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鬼鶴の系譜 甲賀編 第三回

鬼鶴の系譜 甲賀編 第三回 森 雅裕

 心釈寺を出たカナデは付近を一周して警戒したが、細川家の家臣や野武士どもの姿はない。それから、山里の村へと足を向けた。

 途中の山道で、何気なく咳き込んだ瞬間、激しく嘔吐してしまった。別に気分が悪いわけでも苦しいわけでもない。何の前触れもなく胃液が逆流してきて、普通の生理現象のように何度も吐いた。驚いたが、喉がヒリつく以外には身体は何ともないので、村まで一気に下った。朝霧が付近を包んでいる。

 長老の善作の家を覗いた。朝食の支度中だった。

「武士どもを見なかったか」

「お前はつくづく礼儀を知らん娘だな。挨拶をしてくれれば、一緒に食うかと誘ってやるものを」

「食べたくはない」

「武士というのは、あの武家の妻女を追ってきた連中のことか。あんな端武者ではない、身分ありそうな侍が、彦弥のところに来ているぞ」

 彦弥というのは村の長である。

「いつから?」

「昨夜は隣村に泊まって、今朝早くにこの村へ着いたようだ。お供も数人……」

「追っ手どもの仲間かな」

「知るか。ああ、それからな、男館の侍が一人、村はずれで死体になっておるのを村人が見つけた。川っ淵の、地蔵が立っているあたりだ」

 甲賀の奥ノ里へ使いに出した者だろう。やはり、殺されていたのだ。

「あとで弔ってやる。今は……」

「忙しいのか。おい。汁に入れるから、畑から根菜を抜いてきて……」

 善作はいいかけたが、カナデはもう彼の前にはおらず、朝霧の中を走り出している。

 彦弥の家は村の中では一番大きく、複数の家屋が寄り添って建っている。数軒は廃屋と区別がつかないような粗末な小屋にすぎないが、母屋はそこそこ立派で、庭も広い。

 その庭先に血の匂いが漂っている。武士が数人、うずくまって動かない。切腹したらしく、庭を汚された彦弥や百姓たちが悲鳴まじりの抗議の声をあげながら、掃除していた。

(何が起きた……?)

 母屋を回り込むと、裏に畑へ続く畦道があり、用水路も流れている。のどかともいえる風景の中に一人の武士が立っていた。切腹の騒動に背を向けるような、どこか孤独な佇まいだ。千世の首を狙う追っ手とは醸し出す空気が違う。

 殺気のような剣呑さは感じないので、カナデは自分の気配も消さずに近づいた。足音に振り返った武士は、二十歳そこそこの若者だった。無言でカナデを見つめている。

(あ……)

 これが千世の夫、細川忠隆かと直感した。

「心釈寺へお越しになりますか」

 カナデは無礼な娘である。いきなり、そう訊いた。

「参る」

 若侍もそれだけ答えた。カナデはもう踵を返している。

 

 

 カナデは女たちが身を潜めている炭焼き小屋へ行き、心釈寺は無事だと報告した。安堵の声をあげる女たちの中に月華院はおらず、彼女は林の中に儚げな後ろ姿で佇み、上空を見上げていた。

 カナデが近づいても、振り返りもせずに、いった。

「鷹じゃ」

「はあ」

「今年、この山で三羽の雛が孵った。二羽は夏に巣立ちしたが、一羽が遅れていて心配した。あれがその一羽じゃ」

 山から山へ、翼を広げた褐色の鳥が飛翔している。

「賊どもは追い払いました」

 カナデが告げると、月華院は遠い目つきのまま、呟いた。

「お前は風情を解さぬのぉ」

 カナデに向けた月華院の顔が、この明朗な女人には珍しく、曇った。

「血の匂いがする」

「かすり傷です」

「かすり傷でも十箇所くらいありそうじゃが……大事ないか」

「平気です」

 月華院は吐息混じりに破顔した。

「かたづいたか」

「はい。もう襲われることはなさそうです」

「なんで、そういえるのか」

「細川忠隆様がお出ましです。まもなく心釈寺へお見えになりますので、忠隆様から事情をお聞きください」

「ほお……」

 月華院は千世を呼び、

「御亭主が会いに来られたようじゃ。さてさて、どんな話を聞かせてくれるかの」

 歌い出すかと思うほど明るい声で女たちを促し、心釈寺へ戻ろうとしたが、カナデは戸惑った。

「あ、あの。寺は血と糞尿で汚れております。男館の老臣方と手分けして掃除をいたしますので、しばらくしてお戻りください」

「血と……何? そんなに賊どもを痛めつけたのか。手加減を知らぬの、お前は」

「申し訳ありません」

「私は修羅場には慣れておる。かまわぬ。寺へ戻る」

 若くないくせに、月華院は誰よりも軽い足取りで歩き出した。月華院は慣れているにしても、他の女たちは血なまぐさい経験に乏しいのだが……。

 

 

 心釈寺へ戻ると、汚物だらけの惨状を目のあたりにして、女たちは悲鳴をあげ、寺を救ったカナデに感謝どころか抗議の視線を向けた。その冷たい目から逃げたカナデは、老臣を二人引き連れて、村はずれで見つかったという使いの者の死体を回収に向かった。

 荷車に死体を積み、押しながら、カエデは立ったまま気絶するように寝てしまった。尻餅をついて目覚め、老臣たちから笑われた。

「器用だの、お前は」

 自覚できないほど身体は疲労していた。立ち上がることができない。

「俺たちが牽いていくから、お前は寝ていろ」

 荷台に這い上がり、死体の横にゴロリと転がった。

 わずかな時間ではあったが、カナデが警戒心もなく熟睡することは珍しい。眠りから目を開いた時、荷車の傍らを歩く人影が増えていた。細川忠隆とその侍臣だった。

「途中で一緒になった」

 忠隆がそれだけ、いった。荷台の死体は細川家の家臣が作ったものだが、それについては何もいわない。戦国に生きる武将は、下っ端の生死などいちいち気に留めないのだろう。

 カナデは荷台から降りたが、忠隆の侍臣たちが押すのを手伝っており、人手は足りている。忠隆は口には出さないが、少しは申し訳ないという気持ちがあるようだ。カナデは彼から少し下がって歩いた。

