骨喰丸が笑う日 第十回

骨喰丸が笑う日 第10回 森 雅裕

 下谷車坂に榊原鍵吉の直心影流道場と屋敷がある。自他ともに認める剣術界の第一人者ではあるが、金銭とは無縁の生活であることは、建物のくたびれた外観からもわかる。

 それでも道場からは弟子たちの掛け声が聞こえる。勝手知ったる場所なので、源次郎は屋敷の玄関へ回った。

 門下生が掛け取りの商人と押し問答をしている脇から、奥へ向かって声をかけた。

「栗飯を持ってきてやったぞお」

 少ない髪で今なお髷を結っている筋骨たくましい男が現れた。面長で、大きな口を一文字に結んでいる。榊原鍵吉である。数えで五十八歳になる。

「物売りでも現れたかと思えば、お前か」

「俺だ」

「ザンギリ頭だけでなく、しばらく見ないうちに身なりまで洋装になったのか」

「ラシャ切りバサミなんぞ作っているから、仕立屋と親しくなっちまってな」

「すまん、すまん」

 この鍵吉の言葉は玄関にいた商人への謝罪である。商人は掛け取り台帳を振りかざし、横合いからすがりつくように支払いを求めてきたが、鍵吉は取り合わない。

「年末にはまとめて払うから、米を二斗届けてくれ。今日中だぞ」

「あのね、うちは米屋じゃねぇです。煮売り屋(惣菜屋)ですぜ」

「同じようなもんじゃないか」

 あきれ顔の商人にさらに「すまん、すまん」といいながら、鍵吉は背を向けた。

 源次郎は鍵吉とは二、三年会っていない。それでも、上がれともいわれぬうちに靴を脱ぎ、座敷で座り込んでいた。

 手土産の栗飯を差し出し、屈託なく笑った。

「ひさしぶりだな、鍵さん」

「源さんも元気そうで何より。今や洋バサミの名人ってわけか」

「まあ、何でも作るさ。お前さんこそ、講釈席や居酒屋をやっても失敗続きなのに、本業の剣術道場はなかなかにぎやかじゃねぇか」

「警視庁や陸軍の連中、お雇い外国人までが何となく集まって来やがってな。人徳だ」

「人徳者ってのは借金取りも押しかけるものらしいな。掛け取りは勝手口へ回るものだが」

「ああ。勝手口を守る嫁が俺より恐いからな。うちに来る掛け取りは玄関に居座るのだ。借金取りばかりじゃなく、旧友も来るぜ」

 鍵吉は赤鬼のような顔面圧力を源次郎にぶつけた。

「何の用だか知らんが、金の話じゃなさそうだ」

「うん。他でもねぇ。お前さん、兜割りをやると聞いた」

「おしゃべり野郎がいるようだな。他言無用だぞ」

「同田貫を探しているそうだが」

「いやいや。利刀を探しているだけだ。昔、昭徳院様(徳川家茂)の御前で鉢(兜)割りをやった時、同田貫を使った。借り物だったので、今はどこにあるかわからん。ああいう刀なら、またうまくいくかと思っている。それで、知り合いの刀屋が探してみるといっていたが……おしゃべりはそいつか」

「ふふん。刀屋じゃなく俺に相談しろよ。同田貫にこだわらねぇなら、利刀を用意してやるぜ。榊原鍵吉はゴツイ刀にこだわるほど馬鹿じゃねぇと思っていたよ」

 兜の鉢を断ち割るなら豪刀が向くという考えは安直だ。重ねの厚い刀なら丈夫だということにはならない。厚い分、切れ味は落ちる。そのため、何かに斬りつけた時の衝撃が相手ではなく刀へと跳ね返り、曲がったり折れたりする危険性がある。

「刀の御用命なら固山一門へどうぞ。頼りにしてくれねぇとは水臭えじゃねぇか」

「何いってやがる。俺がやってた講釈席を覗きに来たのはいいが、講釈師連中と大喧嘩しやがって。忘れたか。席がつぶれたのはお前のせいだぞ」

「せっかく俺がビスケットを差し入れしてやったのに、乾き物の洋菓子は喉に悪いから御勘弁などと気取ったことぬかしやがるからだ」

 源次郎はいうべきことをいうと、座敷から立ち上がった。

「じゃあな、席亭」

 と、皮肉と親愛をこめて呼んだ。

「うちで待ってるからな。いつでも来てくれ。洋バサミくらい土産に持たせてやるからよ」

 

