骨喰丸が笑う日 第二十八回

骨喰丸が笑う日 第28回 森 雅裕

 会場に詰めた刀工たちは白や紺の作務衣を着込んでいる。女流刀工ならピンクも可愛いかなとのんきなことを考えながら、絵衣子は目の前の徳志にいった。

「桜星美術館にも骨喰丸があるらしいです」

「へええ。清麿の正真作なら予備として作った影打ちだとも考えられます。他の刀工の作なら好意的な模作……つまり写しでは? その場合、写しであることを銘刻するものですが、他者が銘をつぶして消すことはさほどむずかしくはありません」

「富賀さんはどちらかが偽物という言い方をしていました。真実を知りたいそうです」

「なるほどぉ。それを美術館の企画にするつもりですね。富賀さんらしい話題作りだ。『骨喰丸が笑う日』の原作や舞台とタイアップすることも目論んでいるかも。少なくとも便乗は考えていますよ」

「偽物だとしても、作るためには本物を見なきゃなりませんよね。サイズや彫刻も合わせなきゃいけないし……」

「さほど精密なものでなければ、押形や写真でも間に合いますけど、骨喰丸はこれまでそうした資料が流布しているわけじゃありません。しかし、それを入手できた人物もいないわけではない」

「研師の芝浜さんは戦後にうちの御先祖を訪ねているそうですが……」

「彼はうちの父も含めて刀工たちと交流があった」

 徳志は愛敬のある丸顔に思案を浮かべた。

「押形や寸法などのデータをとって、刀工に提供しているかも知れないですね」

「偽物という悪意あるものではなく『写し』として作られた可能性もあるわけですね」

「清麿は人気刀工なので、作風を写す現代刀工は少なくありません。うちの父も含めて……。短刀なら短いからボロも出にくい。しかしですね、人をだますような『偽物』となると、世間が思うほど簡単なことじゃありませんよ。ある有名作家の小説には、東京国立博物館に忍び込んで国宝の刀を偽物とすりかえて、それを誰も気づかないなんて話がありますが、まったくのシロウト考えですわ」

 徳志は絵衣子の実父の音平がいいそうなことをいう。いまいましい気もするが、親近感が湧く。

「仮にトップクラスの刀工が本物を横に置いて寸分違わず作ったとしても、必ずどこかが異なります。第一、地鉄が違う。専門家なら、離れた距離でも一目瞭然です。ただ、清麿なら時代が新しいので、現代でも類似した地鉄は作れます。それでも、見る者が見ればわかりますが」

「防空壕かどこかで朽ち込んだという話でしたが」

「うーん。ナカゴの状態などはそれでごまかせるかも知れません。人は信じたいことを信じる。本物と信じたい人は目も曇ります」

「鉄製品でもX線写真って撮れるものですか」

「モノによってX線の強度や照射時間を調節しなきゃならないでしょうが、出土品のような文化財ならX線で内部調査することはあります。専門の研究施設でなくても、刀関係の愛好家には医者も少なくないんで、病院で鉄鐔のX線撮影をして、どのように象嵌してあるのか調べた例もありますね」

「ふうん……。病院でも撮影できるんですか」

 深い意味もなく絵衣子はそう呟いたが、傍らにいた佑里と目が合った。徳志が関係者に呼ばれて彼女たちの前を離れると、佑里はこの娘の持ち味である悪戯っぽい目で絵衣子を見つめた。顔は可愛いのに睨むような視線が特徴だ。

「なんだかよくわかんない話だけど……X線撮影なら、うちの父に話せば、やってくれると思うよ。刀もわりと好きだし」

「佑里んち、立派な病院だもんね」

「刀の話はそのくらいにして、ところで、絵衣子。昨日の新人公演だけど……」

「いうなっ。その話はやめろっ。帰るっ」

「お茶でも行こうよ」

「彼氏とお行きっ」

 絵衣子は背を向けて、早足で歩き出した。出入口で振り返ると、佑里は涼しげな笑顔で彼女を見送り、それから踵を返して、徳志や彼の仲間たちと合流した。

 

 今、三本の短刀が絵衣子の周辺で話題になっている。二本の骨喰丸と「倚門而望」の文字彫刻がある短刀。後者は赤穂の現代刀工・兼景の作で、今は所在不明で押形が見られるだけだが、銘には二十数年前の年紀と立夏という季節が刻んであり、これは端午の節句を指すという。