 山道を登ると、寺の手前に小さな平地がある。老臣たちがそこに穴を掘って、死体を埋めていた。運んできた死体もそこで下ろした。

 忠隆はこの殺伐とした作業を見やり、少しだけ眉を動かした。

「取り込み中のようだな」

 泣き笑いというものがあるなら、忠隆の言葉を聞いてカナデが作った表情は怒り笑いというべきものだった。

「この有様を作り出したのはお宅様の御家中でございますよ」

「それはわが父から千世の首を取れと命じられた者たち。私は今朝、この山里に到着したので、制止できなかった。彼らは心釈寺を再び襲うつもりで、火をかける準備を始めていたが、それはやめさせた。もうここへは来ぬ。細川家の京都屋敷へ戻るよう命じたが、腹を切りおった」

 細川家の父と子から相反する命令を受けて、彼らも追いつめられたのだろう。武士は農民を搾取する支配階級だが、問題が発生すれば死ぬしかない規律を背負っている。くだらない、とカナデは目元を暗くした。

 忠隆はさらに、いった。

「雇い入れた野武士どもも金を渡して追い払った。再度、心釈寺を襲撃していたら、彼らにもさらなる死者が出ただろう。寺の守りは固いようだ。見かけによらぬ強者がいるものと見える」

 誉めているらしいが、カナデにしてみれば、うれしくはなかった。

「お濃の方様にお取り次ぎ願いたい。細川忠隆が妻に会いに参った」

「本堂や庫裏は掃除中につき、しばらく鐘楼でお待ち願えますか」

 鐘楼の下には縁台があり、腰を下ろすことができる。そこに忠隆を待たせ、月華院と千世に来客を知らせた。

「なかなか妻思いの夫と見えるの」

 月華院は本気で感心している。

「数寄屋で会おう」

 茶室である。カナデは尋ねた。

「お点前をなされるのですか」

「用意など適当でよいぞ」

 忠隆夫妻をどういう位置関係で座らせるか、月華院は配慮したのかも知れない。

 茶室は小さく粗末なものだが、障子を閉ざした連子窓は大きく、明るい。点前座に月華院、客座に夫婦が並んで座った。忠隆の侍臣は外に待機し、カナデは半東(助手)として、月華院と客の間に控えた。

 細川忠隆は細身のヤサ男で、文人のような印象だが、関ヶ原でも戦功をあげ、家康から感状を得るほどの武将である。

「この度は当家の者どもが御迷惑をおかけいたしました」

 月華院に対しては、さすがに素直に謝罪した。

「父の家臣どもが妻を追って出たと知り、何もかも捨てる覚悟で駆けつけて参りました」 

「細川の家をお捨てになりますか」

「はい」

「それは見上げた心根。しかし、千世殿は渡さぬ」

 月華院の口調は軽く、あっさりしたものだ。忠隆も千世も、緊張するよりも呆気にとられている。

「今すぐには渡さぬ。千世殿はここで修行させる。千世殿が細川家から『死ね』といわれぬようになったら、迎えに来られるがよい」

 月華院は笑顔でこの場の空気を支配する。誰も逆らう気にならず、むしろ従うことを喜びと感じさせる。人徳である。

 しかし、この未亡人はお人好しというわけでもない。月華院は忠隆と千世を見比べ、不気味なほど低い声で、いった。

「千世殿にはここで粗衣粗食に耐えてもらうことになる。昨夜、土足で踏み込んできた者どものせいで、障子も調度品も蹴破られ、破れ寺になってしもうた。さぞかし、清貧の修行が進むことであろう」

「これは気の利かぬことで……。京都に戻りましたら、寄進をさせていただきます」

「左様か」

 月華院は子供のように笑った。ほんの一瞬だったが。

「茶菓子をどうぞ。この寺で作った饅頭です」

 小豆を甘く煮て餡を作り、小麦粉を練って自然発酵させた皮で包み、蒸している。

「千利休が茶菓子として好んだのは麩の焼きだったが、たいしてうまいものでもなかった。あれはおかしな男で、まずいものを有り難いと心得ていた。しかし、この饅頭は私が暇にまかせて作り上げた、彫心鏤骨百折不撓面壁九年とはまア程遠い、山中暦日冷吟閑酔暗中模索の菓子。しかし、濃姫饅頭とでも名付けたい珍品じゃ。あははは」

 いいながら、自分から笑い出した。

 月華院は二人の客が茶を喫するのを見届け、席を立った。カナデも外へ促された。茶道口から退室すると、外は陽が傾き、影が長くなっている。茶室に残ったのは忠隆と千世の二人だけだ。

「しばらく放っておけ。夫婦だけの話もあろう。邪魔はせぬことよ」

 月華院は余り物の饅頭をカナデに寄こした。昨夜から何も食べていない。手にした饅頭の重みで、忘れていた空腹を自覚した。

 気のせいか、境内には掃除後も異臭が残っているが、夕食の支度をせねばならない。

「忠隆様やお供の方々の食事はどういたしましょうか」

「お前はのんきじゃのう」

 月華院にはいわれたくない気がした。

「尼寺で男の客をもてなすわけにはいかぬ」

「お茶は差し上げたのに、ですか」

「細川家といえば、武勇のみならず、代々が世に聞こえた茶人でもある。忠隆殿はどうなのか。人物を見極めるために茶をふるまった」

「あ……」

「単なる暇つぶしとでも思うたか」

「恐れ入りました。それで、忠隆様をいかが見極められましたか」

「あとで握り飯でも持たせてやるがよい」

 まあ、好感を抱いたということなのだろう。

「それにしても、カナデ。お前は強いな。それに若く美しい。こんな山の中で老い朽ちていくのは惜しい」

「結構、楽しくやっておりますが」

「私は七十になる。もうあまり長くないぞ。私が死んだら、お前は京都へ出よ」

「月華院様は六十六では……?」

「そうだったかの」

「京都へ出たら、私のような田舎娘、落ち着かぬ日々を過ごしそうでございますな」

「若い者が落ち着いてどうする。よいですね、きっと申しつけましたよ。私の遺言と思いなさい」

「……はい」

 カナデは子供の頃に一度だけ、叔父である森忠政の屋敷を訪ねて京都へ行ったことがある。あの町では、時のたつのが早いだろう。そこで暮らす自分など、簡単には想像できなかった。

 

 