 それから数日後、鍵吉は源次郎を訪ねてきた。

「洋バサミをもらいにきた。うちの嫁が仕立物に使いたいそうだ」

「気に入ったのを持ってけ」

 源次郎は完成品を五挺ほど並べた。鍵吉が裁ちバサミを選ぶと、

「それから、ついでにこれも見ていけ」

 源次郎は箪笥から三本の刀を取り出した。源次郎自身の作、父の宗次の作、それにかつて時太郎が軍人の注文で鍛えた刀である。

「気に入ったのがあれば、鉢割りに使え」

 鍵吉はまず源次郎の刀を凝視した。

「さすがにソツがないな。見事なものだ。ただ、上品すぎる」

「しかし、鉢割りのような荒事にも耐えてみせるぜ」

「刀を手にすると色々感じるものだ。無性に振り回したくなる刀もあれば、身近に置いて、心の支えとしたい刀もある。こいつは後者だな」

 そして、宗次の作刀を手にした。

「はて。変わり出来だと思ったら、清麿と銘があるが……」

「実は親父の作だ。ちょいと訳ありだが、かの吉田松陰の愛刀だった」

「ふうん。維新を呼び起こした英傑とやらか。そんな名刀なら大切に仕舞っておけ」

 そうはいいながら、鍵吉は手から離すのは惜しそうだったが、吐息とともに置いた。

「同田貫みたいな野暮ったいのが混じってるな」

 と、鍵吉が見入ったのは時太郎の作だった。一見、豪刀なのだが、実際は身幅も重ねも尋常よりやや大きめという程度に過ぎない。妙な迫力を持つ刀だった。

「いかにも無骨だな」

「山浦清麿の息子が作ったものだ。俺がつきっきりで手伝っているから合作のようなものだな」

「清麿は名人だと聞いている。息子というのは知らんが」

「人づきあいの悪い男だったからな。同じ屋敷に住んでいた俺たちでさえ、何日も顔を合わせないことがあった。名は時太郎という」

「これを借りる」

「いいよ。振り回したくなったか、その刀」

「何か斬りつけてみたくなる。やれるもんならやってみろ、と挑発してくる刀だ」

「ふうん。鍛冶屋とはまた違うものを剣術家は感じるようだ。ところで、ぶっつけ本番というわけにはいくまい。鉢割りの下稽古はやったのか」

「骨董屋から兜鉢をいくつか買い取って試してみたが、斬れないというより、へこんでしまうんだ。そうならないように鉛とか砂とか粘土とか詰め物を試してみたが、結果は同じだった」

「鉢割りは斬り手の腕と刀の利鈍だけの問題じゃないと思うぜ。据え物斬りの専門家に相談したらどうだい」

「専門家……?」

「山田吉亮。最後の山田浅右衛門だ。うちとは長いつきあいだ」

 明治十三年に斬首刑が廃止されたため、吉亮は明治十四年に斬役から市ヶ谷監獄書記となり、翌年には退職した。以後は定職につかず、山田家秘蔵の人胆(胆嚢)を密売したり、知人を頼って生きている。無為徒食でも世話してくれる人たちがいるのだから、これも人徳である。

「山田吉亮か。昔、撃剣会に入れてくれと道場を訪ねてきたことがある。あいにく俺は留守だったが、弟子がけんもほろろに応対してな。撃剣は据え物斬りとは違うと笑ったものだから、立ち合いを求められた。突きの一撃で弟子は昏倒しちまった。あはははは」

「まあ、吉亮ならそれくらいやるだろうな」

「会うことがあれば、無礼を詫びたいと思い続けて十数年……。お前、間に入ってくれるか」

「よかろう。奴の屋敷はここからそう遠くないが、風来坊みたいになっちまってな。在宅かどうかわからんが、寄ってみるか」

 二人は牛込赤城下の吉亮の住処へ向かった。以前は一緒に暮らす女もいたのだが、今は孤独に生活している。山田家の人間は数奇な宿命を背負っている。明治維新以後、不幸が続き、吉亮の血縁者には兄の吉豊の遺児がいるくらいで、家族と呼べる者はいなかった。

 小さな屋敷だが、庭があり、そこでは年配の女が着物を洗い張りしていた。張り板なんかないから、戸板をはずして使っている。使用人など雇う余裕はないはずだが。

 来意を告げると、女は口を歪めて愚痴った。

「私は近所の表具屋の者だけどね、まあ、ここの旦那ったら身なりはきちんとしてるんだけど、洗い物をしないからさ。シラミが湧くのよ。そんなんでうちに来られちゃ迷惑だからね」

「お宅にいるんですかい」

「居候みたいなもんさ。小遣いやるまで出ていかないんだから、もうっ」

 女に案内され、吉亮が転がり込んでいるという表具屋へ歩を運んだ。裏庭に離れ座敷があり、彼は何やら筆を走らせていた。達筆なので、表具屋の主人に代筆を頼まれることが多いらしい。

