒船がもたらしたコロリはコレラのことだが、江戸前期は原因不明の頓死を適当にコロリと呼んだらしい」

「それで?」

「無理難題をふっかけられた弟子は仕事場に籠った。明け方近くに利永が覗くと、人ではなく鬼が彫金台に向かい、タガネと槌を物凄い勢いで振るっていた。驚いた利永が悲鳴を上げると、鬼は振り返り、悲しげな表情で飛び出していった。その場に残された鐔は九割方完成していた。奈良派お家芸の鬼鍾馗図だ。……聞いてるのか、心春」

「聞いてる」

 トーストを食らいながら、心春は少しだけ真顔になった。

「まあ、ありがちな昔話よ。それが刀鍛冶の場合だと、一晩で百本の刀を打てという無理難題にチャレンジして、九十九本打ったところで正体が鬼とバレるのよね。それと同じようなことが令和の現代にも起こって、虞美人の鐔が作られた、と。銘がないけど、どうすんの?」

「代作してもらったということで、俺の銘を入れてギャラリーに展示……」

「とーちゃん」

「そういうわけにもいかねぇよな」

「ところでその鬼さん、悪い奴なら気に入った娘がいたら誘拐でもしそうなものだけど、親の許しを得ようというんだから良心的だわね」

「普通に市民生活を送りたいと望んだのかも知れん」

「その後、どうなったの?」

「鬼が残していった鐔を完成させたのは利永の弟子の利寿だった」

「ふーん。名人利寿が……」

「利寿は鐔に鬼を封じ込めたんだという話もある」

「利寿にそんな力があったのかな。だとしたら、利寿も人間離れしてる」

「その人間離れした利寿も利永の娘に惚れていたらしくて、嫁にもらってる」

「それがつまり、鬼が望んだ娘か。それで、利寿は恋敵である鬼を封じ込めた」

「しかし、その娘は息子を産んで、すぐに亡くなった。利寿は一代限りとか二代があるとか論じられているが、この息子が二代目だとする説がある。そして、利寿は再婚するが、後妻の産んだ娘を奈良本家へ嫁に入れる。相手は利永の子の利光だとか孫の利勝だとか異説があって、はっきりしないが、ともあれ、それがお前の遠い御先祖ということになる。以上が奈良家に伝わる昔話だ」

「つまり、あれか。キンタロウが大学で私に見せてくれた鬼鍾馗の鐔にまつわる物語か」

「銘は奈良小左衛門になってるが、利寿の手が入っていそうだと、お前はいっていたな」

「そんな匂いはしたね」

 利永の通称は七郎左衛門だが、小左衛門と記録した古書もある。江戸前期の職人に関する伝聞や通説などどこまで正確なのか、わからない。

「でも、よくもそんな由来のある鐔を売り飛ばしたもんね、とーちゃん」

「しょせん俺は出来の悪い養子さ。奈良家の親父も祖父さんもそのまた祖父さんも喧嘩ッ早くて遊び人だった落ちこぼれどもだ。御先祖なんて尊重する気になるかよ」

「あの鐔にそんな由来があったとすると……時空を超えた現代に何かが起きるのかも知れない。私が覆輪はずしちゃったし」

 覆輪の下に金象眼されていた阿倍仲麻呂の和歌も呪文のような役割だったのか。

 左絵門が冷蔵庫からアップルタイザーの瓶を取り出すのを見て、心春はいった。

「ワインを倒して中身をこぼすのは縁起がいいというよね」

「あー。お前のかーちゃんがそんなこといってたな。イタリア留学で経験したあっちの習慣だろ」

 左絵門は耳を指した。

「耳の裏につけるんだ」

「ふーん」

 心春はぼんやりと風呂場の方を見やった。風呂というやつは入るまでが面倒臭い。出てからも髪を乾かしたりするのが面倒臭い。何とか手短にすませられないかと不毛な考えをめぐらせ、左絵門がスライス羊羹トーストに手を出すのを見ても文句はいわず、

「ほれ。これもお乗せ」

 と、バターの容器も押しやった。

 

