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鬼鶴の系譜 寛政編 第七回

鬼鶴の系譜 寛政編 第七回 森 雅裕

 夜が明けても、長谷川平蔵とその一党は現れない。

「あの、鉄蔵って男、遭難でもしたのではあるまいな」

 多西が責めるように、いった。

 火盗改は奉行所のような官公署として存在するわけではなく、長谷川平蔵の屋敷を役宅として使用しており、そこに小さいながらも白洲や仮牢が設けられ、裁判所の体裁を整えている。

 しかし、夜中にそこへ詰めている火盗改の同心は少なく、多くは目白台にある組屋敷で待機する。本所の長谷川邸から近くはない。すぐには招集をかけられないのである。ましてや、石氷を投げ打つような雨だ。

 明るくなると、小屋の土間に入ってきた水の量に気づかされた。

「この地域では、雨が降ると水没するのは普通のことなのか」

 誠志郎は苦笑まじりだが、

「まずい。実にまずい」

 窓際から外を見ていた多西は、切羽つまった声を震わせた。

「境内は川になってる。こんなボロ小屋なんか流されますぞ」

 ヒヨリは冷ややかなほど落ち着いている。

「鐘楼は下が石垣になっています。あちらへ移りましょう」

 戸を開けると、さらに水が入ってきた。くるぶしまで水に浸かりながら鐘楼へたどり着いた。廃寺なので鐘は撤去されているが、頑丈そうな鐘楼だ。石垣の上が板壁に囲まれた小部屋になっており、その上に鐘が吊られる造作となっている。

 ばきばきと背後で破壊音が響き、振り返ると、今までいた小屋の半分が崩れ、建材が水の中に散らばった。ほとんど廃屋だった厠も今や柱だけになっている。

 雨は小降りになっていたが、足元の水量はむしろ増している。それに熱を含んだ南風が吹き荒れていた。

 鐘楼から本堂の方向を見下ろすと、葵小僧一味が姿を見せた。冠水した境内へと飛び出し、歓声とも悲鳴ともつかない叫びをあげながら、右往左往している。本堂は床が高いから夜明けまで気づかなかったのだろう。

 避難しなきゃ危険だと悟り、厠で行方不明になった仲間を探しているようだが、

「厠がなくなってるぞお」

「一緒に流されたかあ」

 膝まで水に浸かりながら、げたげたと笑っている。

 女も現れ、しばらく周囲を見回したあと、水を蹴りながら歩き出した。鐘楼へ向かってくる。

「妻だ」

 多西が唾を飛ばしながら、うれしげにいった。

「だが、何だって、こっちへ来るんだ?」

 厠が流失したのだから、鐘楼のどこかで用を足そうとしているのだろう。ヒヨリは察したが、黙っていた。

 多西の妻は鐘楼に入り、階段を上がってきた。

「おい」

 多西が声をかけると、

「わ」

 足を踏みはずしそうになったが、多西がその腕をつかんだ。引き上げられた女は多西に負けず、唾を飛ばしてまくしたてた。

「何でいるの? 何やってるの?」

「助けに来た」

「この人たちは?」

 誠志郎とヒヨリを胡散臭げに睨んだ。答える前に、境内にいた連中が叫んだ。

「万蔵が死んでるぞお」

 半壊した小屋から死体が見つかった。しかし、死体の有様からは他殺とはすぐに断定できまい。

 女は顔を歪めた。

「殺したの? 万蔵を殺した?」

「あいつ、お前と手に手をとって逃げるんだとか、ふざけたことぬかすから……。嘘だよな」

「あ、いや、まあ、嘘というか、何というか……」

 夫婦の会話に、境内を窺っていた誠志郎が割って入った。

「一人、近づいてくる」

 境内を見回っていた浪人だ。鐘楼には逃げ場がない。浪人は階段を上がってきて、ここにいる男女を見つけ、目と口を大きく開いた。

「何だ、お前らあ」

「雨宿りしてる。おかまいなく」

「何いってやがる。ふざけるな」

 男は抜刀しようとしたが、誠志郎の方が迅速だった。一撃で喉元を斬り裂いた。浪人は血しぶきをあげながら、階段を転げ落ちた。派手な音を立てた上、鐘楼から転がり出て、水しぶきとともに倒れた。

 境内にいた葵小僧一味が鐘楼を見やった。こちらへ向かう者、逆に本堂へと駆け出す者、それぞれが猛烈な水しぶきを跳ね上げた。視界に入る一味は三人。そのうち一人は浪人風の侍だ。

「気づかれた。もう、やるしかない」

 誠志郎は鐘楼を飛び出し、ヒヨリも続いた。抜刀して向かってきた浪人を誠志郎が斬り倒した。それを視界の隅に入れながら、ヒヨリは逃げる男たちを追ったが、気づくと、走りながら吐いていた。胃の中はほとんど空なので胃液だけだが、昨夜からの出来事は刺激が強すぎた。足がもつれ、手近な木にしがみついた。

 男の一人がヒヨリがうずくまったのに気づき、手近な材木を獲物に、猛然と向かってきたが、彼女は腰の鉄刀を抜き、すれ違いざまに腹を打って昏倒させた。

 残る一人は本堂の階段へ取りついたところで、誠志郎がうしろから腕をつかみ、投げ飛ばした。ヒヨリはその脇をすり抜け、本堂へ駆け上がった。

 板扉を開けると、堂内には浪人が一人、悠然と座って、煙草を吹かしている。傍らには赤ん坊が寝ていた。

「騒々しい。ほお、女か。火盗改とも町方役人とも思えんが、何用かな」

「大事なものを引き取りに来ました」

「赤ん坊か」

「他にも」

 浪人は手にしていた煙管を叩いて灰を捨て、指先で器用に回転させた。

「こいつか」

「煙管なんぞに用はありませんが」

「そういわずに取りに来いよ」

 誠志郎も堂内に入ってきて、自分が行こうとしたが、ヒヨリはそれを制した。

 浪人は煙管を掲げた。ヒヨリは無頓着に近づき、受け取った。その刹那、浪人の手元で光が一閃した。腰の脇差をいつ抜いたのかも見えなかった。ヒヨリは手にしていた鉄刀で受けたが、弾き飛ばされてしまった。鉄刀は落としたが、彼女は浪人の射程範囲から逃れた。

 誠志郎が浪人の前に立ちはだかったので、二撃目はなかった。

「ふん。気脈の通じた仲と見える。それに、なかなか素早い。どこぞの武門の娘か」

 浪人は脇差を鞘に納め、なお座っている。ヒヨリは煙管を見た。火皿、雁首、吸い口ばかりでなく、それらをつなぐ管の羅宇までも金属製となっている延べ煙管である。目を引くのは彫刻で、見事な龍が悠々と這っており、「為長谷川銕次郎 浅井良云」と銘が入っている。銕次郎は平蔵の幼名である。

「もしや、これが長谷川様と葵小僧の交誼の証拠とやら……ですか」

「少しは興味があるようだな。左様。旗本の道楽息子だった頃の長谷川平蔵、同じく落ちこぼれ旗本だった山棚与弥太、それにその浅井良云という金工は道楽仲間だった。しかし、その後の道は三者三様。山棚与弥太は親から勘当され、悪の道に邁進して葵小僧となり、浅井良云の現在の通り名は岩本昆寛という。昆寛は平蔵より一歳年上で、今や誇り高き腰元彫りの名人におなりだ。元来、煙管なんぞ作る職工ではないが、若い頃、煙草好きの平蔵のために特製したものだ。それを山棚が長谷川から譲り受けた。今では葵小僧の形見となった」

「因縁めいた話ですね」

「因縁か。それが人の世の恐ろしさでもあり、面白さでもある。そういえば、かつて、葵小僧が本阿弥の仕事場から奪ってきた短刀、霊力があるとかないとかいわれたが、これがどういうわけか、また俺たちの手元に戻ってきた」

 浪人は赤ん坊の枕元から短刀の袋を取り上げた。

「お前たちの目的はこれかな」

 本堂のそこら中が不気味な軋み音を発し、震動した。床がわずかに傾いたが、浪人は動じない。 

「どうやら、葵小僧一味で残ったのは俺だけらしい。とんだ疫病神の短刀だ」

 短刀を投げて寄こした。ヒヨリはそれを拾い上げ、鞘を抜いて確認した。

「それだけでは足りまいな。赤ん坊も取り返したいか」

「できれば」

「返したところで、俺の凶状が帳消しになるわけではあるまい。となれば、子供は御利益ある人質だ。こいつを連れて、逃げさせてもらう」

「外は足元が悪すぎるぞ」

 誠志郎がいったが、浪人は赤ん坊を抱えて立ち上がった。

「じっとしていれば、火盗改が殺到してくる。そんなものを待つ気はない」

 浪人は鼻歌でも口ずさむかと思うような動きだが、腕利きであるらしく、隙がなかった。傍らにあった刀を腰に差し、悠然と歩き出した。ヒヨリは鉄刀を回収して、あとを追った。

 浪人は傾いた板戸を蹴破って、回廊に出た。雨は止んでいる。だが、路上はもはや歩ける状態ではなくなっていた。水位は身長を越え、濁流が音を立てている。これでは火盗改も駆けつけられまい。

「水が引くのが早いか、火盗改が早いか……どちらかな」

 誠志郎がいったが、この男の性格なのか、相手に同情しているように聞こえた。

「いずれにせよ、お前たちとはお辞儀をして右と左に別れるというわけにはいかぬようだ」

 浪人は高らかに告げ、無造作に誠志郎との距離をつめた。誠志郎もたいした度胸で、まったく退かないから、双方の刀が衝突して火花を散らした。

 数度、打ち合い、誠志郎の足が腐った床板を踏み抜き、動きが滞ったところへ振り下ろされた浪人の刃先を、横からヒヨリの鉄刀が食い止めた。しかし、赤ん坊を抱えた相手に対して、迂闊に打ち込むこともできない。その赤ん坊が泣き始めた。

「赤ん坊を巻き込むのは卑怯。お前様もかつてはどこぞの歴とした侍だったでしょうに」

「つまらねぇ貧乏御家人の倅よ。葵小僧一味に加わって、生きる面白味を知ったのさ」

「葵小僧の忘れ形見を危機にさらしてもよろしいのですか」

「お頭の……? ふはは。そうか。そう思っているのか」

 笑いは人の心に隙を作るようだ。浪人が口元を緩ませると、足元もグラリと揺らめいた。回廊が傾き、破壊音が響いた。

 体勢を崩した浪人へ誠志郎が斬りかかり、浪人はそれを跳ね返したが、踏ん張った足が床板を突き破った。ヒヨリは鉄刀で浪人の刀を叩き落とした。バリバリと床が崩れ、一瞬、浪人と目が合った気がした。咄嗟に鉄刀を捨て、浪人の腕から赤ん坊をひったくった。同時に浪人は濁流に落ちた。

 ヒヨリと誠志郎は回廊の残骸にしがみつき、本堂の内部へと転がり込んだ。本堂の外陣も内陣もすでに水浸しだ。

 仏像や調度品は撤去されているから、見通しはよく、本堂の隅に梯子が見えた。

「屋根へ上がろう」

 屋根裏へ出て、破れた屋根をさらに突き崩し、穴を広げた。先に上がった誠志郎に赤ん坊を預け、ヒヨリは瓦屋根に這い出た。

 頂上の大棟近くまで上り、腰を下ろした。眼下は完全に水没しており、濁流の中にいくつかの建物、木々が孤立している。

「あの浪人者、見えませんね」

 流されたらしい。周囲を見回したが、昨夜まで陸地だったとは思えぬ光景が広がっているだけだ。

「あの浪人、まだ首のすわらぬ赤ん坊を巧みに抱いていました」

「悪党にも色んな者がおりますよ。根っからの外道もおれば、何かの拍子に道を踏みはずす者も……」

「落ちる刹那、あの浪人はこの子を私に差し出したように見えました」

「おかしなことをいっていたな。お頭の子だと思っているのか……と」

「あ」

 ヒヨリは鐘楼を見やった。その屋根には、多西とその妻が避難している。何事か言い争い、手を握り合い、また言い争い、また手を握ることを繰り返している。

「あの人たち、どうなるんでしょうか」

「男と女など、なるようにしかならぬものだと思いますな」

「そうですか」

 他にも、境内に立つ楠木の枝上に人影が二つ、取りついているのが見えた。誠志郎が投げ飛ばし、ヒヨリが鉄刀で殴り倒した男たちだった。生き延びたようだが、彼らも身動きできず、水の流れを隔てて、じっと見合った。葵小僧一味の生き残りはこの二人だけのようだ。

 濁流が静まり、水位も下がり始めた頃、ヒヨリが屋根裏へ降りて、物陰で用を足していると、

「おおい」

 外から声が聞こえた。屋根へ上がると、近づく数隻の小舟があった。火盗改だった。鉄蔵の姿も見える。葵小僧一味の生き残りは投降し、多西と妻も救い出された。

 同心たちは舟から降り、水に浸かりながら境内を探索し、指揮をとる長谷川平蔵は誠志郎に対し、

「旗本の嫡男がこんなところで夜明かしか。不届きであるぞ」

 と、微妙に唇の両端を吊り上げ、

「無茶をするものではない」

 そう釘を差した。続けてヒヨリに恫喝するような視線を向けた。

「森家の姫は家伝の短刀探しですか。見つかったかな」

 彼女の帯に差された短刀に目を留めている。その平蔵の鼻先に、ヒヨリは煙管を差し出した。

「長谷川様。これは葵小僧の形見だそうです」

「ほお」

 煙管を受け取った平蔵はそこに刻まれた自分の所持銘をしばらく見つめていたが、勝ち誇ったような笑いを浮かべて胸元へ仕舞い、

「いや、この有様では、森家伝来の短刀も流されてしまったであろうな。さもありなん。あきらめが肝心。あはは、ははははははは」

 白々しいほど芝居がかった哄笑を振りまき、ヒヨリに背を向けた。かわりにヒヨリと誠志郎の前に現れた鉄蔵は、二人を見比べ、

「何だか、助けに来たというより、邪魔しに来たって感じだなア」

 疲れ切った表情で呟き、舟の中にへたりこんで、船縁にもたれて目を閉じたかと思うと、そのまま寝てしまった。

 昼には水が引き、永代橋まで引き上げてきたところで、

「後日、事情を聞かせてもらうぞ」

 と、平蔵から威圧的な言葉を投げられながら、ヒヨリは彼らと別れた。身なりはひどかったが、町のあちこちが破壊され、似たような泥まみれの者も歩いており、特に奇異というわけではなかった。それでも四谷の屋敷へ戻ると、使用人が目を丸くして、

「風呂を沸かします」

 と、支度を始めた。

 短刀を兄の部屋に置き、風呂から出ると、気絶するように寝てしまい、目覚めると翌日だった。そして午後、兄が城から戻り、二日ぶりで顔を合わせた妹に対して、

「短刀を取り返したようだな。結構結構」

 そういい、ことさら詮索はしなかった。しかし、

「今しがた、あの野良者が当家の前でうろうろしていたぞ。中島伊勢の不肖の息子……鉄蔵といったか」

「そうですか」

 嵐の夜にどこで何をしていたか、事情は鉄蔵から聞いたのだろう。だから、兄は詮索しなかったのだ。

「お前に、とことづかった」

 政之は風呂敷包みを寄こした。ヒヨリが開くと、唐銅の鏡だ。中島伊勢は松波家からお濃の方ゆかりの魔鏡を入手したらしいが、その品ではなさそうだった。

「何でも、妙見菩薩の魔鏡を手に入れたので、お前に見せようかと持参した……とかぬかしておった。おぬしは妙見信仰があるのかと尋ねたら、画号を北辰斎としたいくらいだといっていた。今の春朗という名が爽やかすぎて、似合わぬことは自覚しているようだ」

