鬼鶴の系譜 甲賀編 第三回

鬼鶴の系譜 甲賀編 第三回 森 雅裕

 心釈寺を出たカナデは付近を一周して警戒したが、細川家の家臣や野武士どもの姿はない。それから、山里の村へと足を向けた。

 途中の山道で、何気なく咳き込んだ瞬間、激しく嘔吐してしまった。別に気分が悪いわけでも苦しいわけでもない。何の前触れもなく胃液が逆流してきて、普通の生理現象のように何度も吐いた。驚いたが、喉がヒリつく以外には身体は何ともないので、村まで一気に下った。朝霧が付近を包んでいる。

 長老の善作の家を覗いた。朝食の支度中だった。

「武士どもを見なかったか」

「お前はつくづく礼儀を知らん娘だな。挨拶をしてくれれば、一緒に食うかと誘ってやるものを」

「食べたくはない」

「武士というのは、あの武家の妻女を追ってきた連中のことか。あんな端武者ではない、身分ありそうな侍が、彦弥のところに来ているぞ」

 彦弥というのは村の長である。

「いつから?」

「昨夜は隣村に泊まって、今朝早くにこの村へ着いたようだ。お供も数人……」

「追っ手どもの仲間かな」

「知るか。ああ、それからな、男館の侍が一人、村はずれで死体になっておるのを村人が見つけた。川っ淵の、地蔵が立っているあたりだ」

 甲賀の奥ノ里へ使いに出した者だろう。やはり、殺されていたのだ。

「あとで弔ってやる。今は……」

「忙しいのか。おい。汁に入れるから、畑から根菜を抜いてきて……」

 善作はいいかけたが、カナデはもう彼の前にはおらず、朝霧の中を走り出している。

 彦弥の家は村の中では一番大きく、複数の家屋が寄り添って建っている。数軒は廃屋と区別がつかないような粗末な小屋にすぎないが、母屋はそこそこ立派で、庭も広い。

 その庭先に血の匂いが漂っている。武士が数人、うずくまって動かない。切腹したらしく、庭を汚された彦弥や百姓たちが悲鳴まじりの抗議の声をあげながら、掃除していた。

(何が起きた……?)

 母屋を回り込むと、裏に畑へ続く畦道があり、用水路も流れている。のどかともいえる風景の中に一人の武士が立っていた。切腹の騒動に背を向けるような、どこか孤独な佇まいだ。千世の首を狙う追っ手とは醸し出す空気が違う。

 殺気のような剣呑さは感じないので、カナデは自分の気配も消さずに近づいた。足音に振り返った武士は、二十歳そこそこの若者だった。無言でカナデを見つめている。

(あ……)

 これが千世の夫、細川忠隆かと直感した。

「心釈寺へお越しになりますか」

 カナデは無礼な娘である。いきなり、そう訊いた。

「参る」

 若侍もそれだけ答えた。カナデはもう踵を返している。

 

 

 カナデは女たちが身を潜めている炭焼き小屋へ行き、心釈寺は無事だと報告した。安堵の声をあげる女たちの中に月華院はおらず、彼女は林の中に儚げな後ろ姿で佇み、上空を見上げていた。

 カナデが近づいても、振り返りもせずに、いった。

「鷹じゃ」

「はあ」

「今年、この山で三羽の雛が孵った。二羽は夏に巣立ちしたが、一羽が遅れていて心配した。あれがその一羽じゃ」

 山から山へ、翼を広げた褐色の鳥が飛翔している。

「賊どもは追い払いました」

 カナデが告げると、月華院は遠い目つきのまま、呟いた。

「お前は風情を解さぬのぉ」

 カナデに向けた月華院の顔が、この明朗な女人には珍しく、曇った。

「血の匂いがする」

「かすり傷です」

「かすり傷でも十箇所くらいありそうじゃが……大事ないか」

「平気です」

 月華院は吐息混じりに破顔した。

「かたづいたか」

「はい。もう襲われることはなさそうです」

「なんで、そういえるのか」

「細川忠隆様がお出ましです。まもなく心釈寺へお見えになりますので、忠隆様から事情をお聞きください」

「ほお……」

 月華院は千世を呼び、

「御亭主が会いに来られたようじゃ。さてさて、どんな話を聞かせてくれるかの」

 歌い出すかと思うほど明るい声で女たちを促し、心釈寺へ戻ろうとしたが、カナデは戸惑った。

「あ、あの。寺は血と糞尿で汚れております。男館の老臣方と手分けして掃除をいたしますので、しばらくしてお戻りください」

「血と……何? そんなに賊どもを痛めつけたのか。手加減を知らぬの、お前は」

「申し訳ありません」

「私は修羅場には慣れておる。かまわぬ。寺へ戻る」

 若くないくせに、月華院は誰よりも軽い足取りで歩き出した。月華院は慣れているにしても、他の女たちは血なまぐさい経験に乏しいのだが……。

 

