鬼鶴の系譜 維新編 第一回

鬼鶴の系譜 維新編 第一回 森 雅裕

 のちに落語界の大師匠といわれる三遊亭円朝に森奇之助が入門したのは慶応三年(一八六七)の初めであった。奇之助は十六歳。八百石の旗本の次男に生まれ、武家の冷飯食いの例に漏れず、家を飛び出して遊芸音曲へと道を踏みはずし、寄席に入り浸っているうちに円朝の弟子となった。

 当時、円朝はまだ二十八歳だが、この男は六歳で初高座、十六歳で真打となっており、すでに江戸の(特に婦人の)人気を独占する売れっ子師匠であった。

 奇之助には最初、円奇の名が与えられた。円鬼と表記をあらためたのは、入門の年の十二月、幕兵による三田の薩摩藩邸焼き討ちがきっかけである。この男、師匠の目前で暴漢を撃退していた。

 焼き討ちは早朝に始まっている。この日、品川で接待を受けた円朝は浅草の寄席に出る予定があったため、不穏な空気の中、帰途についた。途中、薩摩藩邸を脱出した不逞の輩に遭遇した。商家の者が泣き叫ぶのもかまわず、放火しながら逃走する武士数人である。円朝は避けようとしたが、武士の一人が立ちはだかった。

「おい。金だ。金を出せ」

 すでに大政奉還がなされ、幕府が行政権を失った江戸の治安は最悪で、不逞浪士による強盗、殺人が横行している。

 円朝は恐れ入ったりしない。

「へっ。金が欲しきゃ芸のひとつも見せてみな」

「き、貴様あああ」

 刀を振りかぶった武士と円朝の間に円奇が入り、次の瞬間には武士は横転していた。円奇は刀を奪い取っている。それを放り捨て、

「師匠。逃げましょう」

「逃げるこたぁねぇだろ」

 しかし、不逞浪士の仲間の姿が周囲にちらちらと見える。円朝と円奇は駆け出し、喧騒を脱したあたりで、足を留めた。

「円奇よ。お前、柔術の心得があるのか」

「はあ」

 円鬼は幕末屈指の柔術家である鈴木杢右衛門の門下だった。杢右衛門の父清兵衛は起倒流柔術の師範で、その門下には勝海舟、島田虎之助をはじめ、名だたる幕臣が多い。

「よし。お前、円鬼と名乗れ」

 これが由来である。師匠の命名には異を唱えられない。

 年が明けて慶応四年。二月に浅草本願寺で結成された彰義隊が四月には上野寛永寺に移転し、ほぼ同時に江戸城が無血開城。徳川慶喜は水戸へと退去したが、彰義隊は無政府状態の江戸市中取り締まりを名目に活動を続け、「官軍」に反発する旧幕臣を集めて、その数は三千に膨れあがっていた。いずれ衝突は必至。そんな落ち着かない空気の中、浅草裏門代地の円朝宅に一人の娘が現れた。

「環さんとおっしゃる」

 円朝が弟子たちに紹介した。年齢は円鬼と同じくらいだろう。

「芳年の弟子だ。しばらくうちで預かることになった」

 芳年とは浮世絵師の月岡芳年。円朝とは同い年の友人で、のちに無惨絵の描き手として「血まみれ芳年」と呼ばれる異才である。

「よろしくお願いいたします」

 環は丁寧に頭を下げた。

 武家だな、と円鬼は直観した。町娘風につくっているが、所作の端々に育ちのよさが垣間見える。この御時世だから、何かワケありなのだろう。

 もとは札差の隠居所だった円朝宅は広大で、この時期、弟子を含めて十五人が起居する大所帯である。居候が一人増えてもどうということはないが、美女ということになれば少々ややこしくなる。そして、環は美女なのである。

「いっておくが、ちょっかい出す奴がいたら、目ん玉えぐり出してやるからな」

 円朝は七人もいる弟子たちを睨め回した。

 毎日ではないが、環は芳年のもとへ通う。世相が物騒なので、一人歩きさせるわけにいかず、円朝の命令で、円鬼が護衛につくことになった。ていのいい荷物持ちである。環が芳年と取材などに出歩く時には、荷物も二人分となる。

 月岡芳年は円朝と雰囲気が似ている。知的だが偏執的な力が目に宿っており、芸道の人間というより学究者のようである。

「円鬼さん。あんたも絵を描いてみなさい。円朝師匠もなかなかの画才をお持ちだよ」

 円朝は少年時代に歌川国芳に入門しており、絵師を志したこともあるくらいである。

「芸の道には相通じるものがあるはずだ」

 芳年はそんなことをいい、円鬼に道具も使わせてくれた。

「花鳥風月などつまらない」

 気乗りしない円鬼がそういうと、

「では、人間をお描きなさい」

 と、環が応じた。言葉に挑発するような響きがあった。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 円鬼は環を睨みながら、彼女の姿を描き始めた。芳年も環も文句はいわなかった。