 これより四年後の慶長九年(一六〇四)、細川忠隆は廃嫡となって細川家後継者の資格を失い、剃髪して休無と号し、祖父・細川幽斎の支援を受けて、千世とともに京都で蟄居した。二人の間には四人の子が生まれたという。幽斎が没した慶長十五年以降、千世は実家の前田家へ帰り、加賀藩の重臣に再嫁したと伝わる。

 忠隆は父・忠興から領地を与えるという和解案を固辞して京都を動かず、正保三年(一六四六)に没した。

 月華院ことお濃の方の没年および墓所は不明である。

鬼鶴の系譜 甲賀編 第二回

鬼鶴の系譜 甲賀編 第二回 森 雅裕
 
 翌朝、カナデが使いの者を甲賀の里へ送り出したあと、二人の武士が現れ、案内を請うた。

「われら細川越中守(忠興)家中の者でござる」

 見ず知らずの者を生活の場である庫裏などへは通したくなかったし、そもそもここは男子を歓迎しない尼寺である。刀を預かり、本堂外陣の脇にある一室で、月華院に面会させた。

 カナデは傍らに控えた。客から見えぬ位置に小太刀を隠している。

 武士たちが長々と挨拶するのをじっと見つめていた月華院だが、彼らの言葉が途切れてもしばらく沈黙していた。空気が重くなったところで、

「あ。終わったか」

 と、気づいた様子だった。まったく緊張感がない。

「で、用向きは?」

「こちらに忠隆様の奥方、千世様がおられますな」

「さて。ここでは浮世のことはわからぬな」

「お引き渡しを願いたい」

「仮にそのような者がいたとして、私を頼ってきたならば、これを守ってやるのが武士の道というもの。私が天下の総大将の嫁であったこと、知っておろうな」

「それは、はい、もちろんでございます」

「ならば帰って、信長の未亡人がそう申したと、越中殿に伝えるがよい」

 居丈高に撥ねつけるのではなく、抑揚あるのどかな口調なのだが、相手に有無をいわせない空気がある。

「そんなことより、この山中では食べるものもあるまい。握り飯を作らせるゆえ、帰り道で食らうがよい」

 月華院もカナデもどれほど必要かは尋ねない。しかし、五食分を用意した。武士たちは恐縮しながらすべてを持ち去った。他にも仲間がいるらしい。 

「あれで引き下がりましょうか」

「あははは」

 月華院は屈託なく笑った。

「おめおめと引き下がったのでは面目が立たぬ。面子をつぶされるのを何よりも嫌う。武士とはそういうもの」

「では……」

「また来るであろうな」

 そういいながら、この能天気な女性は心配する様子などない。

 しかし、庫裏から姿を見せた千世は緊張を隠せない。

「踏み込んでくるでしょうか」

 月華院の明るさにつられて、千世も微笑んだが、頬がこわばっていた。自分の身よりもこの寺を気遣っている。そればかりでなく、この寺で乱暴狼藉に及んだ場合の細川家の今後をも憂慮していた。

 信長にはおよそ三十人もの子があったが、主立った男子は関ヶ原合戦の以前に歴史の表舞台から消えており、織田家にかつての威光はない。しかし、信長未亡人の隠棲場所を襲撃したとなれば、家康に細川家を非難する口実を与えるようなものである。

 カナデは千世の胸中を察し、いった。

「あの侍たちが手を汚す必要はありません。中山道に巣食う野武士、夜盗を雇い、襲わせる。それくらいの知恵は働くでしょう。そして、私たちの口をふさぐため、皆殺しにしようとするはず」

「ははは。カナデらしい性悪な考えですね」

 月華院は外見に似合わぬ豪快な笑い声を放った。カナデは真顔だ。

「そんな者どもを雇う前に、あの侍たちを屠ってしまいましょうか」

「お前は物騒なことをいうのぉ……。まだ彼らが襲ってくると決まったわけではあるまい。じゃが、腕をこまねいてもおられぬ」

 女館には月華院の侍女と使用人が五人。男館には武士と使用人が六人。武士は戦力としては頼りない老臣である。他に心釈寺には五人の尼僧がいる。

「尼僧だけでも村へ逃がしたいが……」

 月華院はそう気遣ったが、尼僧たちは拒否した。

「月華院様が一緒でなければ、どこへも逃げませぬぞ」

 逃げたところで一時的に避難するのがせいぜいで、細川家の侍たちが本気で皆殺しを実行するなら、安全な場所などない。村人を巻き添えにしてしまう危険さえある。

 とりあえず、カナデは偵察に出て、周囲を見回った。寺の表と裏それぞれに通じる山道に、見張りらしい侍たちがいた。カナデは彼らを迂回して山を下った。

 敵の主力は農家を借り、集まっていた。カナデは慎重に近づき、勢力をうかがった。細川家の家臣らしい武士が二人、人品骨柄いかにも卑しそうな男が約十人。野武士か夜盗だろう。手回しよく雇い入れたらしい。山道を見張っていた者たちを含めると二十人近いが、特に武術練達らしき者はいない。

 カナデは心釈寺へ戻り、男館の老臣たちに寺の周囲を警戒するよう声をかけた。彼らも戦の素人ではないから、守りの固め方は承知している。それから武器を点検した。

 

 