 翌日、大学へ行くと、岩本琴太郎の研究室へ直行した。怒鳴り込むような勢いだ。琴太郎は大量のタガネを研いでいた。

「来たな」

「来たよ、キンタロウ」

「コトタロウだ」

「あれっ。……ほおお。ふーん」

 雰囲気が昨夜とは変わり、通常運転に戻っている。

「昨夜いってたお前じゃないってどういう意味よ?」

「鬼が……」

「あ?」

「鬼が探し求めている運命の女はお前じゃないという意味だ」

「何いってるの。私を嫁にくれとうちのとーちゃんにいったのはあんたでしょ」

「俺じゃないんだ。俺に乗り移っていた鬼だ」

「……何か変なものでも食べたのか、キンタロウ」

「人違いだったんだよ。鬼はかつて奈良派の娘を嫁にしようとして果たせなかったから、その血を引く末裔を求めているんだ」

「やばいよキンちゃん。悩みがあるなら聞くぞ」

「悩みというか何というか……」

 琴太郎は桐箱を心春の前で開けた。

「図録の写真撮影のために写真センターに預けてあったんだが、問題が発生してな……」

 鬼鍾馗の鐔である。赤銅の覆輪ははずれたままだ。しかし、覆輪をはずしたあとから和歌の金象眼が現れたはずだが、それが消えている。その残骸の溶け落ちた金がもつれた糸クズのように桐箱の中に転がっていた。何よりも驚いたのは、橋桁の下で橋脚にしがみついて隠れていた鬼の姿もないことだ。きれいさっぱり抜け落ちているのである。

「なんじゃ、こりゃあ」

「鬼は鐔から抜け出した」

「抜け雀というのは落語にあるけど、こいつは抜け鬼ってか……。さすが名人利寿が仕上げた彫刻」

「和歌の金象眼は溶け落ちていた。和歌が消えたあとに鬼が抜け出た」

 やはり、和歌は鬼を封じ込める呪文だったようだ。

「赤銅覆輪は和歌を保護するためのもので、それを私がはずしてしまった……」

「しかし、お前が金象眼を溶かしたわけじゃないからな。どういう力が働いてこうなったのか、それはわからん」

「ともあれ、この鐔の画題は鬼鍾馗でなくただの鍾馗さんになってしまった」

「抜けた鬼はあろうことか俺に取り憑いた。取り憑かれていた間の記憶はあるんだ。お前を嫁に欲しいと言い出したことも覚えているが、むろんそれは鬼の仕業だ。お前が鬼の求める花嫁候補なら、あの虞美人の鐔を見れば、鬼の魂に触れて感動するはずだったんだが」

「それはお生憎だったけど、私がお望みのお嫁候補ではなかったと悟って、鬼はあんたから離脱した?」

「そうだ。今朝、目が覚めたらいつもの俺に戻っていた。今、奴がどこにいるかはわからん」

「そりゃ、いちいちどこへ行きますと別れを告げてったりしないだろうけど……」

「鬼に取り憑かれると、超人的な力が出るようだ。あの鐔は自宅の仕事場で作ったが、道具が鬼の力量についていけなくて、タガネやヤスリが何十本もつぶれたり折れたり……錆付薬もうちにあったのを全部使い切った。だから、こっちの研究室に置いてあったタガネをこうして手入れしてる。残念ながら、憑きものが落ちると、俺の彫金の腕も元に戻ってしまったが」

「そもそもどういう類いの鬼なのよ」

「鬼の遠い過去の記憶は断片的にではあるが、俺の脳に転写されて残ってる。阿倍仲麻呂の化身というか、仲麻呂の怨念が具現化したというか、天平時代に生まれた鬼だ」

「随分、話が遡っちゃったわね。ざっと千三百年後の学校では、天の原ふりさけ見れば……と例の和歌を暗誦できなきゃ教師に怒鳴られることをどう思いますかと仲麻呂さんに訊いてみたいわ」

「今度会ったら訊いてみろよ」

 阿倍仲麻呂は七一七年、第九次遣唐使として入唐している。三歳年上の吉備真備も一緒である。仲麻呂は主に文学の分野で官職に就いたが、皇帝の側近、顧問という扱いだったようである。七三四年、真備ら他の遣唐使は唐を離れ、種子島漂着を経て、翌年に帰国。仲麻呂は玄宗が手元から離さず、唐に残っている。

 七五二年、吉備真備を含む第十二次遣唐使が入唐し、高官に登っていた仲麻呂が彼らを接待、案内している。七五三年、帰国する彼らの船団に仲麻呂も便乗するが、当時の航路は命がけであるから失敗。やむなく現在のベトナム経由で唐に戻り、その後は玄宗、粛宗、代宗と歴仕して、七七○年に七十三歳で没している。