「絵に大切なものは何です?」

 円鬼が問うと、環は、

「まず見たまま正確に描く目。そして感じたことを表現する腕。でも、一番大切なのは愛情です」

 平然とそんなことをいった。なんだか馬鹿にされているようである。

 芳年は円鬼を気に入ったらしく、

「円鬼さん。私の弟子として画号をあげようか。芳鬼なんてどうだ?」

 と真顔で持ちかけたが、円鬼は即答した。

「いりません」

 芳年の弟子は数人いたが、女は環だけである。彼女は画号を芳栄という。師匠である芳年の血なまぐさい画風に女弟子は似合わぬ気がするのだが、環の絵の癖は芳年によく似ている。しかし、円鬼が見た範囲では、常識的なおとなしい画題しか描いていない。

「環さん。血みどろの絵は描かないのですか」

「私の歳でそんなもの描いたら、父から叱られます」

 環の言葉は江戸娘だが、かすかに西国の訛りがある。

「歳をとったら描くのですか」

「そのためには修羅場というものを見なければ……」

 そんなものは見て欲しくないと円鬼は思ったが、口に出さなかった。

 五月初め、彼らは上野の彰義隊を取材して回った。ここはもはや軍事施設なので、何者か何用かと誰何してくる隊士もいたが、芳年の顔を見るなり、

「あ。芳年先生」

 と、最敬礼で通行させてくれる隊士もあった。

「顔見知りなんですか」

 円鬼が尋ねると、芳年はどことなくのんきな声を返した。

「絵を描くために何度も通ったからなア。主立った隊士の姿絵も描いている」

 絵師は戦場の記録係だともいえる。芳年はこの年、上野戦争に取材した「魁題百撰相」を発表することになる。

 彰義隊の身なりは水色の打裂羽織に白い義経袴、下駄履きが基本で、刀の鞘は朱塗り。見た目重視で、戦闘服といえるようなものではない。江戸市民の目には、野暮な洋装の官兵などとは比較にならぬ洒落者に見える。しかし、旧暦五月はもう夏なので、自慢の羽織を脱いでいる者も多い。

 彼らの様子など写生していると、

「おい。薩長の偵察ではあるまいな」

 冗談半分で声をかけてくる隊士もいたが、きびしく追及されるでもなく、芳年を絵師だと知ると、

「俺を描け」

 と寄ってくる有様だった。

 そんな隊士たちの中から、

「森! 森奇之助ではないか」

 大声をあげた者があった。旗本の冷飯食い仲間で鯉墨寿士郎といい、円鬼にとっては鈴木杢右衛門に柔術を師事した同門だった。

「お前、噺家の弟子になったと聞いたが……のんきに絵なんぞ描きながら物見遊山か」

「さて。噺家も絵師ものんきとは限らんぞ」

「恥ずかしくないか。お前の兄と弟は彰義隊に参加しているぞ」

「何だと」

 家族とは絶縁状態だから、知らなかった。兄は研太郎。弟は俊平。森家の嫡男である研太郎は十九歳だが……。

「俊平は十四だぞ」

 彰義隊には十五歳以上という年齢制限があるはずだ。

「歳をごまかしたのさ。見上げた根性ではないか」

「どのような役目についているのか」

「二人は総将府の守りだ」

「総将府とは?」

「輪王寺宮の御座所だ」

 輪王寺宮公現入道親王は伏見宮邦家親王の王子で、仁孝天皇の猶子。上野寛永寺に入り、寛永寺貫主、日光輪王寺門跡を継承した。この輪王寺宮の擁立をもって、彰義隊は「我らは逆臣にあらず。朝廷の臣下である」という正当性の根拠としたのである。

「兄と弟に会っていくか」

「いや……。いい」

「合わせる顔がないか」

 鯉墨は鼻を鳴らして笑い、今度は矛先を環に向けた。

「おい。そこの女。何を描いてる」

 環はこの男の方を向いて、画帖を広げていたのである。

「彰義隊の豪傑です」

「見せろ」

 大小を差した金太郎のような侍の絵だった。勇ましいが、それより何より滑稽である。しかし上手い。絵手本とされた鯉墨は怒るべきか笑うべきか迷ったようだが、結局は怒った。

