鬼鶴の系譜 寛政編 第二回
鬼鶴の系譜 寛政編 第二回 森 雅裕
幕府御用鏡研師だけに、中島伊勢の屋敷は立派だ。武士ではないから門構えは控え目だが、敷地は大身旗本に匹敵する広さである。玄関前を通りかかると、弟子なのか使用人なのか、男が飛んできたが、鉄蔵は手をあげてそれを押し戻し、庭を回り込んで、母屋の奧に声をかけた。
回縁に初老の男が現れた。汚いものでも見るような視線を鉄蔵に向けた。実際、汚いのだが。
「鉄蔵か」
歓迎していないようだ。この男が中島伊勢だった。
「親父殿。客人を案内してきた」
「ん? 何者だ?」
「旗本のお姫様だ。お濃の方の短刀のもとの持ち主らしいぜ」
「何だと」
伊勢は値踏みするような視線をヒヨリに注いだ。贅沢な身なりではないが、隙のない佇まいである。とりあえず客と認めてくれたらしく、頭を下げて挨拶を寄こしたが、口から出た言葉は鉄蔵への愚痴だった。
「そういや、お前、リョウに時々、小遣いの無心をしているそうだな。食えもしない絵をいつまで続ける気だ?」
リョウというのは後妻らしい。鉄蔵は自分が寄りつかない実家の事情を、その後妻から聞いているのだろう。
「説教してもらうために来たんじゃねぇ」
「金はやらん。恥を知れ」
「俺にとっての恥とはくだらねぇ絵を描くことでさア。じゃ、もう用はねぇ。俺は帰るぜ」
鉄蔵は何かを振り捨てるような笑い方をする。その表情を残し、背を向けた。
道楽息子が消えると、伊勢は微笑みながらヒヨリを手招きした。武家娘とはいえ、まったくの子供扱いである。縁側から上がり、手近な座敷へ座らされた。
「もとの持ち主といわれたかな」
「書院番を勤めます森太郎助(政之)の妹・ヒヨリです」
「話は聞いていますよ。長谷川平蔵様から」
「あら」
「うん。御先祖の一人が、落飾したお濃の方に仕えておられたとか。形見として頂戴した短刀だそうですな。代々、森家に伝わってきたが、昨年、葵小僧に盗まれ、その責任から研師の本阿弥光敬様は自裁された」
「よく御存知ですね」
伊勢は、しばらく待て、と手で制し、廊下へ消えた。茶を出してくれるわけではなく、戻った時には短刀らしい刀袋を持っていた。
「御覧なさい。間違いありませんか」
ヒヨリに刀剣趣味はないので、これまでじっくりと見たこともないが、見覚えくらいはある。白鞘には「賜 依月華院様」の墨書もあった。研ぎ直しの前に盗まれたので、抜くと、古研ぎの状態である。しかし、タダモノではない雰囲気を漂わせている。和泉守兼定の銘も確認した。
「当家のものです」
「そうですか。本物ですか。それを聞いて安心しました。偽物をつかまされたかも知れませんからな」
続けて、伊勢は何やら書き付けを取り出した。
「森勝三郎様はあなたのお兄様の一人でいらっしゃいますな」
「末兄です。もうこの世におりませぬが」
ヒヨリには三人の兄があり、一番上が政之(太郎助)、二番目は他家へ養子、三番目は昨年急死している。勝三郎というのはこの三番目であり、諱は政目。彼の死がヒヨリの縁談を流してしまったのである。
伊勢は書き付けをヒヨリの前に広げた。
「御覧なさい。その勝三郎様からいただいた証文です」
「は……?」
伊勢は大道芸人のような愛嬌ある風貌だが、態度には愛想のかけらもないので、かえって傲岸不遜な人間に見える。
負けまい、と十六歳のヒヨリはせいぜい怒り顔を作った。
「これは……」
「借金のカタに短刀を渡すという証文です。これを書いた頃、短刀は本阿弥に研ぎに出されていた。まもなく勝三郎様は亡くなられ、短刀は葵小僧に盗まれたが、火盗改がこれを捕らえ、短刀も押収された。私の手元へ来るのは当然ではありませんかな」
「中島様は火盗改の長谷川様とよほど仲がおよろしいようですね」
「おやおや。見かけによらず、嫌味なお姫様だ」
「兄の勝三郎が中島様に借金をしたとか短刀を担保にしたなどという話は、家族の者は聞いておりませぬ。この証文、本物ですか」
