骨喰丸が笑う日 第三十回

骨喰丸が笑う日 第30回 森 雅裕

 詩音は抑揚ある口調で言葉を続ける。

「鏡子には短刀を捨てる気はなくなった。けれどもゴミの回収は翌朝に迫っている。実家に電話もできないわよねぇ。短刀はボロ布でぐるぐる巻きにしていたらしいけど、そんなものの存在を養母に知られるわけにもいかないし。で、窮地に陥った彼女がとった行動が……」

 それが入学式の夜に脱走した理由か。

「ところが、夜のうちに不燃ゴミは集積所に出されてしまった。まあ引っ越しシーズンでもあり、大量のゴミの山から発掘するはめになったわけ。短刀は発見したけれど、不審者として通報されるわ、警察にこの物騒な刃物は何事かと職質されるわ、その日のうちに帰寮することはできなくなったし、養母にも短刀の存在を知られてしまった」

「門馬先生も知っていました。私が『さかなかげ』といったら『かねかげ』だと……」

「うん。離婚してるとはいえ、養母が養父に知らせたのは当然でしょ。鏡子の生い立ちが本人にバレちゃってます、と」

「はあ」

「そうなると、鏡子にしてみれば、兼景って刀鍛冶は何者? そう思うよね。ははは。バレエスクールからのつきあいだった佑里が赤穂の刀鍛冶の幼馴染みだというので、話を聞いたらそれが兼景の息子だった。鏡子とは腹違いということね。兼景の情報は佑里を通して聞いてるはず」

「佑里は鏡子と兼景さんの関係を知っているのですか」

「どうかしら。ワケありだと察してはいただろうけど、はっきりとは……。佑里ものんきだから」

「確かに……。セナさんはどういうきっかけで兼景さんと知り合ったんですか」

「きっかけは母里音平」

「え?」

「あの人、小説書く一方で鐔や金具も作ってたからね。大阪でコンクールの展示があった時、母里さんの鐔も出ているというんで見に行ったのよ。職人や関係者も来てた。そこで兼景に出会った。女子高生の目には結構なオジサンだったけど、いくつ年上だったかなあ。まあいいや」

「うわあ……。母里さんがきっかけですか」

「ふふふ」

 詩音は絵衣子と母里音平の親子関係を知ってか知らずか、意味ありげに微笑んだ。

「人生って縦糸と横糸が奇妙につながっているものよね。面白いね」

 面白いというべきか、面倒臭いというべきか。同じような言葉を鏡子も口にしていた。これが母娘というものか。

「あ。いっとくけど、私ら、違法な『淫行』じゃないわよ。淫行とは十八歳未満の者をだましたり脅したり、遊び目的だったり、不当手段による性行為のことだからね。真摯な交際関係は法律でも禁じられない。まあ、お前たち、真摯だったのかといわれると考えちゃうけど、兼景の奥さんはすでに亡くなっていたから不倫というわけでもないし。せっかく授かった子供を産むことに躊躇なかったし」

「あ……。いいです、そういう話は」

「私の罪は宝塚に入るために鏡子を手放したこと。兼景と別れたのも同じ理由。宝塚を受験するとは彼にいわなかったけど、向こうもこだわらなかった」

「あの、どんな人なんですか、兼景さんって」

「性格は能天気」

「はあ……」

「外見は長身。細いけど足腰はしっかり。鏡子に遺伝してる。性格も少しくらい遺伝して欲しかったわね。子は親の鏡。そんな意味をこめて鏡子と名付けたんだから」

 微妙に意味が違う気がしたが、詩音がいえば正しいようにも思える。そもそも、何でこういう話を自分にするのだろうか。そんな絵衣子の疑問を察したのか、詩音は唐突に真顔を作った。

「ナントカ美術館の脅迫まがいのオファーは気にするなといいたいのよ」

「はあ」

「あの館長、美術館が所蔵している骨喰丸と並べて展示したいんだって? あなたが断ったのは当然よ。あちらのは偽物だから」

「何か御存知なんですか」

「あれはね、二十数年前、兼景が作ったのよ」

「写しとして?」

「いいえ。偽物として。防空壕で朽ち込んだように表面を荒らして、研師の芝浜さんが感心するほどの出来だった。でも、芝浜さんは贋作なんかするべきではないと怒って、お金に困ってた兼景のために買い上げてくれたけれども死蔵した。それなのに芝浜さんの心情を理解しない遺族が桜星美術館に売ってしまった」

