骨喰丸が笑う日 第二十九回

骨喰丸が笑う日 第29回 森 雅裕

「意味不明と申し上げたけど、実は重大な意味がございましてね」

 富賀は声をひそめたが、今にも歌い出しそうな勢いだ。

「へええ」

 絵衣子は一応、空とぼけることにした。

「芝浜さんの著書にはそんなことまで書いてあるんですか」

「いえいえ。著書じゃないです。私がブラントンから直接聞いた話です」

「さぞかし記憶に残る美少女だったんでしょうねぇ」

 絵衣子は吐息混じりに唸った。

「憧れるなあ」

「その少女がどうして病院にいたのか、気になりませんか」

「別に」

「あのですね、産婦人科です。出産です。内緒で出産するためオーストラリアへ行ったのでしょうに、逆に証言者を作ることになってしまったという、まあ皮肉ですわね。ほほほほ」

「似ていただけでは? 外国人の目には日本人の顔は区別しにくいこともあるかと思いますが」

「残念でした。人違いじゃないです。ブラントンは音楽学校の文化祭のパンフレットでその少女の名前を確認しているんですから」

「文化祭を見に行ったんですか。よほどの宝塚ファンですね」

 音楽学校文化祭のパンフレットには本科生全員の顔写真が本名とともに掲載される。芸名はまだない。宝塚歌劇団では生徒(劇団員)の本名は公開していないが、音楽学校時代にさかのぼれば、知ることはできるのである。

「その昔、赤穂の刀鍛冶に宝塚好きがおりましてね」

「才藤兼景さんですか」

「はいはい。兼景さんはね、芝浜さんの弟子に研ぎの練習刀を提供していたんです。高価な日本刀を練習に使うわけにいきませんでしょ。ですから、キズが出て廃棄するような刀を使うんです。その兼景さんがブラントンを宝塚に誘ったんです」

 兼景は音楽学校に自分の娘がいることを知っていたのだろうか。高校生だった小浪聖菜が宝塚に入って華斗詩音となったことは、彼女と絶縁しても容易にわかるはずだ。そして、彼女の「姪」が長じて「叔母」と同じ道へ進んだことも知り得る。兼景にも想像力はあるだろうから、素直に姪と叔母だとは信じるまい。

「で、その文化祭パンフで確認した生徒の名前が誰だったのか、もういうまでもありませんわね」

「そもそも本当の話かどうかもわかりませんし……」

「根拠のない誹謗中傷で人生を狂わされることは、今のネット社会では珍しくもありませんよ」

「あれえ。つまり、私が骨喰丸を桜星美術館に貸さなければ、宝塚歌劇団のどなたかが人生を狂わされるとおっしゃるんですか」

「そんなあなた、下品な物言いは、清く正しく美しくのモットーにそぐわないですわね」

「あ、それはですね、正確には、朗らかに清く正しく美しく、です。あはははは」

 絵衣子は富賀のような俗悪な人物を見るのは初めてで、面白くなってしまい、声をあげて笑った。

「何かおかしいですか」

「笑顔が私のお仕事です」

 絵衣子はテーブルにコーヒー代を置き、にこやかに立ち上がった。

 

 別に頼んだわけでもないのに、芝浜天平という研師の著書が郵便で父から届いた。晩年の回想録で、ブラントンという弟子の存在も書かれていたが、オーストラリアの病院や宝塚音楽学校文化祭の件は触れていない。芝浜の研師人生とは関係ないのだから、それは当然だ。

 富賀の脅迫めいた「ブラントンから聞いた話」の真偽は不明だが、何もないところから出て来る話でもない。とりあえず、絵衣子にしてみれば、富賀の今後の出方を見るしかなかった。

