骨喰丸が笑う日 第七回

骨喰丸が笑う日 第7回 森 雅裕

 薩長の新政府に反発する幕臣、諸藩藩士は彰義隊と称して、徳川慶喜が水戸へ退いた四月以降、上野寛永寺に立て籠もったが、五月十五日、新政府軍の攻撃を受け、わずか半日で壊滅した。

 翌日、小雨の中、宗次は自宅を出て、上野へ向かった。どこまで通行できるかわからないが、時代が変わっていく現場を見ておきたかった。それに彰義隊には知り合いの旗本たちも参加している。安否が気がかりだった。

 四谷にまで戦火は飛んでこないが、道々、新政府軍の隊列を見かけた。ここいらは旗本屋敷が並んでいるため、彰義隊の残党狩りが行われ、押し込み強盗のように家々を踏み荒らして回っているのである。

 宗次は六十六歳。年季の入った職工であり、あえて老いぼれた身なりを選んだので、目をつけられることもなく、江戸城の北側から外堀の筋違門を目指した。

 通行は自由になっており、下谷広小路へ出て三橋を渡り、山王台下へ至ると、防御用なのか畳が高く積み上げられていた。彰義隊の砲陣地があった場所だが、武器武具は一切が持ち去られている。勝者が回収したというより、江戸市民が火事場泥棒となって押し寄せたのである。

 黒門の周辺は弾痕だらけで、樹木はことごとく折れ、焼け野原が見通せた。新政府軍の死体は運び出されているが、彰義隊の死体は放置されたままで、持ち物を引きはがそうとする市民、追い払おうとする新政府軍の官兵、合掌する僧侶など、殺伐とした光景が広がっている。胸の悪くなる焦げた異臭も漂っていた。

 この地獄絵図を写生する絵師もいた。もしや……と見覚えあるその姿へ近づくと、河鍋狂斎(暁斎)だった。清麿存命中から共通の知人である。行き倒れた死体が腐る様子を絵巻物に作るような男で、首斬りの現場を見たいという彼を山田浅右衛門に紹介したこともある。

「やあ。固山先生。知り合いの捜索ですかい。見つけるのはむずかしいですぜ。彰義隊は顔なんかボロボロでさあ。鉄砲で撃たれたあと、死んでから切り刻まれてるから出血は少ないですがね。西国の田舎侍どもはやることが非道だ。一方、西軍(新政府軍)の死体は刀でやられて出血はひどいが、顔はきれいなもんだ」

 狂斎は手近な死体の顔をいじり回し、瞼や口をこじ開けて奥まで覗き込み、観察している。

「無念だったろう無念だったろう、うんうん……。あ、血まみれ芳年(月岡芳年)も見かけましたぜ。柳橋の橋詰にずらりとさらされた彰義隊隊士の生首なんぞ写生していました。ありゃ変態ですな」

「人のことがいえるのか」

「上野から脱出した隊士は多い。輪王寺宮も落ちのびられたようです」

「人のいうこと聞いてないな」

「吉亮も無事ならいいですが」

 吉亮は七代目山田浅右衛門吉利の三男で、彰義隊に加わっていた。大きな声でいえることではない。山田家は宗次とも懇意で、刃味について相談もしていた。吉田松陰を斬首した吉利は宗次より十歳年下で、彼が六代目山田浅右衛門吉昌の養子となる以前から見知っている。その子の吉亮はまだ十五歳の若さである。

「吉亮なら、浅草の方に逃げ込めば、新政府軍も手が出せまい」

 宗次は戦場の異臭を避けて浅く呼吸しながら、呟いた。首斬り役の職務上、山田家は浅草の人足小屋とつながりがある。そこは一種の治外法権である。

 狂斎は画帖に筆をのたくらせながら、あたりをはばからぬ大声で、いった。

「これからは奥州が戦場ですよ。そういえば、お宅の文吉(宗明)は一関でしたな」

「十年ほど前に帰国して、今は一関の藩工だ」

「東北人はなかなか頑固ですからなあ。無事でいてくれるといいが」

 うるさい男だ。宗次は別れも告げずに彼から離れ、谷中の方へと歩き出した。

 しばらくすると、後方で獣の咆吼が起こった。人の声だと気づくのに少々時間を要した。狂斎が泣いていたのだが、宗次は振り返らなかった。

 