「兼景さんはどうして贋作なんか……」

「子供は生まれるし、その母親は高校生だし、たとえ別れるにしてもお金は必要だもの」

「あー。ですよね」

「兼景はその贋作の押形や写真を残しているはず。赤穂の仕事場を探せば見つかると思う。まあそんな必要もないかと思うけど」

「美術館の富賀さんにしてみれば、偽物の証拠を持ち出されたくないでしょうから、取り引きには有効でしょう」

「取り引きか。お互いに余計なことはいわずにおきましょう……って? 私は何を暴露されてもかまわないけどね。宝塚でやりたいだけのことはやったし」

「でも、鏡子はこれからの人です」

「そうね。私だけの問題じゃない。でも、鏡子は母親のスキャンダルなんかに負ける子じゃないわよ」

「確かにそうですね。先日、源清麿のお墓と於岩稲荷へ行って、彼女の根っ子がどこにあるのか教えられました」

 花組プロデューサーが詩音を呼び、彼女は絵衣子の前を離れた。残した言葉がある。

「期待してるわよ。手を抜かずに力を抜くのがあなたのいいところ」

 脈絡もなく、意味不明の言葉だったが、感動した。絵衣子にしてみれば、組長とこんなに会話したのは初めてだった。

 

 事件は東京公演初日に起こった。通常なら宝塚の演目は芝居とショーの二本立てだが、「骨喰丸が笑う日」は芝居が長編のため、ショーはエピローグ的な付け足しとなる。そのショーで、夏門なつ希(小浪鏡子)と華斗詩音(小浪聖菜)が大階段から転落した。

 時代劇のエピローグではあるが、男役たちは定番の燕尾姿で大階段に展開していた。武士や忍者がロングブーツを履くこともある宝塚だから、格好が良ければ考証や辻褄はたいした問題ではない。ペアを組む娘役も男役と同数がドレス姿で大階段に出ており、絵衣子もそこにいた。

 宝塚の象徴である大階段は二十六段。高さ約四・三メートル。一段の奥行きは約二十三センチ。これに電飾がつくから実際はもっと狭いが、足元を見ることは許されない。そそり立つ壁のような階段上で群舞やフィナーレを展開するのだから、もはや神業といえる。

 絵衣子はうしろ……大階段の上の段で踊っていた。鏡子は男役であり、詩音も本来は男役だが、今回の演目では娘役(ベテランの場合は女役ということもある)で、鏡子と詩音はペアではなかったが、二人とも絵衣子よりも下の段で踊っていた。

 鏡子が足を踏み外したのを詩音が助け、巻き添えで二人とも転落したのである。転落はままある事故だ。舞台に出ている出演者はアクシデントにも動揺しない。転落する者があっても周囲が支え、本人も笑顔を絶やさず、何事もなかったかのように進行する。

 鏡子は滞りなく踊り続け、詩音もその場は踊り切った。だが、袖口にハケた途端、詩音は転がるように倒れ込んだ。意識もあやしい。

「救護室へ!」

 誰かが叫び、運ぼうとしたが、詩音は立ち上がろうともがいた。

「大丈夫。立てるから」

 動いたらアカン、という周囲の声を振り払い、身体を起こした。鏡子は茫然としながら、自分のせいだと何度も口走った。それでも身体は動いてパレードの準備にかかり、羽根を背負っている。彼女にケガはないようだ。

 詩音が叱咤した。

「誰のせいでもない。自分の仕事をやりなさいっ」

 秩序を重んじる宝塚では終演時刻が予定よりも前後することはない。偏執的なほど正確だ。舞台上でトップ・コンビが踊り終えると、フィナーレはプログラムの最後、パレードに入る。

