骨喰丸が笑う日 第二十回

骨喰丸が笑う日 第20回 森 雅裕

 囚人部隊はタナンを経てミンタミ山系を西から東へと横断し、チンドウィン河の西岸を目指した。

 途中の集落の廃屋には床下まで日本兵の死体があふれ、木陰や岩穴にも折り重なっている。それを食い散らかすのがハゲタカだ。死体を見慣れた囚人部隊もその惨状には叫び声をあげ、半狂乱でハゲタカを追い払った。山道では死体の合間を縫って歩き、血便の海の中で立ったまま小休止することもある。

「こんな戦争があるか。地獄だ。俺たちは地獄を歩いている」

 ぶつぶつと誰かが呟いている。俺かな、と八七橋は自問した。これが現実なのか悪夢なのか、それすらも覚束ない。そんな行軍を続け、トンへの北側まで到達した。崖下、葦原の向こうに巨大な濁流が広がっている。ようやくここまで来た。

 雨季のチンドウィン河はその幅およそ一キロ。日本軍三個師団がインパール目指して渡河した五か月前とは様相が一変していた。

 雨宿りに都合のいい廃棄トラックがあった。内部から日本兵の死体を引きずり下ろし、綿貫少将は呻きながら転がり込んだ。彼はマラリアを発症していた。軍隊では発熱といわず熱発という。綿貫はこの熱発に見舞われた。

「夜中はちっとばかりよくなるが、昼はしんどい」

 兵の分まで食っていた彼が食欲もなくし、震えながら関節の痛みを訴えた。

「畜生。こんな死体だらけ虫だらけの山道を来る日も来る日も歩かせるからだ。俺は少将閣下だぞ。ウクルルやフミネで車か馬を調達できただろ」

「できませんでした」

 八七橋は子供をなだめすかすように、いった。

「第十五軍(ビルマ方面軍)の将官ではない綿貫閣下の名前には何の効力もありません。車も馬も貴重です。なんでこんなところをうろついているのかもわからない謎の人物よりも優先して運ぶべき人物や物資があるんですよ。何万という軍隊が総崩れになっているんですから」

「ふん。役立たずめ」

「恐縮ですが、もっと閣下が怒りそうなことがあります」

「まさか……キニーネがないというんじゃあるまいな」

「はい。そのまさかです」

「あーあ。いわんこっちゃない。俺以外の者に無駄遣いしやがって」

「トンへには野戦病院があります。明日には着きますよ」

「ふん。謎の人物を治療してくれりゃいいがな」

「無駄遣い」といわれたアーシャがいつになく恐い顔で診断した。

「閣下は悪性の熱帯熱です。半月はこの状態が続きます」

 彼女は三日熱だったので、致命率は高くない。キニーネの甲斐あって、不快感などの副作用は続いているものの、症状は改善している。熱帯熱には三日熱のように周期的な「熱発」はない。しかし、アーシャはきびしい所見を下した。

「半月後には腎臓や脳の障害を併発するでしょう」

 マラリアで脳を冒され、意味不明な奇声をあげながら徘徊する病兵はいくらでも見かける。その先にあるのは死だ。

「俺ももう駄目です」

 そう嘆いたのは和尚である。靴を脱ぎ、半泣きでうなだれた。泥濘化した山道を歩けば靴に土砂が入るので、皮膚が擦り剥けて赤くただれる者は多いが、和尚の場合はそれに加えて水虫が悪化し、骨まで露出している。ボロ布を巻き、軍靴を裂いて広げ、無理矢理に足を入れているのである。

 付近の民家で休ませてもらえればいいのだが、敗残兵が押し寄せるため、根は親切な現地人とはいえ、いい顔はしなくなっている。

 和尚は痛みに顔をしかめながら、いった。

「考えがあるんですが」

「何だ?」

「ここはビルマです。熱心な仏教国です。僧侶を非常に尊敬する。誰かが日本のジージーポンギー(高僧)に化け、現地人に有難いお経を聞かせてやって、一宿一飯にありつくというのはどうです?」

「バレたら、ぶち殺されても文句はいえんぞ」

「背に腹はかえられませんよ」

 欧米には従軍牧師などが存在し、日本にも軍属の従軍僧というものがあるが、ほとんど有名無実である。戦争が激化すると、僧侶や神官という聖職者も一般人と同じく徴兵され、配属先で必要に応じて仏事や神事を行う程度であった。

「当然、高僧に化けるのはお前なんだろうな。キリスト教徒のくせに仏教のお経を唱えられるのか」

「ダテに和尚と呼ばれてるわけじゃありません。般若心経くらいは心得ています。それで足りなきゃ適当に引き延ばしますよ。どうせ日本語なんかわかりゃしない。お経らしく唸ってやればごまかせるでしょう」

