鬼鶴の系譜 寛政編 第三回

鬼鶴の系譜 寛政編 第三回 森 雅裕

 それからさらに一月ほど経った。ヒヨリは毎朝、木刀の素振りと打ち込みの稽古を行う習慣だ。武家など何ら生産的活動をするわけではないし、特に女は家に閉じ籠もり、世のため人のために役立ちもしない。そんな一種のうしろめたさが、ヒヨリを武芸や習い事に向かわせた。

 庭砂の上に、音を立てんばかりに汗を落とし、息を切らしていると、

「客が来ている」

 と、兄が声をかけた。

「中島鉄蔵という野良者だ」

「あら」

「伊勢の息子だな。子は親の鏡という。あんな息子では父親もろくでなしだろう」

 ヒヨリを訪ねてきたのだろうが、あやしげな男なので、応対に出た使用人が兄に報告したようだ。武家娘の人脈は親戚と習い事の仲間だけというのが普通だから、男が訪ねてくるなど、他の旗本家だったら大騒ぎになるだろう。

 さて、汗だくですぐに会うのと待たせて着替えるのと、どちらが無礼でないだろうかと迷ったが、面倒になってしまい、「野良者」に会うのに気取る必要もあるまいと、稽古着のまま、応対に出た。

 門の内側に訪問者を待たせる小部屋があり、そこにいるかと思ったら、鉄蔵は庭の朝顔を見ている。

「朝顔の茶会って、知ってるか」

「千利休は満開のアサガオを一輪だけ残してすべて摘み取り、豊臣秀吉を迎えた。満開を期待していた秀吉はいぶかしんだけれど、茶席に生けられた一輪の朝顔に感動したという、利休が茶の心を示した故事ですね」

「くだらねぇ与太話だよな。満開の方が感動するに決まってらア」

「そのくだらない話するために、お出ましになったわけじゃないわよね」

「つっけんどんな女だなあ」

 鉄蔵は大袈裟に眉を寄せたが、ヒヨリを見る強い眼光に悪意はない。ヒヨリは髪をうしろでまとめ、稽古着に袴という質実剛健な出で立ちである。

「ほお、なかなか様子がいいじゃねぇか」

「色気も何もないでしょうが」

「そうかあ。俺は勇ましい女も好きだが」

「……何の御用ですか」

 庭に縁台があるので、鉄蔵に座るよう促した。

「親父……中島伊勢からことづかってきた」

 鉄蔵は抱えていた風呂敷包みをほどき、桐箱を取り出した。ヒヨリが中を見ると、鰹節が一本、うやうやしく鎮座している。

「何……です?」

「森様への御挨拶だそうだ」

 土佐藩の秘伝とされていた鰹節の燻乾法がようやく各地に広まり始めた時代である。貴重といえば貴重な食品ではあるが……。

「それからな、借金の証文は長谷川平蔵様へ預けたので御承知おきください、だと」

「ははあ……。そう来ましたか」

 証文を長谷川平蔵に託すことで、おのれを正当化し、森家が手出しできぬようにする算段か。しかし、そんなことよりも、鉄蔵が不仲な義父・中島伊勢の使い走りをすることの方が意外だった。彼を睨む目つきにそれが出たらしく、鉄蔵は苦笑した。

「いつも小遣いくれてた後妻が離縁されちまったんだ。親父の御機嫌とって、金ヅルにするしかねぇだろ」

「後妻殿はリョウさんでしたね。どうなさってますか」

「人づてに聞いたが、子供が生まれたようだ」

「松波家で生んだのですか」

「ああ。半月ほど前だ」

「男女は?」

「男だ」

「離縁しなければ、中島家の跡取りになっていたわけですね。松波家の後継者になるのかしら」

「松波八百之丞(正武)にはすでに息子が二人いる」

 松波家の長男は書院番に勤番となっており、後継者が不足しているわけではないのである。しかし、中島家は違う。鉄蔵のような野良者を一度は養子にしたくらいである。

「どういうことなのでしょうか。中島伊勢様は跡取りを欲しがっていたはずですよ」

「ふふん。お前さんのようなお姫様にはわからねぇ事情があるのさ」

「私で不足なら、兄にお話しください」

 ヒヨリは庭の枝折戸の向こうに声をかけた。

「兄上!」

 政之が隠れるようにして、こちらをうかがっているのはわかっていた。顔を出した兄へ向けて、手招きした。政之はあさっての方向を見ながら近づいてきて、驚いたふりで足を止めた。