 

 心釈寺へ戻ると、汚物だらけの惨状を目のあたりにして、女たちは悲鳴をあげ、寺を救ったカナデに感謝どころか抗議の視線を向けた。その冷たい目から逃げたカナデは、老臣を二人引き連れて、村はずれで見つかったという使いの者の死体を回収に向かった。

 荷車に死体を積み、押しながら、カエデは立ったまま気絶するように寝てしまった。尻餅をついて目覚め、老臣たちから笑われた。

「器用だの、お前は」

 自覚できないほど身体は疲労していた。立ち上がることができない。

「俺たちが牽いていくから、お前は寝ていろ」

 荷台に這い上がり、死体の横にゴロリと転がった。

 わずかな時間ではあったが、カナデが警戒心もなく熟睡することは珍しい。眠りから目を開いた時、荷車の傍らを歩く人影が増えていた。細川忠隆とその侍臣だった。

「途中で一緒になった」

 忠隆がそれだけ、いった。荷台の死体は細川家の家臣が作ったものだが、それについては何もいわない。戦国に生きる武将は、下っ端の生死などいちいち気に留めないのだろう。

 カナデは荷台から降りたが、忠隆の侍臣たちが押すのを手伝っており、人手は足りている。忠隆は口には出さないが、少しは申し訳ないという気持ちがあるようだ。カナデは彼から少し下がって歩いた。

 山道を登ると、寺の手前に小さな平地がある。老臣たちがそこに穴を掘って、死体を埋めていた。運んできた死体もそこで下ろした。

 忠隆はこの殺伐とした作業を見やり、少しだけ眉を動かした。

「取り込み中のようだな」

 泣き笑いというものがあるなら、忠隆の言葉を聞いてカナデが作った表情は怒り笑いというべきものだった。

「この有様を作り出したのはお宅様の御家中でございますよ」

「それはわが父から千世の首を取れと命じられた者たち。私は今朝、この山里に到着したので、制止できなかった。彼らは心釈寺を再び襲うつもりで、火をかける準備を始めていたが、それはやめさせた。もうここへは来ぬ。細川家の京都屋敷へ戻るよう命じたが、腹を切りおった」

 細川家の父と子から相反する命令を受けて、彼らも追いつめられたのだろう。武士は農民を搾取する支配階級だが、問題が発生すれば死ぬしかない規律を背負っている。くだらない、とカナデは目元を暗くした。

 忠隆はさらに、いった。

「雇い入れた野武士どもも金を渡して追い払った。再度、心釈寺を襲撃していたら、彼らにもさらなる死者が出ただろう。寺の守りは固いようだ。見かけによらぬ強者がいるものと見える」

 誉めているらしいが、カナデにしてみれば、うれしくはなかった。

「お濃の方様にお取り次ぎ願いたい。細川忠隆が妻に会いに参った」

「本堂や庫裏は掃除中につき、しばらく鐘楼でお待ち願えますか」

 鐘楼の下には縁台があり、腰を下ろすことができる。そこに忠隆を待たせ、月華院と千世に来客を知らせた。

「なかなか妻思いの夫と見えるの」

 月華院は本気で感心している。

「数寄屋で会おう」

 茶室である。カナデは尋ねた。

「お点前をなされるのですか」

「用意など適当でよいぞ」

 忠隆夫妻をどういう位置関係で座らせるか、月華院は配慮したのかも知れない。

 茶室は小さく粗末なものだが、障子を閉ざした連子窓は大きく、明るい。点前座に月華院、客座に夫婦が並んで座った。忠隆の侍臣は外に待機し、カナデは半東(助手)として、月華院と客の間に控えた。