 それから数日後、清麿の最後の弟子ともいえる清人が訪ねてきた。この男も東北人である。

「宗次先生。昨年から私は江戸と庄内(荘内)を行き来しておりましたが、この度、江戸を引き払うことになりました。郷里へ戻ります」

 門人が離散した中で、清人はただ一人留まって、清磨の残した三十余口の刀債を完済して師の恩義に報いた。その後、神田小川町に仕事場を構え、庄内藩の藩工となり、慶応三年には豊前守を受領した。今や一流鍛冶である。

 庄内藩は慶応の初めに江戸市中取り締まりに任じられ、慶応三年には上山藩、鯖江藩、岩槻藩、出羽松山藩とともに江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしており、剛毅な藩風で新政権に対して反発し、すでに戦闘状態に入っている。

「命を粗末にするなよ」

「なあに。戦争に負けたら、家業を継ぎますよ。豊前守なんていっても温泉宿の親父です。のんびりやります。実家の屋号も朝日屋というんですよ。アサヒさんの旭屋とは字が違います。宗次先生も暇ができたら、ぜひお立ち寄りください。大歓迎いたします」

 そういい残して、去った。

 慶応四年七月、江戸は東京と改称され、九月には明治と改元された。その後、戊辰戦争は奥州を蹂躙して北上し、明治二年五月には箱館の榎本武揚軍が降伏した。箱館には、桑名の元藩主であった松平定敬も参軍しており、一旦は海外へ脱出しようとしたが断念、横浜で投降した。

 清麿には清人のように実直な弟子もいる一方、たくましい処世術を見せる弟子もいる。

 明治三年三月、戊辰戦争の終結からもうすぐ一年になろうという頃、栗原信秀がアサヒの旭屋に現れた。宗次はアサヒに小物の彫刻など依頼することもあり、旭屋で角打ち(立ち飲み)の常連にもなっているから、その場にいた。

 信秀はしばらく上方にいて、東京はひさしぶりである。新政権に精力的に取り入り、権力者や朝廷へ作刀を納めている。

 その成果が入った巾着をどさりと床へ置いた。

「アサヒよ。長年、溜めに溜めた店賃やら飲み代やらその他もろもろだ。耳をそろえて払ってやるぜ」

 アサヒが彫金をやる仕事場は洋式の机と椅子を入れ、どこから入手したのか、鉄製の半球を工夫し、自在に動かせるヤニ台を作っている。アサヒはそのヤニ台でコツコツと金具を彫りながら、いった。

「太政官札とか民部省札なんてわけのわからない紙の金だったら受け取らないよ」

 信秀は巾着から金属音を立てて、中身を落とした。

「小判と一分銀だ。釣りはいらねぇぜ」

「そもそも貸した金がいくらかも覚えちゃいないよ」

 この二人、何年も会っていないのに、昔話に花を咲かせるでもない。だが、宗次が会話に割り込む隙間もなかった。

「筑前守さん」

 と、アサヒは信秀に呼びかけた。

「薩長に取り入って、朝廷にも作刀を納めてるそうじゃないか。世渡りのお上手なことで」

「あのな。俺は幕府や諸藩に義理も恩もないぜ。将軍贔屓の江戸っ子でもない。時代は変わったんだよ。刀鍛冶なんざ遠からず廃業に追い込まれるだろう。今のうちに稼いで、老後にそなえているんだよ」

 刀鍛冶は武士や貴人の魂の制作者である。失業することがあるのだろうか。宗次も漠然とした不安は覚えるものの、実感は湧かなかった。

 明治二年の版籍奉還は各藩の大名たちにも意味不明なものだった。武家社会が終わることを新政府はまだ隠している。

「お前こそ将来を考えろよ、アサヒ。お腹が大きいみたいじゃないか」

 そうなのである。洞察力のある者なら気づく程度に腹が膨らんでいる。アサヒは四十近くになって結婚したが、一年足らずで離縁に至った。相手は在留外国人で、それが何者なのか、宗次も誰も知らない。いつの間にか妊娠していた印象なのである。

