銘 |
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鬼鶴の系譜 維新編 第二回 |
鬼鶴の系譜 維新編 第二回 森 雅裕
浅草見附から柳橋方向へ歩くと、そこら中で官軍が隊列を組み、意気揚々と歩いている。橋詰には青竹を組んだ一角があり、彰義隊隊士の生首がさらされている。そして、その生首の前に画帖を持って張りついている男がいた。月岡芳年である。「血まみれ芳年」の面目躍如とばかり、この凄まじい光景を写生していた。
画帖から目を離さないまま、背後に近づく円朝たちをどう察知したのか、芳年はいった。
「おお。円朝師も取材にお出ましか。環もいるな。この地獄絵図、しっかり描き止めておけよ」
だが、環は真っ青になってよそ見している。上野の方向だ。
「上野の山はどうなっているでしょうか」
「見てきた。焼け野原の死屍累々だが、死体や武器をかたづけている最中だ。輪王寺宮は落ちのびられたようだ。まだ奥州が残っている。幕府軍は往生際が悪い。まア俺はそういうのが大好きだが」
芳年はようやく振り向いた。
「お。円鬼さん。あんた、兄と弟が参軍しているのだったな。心配だろ」
「はい。実家の様子も気になりますが」
旗本屋敷は官軍に目をつけられている。迂闊に近づくことはできなかった。
「それにしても、たった半日で上野は落ちましたか」
「大きな声じゃいえないが、彰義隊内部に裏切者というか、間者が多かったらしいぜ。身体強固な若者なら、誰でも引き入れたからな。だが、これで江戸市中に戦火は及ばずにすんだ。円朝さん、お宅の連中は無事かい」
「伊勢本に詰めていた弟子どもがいるが、勢朝ってのが柳橋の裏河岸に住んでるんでね、皆、そこへ転がり込んで、無事なようだ」
「俺んとこは弟子が一人、昨日から帰ってこねぇ。行き先不明だ」
「ほお……。しかし、修業が嫌になって逃げる奴も珍しくなかろう」
「それならいいんだがね……」
環は芳年と同行するというので、円朝と円鬼の二人で戦場を見て回ることにした。筋違御門の通行は自由になっており、三枚橋から山王台下へ至ると、防御用なのか畳が高く積み上げられていた。黒門の周辺は弾痕だらけで、樹木はことごとく折れ、焼け野原が見通せた。
官兵の死体は迅速に運び出されているが、彰義隊戦死者は放置のまま。軽装の隊士が多い。そうした死体に合掌する僧の姿もあった。両軍とも武器はほとんど残されていない。
予想以上にかたづけられていた。清掃する市民の姿もある。戦場見物にやってきた連中はもっと多い。江戸市民は好奇心が強い。押し寄せる見物人を目当てに商売する握り飯売りまで出ており、当然のごとく火事場泥棒も少なくない。荷物をかついだ市民があちこちで走り回り、官兵がそんな市民を怒鳴りつけ、威嚇射撃の発砲音も響いた。
円鬼はしかし、物見遊山ではない。総将府とはどのあたりなのだろうか。寛永寺本坊の近くにも隊士の死体が転がっている。森兄弟の死体があるかも知れぬと恐れていたが、彰義隊の死体はどれもおびただしい創傷があり、顔の判別もままならなかった。出血はさほどでもないので、死体を切り刻んだのだろう。
「何が官軍だ。死体を切り刻むなんざ、人の所業じゃねぇ」
円朝は吐き捨てた。
最盛期には隊士三千といわれた彰義隊だが、開戦当日には外泊や脱走で千人ほどしか上野にいなかった。うち戦死者はおよそ二百。
谷中門を出て、天王寺へと向かい、諏訪の台から坂を下りると、川っ淵に死体が重ねてあった。赤い錦の肩章をつけた官兵である。酸鼻をきわめる彰義隊隊士の死体に比べ、こちらの死体は傷が少なく、きれいだった。
根岸へ出ると、住民は立ち退いているので、人影はない。食欲はなかったが、茶くらい飲みたかった。しかし、商店もやっていないので、二人は重い足取りを引きずり、帰宅した。