 三本のうち、絵衣子が実見しているのは自分の骨喰丸だけである。幕末の源清麿作。先祖伝来で、真贋を疑問視する声はない。白鞘には父の音平が「倚門而望」と墨書している。もう一本の骨喰丸は横浜の桜星美術館が二十年ほど前に芝浜という研師の遺族から購入したもの。朽ち込みがあるが、富賀館長の口振りでは正真作だと「信じたい」ように聞こえる。

 絵衣子は芸大出の実父母から、美術館や博物館の所蔵品にも信用できないものがあると聞かされている。

 あの館長は信用できるのだろうか。タカラジェンヌは純粋培養の温室育ちで世間知らずといわれるが、絵衣子は拗ね者の実父から怨嗟のような人生哲学を刷り込まれている。

 帰宅する時は尾行に気をつけろと父の音平には教えられた。「夜中に郵便物を投函するな」と注意されたこともある。ポストに酔っ払いが汚物を入れるというのである。絵衣子はそんな父に影響されているつもりはないが、世間が善人ばかりだとも考えていない。教育とは恐ろしいものだ。

 ただ、忘れっぽいのも彼女の性質で、短刀のこと以外にも心に引っかかるものがあるような気がした。これは何だろうと考え、花組組長に関する疑問だと思い当たる。若い頃の出産が事実なら、その子はどこにいるのか。兼景という現代刀工が作った短刀はどう関係しているのか。このおぞましい疑惑を明らかにしたところで、誰が得をするとも思えなかった。

 それにもうひとつ。端午の節句が誕生日という人間には心当たりがないわけではなかった。しかし、そうした胸のつかえを解消するのは精神的な重労働だ。どうでもいいような気もする。絵衣子には好奇心はあっても野次馬根性はない。

 公演以外のことに積極的にはなれず、日々の生活に忙殺されるうち、「骨喰丸が笑う日」の宝塚大劇場公演が終わった。このあと、三週間の間隔を置いて東京宝塚劇場公演となる。花組の面々は移動した。

 出演者のうち、ホテルやマンションに宿泊する上級生もいるが、劇団が用意した寮に入る者も多い。東京に実家がある絵衣子は自宅通勤ということになる。

 現在、日比谷の東京宝塚劇場では別の組が現代劇を公演中だ。劇場の近くで音平と待ち合わせた。お互いの顔を認め合うと、挨拶も何もなく歩き出し、二人は回転寿司屋へ入った。会うのはおよそ二年ぶり、食事はいつ以来かもわからない。

 前置きなしで、父娘の会話は始まる。

「原作者なんだから、劇団から接待されたりするの?」

「原作の舞台化が企画される途中に一度会っただけだ。あの理事、何といったかな。門馬響太郎か。彼ともその時に会ったが、こっちはみすぼらしい格好していたので銀座に誘ってもらえなかった」

 さもありなん、と絵衣子は思った。音平はデビュー当初は女子人気も高かったらしいが、性格が偏屈な上に身なりにかまわないので、行く先々でヒンシュクを買ってきた小説家だ。なにしろネクタイを締めるような服は黒の礼服しか持っていない。

 この日もパーカーにマフラーという他の者なら冷笑モノの身なりだが、どういうわけかお洒落に見えるから不思議だ。それでも銀座で遊ぶような人種ではない。銀座には親しい刀剣商の店があるので、たまに顔を出しに来るだけである。

 こんな音平とひさしぶりに会ったのは、話したいことがあったからだ。

「骨喰丸がもう一本あるというんだけど」

「どこの誰がそんなことを?」

「桜星美術館の館長だというオバサマ。えーと、富賀……」

「富賀計子だとお……。刀剣女子が珍しかった時代からチヤホヤされて、現在に至っているセンセイだ。展示品に何の根拠もないのに歴史上の有名人の愛刀だと解説つけたり、刀剣職人の個展をやれば図録にデタラメな経歴を書いたり、所有者から借りた展示品を返さなかったり、無責任のデパートみたいな人物だ。お前に何の用が?」

「X線で、刀身彫刻の下に骨だか歯だかが埋め込まれているのを確認したいそうよ」

「何だそれ」

「葛飾北斎の……」

「ああ、その話か。それを美術館の企画にするつもりだな」

「『骨喰丸が笑う日』の原作者に協力を求めるオファーは?」

「ないね。原作者なんか関係ないと思ってるんだろう」

「うちの骨喰丸を貸してくれっていうわけだけど……」

「貸したところでお前に何のメリットがある? 傷や錆をつけられるかも知れないデメリットだけだろ。骨喰丸を巻き上げる魂胆かも知れん」

「美術館に展示すれば箔がつくということらしいわよ」

「箔がついたら何なんだ? 」

「さあ。何なのかしら……」

「まあ、お前の持ち物だからお前にまかせるが、小さい頃から俺が教えてきたことは忘れてないよな」

「小さい頃からといっても、ほとんど一緒にいたことないけど……信用できる人間は人生で一人か二人しか出会わない」

「そういうことだ」

 貸すな、といわれたようなものである。

 だが、絵衣子自身は信頼できる仲間や教師に恵まれている。一人か二人といわず、四、五人は信用してもいいのではないかと考えている。富賀館長がその中に入るとは思わないが。