「なんとまあ、父親は異国の渡り者かい。予定は秋くらいか。夷狄禽獣の子がどんな目で見られるか、考えなかったのか」

「そもそも夷狄禽獣だなんて思ってないけど」

「へえ。生まれてくる子供も同じ考えの持ち主に育てばいいがなア」

 アサヒは立ち上がり、近くにあった色上げに使う銅鍋をつかむと、スタスタと近づいて、信秀の頭を殴りつけた。信秀は頭を抱えて、ごろごろと転がった。

「痛あ……。相変わらず乱暴な女だなあ」

「相変わらずの馬鹿だね、あんたは」

 信秀は涙さえ浮かべながら、身を起こした。 

「ところで、宗次先生。時太郎はどうしてますか」

 清麿の遺児は今、十八歳である。清麿は刀鍛冶にするなと遺言したが、幼少から宗次の仕事場しか遊び場がなかったから、自然に技を覚え、一応の腕には達している。未亡人のキラもこの仕事には反対だったが、音曲の師匠として働くうちに旦那ができて、息子から離れてしまった。

「時太郎の第一作は雲井龍雄という元・米沢藩士に納めた」

「雲井……」

「戊辰の役にあっては、薩摩の無節操と横暴を怒り、奥羽越列藩同盟に『討薩の檄』を飛ばした気骨ある人物だ。庄内へ帰郷した清人と会って、清麿という名人の話を聞いたらしい」

「ああ。上方で米沢藩の探索方をつとめていた男ですな。私もね、今宮戎神社で鍛刀していた頃、会ったことがあります。雲井は維新前には小島何とかといいましたな。辰年辰月辰日の生まれだとかで、龍が雲を呼んで天に昇るという気概から改名したんですわ」

「雲井は清麿の息子が刀鍛冶になったことを知って、最初の客となった。清麿は憎き長州寄りの人間だったが、まあ変節を繰り返した薩摩よりマシだし、刀鍛冶としての腕や生き方に雲井は惹かれたらしい。雲井もまた大いなる『人たらし』だから、それ以来、時太郎は雲井が主宰する帰順部曲点検所なるところに入り浸っている」

「何です、そりゃ」

「旧幕府の不平武士たちの集まりのようだ」

「穏やかじゃありませんな。雲井は各藩の俊才が集う三計塾(安井息軒の私塾)の塾頭をつとめたほどの男。お近づきになりたくない手合いですなあ」

 戊辰戦争の敗戦後、雲井龍雄は他の主戦派と同様に米沢で謹慎の身となった。明治二年、謹慎を解かれると上京して、集議院議員に任じられた。集議員には立法権はなく、太政官からの審議事項に答える諮問機関であるが、実状は各藩への朝命伝達機関にすぎない。

「雲井は薩長閥へ反発し、集議員の壁に得意の詩文を書き殴って、わずか一か月で辞職したと聞いています。ますます友達になりたくない奴ですわ。だからこそ、あぶない」

 年が明けると、雲井は芝二本榎の上行寺と円真寺の境内に「帰順部曲点検所」の看板を掲げた。表向き、東京府内を浮浪する不平士族を迎え入れ、新政権に帰順させるという名目である。

「今、雲井はまだ二十七、八の若さだと思いますが、吉田松陰……寅さんが松下村塾で弟子を教え始めたのもそのくらいでしたな。そして、寅さんは三十歳で山田浅右衛門吉利に首を斬られている」

 信秀はわざわざ首斬り役の名前を出した。嫌味である。山田家と宗次の関係を知った上での発言だ。

「雲井のような才人は毒にも薬にもなるものだ。時太郎を縄で縛りつけて外出禁止にもできんだろう」

「しょせん宗次さんには他人の子ですからな」

「栗原。お前が薩長の覚えめでたく、俺が桑名藩工として有名無実になったからといって、無礼な発言は許さんぞ」

 桑名も藩の存続が危うくなっており、お抱え刀鍛冶どころではない。

「いや、これは失礼。しかし、時太郎の交友関係は気になるところです。私にとっても師匠の遺児ですからな」

「時太郎は山田浅右衛門のところの吉亮とも親しいようだ。七代吉利の息子で、八代吉豊の弟だ。歴代の中でも屈指の腕らしい。時太郎よりひとつ年下だ」

 吉亮が浅右衛門を襲名するのは、兄の吉豊が若隠居となった明治七年以降である。順番からいえば、九代ということになる。しかし後年、吉亮自身は八世と称している。十二歳の時に十五歳と嘘の届け出をして、囚人の首を斬ったのが彼の仕事の始まりである。