夕刻近くになって、みすぼらしい二人の男が円朝宅へ現れた。
「我ら彰義隊です」
いずれも法被に股引という職人風に急ごしらえして、刀も持っていない。敗走の途中らしい。それにしても態度が大きい。
「松居計三郎と富蚊一衛門と申す。円朝師匠、こちらに月岡芳年の女弟子がおりますな」
「お尋ねの女弟子は今、師匠と一緒だ。まもなく戻ると思うが、お手前方、人探しよりも早いとこ逃げた方がいいぞ」
と、円朝。
「いや。人探しではなく、探し物をしている。女弟子から当方に渡してもらいたいものがあるのです」
おや、と傍らで聞いていた円鬼は思った。芳年のところでも耳にしたようなセリフだ。あの時は官軍が「探し物」をしていたが。
「何だい、そりゃ」
円朝の問いに、
「知らぬ方が身のため。そういう品」
「うへ。なにやら剣呑だな。何故、女弟子がそんなもの持ってるんだ?」
「輪王寺宮は芳年をお召しになり、肖像をお描かせになっていた。彰義隊の頭目である天野八郎殿でさえ宮様のお顔を知らなかったというに、畏れ多いことよ。で、輪王寺宮はある品を上野に置いておいては危険と判断され、芳年に預けた。だが、その後、芳年のところにない。芳年は上野へ来る時にはいつも弟子を伴っていた。その中に美女がいれば、目を引く。赤穂藩の保守派重臣の娘だと評判だった。その娘がこちらにいることは承知している。芳年からその品を預けられている者がいるなら、他の誰でもあるまい」
環がそういう身分であることは意外でもないが、言葉の端々がどうも気になる。彼らの求めるものが何なのか不明だが、口ぶりでは、芳年から聞いてきたのではないらしい。芳年のところにその品がないことを知っているのは、以前に芳年宅を捜索した官軍であって、彰義隊ではない。それに、どうして環が円朝宅にいると知れたのか。円鬼は、今日会った芳年が弟子の一人の行き先が不明だといっていたのを思い出した。
「まあ、その女弟子が戻るのを待ちねぇ。腹減ってないかね。飯でも食ってなさい。面倒だ。客じゃねえんだから、お勝手で食うがいいや。円鬼よ、お二人を案内して差し上げろ」
彼らを台所の板の間へ通し、食事させる間に、円鬼は二階へ上がり、前夜からかくまわれている金田一家に声をかけた。
「今、彰義隊の生き残りが来ているんですが」
金田の子息は開戦前に上野に出入りしており、彰義隊に友人が多い。
「松居と富蚊と名乗っています。御存知か」
「どこの隊か不明だが、隊長と呼ばれる彰義隊隊士が、吉原で薩長の連中と同席していたという噂がある。そいつの名前が松居と……聞いた気がします」
確証はない。しかし、円鬼は性格が悪い。彰義隊の生き残りと自称する連中など簡単には信用しなかった。
台所へ戻ると、二人の「生き残り」はまだ飯を食っている。そして、円朝が彼らの傍らで茶を飲んでいた。酒でないのは、この師匠もまた彼らを信用していないからである。円朝と円鬼には相通じる師弟の呼吸というものがある。
「それにしても、派手に負けたなア」
と、円朝があきれたようにいい、松居が仏頂面で応じた。
「官軍のアームストロング砲など不忍池に砲丸を落とすばかりだったし、斬り合いなら彰義隊有利だった。しかしな、昨日の昼頃、激戦の最中に上野の新門を入る会津の旗を掲げた軍勢があった。援軍と思いきや、磨鉢山あたりに来ると突然長州の旗を揚げて、頑強だった黒門口を内部から攻撃した。それが総崩れのきっかけだ」
円鬼はつとめて明るく訊いた。
「お手前たちは上野のどこらあたりを守っておられましたか」
「『例のもの』を渡してもらいに来たのだから、総将府に決まっている」
総将府は輪王寺宮が起居する場所である。
「総将府の守りに森研太郎と俊平という兄弟がいたと思いますが、安否を御存知ありませんか」