 東京宝塚劇場での他の組の公演が千秋楽を終えると、次の花組公演の準備が始まる。絵衣子はロビーに据えられたガラスケースに自らの手で骨喰丸を飾りつけた。

 そこへ周囲の劇団関係者の最敬礼をかきわけ、貫禄ある中年男が近づいてきた。

「注目されているようじゃないか、この短刀」

 理事の門馬響太郎だった。小浪鏡子の戸籍上の父親。地位ある人物だけに悠揚迫らざる立ち居振る舞いだが、容姿も背丈も普通。鏡子がDNAを受け継いでいるとは思えない。

「どこかの美術館も展示したがってるって?」

「はい。お断りしましたけど」

「それで向こうは素直にあきらめたの?」

「さあ。どうでしょうか」

「君は舞台小道具の授業で刀の扱いに慣れているところを見せて、一目置かれたんだよなあ」

「好きで慣れたわけでもないですが」

「ははは」

 門馬が笑った一瞬の隙に、絵衣子は質問を投げた。

「鏡子も持っていますよね。さかなかげ……という短刀」

「かねかげ、だろう」

 門馬は反射的に応えた。これで、倚門而望の短刀の持ち主がわかった。絵衣子は親友の誕生日くらい覚えている。といっても、記憶力には難がある絵衣子のことだから「誰かが五月五日生まれだったなあ、ええとええと、あ、鏡子だ」という程度の認識だったが。

 絵衣子は目の前の理事に対して、鏡子が立夏の頃の生まれであることに言及するのは控えたが、門馬は口を滑らせたことに気づいたらしく、鹿爪らしい口調で、取り繕おうとした。

「父母に恩を感じないなら、汝の友となる者はいないだろう……。ソクラテスの言葉だがね。鏡子はいい友達を持ったね。つまり、父母に恩を感じているというわけだな。私は完璧な人間じゃないが、欠点を持つことは偉大な人の特権なんだ、うん」

「そうですね」

 門馬のいう「父母」は養父母つまり自分を指しているようだが、絵衣子にはそう相槌を打つしかない。しかし、門馬と別れると、一気に疲労が両肩にのしかかった。

 

「骨喰丸が笑う日」の原作では幕末から昭和へと時代の流れとともに主人公が入れ替わるが、舞台では幕末中心の物語に抄出され、さらに原作では源清麿よりも固山宗次が主人公なのだが、舞台演出では世俗の人気を優先し、清麿を主人公に変更している。

 新人公演でこの清麿を演じるのが夏門みつ希こと小浪鏡子である。彼女が清麿の墓参に行くというので、絵衣子も同行した。絵衣子は映画もカラオケも一人で行く娘で、親友といえども行動をともにすることは多くない。東京の地理にくわしくない鏡子は素直に「行こう行こう」と受け入れた。

「墓参りは故人にあっちの世界に呼び込まれるからやたらと行くべきじゃないという人もいるよ」

 と、絵衣子。

「それ、あなたのおとうさんでしょ」

「否定はしない」

「でも、私が新人公演で清麿役をやると知って、資料を送ってくれたわよ」

「あいつ……」

 鏡子は数少ない母里音平の愛読者で、絵衣子の仲介で面識もある。

「あいつさあ、好意を示してくれる人は珍しいから、サービスするのよ。そして裏切られるたび、人間嫌いになっていく」

「うわあ。サービスされる方も責任重大だな」

「資料なんかよりもさ、刀作りをトンカンやる場面に限らず、刀鍛冶らしい所作とか、演技にはそっちが重要だよね。佑里の彼氏ともっと早く知り合っていればよかったけど」

「ああ。徳志さんは大劇場の新公を見てくれたらしくて、あの場面はこうした方がいいとかアドバイスくれたわよ。それを参考にして、東京公演では修正する」

「あ、そう。ふーん」

 佑里の姫路の入院先で会ったあとも彼と連絡を取り合っているらしい。

「業務上のやりとりだけだよ」

 言い訳めいた鏡子の口調に絵衣子は一瞬だけ作り笑いを投げた。

「いや。私は別に何もいってない。いいたいことはあるけど」

 信濃町駅からは徒歩だ。絵衣子の方向感覚はいささか特異で、初めての場所でも地図もなしで直行できる才能を持っている。迷うことなく戒行寺坂へ到着した。坂の上の宗福寺には、本堂から墓地へつながる入口に清麿だけでなく水心子天秀(正秀)と正次の墓碑、それに昭和の愛刀家の墓碑も並んでいる。