 夕刻、細川家の家臣が再びやってきた。今朝と同じ二人連れだ。月華院は庫裏の裏手で干し柿作りの最中だった。時期的にはまだ早いので少量だが、千世に作り方を教えていた。

「忙しいのになア」

 本堂の回廊から外陣脇の室内に入った。むろん、カナデが付き従っている。頭を下げる武士たちを、月華院は立ったまま見下ろした。不機嫌である。

「弁当まで持たせてやったのに、帰らなかったか」

 武士は一瞬、謝りそうになったが、あわてて気を取り直し、いった。

「今一度、申し上げます。千世様をお引き渡し願いたい」

「そちらが何度いおうと、私は二度はいわぬぞ。返答は変わらぬ」

「明朝までお待ちいたします」

「明朝になっても、引き渡さぬ時は?」

「…………」

「口に出せぬか。おぞましいことを考えているようじゃの」

「御深慮くださいますよう……」

 脅迫を言外に漂わせている。月華院がさっさと背を向けてしまったので、カナデは彼らを山門の外まで見送りながら、

「明朝まで、どちらに御滞在ですか」

 しらばっくれて、訊いた。

「山を下ったところの百姓家に」

「お二人だけですか」

「いや、あと三人ほど……」

 嘘だとわかっているが、彼らを油断させるために、カナデは、

「このあたり、冬は食べ物に不自由しますが、今は……。よい季節にお出でになりましたなア」

 のんきに別れを告げた。

 庫裏に戻ると、月華院が珍しく真顔で呟いた。 

「細川家の者ども、力ずくで千世殿の首を取る気じゃな」

「寺の出入りは見張られています。先ほど、確かめてまいりました」

「お前のことだから、敵の勢力も見てきたであろう」

「およそ二十人」

「ほお。食べ物だけでも大変じゃな。となると、早急にしかけて来よう」

「はい。おそらく」

 しかし……おかしい。カナデが育った甲賀の里というのは、千手山、千足山と連なる山と谷を越えた山間の村で、地元では奥ノ里と呼ばれている。その奥ノ里にやった使いの者が戻らない。男館の老臣の足では迅速に往復できないかも知れないが、警護に駆けつける甲賀者は鍛えられた「忍び」である。なのに、一人も心釈寺に現れない。

「お使いは細川家の侍たちに捕らえられたのかも知れません」

 最悪、殺されたかも知れない。だが、口には出さなかった。

「すると、助けは来ぬということか」

「そう覚悟した方がよろしいかと」

 襲撃されることを予測し、寺の構造など知られぬよう、本堂の一部しか、あの武士たちには見せなかった。

「では、籠城じゃな。守りは固めておけ」

「承知」

 そうはいっても、時間も人手もまったくないから、やれることは少ない。男館の老臣たちが出入口は固めている。女館も準備を整えた。

 もともと境内はいたるところに玉砂利を敷き詰めてあるが、今日は落葉の清掃もやめた。近づく者は足音を消せない。さらに夜襲にそなえて、本来は鳥獣から田畑を守るための鳴子を寺の周囲にめぐらせ、あるだけの刀槍を部屋
や廊下に配置した。

 火をかけられるのが一番厄介なので、水桶も各所に置いたが、これは気休めでしかない。やはり、先手必勝だ。

 陽が落ちると、月華院には無断で、カナデは寺を抜け出た。籠城は援軍を待つための作戦だ。援軍が来ぬなら、打って出るしかあるまい。地の利はこちら側にある。

 千世や女たちが脱出するのを警戒して、心釈寺の周囲に見張りの男たちが配置されていた。細川家の家臣ではなく、身なりの悪い野武士、夜盗の類だ。カナデは一人ずつ倒した。

 彼らの主力はもう山の下の百姓家にいない。だが、たむろしている場所は見当がつく。山道の途中に仏堂と物置を兼ねた小屋があり、そこに人の気配があった。

 昼よりも数が増え、二十人を超えている。細川家の家臣らしい武士は三、四人で、あとは雇われた食い詰め者たちだった。彼らはこんな山の中で夜明かしする気はあるまい。今夜のうちに行動を起こすだろう。

 カナデは暗闇に乗じて、仲間から離れていた細川の家臣、夜盗をここでも二人、音も立てずに殺した。死体は山林の中へ隠した。武士たちはこの山寺に強敵がいるとは思いもよるまい。消えた連中は逃亡したとでも考えてくれればよし、様子が変だと警戒心を持たれたとしても、ここで少しでも敵の戦力を削いでおきたかった。

 しかし、何人もかたまっている真っ只中へ飛び込む危険は冒せない。細い身体を翻し、心釈寺へ戻る。冷たい風を頬に受けて、雨を予感した。

 女たちを庫裏に集めた。この寺を再建した時、甲賀の者たちが協力し、月華院の寝所には、万一にそなえた隠し部屋が作られている。そこから地下道に潜って、境内のはずれにある雑木林へ逃れることもできる。

「すぐ逃げられるよう、心づもりをお願いします」

「面倒じゃな。お前に外で始末してもらえばよかったな」

 いわれるまでもなく、やれるだけやったが、カナデは黙っていた。

 その夜、女たちは月華院の寝所とその隣室に床を並べ、作業着姿で寝た。カナデだけは刀を抱えて廊下に座り込んだ。雨音が外を叩き始めた。

 夜が更け、寝静まった闇の中、衣擦れの音が近づいてきた。千世だ。

「雨が強くなりましたね」

「はい」

 侵入者の足音は消されてしまうが、むしろ雨は歓迎だ。放火されにくいだろう。

「カナデ殿。休まぬのか」

「こう見えても休んでおります」

「月華院様をお守りするのが、そなたの役目なのか」

「あ。そういえば、何が私の役目なのか、誰からも一切いわれたことがありません」

 カナデは少しだけ思案顔となったが、すぐに振り切った。

「ただ、お側に仕えよ、と森家や伴家からいわれただけです」

「母は伴家の者ということじゃったが……、甲賀のおなごは皆、勇ましいのですか」

「私が生まれてまもなく、甲賀は中村一氏(豊臣政権三中老の一人)の支配を受け、甲賀武士と呼ばれた地侍は没落していきました。それでもしぶとく残ったのは、男も女も、勇ましいというより変わり者ばかりです」

「そなたの母は?」

「私が幼い頃に亡くなりました」

「左様か。月華院様が母がわりということか」

「千世様」

「何か」

「私のような山育ちでは月華院様の話し相手には不足。千世様におまかせします」

「私のような者でよろしければ……。干し柿作りなどではお役に立ちませんからね」

「一年もここにいれば、季節ごとの野良仕事も食べ物作りも覚えます」

 カナデの口調はどこか冷淡だが、千世は微笑んだ。この寺の一員として、長期滞在を認めたという意味に聞こえたからである。

 

 

 深夜にはさらに雨足が強くなった。その雨音に混じり、鳴子がざわめくのを聞き逃さなかった。カナデは女たちを起こし、

「逃げてください」

 隠し部屋へ促した。月華院は太刀をつかみ、

「彼奴ら、明朝まで待つといっていたが、夜討ちをしかけてきたか」

 戦う気満々だが、カナデはその背中を隠し部屋から地下道へと、力まかせに押し込んだ。ここから雑木林へ脱出すれば、その先に炭焼き小屋がある。とりあえず雨風はしのげる。

「昼までに私が迎えに行かなかったら、山を越えて、甲賀の奧ノ里へ逃れてください」

「昼? そんなにかかるのか」

 月華院は不満げに、いった。

 

 