政目(勝三郎)の筆跡など正確には覚えていない。証文には花押もあったが、偽物とはいいきれないものの、本物かどうかも確信が持てなかった。
「これはこれは……」
中島伊勢は、不快と苦笑を器用に混ぜ合わせた表情を作った。
「私が手回しよく偽の証文まで用意して、短刀を欲しがる理由がありますかな」
「教えていただけませんか」
「は?」
「御新造様は斎藤道三につながる松波家の出でいらっしゃるとか」
「鉄蔵から聞きましたか。いかにも、先年まで御書院番で進物の役をおつとめだった松波八百之丞(正武)様より頂戴した嫁。リョウと申します」
「そのリョウ殿こそ、お濃の方形見の短刀を持つにふさわしいとお考えになったのでしょう。でも、短刀にそこまで御執心の理由が私にはわかりません。教えてください」
「面白いお方だ」
伊勢は目の前の少女に油断していた。ヒヨリには憎めない空気がある。伊勢の口が軽くなった。
「あなたは家伝の短刀の値打ちを御存知ないようだ」
「はい」
この娘、屈託なく笑っている。
「あのですな、姫様。火盗改が葵小僧を捕らえた時、その短刀も押収された。おかしいと思いませんか」
「は?」
「一年も前に盗んだものを処分せずに隠れ家に置いておいた。あんな盗っ人に玩物趣味なんぞありゃしない。御神刀としての御利益があったからこそ、手放さなかったんです」
「あの……何の話です?」
「まあ、お聞きなさい」
伊勢はすっかり話す気になっている。
「昨年の八月、江戸で大雨、洪水が発生した時、深川にあった葵小僧の隠れ家も流されたが、短刀は家の土台にひっかかって、残っていた。十一月の地震の際には品川に潜んでいた葵小僧だが、近所から火が出て、隠れ家も類焼したが、焼け跡から見つかった短刀はまったく無事だった。この短刀を入手以来、風邪が流行ろうが麻疹が流行ろうが、葵小僧の一味から病人は出ていない。……火盗改の取り調べで、葵小僧はそう語ったらしい」
「よくある霊刀伝説ですね」
ヒヨリは霊や神仏を信じないわけではないが、それを語る人間は信用しない。必ず尾ヒレがつくからである。そもそも、あの短刀、森家にある時はそんな霊力を発揮することはなかった。
伊勢はさらに続けた。
「しかし、霊刀ゆえに悪党を許さぬ神通力もあった。先々月、火盗改が踏み込んだ隠れ家は江戸のはずれの押上村にあって、元々はさる商家の隠居所だったらしいが、そもそもこの家があやしいと目をつけられたのは、上を飛ぶカラスがやたらと落ちて死ぬ、と地元の百姓の間で噂になったからだそうですよ。これも神通力というものではないか。恐るべし」
「葵小僧にとっては御利益どころか疫病神になってしまったわけですね」
「どうもあなたは人の世の機微というか風情というか、面白味というものをおわかりでないようだ」
「あらま」
狩野融川も鉄蔵をそう非難していた。あの男と自分は似ているのか。
「要するに、短刀はお返しいただけないということですか」
「実は、妻の腹に子が宿っておりましてな。無事に男子が生まれるよう、お預かりさせてもらいたい。わが家は男子に恵まれず、鉄蔵を養子にしたが、あの男はあの通りの風来坊で、絵師なんぞ志してる。あいつの息子を跡継ぎにと考えたが、先年、十歳にもならずに病死してしまった。ここは短刀の霊力にすがって、家運を向上させたい」
「お子が生まれたら、お返しくださるのですか」
「あなたは今まで何を聞いていたのですか、あなたは」
伊勢は苛立ち、扇子で畳を叩いた。ヒヨリはまっすぐ伊勢を見つめている。
「偽の証文をでっちあげる理由です」
「あのね、私はね、この短刀の価値を知ればこそ、森勝三郎様に金子を用立てたのだと申し上げています」
「仮に証文が本物だとして、金子をお返しすれば、短刀は当家へ戻していただけるのですか」