「どうもあの仁は仰々しい癖がありますなあ。今度会ったら簡単に北斎とでもしておけといっておきます」

「また会うことがあるのか」

「魔鏡を返さねばなりますまい」

「くれたのではないのか。わが家に男子が出生するようにと祈願をこめて」

 どうして、ヒヨリの周囲の男たちはこうも能天気なのだろうか。

「鉄蔵さんは、兄上に子が生まれることなど知りません」

 以前にヒヨリが魔鏡を見たいものだといったのを覚えていて、持参してくれたのだろう。鉄蔵はあれでなかなか律義な男である。

「まあ、貸してくれたにしても、向こうが勝手に持参したのだ。こちらから返しに出向く必要はないぞ。短刀さえ取り返せば、あんな野良者とは関わり合いにならぬことだ」

「でしょうね」

 その夜、ヒヨリは魔鏡に蝋燭の光を反射させてみた。部屋の白壁にはぼんやりと菩薩とおぼしき人影が映った。上部には七つの点……北斗七星があり、下部は蛇らしき影が取り巻いているが、この蛇は亀と一体化している。この異形の亀は、妙見菩薩の神使で北方の守護神とされる玄武の姿だろう。鏡の表面にはそうした文様はない。

(外面は夜叉に似たり、内心は菩薩のごとし……)

 ヒヨリは、自分が鉄蔵からそういわれた気がした。

 翌寛政四年(一七九二)の春、森政之に男子が誕生した。親戚一同が胸を撫で下ろし、

「お前、さっさと嫁に行ってもよいぞ」

 と、ヒヨリに満面の笑みで告げた。魔鏡の御利益はあったようだ。

 

 

 鉄蔵とは塩浜で別れて以来、会っていない。訪ね歩くと、この人物は転居癖があるらしく、去年の夏からすでに三度も引っ越ししており、向島の現住地にたどり着く頃には、ヒヨリは江戸の下町の地理にくわしくなってしまった。

 堀割に落ちそうな長屋の、傾いた戸を開けると、鉄蔵は汚れた畳の上にうずくまるようにして絵筆をとっていた。

「中島家や勝川一門の方々に聞いて歩きました」

 半年ぶりの再会だが、挨拶らしい言葉は互いに交わさない。それどころか、鉄蔵はヒヨリに目もくれず、画紙に向かっている。

「今は宗理と名乗っておいでですか。他にも群馬亭だとか可侯だとか辰政だとか、色々お名前があるようですね」

「ああ。うん」

 この男は恐ろしく無愛想な面と駄弁を弄する面がある。今日は前者らしい。

 ヒヨリは魔鏡を風呂敷包みごと、上がり框に置いた。

「お返しに上がりました」

 素っ気なくされ、訪ねたこと後悔した。帰ろうとすると、

「北斎もいいかも知れねえ」

 鉄蔵が絵を描き続けながら、いった。

「は?」

「江戸の町中はやかましくっていけねぇ。いずれ、俺は葛飾あたりの田舎親父になりてぇと思ってる。そしたら北斎と名乗るのもいいな。弟子に画号を金銭で譲るために多くの画号を名乗ってると非難するヤカラもいるが、この部屋のどこに弟子の姿が見える? 今のところ食うや食わずの野良絵師だが、いずれ門前市をなす大物になると世間は見ているようだ」

「せっかく絵師として売れてきても、そう頻繁に改名していては、世間に覚えてもらえないのでは?」

「そこだよ。覚えられたくねぇんだ。こいつはこういう絵師だと覚えられたら、やりにくくっていけねぇ。俺は常に変わってるんだぜ」

「引っ越しが多い理由もそれですか」

「いや。それは身動きとれないほどゴミがたまったら、掃除よりも引っ越すことを選ぶ。それだけだ」

 ここもすでに散らかっており、客が座る隙間もなさそうだ。それでも、鉄蔵が以前のように軽口を叩いてくれたので、ヒヨリは嬉しかった。森家の事情など話す気はなかったのだが、心を開いてしまった。

「兄に男子が生まれました」

「ほお。跡取り誕生か。てことは、お前さんも嫁に行けるというわけだ。あの、ほれ、伊上誠志郎といったか」

「一度は流れた縁談を今さら……」

「若い者が体裁なんか気にしてどうする。俺はな、お前さんたち二人の家内安全、子孫繁栄を祈ってやるぜ」

「意外とお節介ですね。よその家の内輪話などに興味ありますか」

「お前さんはどうなんだ。よそ様が何をやっていようが知ったことじゃないか。たとえば、リョウの子供がどうなったか」

「リョウさんの子供? 私たちが助け出した赤ん坊ですか」

「知りたくなきゃいいぜ」

「教えなさい。どうしたのですか」

「赤ん坊は旗本の家に養子に出された。名は……」

 鉄蔵がその名を口にした旗本は大身ではないが、格式ある家である。

「リョウさんの松波家には男子が何人もいるんでしょう。出戻り娘の産んだ子が養子に出されても意外ではありませんが」

「その養子の世話をしたのが長谷川平蔵だ」

「え」

「長谷川平蔵にしてみりゃ自分の養子にしたかったかも知れねぇ。だが、長谷川様にはすでに二人の男子がある」

「何をいいたいんです?」

「リョウというのは、かつて長谷川平蔵と葵小僧が取り合った女だ。長谷川平蔵とリョウが最近も旧交を温めていたとしたら……」

「何やらまた胸の悪くなりそうなことを考えていますね」

「リョウが産んだ赤ん坊は長谷川平蔵の子かも知れねぇ」

「お宮参りの日に長谷川様が神田明神に現れたのも、偶然ではなく、我が子と対面したかったから……。葵小僧一味が赤ん坊をさらったのは葵小僧の子だからではなく、長谷川様の子だから……」

「葵小僧一味が比良多屋を襲った時、葵小僧はリョウと再会し、身籠もっていることを知った。有り得る話だろ」

「つまり、一味が赤ん坊をさらった目的は自分たちの頭の子を二代目に育てることではなく……」

「憎き火盗改の頭領の子を盗賊に育て上げる……。なかなか悪趣味な復讐だと思わねぇか」

「本気でいってますか」

「そんな考え方もできるという話さ」

「読本や黄表紙でもあるまいし……。鉄蔵さんの悪趣味な想像力には、いつもあきれます」

「悪趣味で大いに結構。絵師は悪趣味でナンボの商売だ。おい。この悪趣味な絵を誠志郎さんに持ってってくれ」

 鉄蔵は画紙の山の中から一枚を発掘して、ヒヨリに寄こした。

「殴り書きだが、描いて欲しいと頼まれていたんでな」

 はて。鉄蔵と誠志郎の間には、そんな依頼をする暇などなかっただろうに。

「あ。私は誠志郎様にお会いするつもりは……」

「頼んだぞ。じゃ、出てってくれ。俺は忙しい」

 問答無用で部屋から追い出され、戸を閉められてしまった。

 渡された画紙を開くと、大黒天の絵だった。この絵のどこが悪趣味なのだろうと首をかしげた。俵に乗って、頭巾をかぶり、打出の小槌を振りかざしている姿である。その形態が男性器を象徴し、子宝祈願に結びつく民間信仰など、ヒヨリが知るところではない。

 どうやって誠志郎に手渡そうかと思案しながら、春の陽差しの下を歩き出した。

鬼鶴の系譜 寛政編 第六回

鬼鶴の系譜 寛政編 第六回 森 雅裕

 トモエは四十過ぎの、これまた妙に胆がすわった女だが、戸口から風雨とともに転がり込んだヒヨリを悲鳴混じりに迎えた。

「一体、何事ですかっ。こんな荒れた天気の夜に出歩くなんてのは、うちの亭主みたいな馬鹿だけですよ」

「ご主人は?」

「寄り合いとかいって出たけど、どこぞの遊郭でしょ。嵐なら客も少ないからモテると思ってるんですよ。同じこと考える男どもが押しかけて、かえって混むのがオチだってのに」

「汚してもいい着物と袴を借してください」

「無理して帰らず、泊まっていきなさい」

「いえ……。行くところがあります」

 ヒヨリはさっさと島田髷を解き、うしろでまとめた。

「あーもうっ。私を追い出すから、姫様がこんな非行に走るんです。嫁に行けなくなったらどうするのですか」

 トモエはそうはいいながらも、ヒヨリが質草の中から着物、袴を身につけると、

「その身なりだと、刀が必要だわね」

 頼みもしないのに、質実な拵に入った刀を蔵から出してきた。数打ちの実用刀かと抜いてみたら、形は堂々たるものだが、刃がついていない。

「捕り物用の鉄刀ですね」

「あら。人斬りでもなさるおつもりですか」

「いいえ。雨も降っているし、真剣だと錆びさせたら困ります」

 それから蓑笠を借りた。褌さえ質草になる時代なのである。こんな雨具も蔵に押し込まれていた。ただし、四人分となると、トモエも首をひねった。

「お仲間がいるのですか」

「人助けをする仲間です」

「何だかお腹の減りそうなことをやってますね。何か食べる?」

 一種の興奮状態にあるので空腹は感じなかったが、食べねば体力がもたない。

「茶漬けでももらえたら」

「でも、なんてのは茶漬けに失礼です」

 トモエは文句をいいながらも、漬け物を大量に投入した茶漬けを作ってくれた。ヒヨリはそれをかき込み、はしたないとトモエに叱られながら、手早く蓑笠を身にまとった。豪雨では傘は用をなさない。

「お仲間とやらは、どうしてここへ顔を見せないのですか。中西道場の稽古仲間ですか」

 ヒヨリの人脈の中で行動的な人間といえば、中西道場の若侍と推測するのは自然である。

「伊上誠志郎様ですね。まア、あの方が一緒なら、行くなとは申しませんが」

「仲間がここまで使っていた傘は、あとでこちらの裏口の方に置いておきます」

 ヒヨリは男たちの分の蓑笠を両腕に抱え、外へ出た。身体に打ちつける雨粒の一つ一つが、イヤになるほど重い。

 蕎麦屋までのわずかな距離で、蓑笠はかなり濡れてしまい、脱ぐのも面倒だし、このまま入れないし、店の軒先から中をうかがうと、店の親父が声をかけてきた。

「どうもどうも。待ちかねておりましたよ。この嵐じゃ商売にならないから、もう閉めますよとお連れ様方に申し上げていたところで」

 その「お連れ様方」しか客はおらず、彼らは追い立てられるようにぞろぞろと軒先へ現れた。

「これを着てください」

 ヒヨリは男たちに蓑笠を押しつけた。

「この鉄蔵とやら、妙に吉良方の肩を持つな」

 と、多西が口元を歪めた。忠臣蔵の話をしていたらしい。

 自説を展開しているのは鉄蔵である。

「吉良方を悪者にして赤穂の浅野方を義士と礼賛するのは、お上に対する市民の不平不満を逸らさんがための詭計だ。そもそも、松の廊下でいきなり斬りつけた浅野方が、無抵抗で斬りつけられた吉良方を恨んで、喧嘩両成敗だとか片手落ちの不公平だとか申し立てるのはおかしいだろうが」

「なるほど。そういわれると、そんな気がしてきた」

「大体、完全武装した大勢で吉良屋敷の寝込みを襲うなんざ、闇討ちじゃねぇかよ。侍のやることじゃねぇ」

「なんで、赤穂の浪士をそんなに悪くいうんだ?」

「俺は小林平八郎の血を引いているからな」

「小林って、誰だ?」

 首をひねる多西に、

「吉良方の剣客」

 と、ヒヨリが呟くと、誠志郎が明朗な声で応じた。

「そういや、ヒヨリ殿の御本家は今の赤穂藩主でしたな」

「元禄の頃には、森の本家と浅野家には親交もあったようです。けれど、うちは支流の支流。浅野方にも吉良方にも思い入れはありません」

 鉄蔵が頷いた。

「でなきゃ、俺とは敵同士みたいなもんだ。こうして同道なんかできねぇよな」

「別に親しみを感じて同道しているわけでもありませんけれど」

「へっ。この姫様も俺に劣らず、人を怒らせる名人だよなあ」

 男たちは蓑笠を身につけた。彼らがここまで持参した傘は、トモエの質屋の裏口へ置き、嵐の様相をむき出しにする天候の中を歩き出した。誠志郎が持っていた提灯には火を点せる状態ではなかった。

 道はぬかるみ、川のようになっているところもある。闇の空から凶悪な哄笑のような風雨が叩きつけてくる。

 何で、こんなことをしているのだろう……。理由がわからなくなる。葵小僧一味が悪い。とりあえず、目先にある理由はそれだ。

「葵小僧の他にも、神稲小僧とか稲葉小僧とか聞いたことあるけど、何で、いい年した泥棒を『小僧』呼ばわりするのかしら」

 不満混じりの疑問が口から出た。後々の世俗には鼠小僧や芝居の弁天小僧が有名だが、前者は化政期、後者は幕末の盗賊なので、ヒヨリの知るところではない。

 鉄蔵が声量を雨音と戦わせながら答えた。

「悪い奴はガキの頃から悪い。大人が急に悪くなって『小僧』と呼ばれるわけじゃねぇんだ。鬼を酒呑童子だとか茨木童子だとか『童子』と呼ぶのも同様の理由だ」

 それきり、彼らの口数は少なくなった。しゃべる気力を風雨が奪った。ヒヨリにしてみれば、こういう男たちと一緒に夜歩きする日が来るとは考えたこともなかった。高揚感と背徳感が入り混じり、さらに暴風雨が理性を麻痺させた。要するに、ヤケクソな気分だった。

 塩浜へ至るまでには、すでに水没している道もあった。

「今からでも屋敷へ戻った方がよくはないか」

 誠志郎はヒヨリを気遣って、そういったようだが、彼女は聞き入れない。遠回りしたり迷ったりしながら、目指す廃寺へたどり着いた時には、すでに深夜だった。

「到着というより漂着した気分だ」

 鉄蔵は山門を覗きながら、ぼやいた。

 廃寺はさほど大きくなく、常夜灯は消え、ほとんどの建物が真っ暗だが、本堂から灯りが洩れている。そこだけ人の気配があった。

 本堂の前には見張りの浪人が一人、うろうろしていたが、この風雨では役目に熱心にはなれぬのだろう、出たり入ったり落ち着かず、死角だらけだった。

 その隙を縫って、誠志郎は剛胆というかのんきというか、本堂の回縁に上がり、内部を偵察して戻った。

「坊主ではない有象無象がたむろしている。赤ん坊の泣き声が聞こえた。間違いなさそうだ」

「踏み込みますか」

 ヒヨリは、風雨にさらされているよりも斬り込んだ方がマシな気分になっている。だが、誠志郎は慎重だ。

「相手の勢力もわからないし、女子供がいる。いってみりゃ人質だ。無茶はできない。火盗改を待とう」

 ヒヨリは鉄蔵を見やった。

「じゃ、鉄蔵さんは長谷川様へ御注進に走って」

「本気かよ。ここ来る途中にいくつも堀割があったの見たろ。あっちもこっちも洪水寸前だ。そんな中を疲れ切った身体で駆けずり回れってか」

「火盗改が来てくれなきゃ、ここにいる者だけで乗り込むしかないわよ。鉄蔵さん、その覚悟ある?」

「ちっ。生きてたら、また会おう。いや、もう会いたくない」

 鉄蔵を風雨渦巻く闇の中へと送り出し、残った三人は本堂の斜向かいに建つ、かつては物置だったらしい破れ小屋へ潜り込んだ。とりあえず雨風は防げるが、すでに濡れネズミとなっており、九月初めとはいえ、身体は冷えていた。

「火を焚きますか」

 多西がいったが、誠志郎は制止した。

「やめておけ。嵐の夜とはいえ、火や煙を一味が気づくかも知れない」

 狭い小屋には煙の逃げ場もない。持参した提灯から蝋燭を取り出し、灯りを点した。これくらいなら、見つかりもしないだろう。

 小屋の中を漁ると、ムシロが積んであったので、埃っぽいのを我慢して、ヒヨリはこれをかぶりながら窓の雨戸をわずかに開け、本堂を見張った。

 見張りながら、神田明神の水茶屋でもらった切り飴を取り出し、甘味で身体を癒やした。そして、袋ごと誠志郎に放り投げた。無言である。この娘は行儀がいいのか悪いのか、わからない。