 こんな時のために普段から用意している五円玉をそれぞれの碑の前に置き、あとからやってきたカップルに譲って、その場を離れた。

「お賽銭は五の倍数というけど、墓前に置くのもそれでいいのかなあ」

 鏡子は首をかしげたが、絵衣子は頓着しない。

「もう神様みたいな人たちだから、いいんじゃない?」

 寺門の脇では清麿墓所の案内板に若い娘たちが見入っている。およそ勤め人にも学生にも見えない絵衣子たちと視線が合うと、逃げるように会釈した。

 鏡子は悠然と会釈を返しながら、呟いた。

「清麿って、刀剣女子に人気あるのね」

「腕は固山宗次の方が上だと母里さんはいってたわよ」

「世間は波乱の人生を面白がるからね。しょせん他人の人生だもん。……母里さんって、父親をそんな呼び方するなんて、悲しいね」

「時々。気分による。でも、あなたも母親を血縁関係では叔母さんと呼び、職業上では組長さんとかセナさんとか呼んでるじゃない」

 セナは華斗詩音の本名・小浪聖菜の愛称である。しかし、鏡子はそんな話題には乗らなかった。

 寺の外に出ると、鏡子は坂道を見回した。

「於岩稲荷がすぐそこらしいから、お参りしていこうか。芸能上達の御利益があるっていうし。絵衣子、わかるよね」

「たぶん、あっち」

 勘を働かせ、住宅街を歩き、路地をはさんで向かい合った二つの於岩稲荷……陽運寺と田宮神社を参拝した。ここでも賽銭箱に五円玉を入れた。

「於岩稲荷って、お寺と神社と二つあるとは知らなかったわね」

 と、鏡子。

「何事も現場を見なきゃわからないってことかな」

 と、絵衣子。いいながら、鼻持ちならない言葉だなアと自己嫌悪さえ覚えた。

 神社では、拝殿の脇に言葉守が「今のお気持ちに合う札を一枚選んでお持ち帰り下さい」と百枚近く重ねてあり、宮司の筆なのか、一枚ずつ異なる箴言が手書きされている。

 鏡子はどんな言葉を選んだのか、見せてくれなかった。絵衣子は「我が子 羽ぐくめ 天の鶴群の如く」と書かれた一枚を抜き出した。

「天の鶴群って宝塚っぽくない?」

 と、その札を鏡子に示すと、ようやく彼女は話題を思い出したようだ。

「御免。さっきは何の話だった?」

「組長さんはあなたの叔母さんじゃなくて母親だと」

「あらまあ」

「あのさ、組長さんが高校生の時にオーストラリアで出産したことを知ってる人がいるのよ」

「女子高生を妊娠させたら、それはもう犯罪だよ」

「犯罪者は兼景さん。生まれた子供のために倚門而望の刀身彫りがある短刀が作られた。その子の誕生日は立夏の頃。あなた、五月五日生まれだよね」

「サスペンスドラマなら殺人の動機になりそうなスキャンダルだねぇ」

 境内から路地へと歩き出す。鏡子はのんきな足取りで、芝居関係者や小説家の奉納者名が彫り込まれた玉垣を見やりながら、いった。

「音楽学校の受験資格に経産婦不可という一項はないけど、そんなの問題外でしょ」

「出産の事実は転籍すれば新しい戸籍になって、記載されない。古い戸籍には残るけれど」

「私は組長さんの姉の養子になったと……。なるほど。あなたも養子だったわね。でもさ……」

 鏡子は早足で歩く絵衣子の上着の裾をうしろから引っ張りながら、いった。

「もし私が自分の生い立ちを知らなかったら、余計なこといえば傷つくとか気を使わないわけ?」

「姫路の病院で才藤徳志さんに会った時、短刀の押形を見せられて、あなたは『さかなかげ』とアホな読み方したじゃない。私はそれがずっと引っかかってた。腹違いの兄である徳志さんの前でわざとしらばっくれたんでしょ。徳志さんはあなたの素姓を知らないようだけど」

「そこまでバレちゃあしょうがねぇ」

 鏡子は絵衣子を追い越し、今度は前から引っ張った。

「中学の時、海外旅行することになって、パスポートを作った。そこで初めて自分の戸籍謄本を見て、民法817条の2による裁判確定日という欄があるんで、何これと思った。すぐには調べもしなかったけど、そのうち、特別養子縁組という意味だと知った。それでも養父母を問い詰めることはしなかった。真実を知るのが怖いというか面倒というか」

「その気持ちはわからなくもない」

「わからなくもない? 絵衣子。自分がフクザツな家庭に育ったからって、他人も同じだと思わないでよ」

「同じじゃないよ。私の場合は普通養子縁組だから実の父母との縁は切れていないし、あの人たちが何か残せば相続も発生する。でも、特別養子縁組だと実の父母との関係は完全に解消される。戸籍では養父母の実子扱いで、続柄も『長女』と記載されるだけ。実の父母の名前も記載されない。それだけ覚悟した上での養子縁組ということになる」