 ビルマ人の敬虔な信仰心を知っている八七橋は気が進まなかった。ためらっていると、綿貫と目が合ってしまった。

「ふん。兵隊なんかどうでもいいが、この俺は屋根と壁と床と火のあるところで休み、服も乾かさないと重症化するぞ。自分の任務を思い出せよ、中尉」

 斥候に出ていたバクと三文が戻ってきて、

「この先に小さな集落があります」

 と報告した。現地の村人をだますのは、まず様子を見てからだ。雨の中、椰子の林をかき分けた先に数軒の家が建っていた。高床式の中農以上の家を選び、近づくと、軒下で鍋料理の準備をしていた女たちが、主人らしき初老の男を呼んだ。

「ジャパンマスター。私はタン・テン」

「よろしく。ヤナハシです」

「おかしな日本軍が来るかも知れないと聞いておりました」

「おかしな……? 誰がそんなことを?」

「数日前にイギリス軍が来ましてなア。隣村に宿営しています」

 八七橋たち囚人部隊に執着しているのが英印軍ではなく、イギリス軍というのが胸に引っかかった。宗主国の執念を感じる。

「隣村は近いのか」

「歩いて半日です。でも、小さな部隊で、日本軍と戦闘するつもりはなさそうです。あなたたちもおかしいが、イギリス軍もおかしい」

 はぐれ部隊らしい。英印軍の主力ならチンドウィン河のもっと下流側……南へ進出している。

「俺たちがおかしな日本軍かね」

「日本兵らしくない身なりで、女連れのナーブーが威張っていると聞きました」

 ナーブーとはビルマ語で「変態」というような意味である。

「ああ。それなら俺たちかも知れんなあ。イギリス軍はナーブー閣下を探しているのかな」

 八七橋は目線で綿貫を指した。椰子の下にへたり込んでいる彼を見やり、タン・テンと名乗った現地人は一笑に付した。

「へ。ありゃアいかにもナーブーらしいですが、あの男に何か値打ちがあるんですか」

「ありふれたマラリア患者だよ」

「イギリス軍はあなたたちがインドの宝を盗んだといっていた」

「宝?」

 心当たりは神仏像しかない。

「戦争しながらそんなものを追いかけているのか。奴らは余裕があるなあ」

 しかし、神仏像はトラックごと置いてきたはずだが、それでは足りないのか。

 イギリス軍が迫っているとなれば、ここは現地人を味方につけるしかない。八七橋は「高僧作戦」の覚悟を決め、自分の背後を振り返った。人間の形をしたボロ布の集団が立っている。その中で、仲間に肩を借りている一人を指した。

「実はあの男は立派な高僧でしてね。日本兵の魂の救済を行っている」

「ほおほお。それはそれは……」

「ここで休ませてもらえたら、あなた方にお経を唱えて差し上げることもできるのだが」

「おお。ぜひお願いしたい。隣近所の者たちも呼びます」

 ビルマでは僧侶に布施をすることは積善行為とされる。その信仰心につけ込むのは心苦しかったが、八七橋は任務遂行のために良心を振り払った。

 家の高い床下は土間になっていて、竹や板を敷いた一角もある。とりあえず、部隊はここで一旦装備を下ろし、火の近くで濡れた服を乾かした。

「ここいらには英軍の手が回っているらしい」

 と、八七橋が兵に交替で周囲の警戒を命じると、綿貫が憎々しげに吐き捨てた。

「ふん。逃がしてやったイギリス士官が報告したんだろ。ガラクタ部隊と油断させといて、実は重要人物を護送しているとな。お人好しの現地人が俺たちを、いや俺を売ろうと考えつかなきゃいいが」

 そんな言葉は無視して、八七橋は和尚を見やった。彼はドクダミらしき正体不明の草をつぶした応急薬を血まみれの足へ塗り、わずかながら人心地がついたようだ。

「和尚。俺たちが売られるかどうかはお前の高僧ぶりにかかっている。頼むぞ」

 彼らは装備を担いで、梯子のような階段を上がり、床上の部屋に祭壇を準備した。蝋燭を立て、

「ふんふん」

 和尚は何かを自分にいいきかせるように、背嚢から鈍い光沢を放つ金属細工を取り出した。八七橋にも見覚えがある。女神像である。

「これはインドの神像ですが、宗教は違っても、信仰の根本は同じです。これを拝みましょう」

「おいおい。こんなことだろうと思った。トラックに残してこなかったのか。こいつはイギリス軍もお気に入りのよほど貴重品らしいぞ。十二、三世紀の何とかだといってたな」

「ディーヴィーです。宗教を超越した見事な芸術品だったので、手放せなかったんです。自分が無事に日本へ帰ることができるかどうかもわからないのに。笑えますな。あははは」