「借金の返済期限はとうに過ぎております。短刀をいただいた以上、その証文は森様にお渡しするのが筋。どうぞお持ち帰りください」
「お断りします」
ヒヨリはきっぱりと宣言したが、笑っている。
「当家としてはこのような証文を認めるわけにいきませんので、受け取りもいたしません。それに持ち帰れば、当然、勝三郎が残した筆跡のわかるものと照らし合わせることになります。それで勝三郎の手跡ではないと判明しても、それこそ私どもが証文を偽物とすり替えたととぼけられたらそれまで。照らし合わせるならば、私どもの方から勝三郎の手跡をこちらに持参し、伊勢様の目の前で行うべきでしょう」
「う……。それはそうですな」
この少女は侮れない。伊勢の驚きは怒りにさえ変化している。
「ところで、この短刀は本物という森家のお墨付きが欲しいですな。一筆書いていただきたい」
女のヒヨリでは何を書いても有難味がないだろう。
「兄に報告はいたしますが、あれはヘソ曲がりでございますよ」
「あ。私もね、お兄様……太郎助様には事情をお伝えせねば、と考えていました。礼を失した。いずれ御挨拶を」
そんなことよりも、ヒヨリの興味は別のところにあった。鉄蔵に子供がいた、と伊勢が発言したことだ。
「鉄蔵さんは所帯持ちなのですか」
「ふん。女房は逃げてしまいましたよ。幼い娘もいるが、この家に置いてけぼりだ」
まあ、そうだろう。家庭など無縁という雰囲気の男だ。
「去年、私が京都に出張していた時も、留守の間に家のもの持ち出して換金したりしたようだ。絵師なんぞ落ちこぼれのゴクつぶしに決まってるんだ」
「子は親の鏡と申します」
「……どういう意味ですか、それは」
「でも、鳶が鷹を生むということもありますわね」
「何だか、あなたとは話が噛み合わない」
伊勢がそういったのをきっかけに、ヒヨリは辞去した。
庭を回り込み、門へ向かう途中、若妻らしき女を見かけた。目が合い、互いに頭を下げた。あれが松波家から入ったリョウという後妻か。確かに、腹は大きかった。臨月が近いのではないか。
外へ出て、塀沿いに歩くと、堀割の脇の土手に五、六歳の女の子が座り込んでいた。堀の水量は少ないので、落ちても溺れることはなさそうだが、膝まで濡らしている。足先を気にしていた。
「どうしました? ケガしたのですか」
見てやると、足の親指の生爪をはがしていた。手にはトンボを捕らえている。こいつを追って、ケガしたらしい。しかし、泣きもしない。
ヒヨリは手拭いを裂いて足先を包み、縛ってやった。
「あなた、この家の子?」
堀割の前に続く塀は中島家の敷地だ。
「そうです。ありがとうございます」
鉄蔵が中島家に置き去りにしているという娘か。
「お名前は?」
「美与といいます」
幼いとはいえ気立てのよさげな娘だ。風来坊のような絵師のもとで育たぬ方がこの子のためかも知れない。
今日、狩野閑川の妻からもらった落雁が袂にあったので、これを美与の手に握らせた。
「どなたですか」
「あなたの父親の知り合い」
「そうですか」
「じゃあね」
「おねえさん」
「何?」
「知らない人に無闇と話しかけては駄目ですよ」
「…………」
この子、気立てがいいと感心したことを軽く後悔した。
屋敷に戻ると、兄の政之はすでに下城しており、まったく表情を変えずに小言を発した。
「供も連れずにうろうろと出歩くでない」
狩野閑川の工房に行く時は一人歩きが多いのだが、家臣か女中に送り迎えされることもある。いずれにせよ、今日は帰りが少々遅くなった。
「中島伊勢を調べよといわれたのは兄上です」
「お。調べはついたのか」
「短刀は間違いなく中島家にございます。この目で確かめました」
「で?」
「いささか厄介なことになっております」
中島伊勢のところで見聞した事情を話すと、政之はヒヨリが不始末をしでかしたかのように睨みつけた。
「勝三郎(政目)が借金とは……。あいつは中島伊勢とつきあいがあったのか」