 回転寿司のあとは甘味屋で向かい合った。絵衣子は持参した大判の封筒を取り出した。

「骨喰丸を貸していいものかどうか迷ったから、宝塚での展示が終わって、こっちはこっちでX線撮影したのよ。常松佑里の実家が病院だから協力してもらって。X線照射の調整が結構手間かかった」

「あの反抗期が抜けない女子高生みたいな子か。あれも我が道を行くお嬢さんだな」

「まあね。刀鍛冶とつきあうくらいだから」

「ほお。赤穂の兼景はもう引退同然だが……息子がやってるはずだな」

「その息子さんよ」

 X線写真を音平の手に渡した。

「ふーん。へーえ」

 音平は感慨深そうに唸った。宝珠の彫刻の下に何やら細片が白く写っている。だが、あまりにも小さい。

「なるほど。何かが埋め込まれているようだ。しかし、これが何なのかは彫り崩して取り出さなきゃわからん。名刀にそんなことはできない。骨か歯であったとしても、北斎のものかどうかは証明できない」

「まあ、北斎の遺骨かもという夢だよね」

 あ、そうだ、と絵衣子は話題を変える。

「芝浜天平さんという研師を知ってる?」

「昔の研師だろ。職人の腕よりも戦時中の実戦を経験した研師として知られてる。本も出してるし。うちにもあるかも知れない」

 自分の蔵書も把握しておらず、同じ本を複数買うことも珍しくない音平である。

「芝浜天平なら兼景と何らかの関係があったかな。倚門而門と刀身彫刻された短刀が誰のために作られたのかを知っていたかも」

「兼景さんは短刀の拵用に小道具も集めていたみたい。端午の節句の画題の目貫と縁頭。短刀の持ち主の誕生日が五月五日なのかも」

「兼景の愛人の子供か。その気持ちはわからんでもない。俺もお前に渡そうと思って、あれこれ買ったりするけど、何ひとつ渡せずに溜まる一方だ」

「相続放棄します。どうせ借金だらけなんだから」

「俺の著作権なんか金にならないが、コレクションの一部は生きているうちにこっそり譲っておくから、それで親子関係終了にしようや」

「結局、コレクションを維持する後継者が欲しいだけじゃないの」

「ところで、組長の本名がどうとかいっていたが、その話に何か進展はあったのか」

「何も。口に出すのもはばかられる」

「隠し子の疑惑……」

「やめて。それはいわない約束」

「そんな約束してない」

「忘れたんでしょ。私も夜十二時を過ぎてからのことは覚えていなくて、いつも仲間からあきれられる」

「似てないな。俺は都合の悪いことは時間に関係なく忘れる」

「財布を忘れてなければいいわよ」

 土産に和菓子を買わせ、ひさしぶりの対面を終えた。別れ際には音平は持参していたTシャツも渡してくれた。常々、絵衣子のために買い物をしているのは本当らしい。ただ、センスを押しつけられるのはどうかと思う。「先ノ宗理 北斎画」の署名がある女刀鍛冶の錦絵をプリントしたTシャツだった。職人のなりではなく、浮世絵の美人画によく見る巨大な髷を結い、襷掛けして、着物の裾を引きずった二人の女が槌をふるっている図柄だ。レア物なのかも知れないが、どこで着ろというのか。

 

 音平に会った数日後、劇場近くの喫茶店で、桜星美術館の富賀館長と待ち合わせた。富賀は例によって和服姿で、銀座が近い場所柄、その筋の商売のようだ。絵衣子も人目を引くジェンヌのオーラを放っているので、堅気の女同士には見えないだろう。