「笑う余裕があって結構だ」

 潰走する日本兵は装備品をことごとく捨てて歩いている。神器のごとく扱ってきた菊の御紋の三八式歩兵銃など真っ先に捨てた。ほとんどの兵は飯盒と水筒しか持っておらず、裸同然の身なりの者も珍しくない。囚人部隊はまだ装備充実し、余裕があるといえる。

 タン・テンが隣人、近所の住民を引き連れて現れた。祭壇のインド神像に目をとめ、異教だと咎めることもなく、むしろその姿に見とれた。

「有難いものですなあ」

 純朴な現地人である。しかし、馬鹿ではない。

「ははあ。イギリス軍が探しているのはこれですかな」

「…………」

 八七橋はタン・テンを凝視し、無言の圧力をかけた。タン・テンは善良な笑顔を返した。 

「イギリス軍には知らせませんよ。この村が戦場になっても困る」

 八七橋は感謝をこめて大きく頷いた。タン・テンが呼んだ住民の中に一人、ちらりと八七橋と目が合った若者があったが、特に気にはしなかった。

 部屋にはタン・テンの家族、隣人たちが集まり、八七橋たちを合わせると十人を越えた。だが、この場に見えない顔もあった。

 床下から途切れがちな叫び声が聞こえた。取り残された綿貫である。八七橋が覗くと、悪寒に歯を鳴らしながら不満を吐いた。

「俺を一人にするな」

 ぐったりしているが、口調だけは強い。

「自分たちだけ、うまいもの食う気か」

「おや。食欲おありですか」

「あるか、そんなもん。ないが、のけ者にされると腹が立つ」

 この傲慢な男も精神的にまいっていた。一人になるのが不安なのである。仕方がない。引きずるようにして床上へ運び、祭壇の前に端座する人々のうしろで、壁にもたれさせた。

 部屋には荘重な緊張感が漂っていた。これは予想外だという面持ちで、和尚が八七橋を見やった。粛とした空気の中では、首を回した音さえ聞こえそうだ。もうあとへは引けない。八七橋は深く頷き、彼を祭壇へと送り出した。そんな和尚を拝む者もある。

 和尚は痛めた足に苦労しながら胡座をかき、祭壇に正対して深呼吸すると、おもむろに口を開いた。

「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時……」

 唸るように般若心経を唱え始めた。なかなか堂に入ったものだ。だが、般若心経は三百文字に満たない経文である。和尚はひとしきり言葉をひねくり出し、周囲の様子をうかがったが、タン・テンたちは微動だにせず、拝み続けている。

 和尚はさらに軍人勅諭や島崎藤村の詩まで繰り出して時間を稼いだ。八七橋はビルマの仏に許しを乞いながら聞いていた。

 時折、「へっ」「ふっ」と場違いな声が部屋の隅から発せられた。綿貫である。熱発で、うわごとを洩らしているのかと思ったが、失笑であった。

「へっ。神仏に祈って願いがかなうなら、俺のマラリアをなんとかしてくれ」

 そんな悪態までついた。傍らにいたアーシャがなだめたが、綿貫は沈黙しなかった。吐き散らす言葉のほとんどは意味不明だったが、空気はぶちこわしだ。和尚のあやしい誦経が一段落したところで、列席の中から若い男が立ち上がった。

「もうよろしいです」

 日本語だと気づくのに少々手間取ったが、八七橋は血の気が引くのを自覚した。もともと顔色は最悪だから表情には出なかっただろうが、言葉がわかる者がいるとは予想しなかった。慎重な八七橋も疲労で注意散漫になっていた。

「あの人は何を笑っているのですか」

 男は綿貫を目線で指した。八七橋は神妙に答えた。

「マラリアで熱に浮かされ、呻いているのです。笑っているように聞こえるのは、脳をやられたせいでしょう。……あなたは?」

「マンダレーで日本語を勉強しました。日本軍の通訳をやったこともあります」

 男は和尚に冷徹な表情で迫った。

「あなたが本物の僧なら、その証を見せていただきたい」

 うろたえる和尚にかわって、八七橋は背嚢の荷物を漁り、いくつかの品々を取り出した。

「戦死者の遺品や遺骨を預かっている。彼らを慰霊し、遺族に届けると約束しました」

 コヒマの戦場で散華した戦友たち、綿貫の副官だった手柄山の指の骨や軍隊手帳などを広げた。手帳にはさんだアラカン桜の押し花はすでに黒く黴びていた。

 なおも男は追及した。

「僧侶であるなら、何故、でたらめな経を読むのか」

 ばれている。和尚は懸命に弁明した。

「実は私はキリスト教の神父なのです。しかし、戦地で日本兵を供養する時には仏式が求められ、戦死者は神社に祀られます。もともと日本では宗教が混在しているんです。インドの神像を大事にするのもそのためです。とはいえ、不完全なお経を読んだことは申し訳ない。お許しください」

