骨喰丸が笑う日 第三十一回

骨喰丸が笑う日 第31回 森 雅裕

 日曜には夏門みつ希こと小浪鏡子のお茶会が銀座のカフェ貸切で開催された。お茶会は基本的に土曜か日曜の夜で、二回公演を終えたあとだが、ハードスケジュールに追われるのがタカラジェンヌの日常だ。

 主催は私設ファンクラブで、サプライズゲストも登場するのが慣例である。鏡子本人にも内緒で、今回は絵衣子と男役の上級生一人が「乱入」する予定だったが、カフェの厨房で待機していると、裏口に通じるドアから意外な人物が姿を見せた。

 華斗詩音の付き人である。詩音の私設ファンクラブの幹部で、絵衣子も面識がある。組長の付き人ともなると、それなりに貫禄もあるオバサマだ。絵衣子たちはセーラー服に詰め襟の学生服というふざけたコスプレなのだが、気にとめもしない。

「あなたたち。セナさんから差し入れを預かってきたわよ。ケガで休演してるのに本人が来るわけにもいかないからね」

 差し入れといいながら、手ぶらだが、

「表の車に積んであるから運んで」

 上から目線で指示を出す。いわれるまま、厨房にドサリと箱を積み上げた。お洒落な洋菓子の詰め合わせかと思いきや、堅焼きの煎餅だった。「ありがとう これからもよろしく」と焼き印が一枚ごとに押してある。記念や式典用に作られている煎餅だ。

 もちろん、この場の主役は鏡子だから、彼女のファンに対してのメッセージだろうが、そればかりではないような気もした。

「どういう意味でしょう……?」

 絵衣子は付き人を凝視した。相手は意味ありげに首を振り、それ以上いうなと合図した。やはり、詩音は退団するつもりなのか。

 会場の司会者が、

「ゲストが来ていまーす」

 と登場を促した。絵衣子たちは差し入れの箱を抱え、カフェの店内へ出た。会場が歓声と拍手に包まれる中、ステージ上の鏡子は苦笑しながらも親友の登場に安堵の色を見せた。

「何しに来たっ」

「お届け物でーす」

 箱から取り出した煎餅を客席に配って歩く。百人に満たない客数だが、鏡子が下級生であることを思えば、有望な動員数だ。

 組長からの差し入れだと知って、鏡子の表情には喜色しかなかった。

「組長のセナさんには私のドジでケガさせてしまって、落ち込んでたんですけど……」

 鏡子は愛想を振りまきながら客席を回る絵衣子を指した。

「この人はね、のほほんを装ってるけど、見えないところで努力している頑張り屋なんです。でも、すごい恥ずかしがり屋でネガティブなんですよ。セナさんの代役にびびって、舞台袖で震えてたのを抱きしめて、落ち着かせたんです。でも……」

 鏡子は最大級の優美な笑顔を見せた。

「あなたを励ますことで、私も落ち着いた。ありがと」

 拍手が湧き、絵衣子にしてみれば照れ臭い以外の何物でもなかったが、叫んだり逃げ出したりもせず、笑顔を爆発させた。

 タカラジェンヌは会とか式とかパーティとか名のつくものには異常なほど張り切る。公演の疲れなど微塵も見せず、コントをまじえながら歌い踊り、暴露話をぶちあげ、ゲームを手伝い、ファンを沸かせて立ち去る。飛び入りの時間は短いのだが、会場は台風一過という有様である。

 帰路の絵衣子はさすがに魂が抜けたようになり、誰かの声で元気づけてもらおうかと携帯のアドレス帳を繰ったが、適当な相手が見つからないうち、タクシーの中で眠り込んでしまった。

 

 翌月曜は休演日だが、花組の組子は稽古場に集合した。午後からの稽古を前に、振り付けの確認をする者、深刻な人生相談をする者、喧嘩している者、それぞれに過ごしていたが、花組プロデューサーが現れると、一斉に注目した。