「人生って、一本の糸でつながっているけど、こんがらかっているようなものよね。丁寧にほどかないと切れてしまう。でもね……」

 鏡子は折り畳んでいた於岩稲荷の言葉守を取り出し、絵衣子の眼前に広げた。

「それなりに 尊く高く美しく」とあり、「それなりに」という一文は意味深だが、宝塚のモットー「清く正しく美しく」と同様の言葉が書かれている。

「親がどうであろうと、ジェンヌの根っ子にはこれだけあれば充分」

「ははーっ」

 絵衣子は最敬礼してしまった。

 

 花組の組子たちは東京宝塚劇場で稽古の数日を過ごし、演出の変更などを確認し終えた。絵衣子は稽古場を出たところで、

「絵衣子」

 組長の華斗詩音から呼び止められた。組長は視線で「あっちへ」と指し、廊下の隅まで促された。

「佑里は不安なさそうだね」

 宝塚公演を休演した佑里は東京公演から復帰することになり、稽古にも参加している。

「はい。今日も朝から焼肉弁当食べたそうです」

「あら。私のカツ丼よりいいもの食ってるわ」

「はあ……」

「あのさ。桜星美術館とかの館長という人に会ったわよ」

「えっ。お会いになられたんですか」

「あなたに骨喰丸を貸してくれるよう、説得を頼まれた。いや、脅迫かな。ふふふ。私の弱みを握っているつもりらしいわよ」

「弱みとは……どういうことですか」

「とぼけるな、みやび心華。わが娘から聞いたわよ。於岩稲荷にお参りして、彼女に生みの母が誰かという話をしたんでしょ」

「すみません。干渉するつもりはないんです」

「かまやしないわよ。私はあの子の入団以来、私の娘ですと大声でそこら中に触れ回りたいくらいだったもの。韓非子いわく、父母はたとえ戯れでも子を欺くべからず」

「あ、はい……」

 詩音は本来は男役なのだが、さほど長身でもなく、器用なので女役もこなす。絵衣子よりも少々目線が高いだけだ。

「でもね、私が鏡子に母親の名乗りをあげたのは音楽学校入学の時。合格した時、お祝いをあげた。こういう日のために用意された倚門而望の刀身彫刻がある短刀。御丁寧に制作年紀は彼女の誕生日。そしたらね、あの子は戸籍謄本で自分が養女だと中学の時から知っていたのよ。こんな短刀を渡されたら実父母が誰だか察しがつくよね。はははは」

 詩音は豪快に笑い、廊下の向こうを通りかかる花組の組子が振り返った。

「でも、今さらそんな短刀もらって喜ぶわけもなかった。つまらない常識あるから、あの子。入寮する時、自宅の私物を整理して、不燃ゴミをまとめた中に短刀も入れちゃった。回収日に捨ててくれ、と。入学式のあと、私に報告したわよ。不燃ゴミでよかったんでしょうか、とにかく自分は養父母の長女ですって。泣かせるよねぇ」

 しかし、と詩音の語気は強さと早さを増した。

「人生を戦える身体と環境を与えてやるのが親の責任。鏡子の場合、健康美人は母親のDNA。背が高いのは父親のDNA。養子に入った先ではバレエやピアノの教育を受けることもできた。これ以上、何を望むの。こんなに恵まれて、文句いったら罰が当たるわよ。門馬響太郎は全然スマートじゃないし、離婚して鏡子の養父であることを放棄した人よ。歌劇団の理事という体面が大事で、戸籍上の自分の長女の実母がタカラジェンヌだというスキャンダルに怯える小心者。実父がコンクールで賞も取れない刀鍛冶であることを侮蔑する権威主義。それが門馬さんよ」

「は、はあ……」

「兼景はいい加減な男ではあったけれど、刀作りには手抜きしなかった。幕末に奥播磨で生産された千種鉄、姫路城の昭和の大修理で出た古鉄、そういうとっておきの貴重な鉄を使って鍛え上げた短刀よ。手放すにしてもゴミに出すんじゃなくて換金しなさい、価値がわからない女なら宝塚から追い出すといってやった」

 詩音の迫力に圧倒された絵衣子は涙さえ出そうになった。懸命に堪えながら、訊いた。

「あの……それで鏡子は納得したんですか」

「うん。したわよ」

 そうか。この人は女子高生時代に母里音平なんかと意気投合したのだ。人生観が世間とはズレている。そして、鏡子にもその素質がある。