 女たちを逃がすと、カナデは灯りをすべて消し、庫裏の闇の中に座り込んだ。外では男館の老臣たちと侵入者が打ち合う音が響いている。

 足音が近づき、縁側の障子が乱暴に開けられ、男たちが躍り込んできた。その瞬間、カナデは小太刀をふるい、先頭の男の腕を斬り落とし、二人目の喉を裂いた。

 男たちの絶叫と戸惑いの声が交錯し、大きな音を発して放屁し、脱糞する者もあった。それが血と混じり、猛烈な悪臭が炸裂する中、カナデは縁側へ転がり出て、陰影に隠れた。

 彼女の剣法は奇襲が基本だ。相手に構える余裕を与えず、正面から向き合っての果たし合いなどしない。また、斬るよりも刺すことを優先する。

 重傷者がのたうち回り、動揺している野武士たちが態勢を整えないうちに暗闇の中から手裏剣を飛ばす。相手が怯んだ隙に飛び出して、一人の脇腹を斬り裂いた。

 残る一人は悲鳴をあげて逃げ出そうとした。その背中へ小太刀を突き刺した。野武士が脱糞しながら倒れるのを見向きもせず、カナデは音もなく走った。ひん曲がった小太刀を捨て、用意した代わりの刀を手にしている。

 相手は集団戦の訓練を積んだ戦闘員ではないから、動きがバラバラだ。廊下でさらに二人、刺し貫いた。彼女が通過したあとには、断末魔のうめき声が充満している。

 雨が音を立てている庭先で、老臣と出会った。

「おお。カナデか。賊どもはどうした?」

「六人倒した」

「こっちも三、四人は倒した。だが、まだいるぞ」

「わかってる。火をかけられぬよう、見回ってください」

 敵の姿を探して境内を歩いた。絶叫しながら飛び出してきた一人を斬り伏せ、本堂の内陣で金目のものを物色していた一人を引き倒し、刺し殺した。血であたりを汚さぬよう、そのまま刀は抜かず、回廊から外へ蹴落とした。

 心釈寺には塔がないので、本堂が一番高い建物である。カナデはその屋根に上がった。ここには弓矢を隠してある。

 この高所から周囲を警戒し、雑木林の中に松明の火を見つけた。火は寺に近づけたくない。松明を的に見立て、矢を射った。人の姿は闇にまぎれているので、狙いようがない。執念深く三本射ったところで、向こうも気づいたらしく、火を消した。

 境内を見下ろすと、野武士どもが怒声を張り上げながら右往左往している。月明かりもない雨の中だから、姿はほとんど見えないが、彼らの頭上から矢を見舞ってやった。致命傷は与えなくてもいい。動きを封じ、戦意喪失させるのが狙いだ。逃げたらしく、そのうち、カナデの眼下に動くものの気配もなくなった。

 屋根の上でずぶ濡れの身体が冷えていく。それでもカナデは耐え、放火を警戒し続けた。便所へは行けないから、しかたがない、雨を幸い、垂れ流しだ。

 しばらくすると雨はあがり、東の空が次第に色を変え、夜明けが近づく。眼下に男館の武士が二人、三人と姿を見せた。いずれも疲労困憊して、地べたに座り込む者もいる。野武士たちはすべて逃げ去ったようだ。

 周囲が明るくなって、カナデは屋根を降りた。味方は誰もが負傷していたが、死者はいなかった。鎖を着込み、準備万端だったからである。

 敵の死体は十二。負傷者が三人。二人はすぐ絶息してしまったが、残る一人には手当てしてやり、彼らが雇われた野武士であること、その総数をも聞き出した。まだ残っている者がいる。

 人数を整えて、出直してくるだろうか。次は油断せず、復讐心を燃やして襲ってくるはずだ。

「様子を見てくる」

 着替えをすませたカナデを見やり、老臣たちは汚れた衣服のまま、苦笑した。

「追い討ちをかけるつもりじゃあるまいな」

 それはあちら次第だ。

「カナデよ。月華院様や女たちはどうするのだ?」

「安全を確かめたのちに迎えに行く」

「腹が減っておるぞ」

「皆、昼には寺に戻れる」

「いや、わしらだ。夜通し働いて腹が減った」

 のんきな男たちだ。普段、男館と女館は生活圏が違うので、食事も別である。カナデは台所から桶を抱えてきて、彼らの前に置いた。昨夜用意した握り飯と焼き味噌が入っている。

「お前は食わんのか、カナデ」

 そんな気にはなれなかった。幼い頃から心身を鍛えてきたが、生まれて初めて殺し合いを経験し、何人もの喉や腹を切り裂いた。じっとしていると、その手応え、悲鳴や悪臭がよみがえってくる。

「思い出すと、吐きそうか」

 老臣たちは笑い、血と埃で汚れた手で握り飯をつかんだ。戦闘経験だけは充分な男たちだった。

鬼鶴の系譜 甲賀編 第一回

鬼鶴の系譜 甲賀編 第一回 森 雅裕

 近江国甲賀郡千手山の心釈寺は室町後期の創建だが、安土桃山の頃には廃寺となっていた。慶長の初めに再建され、住み着いた者たちがあった。その主は六十過ぎの尼僧で、落飾した高級武家の妻女である。心釈寺は尼寺だった。

 山の高台に寺の主要な建物があり、そこには女たちしか住んでおらず、その下には武士が居住する館が配置されていた。地元ではそれぞれ女館、男館と呼んだ。寺というよりも隠居所だった。

 山村の住民は、ここに「わけあり」の女性が隠棲していることは察していたが、詮索はしなかった。交流がなかったわけではない。境内の小さな観音堂を参詣するのは自由だったし、住民と寺の者たちは一緒に農作することもあった。詮索などすれば、そうした友好関係がこわれるかも知れない。戦国乱世は栄枯盛衰の時代である。昨日の権力者が明日は世捨人となる。庶民にしてみれば、自分たちに迷惑をかけることがなければ、それでいい。

 寺の主は月華院様と呼ばれていた。尼僧ではない侍女たちが傍らについており、カナデ……漢字で書けば「奏」はその一人である。甲賀の里で育ち、数えで十七歳になる。

 慶長五年(一六〇〇)十月。山の朝は少々寒いが、歩き回るにはいい気候だ。昼前、食材の調達から戻る途中、カナデはいつもと違う何かが漂っているのを感じた。匂いや気配ではなく、山を見回し、あのあたりに何か違和感がある、という直感である。それは帰り道からはずれた林の中だった。崖になっていて、木々に覆われた底は暗い。谷川が流れている。