「骨喰丸は東京宝塚劇場に展示される予定でしたね」

「はい。東京に持ってきました」

「展示後にお借りするという件はお考えいただけましたか」

「はい。やめておこうと思います」

「あら」

 富賀は苦虫を噛みつぶしながら微笑むという器用な表情を作った。

「それはどういう理由なのかしら」

「めんどくさいし恥ずかしいし」

「何ですかそれ」

「見せびらかすみたいで」

 この富賀計子なる人物が信用できるという確信が持てないだけだ。絵衣子は世間知らずのタカラジェンヌではあるが、両親から「天の邪鬼」というDNAを受け継いでいる。

「でも、X線写真を撮りました。何かが埋め込まれているという話のネタにはなると思います」

 絵衣子は写真を富賀の前に広げた。

「このX線写真を展示用にお貸ししますから、それで良しとしていただけませんか」

「良しとしていただけるわけないでしょ、あなた」

 富賀は説教でもするように尊大に反り返った。

「短刀の実物を二本並べたいんです。比較してこそ話題になるんです。うちの一本だけじゃおかしいでしょ。不自然でしょ」

「じゃ、この写真は不要ですか」

「いえいえ。お預かりしますとも。はい」

 富賀は写真をつかんで離そうとしない。高圧的というより単に無神経な人物のようだ。

「当館の骨喰丸もすでにX線撮影いたしました」

「あら。それで?」

「残念ながら、何かが埋め込まれていることは確認できませんでした。すっきりしっかり、そこにあるのは刀身彫刻だけ」

「でも『応鏤骨 為形見』という銘はあるわけですよね」

「嘘の銘だと? つまり、うちの短刀は偽物だと仰りたいんですか。北斎の歯が埋められていなくても清麿の正真作ということは有り得ますでしょ。影打ちとして作って、真打ちにだけ北斎の歯が埋め込まれたということも考えられます」

 なるほど、人は信じたいことを信じるようだ。

「ところで、うちの美術館に母里音平さんと同時期に芸大生だった学芸員がおりましてね」

「はあ……」

「他人に無関心な芸大生でも、さすがに噂になったそうですよ。母里さんと美人の同級生・伊上磨美さんが子供を作ったことは」

「発覚したのは卒業間際ですけどね」

「あなたですよね。そのお子さんは」

「別に隠しているわけじゃありません。広言する必要もないから黙っているだけで」

「母里音平という小説家はどういうわけか評判悪いですねえ。ネット時代にはあることないこと拡散されるのは仕方ないとしても、父親としてはあなたまで巻き込みたくないでしょうね」

 音平が絵衣子の存在を内緒にしている理由のひとつがそれだろう。絵衣子は穏やかに呟いた。

「児孫、自ずから児孫の計あり」

「は?」

「『宋詩記事』という中国の詩論集にある言葉です。親が心配しなくても子は自分自身の生活設計で生きていく。そういう意味です」

「あらあ。さすがに教育がよろしいですわね」

「いえいえ。ほんの独学です」

絵衣子はにこやかに富賀を見つめた。口元には微笑、怒りや悲しみは目で表現するのが宝塚だ。富賀も薄笑いを見せたが、こちらには侮蔑が混じった。

「まあ、あなたのことはいいんです。ただね、情報は他にもございますのよ」

「情報?」

「芝浜天平という研師のことはお話ししましたよね。覚えてらっしゃる?」

「はい。落語家さん……じゃなくて、戦前からの研師さんで、本もお出しになってるとか……」

「ええ。技法書ではなく戦前からの回顧録みたいな内容で、弟子のことも書いてあります。芝浜さんの晩年の弟子にオーストラリア人がおりましてね。バリー・ブラントンという人物です。私も何度となく会っています。明治以来、外国に日本刀はかなり流出しておりますが、研師がいないので、日本に来て修業する外国人が結構いるんです。長年は滞在せず、ひと通りの技術を習得したら国へ帰りますけど、日本で作った人脈を活用して、刀剣ブローカーをサイドビジネスにする人もいます。このブラントンもね、芝浜さんの死後も何回か来日して、商売に精を出してるんです。彼はもともと日本通で、研師を志す前にはオーストラリアで医療通訳をやっていました。あちらの病院には日本人の患者も少なくないですから」

「はあ……」

「老いた芝浜さんのお宅は男所帯でしてね、ブラントンは台所をまかされていましたが、研ぎよりも料理がうまくなるような弟子でしたよ。日本のエンターテインメントも好きで、世界でも珍しい女性だけの劇団に興味を持ちましてね。宝塚も時々観劇していたようです」

「それはそれは……」

「オーストラリアの病院で自分が通訳した日本の少女を宝塚で見つけた、と意味不明なこと言い出したりするおかしな弟子でございました。ほほ」

 富賀は凶悪な笑いを顔全体で作った。フォックス・タイプの眼鏡さえキラリと音を立てて光った。