 一方、吉備真備は最初の遣唐使を終えて帰国すると、異例の昇進を果たしたものの、宮中の権力争いの余波を受け、九州へ左遷されることになる。のちに呼び戻されて二度目の遣唐使をつとめ、その任を終えると今度は屋久島漂着を経て帰国。しかし再び九州太宰府へ飛ばされ、新羅に対抗する軍備を整え、帰京後は藤原仲麻呂の乱の追討軍を指揮して鎮圧に功を挙げるなどの活躍を見せ、ついには右大臣へと破格の出世を遂げた。七七五年、八十一歳で没。仲麻呂も真備も当時としては長命といえる。

 琴太郎は自慢するかのように語った。 

「阿倍仲麻呂は唐の玄宗に重用され、吉備真備もまた玄宗から気に入られた。真備は重臣たちのやっかみを受けて、幽閉されたり、難解な予言詩の読解力を試されたり、囲碁の勝負を課せられたり――ちなみに日本に囲碁をもたらしたのは真備だとする説がある――かくして幾度も危機に陥ったが、そのたびに仲麻呂が生きながら鬼となって救ったという。仲麻呂はついに帰朝できなかったが、真備は仲麻呂の化身である鬼に守られながら帰朝した。であれば、その鬼も日本に渡っていることになる」

 琴太郎は口調が真面目であればあるほど、どこか滑稽な男である。心春の口も軽くなる。

「鍾馗さんは抜け出さないのかしら。鬼をとっ捕まえるために」

 鐔に彫られた鍾馗は困り顔だが、これはもともとである。心春はその意味ありげな表情を見つめた。

「物騒なことをいうんじゃないよ、お前は。この上、鍾馗まで抜けたら始末に困るだろ」

 心春は指を立てて空中に回した。

「鬼が日本に渡来しているなら、鍾馗もこのあたりをうろうろしているんじゃないの? 鬼と鍾馗なんてセットみたいなものなんだから」

「鬼と鍾馗をセットにしているのはお前たち奈良派の彫刻だろ」

 病に伏した玄宗の夢に現れて鬼を追い払い、回復させたのが誰あろう鍾馗だった。玄宗の時代には臣下は鍾馗図を除夜に下賜され、新年にはそれを邪気除けとして門に貼る風習が行われていたというから、吉備真備の時代には鍾馗も日本に入っていただろう。

 平安末期の国宝絵巻「辟邪絵」に鍾馗が描かれているからこの頃には日本で普及しているわけである。この絵巻は地獄がテーマらしいが、ここで責めさいなまれているのは人間ではなく、疫病や災厄をもたらす疫鬼である。悪鬼を退治する善神を描いた作品であることから国宝指定は「辟邪絵」という名称となっている。

 中国では明代末期から清代初期には鍾馗が端午の節句の飾り物となり、それが日本でも江戸時代末には定着するわけだが、勇ましいその風貌は疫鬼と戦う姿であり、赤色が病魔退散には効果倍増と考えられて赤一色の赤鍾馗が絵画に描かれることもあった。

「真備の最初の帰国の年(七三五)から二年ほど天然痘が大流行している。当時の日本の人口の三○パーセント前後が死んだという推計もある。疫病は疫鬼・疫神がもたらすと考えられていた時代だ。鍾馗に祈りたくなるかもな」

「帰国した遣唐使が天然痘を持ち込んだのかも知れないけどね」

「そういう見方もある」

「で、この鐔、この状態で美術館に展示するの?」

「和歌や鬼が消える前の写真は撮ってある。写真を抜け殻の鐔と並べて展示することもできるが、検討中だ。鐔から鬼が抜け出すなんて『鬼神展』の企画にぴったりではあるが、荒唐無稽だもんな。持ち主が今日、来ることになってる。そこで相談だ」

「持ち主は何者?」

 岩本琴太郎はカード入れからその人物の名刺を取り出して寄こした。

 京都にある美術館の館長という肩書きのみがついている。仰々しい肩書が並んでいるわけではないのが、かえって大物アピールしていた。名前は「土生鐘平」とある。

「どぶ……さん?」

「国語が嫌いなお前らしい大胆な読み方だが、『はぶ』さんだ。文化庁を退職して京都の美術館の館長をやってる」

「私は教師が嫌いなのであって、国語が嫌いなわけでは……」

「会ってみるか」

「は?」

「どぶさんに」

「そうね。覆輪をはずしちゃった張本人としては……」

 その日の午後、土生という初老の男はやってきた。