「あ、おお、これはわが妹ヒヨリではないか。そんな格好で何をしておる?」

「絵師の鉄蔵さんと大人の話をしております。中島伊勢様が離縁された松波家のリョウ殿、男子出生だそうです」

「では、もう短刀は無用であろう。返しに来たのか。それにしても、中島伊勢殿が自分で返しに来るのが道理。礼儀を知らぬのか」

 鉄蔵はとりあえず頭を下げ、恐縮のふりを見せた。

「いや。お返しにあがったわけじゃありません」

「何。手ぶらで来るとはいい度胸だ」

 ヒヨリは兄の目前に桐箱を掲げた。

「鰹節をいただきました」

「進物なら妹ではなく、当家の用人に差し出せばよろしい」

 この貧乏旗本の家で、用人とは誰のことかとヒヨリが疑問を発するよりも早く、政之はヒヨリと鉄蔵を交互に見やり、いった。 

「鰹節だと? 俺の聞き違いか」

 ヒヨリは物凄い作り笑いを兄に向けた。

「聞き違いではありません」

「桐箱の底に小判がぎっしり敷き詰めてあるのではないか」

「正真正銘大胆不敵、疑う余地なく掛値なしの鰹節だけです」

「中島伊勢め。鰹節一本で、俺が泣き寝入りするとたかをくくっているのか」

「まあ、何の挨拶もないよりはマシです」

 ヒヨリはとりなしたが、政之は鉄蔵を睨み据えた。

「浅野内匠頭は吉良上野介へ鰹節一本しか贈らなかったためにいじめられたという。その故事を承知の上であろうな」

「はあ。私は芝居で見て、知っておりますが、中島の親父は朴念仁でございますからなア」

 ヒヨリが、

「証文は長谷川平蔵様に預けられたそうです」

 そう告げると、政之はたちまち顔を赤くした。

「中島伊勢は虎の威を借る狐よな。狐が俺を愚弄するのか。家臣どもに支度をさせよ。これから中島邸へ討ち入る。聞けば、中島の屋敷は吉良上野介の屋敷跡に建っているとか。わが森家もまた武士の意地を貫いた義士と呼ばれるであろう」

「何いってるんだ、この殿様」

「まず、お前から血祭りにあげる」

 政之は腰の脇差を抜こうとした。ヒヨリはその手を押さえ、鉄蔵へ叫んだ。

「逃げて!」

「あ? え?」

「早く!」

「あ、ああ」

 鉄蔵は首をかしげながら後ずさりし、下駄を脱ぐと、身を翻して駆け出した。その背中が門へ消えるのを見届け、ヒヨリは兄から離れた。

「行きました」

「ふん。妙な奴だ。俺が斬りつけたら、下駄で防戦するつもりだったようだ。満更、度胸のない男でもないな」

「中島伊勢様が若妻の出産を喜ばぬ理由を聞こうとしたのに……」

「どうせろくでなしの中島伊勢に似合いの後妻だ。不義密通でもしたのだろうよ」

「私にはそういう頭は回りません」

「まだ修行が足りぬな」

「あ」

 ヒヨリは宙に向かって、声を上げた。 

「そういえば、中島様にお目にかかった時、去年は京都に出張していたとおっしゃってました。」

「妻は京都に同行していたのか」

「さあ」

「わからぬことは調べてみよ」

「だから、何で私が?」

「人の世の勉強だ。それに、俺が出て行くと刃傷沙汰になる」

「供を連れず、野良者の絵師なんぞと一緒に歩いてもよろしいので?」

「やむを得ん。まあ、お前なら悪の道に引きずり込まれることもあるまいからの」

 一人歩きしてもよいと言質を取り、単純にうれしくなったヒヨリだが、

「京都……」

 ぼんやりと呟き、鰹節の納まった桐箱で鼻の頭を叩きながら、

「あ」

 何となくわかったような気がして、声をあげた。しかし、あくまでも「気がした」だけで、頭の中で整理しようとすると、はっきりしなかった。とりあえず、京都のことを確認せねばなるまい。

 

 

 九段下の伊上家の屋敷が近づくにつれ、ヒヨリは重くなりそうな足の運びに活を入れ、戦場にでも乗り込む気分で門をくぐった。そもそも、事前の約束もなしに訪問することも武家の礼儀にはずれるのである。誠志郎に面会を求め、庭の縁台で待つうち、我を忘れて鼻歌なんぞ口ずさんでしまった。