 水汲みに下りてみると、武士が木陰にうずくまっていた。全身血まみれだった。心釈寺男館の者ではない。見たことのない顔だ。武士がやってくるような場所ではないが。

「どうなさいました?」

 声をかけながら止血を試みたが、深手だった。男は目を開いたが、視線にはまったく力がない。

「……心釈寺のどなたかを呼んでもらえぬか」

「私はその寺の者ですが」

「村の善作という老人の家に、わが主人がおります。心釈寺を訪ねてまいった。どうか……」

 あとの言葉は聞き取れず、絶息してしまった。

 とりあえず、カナデは心釈寺から男館の武士たちを伴って戻り、死体の始末をまかせて、村への山道を下りた。

 善作は村の長老で、朽ちかけた百姓家に一人で暮らしている。みすぼらしい老人ではあるが、若い頃にはどこぞの武将の足軽隊で働いたこともあるらしい。カナデの顔を見るなり、

「お客様がお待ちだぞ」

 先に立って歩き出し、村はずれへと案内した。水車小屋がある。

「ここに?」

「隠れておられる。どうも追われているようでな。昨日あたりから、どこぞの侍どもが、武家の奥様の一行を見ておらんかと聞き回っておる」

「武家の奥様? それがお客様なのか」

「ああ」

 水車小屋に入ると、奥の物置に声をかけた。そこから現れたのは高級武家らしい妻女と侍女一人だった。カナデは頭を下げた。

「心釈寺で月華院様に仕えるカナデと申します」

 妻女はまだ二十歳くらいで、疲労しているが、凜とした美しさがあって、育ちのよさを漂わせていた。

「細川越中守忠隆の妻、千世です」

「細川様……」

「はい。大坂から逃れてまいりました」

 豊臣時代から、大名の家族は人質の意味もあって、大坂に集められている。細川家は丹後宮津の城主。先代の幽斎は丹後田辺城に隠居し、当代は忠興。忠隆はその嫡男である。

 関ヶ原の合戦はこの日より一月前、九月十五日に行われ、負けた西軍(石田方)の武将の妻なら居場所がなくなることもあろうが、細川家は東軍(徳川方)である。

「山中で、武士が斬殺されました。御家中の方ですね」

「警護の者です。私はここで待つから、と心釈寺へ使いにやりました。そうですか。追っ手に殺されたのですね」

「追っ手?」

「同じ細川家の者が、私を追っているのです」

 カナデはその事情など尋ねず、

「それで、心釈寺に御用の向きは?」

 愛想もなく、訊いた。細川忠隆の正妻ならば、身分からいえば、カナデには平伏すべき貴人なのだが、恐れ入ったりしなかった。もともと山育ちで、行儀作法などろくに仕込まれていない。ただ、顔立ちは可愛らしく声も明るい。

 そのためか、千世はごく自然にカナデと会話していた。

「お濃の方様に助けていただきたいのです」

 お濃の方とは月華院が寡婦となる以前の呼ばれ方だった。十八年前、彼女の夫は本能寺で横死している。

 カナデは初めて、柔らかな微笑をこぼした。

「とにかく、心釈寺へ。追っ手がうろついているなら、お着替えになった方がいいですね」

 百姓家から着る物を借り、千世と侍女を村娘に変装させて、山道へ入った。日没には間があるが、陽は傾いており、森の奥は暗い。

 心釈寺の手前で、カナデは千世に木陰へ寄るよう、指示した。

「隠れていてください」

 それだけいい、カナデは歩調を変えずに歩く。木立ちの間から一人の武士が現れた。カナデを少女と見て、居丈高に訊いた。

「お前は寺の者か」

「ならば、何?」

「さるお方の妻女がお越しではないか」

「さて……」

「とぼけるな。痛い思いをするぞ」

 武士は刀の柄に手をかけたが、半ばまで抜いたところで、カナデにその手首を押さえられ、次の瞬間には身体が反転し、転倒していた。どういう技なのか、こんな小娘ではあるが、腕を取ってねじ伏せられると、武士は身動きできなかった。

「お、おのれ……」

「動くと腕が折れる」

 忠告したが、武士は無理に身をよじった。鈍い破壊音が聞こえ、彼は悲鳴をあげた。カナデは武士の腰から脇差を抜き取り、その喉元へ当てた。

「心釈寺に害をなす者は殺す」

「おやめなさい!」

 千世が声をかけ、近づいてきた。

「追っ手とはいえ、この者も細川の家臣。殺すのは忍びない。放してやってください」

「左様ですか」

 命令ならカナデには従う義理はないが、依願なら聞かぬでもない。

 武士は千世を見て、

「奥様。お戻りくだされ。さもなくば……」

 叫んだが、カナデに脇腹を蹴られ、悶絶した。武士よりも千世の方が悲鳴をあげた。

「お、お前様は何者ですか」

 かまわずにカナデは歩き出した。

「この男の仲間が現れる前に……急ぎましょう」

 追っ手は一人や二人ではないらしい。

 心釈寺に着くと、月華院は侍女たちと一緒になって食事の支度をしており、身なりを整えて、客を迎えた。 

「お濃の方様。千世でございます」

 と、千世は頭を下げた。月華院の俗名は奇蝶。美濃の斎藤道三の娘であるから、武家社会では「お濃の方」と呼ばれた。故・織田信長の正室である。表舞台とは絶縁して長いため、月華院と千世に面識はない。

 突然来訪した無礼を謝ろうとする千世をさえぎり、

「何がありましたか」

 月華院はよく通る声で尋ねた。

 千世が語り始めた話は、夏にまでさかのぼる。この年の六月、徳川家康は諸大名を率いて、会津の上杉討伐に向かい、大坂を留守にした。その隙を突いて、七月、石田三成は家康打倒の軍を挙げた。まずは諸将の妻子を大坂城の人質とするべく、大名屋敷へ迎えの軍勢を送り込んだ。真っ先に目をつけられたのが細川忠興の妻・ガラシャこと玉子である。三成と忠興はかねてから不仲だったし、美貌の玉子は諸将の間でも注目度が高い。しかし、かねてから忠興はこうなることを想定し、玉子に「恥なきよう計らえ」と念を押して出陣している。それに従い、七月十七日、玉子は屋敷に火を放ち、自害した。