 男たちは切り飴を口に入れ、誠志郎は、

「交替で見張ろう」

 といったが、ヒヨリは窓から吹き込む雨に濡れた顔を拭いながら、低く呟いた。

「一味を見張るよりも、この嵐を警戒すべきかも」

 小屋は雨漏りだらけで、壁や屋根も悲鳴のような軋み音を発している。窓の隙間からは時折、うなりをあげて風雨が暴れ込んだ。

 太平楽なヒヨリとはいえ、ここで動きを止めると、再び動き出すのが嫌になる。湿った衣服が肌にまとわりつき、疲労した身体が重い。高揚した気分が萎えそうだ。悪人どもを目前にして、それは避けたかった。

 この寒さにじっと耐えているよりは、

「一味が寝静まるのを待って、踏み込むというのはどうですか」

 その方がマシだとヒヨリは提案したが、誠志郎は泰然と構えている。

「ヒヨリ殿は勇ましいな。しかし、勝手に斬り合いをやれば、あとあとお咎めを受けないとも限らぬ。この荒天では一味も動けないし、人質に危険もあるまい。待つことだ」
 
 ヒヨリとしても、それが妥当な選択であることはわかっている。不快な環境には我慢することにしたが、生理現象は起こる。男は簡単だが、女はそうもいかない。

 厠らしき小屋が境内にある。

「厠へ行きます」

「一味も厠を使うかも知れない。鉢合わせしたらマズイ」

 誠志郎はそういったが、風雨にさらされながら外で用足しもできない。

 多西はヨダレを流しそうな声を発した。

「ここでやってもいいですぞ」

「私の目的はあなたの御新さんを救うことじゃない。人質の命にかまわず、一人で斬り込んでもいいのよ」

「赤ん坊も斬り合いに巻き込みますか」

「赤ん坊なら抱いて逃げられます。でも、大人の女までは面倒を見きれません」

「へっ」

 中西道場で、多西はヒヨリには常に後れをとっていた。ヒヨリの剣は決してきれいな技術ではなく、突きを主体とした実戦的なもので、門弟たちからは敬遠されたものである。

 蓑笠をまとって真っ暗な厠に入り、用を足して出たところで、目の前に男がいた。風雨の騒音で、ぶつかりそうになるまで気づかなかった。闇の中で、同時に悲鳴をあげながら、二人の身体はそれぞれ別の反応をした。男はただ立ちすくみ、ヒヨリは持っていた刀の柄頭で相手の鳩尾を突き、怯んだところで、喉元を殴りつけた。こいつ、酒臭かった。

 男が悶絶しながら倒れると、衿首をつかんで、水たまりの中を物置小屋まで引きずった。泥まみれの捕虜を見た多西は、

「まともじゃないぞ、この姫様」

 悲鳴と抗議を同時に吐き出した。

「一味には腕利きの浪人もいるのですぞ。そいつとぶち当たったら、どうするんです。こんな間抜けだったからいいようなものの……あれっ?」

 多西は、呻いている男の顔を覗き込んだ。

「ああああ、こいつだ、この間抜けだ。俺の妻の幼馴染みってのは。名前知ってるぞ。渡り中間だった男で、万蔵とかいうんです」

 その万蔵を誠志郎が刀の下げ緒で後ろ手に縛り上げ、頬を叩いた。呻きながら目を開いた万蔵は、跳ねるように全身を震わせた。

「何だ何だ、おめぇら。あ、そこのお前、見覚えあるぞ。そうだ、多西だ。女房に逃げられたサンピンじゃねえか」

「逃げられたとは何だ。妻はお前らに悪の道へと引きずり込まれたんだ」

 多西は声を荒げた。

「大声を出すな。一味を呼び寄せる気か」

 と、誠志郎が多西と万蔵の間に割って入り、訊問した。 

「仲間は何人いる?」

「六人、いや五人、いや三人……」

 多西が噛みつきそうな声で、

「面倒だ。殺してしまえ」

 そう毒づくと、万蔵は白状した。

「俺以外に六人だ。その中に女も一人いる」

「おかしなことをいうな。女は仲間じゃあるまい。さらった赤ん坊に乳をやるために無理矢理、引きずり込んだんだろ」

 多西が異を唱えた。だが、万蔵は鼻で笑った。さらに酒が匂った。

「仲間だよ。お前の女房はとんでもない好き者で、俺たち皆に抱かれて喜んでる。あの女を連れ戻しに来たなら、あの女にしてみりゃ、ありがた迷惑だと思うぜ」

「こ、こいつ……。おっつけ、火盗改が押し寄せて来る。拷問されても嘘をつき通せるかな」

「嘘なんかいわねぇ。拷問も必要ないぞ。何でも訊きな」

 誠志郎が尋ねた。

「仲間には侍もいるそうだな」

「歴とした旗本や御家人の出もいるぜ。そもそも俺たちのお頭だって、もとをただせば長谷川平蔵とは竹馬の友だったという旗本崩れだからな」

「葵小僧が旗本崩れ?」

「長谷川平蔵も今でこそ火盗改なんていってのさばっているが、若かりし頃は道楽三昧の野良者。その頃につるんでいた仲間らしい。お頭はな元々は山棚与弥太という旗本だ」

 ヒヨリも誠志郎も、五千人を超える旗本の名前をいちいち覚えてはいない。

「俺たちのお頭と長谷川平蔵は女を取り合ったこともあるそうだ。どこかの武家娘だったらしいが、それがよ、去年、襲った商家で、偶然、お頭はその女に再会したんだ。人の世は面白ぇなあ」

「日本橋の比良多屋か」

「あちこち襲ってるから、そこまで覚えちゃいねぇや」

「さらった赤ん坊はその女が産んだ子か」

「へへ」

 旗本の次男三男といった冷飯食いが悪の道に走っても、驚くようなことではない。ただ、それが葵小僧の正体であるとは、にわかには信じられなかったが。

「あのな、葵小僧が長谷川平蔵の悪友だった証拠品もあるんだぞ」

「何の話だ、それは」

「へへへ。俺を解放してくれたら、持ってきてやる」

 多西が鼻を鳴らして笑った。

「本気でそんなこといってるのか。お前、長生きするぜ」

「俺が厠から戻らなかったら、仲間があやしんで、探しに来るぞ」

「別にそんな様子はありません」

 と、窓の隙間から本堂を見張っていたヒヨリは、吹き込む風雨を避けながら、いった。

「見張り役の姿も見えない」

 お気楽に酒を飲んでいるのは万蔵だけではあるまい。江戸を離れる算段らしいから、長旅にそなえて寝てしまったのだろう。

「証拠品とやらよりも短刀の方が肝心です。リョウさんから赤ん坊と一緒に奪いましたね」

「ああ、何なら、それも持ってきてやる。行かせてくれ」

「ホントに長生きするぞ、お前」

 多西が天井からの雨漏りに舌打ちしながら、いった。

「お前を信用するくらいなら、野良猫でも使い走りに出した方がマシだ。そもそも、証拠品って何だ?」

「へへへ、長谷川平蔵にとっては世間から隠しておきたいモノさ。火盗改がろくな取り調べもせずに、うちのお頭をさっさと獄門にしてしまったのは何故だ?葵小僧が幼馴染みでは長谷川平蔵も体裁が悪いからだよ」

「ということは、事情を知るお前も、火盗改につかまれば、さっさと処刑されるということだな」

「あ。おい、勘弁してくれ。俺なんか下っ端の使い走りだ。見逃してやってくれ。あのな、あのな、多西の女房と手に手を取って、一味から抜けようと言い交わしてるんだ。ありゃ淫乱だけど、情の深いところがあるんだよ」

 万蔵は身をよじった。

「おい、亭主。お前はこき使うばかりで、女の値打ちがわかってねぇ。俺なら、あの女と……」

 ごん、と物凄い音がして、万蔵は首を異様に折り曲げながら倒れた。多西が蹴り飛ばしたのだ。

「この野郎っ! 長生きするといったのは取り消すぞ!」

 なおも多西は踏みつけ、蹴り続けた。

「やめろ!」

 誠志郎が羽交い締めにして引きはがしたが、多西は駄々っ子のように両足で地べたを叩いた。倒れた万蔵は動かない。その下半身からしみ出すものがあり、悪臭が漂った。誠志郎は彼の鼻と口のあたりに手をあて、呼吸を確かめた。

 ヒヨリは窓際から振り返り、首を振る誠志郎と目を合わせた。男は死んだ。

 多西は肩で息をしている。これでさらに大声を発したら、ヒヨリも誠志郎も力ずくで黙らせただろう。それを悟ったか、声量は控え目だった。

「ど、どうせ獄門になる盗賊じゃないか。妻をもてあそばれた俺が成敗する。これぞ正義だ。そうだろ、え?」

「何故、赤ん坊をさらったのか、理由をまだ聞き出していないぞ」

「聞いたじゃないか。葵小僧が旗本の道楽息子だった頃、長谷川平蔵と取り合った女がいて、襲った先の商家でそいつと再会して、アラ懐かしやと、はらませた子だ。葵小僧の忘れ形見なら、これを跡継ぎに立て、盗賊一味は再起を期したいだろう。当然だ」

 多西のような俗物のセリフでなければ、その意見にも説得力があるが、口角泡を飛ばしながらまくし立てられても、胡散臭かった。跡継ぎを立てて再起を期すなど、戦国大名でもあるまいに……。鉄蔵も同様の仮説を立てていたが、鉄蔵自身もあまり信じていないようだった。

 風雨がさらに凶暴になったので、ヒヨリは窓を閉ざしながら、呟いた。

「葵小僧と長谷川様が悪友だった証拠品……とかいっていましたね」

「我々にはどうでもよいことだ」

 それはそうだ。ヒヨリの目的はあくまでも家伝の短刀なのである。だが、それこそ誠志郎には関係のない話だ。

「誠志郎様。こんなことに巻き込んでしまって、申し訳ありません」

「何。巻き込まれた甲斐がありそうだ。人が目の前で殺されるのは楽しい気分ではないが」

 点していた蝋燭が燃え尽き、小屋は闇となった。あらためて、屋根や壁があちこち隙間だらけだと知った。

 多西は小屋の隅に座り込んで、しばらくぶつぶつ愚痴っていたが、

「火盗改はまだ来ないのか!」

 叫んだ。同時に、彼のすぐ横に棒きれが飛んできて、柱に当たって砕けた。ヒヨリが投げつけたのである。

鬼鶴の系譜 寛政編 第五回

鬼鶴の系譜 寛政編 第五回 森 雅裕

 リョウは松波家から迎えが来て、引きずられるように実家へ戻り、ヒヨリと鉄蔵は水茶屋で、外の雨音を聞きながら、思案をめぐらせた。

「行きずりの犯行でしょうか」

「身代金目当てなら、金のある商家の子を狙うだろうし、人買いに売り飛ばすなら、世話の焼ける赤ん坊は避けるだろう」

「では、誰が、何のために……」

 リョウの子供をさらったのだろうか。

「葵小僧一味に襲われた時に種を宿したとしたら、生まれた子の父親、あるいは父親の仲間が奪いに来るということは考えられねぇか」

「一味は一網打尽になったわけではなく、逃げのびた者もいたわけですか」

 それにしても、嬲の葵小僧といわれる極悪人一味が、犯した女の妊娠出産をいちいち気にかけるとも思えないが……。

「私には悪党の考えることなど、わかりかねます」

「いやいや。それが葵小僧の種だとすれば、手下どもが今は亡き頭の忘れ形見だってんで、さらっていった……のかも」

「悪党の二代目に育てるために、ですか」

 有り得ぬことではなかろうが、やはりヒヨリの理解を超えている。

「それが普通の考えというものでしょうか」

「なんの。下賤な俺が芝居や読本に毒された推測を姫様にお聞かせしただけでございますよ。どうぞ一笑に付してやっておくんなさい」

「笑った方がいいですか」

「……もう、好きにしてくれ」

「仮説としてうけたまわっておきます。だとしても、リョウさんの出産をどうして一味が知ったのでしょうか。端からリョウさんの子供を狙ったとすると、今日が産土神のお宮参りだと知っていたことになります」

「ふん。ということは、松波家の誰かが手引きしたのかも知れねぇな」

「松波家に家臣や使用人は何人もいるでしょうが、そんな悪だくみしそうな者は……」

 いいかけて、ヒヨリの表情が停止した。

「心当たりでもあるのか」

「人の悪口をいうようで気が引けます」

「本当のことをいえば、どうしても悪口になるもんだ」

「下谷の中西道場に通う門弟に、松波家の家臣がいました。歴とした武士ではありません。博打が大好き、手癖もよろしくないし、上の者には媚びへつらい、下の者はいじめる、町の女子供を殴りつけて泣かせたことを自慢する、最低最悪のサンピンです」

「気が引けるといいながら、随分並べたなあ。中西道場へ行けば、そいつに会えるかな。何か、わかるかも……」

「さあ……それは」

「おや。何か気が進まない理由でもあるのか」

 この男、妙に勘がいい。道場に行けば、会えるのはその男だけではない。むろん、会ってしまうとは限らない。いやいや、むしろ会うことはないだろう。毎日、道場へ通ってくるわけではないのだから。たぶん……。

「もしかして、顔を合わせるのが気まずい門弟もいるとか?」

「そんなことありません」

「何を必死で否定してるんだ? 借金してる相手でもいるのかと俺はいってるだけだぜ」

「いません、そんな人。行くなら行きましょう」

 水茶屋で傘を借り、不穏な天候の中へ踏み出した。たちまち、裾が濡れ、後悔した。

 中西道場へ着く頃には雨は上がったが、上空は風が強いのか、重そうな雲が流れ、大きく傾いた太陽が見え隠れしている。

 道場の裏へ回ると、井戸の周囲で数人の門弟が顔を洗っていた。半裸状態の者もいるが、ヒヨリはかまわず近づこうとする。見慣れているし、妙な気遣いはしない性格だ。しかし、鉄蔵はあわてて引き止め、目が合った門弟一人を手招きした。

 やってきた若侍はヒヨリとも顔見知りだ。長々と挨拶しそうな気配をさえぎり、ヒヨリは無遠慮に切り出した。

「多西◯一郎殿は来ていますか」

 それが松波家の下級家臣の名前である。

「同門の者たちから借金を重ねて、逃げるように道場をやめたぞ」

「あら」

「伊上誠志郎が、貸した方からも借りた方からも相談を受けて、調停したようだが……」

 若侍は意味ありげに微笑んだ。

「伊上を呼んでこよう」

「あ」

 それには及ばないとヒヨリがいうより早く、若侍は道場へ駆け込んでしまった。誠志郎は馬鹿真面目に今日も道場へ来ていたらしい。

 鉄蔵は聞こえよがしの声を発した。

「ふうん。その、伊上なんとかとやら、人望ある人物のようだ」

「なんで、うしろから刺してやりたくなるほどの大声で、そんなことをいうんです?」 

「なんだか知らねぇが、お前さんの顔色の変わるのが面白れぇからな」

 本当に刺してやろうか。ヒヨリは懐剣を錦袋なんぞには入れず、いつでも抜けるよう、むき出しで手挟んでいる。武家娘の懐剣は自害用だというが、彼女の場合はそれだけではない。

 伊上誠志郎が現れ、この奇妙な二人連れを見比べたが、いぶかしむというよりも興味深げだ。

 鉄蔵は身長六尺の大男である。半端ではない存在感を放っているのだが、誠志郎はまるで意に介さない。ヒヨリもせいぜい明るい声を作って、紹介した。

「こちらは絵師の中島鉄蔵さんです」

「ほお。道場破りに来た剣術家かと思った」

 先日、ヒヨリが中島伊勢について尋ねたことを誠志郎は覚えていた。

「中島……といわれると、中島伊勢殿の縁者かな」

 鉄蔵は悠然と微笑んだ。

「愚息ってやつで……」

「多西黄一郎に御用だそうだが、多西は先日、妻が死産して、松波家の勤めも剣の修業も、やる気を失ってしまった」

 ヒヨリが問いかけた。

「その御新(御新造)さんは?」

「松波家の長屋は出たようだ。実家に帰したのではないかな」

 それを聞いて、ヒヨリは鉄蔵へ合図するように横顔を向けたが、視線は合わせなかった。

「子を死産したなら、お乳が出るはず」

「なるほど」

 さらわれたリョウの子供は生後一月。生かしておく気が犯人側にあるなら、母乳が必要だ。多西の妻がその役を果たしているのではないか。

 誠志郎はヒヨリを静かに見つめている。

「多西がどうかしましたか?」

「どうかしたかも知れません。それを確かめたいのですが……」

 ヒヨリは細かな説明はせず、誠志郎も追及しなかったが、

「急ぎの用件ですか」

「はい」

 それだけで充分だった。誠志郎は教えてくれた。

「多西は夜ごと、賭場に入り浸っているらしい。旗本の寒河慎之介殿の屋敷です」

 旗本屋敷の長屋にある中間部屋で賭博が行われることは珍しくない。町方役人には手出しできず、本来は屋敷の主である旗本が取り締まるべきなのだが、安い給金を補うために黙認しているのが実状だ。