「おお。源兄か。むさ苦しいところへようこそ。といっても、俺の家ではないが」

 山田吉亮は三十四歳になる。世間では働き盛りだが、この男は退廃的な生活をしている。しかし、ただの世捨て人ではない。代々続いてきた山田家の最後の首斬り役である。背筋を伸ばし、客を迎えた。

「そちらは榊原鍵吉先生ですな。何度かお見かけしたことがある」

「榊原です。いつぞやは弟子どもが無礼を働いた。申し訳ない。わしの教育が足りなんだ」

「なアに。こちらこそ、若気の至りとはいえ、禁じ手の突き技を使ってしまいました」

「ふふふ。あの者は二、三日、飯も食えなかったぞ」

 散らかっているわけではないが、薄汚れた部屋の古畳の上で、彼らは膝をつき合わせた。

 鍵吉は事情を話し、

「……以前にも昭徳院様の御前で鉢割りをやったから、やり方さえ間違わねば可能だと思うが」

 と、斬る手つきを見せた。吉亮が同じ動作をしたのとまったく同時だった。彼らには何やら通じるものがある。

「その時と同じにやればいいでしょう」

「あの時はな、役人どもが浜御殿に会場設置し、兜の鉢を用意した。俺は刀を持参しただけだ」

「その鉢ですが、どのように据えられていましたか」

「地面に丸太を杭のように立てて、その上に鉢をかぶせる形でのせていた。鉢の内部に詰め物はなかったと思う」

「丸太というのは人の頭ほどの径でしたか」

「そうだ」

「ふむ。昭徳院様の治世といえば安政ですな。私は幼児の頃ですから、見聞きしておりませんが、おそらく、腰物奉行あたりに、山田浅右衛門が鉢の据え方を伝授したのでしょう。わが父、吉利です」

「ほお……」

「その丸太の上部、つまり兜鉢の内部に当たる部分は頭の形に丸めてあり、鉢に密着するようになっていたはずです」

「それだけか」

「そもそも兜の鉢なんざ薄っぺらい鉄板にすぎない。刀で斬れるのが当然です」

 日本刀は刃筋を通さねば本来の斬れ味を発揮しないが、一流の剣客ならそこは抜かりがあるまい。斬れないのは刀が当たった時の力が吸収され、鉄板がへこんでしまうからである。なら、へこまないよう、適度な固さの「頭」を内側からあてがってやればいい。ただ、頭頂部の内側には緩衝材となる浮け張りという布が張ってあるから、このままでは完全に密着させることはできない。

「浮け張りは取り外さなきゃいけませんぜ」

「問題は会場の設営だ。事前に聞いたところでは、台とする丸太を準備しているが、ひと抱えもあるような大きなものらしい。杭のように打ち込んだり埋め込んだりするのではなく、ただ置くだけだろう。鉢割りに挑むのは俺だけではなく、逸見宗助、上田馬之助、警視庁にその人ありと知られた二人も出場する。彼らは彼らなりに鉢試しのやり方を調べているようだ。昔は炊きたての飯か餅、熱いオカラなどを詰めて、鉢を温めて斬ったと聞いてきて、実行するつもりらしい。それなら、鉢を据え置くのは大きめの台の方がやり易かろう」

 へっ、と源次郎は一笑に付した。

「そりゃね、鉄を温めれば少しは柔らかくなるが、はたして鉢割りに有効かな。刀の世界には非常識なことをもっともらしく吹聴する連中がいるものよ。偽物の錆付けには茎の上で塩鮭を焼くのが秘伝だとか、鞘の中で刀はどこにも当たっていないなんてぬかすホラ吹きもいる。世間はそういう荒唐無稽な話を喜ぶからな」

「では、俺は頭形の木台を作って、会場へ持参したいと思うが」

「知り合いの指物師がいるから、そいつに作らせよう。天覧に供し奉るとなれば、張り切って作るだろう」

 と、源次郎がいい、吉亮も頷いた。鍵吉は怒ったようなきびしい表情で、頭を下げた。これでも喜んでいるのである。

「すまん。造作をかける。鉢試しは十日だ」

「いつの?」

「今月だ」

「おい。軽くいってくれたが、明後日じゃねぇか。ひええ。間に合うかなあ」

 源次郎はザンギリ頭に指を突っ込み、髪をかき回した。

 

 十一月十日、麹町区紀尾井町の伏見宮貞愛親王邸に明治天皇の行幸があり、弓術、鉢試し、席画、能楽、狂言が催された。鉢試しは刀だけでなく、槍や弓でも行われ、それぞれ名手が選ばれて挑戦した。このうち、刀での鉢試しがのちに「天覧兜割り」と呼ばれることになる。