松居と富蚊の顔色が変わった。
「知らん。混乱していたからな。敗戦の修羅場だった」
「その修羅場を生み出したのはお手前たちでは?」
「どういう意味か」
「裏切者というか間者というか、官軍の内応者がいたそうですからね。そいつらが偽の会津軍を手引きしたんでしょう」
「貴様。我らが裏切者と申すか。聞き捨てならん」
「聞き捨ててもらわなくていい。芳年師匠の弟子が帰らない。おおかた、拷問でもして、ここに女弟子がいることを吐かせたのだろう」
「お、おのれ!」
刀があれば抜いただろうが、丸腰の松居は円鬼を殴りつけようと襲ってきた。次の瞬間には縁側まで投げ飛ばされている。円鬼はその胸倉を踏みつけ、袂から財布を奪った。
「おや。官軍総督府のどなたかの書き付けが入っている。この者、通行自由という内容だ。そりゃそうだ。本物の彰義隊と間違われて、残党狩りにあってはたまらんからなア」
富蚊と名乗った男は椀や箸を投げつけ、逃げようとした。裸足で土間へ飛び降り、台所の包丁を取り、構えた。
「寄るな!」
勝手口へと向かい、
「ただいま戻りました」
と、ちょうど入ってきた環とぶつかった。彼女の首に腕を回し、包丁を突きつけた。
「寄るな。この女を……」
悲鳴をあげたのは男の方だった。環が富蚊の腕をつかみ、奇妙な形にひねった。包丁が落ち、男は一回転して土間に叩きつけられた。素早く包丁を拾ったのは見上げた闘争心だが、環の動きはもっと迅速で、竈の脇からつかんだ薪で富蚊の頭を一撃した。どさ、と男は倒れ、もう動かない。
「あ。どうしよう。殺しちゃった」
円鬼が覗き込むと、息はしている。
「死んではいない」
もう一人の松居はさっきまで呻いていたのだが、見ると、息絶えていた。気絶しているうちに窒息したらしい。いい気分ではないが、誰もあわてふためいたりしなかった。死体に対して鈍感になっている。
「物置にでも放り込んでおけ」
円朝がいうので、富蚊に猿ぐつわを噛ませて縛り上げ、松居の死体と一緒に物置へ押し込んだ。
円鬼はあらためて環を見やった。女にしては肩の筋肉が発達しているが、華奢なお嬢様にしか見えない。
「しかし、環さん、強いな。よほどの武門のお家か」
「父は小姓組組頭。江戸藩邸剣術指南でもあります」
「そのようなお嬢様が絵師や噺家と生活をともにしていてよろしいのか」
「私は藩主奥方様のお側に仕えていましたが、その奥方様も赤穂へ移られました。私が藩邸にいても、降るような縁談がわずらわしいだけ」
「なるほど」
円鬼にはそういうしかない。
やがて足留めを食っていた弟子たちも円朝宅に戻ってきた。円朝は無事を喜び、
「台所がちとばかり散らかってるが、かたづけてからメシ食え」
ここで死体が作られたなどとおくびにも出さず、円朝は弟子たちに台所を使わせた。
「さてしかし、あの厄介なもの、どうするかな」
円朝と円鬼、環の三人で思案したが、答は向こうからやってきた。夜になって、月岡芳年が三人の男を連れて現れた。いずれも薄汚れた町人の身なりだが、疲労のためか、目元がどす黒い。ただ眼光は鋭かった。
円朝は彼らの正体を直感したのか、環と円鬼以外の弟子たちを彼らの部屋へと追い払い、無用な接触をさせなかった。
「彰義隊の生き残りだ」
と、芳年が紹介し、男たちは名乗った。
「下呂三太夫と辺間十四郎、それに張子登左衛門と申す。会津の者だ。輪王寺宮は会津藩公用人とともに落ちのびられ、我らはその使いで……」
「輪王寺宮からの預かり物を取りに来られたか」
と、円朝。
「お。どうしてそれを」
「このお三方、間違いないんだろうな。夕刻近くには裏切者どもが現れたが」
「彰義隊の裏切者か。で、どうした? そいつらは」
「物置に放り込んである。始末に困ってる」
「我らがかたづける」