「寒河屋敷へ行ってみますか。場所は青山百人町のあたりだが……」

 誠志郎は軽い口調で、いった。

「私が多西を呼び出そう。ヒヨリ殿が賭場へ入るわけには行きますまい」

 それより何より、もう日が暮れる。夜歩きは武家娘の習慣にはない。しかし、この機会を逃すわけにはいかない。

 鉄蔵が気乗りしないようなら、ヒヨリも断念したが、この好奇心の強い絵師は行く気満々だ。

「面白くなりそうじゃねぇか。絵師ってのは何でも見てやろうって好奇心が大事だ。しかし、青山は何もない田舎だぜ。ここらへんで何か食っていかないか」

 鉄蔵はそう誘ったが、歴とした武家なら外食などしない。基本的には夜歩きもしない。武士は戦闘要員であるから、有事に備え、夜は自宅待機を義務づけられている。

 ヒヨリも誠志郎も返事さえしないので、鉄蔵は怒りと笑いをまじえた大声をあげた。

「武家ってのは不自由なもんだな、え?」

 雨がまた降り始めた。道場から提灯を一つ借りたが、無用かも知れない。

 

 

 ヒヨリと鉄蔵に誠志郎を加えた一行は、青山へと向かった。江戸の町はずれで、大名の下屋敷と寺地が広がり、そこに雑然とした町屋が混在している地域である。

 寒河慎之介の屋敷は雑木林によって、町屋と隔てられていた。目の前に神社があり、常夜灯の光が屋敷の塀にかろうじて届いている。中級旗本屋敷の規模である。

 誠志郎が侍長屋近くの通用門から入り、多西◯一郎を連れ出してきた。雨でゆらめく提灯の光に照らされた多西は、いじめ抜かれた野良犬のような目つきをしている。極悪人ではない。小心で気弱ゆえに道を踏みはずした小悪党だった。しかし、品性は低い。揶揄するように、ヒヨリを見やった。

「これはヒヨリ様……。誠志郎様とヨリを戻しましたか」

 多西という男は旗本に雇用され、年間の扶持が三両一分ゆえに「サンピン」と蔑称される下級武士にすぎない。ヒヨリや誠志郎に対等な口はきけない身分である。一応は丁寧な言葉遣いだが、相手を揶揄する機会を常に探している。そんな男だった。

 ヒヨリは多西を睨んでいるが、まったく無表情である。付け入る隙など与えない。

 誠志郎はまだしも愛想よく、多西と鉄蔵を引き合わせた。

「こちらの御仁がお前に話があるそうだ」

 鉄蔵は大男であり、彼の持つ異様な眼光は夜の闇で半減していたが、多西を怯ませるには充分な迫力があった。その鉄蔵が多西を見下ろしながら、ガラ悪く切り出した。

「赤ん坊がさらわれちまった」

「何だ何だ、いきなり」

「手引きしたのはお前さんだ」

「リョウ様が俺があやしいとでもいっているのか」

「おや。さらわれたのがリョウの赤ん坊だと、どうしてわかる?」

「あ……」

「リョウはもとは中島伊勢の妻。火盗改の長谷川様とも親しい。素直に白状した方が身のためだ」

「あ、あんた、火盗改の手人なのか」

 多西は鉄蔵を火盗改の御用聞きとでも思ったようだ。鉄蔵は否定しない。

「俺は中島家に縁ある者で、鉄蔵という。今日は長谷川様から、お前は人を怒らせる名人だといわれた」

 まあ、嘘ではない。

「お前さんも、きっと怒る」

「ど、どうしてだ?」

「人さらいの一味として火盗改に突き出すからだ。いや、怒ってもすぐに泣きに変わるだろうな。火盗改の取り調べは半端じゃねぇから。拷問で石を抱かされて、放免されても、もう一生歩けねぇ奴も珍しくない」

「お、俺は一味なんかじゃない。妻の幼馴染みが葵小僧の一味なんだ。一味の生き残りだ」

「ほお。やはり、葵小僧一味の仕業だったか」

「あ」

 またいいすぎたことに気づき、多西は絶望的な表情で、言葉を続けた。

「……そいつは松波家に押し入ることを考えていたようで、内情を訊かれたが、今どきの武家は金なんか持ってないことを教えてやった。リョウ様が離縁されて実家に戻っていることも話した。跡継ぎが欲しい中島伊勢様がリョウ様の腹の子を喜んでいないのは奇妙だとも……。それから、そいつにリョウ様のお宮参りの日を訊かれたので、教えた」

「葵小僧の一味が、なんでリョウの赤ん坊を欲しがる?」

「知るか」

「この有様から何も考えつかないとしたら、お前さん、よほどの阿呆だぜ」

「葵小僧一味が日本橋の比良多屋を襲った時、リョウ様は居合わせていた。親玉の葵小僧が手下どもに『手を出すな』と命じて奧座敷へ連れて行った女が、比良多屋の連中から『リョウ』と呼ばれていたのを手下どもは聞いている。葵小僧はえらく気に入ったらしく、夜通し放さなかったそうだ。ふへへへ。なら、離縁されたのは、その時に孕まされたからではないのかな。つまり、葵小僧の子種だ」

 なんだかうれしそうに多西は語った。こういう下種下根には楽しい話題なのだろう。

 ヒヨリはそっぽを向いている。この推理は筋が通っているようで、どこか釈然としないものを感じる。誠志郎はどう思っているのか。誘拐事件など話さずにここまで同道したのである。これも器量のわからぬ男だ。彼の表情を盗み見ようとした視線が、相手の視線ともろにぶつかった。向こうもヒヨリの表情をうかがっていたのだが、闇にまぎれて、互いに素知らぬふりを決め込んだ。

 鉄蔵は多西に対して、さらに問い詰めた。

「で、さらわれた赤ん坊はどこだ? お前さんの御新が乳をやっているのだろう」

「一味は塩浜の廃寺にいる。明日には江戸を離れ、上方へ向かう。妻も連れて行かれるだろう」

「お前さんはそれでいいのか」

「よくないから、こうして打ち明けてるんだ。一味には腕の立つ浪人も何人か混じってる。妻は脅されて行動をともにしているだけだ。連れ戻したい。力を貸してくれ」

 鉄蔵にすがりつき、誠志郎の肩をゆすり、ヒヨリにも手を伸ばしたが、彼女は身をかわした。

 ここまで沈黙していた誠志郎がようやく感想を洩らした。

「何やら大変なことになっているようですなあ。ヒヨリ殿もこのような事件に巻き込まれるとは、つきあいがよすぎる」

 それを聞いて、多西が驚嘆した。

「え。誠志郎様は事件を知らずに来たのですか。あなたこそ、つきあいがよすぎる」

「文中子いわく『まず選んで、しかるのちに交わる』……私はこういうつきあいのことだと思う。違うかも知れんが」

「違うでしょうな。そりゃ遊郭の女郎選びのことでさあ」

 鉄蔵は冗談なのか本気なのか、胸を張って、そういった。まあ、ヒヨリと誠志郎は腐れ縁だとかいわれるよりもマシかなとヒヨリは思ったが、すぐに鉄蔵は土足で心中へ踏み込んできた。

「お二人の仲は腐れ縁ってやつですな」

 この男、いってはまずいことを口に出してしまう性格らしい。それにしても、二人が元の許婚者だったことなど知らぬはずだが、無神経なくせに勘だけはいい。

「ともあれ、妻を助けたいなら、その廃寺とやらに案内してくれ」

 多西にそう求めたのは誠志郎である。

「明日、江戸を離れるなら、もう猶予はない」

「おや。乗り込みますか」

 と、鉄蔵。

「面白そうではあるが、長谷川様に知らせて、火盗改にまかせるべきですぜ」

「場所を確かめるのが先です」

「青山から塩浜へ行って、それから火盗改に走るのか。長谷川様の役宅は本所二ツ目ですぜ。御苦労なことだ」

 この場にいる全員が鉄蔵を見つめた。

「おいおい。俺がその御苦労な役をつとめるのか」

「長谷川様とはお知り合いなんでしょ」

 と、ヒヨリ。鉄蔵は傘の下で、天を仰いだ。

「面倒なお姫様と関わり合っちまったなあ……」

 一番無関係なのは誠志郎である。だが、この男はごく自然にここにいる。

「誠志郎様にこれ以上の御迷惑は……」

 ヒヨリは恐縮したが、誠志郎は飄然としている。

「何。物見遊山みたいなものだ。それよりヒヨリ殿は……」

「私も行きます」

「しかし、もう夜中です。それに……」

 雨が強くなった。風も強く、これは只事ではない。実はこの天候、斎藤月岑の「武江年表」にいわく、

「九月四日大嵐、昨夜中より大雨、南風烈しく八月(八月六日の暴風雨)より強し。巳刻(午前十時前後)高潮深川洲崎へ漲りて、あはれむべし、入船町、久右衛門町壱丁目弐丁目と唱へし、吉祥寺門前に建てつらねたる町家、住居の人数と共に、一時に海へ流れて行方を知らず。弁財天社損じ、拝殿別当其の外流失、其のかへしの浪行徳、船橋、塩浜一円につぶれ、民家流失す」

 という大荒れの災害が近づいていたのである。しかし、正確な天気予報などないこの時代、ヒヨリたちが知る由もない。

「誠志郎様が行かれるのに、私が行かぬわけにはまいりません。森家家伝の短刀を盗賊どもから取り返します」

「ははあ……。目的はそういうことですか」

 誠志郎という男、どこまでも泰然としている。大物なのか馬鹿なのか、鉄蔵がまたそんなことを口に出しそうな気がして、ヒヨリは鉄蔵を睨みつけて牽制しながら、言葉は誠志郎に向けた。

「動きやすい身なりに着替えますので、途中、寄り道させてもらえますか。京橋にトモエさんがいます」

 父・政俵の死後、森家を追い出された後妻だ。今は質屋に再嫁しているが、ヒヨリは縁を切っていないのである。

「ところで、塩浜の廃寺と聞きましたが、塩浜って、どこですか」

 型破りの武家娘とはいえ、ヒヨリの行動範囲は限られる。江戸の地理の隅々までは知らない。

 鉄蔵が答えた。

「京橋なら、青山から塩浜へ向かうのに遠回りにもなるまいよ。ただ、行くと決めたことを後悔するほど遠いぞ。この風雨の中で夜明かしすることになる」

 それこそ、武家娘には滅多に経験できない冒険だった。ヒヨリにしてみれば、今さらあとへは引けない。

 四人となった彼らは、青山から江戸の中心部を横断して京橋へ至った。天候はもはや嵐となる気配である。目指す質屋の手前で、ヒヨリは男たちの足を留めさせた。近くに蕎麦屋があった。

「誠志郎様。あそこで待っていてもらえますか」

 高級武士は入らない蕎麦屋とはいえ、雨宿りのためなら、やむを得ない。誠志郎はトモエと面識がある。元の許婚者同士が顔を揃えて訪ねるのは、ためらわれた。

「ヒヨリ殿の腹ごしらえは大丈夫か」

「私はトモエさんに何かもらいます」

 行きやしょ、と鉄蔵が誠志郎を促した。

「蕎麦を馬鹿にしちゃいけませんや。松尾芭蕉も奥州を旅しながら蕎麦食ってるし、新井白石なんて学者は、蕎麦をゆでると幾重にも重なる波のごとく、大根おろしやネギの香りがお碗に落ちると、もう仙境の食い物にも勝る、なんて能天気な詩を詠んでますぜ」

「赤穂義士だって、討ち入りの前には蕎麦屋に集合したというからな」

 多西が割って入ったが、鉄蔵は一蹴した。

「何いってやがる。元禄の頃には蕎麦屋よりうどん屋だろ」

 そんな無駄話をしている男たちを蕎麦屋に置いて、ヒヨリは質屋の戸を叩いた。

鬼鶴の系譜 寛政編 第四回

鬼鶴の系譜 寛政編 第四回 森 雅裕

 不義密通は男女とも問答無用で成敗してもかまわない重罪だ。武士ならその場で「重ねて四つ」にするが、刀を持たぬ町人の場合は町方役人に突き出すことになる。そうなれば、死罪である。実際には、示談ですませる場合も多いようだが。

「リョウが身籠もったのは去年の冬。本所の中島邸なんぞにじっとしていても面白くはねぇやな。姉が日本橋の豪商に嫁いでいるもんで、そこで遊んでいたようだ」

「姉様といわれますと、その方も松波家の出ですか」

「松波八百之丞(正武)はな、先妻、後妻、側室、女中、それぞれが子を産んでいて、娘は豪商、御用鏡研師、大身旗本、自慢できるところへ嫁入りしている」

 森一族の中にも、やたらと庶子を生ませている大身旗本がいる。ヒヨリの家は幸か不幸か貧乏旗本なので、そうしたややこしい家族構成とは無縁だが。

「その日本橋の豪商というのは?」

「あやしいけれども、いくら何でも姉の旦那と不義密通は……。そりゃ、ないとはいいきれねぇが、お前さんもお姫様にしちゃえげつないこと考えるなア」

「私はですね、何という商人かと尋ねています」

「呉服・太物を扱う比良多屋だ」

 聞いたような屋号だが、ヒヨリには確かな覚えがなかった。もともと呉服(絹)や太物(木綿)にあまり興味がない。記憶にひっかかっているのは豪商としてではなく、別の理由である気がする……。

「リョウさんに会いたいですね」

「赤ん坊の父親が誰か、白状するとも思えねぇが」

「短刀を返してくれるよう、お願いするだけです」

「松波家へ押しかけて、交渉するわけにもいかねェだろ」

「外で会いましょう」

「お前さんと違って、普通の武家の女はめったに外出なんかしないもんだ。ましてや生まれたばかりの赤ん坊抱えて、出歩かねェだろう」

「赤ん坊を抱えてこそ、出歩く先があるはず。生まれたのは八月初めでしたね」

「まもなくちょうど一月……あ」

 鉄蔵は大袈裟に天を仰いだ。そこには煤けた天井があるだけだが。

「そうか、お宮参りか」

「男子は三十一日目に産土神に参詣するはず」

「松波家は外神田に屋敷がある」

「産土神は神田明神でしょうか」

「調べておこう」

「だとしても、朝から晩まで、ひねもす、お出ましを待ち続けるわけにもいきますまいが」

「神田明神なら、参道の水茶屋にちょっとばかり顔がきく。店先で網を張るさ」

「あら。鉄蔵さん、手助けしてくれるんですか」

「そこはそれ、持ちつ持たれつというやつだ」

「持ちつ持たれつ?」

 この男のいうことは意味不明だが、ヒヨリには江戸市中で他に人脈がない。ここは行動をともにするしかなかった。

 

 

 寛政三年の秋は落ち着かぬ空模様だ。快晴と大雨がめまぐるしく入れ替わる。この日は夜明けまで雨だったが、朝には陽が差した。しかし、これもいつまで保つか、わからない。

 リョウの子供の生後三十一日目。ヒヨリは兄や家臣の目を盗んで屋敷を抜け出し、昼前に神田明神へ出かけた。武家娘にはあるまじき行動だが、参道にある水茶屋が鉄蔵と待ち合わせた場所だった。