 しかし、婚約者だった誠志郎が現れた時には、自分でも意外なほど落ち着いていた。ただ、挨拶は簡略化した。というより、まるきり省略して、本題を切り出した。

「誠志郎様。京都のお話をうかがいたく思います。あちらに御用鏡研師がいらっしゃいましたか」

「御用鏡研師?」

「中島伊勢という人物」

「ああ。江戸から差遣されて、しばらく御用を勤めていたお人だな」

「中島様は単身で京都へお出ででしたか」

「短期だったからな」

「いつ頃ですか」

「さて。いちいち気にしていなかったが……去年の秋から暮れにかけてだな」

 いくら世間知らずのお姫様でも、赤ん坊が十月十日で生まれることは知っている。出産は八月である。中島伊勢の若妻が妊娠した時、彼は江戸にいなかったことになる。

 考え込むヒヨリだったが、その異様な気配にも、

「ヒヨリ殿。大丈夫か」

 誠志郎は動ずることなく泰然と見つめている。

 

 

 ヒヨリは一人で、鉄蔵の住む浅草寺裏の長屋を目指して歩いた。路地に小さな稲荷神社があり、一旦は通り過ぎたが、見覚えある後ろ姿を見た気がして引き返し、鳥居の向こうを覗いた。

 鉄蔵が祠の前に据えられた狐の石像を眺めていた。この男、どういう五感でヒヨリを感知したのか、振り向きもせずに、いった。

「なかなか格好のいい狐だよな。彫心鏤骨の文字通り、彫刻は絵よりも大変な作業だ。削りすぎたからといって、元に戻すことはできねぇ。丸彫りとなると、裏側も省略できねぇ。これが彫金なら、色の表現は象嵌と色上げという手間仕事にもなる。内緒だが、俺は腕のいい彫刻師にはちょっとばかり引け目があってな」

 こんな男に内緒の心情を打ち明けられて、ヒヨリは反応に困ってしまった。

「お供えの油揚げでも盗み食いしてるかと思いました」

「それほど好きじゃねぇや」

「狐の化身のような鉄蔵さんなのに」

「狐は肉食だ。油揚げが好物なわけがねぇ。……いかれた兄上様だな」

「鉄蔵さんといい勝負だと思いますけど」

 話題が突然変わる。鉄蔵が政之に追い払われたのは数日前のことだ。この滅裂ぶりについていけるヒヨリは波長が合っているということなのか。

「あのですね、わからないですませるわけにはいきません」

 ヒヨリもいきなり数日前の話題に戻した。中島伊勢が跡継ぎ誕生を求めない理由だ。

「中島伊勢様は去年、京都にいたそうですね」

「ほお。まんざら、箱入りのお姫様でもなさそうだなア。そうさ。親父殿は二条城でせっせと鏡を磨いていた。京都で人脈を作り、殿上人とお近づきになることにはもっと熱心だった」

「留守の間に、鉄蔵さんが家のもの持ち出して換金したとかで、絵師なんぞ落ちこぼれのゴクつぶしに決まってると中島様は怒り心頭でした」

「その金で俺は甲信越を旅していた。さすがにしばらくは敷居をまたげず、親父がいつからいつまで京都にいたのか、後妻がどうしていたのか、細かいことは知らん」

「リョウ殿は江戸にいたのですか」

「とは思うが、屋敷は留守がちだった。だから、俺が家財を売り飛ばすこともできた」

「留守がちだったということは……」

「おっと。旗本のお姫様とあやしい画工が往来で立ち話なんかするもんじゃねぇだろ。うちへ来な」

 住居を訪ねるのも問題なのだが、長屋はどこも戸を開けっ放しで、しかも安普請だから、物音も筒抜け。密室というわけではない。

 稲荷神社から穴蔵のような路地へ入り、案内された鉄蔵の住処は、床も見えないほどのゴミの山だった。積み上げられた画帖とあちこちに転がる画材が、この部屋の住人が何者であるかを語っている。

「頭の中で狐が動き回ってるうちに描かなきゃならねぇ。話は描きながらでもできる」

 鉄蔵はゴミをかきわけ、絵を描き始めた。墨や顔料は水や膠を使うので、放置しておけば乾燥してしまうだが、この男の画材は常に臨戦態勢にあるようだ。

 しかし、絵を床に寝かせて描く隙間などないので、画紙は板に張り付け、立てて描いている。黄表紙か何かの挿画らしい。

 ヒヨリが座る場所もなさそうなので、上がり框に腰かけた。表を通る長屋の住人たちが、場違いな訪問者に、好奇の目というよりも苦笑を浮かべて覗いていく。「掃きだめに鶴」という声も聞こえた。