有難い言葉を聞いた。
芳年が、
「この三人は間違いねぇよ。俺とも見知りの仲だ」
そう請け合うので、円鬼は訊いた。
「お尋ねしますが、森研之助、俊平を御存知か」
「総将府の守りについていた兄弟だな。二人とも錦ぎれ取りの名人だった」
官兵を襲い、錦の肩章を奪うのである。開戦前から彰義隊隊士は江戸市中でよくそれをやった。
「戦いの最中に姿を見ているが、安否はわからぬ。おぬしの知り合いか」
「兄と弟です」
「そうか。落ちのびた者も大勢いる。官軍は彰義隊が必死の抗戦をせぬよう、根岸口から三河島方面に脱出口をあけていやがった。むろん、敗走する者を捕らえる網を張って、だが」
敗軍の生き残りはどこか自虐的だ。
「本営の壁に幹部の姓名一覧表を張っていたため、それを戦闘後の残党狩りに利用されているらしい。間抜けな話よ」
環が掛軸の桐箱でも入っていそうな風呂敷包みを運んできた。男たちは恭しく、それを受け取った。
「一体、そりゃ何だ?」
と、円朝。
「あとで、芳年殿か環殿から聞かれるがよい。さて。残る問題は物置の裏切者だ」
「一人は生きている。どうしたものかな」
「知れたこと」
彼らを物置へ案内した。松居と富蚊と名乗った裏切者が転がっている。まだ生きていた富蚊は猿ぐつわの下で悲鳴を絞り出した。生き残り隊士によって、彼の首に紐が巻きつけられた。出血を避けるために絞殺を選んだのだろうが、富蚊はもがきながら盛大に脱糞した。
「これは……血よりも後始末が大変になってしまいましたな」
生き残り隊士は恐縮し、芳年と円朝はこの殺人現場を熱心に観察し、円鬼はここを掃除するのは弟子の役目だからうんざりしていた。環は物置の外に逃げてしまった。
隊士は死体となった富蚊を縛り上げていた縄を解いた。
「われらがそこらの堀にでも放り込んでおきましょう。死体など珍しくもない。官軍も気に留めまい」
「それから、お手前方、どうなさる?」
と、円朝。
「品川から海軍の船に乗り、奥州へ向かう。随伴する彰義隊隊士は多い。奥羽越の列藩が同盟する北方国家に輪王寺宮を東武天皇として推戴し、京都とは別の朝廷を作ります」
「壮大な計画ですなあ。しかし、三種の神器もなしに天子様即位というのは無理がありゃしないか」
「正統性は三種の神器で担保されるわけではなく、肝心なのは神武天皇につながる血統です」
人間は自分に都合のよい理屈を見つけるものだ。
夜の闇にまぎれ、彰義隊の生き残りたちは二つの死体を荷車に積んで、忍び出た。庭木戸からそれを見送り、円朝、円鬼、芳年、環の四人は台所の板の間でへたり込んだ。
円朝が尋ねた。
「環よ。あの張り切ってる連中に渡したのは何なんだ?」
答えてもよいか、という顔で、環は芳年を見やった。頷いたので、答えた。
「錦旗です」
「きんき? アレッ。錦の御旗は薩長の看板じゃねぇのか」
「錦旗は官軍のあかし。ところが、輪王寺宮もまた錦旗を保持しておられました」
「ははあ……。幕府軍がそれを掲げれば、東武天皇の官軍というわけか」
「その錦旗を彰義隊に潜入した官軍の間者に盗み出されたり、戦争で紛失せぬよう、芳年師匠に預けられたんです。さらに念を入れて、私が円朝師匠のお宅に隠したと……そういうことです」
「そのために、この家に権八(居候)を決め込んだのか」
「すみません。円朝師匠にも内緒でした」
ということは、その錦旗を返してしまった以上、環がここにいる理由はもうない。赤穂藩邸へ戻ることになるのだろう。
芳年が、
「環がお世話になった」
そういった。環と円朝一門との別れを予告したようなものである。
「それにしても」
円朝が呟いた。
「今さら錦旗なんぞに御利益があるとも思えねぇ。奥州にそんなもの掲げても、歴史にも残るまい」