 鉄蔵は好物らしい大福を食っていた。

「遅いな。リョウは半時ほど前に、赤ん坊を抱いてこの参道を通過したぜ」

「あら」

「俺は朝から大福作りを手伝っていて、忙しいから声はかけなかった。帰りにまた通るだろう」

「多趣味ですこと」

 この店の若旦那が道楽で絵を描いており、鉄蔵には勝川派の弟弟子になるらしい。画号はあるのだろうが、鉄蔵はトラゾウと呼んでいた。虎三とか寅造とか書くのだろうか。

「兄さん、狩野派でもしくじったらしいな。敵ばかり作って、どうするんだよ」

 トラゾウはそんなことをいった。「狩野派でも」というからには、よそでもしくじっているのだろう。

「ふん。あそこで教わることはもうないね。俺は忙しいんだ。おう、墨と硯を貸してくれ」

「筆はいらねぇのかい」

「馬鹿か、お前は。墨と硯といったら、筆もついてこなきゃ役に立たねぇだろ」

 店先に座り、墨をすり始めた。こんな場所でも時間を無駄にせず、絵を描くらしい。ヒヨリはそんな鉄蔵を無視して、参道を見張っていた。

「神田明神への行き帰りはこの参道だけではありませんよね」

「しかし、裏や脇の参道は子持ちにはきつい坂道だし、晴れのお宮参りなら正面の参道を使うさ」

 姫様どうぞ、と店の者が出してくれた大福を口へ運んだ。武家は質素を旨とするものだが、江戸という町はこうした誘惑に満ちている。しみじみと味わった。

「へえ。歌麿の美人大首絵と張り合うつもりですかい」

 トラゾウの声を聞いて振り返ると、鉄蔵はヒヨリを描いていた。

「けっ。あんな髷がどう結われているかもわからねぇいい加減な絵なんぞと一緒にするねェ。前髪がどうなって、横や後ろの髪がどうつながってるのか、歌麿の絵は滅茶苦茶じゃねぇか」

 また、そんな理屈をいっている。ヒヨリは甘酒を口へ運び、湯飲みの中に吐息を落とした。

「浮世絵師の絵標本になるなど、兄が許しません」

 そうはいったが、あの兄ではどうだかわからない。

「俺を浮世絵師だと思わなきゃいいだろ。天下の狩野派をも修業していること、知ってるだろ」

「しくじったじゃないですか」

「他にも土佐派の大和絵を修め、三世堤等琳に漢画、俵屋宗理に光琳派、司馬江漢に洋画法を学んでいる」

 本当なら異常な向学心である。

「美人大首絵がどうとかいってたけど」

「歌麿の好きな女どもよりお前さんの方が美人だ」

「そのウタマロとやらは武家娘を描いているのですか」

「遊女や水茶屋の女ばかりだよ」

 それはそうだろう。武家娘が絵標本になるなど、頭の固い連中に知れたら、眉をひそめられる。江戸の武家はまだ「砕けて」いるが、地方の武家娘なら勘当モノであり、家門の恥と自害にまで追いつめられるかも知れない。まア、その前に、こんな武家娘がいるわけがない、と本気にされないだろうが……。

「お姫様のお遊びにつきあってるんだ。絵標本にくらいなってくれてもよかろう」

 この男がいっていた「持ちつ持たれつ」とは、どうやらこのことらしい。

「私は知りませんよ。鉄蔵さんが勝手に描いているだけですからね。それに、私は遊んでるわけじゃありません」

「ふん。お前様はな、絵もお遊び、出歩くのもお遊び、退屈しのぎにすぎねぇ」

「そんな退屈な娘を描きたがる鉄蔵さんも退屈な絵師です」

「こちとら、お前さんみたく、お家の世継ぎ作り係でしかない身の上に反発して絵を描いてるのと違わあ」

「もっと悪い。中島家の跡継ぎを放り出した野良者じゃありませんか」

「ああああ、黙ってりゃいい女だが、口を開くと最悪だな、ヒヨリ姫」

 そんなやりとりをしていると、

「おい。鉄蔵」

 声をかけた者があった。水茶屋の二階席から降りてきた武士だった。武士はあまり飲食店に出入りしないものだが、礼儀知らずの鉄蔵が筆を置いて挨拶したところを見ると、徒者ではないようだ。

「これは……長谷川様」

「お前、家業も継がずに絵描き三昧か。伊勢が嘆いておるぞ」

「もっとマシな養子をとれ、といってやってください」

「あいつ、後妻も離縁しちまったからなア。せっかく子ができたのに」

「はあ……」

「ところで、誰だい、そちらの美人は」

「浜町狩野のお弟子でさア」

「武家だな」

 ヒヨリは頭を下げた。

「書院番・森太郎助(政之)の妹、ヒヨリでございます。もしや、長谷川平蔵様ですか」

 中島伊勢と親しいという火盗改の親玉だ。幼名を銕太郎といい、若い頃には「本所の銕」といわれた道楽者らしいから、人品骨柄には荒っぽいものがある。

「そういえば、森殿の名を最近、聞いたような……」

「中島伊勢様に当家の短刀をお渡しになっ……」

 いいかけたヒヨリをさえぎり、

「おおお! そうであった、そうであった」

 舟でも呼び戻すような大声で、平蔵は周囲を圧した。

「証文も預かっておる。いずれそなたの兄にお渡ししよう」

 そんなもの受け取りたくはないが、長谷川平蔵に逆らうのは利口とはいえない。泣き寝入りするしかないのか。

 長谷川平蔵といえば荒事専門と思われがちだが、石川島と佃島の間に人足寄場を建設して無宿人対策とする行政手腕も見せている。しかし、公金を銭相場に投資して、利益を人足寄場の運営費用に充てるなど、役人倫理から逸脱する彼のやり方には「山師」と罵倒する幕閣もいる。

 役目柄、当然なのだろうが、尊大かつ粗野な人物という印象が強かった。ヒヨリの目には、まだしも鉄蔵の方が繊細に見えた。もっとも、多くの人間は逆の印象を持つだろうが。

「長谷川様。今日はどういう御用でここへお出ましに?」

 鉄蔵の質問には答えず、平蔵は参道の人混みを見ている。

「鉄蔵よ。お前こそ、あれが目当てじゃねぇのかい」

 平蔵の視線の先に、武家の女の二人連れが歩いていた。

「中島伊勢の別れた後妻じゃねぇか」

 平蔵は見下したような笑いを鉄蔵に向けている。鉄蔵も負けじとそれを笑顔で受け流し、店から参道へ飛び出した。ヒヨリもあとに続く。

 リョウは武家の老女と同道していた。生後一月のお宮参りは両親と父方の祖母が付き添うものだが、離縁されたリョウにそんな身内はいないから、母方の祖母つまりリョウ自身の母親だろうか。

 リョウは抱いた子供を覆う形で着物を後ろ前に羽織り、背中で結んでいる。赤ん坊は首をひねり、丸く開いた目で、近づく二人を見つめた。母親の方は身構え、目には警戒の色を浮かべた。そのリョウへ、

「おう。こちら、森家のヒヨリ姫だ」

 鉄蔵が紹介した。彼女たちは中島家でちらりと顔を合わせているが、ほとんど初対面のようなものである。こちらを胡散臭いとしか見ていないリョウの視線をハネ返し、ヒヨリは切り出した。

「不躾で恐れ入ります。お濃の方の形見の短刀、お返し願えませんか。無事に出産なされたなら、短刀の霊力などもう必要ないでしょう」

「まだ用済みではありません」

 リョウが赤ん坊を抱く腕に力が入った。胸元を隠すような仕草だ。もともと女持ちの小ぶりな短刀だから、懐剣として手挟んでいるのか。まっすぐ凝視するヒヨリに対し、リョウは不快よりも悲しそうな表情を浮かべた。

 連れの老女は何か口出しするきっかけを求め、敵意むき出しで睨んでいる。目が合えば食ってかかるだろうから、ヒヨリも鉄蔵も無視した。

 リョウが、いった。

「この子のお守り刀として、携帯しています。生まれた子供には健やかに育って欲しいという願いがあります」

 この時代、子供の死亡率は高い。幕臣に男子が生まれた場合も、ある程度成長するまでは届け出ない。従って、記録上の年齢と実年齢が異なることは珍しくない。

「わけありの子でも、健やかに育って欲しいのかい」

 鉄蔵の物言いは無礼千万だが、表情は真面目だ。

「お前さん、比良多屋で身籠もったんだよな」

「何をいうか、このドラ息子」

 と、連れの老女が口を尖らせた。

「それでは比良多屋に間夫がいるようではないか。言葉に気をつけよ」

 そう抗議したが、これでは比良多屋以外に間夫の存在を認めたようなものである。老女は失言に気づかぬようだが、リョウは顔色が変わった。

 鉄蔵はその隙を突いた。

「中島伊勢の跡取りを作るでもなく、他家の家宝である短刀をいただいておこうというのは、ちと厚かましくはねぇか」

「子供が大切であることに変わりはありません」

 リョウはさっさと背を向けて、人混みの中へ消えてしまった。

「張り込みまでしたのに、あっけない面会だったな」

 鉄蔵は呟いたが、ヒヨリは表情を動かさない。

「短刀を返せと伝えることが何より大事。目的は果たしました」

「へっ。まだそんなこといってやがる」

「他に何がありますか」

「そりゃあ……」

 鉄蔵は言葉を途中で切った。長谷川平蔵が水茶屋から悠然と現れたのである。

「よお。リョウと話は弾んだかい?」

「取りつく島もないってやつでさア」

「お前は人を怒らせる名人だからなあ。そちらの姫君を相手に、婦人への口のきき方を稽古するんだな」

 平蔵は笑い声を残して、立ち去った。能でも舞うような悠揚迫らぬその背中を見送るヒヨリに、鉄蔵は横目でぼそりと呟いた。

「鬼の全財産を強奪していく桃太郎に会ったような顔してるぞ」

「長谷川様と会って……思い出しました」

「何を?」

「獄門になった葵小僧です。日本橋の比良多屋といえば、葵小僧に襲われた豪商の一つじゃありませんか」

「そうかい。まあ、お姫様だって、町の噂くらい耳に入るよなア」

「鉄蔵さんもおわかりだったのでしょ」

「嬲の葵小僧」といわれた悪党である。この極悪一味の前には少女も大年増も区別はなかった。

「葵小僧は金品のみならず、女を片っ端から辱めた。比良多屋が襲われた時、リョウが居合わせたとしたら……。しかしなあ、とても確かめる気にはならねぇぞ」

「私にも確かめる気はありません。何度もいわせないでください。私の目的は短刀を返してもらうことで……」

「ああ、はいはい」

「せっかく来たのですから、お参りしていきましょう」

 ヒヨリは参道の鳥居をくぐり、神田明神へ歩き始めた。

 鉄蔵はそのあとに続き、

「俺は妙見信仰なんだがなあ」

 何やら文句をいいながら、随神門から境内へ入った。

 この二人はとりあえず絵描きなのである。ヒヨリは社殿や石像などの造作を観察し、そんな彼女を鉄蔵は画帖に描きとめ、しばらく境内で時間を過ごすうち、空には青い部分がなくなり、雲が広がっていた。その雲も急速に暗い色へ変わっていく。

 降り出す前に引き上げようと、水茶屋まで戻ってくると、参道からただならぬ気配が近づいてくる。こけつまろびつ、半狂乱で駆け込んできたのはリョウだ。子は抱いておらず、連れの老女もいない。

 リョウは鉄蔵に噛みつかんばかりの勢いで、すがりついた。

「長谷川様、長谷川様は!?」

「とっくにお帰りだよ。どうした?」

「さらわれた、さらわれました、子供が、子供がああああああ」

「へ?」

「昌平橋の手前で、襲われました。子供を奪われました」

「連れの婆さんは?」

「近くの番屋へ走りました。私は、私は長谷川様がまだこのあたりにいらっしゃるかと……」
 ぺたん、と店の土間に座り込んだ。

「それで、襲ってきたのは誰で、どっちへ行った?」

「誰だか、わかりません。遊び人風の男たち、二人か三人か四人か、わかりません、何人もいました。橋を渡って、神田の方へ、でも、見失いましたああああ」

「なんだって、お前んとこの赤ん坊がさらわれるんだ?」

 リョウは首を振るばかりだが、ヒヨリが、 

「短刀も一緒に奪われたのですか」

 そう訊くと、今度は縦に首を動かした。

「引きずり倒されて、思わず懐剣を抜いてしまいましたが、駄賃とばかりに奪われてしまいました」

「泥棒に追銭だなア」

 鉄蔵が水茶屋の軒下から空を見上げながら、呟いた。

 ばたばたと音を立てて、雨が降り出した。

鬼鶴の系譜 寛政編 第三回

鬼鶴の系譜 寛政編 第三回 森 雅裕

 それからさらに一月ほど経った。ヒヨリは毎朝、木刀の素振りと打ち込みの稽古を行う習慣だ。武家など何ら生産的活動をするわけではないし、特に女は家に閉じ籠もり、世のため人のために役立ちもしない。そんな一種のうしろめたさが、ヒヨリを武芸や習い事に向かわせた。

 庭砂の上に、音を立てんばかりに汗を落とし、息を切らしていると、

「客が来ている」

 と、兄が声をかけた。

「中島鉄蔵という野良者だ」

「あら」

「伊勢の息子だな。子は親の鏡という。あんな息子では父親もろくでなしだろう」

 ヒヨリを訪ねてきたのだろうが、あやしげな男なので、応対に出た使用人が兄に報告したようだ。武家娘の人脈は親戚と習い事の仲間だけというのが普通だから、男が訪ねてくるなど、他の旗本家だったら大騒ぎになるだろう。

 さて、汗だくですぐに会うのと待たせて着替えるのと、どちらが無礼でないだろうかと迷ったが、面倒になってしまい、「野良者」に会うのに気取る必要もあるまいと、稽古着のまま、応対に出た。

 門の内側に訪問者を待たせる小部屋があり、そこにいるかと思ったら、鉄蔵は庭の朝顔を見ている。

「朝顔の茶会って、知ってるか」

「千利休は満開のアサガオを一輪だけ残してすべて摘み取り、豊臣秀吉を迎えた。満開を期待していた秀吉はいぶかしんだけれど、茶席に生けられた一輪の朝顔に感動したという、利休が茶の心を示した故事ですね」

「くだらねぇ与太話だよな。満開の方が感動するに決まってらア」

「そのくだらない話するために、お出ましになったわけじゃないわよね」

「つっけんどんな女だなあ」

 鉄蔵は大袈裟に眉を寄せたが、ヒヨリを見る強い眼光に悪意はない。ヒヨリは髪をうしろでまとめ、稽古着に袴という質実剛健な出で立ちである。

「ほお、なかなか様子がいいじゃねぇか」

「色気も何もないでしょうが」

「そうかあ。俺は勇ましい女も好きだが」

「……何の御用ですか」

 庭に縁台があるので、鉄蔵に座るよう促した。

「親父……中島伊勢からことづかってきた」

 鉄蔵は抱えていた風呂敷包みをほどき、桐箱を取り出した。ヒヨリが中を見ると、鰹節が一本、うやうやしく鎮座している。

「何……です?」

「森様への御挨拶だそうだ」

 土佐藩の秘伝とされていた鰹節の燻乾法がようやく各地に広まり始めた時代である。貴重といえば貴重な食品ではあるが……。

「それからな、借金の証文は長谷川平蔵様へ預けたので御承知おきください、だと」

「ははあ……。そう来ましたか」

 証文を長谷川平蔵に託すことで、おのれを正当化し、森家が手出しできぬようにする算段か。しかし、そんなことよりも、鉄蔵が不仲な義父・中島伊勢の使い走りをすることの方が意外だった。彼を睨む目つきにそれが出たらしく、鉄蔵は苦笑した。