 日本の仏教とビルマの上座部仏教は大きく異なる。妻帯し、従軍もする日本の僧侶など、ビルマ僧からすれば破戒僧であり、天皇崇拝や戦死者慰霊の式典は邪教の所業でしかない。ましてやキリスト教の神父がそれを行うことなど、ビルマ人は怒るべきか笑うべきかも迷うだろう。

 男がこの異常事態に戸惑っている隙を逃さず、八七橋も謝罪した。

「彼だけが悪いんじゃない。責任者は私だ。日本には、貧すれば鈍するという言葉があります。我々は飢えて疲れて、愚かなことをしてしまった」

 囚人部隊の全員で頭を下げたためか、男は彼らを責めることはしなかった。

 何が起こったのかとタン・テンが尋ねたが、男は、

「宗教が違うようだ」

 としか答えなかった。偽の高僧だとは糾弾されなかったので、タン・テンは彼らの前に食べ物を並べてくれた。

 土鍋一杯のジャガイモと野菜、鶏肉のトマト煮、粥、魚の塩漬け等々、飢えた日本兵には豪勢すぎる饗応である。

 兵たちは交替で歩哨に立ちながら、夢中になって掻き込んだ。アーシャも婦人部隊の軍人であるから、見張りに立った。

 気づくと日本語のできる男は姿を消していた。

「村はずれにパゴダ(仏塔)があり、寺院もあります。そこへ行きましたよ」

 と、タン・テンがいった。この集落へ入る前、斥候に出したバクと三文は寺院があることなど報告しなかった。八七橋は、食事をむさぼっている彼らを嘆息とともに睨んだ。

「お前ら、どこを見ていたんだ」

「ここはビルマですよ。寺くらいそこら中にあります」

 喜ばしい状況ではないようだが、八七橋たちがこの場から逃げたところで、好転するとも思えなかった。不安やら反省やらで八七橋は苛立ち、呼吸すら忘れて食い物を口へ押し込んでいる和尚に、強い口調を投げた。

「和尚。ガツガツ食うな。ビルマの僧侶は托鉢を受けたものは肉でも魚でも食う。それが信者に功徳を積ませるという考えだ。しかし、午後は食事をしない。酒なんか論外だ。まあ、日本の僧侶は違うとはいえ、現地人を幻滅させてはいかん」

 綿貫には逆の言葉をかけた。

「綿貫閣下は無理してでも食わなきゃいけませんよ」

 綿貫は鍋の汁を器に取り、それを啜るばかりだった。 

「薬をむさぼり食いたい気分だ。インドに入った時、マラリアの予防に飲んだアクリナミンのクソ苦さが懐かしいわ」

 この男は自分のせいで偽の高僧が露見したことなど、気づいてもいないようだ。

 食い終わった頃、先刻の男が戻ってきた。

「セヤドー(指導僧)にあなたたちのことを話しました。寺院へお越し頂きたい」

 拒否すれば、彼らの正体を村人たちに暴露されるかも知れない。八七橋に選択肢はなかった。

「我々は軍人だ。武器は携帯しますよ」

「いいでしょう。ただし、寺院の入口で預かります」

 やむを得ない。ビルマの寺院は靴や靴下さえも脱ぐべき聖域だ。

 体調の悪い綿貫と看護のアーシャ、護衛の兵たちを残して、八七橋と和尚は男のあとに続いた。外は曇天と樹林の影で時刻もわからない。時計などは猛烈な湿気のため、はるか以前に壊れている。日没が近いが、すでに暗かった。

 和尚は不安を抱えていたものの、もともと深刻に悩む性格ではないようだ。

「我々はどうなるんですかね。仏罰を受けますかね」

「毎日、死体だらけの地獄を腹を減らして歩いてるんだ。これ以上の仏罰があるか」

「それもそうだ。腹一杯食えたし、思い残すことはないです」

 極限状態が続き、誰もが感覚がおかしくなっている。八七橋も命など惜しくはない。しかし、綿貫を護送する任務がある。現地人の信頼を失うのも心外だった。まだこの世に未練がある。

 集落のはずれに、辺境には不釣り合いなほど立派なパゴダが建ち、少し離れたところに寺院もあった。奥まった一室に「連行」されると、そこには老齢の指導僧が端座していた。世俗から超然とし、威厳と慈悲をたたえた風貌で、これはもう八七橋たちとは役者が違う。

 ここへ案内してきた男が通訳として立ち合い、指導僧が口を開いた。

「日本軍と英印軍が入れ替わり立ち替わりで現れる。先日はイギリスの将校がやってきた。今日は宗教というものに無分別な日本の高僧がお出ましか」

 皮肉に聞こえるが、悪意を感じさせる表情ではない。