「何だ何だこれは……」

 怒鳴りかけたが、それより早く、

「この未熟者!」

 芳年が画帖を取り上げた。

「豪傑というのはな、むさ苦しく描くもんだ。こう、ヒゲの中に目玉があるように、だ」

 自分の筆でぐちゃぐちゃに描きつぶしてしまった。加筆の前よりも醜悪な侍の絵になった。

「どうだ。ずっと様子がよくなったろう」

 それを得意気に鯉墨の鼻先に掲げた。鯉墨が唖然としている間に、芳年は環とともに歩き出している。円鬼もあとを追った。

「環さん。愛情なく描くこともあるらしいな」

「怒りや恨みも芸道には必要でしょ」

 環は涼しい顔で、いった。
 

 京橋桶町の芳年宅へ戻ると、ここも剣呑な空気だった。

「錦切れが来ています」

 土間の入口で、出迎えた芳年の弟子が耳打ちした。「錦切れ」とは官兵が肩につけた錦の布のことで、彼らの蔑称でもある。

 奥の座敷に、官軍の兵士たちが十名以上、土足で上がり込んでいた。家具調度はひっくり返されている。

「屋敷に土足で上がるのが西国の礼儀かよ」

 芳年が抗議しても、指揮官らしい男は仁王立ちの姿勢を崩さない。

「探し物をしている」

 天井裏や床下も覗いて回ったようだ。

「押し込み強盗と変わらねぇじゃねーか。何を探してる?」

「お前がさるお方から預かったものだ」

「そんな大層な絵師じゃねぇんだがな、俺は」

「とぼけるな。貴様、上野に出入りし、輪王寺宮の肖像を描いていたな」

「ほお。よく御存知だ。彰義隊には官軍の間者が大勢潜入しているという噂は本当らしいな。するってぇと『さるお方』とは輪王寺宮のことか。隊士たちを描いているうちに、お声がかかってな。自分の姿も描けという畏れ多い仰せだった。……で、探し物は見つかったのか」

「屋敷中ひっくり返したが、見つからん」

「では、どうする? 拷問でもするか」

「たかが絵師を痛めつけて、官軍の評判を下げようとは思わん」

 というより、今ひとつ確証がないのだろう。

「じゃ、掃除して帰ってくれるか」

「掃除はしない」

 あたりを散らかしたまま「錦切れ」たちが引き上げると、環は台所から塩を持ち出してきて、土間に撒いた。
 円鬼は芳年に尋ねた。

「芳年先生。奴ら、探し物とかいっていましたが……」

「ふん。長州の大村益次郎とかいう男が田安亀之助(のち徳川家達)に対して、上野にある将軍家の位牌、宝物を開戦前によそへ移すよう忠告したという話だ。何かしら宝物が流出しているわけだな」

「それがここに?」

「ないから、あの錦切れは手ぶらで帰った」

「じゃあ……」

「そんなことより円鬼さん、掃除を手伝ってくれ」
 芳年の家の者たちと手分けして家財を整頓し、畳や床を掃き、雑巾がけを行う。

「やれやれ。そこら中、ぶちまけやがって……。お、これは無事だ」

 芳年は箱に入った菓子を円鬼に差し出した。

「食うか。環の地元の饅頭だ」

 上品な饅頭である。白い皮は米粉だ。

「赤穂の塩味饅頭ですね」

「おや。よく御存知だ」

「私の遠祖は赤穂から出ています」

「ほお。赤穂城主は森家ですな。円鬼さんと同じ姓だ。御実家はその一族か」

「支流のそのまた支流ですよ。一族と呼べるようなものじゃありませんが、赤穂には今も親類縁者がおります」

 円鬼は環を見やった。

「環さんは赤穂の出か」

「ええ」

 すると、赤穂藩士の娘なのか。江戸詰めの藩士はほとんど単身赴任なので、娘や家族を江戸に置ける藩士は限られる。

 環はそれ以上語らず、円鬼も尋ねなかった。

 赤穂藩は安政以来、保守派と革新派が激しく対立し、藩主森忠典が病身だったこともあって、藩内は分裂したまま戊辰戦争を迎えている。とりあえず、生き残りのため官軍側に恭順を示してはいるが、戦争は赤穂を通り越してしまい、赤穂の藩兵が最前線に投入されたことはない。環の親が赤穂藩士だとしたら、どちらの陣営に属するのか。江戸っ子の円朝や芳年が迎え入れているのだから、当然、幕府側つまり保守派だろう。

 将軍家のお膝元を自負していた江戸市民は田舎者の「官軍」を軽蔑し、彰義隊贔屓である。遊郭では「情夫に持つなら彰義隊」が遊女の流行となっている。上野戦争の戦端が開かれた五月十五日には隊士の半数が遊郭や自宅にいて、開戦に間に合わなかった。官軍側が流した十七日開戦というデマを信じ、隊士は暇乞いのために上野を離れていたのである。こうしたデマの出所は遊郭と決まっていた。