「いつも小遣いくれてた後妻が離縁されちまったんだ。親父の御機嫌とって、金ヅルにするしかねぇだろ」

「後妻殿はリョウさんでしたね。どうなさってますか」

「人づてに聞いたが、子供が生まれたようだ」

「松波家で生んだのですか」

「ああ。半月ほど前だ」

「男女は?」

「男だ」

「離縁しなければ、中島家の跡取りになっていたわけですね。松波家の後継者になるのかしら」

「松波八百之丞(正武)にはすでに息子が二人いる」

 松波家の長男は書院番に勤番となっており、後継者が不足しているわけではないのである。しかし、中島家は違う。鉄蔵のような野良者を一度は養子にしたくらいである。

「どういうことなのでしょうか。中島伊勢様は跡取りを欲しがっていたはずですよ」

「ふふん。お前さんのようなお姫様にはわからねぇ事情があるのさ」

「私で不足なら、兄にお話しください」

 ヒヨリは庭の枝折戸の向こうに声をかけた。

「兄上!」

 政之が隠れるようにして、こちらをうかがっているのはわかっていた。顔を出した兄へ向けて、手招きした。政之はあさっての方向を見ながら近づいてきて、驚いたふりで足を止めた。

「あ、おお、これはわが妹ヒヨリではないか。そんな格好で何をしておる?」

「絵師の鉄蔵さんと大人の話をしております。中島伊勢様が離縁された松波家のリョウ殿、男子出生だそうです」

「では、もう短刀は無用であろう。返しに来たのか。それにしても、中島伊勢殿が自分で返しに来るのが道理。礼儀を知らぬのか」

 鉄蔵はとりあえず頭を下げ、恐縮のふりを見せた。

「いや。お返しにあがったわけじゃありません」

「何。手ぶらで来るとはいい度胸だ」

 ヒヨリは兄の目前に桐箱を掲げた。

「鰹節をいただきました」

「進物なら妹ではなく、当家の用人に差し出せばよろしい」

 この貧乏旗本の家で、用人とは誰のことかとヒヨリが疑問を発するよりも早く、政之はヒヨリと鉄蔵を交互に見やり、いった。 

「鰹節だと? 俺の聞き違いか」

 ヒヨリは物凄い作り笑いを兄に向けた。

「聞き違いではありません」

「桐箱の底に小判がぎっしり敷き詰めてあるのではないか」

「正真正銘大胆不敵、疑う余地なく掛値なしの鰹節だけです」

「中島伊勢め。鰹節一本で、俺が泣き寝入りするとたかをくくっているのか」

「まあ、何の挨拶もないよりはマシです」

 ヒヨリはとりなしたが、政之は鉄蔵を睨み据えた。

「浅野内匠頭は吉良上野介へ鰹節一本しか贈らなかったためにいじめられたという。その故事を承知の上であろうな」

「はあ。私は芝居で見て、知っておりますが、中島の親父は朴念仁でございますからなア」

 ヒヨリが、

「証文は長谷川平蔵様に預けられたそうです」

 そう告げると、政之はたちまち顔を赤くした。

「中島伊勢は虎の威を借る狐よな。狐が俺を愚弄するのか。家臣どもに支度をさせよ。これから中島邸へ討ち入る。聞けば、中島の屋敷は吉良上野介の屋敷跡に建っているとか。わが森家もまた武士の意地を貫いた義士と呼ばれるであろう」

「何いってるんだ、この殿様」

「まず、お前から血祭りにあげる」

 政之は腰の脇差を抜こうとした。ヒヨリはその手を押さえ、鉄蔵へ叫んだ。

「逃げて!」

「あ? え?」

「早く!」

「あ、ああ」

 鉄蔵は首をかしげながら後ずさりし、下駄を脱ぐと、身を翻して駆け出した。その背中が門へ消えるのを見届け、ヒヨリは兄から離れた。

「行きました」

「ふん。妙な奴だ。俺が斬りつけたら、下駄で防戦するつもりだったようだ。満更、度胸のない男でもないな」

「中島伊勢様が若妻の出産を喜ばぬ理由を聞こうとしたのに……」

「どうせろくでなしの中島伊勢に似合いの後妻だ。不義密通でもしたのだろうよ」

「私にはそういう頭は回りません」

「まだ修行が足りぬな」

「あ」

 ヒヨリは宙に向かって、声を上げた。 

「そういえば、中島様にお目にかかった時、去年は京都に出張していたとおっしゃってました。」

「妻は京都に同行していたのか」

「さあ」

「わからぬことは調べてみよ」

「だから、何で私が?」

「人の世の勉強だ。それに、俺が出て行くと刃傷沙汰になる」

「供を連れず、野良者の絵師なんぞと一緒に歩いてもよろしいので?」

「やむを得ん。まあ、お前なら悪の道に引きずり込まれることもあるまいからの」

 一人歩きしてもよいと言質を取り、単純にうれしくなったヒヨリだが、

「京都……」

 ぼんやりと呟き、鰹節の納まった桐箱で鼻の頭を叩きながら、

「あ」

 何となくわかったような気がして、声をあげた。しかし、あくまでも「気がした」だけで、頭の中で整理しようとすると、はっきりしなかった。とりあえず、京都のことを確認せねばなるまい。

 

 

 九段下の伊上家の屋敷が近づくにつれ、ヒヨリは重くなりそうな足の運びに活を入れ、戦場にでも乗り込む気分で門をくぐった。そもそも、事前の約束もなしに訪問することも武家の礼儀にはずれるのである。誠志郎に面会を求め、庭の縁台で待つうち、我を忘れて鼻歌なんぞ口ずさんでしまった。

 しかし、婚約者だった誠志郎が現れた時には、自分でも意外なほど落ち着いていた。ただ、挨拶は簡略化した。というより、まるきり省略して、本題を切り出した。

「誠志郎様。京都のお話をうかがいたく思います。あちらに御用鏡研師がいらっしゃいましたか」

「御用鏡研師?」

「中島伊勢という人物」

「ああ。江戸から差遣されて、しばらく御用を勤めていたお人だな」

「中島様は単身で京都へお出ででしたか」

「短期だったからな」

「いつ頃ですか」

「さて。いちいち気にしていなかったが……去年の秋から暮れにかけてだな」

 いくら世間知らずのお姫様でも、赤ん坊が十月十日で生まれることは知っている。出産は八月である。中島伊勢の若妻が妊娠した時、彼は江戸にいなかったことになる。

 考え込むヒヨリだったが、その異様な気配にも、

「ヒヨリ殿。大丈夫か」

 誠志郎は動ずることなく泰然と見つめている。

 

 

 ヒヨリは一人で、鉄蔵の住む浅草寺裏の長屋を目指して歩いた。路地に小さな稲荷神社があり、一旦は通り過ぎたが、見覚えある後ろ姿を見た気がして引き返し、鳥居の向こうを覗いた。

 鉄蔵が祠の前に据えられた狐の石像を眺めていた。この男、どういう五感でヒヨリを感知したのか、振り向きもせずに、いった。

「なかなか格好のいい狐だよな。彫心鏤骨の文字通り、彫刻は絵よりも大変な作業だ。削りすぎたからといって、元に戻すことはできねぇ。丸彫りとなると、裏側も省略できねぇ。これが彫金なら、色の表現は象嵌と色上げという手間仕事にもなる。内緒だが、俺は腕のいい彫刻師にはちょっとばかり引け目があってな」

 こんな男に内緒の心情を打ち明けられて、ヒヨリは反応に困ってしまった。

「お供えの油揚げでも盗み食いしてるかと思いました」

「それほど好きじゃねぇや」

「狐の化身のような鉄蔵さんなのに」

「狐は肉食だ。油揚げが好物なわけがねぇ。……いかれた兄上様だな」

「鉄蔵さんといい勝負だと思いますけど」

 話題が突然変わる。鉄蔵が政之に追い払われたのは数日前のことだ。この滅裂ぶりについていけるヒヨリは波長が合っているということなのか。

「あのですね、わからないですませるわけにはいきません」

 ヒヨリもいきなり数日前の話題に戻した。中島伊勢が跡継ぎ誕生を求めない理由だ。

「中島伊勢様は去年、京都にいたそうですね」

「ほお。まんざら、箱入りのお姫様でもなさそうだなア。そうさ。親父殿は二条城でせっせと鏡を磨いていた。京都で人脈を作り、殿上人とお近づきになることにはもっと熱心だった」

「留守の間に、鉄蔵さんが家のもの持ち出して換金したとかで、絵師なんぞ落ちこぼれのゴクつぶしに決まってると中島様は怒り心頭でした」

「その金で俺は甲信越を旅していた。さすがにしばらくは敷居をまたげず、親父がいつからいつまで京都にいたのか、後妻がどうしていたのか、細かいことは知らん」

「リョウ殿は江戸にいたのですか」

「とは思うが、屋敷は留守がちだった。だから、俺が家財を売り飛ばすこともできた」

「留守がちだったということは……」

「おっと。旗本のお姫様とあやしい画工が往来で立ち話なんかするもんじゃねぇだろ。うちへ来な」

 住居を訪ねるのも問題なのだが、長屋はどこも戸を開けっ放しで、しかも安普請だから、物音も筒抜け。密室というわけではない。

 稲荷神社から穴蔵のような路地へ入り、案内された鉄蔵の住処は、床も見えないほどのゴミの山だった。積み上げられた画帖とあちこちに転がる画材が、この部屋の住人が何者であるかを語っている。

「頭の中で狐が動き回ってるうちに描かなきゃならねぇ。話は描きながらでもできる」

 鉄蔵はゴミをかきわけ、絵を描き始めた。墨や顔料は水や膠を使うので、放置しておけば乾燥してしまうだが、この男の画材は常に臨戦態勢にあるようだ。

 しかし、絵を床に寝かせて描く隙間などないので、画紙は板に張り付け、立てて描いている。黄表紙か何かの挿画らしい。

 ヒヨリが座る場所もなさそうなので、上がり框に腰かけた。表を通る長屋の住人たちが、場違いな訪問者に、好奇の目というよりも苦笑を浮かべて覗いていく。「掃きだめに鶴」という声も聞こえた。

 鉄蔵は奇妙な姿勢の狐を描きながら、

「ふん。鶴というより、俺には鷹に見えるがな」

 背中を向けたまま、いった。

「さて、お姫様にももう察しがついているだろう」

「中島様は不義の若妻を離縁した」

「そういうことだ。自分の種でもない子が生まれても、後継者にする気はない」

「しかし、それなら、中島様にお濃の方の短刀を必要とする理由はないはず」

「お前さんには縁のない話だろうが、夫婦が別れる時には面倒な決まり事がある」

「武家なら、離縁の際には持参金や嫁入り道具は返さなきゃなりませんが」

「松波は武家。中島も武家並み」

「松波家は勘定奉行や町奉行を歴任した松波筑後(正春)様を出したほどの旗本。嫁入りにそれなりの金品は持参したでしょうが……」

「金じゃねぇんだ。嫁入り道具の中に鏡があった」

「嫁入りに鏡くらいは持ってくるでしょう」

「ただの鏡じゃねぇ。光を反射させて壁に映すとマリア観音が浮かぶ……キリシタンの魔鏡だ」

「ああ。そんな不思議な鏡、話に聞いたことはありますが」

「松波家には細川ガラシャの遺品として伝来したそうだ」

「松波家は戦国の斎藤道三につながりますが、細川家とは?」

「ガラシャが自刃した時、その息子である細川忠隆の正妻は炎上する細川屋敷から脱出している。ガラシャの形見の鏡を抱いて、どういう理由なのか、お濃の方を頼ったという。いうまでもなく、道三の娘で、信長の正室だ。その後、鏡はお濃の方のもとにあった。彼女の没後、遺品は四散したが、鏡はお濃の方と縁戚ある松波五郎右衛門(勝安)へと渡った。五郎右衛門は今の松波八百之丞の先祖だ。その鏡が今の世に伝わっている……というんだが、この手の伝承伝説は眉ツバだな。まあ、人は信じたいことを信じるもんだ。この鏡がガラシャの形見で一時はお濃の方が所持していたと夢を見たい奴もいるのさ。中島伊勢にしてみれば、伝来だけでなく魔鏡そのものにも興味があって、これまでにもいくつか収集しているし、仕組みを調べたりもしている。なアに、大層な仕組みじゃねぇ。あれは研ぎの力加減で表面にごくわずかな凹凸が生じて、その影が……」

「おいしいですね、これ」

「あ?」

 鉄蔵は絵を描く手を止め、振り返った。ヒヨリは部屋にあった菓子を口へ運んでいる。

「勝手に何を食ってるんだよ。お姫様らしくもねぇ」

「琉球芋を細切りにして油で揚げ、蜜をかけてありますか。鉄蔵さん、なかなか食道楽のようですね」

「ふん。次に俺を訪ねる時は手土産を持ってきな。大福なら大喜びだ」

「何の話をしていましたっけ」

「魔鏡だよ」

「見てみたいものですね。でも、その前に何の話をしていました?」

「あのな。妻を離縁した中島伊勢がなおも短刀を彼女に持たせた理由を知るために、お前さんはここへ来たんだろうが」

「あ。この画室の様子に眼も心も奪われて、忘れていました」

「画室ったって、寝床も居間も兼ねた一間っきりだがな」

「え。この奧にまだ二つ三つ部屋があるのでは?」

「不愉快な姫君だな。とにかく、御用鏡研師の中島伊勢としてはこの鏡が大いに気に入った。松波家に返したくない。そこで、かわりに短刀をリョウに持たせた。それもまたお濃の方ゆかりの品には違いない。松波家には願ってもない御先祖ゆかりの品物だ」

「中島様にしてみれば、妻の不貞を理由に離縁して、持参金や嫁入り道具まで返すのでは踏んだり蹴ったり……」

「あのな、お宅から来た嫁は不貞を働いたのでお返しします、なんていえるか。いや、松波家だって事情はわかっているだろうが、本音と建前を使い分けなきゃ、中島、松波、双方の沽券にかかわる」

「沽券などというなら、不義相手の男を成敗すべし」

「姫様、勇ましいお考えですな。しかし、子供の父親が誰なのかわからなきゃ、それもできねぇ。気になるところではあるが」

「私には短刀が大事なので、別に気になりませんが……。父親は鉄蔵さんかと思ってました」

「おいおい。涼しい顔で、とんでもないこといいやがる。俺は甲信越を旅してたといったろ。第一、親父の若妻に手を出すほど悪趣味じゃねェや」

「なアんだ」

鬼鶴の系譜 寛政編 第二回

鬼鶴の系譜 寛政編 第二回 森 雅裕

 幕府御用鏡研師だけに、中島伊勢の屋敷は立派だ。武士ではないから門構えは控え目だが、敷地は大身旗本に匹敵する広さである。玄関前を通りかかると、弟子なのか使用人なのか、男が飛んできたが、鉄蔵は手をあげてそれを押し戻し、庭を回り込んで、母屋の奧に声をかけた。

 回縁に初老の男が現れた。汚いものでも見るような視線を鉄蔵に向けた。実際、汚いのだが。

「鉄蔵か」

 歓迎していないようだ。この男が中島伊勢だった。

「親父殿。客人を案内してきた」

「ん? 何者だ?」

「旗本のお姫様だ。お濃の方の短刀のもとの持ち主らしいぜ」

「何だと」

 伊勢は値踏みするような視線をヒヨリに注いだ。贅沢な身なりではないが、隙のない佇まいである。とりあえず客と認めてくれたらしく、頭を下げて挨拶を寄こしたが、口から出た言葉は鉄蔵への愚痴だった。

「そういや、お前、リョウに時々、小遣いの無心をしているそうだな。食えもしない絵をいつまで続ける気だ?」

 リョウというのは後妻らしい。鉄蔵は自分が寄りつかない実家の事情を、その後妻から聞いているのだろう。

「説教してもらうために来たんじゃねぇ」

「金はやらん。恥を知れ」

「俺にとっての恥とはくだらねぇ絵を描くことでさア。じゃ、もう用はねぇ。俺は帰るぜ」

 鉄蔵は何かを振り捨てるような笑い方をする。その表情を残し、背を向けた。

 道楽息子が消えると、伊勢は微笑みながらヒヨリを手招きした。武家娘とはいえ、まったくの子供扱いである。縁側から上がり、手近な座敷へ座らされた。

「もとの持ち主といわれたかな」

「書院番を勤めます森太郎助(政之)の妹・ヒヨリです」

「話は聞いていますよ。長谷川平蔵様から」

「あら」

「うん。御先祖の一人が、落飾したお濃の方に仕えておられたとか。形見として頂戴した短刀だそうですな。代々、森家に伝わってきたが、昨年、葵小僧に盗まれ、その責任から研師の本阿弥光敬様は自裁された」