「若いですなあ。もはや明治は彼らの時代ですな。しかし、首斬り役に明るい将来がありましょうや」

 どさどさッ、と彫金用の小鎚がまとめて飛んできて、信秀の膝元へ散らばった。

「栗原! いい加減にしな!」

 アサヒが怒鳴った。

 

 のちの自由民権運動にも影響を与えた雲井龍雄が、政府転覆の嫌疑をかけられ、充分な取り調べもなく伝馬町で斬首されたのは、この明治三年の十二月であった。首斬り役は十七歳の山田吉亮である。使用した刀は固山宗次の作とも東多門兵衛尉正次だったとも伝わる。

 そして同月、平民の帯刀禁止が発せられた。やがて来る明治九年の廃刀令の前段階であり、新政府の最終目的は武士の虚号と蛮風を一掃することにあった。

 明治四年の廃藩置県により、旧幕時代の藩は消滅し、宗次も桑名藩の禄を離れた。四谷の屋敷は維持していたが、弟子たちは去った。いずれ刀鍛冶という人種の需要などなくなることは時間の問題であった。

 宗次の次男である源次郎は雲龍斎義次と名乗り、越前鯖江の間部家に出仕していたが、こちらも失職し、宗次の屋敷で無聊をかこっていた。

 そして明治五年の秋、固山宗次は自宅で倒れた。脳卒中である。命は助かったが、手足の痺れが残り、仕事はできなくなった。

 もう永くない……。本人がそんな自覚をしたこの年の暮れ、山田吉亮が宗次を訪ねてきた。宗次は七十歳に達している。吉亮は十九歳。孫のようなものである。

 山田浅右衛門は、明治二年には新政府から首打役の辞令を受け、家職は存続しているものの、様斬り(試し斬り)は禁止され、副業だった人胆による製薬も不可となり、山田家は二つの収入源を一度に失っている。新時代は古い体制の中で生きてきた者たちを先の見えぬどこかへ押し流そうとしていた。

 吉亮は美男だが、どこか凄味があり、実年齢より上に見える。

「お身体はいかがですか」

「いささか不自由だが、助けを借りずとも自分のケツは拭ける。どうってことはねぇよ」

「左様ですか」

 宗次は滑舌もよくない。しかし、吉亮は宗次の言葉を問題なく聞き取り、頷いた。

「人胆は飲んでいますか」

「万病に効く霊薬も老いぼれは見放すようだぜ」

「じゃあ、こっちの方が滋養にはいいかも知れませんな」

 土産に持参した紙袋を開いた。

「銀座に新しくできた店が考案したあんパンというものです。まだ試作で店には出していませんが、山岡鉄舟殿がお気に入りで、分けてもらいました」

「へええ。葛飾北斎師が存命だったら、喜んだだろうなあ。甘党だったから」

「ところで、先生。山浦時太郎がどうしているか、御存知ですか」

「いや」

 師と仰いだ雲井龍雄が刑死して以来、時太郎は行方が知れない。雲井事件では五十人以上が断罪されたが、その中に時太郎の名はない。加盟者は千人とも一万人ともいわれるが、雲井は全身に無事な皮膚を残さぬほどの拷問を受けても、同志の名を洩らさなかった。

「時太郎は浅草溜にいるようです」

「あそこは病囚、幼囚を収容する牢獄長屋だろう」

「いえ。今年の十月に、府内にあふれる物乞いを一旦は本郷の旧加賀藩邸の空き長屋へ集めたのですが、あちらに新しい学校を作るもんで、すぐ浅草溜へ移したんです。囚獄というわけじゃありません」

 江戸時代にも各地にあった救済小屋の発展型で、養育院の始まりである。吉亮は首打役という職種柄、司法省や非人階級の者たちとつながり、そうした情報も入るのだろう。そればかりではなかった。

「時太郎がただ落ちぶれただけなら放っておいてもいいんですがね、どうも厄介なことになっているようで」

「厄介?」

「内藤新宿に雪野という女郎がいたんですが、時太郎と二世を誓った仲でしてね。だが、彼女には借金がある」

「やれやれ。二十歳かそこらの無宿の若僧が女郎と二世を誓うとは……。しかし、娼妓は自由の身になったはずだが」

 この年の十月二日、太政官は人身売買禁止、娼妓の年季奉公廃止を命じ、現在身柄を拘束されている者は無償で解放するよう布告した。しかし、遊女たちは生活の術を持たない。一文無しで放り出されても困る。そこでひねり出された抜け道が、座敷を遊女に貸すという名目での営業である。