 鉄蔵は奇妙な姿勢の狐を描きながら、

「ふん。鶴というより、俺には鷹に見えるがな」

 背中を向けたまま、いった。

「さて、お姫様にももう察しがついているだろう」

「中島様は不義の若妻を離縁した」

「そういうことだ。自分の種でもない子が生まれても、後継者にする気はない」

「しかし、それなら、中島様にお濃の方の短刀を必要とする理由はないはず」

「お前さんには縁のない話だろうが、夫婦が別れる時には面倒な決まり事がある」

「武家なら、離縁の際には持参金や嫁入り道具は返さなきゃなりませんが」

「松波は武家。中島も武家並み」

「松波家は勘定奉行や町奉行を歴任した松波筑後(正春)様を出したほどの旗本。嫁入りにそれなりの金品は持参したでしょうが……」

「金じゃねぇんだ。嫁入り道具の中に鏡があった」

「嫁入りに鏡くらいは持ってくるでしょう」

「ただの鏡じゃねぇ。光を反射させて壁に映すとマリア観音が浮かぶ……キリシタンの魔鏡だ」

「ああ。そんな不思議な鏡、話に聞いたことはありますが」

「松波家には細川ガラシャの遺品として伝来したそうだ」

「松波家は戦国の斎藤道三につながりますが、細川家とは?」

「ガラシャが自刃した時、その息子である細川忠隆の正妻は炎上する細川屋敷から脱出している。ガラシャの形見の鏡を抱いて、どういう理由なのか、お濃の方を頼ったという。いうまでもなく、道三の娘で、信長の正室だ。その後、鏡はお濃の方のもとにあった。彼女の没後、遺品は四散したが、鏡はお濃の方と縁戚ある松波五郎右衛門(勝安)へと渡った。五郎右衛門は今の松波八百之丞の先祖だ。その鏡が今の世に伝わっている……というんだが、この手の伝承伝説は眉ツバだな。まあ、人は信じたいことを信じるもんだ。この鏡がガラシャの形見で一時はお濃の方が所持していたと夢を見たい奴もいるのさ。中島伊勢にしてみれば、伝来だけでなく魔鏡そのものにも興味があって、これまでにもいくつか収集しているし、仕組みを調べたりもしている。なアに、大層な仕組みじゃねぇ。あれは研ぎの力加減で表面にごくわずかな凹凸が生じて、その影が……」

「おいしいですね、これ」

「あ?」

 鉄蔵は絵を描く手を止め、振り返った。ヒヨリは部屋にあった菓子を口へ運んでいる。

「勝手に何を食ってるんだよ。お姫様らしくもねぇ」

「琉球芋を細切りにして油で揚げ、蜜をかけてありますか。鉄蔵さん、なかなか食道楽のようですね」

「ふん。次に俺を訪ねる時は手土産を持ってきな。大福なら大喜びだ」

「何の話をしていましたっけ」

「魔鏡だよ」

「見てみたいものですね。でも、その前に何の話をしていました?」

「あのな。妻を離縁した中島伊勢がなおも短刀を彼女に持たせた理由を知るために、お前さんはここへ来たんだろうが」

「あ。この画室の様子に眼も心も奪われて、忘れていました」

「画室ったって、寝床も居間も兼ねた一間っきりだがな」

「え。この奧にまだ二つ三つ部屋があるのでは?」

「不愉快な姫君だな。とにかく、御用鏡研師の中島伊勢としてはこの鏡が大いに気に入った。松波家に返したくない。そこで、かわりに短刀をリョウに持たせた。それもまたお濃の方ゆかりの品には違いない。松波家には願ってもない御先祖ゆかりの品物だ」

「中島様にしてみれば、妻の不貞を理由に離縁して、持参金や嫁入り道具まで返すのでは踏んだり蹴ったり……」

「あのな、お宅から来た嫁は不貞を働いたのでお返しします、なんていえるか。いや、松波家だって事情はわかっているだろうが、本音と建前を使い分けなきゃ、中島、松波、双方の沽券にかかわる」

「沽券などというなら、不義相手の男を成敗すべし」

「姫様、勇ましいお考えですな。しかし、子供の父親が誰なのかわからなきゃ、それもできねぇ。気になるところではあるが」

「私には短刀が大事なので、別に気になりませんが……。父親は鉄蔵さんかと思ってました」

「おいおい。涼しい顔で、とんでもないこといいやがる。俺は甲信越を旅してたといったろ。第一、親父の若妻に手を出すほど悪趣味じゃねェや」

「なアんだ」