「よく御存知ですね」

 伊勢は、しばらく待て、と手で制し、廊下へ消えた。茶を出してくれるわけではなく、戻った時には短刀らしい刀袋を持っていた。

「御覧なさい。間違いありませんか」

 ヒヨリに刀剣趣味はないので、これまでじっくりと見たこともないが、見覚えくらいはある。白鞘には「賜 依月華院様」の墨書もあった。研ぎ直しの前に盗まれたので、抜くと、古研ぎの状態である。しかし、タダモノではない雰囲気を漂わせている。和泉守兼定の銘も確認した。

「当家のものです」

「そうですか。本物ですか。それを聞いて安心しました。偽物をつかまされたかも知れませんからな」

 続けて、伊勢は何やら書き付けを取り出した。

「森勝三郎様はあなたのお兄様の一人でいらっしゃいますな」

「末兄です。もうこの世におりませぬが」

 ヒヨリには三人の兄があり、一番上が政之(太郎助)、二番目は他家へ養子、三番目は昨年急死している。勝三郎というのはこの三番目であり、諱は政目。彼の死がヒヨリの縁談を流してしまったのである。

 伊勢は書き付けをヒヨリの前に広げた。

「御覧なさい。その勝三郎様からいただいた証文です」

「は……?」

 伊勢は大道芸人のような愛嬌ある風貌だが、態度には愛想のかけらもないので、かえって傲岸不遜な人間に見える。
 負けまい、と十六歳のヒヨリはせいぜい怒り顔を作った。

「これは……」

「借金のカタに短刀を渡すという証文です。これを書いた頃、短刀は本阿弥に研ぎに出されていた。まもなく勝三郎様は亡くなられ、短刀は葵小僧に盗まれたが、火盗改がこれを捕らえ、短刀も押収された。私の手元へ来るのは当然ではありませんかな」

「中島様は火盗改の長谷川様とよほど仲がおよろしいようですね」

「おやおや。見かけによらず、嫌味なお姫様だ」

「兄の勝三郎が中島様に借金をしたとか短刀を担保にしたなどという話は、家族の者は聞いておりませぬ。この証文、本物ですか」

 政目(勝三郎)の筆跡など正確には覚えていない。証文には花押もあったが、偽物とはいいきれないものの、本物かどうかも確信が持てなかった。

「これはこれは……」

 中島伊勢は、不快と苦笑を器用に混ぜ合わせた表情を作った。

「私が手回しよく偽の証文まで用意して、短刀を欲しがる理由がありますかな」

「教えていただけませんか」

「は?」

「御新造様は斎藤道三につながる松波家の出でいらっしゃるとか」

「鉄蔵から聞きましたか。いかにも、先年まで御書院番で進物の役をおつとめだった松波八百之丞(正武)様より頂戴した嫁。リョウと申します」

「そのリョウ殿こそ、お濃の方形見の短刀を持つにふさわしいとお考えになったのでしょう。でも、短刀にそこまで御執心の理由が私にはわかりません。教えてください」

「面白いお方だ」

 伊勢は目の前の少女に油断していた。ヒヨリには憎めない空気がある。伊勢の口が軽くなった。

「あなたは家伝の短刀の値打ちを御存知ないようだ」

「はい」

 この娘、屈託なく笑っている。

「あのですな、姫様。火盗改が葵小僧を捕らえた時、その短刀も押収された。おかしいと思いませんか」

「は?」

「一年も前に盗んだものを処分せずに隠れ家に置いておいた。あんな盗っ人に玩物趣味なんぞありゃしない。御神刀としての御利益があったからこそ、手放さなかったんです」

「あの……何の話です?」

「まあ、お聞きなさい」

 伊勢はすっかり話す気になっている。

「昨年の八月、江戸で大雨、洪水が発生した時、深川にあった葵小僧の隠れ家も流されたが、短刀は家の土台にひっかかって、残っていた。十一月の地震の際には品川に潜んでいた葵小僧だが、近所から火が出て、隠れ家も類焼したが、焼け跡から見つかった短刀はまったく無事だった。この短刀を入手以来、風邪が流行ろうが麻疹が流行ろうが、葵小僧の一味から病人は出ていない。……火盗改の取り調べで、葵小僧はそう語ったらしい」

「よくある霊刀伝説ですね」

 ヒヨリは霊や神仏を信じないわけではないが、それを語る人間は信用しない。必ず尾ヒレがつくからである。そもそも、あの短刀、森家にある時はそんな霊力を発揮することはなかった。

 伊勢はさらに続けた。

「しかし、霊刀ゆえに悪党を許さぬ神通力もあった。先々月、火盗改が踏み込んだ隠れ家は江戸のはずれの押上村にあって、元々はさる商家の隠居所だったらしいが、そもそもこの家があやしいと目をつけられたのは、上を飛ぶカラスがやたらと落ちて死ぬ、と地元の百姓の間で噂になったからだそうですよ。これも神通力というものではないか。恐るべし」

「葵小僧にとっては御利益どころか疫病神になってしまったわけですね」

「どうもあなたは人の世の機微というか風情というか、面白味というものをおわかりでないようだ」

「あらま」

 狩野融川も鉄蔵をそう非難していた。あの男と自分は似ているのか。

「要するに、短刀はお返しいただけないということですか」

「実は、妻の腹に子が宿っておりましてな。無事に男子が生まれるよう、お預かりさせてもらいたい。わが家は男子に恵まれず、鉄蔵を養子にしたが、あの男はあの通りの風来坊で、絵師なんぞ志してる。あいつの息子を跡継ぎにと考えたが、先年、十歳にもならずに病死してしまった。ここは短刀の霊力にすがって、家運を向上させたい」

「お子が生まれたら、お返しくださるのですか」

「あなたは今まで何を聞いていたのですか、あなたは」

 伊勢は苛立ち、扇子で畳を叩いた。ヒヨリはまっすぐ伊勢を見つめている。

「偽の証文をでっちあげる理由です」

「あのね、私はね、この短刀の価値を知ればこそ、森勝三郎様に金子を用立てたのだと申し上げています」

「仮に証文が本物だとして、金子をお返しすれば、短刀は当家へ戻していただけるのですか」

「借金の返済期限はとうに過ぎております。短刀をいただいた以上、その証文は森様にお渡しするのが筋。どうぞお持ち帰りください」

「お断りします」

 ヒヨリはきっぱりと宣言したが、笑っている。

「当家としてはこのような証文を認めるわけにいきませんので、受け取りもいたしません。それに持ち帰れば、当然、勝三郎が残した筆跡のわかるものと照らし合わせることになります。それで勝三郎の手跡ではないと判明しても、それこそ私どもが証文を偽物とすり替えたととぼけられたらそれまで。照らし合わせるならば、私どもの方から勝三郎の手跡をこちらに持参し、伊勢様の目の前で行うべきでしょう」

「う……。それはそうですな」

 この少女は侮れない。伊勢の驚きは怒りにさえ変化している。

「ところで、この短刀は本物という森家のお墨付きが欲しいですな。一筆書いていただきたい」

 女のヒヨリでは何を書いても有難味がないだろう。

「兄に報告はいたしますが、あれはヘソ曲がりでございますよ」

「あ。私もね、お兄様……太郎助様には事情をお伝えせねば、と考えていました。礼を失した。いずれ御挨拶を」

 そんなことよりも、ヒヨリの興味は別のところにあった。鉄蔵に子供がいた、と伊勢が発言したことだ。

「鉄蔵さんは所帯持ちなのですか」

「ふん。女房は逃げてしまいましたよ。幼い娘もいるが、この家に置いてけぼりだ」

 まあ、そうだろう。家庭など無縁という雰囲気の男だ。

「去年、私が京都に出張していた時も、留守の間に家のもの持ち出して換金したりしたようだ。絵師なんぞ落ちこぼれのゴクつぶしに決まってるんだ」

「子は親の鏡と申します」

「……どういう意味ですか、それは」

「でも、鳶が鷹を生むということもありますわね」

「何だか、あなたとは話が噛み合わない」

 伊勢がそういったのをきっかけに、ヒヨリは辞去した。

 庭を回り込み、門へ向かう途中、若妻らしき女を見かけた。目が合い、互いに頭を下げた。あれが松波家から入ったリョウという後妻か。確かに、腹は大きかった。臨月が近いのではないか。

 外へ出て、塀沿いに歩くと、堀割の脇の土手に五、六歳の女の子が座り込んでいた。堀の水量は少ないので、落ちても溺れることはなさそうだが、膝まで濡らしている。足先を気にしていた。

「どうしました? ケガしたのですか」

 見てやると、足の親指の生爪をはがしていた。手にはトンボを捕らえている。こいつを追って、ケガしたらしい。しかし、泣きもしない。

 ヒヨリは手拭いを裂いて足先を包み、縛ってやった。

「あなた、この家の子?」

 堀割の前に続く塀は中島家の敷地だ。

「そうです。ありがとうございます」

 鉄蔵が中島家に置き去りにしているという娘か。 

「お名前は?」

「美与といいます」

 幼いとはいえ気立てのよさげな娘だ。風来坊のような絵師のもとで育たぬ方がこの子のためかも知れない。

 今日、狩野閑川の妻からもらった落雁が袂にあったので、これを美与の手に握らせた。

「どなたですか」

「あなたの父親の知り合い」

「そうですか」

「じゃあね」

「おねえさん」

「何?」

「知らない人に無闇と話しかけては駄目ですよ」

「…………」

 この子、気立てがいいと感心したことを軽く後悔した。

 

 

 屋敷に戻ると、兄の政之はすでに下城しており、まったく表情を変えずに小言を発した。

「供も連れずにうろうろと出歩くでない」

 狩野閑川の工房に行く時は一人歩きが多いのだが、家臣か女中に送り迎えされることもある。いずれにせよ、今日は帰りが少々遅くなった。

「中島伊勢を調べよといわれたのは兄上です」

「お。調べはついたのか」

「短刀は間違いなく中島家にございます。この目で確かめました」

「で?」

「いささか厄介なことになっております」

 中島伊勢のところで見聞した事情を話すと、政之はヒヨリが不始末をしでかしたかのように睨みつけた。

「勝三郎(政目)が借金とは……。あいつは中島伊勢とつきあいがあったのか」

「知りませんよ。まあ、歌舞音曲が大好きで、趣味道楽の道に邁進していた勝三郎兄上でしたから、有り得ぬことではございませんが」

 政之は拍子抜けするほど冷静である。眠たげな低い声で、いった。

「長谷川平蔵が中島伊勢のカタを持っているというのは……厄介よのぉ。しかも、中島伊勢の後妻というのは松波八百之丞の娘か。御用鏡研師とはいえ、町家へ嫁にやるくらいだから、おそらく妾腹だろうが」

 松波家は斎藤道三の後裔という家柄に加え、将軍吉宗の代には勘定奉行や南町奉行を歴任した松波正春を出している有力旗本である。

「中島伊勢という男、結構な暮らしぶりらしいな。しかし、当家としては、短刀を返せといい続けるしかあるまい」

「子供が生まれるまでは取りつく島もなさそうです」

「子供か……。うちもじきに生まれるがな」

「短刀に願かけしたいですか」

「そんなものに頼らずとも、わが子は無事に生まれる」

 政之は気負いもなく、いった。

「俺は刀鍛冶を何人も知っている。鉄と火を扱う職人であり、学者でもあるが、神がかった連中ではない。刀剣に霊力なんぞ宿るものか」

 この男も人の世の機微、風情、面白味というものがわからぬようだ。

「あ、そうそう。短刀が森家伝来の本物だという一筆を書けといっておりました」

「知るか。俺は中島伊勢が入手したその短刀を見ていない」

「では、勝三郎兄上が何か書いたものを中島伊勢のところへ持参して、証文と比較してみますか」

「いや。こちらから出向く義理はない。それに、だ。手跡が証文と一致して、本物ということになっても困る」

「……ですよね。あははは」

 ヒヨリは溜息を隠し、顔の下半分だけで笑った。

 

 

 それから半月ほどして、政之が新たな情報を持ち帰った。

「お城で、松波八百之丞(正武)に会った。松波八百之丞殿というべきか」

 ヒヨリは庭で竹竿を操り、柿の実を取っていた。竹の先端に切り込みを入れ、それで柿のヘタの上の小枝をはさみ、ねじって折り取る。器用な娘である。

「やはり、おかしいですよね、竹竿の先が枝より上に出ていたら」

 そんな絵を描いていた狩野融川は、御用絵師の跡取りとして乳母日傘で育ったものだから、柿取りの経験などないのかも知れない。

「何の話だ?」

「いえ……。松波なんとか様がどうとかおっしゃいましたが」

「松波八百之丞」

「どなたです?」

「中島伊勢の後妻の父親だ」

「あ」

「お前という奴は……忘れていたのか。八百之丞殿はすでに昨年から隠居の身だが、此度、子息の喜太郎(正定)殿が書院番に勤役となった。その挨拶回りをしていた」

「兄上はただ挨拶を受けて、それで終わりになさったわけではありますまい」

「短刀と中島伊勢の一件を話した。そうしたら、娘は実家に戻っているそうだ」

「え?」

「伊勢は後妻と離縁した」

「子供が生まれるのに、ですか」

「奇妙な話よ」

「それで、短刀は?」

「伊勢は別れた後妻に持たせたらしい。従って、今は松波家にある」

「兄上は、返せと仰せられたのですか」

「その話は、子供が生まれたらあらためて、という返事であった」

「あらためて、返還の求めに応じると?」

「あらためて、お断りすると」

「浅野内匠頭様なら斬りつけておりますなあ」

 ヒヨリは竹竿の先から落ちる柿を片手で受け、傍らのカゴへ放り込んだ。

「祖父(オホヂ)親 まごの栄や 柿みかむ」

「芭蕉か」

「柿は俳諧の季語にもなっておりますが、万葉集や古今和歌集の和歌にはまるきり詠まれておりません。柿本人麻呂の姓は屋敷に柿の木があったことが由来といいますから、昔からこの国に柿はあった。なのに、歌題としては完全無視。奇妙だと思いませんか」

「お前の頭の方が奇妙だ」

 ヒヨリは髷を結い上げるのが嫌いで、自宅では簡単にまとめていることが多い。その髪に手をやると、

「髪のことではないっ」

 政之はすでに背を向けて庭の枝折戸の向こうへ消えていたが、強い声だけが響いた。

鬼鶴の系譜 寛政編 第一回

鬼鶴の系譜 寛政編 第一回 森 雅裕

 ヒヨリは旗本・森政俵の娘である。書院番をつとめた父は二年前に他界し、遺領は兄の政之が継いでいる。織田信長麾下だった森一族を遠祖に持つ旗本の森家はかつて四家あったが、今は三家。ヒヨリの家が一番石高が低く、それも格段に低く、禁欲的な生活を余儀なくされたためか、一族中の変わり者という家風がある。

 ヒヨリは十六歳。御用絵師の中でも浜町狩野と呼ばれる狩野閑川のもとに通って、絵を学んでいる。 

 寛政三年(一七九一)の夏。夕立の黒雲に追われるように四谷の屋敷へ戻ると、兄がいきなり、

「短刀が見つかったぞ」

 愚痴でもこぼすように、いった。

「しかし、返してもらえぬ」

 ヒヨリには興味がないので、思い出すのに少々手間取った。一年ほど前のことである。森家伝来の短刀の研ぎを依頼してあった研師宅が強盗に襲われ、各家が預けていた名刀がごっそり盗まれた。その中に森家の短刀も含まれていた。

 二百年近く前の森一族には、信長の正室だったお濃の方の侍女もいた。短刀はお濃の方の形見として頂戴したものである。信長に輿入れする時、父の斎藤道三から「信長が評判通りのうつけ者なら刺せ」と渡され、娘は「父上を刺すかも知れませぬぞ」と返答した。そんな逸話を持つ和泉守兼定の名刀だった。