 華斗詩音も稽古場に入ってきた。手首にはギプス、松葉杖をついている。組子たちの声を揃えた挨拶を受け、詩音は、

「皆さん。御心配かけました。見た目はこんなですけど元気です」

 と、いつになく神妙に挨拶を返したが、続く言葉は穏やかではなかった。

「急ですけど、退団することを決めました」

 一瞬、息をのんだ組子たちの間から悲鳴のような声が洩れた。詩音の言葉は続いたが、誰の耳をも素通りした。

 下級生であれば突然の「集合日退団」もなくはないが、トップスターや組長のような幹部ならば何か月も前に退団発表し、最終日に向けて諸準備をするものだ。公演中に「これを持ちまして」と発表するのは異例だった。

「ワケありといっているようなもんじゃない」

 絵衣子は鏡子に八つ当たりの声をぶつけた。高校時代のゴシップで劇団に迷惑をかける前に辞めようというのか。

 しかし、鏡子は絵衣子の憤慨をなだめるように、いった。

「四十歳過ぎてワケなしの人間なんて、つまらないわよ」

 一方が熱ければもう一方が冷静となる。いつものことである。

 

 ひと月に及ぶ公演日程の半ばには新人公演が東京宝塚劇場でも行われ、無事に終了した。本公演でも詩音の代役をつとめる絵衣子にはマスコミに舞台評が出ている。「宝塚らしくないが、見ていて楽しい娘役」と微妙な評価ではあるが、注目するファンもいるようだ。

 通常の公演は掛け声禁止だが、新人公演のカーテンコールでは、主演の鏡子の愛称を叫ぶ強心臓なオバサマたちに混じって、「エイコちゃーん」の声も聞こえた。絵衣子たちの期は型破りといわれているが、娘役に声がかかるのは珍しい。

 最前列で見ていた上級生たちは楽屋へ襲来して、下級生たちをほめたり揶揄したり苦笑したり、緊張と安堵をもたらす。

 絵衣子の前へやってきた華斗詩音はドラ娘を見る目だが、声には温かみがある。

「よくやってるね、絵衣子。あと十五、六年……もっとかな。花組の組長になるまで居座りなさい」

「嫌です」

「それは残念」

「それより、千秋楽のお栄役はセナさんがやってください。サヨナラ公演です。最後の勇姿を見せなきゃ組子もファンも納得しません」

「わかったわよ。わかったから、老け役の化粧を中途半端に落とした顔で見つめるな。さっさと風呂行きなさい」

 肩を押されて、その場は詩音と別れた。

 劇場の風呂から出てくると携帯にメールが入っていた。実母の伊上磨美からだった。アメリカで仕事をしており、たまに帰国する。あまり連絡を寄こさないのだが、娘を思い出すこともあるらしい。

「新公見たよ。立派になったね。母は嬉し涙です。明日、牛丼でも食べましょうや」

 何故、牛丼なのかわからないが、承知の返信を送り、渋谷で会うことにした。

 

 翌日は昼の一回公演で、夜はあいていた。自分から誘っておいて忘れることもある磨美なので、アテにはしなかったが、十五分ほどの遅刻で約束の喫茶店に現れた。もっとも、絵衣子も同じくらい遅れたので、三十分の遅刻ということになる。

 磨美の服装は派手ではないが、洗練されている。実技優先だった芸大時代には、お嬢さんファッションで登校すると、音平から「あなたもスカートはくんですね」といわれて、ひと波乱あったと聞いているが。

「新公のチケット、よく買えたわね」

「あなたの養父から強奪した。どうせ仕事で忙しくて来れやしないんだから」

 養父は磨美の実弟である。

「本公演でも北斎の娘をやってるんだって? あなた、変な役が多いわね」

「こいつなら何とかするだろうと思われてるみたい」

「あ。音平さんも来てたわよ」

「ふーん。いつも黙って見に来て、黙って帰るのよ、あの人は」

「話なんかすると、うちに帰って淋しくなるのよ」

 小学校六年の秋、磨美が渡米してしまったので、絵衣子は一人で音平のマンションを訪ねて、そのまま転がり込んだ。卒業すると磨美の弟夫婦の養女に入ったので、それまでの半年が父と娘が同居したわずかな期間だった。