 鍵吉は羽織袴でこの場に臨んだ。警視庁の官服姿で現れたのは立身流の逸見宗助と鏡新明智流の上田馬之助。彼らは控え室で道着に着替えた。ともに警視庁武術の中心人物である。彼らを警視庁撃剣世話掛(師範)に選抜した審査員が榊原鍵吉だった。逸見は数えで四十五歳、上田は五十七歳。

 会場は内庭にひと抱えもある丸太が腰よりやや低い高さに立てられ、鉢試しの台としてあった。

 鉢を固定するために中へ入れる砂袋や角材を組んだ木台も用意されていたが、剣士たちはそれぞれ考えるところがあり、その使用を辞退した。

 兜は前立や錣などはずしてある。内部の浮け張りも取り除くよう、前もって剣士たちから主催者へ申し入れてあった。台に置かれるのは鉢のみである。

 逸見が呟いた。

「ちょっと寒いですな」

 夏の方が鉢が冷えずに都合がいい。そういいたいのだろう。

「雨が降らぬだけ、マシだ」

 上田が控えの席で腕組みしながら唸るように、いった。この男は警視庁のみならず、宮内省の武道場である済寧館の御用掛(師範)をも兼務している。

 鍵吉は逸見と上田に訊いた。

「お前たちは鉢を温めるといっていたが、事前にそのやり方を試してみたか」

「むろんです」

 と、二人は同時に頷いたが、逸見はやや顔を曇らせた。

「手持ちの鉢を温めて斬りつけてみましたが、へこんだだけでした。刀がよくなかったのかと豪刀を探し回り、ようやく長船物を見つけて持参しました」

「備前刀は曲がるぞ」

「重ねが三分もありますから大丈夫かと……」

 この男もゴツイ刀が鉢割りに向くと考えている。上田も同様で、緊張した面持ちではあるが、自身ありげだ。

「私は二尺八寸の大段平を知人から借用してきました。榊原先生は同田貫ですか」

「いや。山浦時太郎という世に知られていない刀工の作だ」

「失礼ですが、そんなもので大丈夫ですか。我々は宮内省を通して、鉢に詰める熱い飯をこちらのお屋敷で用意してもらっています。榊原先生も……」

「俺はいい」

 鍵吉は彼らにも頭形の木台を提案したかったが、いかんせん、まだ届いていないのである。源次郎と吉亮は急ぎ作らせて届けると約束したが、彼らとは表具屋で話し合って以来、音沙汰がない。

 鉢試しが始まった。一番手の逸見宗助は宮内省済寧館の道場生である皇宮警察官の助けを借りて、飯を入れた布袋を鉢へ詰め込み、丸太の台へ置いた。その手つきを見ると、かなり熱そうだ。

 冷めぬうち、逸見は裂帛の気合いとともに豪刀を振り下ろしたが、検分役が鉢を覗き込み、

「斬れておりません」

 と叫んだ。刀が曲がったのは遠目にも明らかだった。

 逸見が恐懼しながら引き下がり、無残にへしゃげた鉢が運び去られる。次は上田馬之助である。彼も逸見同様に鉢を温める作戦だ。

「榊原先生」

 皇宮警察官が小走りに近づいてきて、耳打ちした。

「さきほど、刀工の固山義次殿、囚獄掛斬役だった山田吉亮殿がお出でになりました」

「うむ」

「邸内へお通しするわけにはいかぬと申し上げたところ、お帰りになりましたが、榊原先生にお届けいただきたいとことづかったものがございます」

 邸内の準備室へ行くと、頭形の木台が届けられていた。寸前で間に合った。

「私の鉢試しには、これを使ってもらいたい」

 鍵吉は皇宮警察官に指示した。会場に戻ると、落胆の空気が流れていた。上田が失敗し、深く頭を下げながら、退出するところだった。

 へこんだ鉢にかわって、また新たな鉢が用意された。飯を入れてあった布袋も取り去られ、鉢は鍵吉が希望した木台にかぶせる形で置かれた。南蛮鉄を鍛えた明珍派の桃形兜である。鎌吉自身がその位置を慎重に決めた。鉢の大きさに合わせて調整した頭形の台ではないので、少しは隙間が生じているが、贅沢はいえない。斬りつける頭頂から額あたりにかけての部分が台に密着しておればいい。

 鍵吉は来席者に一礼し、脱いだ羽織を皇宮警察官に渡した。手にした刀は山浦時太郎の作で、試斬用の斬り柄を装着してある。

 鎮座する鉢との距離をはかり、張りつめた空気の中で悠然と振りかぶった。光芒が彼の頭上から鉢へと落ちた。手応えはあった。

「斬り込んでおります!」

 検分役が鉢を手に取り、伏見宮へ差し示した。天皇は自ら手を伸ばして、伏見宮からそれを受け取った。

「おお」

 と、雲上人の驚嘆の声を周囲の者たちは聞いた。

 三寸五分、鉢は斬り裂かれていた。