 それを盗まれた研師は、名門本阿弥の中でも光悦という有名人を祖に持つ分家であるが、当主だった光敬は責任をとって自決し、今は養子の光隆が継いでいる。

 

 

 強盗というのは、江戸市中を荒らし回った葵小僧である。葵紋つきの提灯を先頭に、槍を立て、挟箱をかついだ行列を仕立て、あまりの立派さに検問で止められることもなく、富裕者を襲い続けた大泥棒だ。

 金品を奪うばかりか、女をも手当たり次第に犯す凶悪ぶりで、火盗改・長谷川平蔵は躍起となって、ようやく今年、これを捕らえたが、あまりにも強姦被害者が多いため、彼女らの名誉をおもんばかり、逮捕後わずか十日で獄門としてしまった。それが寛政三年五月三日。今より一月前である。取り調べの内容も秘され、葵小僧の本名さえわからない。

 問題は盗品の行方である。発見された盗品は、もとの持ち主に返すことが公事方御定書の「盗人御仕置の事」に定められている。しかし、本阿弥のもとには一本も戻されていない。盗難は一年も前のことだから、売り飛ばされて四散し、もはや行方不明であってもおかしくはないのだが、本阿弥光隆が火盗改に問い合わせたところ、

「押収品の中に、わが家のものらしき短刀があったそうだ」

 政之はそれを本阿弥から聞いたらしい。

「しかし、長谷川平蔵はわが短刀をよそに渡した、とのこと」

「よそ?」

「御用鏡師の中島伊勢だ」

「なんでそのようなところへ?」

「長谷川と中島は友人だ。中島があの短刀を熱望しているらしい」

「盗品は盗まれた者へ返すのが天下の御定法では……?」

「何やら、ややこしい経緯があるようだ」

 そんなものには興味がないけれど……とヒヨリがいやな予感を覚えていると、政之はきびしい眼光で睨みつけた。

「そこで、だ。ヒヨリよ。中島のもとにわが家宝の短刀があるかどうか、調べてみよ」

「は。なんで私が?」

「正面から攻めても素直に答えまい。中島伊勢には息子がある。といっても、跡を継がせるための養子らしいが、これがとんだ道楽者で、家を飛び出して、絵描き修業なんぞしているそうだ。本来は勝川春章の弟子だが、各派をつまみ食いして、狩野閑川のところにも出入りしている。お前なら、この道楽息子に近づけるだろう」

「名は……何というのですか」

「中島鉄蔵」

 聞いた名前だ。顔もわかる。狩野門下で歓迎されているわけではなく、色々と悶着を起こしている変わり者である。

「どうだ。知っておるか」

「はい。絵師としての名は勝川春朗。話したことはありませんが」

「では、話せ。人見知りなんぞするお前ではあるまい」

「まあ、次に会うことがあれば」

「すぐに会え」

「無茶です。私も鉄蔵さんも閑川先生のもとへ毎日通っているわけではありません」

「居所くらい、わからんでどうする。お前の頭は櫛や笄を飾る台か」

 武家の娘に人格など認められず、嫁入りだけを考え、「家」のために自己を殺して生活するのが江戸の封建社会である。女がむやみと外出するのははしたないとされた武家社会にあって、ヒヨリは異常なほど自由に育ったといえる。

 実の母は早くに亡くなり、継母として森家に入ってきたのは町家の女だった。その身分では正妻にはなれないので、内縁の「お部屋」であり、父の死後はさっさと追い出されてしまったが、彼女の教育で、ヒヨリは型破りな武家娘となった。

 兄の政之は十四も年上で、家督はそちらにまかせ、彼女は嫁に行くはずだった。相手は家格の釣り合う旗本の長男で、子供の頃に親同士が決めたことである。本人たちの意思など関係ないが、お互いの気心を知らしめようと思ったのか、父は相手が通う一刀流の道場にヒヨリも通わせた。もともと森家は戦国以来の武門とやらで、女子も武芸を修練する習わしである。

 しかし、好事魔多し、二年前に父の政俵が没し、政之が家督を継いだものの、彼には十年連れ添った妻はあるが子がいない。政之には二人の弟があったが、一人はすでに他家へ養子に出ており、一人は昨年、若くして病死。つまり、次代の後継者がいなくなったのである。

 親戚どもで相談の結果、末妹のヒヨリに婿養子を取らせて将来にそなえればよかろうという話になり、彼女の縁談は流れた。もう道場へは行かなくてもよい、と兄にいわれ、じゃア絵を習いに行きます、とヒヨリはさっさと浜町狩野へ入門を決めてしまった。

 政之はまだ三十歳だから、今後、嫡男が生まれる可能性は充分にある。そうしたら、当然、ヒヨリは用なしとなる。後継者作りの保険……それが彼女のこの家における立場なのである。

 旗本の次男三男は他家へ養子に行かねば冷飯食いのままだから、武芸勉学に励んで自己の価値を高め、婿入りの口を求める。従って、縁談はいくつも持ち込まれるものの、森家を継げる保証がないためか、武家娘らしからぬヒヨリが敬遠されるのか、一向に話は進まない。十六歳という彼女の年齢はこの時代としては適齢期だが、急がずとも、あと二、三年は政之の妻の懐妊を待ち、それからヒヨリの結婚を決めてもよかろう……親戚たちにはそんな考えもあった。

 そして、つい先日、政之の妻の懐妊が判明した。初めての子ではなく、新婚一年目に男子を授かったのだが、成長せずに病死している。それ以来の妊娠なので、家族は慎重かつ控え目に喜んでいるところである。そして、むろん、性別は生まれてみなければわからない。

 

 

 翌日、ヒヨリは勝川春章が人形町に構える工房を訪ねた。旗本の娘の外出には家臣なり女中なりが付き従う。一人歩きが気楽なのだが、さすがにそれでは兄が批判されるので、女中を連れ歩いた。ただ、寛政の改革で衣服、装飾品に贅沢が禁じられているのをいいことに、この娘は自分を飾り立てたりしない。

 勝川派は浮世絵の有力な流派であるから、工房には大勢の弟子がいた。入口から奧へ通されたわけではないが、厳粛な狩野派とはまた違う活気のようなものが周囲に漂っている。

 鉄蔵はここにはあまり顔を出さないらしい。応対してくれた仲間の表情から察するに、好かれているわけでもないようだ。

 鉄蔵の住まいは浅草寺の裏側だと聞いて、そちらにも回ってみたが、留守だった。空振りで帰るのも面白くなく、ヒヨリといえどもいつでも自由気ままに外出できるわけではないので、このついでに下谷へ寄り道した。彼女が通っていた道場がある。

 小野派一刀流を修めた中西子定が、数十年前に下谷練塀小路東側に開いた道場である。小野派一刀流は木刀で形稽古をする剣法だったが、二代・中西子武は防具を改良し、竹刀打込稽古を導入した。今は三代・中西子啓が道場主となっている。のちに中西派一刀流と呼ばれる流派である。

 玄関から入らず、気合いと足音と打撃音が響く道場の脇を回り込んで、勝手口で師匠の家族に挨拶した。それだけで帰ろうとしたが、裏庭で、門弟の一人と視線がぶつかってしまった。

「やあ。お元気ですか」

 ヒヨリの婚約者だった伊上誠志郎である。非常に気まずい相手だが、顔を合わせる可能性というか危険性というか、予測しなかったわけではない。期待もあったような気がする。ただ、江戸にはいないだろうとも思っていた。

 彼は父親が健在なので、惣領息子であっても当主ではないが、大番の勤役者である。大番は将軍の親衛隊である小姓(性)組、書院番(合わせて『両番』と呼ぶ)に比べて格下と見なされているが、両番よりも歴史が古く、三河以来の徳川軍団の中核である。ヒヨリの兄の政之も今は書院番だが、大番に属していたことがある。

「お帰りでしたか」

「先々月、京在番を終えました」

 大番は十二組あり、三年に一度の二組ずつ交替で、京都もしくは大坂の一年勤番となる。誠志郎はこの一年、京都に勤仕していたのである。

「御苦労様でした。うちの兄などは上方勤番の折に、あちらの名物を食べ歩いていただけだと聞いています」

「私も似たようなものです。今日は……稽古にいらしたわけではなさそうですな」

「通りかかっただけです。な、何しに来たのかしら。あ、そうそう。兄のいいつけで、人形町から浅草を回って……」

「そうですか。政之殿もお元気ですか」

「元気です……」

 来年には政之に子供が生まれる。もし仮にまた男子であれば、ヒヨリは後継者作りの保険としての役目から解放されるが……。むろん、そんなことは誠志郎にはいえない。

「絵をお習いだそうですな。ヒヨリ殿には剣術の方が筋がよさそうだが」

「いえいえ。おなごは剣よりも家内を切り盛りする才覚こそ大事。誠志郎様もそのような奥様をおもらいになれば、家運安泰でございます」

 そんなことを口走った。

「ヒヨリ殿こそ、降るほどの縁談がおありでしょう」

「そんな。あははははははは」

 笑って、ごまかすしかない。

「はっはっは」

 互いに馬鹿みたいに笑いを交わし、ヒヨリは頭を下げて、道場から離れた。

(あははははって……何やってるんだか)

 自己嫌悪に陥った。

「兄上にはいうなっ!」

 連れている女中が笑いを隠しもしないので、振り返って、いった。

 

 

 数日後、浜町にある狩野閑川の工房へ出向き、弟子たちに混じって、絵具の準備などしていると、誰もが息を殺している静寂を破り、この場には違和感ある男が入ってきた。勝川春朗こと中島鉄蔵だ。

 彼は三十代半ばだろう。絵師としての実績は黄表紙の挿絵程度しかないのだが、向学心には異様なものがある。諸派を渡り歩き、狩野派に出入りしているのも見聞を広めるためであって、狩野派の絵師となるためではない。

 鉄蔵は騒がしい性格ではないが、御用絵師の保守的な規律にがんじがらめの弟子たちは、鶏小屋に野犬が侵入したかのごとく、この男に空気をかき乱されるようだ。

「よっ」

 そんな挨拶を投げながら、鉄蔵は弟子たちをかきわけ、師匠の席に近づいた。狩野閑川は病身なので、子の融川が工房の中心となり、父の代作、弟子の指導を行っている。しかしこの若先生、まだ十四歳である。

 英才教育の甲斐あって、それなりの画力は有しているが、鉄蔵がこの少年を尊敬しているとは思えない。描きかけの画紙の脇へ膝を揃えて座り、遠慮もせずに眺め回した。

 融川が描いているのは、子供が柿を取ろうと、はるか頭上の枝へ棒をのばしている図である。

「おかしな絵ですな」

 鉄蔵の言葉はこの場を凍りつかせたが、彼は平然と続けた。

「子供は棒を柿に届かせようと爪先立ちしているのに、棒の先は枝よりもずっと上にある。理屈に合わねぇ」

 融川は名門の後継者であるから気位が高い。ただ、怒鳴り散らすほど野蛮でもない……はずだ。気取って、いった。

「良工の手段、俗目の知る所に非ず」 

「へっ。絵を見て評価するのは、その俗目ですぜ」

「勝川春朗さん」

 馬鹿丁寧に、融川は相手を呼んだ。

「どうもあなたは人の世の機微というか風情というか、面白味というものをおわかりでないようだ」

 そう皮肉を返したが、鉄蔵は涼しい顔だ。というか、融川の言葉など聞いておらず、すでにその場を離れて、他の弟子をからかっている。その背中を見て、

「は、破門だ!」

 融川がついに叫んだ。興奮しすぎて、声がひっくり返った。

「二度と顔を見せるな! こ、この無礼者、お前なんかお前なんか、唐辛子売りが似合いだ!」

 噂によると、鉄蔵は唐辛子売りで糊口をしのいでいるらしいのである。

「出てけ出てけ出てけ出てけ、け、け」

 融川は一旦キレてしまうと抑制がきかない性格らしい。筆や絵具皿を投げて荒れ狂い、弟子たちが押しとどめる隙に、鉄蔵は逃げてしまった。

 ヒヨリはその鉄蔵を追った。外に出ると、大川(隅田川)べりを北へ向かっていくが、特にアテもなさそうな足取りだ。途中で大福を買い、それを食らいながら、足を止めた。振り返った眼光に異様な力がある。この男、今は無為徒食であっても、徒者ではない。

「何か用か」

 尾行に気づいていたらしい。もっとも、ヒヨリも隠れるつもりはないから、堂々と歩いていたが。

「狩野閑川先生のところの女弟子だな」

 並の神経の娘なら、とても口をきく気になれない邪険さを放っている。

「旗本・森政之の妹、ヒヨリです」

「融川坊やをけなされて、意趣返しに来たか」

「それほど狩野派に入れ込んではおりません」

「ほお。お前さんとは話が合いそうだ」

「鉄蔵さんの御実家がお持ちの品について、うかがいたいことがあります」

「中島の家のことなら、養子だから実家といえるかどうかなア。跡継ぎになるはずが、期待を大きく裏切って、俺はあの家を飛び出してから長いんだ。小遣いをせびりに行く程度で、中島家の事情なんか知ったことじゃねぇぞ」

「葵小僧に盗まれたわが家伝来の短刀を、中島伊勢様がお持ちだという話を聞いたのですが」

「ふうん……」

 鉄蔵は一人で大福を食べている。むろん、すすめられたとしても、武家娘が往来で何かを口に入れることはない。食べ終わると、彼は欠伸でもするように、いった。

「ああ。お濃の方の遺愛刀だとかいう短刀か」

「やはり、御存知ですか」

「親父……中島伊勢の若い後妻から聞いた。親父がこの女のためにそんな短刀を入手したらしい。というのも、後家は旗本の松波正武の娘でな。松波家は斎藤道三の子孫だという。つまり、お濃の方とは由縁があるってわけだ。この後家こそ持ち主としてふさわしいと考えたのだろう」

「どういう経緯で入手されたのでしょうか」

「中島伊勢は火盗改の長谷川平蔵と親しい。押収品の横流しくらい有り得るかも知れん」

「盗品はもとの持ち主に返すのが御定法」

「文句は親父にいいな。会わせてやるぜ。ちょうど俺も小遣いに不自由してたところだ」

 鉄蔵は下駄を鳴らし、さっさと歩き出した。こんな男と連れ立っているところを人に見られたくないので、ヒヨリは十歩ほど後ろを歩いた。中島伊勢の屋敷がどこにあるのか知らなかったが、前を行く鉄蔵に尋ねたりはしなかった。面倒だったからである。 

 

 

 中嶋伊勢の屋敷は本所松坂町にあった。塀沿いに歩くその先に門構えが見える。鉄蔵はヒヨリが追いつくのを待たず、大声で、いった。

「吉良上野介の屋敷跡の一部を拝領したという。ちなみに俺の母親は小林平八郎の孫だ」

 あまりの声量に、衆目を集めるのが恐ろしくて、ヒヨリは鉄蔵に駆け寄り、返事を投げた。

「誰? それ」

「吉良方の剣客だよ。赤穂の浪人どもが討ち入った時、獅子奮迅の働きもむなしく闘死した。俺はその曽孫というわけだ」

「討ち入りからざっと九十年経ってます。曽孫というのはちょっと無理がありはしませんか」

「理屈っぽい女だな」

「鉄蔵さんこそ、融川さんの絵を理屈に合わないと指摘してたじゃありませんか。あれは、柿取りに夢中で爪先立ちをする子供の無邪気さを表現しようとしたのでは?」

「それも理屈だなア。けどよ、融川みたいに気位ばかり高くて、すぐに逆上する野郎は絵師に向かねぇよ」

「そうですか」

「絵師は森羅万象すべてを冷静に見て、地獄も極楽も描くもんだ。融川坊やに耐えられる商売じゃねぇ。あいつ、絵を続けていたら長生きしねぇぜ」

 これより二十四年後の文化十二年(一八一五)、融川は自身の手がけた朝鮮への贈呈屏風に対して、老中が不満を示したことに怒り、下城の途中で切腹する。三十八歳の若さであった(……というが、朝鮮通信使は文化八年を最後に訪日しておらず、朝鮮とは対馬藩が交易していただけであるから、この巷説には疑問がないわけではない)。