 同居していた千世も自害しようとしたが、玉子から諭されて、炎上する細川屋敷を逃れ、隣接する宇喜多秀家の屋敷へ避難した。秀家の正室は千世の姉(豪姫)なのである。

 ガラシャのあっぱれな死に様に石田方も衝撃を受け、他の大名たちから人質をとることを中止した。徳川方は上杉討伐を中止して、北関東から反転、九月十五日、関ヶ原で石田方と会戦した。徳川方が勝利すると、玉子の死は美談となった。武士の妻の鑑と賛美され、細川家ではこれを「義死」と表現した。当然のごとく、千世に対する評価はまったく逆となった。

「自害させよ」

 と、忠興は忠隆に命じた。愛するわが妻は「義死」したというのに、息子の嫁は生き恥をさらしている。しかも千世が逃げ込んだ屋敷の主は、関ヶ原で敵軍の副大将として対戦した宇喜多秀家である。

「もはや裏切りである」

 と、忠興は決めつけた。忠隆とて、母を失った悲しみは同様である。当然、反発した。

「つまりは、内府殿(家康)に裏切り者と難癖つけられるのが恐ろしいということでございましょうが、わが妻を侮辱することは父上といえども許しませぬぞ」

 敢然と父の命令を拒否した。

 千世は前田利家の娘である。避難先の宇喜多屋敷に長居するわけにいかず、実家の前田屋敷に身を寄せていた。利家の没後、家督を継いでいる利長に忠興は協力を求めたが、承知するどころか、妹の千世に屋敷からの立ち退きを宣告した。

 家康が天下人となりつつある現状で、前田家も生き残りに必死なのだ。秀吉亡きあと、遺児・秀頼の後見人として重きをなした前田利家は昨年三月に没しており、武将たちの力の均衡が崩れた。

 後継者の前田利長に父親ほどの器量はなく、昨年九月に家康暗殺を計画しているといいがかりのような嫌疑をかけられると、弁解と謝罪につとめ、今年五月に母親を人質として江戸へ差し出している。

 そんな利長だが、関ヶ原合戦においては、七月末から九月半ばまで加賀と越前の間をうろうろと往復しただけで、家康の東軍に参加していない。隣接する小松城の丹羽長重と交戦していたとか、弟の前田利政が東軍に加担することを反対したとか、これまた利長は弁明に必死である。おそらくは東軍と西軍のどちらが勝っても前田家が存続できるよう、兄弟は分裂を装ったのだろうが、日和見をしたと糾弾されかねない。前田家としては、この上、細川家から見捨てられた忠隆と千世をかくまい、家康の不興を買うことはできないのである。もともと、家康は前田家と細川家の婚姻による接近を喜んでいない。

 かくして、忠隆は千世を大坂から逃がした。

「お玉(ガラシャ)様から、行く先なき時は、お濃の方様を頼れと遺言を賜っております」

 細川忠興と玉子の結婚を仲介……というより命令したのは織田信長である。あの時、二人は同い年の十六歳だった。

「そうよなア。お玉殿には私も浅からぬ因縁がある」

 月華院は懐かしげにいったが、どこか沈痛の響きがあった。ガラシャは明智光秀の娘で、光秀は月華院の従兄弟である。幼馴染みであるが、その光秀は信長を殺した仇敵でもある。

「お玉殿が私を頼れというたか。よほどお人好しと見られたようじゃなア」

 月華院は暑くもないのに扇子を使った。照れているのである。

「で、千世殿の逃避行を知った舅の忠興殿が、息子に嫁が殺せぬなら俺が、と追っ手を差し向けたという次第か」

「私ども、多勢では目立つゆえ、警護の家臣二人と侍女一人という供連れでございましたが、家臣の一人は逃亡いたしました。裏切って、我らの行く先を追っ手に洩らしたかも知れませぬ。今一人はここの山中で討たれました」

「理不尽よのう……。千世殿。お子は?」

「おりませぬ」

「おればおったで、戦場へ送ったり人質にやったりあの世へ道連れにしたり、心痛ではある。じゃが、それが戦国の武家に生まれた者の宿命。家を守らんがため、命を捨てるのは当然のこと」

「はい。私とて命を惜しむものではありませぬ。夫のためならば喜んで死にまする」

「しかし、舅のためには死ねぬ、か」

 細川家の目は内の家族よりも外の権力者に向いている。「主人をかえるのは武士の器量」というのが細川家の生き残り策である。先代の細川藤孝はもともと足利義昭に仕えていたが、あっさりと織田信長に乗り換え、信長が本能寺で弑逆されると、親交あった明智光秀(ガラシャの父)を見捨て、豊臣秀吉の顔色をうかがうため頭を丸めて隠居し、幽斎と号した。後継者の忠興も父親譲りの処世術を発揮し、秀吉に切腹させられた豊臣秀次との関係を疑われると、徳川家康の協力でこれを乗り切り、秀吉の没後には、いち早く家康にすり寄っている。

 しかし、前田利長が家康暗殺の嫌疑をかけられた時、忠興もその仲間だと風説が流れたため、利長と同様、弁明につとめ、三男の光千代(忠利)を人質として江戸へ送った。

 のちの慶長十年(一六〇五)、次男の興秋を忠利と交代させようとしたが、興秋はこれを潔しとせずに逃亡した。後年の大坂の陣では、あろうことか豊臣方に参加して奮戦、落城後に切腹して果てることになる。

 天正十年(一五八二)、明智光秀が天下の謀反人となった時、娘である玉子は自害をも考えたが、子供たちが成長するまでは、と思いとどまった。夫の忠興は世間体を取りつくろうために離縁し、領地の宮津に近い丹後半島味土野の山中に彼女を幽閉した。二年後に秀吉の許しを得て復縁するが、忠興は玉子に外出を禁じたという。

 細川忠興は文武に秀でた武将ではあったが、家族愛には恵まれぬ男だった。玉子がキリスト教の洗礼を受け、「ガラシャ」となったのは天正十五年の夏で、秀吉が伴天連追放令を発布したのとほぼ同時である。九州の島津征伐から帰還して、妻の受洗を知った忠興は驚愕、激怒し、キリシタンであった乳母の鼻と耳を削ぎ落とし、侍女二人の髪を剃り、追放した。玉子の生前には、その美貌に見とれた下男を手討ちにしたと伝わる忠興である。もともと、キリシタン大名である高山右近を尊敬し、キリスト教を玉子に語り教えたのは忠興ではなかったか。こうした彼の仕打ちが玉子を自害へ追いつめたともいえるし、息子たちの離反をも招いたのである。