 詩音はパレードでは大階段を下りることができず、舞台袖から現れた。人の手は借りずに自力で歩いていたが、銀橋を渡ることはせず、舞台中央近くの組長の定位置へ進んだ。組子たちとともに客席へにこやかに手を振ったが、足を引きずるでもなく、負傷した様子は見せなかった。しかし、カーテンコールの最後に緞帳が下りると、呻きながら頽れた。

 ジェンヌの連携は素早い。組子たちが抱え起こし、舞台袖へと運んでいく。絵衣子はあとで知ったが、着替えだけさせて、付け睫毛上下三枚の舞台メイクそのままで病院へ引きずるように運んだらしい。

 終演から数分後には絵衣子は楽屋にいた。公演初日は疲れ果てて化粧前にフヌケ状態でへたり込む。いつものことだが、今回は身体だけでなく心もズシリと重かった。同じくぐったりしている鏡子と「人という字は互いに支え合っています」という形になりながら風呂場へ向かおうと数歩這ったところで、視界に副組長が現れた。

「そんなところで寝るな」

「寝てないですぅ……」

「セナさんの代役は絵衣子だったよね」

「ハイ。私です」

 アクシデントにそなえ、代役はあらかじめ決めてあるのが宝塚で、Aの役をBがやればBの役をCがやるというように順送りになっていく。華斗詩音はお栄役。絵衣子は新人公演でお栄を演じるだけでなく、本公演でも華斗詩音が休演の場合は代役をつとめることになっていた。軽い役ではない。香盤(配役と場面の一覧表)が発表された時には、自分に代役が回ってくるような事態にはなるまいとたかをくくってしまったが。

「セナさんは休演するかも知れない。そのつもりでいなさい」

 悲鳴を発しそうになった。絵衣子は日々の努力は怠っていないが、それは自分の能力を向上させるためであって、他人との競争で前に出ようというのとは違う。求道者ではないが、芸術家気質といえるし、自己満足ともいえる。負傷退場者が出たことをチャンスととらえる意識はなく、プレッシャーが重いだけだ。

 

 翌朝、花組プロデューサーから電話が入った。もとは阪急系列の社員だった人物で、演劇の専門家ではないのだが、これが阪急グループの人事の独特なところである。

「セナは休演することになったよ。代役をよろしくな」

 使い走りでも頼むように告げられたが、その瞬間、絵衣子の脳裏を横切ったのは、新人公演で体験した、強烈な光を浴びて何も見えない銀橋だ。

「組長さんのケガは……?」

「左手首骨折。右足アキレス腱断裂。よく最後のパレードに出られたもんだよなあ。あの根性は見習いなさい」

 過酷な稽古と公演を続けるタカラジェンヌは誰しも満身創痍だから、骨折しても何とか舞台に出ようとする。休演はよほどのことである。

「復帰は……?」

「今公演は無理だね。千秋楽までこの役は君のものだ。ええと何だっけ。あ、お栄ね。セナも君なら大丈夫だといってる。頼んだよ」

 新人公演の出来は大丈夫じゃなかった気もするのだが、どこを見て評価したのだろうか。とにかく、話は決まった。逃げ道はない。

 この日は昼と夜の二公演だ。昼の部は貸切公演だから、アドリブなどの「お遊び」も少々は許されるが、笑わせるのと笑われるのはまったく違う。

 茫然としながら劇場に入り、気がついたら自分の化粧前にへたり込んでいて、目が痛み、涙が音を立てそうな勢いであふれ出ていた。

「なになに、私、何やった?」

 手元を見ると、うがい薬を持っている。目薬と勘違いしたらしい。ゲラゲラ笑っている佑里に見送られて洗面所へ駆け込み、目と顔を洗った。

 楽屋は大部屋で、奥に行くほど上級生の席となり、奥の院と呼ばれるカーテンの向こうの幹部部屋に入るのは組長クラスの最上級生だけだ。たとえトップスターでも年次が低ければ大部屋の住人である。

 同期生は試験の成績順に化粧前を並べていて、鏡子も佑里も絵衣子に近い。座椅子を使うのは上級生で、下級生は自粛するが、バランスボールに座る者もいる。体幹を鍛えるという大義名分があるので、座椅子ほどにはヒエラルキーに縛られない。佑里もバランスボールに座りながら器用にメイクしている。