 細川忠隆は細身のヤサ男で、文人のような印象だが、関ヶ原でも戦功をあげ、家康から感状を得るほどの武将である。

「この度は当家の者どもが御迷惑をおかけいたしました」

 月華院に対しては、さすがに素直に謝罪した。

「父の家臣どもが妻を追って出たと知り、何もかも捨てる覚悟で駆けつけて参りました」 

「細川の家をお捨てになりますか」

「はい」

「それは見上げた心根。しかし、千世殿は渡さぬ」

 月華院の口調は軽く、あっさりしたものだ。忠隆も千世も、緊張するよりも呆気にとられている。

「今すぐには渡さぬ。千世殿はここで修行させる。千世殿が細川家から『死ね』といわれぬようになったら、迎えに来られるがよい」

 月華院は笑顔でこの場の空気を支配する。誰も逆らう気にならず、むしろ従うことを喜びと感じさせる。人徳である。

 しかし、この未亡人はお人好しというわけでもない。月華院は忠隆と千世を見比べ、不気味なほど低い声で、いった。

「千世殿にはここで粗衣粗食に耐えてもらうことになる。昨夜、土足で踏み込んできた者どものせいで、障子も調度品も蹴破られ、破れ寺になってしもうた。さぞかし、清貧の修行が進むことであろう」

「これは気の利かぬことで……。京都に戻りましたら、寄進をさせていただきます」

「左様か」

 月華院は子供のように笑った。ほんの一瞬だったが。

「茶菓子をどうぞ。この寺で作った饅頭です」

 小豆を甘く煮て餡を作り、小麦粉を練って自然発酵させた皮で包み、蒸している。

「千利休が茶菓子として好んだのは麩の焼きだったが、たいしてうまいものでもなかった。あれはおかしな男で、まずいものを有り難いと心得ていた。しかし、この饅頭は私が暇にまかせて作り上げた、彫心鏤骨百折不撓面壁九年とはまア程遠い、山中暦日冷吟閑酔暗中模索の菓子。しかし、濃姫饅頭とでも名付けたい珍品じゃ。あははは」

 いいながら、自分から笑い出した。

 月華院は二人の客が茶を喫するのを見届け、席を立った。カナデも外へ促された。茶道口から退室すると、外は陽が傾き、影が長くなっている。茶室に残ったのは忠隆と千世の二人だけだ。

「しばらく放っておけ。夫婦だけの話もあろう。邪魔はせぬことよ」

 月華院は余り物の饅頭をカナデに寄こした。昨夜から何も食べていない。手にした饅頭の重みで、忘れていた空腹を自覚した。

 気のせいか、境内には掃除後も異臭が残っているが、夕食の支度をせねばならない。

「忠隆様やお供の方々の食事はどういたしましょうか」

「お前はのんきじゃのう」

 月華院にはいわれたくない気がした。

「尼寺で男の客をもてなすわけにはいかぬ」

「お茶は差し上げたのに、ですか」

「細川家といえば、武勇のみならず、代々が世に聞こえた茶人でもある。忠隆殿はどうなのか。人物を見極めるために茶をふるまった」

「あ……」

「単なる暇つぶしとでも思うたか」

「恐れ入りました。それで、忠隆様をいかが見極められましたか」

「あとで握り飯でも持たせてやるがよい」

 まあ、好感を抱いたということなのだろう。

「それにしても、カナデ。お前は強いな。それに若く美しい。こんな山の中で老い朽ちていくのは惜しい」

「結構、楽しくやっておりますが」

「私は七十になる。もうあまり長くないぞ。私が死んだら、お前は京都へ出よ」

「月華院様は六十六では……?」

「そうだったかの」

「京都へ出たら、私のような田舎娘、落ち着かぬ日々を過ごしそうでございますな」

「若い者が落ち着いてどうする。よいですね、きっと申しつけましたよ。私の遺言と思いなさい」

「……はい」

 カナデは子供の頃に一度だけ、叔父である森忠政の屋敷を訪ねて京都へ行ったことがある。あの町では、時のたつのが早いだろう。そこで暮らす自分など、簡単には想像できなかった。

 

 

 これより四年後の慶長九年(一六〇四)、細川忠隆は廃嫡となって細川家後継者の資格を失い、剃髪して休無と号し、祖父・細川幽斎の支援を受けて、千世とともに京都で蟄居した。二人の間には四人の子が生まれたという。幽斎が没した慶長十五年以降、千世は実家の前田家へ帰り、加賀藩の重臣に再嫁したと伝わる。

 忠隆は父・忠興から領地を与えるという和解案を固辞して京都を動かず、正保三年(一六四六)に没した。

 月華院ことお濃の方の没年および墓所は不明である。