 石田方の軍勢は細川屋敷だけでなく黒田長政や加藤清正の屋敷も囲んだが、奥方たちは脱出している。玉子も脱出できたものを敢えてしなかった。それには、こうした背景がある。

 息子の忠隆が家名より妻を守ることを選んでも、無理からぬことではあった。

「まあ、それぞれの家にそれぞれの事情があろう」

 世捨人の月華院はいちいち「事情」など知りはしない。しかし、目の前の千世に好感を持ったらしい。何より、退屈しのぎになる。

「忠隆殿とそなたの夫婦愛に免じて、追い返すことはするまい。粗末な荒れ寺じゃが、好きなように過ごされるがよい」

「ありがたきお言葉。ただしかし、追っ手どもが迫れば、心釈寺の皆様に御迷惑をかけぬよう、首を差し出す覚悟でございます」

「迷惑かの?」

 月華院はうしろに控えているカナデに訊いた。カナデは柔和な表情だが、口調は強い。

「それは追っ手の出方次第。彼奴ら、この寺に逃げ込まれては厄介ゆえ、その前に何とかしたかったでしょうが……」

 それが間に合わなかったとなれば、千世の引き渡しを求めてくるだろう。それを断られたら、追っ手どもはどうするだろうか。腕ずく力ずくということになったら……。

 月華院は笑ってさえいるような声で、いった。

「男館の者どもではちと頼りないのう」

 男館に居住している武士たちは織田家の旧臣で、人物は信頼できるが、年寄りばかりだった。若い男手が必要な時は、甲賀の里から呼び寄せるのである。

 カナデは無愛想だが明るい声で、いった。

「月華院様。明日、里に使いをやって、警護の人数を集めましょう」

 心釈寺から里まで、往復に半日かかる。自分なら夜でも山道を歩けるが、月華院のそばを離れるのが心配だった。明朝、男館の武士を行かせようと、カナデは考えた。

 こうしたカナデの言葉と態度に、千世は珍奇なものでも見たように訊いた。

「ところで、こちらは何者でございますか。ただの侍女とも思われませぬが」

 月華院は、誰のことかという表情で千世を見つめていたが、

「ああ」

 忘れていたことを思い出したように、いった。

「カナデか。勝蔵の末娘です」

「かつぞう……?」

「森長可」

「あ。森武蔵守様の?」

 信長麾下で「鬼武蔵」と畏怖された美濃金山城主である。長可は軍規違反を犯すことも多かったが、信長は苦笑するばかりで特に処分を下すこともなく、多士済々の家臣団の中でも信頼、寵愛された武将であった。

「その森武蔵が長久手で戦死した時、カナデはまだ母の腹の中にいた。母は甲賀の伴家の者でな……」

 長可の正室は池田正恒の娘で、カナデは妾腹である。母の実家・伴家は忍びの家系で、森家とのつながりが深い。本能寺でも森長定(蘭丸)らとともに伴の一族が戦死している。その時点で、森家の唯一の後継者となった長重(のち忠政)は安土城にいたが、迫り来る明智軍から彼を逃れさせ、甲賀の里にかくまったのも伴一族である。その縁で、長重は家督を継ぐと、甲賀衆を正式に召し抱えている。長重は長可の末弟で、天正十五年(一五八七)に忠政と改名している。その忠政にはカナデは姪ということになる。

 長可はその遺言状で、妻には「大がき(大垣。妻の実家)へ御越し候べく候」と戻るように指示し、弟の仙千代(長重のち忠政)に跡目を継がせることは「くれぐれ、いやにて候」、そして娘については「京の町人に御とらせ候べく候」と書き残している。

 長可は主人の信長ばかりでなく、父と四人の兄弟をも戦場で失っており、武家に嫌気がさしていたと解釈される文面だが、時の権力者であった秀吉の顔色をうかがう打算も見え隠れする、したたかな遺書である。しかし、長可戦死の折にはまだ生まれていないカナデについては、何も触れられていない。

「カナデは侍女というより、私の娘のようなもの。甘やかして、わがまま放題に育った娘です」

 お濃の方こと月華院に実子はいない。信長死後、妾腹の次男である織田信雄の京都屋敷に身を寄せていたが、天正十八年、信雄が秀吉の怒りを買って改易されて以降、月華院は流転の数年を過ごし、甲賀に隠遁した。その世話をしたのが森忠政である。そして、里育ちのカナデが仕えるようになった。

 森忠政は関ヶ原の合戦直前の慶長五年二月に金山から川中島へと転封となり、京都からも甲賀からも遠く離れてしまった。今やカナデは月華院がもっとも頼りとする身近な者なのである。

「この娘は寺でじっとしておらず、釣りや狩りに駆け回ってばかりじゃが……。あ、そうそう」

 月華院は切れ長の目を見開いた。

「千世殿。腹が空いておろう。今、用意させる。カナデが獲ってきた川魚じゃ。今の時期は卵を持っておるから、これをしょうゆ漬けにしたものも美味じゃぞ」

「魚を食するのですか、この寺では」

「お釈迦様の頃の仏教では肉も魚も食うたそうな。『四分律』にも書かれておる。正食とは、飯、魚および肉、それから……何だったかの、カナデ」

 背後へ声をかけたが、返事はない。

「カナデ殿なら、とうに出て行きましたが」

 千世から教えられても、月華院は振り向きもせず、しばらく沈黙していた。そして、千世をまっすぐに見据えたまま、いった。

「出された食べ物はすべていただくのが道理というもの。お釈迦様は施しを受けた肉の食あたりで亡くなられたというからなア。僧侶どもの中には、食事の時に袈裟を脱げば、肉食も可だと建前をいう者もある。ある時、親鸞上人が袈裟をつけたまま食事をしていたので、幼児だった北条時頼が、何故袈裟を脱がぬのかと尋ねると、自分が食する鳥や魚に功徳を与えてやるためだと答えたそうな」

「はあ……」

 千世が返答に窮していると、

「そう固くなるな。気楽に過ごせ」

 月華院は裾を翻して部屋を出て行き、廊下の向こうから、突然の笑い声を響かせた。