「これからあなたをおエイと呼ぼうか。正統派のヒロインよりも癖の強い変な女をやらせたら若手随一だもんね」

 代役は本役と並行して稽古をしている。新人公演でその役を演じる者が代役もつとめるなら効率はいいだろうが、序列にこだわる宝塚では、上の方の番手の代役もまた「路線」スターと決まっている。トップの代役は二番手、二番手の代役は三番手となるのが基本だ。

 華斗詩音はそのような路線の序列には並んでいないが、組長として別格で、存在感ある配役を振られている。代役は娘役の上級生となるのが順当なのだが……。

「お気楽に宝塚ライフを送ってきた私なのに……」

「あなたも研五(研究科五年)なんだから、これくらいやってもええやん。そもそも原作者の縁者だからね。劇団としちゃ、あなたを冷遇しているわけではないことを香盤の上だけでもアピールしたかったのかも。まさか実現するとも思わず」

 どんよりした気配を感じ、鏡子の席を見やると、メイク中ではあるが、手つきは重い。鏡に向けた視線も遠くを見ている。

「心ここにあらずという人がいる」

「セナさんのケガに責任感じてるのよ。キョンともあろう人が集中力を欠いて転落したとも思えないけど」

 と、佑里。キョンとは鏡子の愛称だが、絵衣子も佑里も普段はそうは呼ばない。

「集中力を欠いた理由に心当たりある?」

 佑里は真顔で絵衣子に訊いた。絵衣子は強い眼光で睨み返した。お前だって何も知らないわけじゃないだろ、という無言の意味をこめる。

「あー。わかったわかった。もういうな」

 と、佑里はたじろいだ。しかし、鏡子は自分の生い立ちを今さら思い悩んでいたわけではあるまい。第一、心に何があろうと、舞台に出たら忘れるものだ。あの事故は鏡子とペアだった娘役がバランスを崩し、それをカバーした鏡子が足を踏み外したのだ。絵衣子は大階段の上から視界の隅にそれを見ている。さらにそれが詩音へと連鎖した。

「大階段に出ている時は怖さは感じないけど、帰宅して思い出すとゾッとすることあるよね」

 と、絵衣子。佑里に話しかけてはいるが、その言葉は鏡子の耳へも向けている。

「大階段から落ちるとトップになるというジンクスあるわね」

「それがほんとならトップスターだらけだけどね」

「失敗ばかりしてる私らから励まされても説得力ないけど」

「私なんか舞台で転ぶのはもはやお家芸だからね」

「佑里さあ、舞台に落とした胸パットがテレビ中継でずっと映ってたよね」

「絵衣子だって、エクステ落としたのが公演ブルーレイに残って、売られてるやん」

「ロケット(ラインダンス)で靴飛ばしたの誰よ」

「淑女のダンスで腰のバッスルがはずれて、ずっとスカートを押さえてた人にいわれたくない」

「発砲シーンで拳銃忘れて舞台に出ちゃった人よりマシですうー」

「あれはもう、とっさに帽子で手元を隠して、銃を持ってるふりした機転にわれながら感心するわ。それより上手スタンバイしてたら、下手から出ることになってるのに気づいて、舞台裏をドレス姿で全力疾走したのはどなたでしたかね」