「結局、遊女は借金から逃れられない。雪野の親がまた借金して、働かせようとしたので、時太郎が連れて逃げた。雪野は身を隠しています」

「お前さん、随分くわしいじゃねぇか」

「昔、時太郎と私は内藤新宿で一緒に遊びましたからね」

「昔って……今いくつなんだよ。お前も隅に置けんなあ」

 山田浅右衛門の一族は腕も立つが、放蕩者が多い。殺伐とした家業のため、精神の癒しを渇望しているのだろう。

「悪い遊び仲間でしたが、雲井の死後は絶交されましたよ」

「しかし、お前の方はあいつを見限ったわけじゃあるまい」

「実は雪野が身を隠しているのは、わが家です。時太郎は雪野に吉亮のところへ行けといったそうです」

 平河町(平川町)の山田浅右衛門屋敷は人斬り屋敷と畏怖され、世人は気味悪がって近づかない。女をかくまうにはいい場所だ。

「半月ほど前、雪野はうちへ逃げ込んで、台所の手伝いなんかやってますよ」

「そして、時太郎は物乞いに身をやつして、浅草溜か。まあ、あそこも世間の目は届かんな。……で、何故、俺にそんな話を?」

「宗次先生は時太郎の師匠じゃありませんか。先生のいうことなら奴も聞くでしょう。まっとうな生活をさせてやってください」

「さて。俺のいうことを聞くような奴なら、無宿人まで堕ちていないと思うがなあ。」

「私もできるだけのことはします。しかし、私は時太郎に合わせる顔がありません」

「雲井龍雄が本当に乱臣賊子だったかどうかはともかく、お前が彼奴を斬ったのは公務だろう」

「むろん、恥じることではありませんが、時太郎が私を許せないのも理解できます」

「だが、あいつは雪野とやらをお前に託した」

「ええ。でも、わだかまりがないなら、雪野を一人で私のところへ寄こさず、一緒に来るでしょう」

「うう……む」

 宗次は唸りながら頷いた。

「俺は動けねぇ。宗一郎に浅草へ行かせよう。お前も同行しろ。浅草溜なら、お前の顔がモノをいう。時太郎と会いたくなければ、離れていればいい」

「はあ……」

「浅草へ行くなら、北斎師の墓へ寄り道してくれまいか。場所は宗一郎が知っている」

「わかりました。このあんパンを供えてきましょう」

「途中、宗一郎に食われてしまわぬように、な」

 宗一郎は山田浅右衛門の屋敷に若いうちから出入りし、幼い吉亮の遊び相手になってきた。気心は知れた仲である。

 その宗一郎は四十代半ばを過ぎ、のんきな長男だが刀鍛冶としてヒトカドの腕になっている。この御時世ではあるが、新政府要人からの依頼やウィーン万博への出品を父に代わって受注している。

 やってきた宗一郎は、

「ふさ(亮)」

 と、吉亮を呼んだ。

「顔が穏やかなところを見ると、数日は首を斬ってねぇな」

 それが挨拶だった。

「あにさん」

 と、吉亮は芸人のような呼び方である。

「浅草まで御足労を願います」

「そうか。もう歳の市だなあ。猪牙舟で行くかい」

「そんな浮かれたもんじゃねぇ」

 と、宗次は呟いた。瞑想でもするように目を閉じている。これだけのやりとりでも疲れていた。

 宗一郎に事情を話すと、彼は屈託ない目元に苦笑とも困惑ともつかぬものを浮かべた。

「時太郎とはねぇ、もう二、三年会っていませんな。あいつ、お袋さんがどこでどうしてるかも知らないでしょうよ」

 そんなことは宗次も知らない。しかし、宗一郎は社交家だから、情報は色々と入るらしい。

「キラさんは本所の方で音曲の師匠をやっているようですぜ。旦那もいる。今さら放蕩息子に転がり込まれても迷惑でしょうねぇ」

「時太郎はうちへ連れてこい」

「そういうことなら、迎えに行きましょうかね」

 今日これから行くとも決まっていないのに、宗一郎は支度のために自室へ向かった。のんびりしていても行動力は持っている男だ。