上野戦争から半月後、円鬼は四谷にある実家へ足を運んだ。兄弟が皆、家を出てしまえば、住むのは隠居の年齢に近づく父と数人の家臣、使用人のみである。母はすでに他界しており、血縁者はいない。
長い無沙汰だったが、父は歓迎などしなかった。
「どのツラさげて、今頃やってきたか」
遊興の芸に生きるなら勘当、と家を出る時に宣告されている。
「兄と弟の安否が気がかりで……」
「研太郎は落ちのびて、榎本武揚の艦隊に身を投じた。徳川武士が義に生きる道はそれしかない」
「俊平は?」
「上野で戦死した」
「なんと……」
「彰義隊内に裏切者が多く出て、そいつらに撃ち殺されたそうだ」
「そうですか」
円朝宅で殺した男たちがその裏切者ではないにしても、少しは仇を討ったことになるだろうか。どうでもいい。気分は晴れない。
「武士の鑑である兄と弟に比べ、お前は家の恥よ。遠祖は信長公の麾下で『鬼武蔵』の異名をとった武蔵守長可につながるというに……。情けない情けない」
父は舌打ちさえ残して、円鬼の前から立ち去った。円鬼は何もいい返せなかった。気づくと、彼は屋敷の外に出ていた。考えたくないことだが、兄まで戦死したら、この家は終わる。しかし、もはや円鬼には無関係だ。
無性に噺家仲間と会いたかった。会って、自分の居場所を確かめたかった。以後、円鬼は森奇之助という本名の姓を母里と表記することになる。
この日の円朝一門は高座の予定があり、円鬼は肩を落として、日本橋瀬戸物町の伊勢本まで歩いた。彰義隊の悲惨な壊滅からまだ半月だが、客は江戸市民と官軍兵士で満杯だ。江戸市民はあれほど軽蔑した官兵と今や友好的になっている。
「どいつもこいつもあの戦争をもう忘れたのか」
楽屋で憤る円鬼を、兄弟子の勢朝がなだめた。
「おいおい。お客様だぜ。ようこそ、と感謝するのが噺家だ。それによ、忘れられないからこそ、ここへ来て、忘れたいのかも知れねぇ」
そこへ客があった。環である。このところ、芝の赤穂藩邸にいることが多かったのだが、円朝宅に寝泊まりすることもあった。しかし……。
「円朝師匠のお宅を引き払うことになりました。お別れです」
「藩邸へ戻られるのですね」
「はい」
「絵の勉強は?」
「続けるつもりですが、近日中に父とともに赤穂へ移ることになりました」
それではもう会う機会はないだろう。
「その前に寄席を見たかったので、やってまいりました」
「ようこそ。師匠の高座は天下一品ですよ」
「いえ。円鬼さんの高座を。今日は出演されるんでしょ」
「私の噺を聞きに来たのですか」
「ええ」
「じゃあ……お望みの演目がありますか」
「『三年目』を」
「わかりました。工夫のほど、お聞かせしましょう」
不実な夫に聞こえると環に指摘されて以来、憎めない夫と愛らしい妻の表現法を円鬼なりに考えてきたのである。
「私も環さんが成長して描く、師匠譲りの血みどろの絵を見たかったが」
「いずれ機会があるかも知れません」
環は小粒な歯並びをちらりと見せて微笑んだ。初めて見せる笑顔だった。
二人は楽屋と客席に別れ、円鬼は師匠や先輩たちの世話に追われた。近づく出番の緊張とは別の感覚が胸にあった。
「お前、顔が怖いぞ。財布でも落としたか」
師匠の円朝があきれ顔で苦笑した。
出番が来て、高座に上がると、満席の中に環の姿はすぐわかった。一世一代の「三年目」を、三遊亭円鬼は語り始めた。
「先日……人がたくさん亡くなりましたな。男が死んでも化けて出るという話はあまりございませんで、特にお侍はこの世に未練を残さぬことになっております。ですから、お侍が化けて出てきたら、たいした人物ではないわけで、大丈夫ですよ、ちっとも恐いことはありません。幽霊は大抵、女と決まっております。これはもう恐ろしい。しかし、幽霊でもいいから会いたいと思う女の人もね、これがいるわけで……」