「あれで息も切らさず颯爽と登場した私の演技力には皆さん感心してたわよ」

 悄然としていた鏡子が、

「うるさいっ」

 低音で凄んだ。虚ろだった目が強く光っている。

「音楽学校以来、あなたたちがドジ踏むたびに一緒に頭下げてきた私の身にもなってよ」

 生気を取り戻した鏡子の顔を絵衣子は横から覗き込んだ。

「あのお……鏡子さん。その色白のメイクはショー用のメイクではございませんでしょうか。これからお芝居が始まるのですが」

「……あっ」

 鏡子は本公演では首斬り役人・山田浅右衛門吉亮の役で、精悍な顔を作るのである。それが華やかなメイクになってしまっている。

「もううううううっ」

 嘆息しながら、鏡子は周囲に聞こえない声量で呟いた。

「まだ発表されてないけど、セナさん、退団するつもりらしいわよ」

「え。何で?」

「あなたたちみたいな組子がいたら、辞めたくもなるわよ」

「私たち、花組の宴会になくてはならない盛り上げ担当だよ」

 詩音は過去が表沙汰になる前にこの世界から身を引こうというのだろうか。

「絵衣子」

 と、鏡子。彼女は華斗詩音の血縁者だから、連絡も取っている。

「セナさんからことづけられた。新公は好きなようにやりなさい。衣裳も遠慮なく手直ししてかまわない。もっとも、私の方が細いけど。ははは。以上っ」

「細さでは負けてませんっ。私の場合、胸があるんですっ」

 新人公演の配役が決まると、自分が演じる役を本公演でやっている上級生に挨拶し、衣裳も本公演からの借り物だから「お衣裳をお借りいたします」と挨拶を繰り返す。衣裳合わせにも暗黙の掟があり、下級生が上級生の衣裳を借りる場合、細身にサイズ直しすることは神をも恐れぬ無礼とされる。お栄役なら和装だからタオルや伊達締めで補正もできるし、体型の違いは目立たないのだが、芝居のあとのショーではドレスを身にまとう。華斗詩音のドレスは他の娘役、女役よりも豪華にできている。しかし、新人公演ではショーは省略していたのである。

「やっぱり……ショーも私が代役やるのかな。どうしても?」

「どうしても。あなたがやらなきゃ誰がやるのよ。振り付けは入ってるでしょ」

「振りを入れるより笑顔でごまかす方が簡単だよ」

「あなたね、見た目はキレイだし試験の成績も上位なのに、どうして路線じゃないのか、世間はあらぬ憶測をするものよ。性格悪くて幹部や男役に嫌われてるとか男遊びがひどすぎるんだとか。実力を見せつけて、そんな噂は吹き飛ばしなさい」

「実力見せつけたら、抜擢されないのは何故かと余計に取り沙汰されそうだけど」

「いいからっ。本番前にお稽古につきあってあげる」

 同期の協力を得て、開演前の緊張した時間をやり過ごした。いざとなれば開き直りの度胸が生まれるかと自分に期待したが、

「よっ、組長代理」

 などと冷やかす上級生もいて、馬鹿正直に責任を感じてしまった。ゆっくり悩んでいる暇もなく、どたばたするうちに昼の部が始まった。オーケストラの演奏が鳴り響き、群舞で盛り上げたプロローグに続いて、芝居に入っていく。この緊張感が他では得られない陶酔を呼ぶのだが、絵衣子には楽しむ余裕などない。

 舞台袖に待機するうち、めまいのような緊迫感に襲われた。周囲を見回し、落ち着こうと努力した。われを忘れると、視野狭窄に陥ってしまう。

「絵衣子。深呼吸」

 誰かが声をかける。出番が近づいた。演出では、大笑いしながらの登場で客席の耳目を集め、他の出演者と二言三言からんだあと、スポットを浴びながら銀橋を渡る。そこで、お栄のこれまでの人生、これからの人生を象徴する歌声を二千人以上の観客の前で響かせるのだ。すでに宝塚大劇場の新人公演で経験済みとはいえ、良いイメージがない。

「無理っ」

 踵を返して舞台から離れようとすると、いつからそこにいたのか、鏡子が腕をつかんだ。山田浅右衛門吉亮の出番は芝居の終盤なので、ここでは侍姿の群舞要員として控えている。

「逃がさないよ。腹をくくりなさい」

 鏡子は絵衣子を包み込むように抱き寄せた。

「ぽんぽん」

 耳元で囁いたその言葉は、音楽学校の頃から多感な同期生の心を落ち着かせるために唱えられてきた呪文だ。

「自分の一番いい顔で出ることを忘れるな。ぽーんぽん」

 鏡子はそういい、絵衣子の出番寸前まで彼女を離さなかった。

「もういい。落ち着いた」

「よし。行け」

 男役の涼しい声に送り出され、光の中へ踏み出した。まぶしい。熱い。それを快感に変換し、声を身体の中から解放した。