「知りませんよ。まあ、歌舞音曲が大好きで、趣味道楽の道に邁進していた勝三郎兄上でしたから、有り得ぬことではございませんが」
政之は拍子抜けするほど冷静である。眠たげな低い声で、いった。
「長谷川平蔵が中島伊勢のカタを持っているというのは……厄介よのぉ。しかも、中島伊勢の後妻というのは松波八百之丞の娘か。御用鏡研師とはいえ、町家へ嫁にやるくらいだから、おそらく妾腹だろうが」
松波家は斎藤道三の後裔という家柄に加え、将軍吉宗の代には勘定奉行や南町奉行を歴任した松波正春を出している有力旗本である。
「中島伊勢という男、結構な暮らしぶりらしいな。しかし、当家としては、短刀を返せといい続けるしかあるまい」
「子供が生まれるまでは取りつく島もなさそうです」
「子供か……。うちもじきに生まれるがな」
「短刀に願かけしたいですか」
「そんなものに頼らずとも、わが子は無事に生まれる」
政之は気負いもなく、いった。
「俺は刀鍛冶を何人も知っている。鉄と火を扱う職人であり、学者でもあるが、神がかった連中ではない。刀剣に霊力なんぞ宿るものか」
この男も人の世の機微、風情、面白味というものがわからぬようだ。
「あ、そうそう。短刀が森家伝来の本物だという一筆を書けといっておりました」
「知るか。俺は中島伊勢が入手したその短刀を見ていない」
「では、勝三郎兄上が何か書いたものを中島伊勢のところへ持参して、証文と比較してみますか」
「いや。こちらから出向く義理はない。それに、だ。手跡が証文と一致して、本物ということになっても困る」
「……ですよね。あははは」
ヒヨリは溜息を隠し、顔の下半分だけで笑った。
それから半月ほどして、政之が新たな情報を持ち帰った。
「お城で、松波八百之丞(正武)に会った。松波八百之丞殿というべきか」
ヒヨリは庭で竹竿を操り、柿の実を取っていた。竹の先端に切り込みを入れ、それで柿のヘタの上の小枝をはさみ、ねじって折り取る。器用な娘である。
「やはり、おかしいですよね、竹竿の先が枝より上に出ていたら」
そんな絵を描いていた狩野融川は、御用絵師の跡取りとして乳母日傘で育ったものだから、柿取りの経験などないのかも知れない。
「何の話だ?」
「いえ……。松波なんとか様がどうとかおっしゃいましたが」
「松波八百之丞」
「どなたです?」
「中島伊勢の後妻の父親だ」
「あ」
「お前という奴は……忘れていたのか。八百之丞殿はすでに昨年から隠居の身だが、此度、子息の喜太郎(正定)殿が書院番に勤役となった。その挨拶回りをしていた」
「兄上はただ挨拶を受けて、それで終わりになさったわけではありますまい」
「短刀と中島伊勢の一件を話した。そうしたら、娘は実家に戻っているそうだ」
「え?」
「伊勢は後妻と離縁した」
「子供が生まれるのに、ですか」
「奇妙な話よ」
「それで、短刀は?」
「伊勢は別れた後妻に持たせたらしい。従って、今は松波家にある」
「兄上は、返せと仰せられたのですか」
「その話は、子供が生まれたらあらためて、という返事であった」
「あらためて、返還の求めに応じると?」
「あらためて、お断りすると」
「浅野内匠頭様なら斬りつけておりますなあ」
ヒヨリは竹竿の先から落ちる柿を片手で受け、傍らのカゴへ放り込んだ。
「祖父(オホヂ)親 まごの栄や 柿みかむ」
「芭蕉か」
「柿は俳諧の季語にもなっておりますが、万葉集や古今和歌集の和歌にはまるきり詠まれておりません。柿本人麻呂の姓は屋敷に柿の木があったことが由来といいますから、昔からこの国に柿はあった。なのに、歌題としては完全無視。奇妙だと思いませんか」
「お前の頭の方が奇妙だ」
ヒヨリは髷を結い上げるのが嫌いで、自宅では簡単にまとめていることが多い。その髪に手をやると、
「髪のことではないっ」
政之はすでに背を向けて庭の枝折戸の向こうへ消えていたが、強い声だけが響いた。