 五月初めに東北の入口である白河で、会津藩、仙台藩を中心とする幕府軍は惨敗しており、時局は大きく官軍側へ傾いている。関東の幕府軍は孤立しつつある。なのに、彰義隊には危機感が足りなかった。

 また、十四日に大総督府から彰義隊討伐令が発せられ、これを知った隊士の多くが脱走したともいう。いずれにせよ、寄り合い所帯である彰義隊は統制がとれていなかった。

 官軍は十四日の夜から見附や主要な橋の守りを固めていた。そのため、日本橋瀬戸物町の寄席、伊勢本に出る予定だった円朝も通行できず、やむなく帰宅した。伊勢本に先乗りしていた弟子たちは足留めを食い、戻ってこれない。

 円鬼は円朝に付き添っていた。 

「いよいよ始まるぞ」

 帰宅して、環に声をかけた。この娘は台所を手伝っていた。

「様子見て来ようかしら」

「戦争が気がかりか」

「いえ。気がかりなのは芳年先生です」

「なるほど。戦争見物に出かけそうな絵師だからな。しかし、あなたが出かけると、今度は円朝師匠があなたを心配することになる」

「そうですね」

「気晴らしに私がお笑いを一席やりましょう。聞いてください」

 円鬼は環の前で「三年目」を語った。夫婦愛と女心を題材とした幽霊話である。

「悲しい噺ですね」

「そうですかな。夫婦が死に別れるのは悲しいかも知れないが、それを笑いにするのが噺家です」

「いえ。妻の死後、再婚はしないと誓った夫がその約束をやぶることが悲しいといっています」

「それは……」

「円鬼さんが演じると、不実な夫に聞こえます。もっと工夫することです」

 何もいい返せない円鬼を置き去りに、環は丁寧に頭を下げ、退室した。

 この日、円朝宅の者たちは息をひそめるように夜を明かした。このところ、連日の雨である。夜の闇の中に雨音が聞こえていた。

 翌十五日。早朝に轟いた官軍の砲声を合図に戦闘が始まり、市民は戸を閉ざして時の過ぎるのを待った。

 円朝宅の者たちは二階の屋根上から上野方向を見ていた。雨天だが、さかんに煙があがっている。砲声も聞こえた。

「江戸を火の海にするほど官軍も彰義隊も馬鹿じゃねぇよなア」

 円朝が呟いた。江戸市民が彰義隊贔屓といっても、戦争するなら上野の山内に限ってもらいたい。それが本音だ。

 彰義隊に勝算などない。焦土作戦で江戸を焼き払う覚悟なら官軍も手こずるだろうが、江戸を守る建前の彰義隊にそんなことはできないし、市民の支持も得られない。

 夕刻には趨勢が決し、彰義隊は根岸口から三河島方面へ敗走した。

 そして、小雨の降り続く深夜に円朝宅の庭木戸を叩く者があり、円鬼が用心深く、

「どちら様で?」

 尋ねると、

「下谷広徳寺前の金田と申します。円朝師匠も御存知の者です」

 枝折戸を開けると、武家の一家だった。両親と子供たち、五人である。昔、円朝の母が奉公した旗本で、彰義隊とは無関係なのだが、隊士に知己が多かったため、官兵による残党狩りに巻き込まれるのを恐れ、避難してきたという。

 円朝の母が世話になった旗本となれば無下にもできない。彼ら一家を二階にかくまうことになった。

 戦争の翌朝、ようやく伊勢本から戻った弟子のぽん太が、町の様子をもたらした。

「柳橋は落ちておりますよ。官軍が薪を山積みにしてね、火をつけて落とそうとしたのを、そんなことされちゃあ付近一帯が類焼するってんで、鳶頭が火消人足を連れてきてね、手道具でさっさと落としちまったんだそうで」

 与太郎を地で行くようなぽん太は他の弟子たちが止めるのをきかずに浅草見附の官軍見物に出かけ、大木戸の門番に「師匠宅へ戻りたい」と願い出た。捕らえられたが、官軍の中に円朝の名前を知っている者がいて、その弟子だというので放免してくれたのである。

「ふん。官軍にも俺の名前が知れているか」

 円朝は弟子たちの無事を知って、胸を撫で下ろした。残党狩りが行われているので、気軽に外出できない状況には変わりない。だが、

「出かけるぞ」

 円朝は身支度した。戦争を題材にした噺を創作するための取材である。この好奇心は月岡芳年と同類だ。ただしかし、円朝は芸人らしい半髪ではなく大髻を結っており、一見は寺侍のように見える。いらぬ誤解を招きそうな身なりである。

 もちろん円鬼が同行した。そして、環も。

「やめた方がいいと思うが」

「修羅場を見るのも絵の勉強です」

 官軍に因縁をつけられぬよう、円鬼と環は「円朝」と染め抜いた印半纏を着込んだ。