「喧嘩ばかりしてたけどなあ。愛情ないのかと思った」

「でも、小学校の卒業式には出席してくれたでしょ」

「そうなのか。何もいわないから気づかなかった」

「宝塚のチケット買うのも大変だと思うわよ。あなたに頼みもしないでしょ」

「客席で見かけたの?」

「売店で炭酸せんべい買ってた」

「話したの?」

「よっ、おおっ、それだけ」

「何年ぶりかでしょ」

「何年ぶりかも思い出せない」

「それでよく見つけるわね」

「あなたともひさしぶりよね。お土産あるわよ」

 磨美は紙袋を寄こした。無造作に服が突っ込んである。

「年に一度のブロードウェイのフリーマーケットで買った。劇場で使った小道具とかも売ってるのよ」

 ミュージカルの衣裳らしいワンピースだが、堅気の人間が着るようなおとなしいデザインではない。音平がくれた北斎画のTシャツといい、絵衣子のことを気にかけている親心は伝わるが、センスは独善的だ。胸のあたりに俳優の肉筆サインが入っているのだが、読めないし、正体不明だった。

「誰のサイン?」

「知らない。販売ブースにいたから一緒に写真撮った」

 磨美はバッグを漁ったが、すぐにやめた。

「あ。携帯忘れた。あとで写真送る」

「いいわよ、そんなの」

「母親の最近の写真くらい持ってなさい。……それじゃ、私、用があるから」

 さっさと立ち上がってしまう。

「牛丼は?」

「何、それ」

 とぼけているわけではなく、本当に忘れている。絵衣子の周囲で一番の変人かも知れない。

 あきらめて磨美を見送り、絵衣子は行きつけのマッサージ店へ向かった。夢を売る仕事とはいえ、生身の人間だ。足腰が悲鳴をあげることもある。

 偶然だが、佑里が先客として来ていた。彼女たちは行動パターンが似ており、出先で遭遇することも珍しくない。待合室で顔が合うと「おう」と挨拶し、佑里は同情気味に訊いた。

「腰痛? ダンスで意地悪されてるもんね」

 ショーの中で男役とペアを組むのだが、アラベスクのポーズで足を高く上げた絵衣子を支えるふりだけして触れもしない相手だった。それが毎日だ。バレエであれば支えなど必要としないが、このショーの振り付けでは男役が娘役を抱くように支えることになっており、タイミングを狂わされるとダンスの流れにも影響する。

「つらいよおおおお」

 絵衣子が泣きつくと、佑里は母親が子供をあやすように彼女の肩と頭に手を当てた。

「ぽんぽん。なアに、向こうはあなたが涼しい顔してポーズを決めてるから、いじめ甲斐がなくて悔しがってるわよ」

 佑里は絵衣子の荷物に目をとめた。

「服買ったの?」

「母のブロードウェイ土産」

 取り出して見せると、佑里は小さな歓声をあげた。

「わあ。可愛くてお洒落な服だなあ」

 この娘の感覚もおかしい。

 携帯が着信し、磨美からの写真が届いた。てっきりこの衣裳を舞台で着た女優かと思っていたら、磨美と笑顔を並べているのは男だ。俳優だろう。佑里に画面を見せた。

「この人知ってる?」

「あなたの生みの親」

「隣の男の人だよ」

「ああ。ノーメイクだから、ちょっと見じゃわからないけど……」

 佑里は俳優の名前を口にした。絵衣子も知っているミュージカル俳優だ。

「元気で若いよね、絵衣子のおかあさん。あ、おとうさんもか」

「二人とも再婚もせず、わが道を行くのはいいけど、老いたら誰が面倒見るんだろう……」

「それはまあ、あなたよね。余裕やん。関西の財閥の御曹司から降るような縁談があるでしょ」

「くだらん」

 絵衣子は苦々しく吐き捨てたが、佑里が罪もなく楽しげに笑っているので、つられて吹き出してしまった。

 

 千秋楽は華斗詩音のサヨナラ公演となった。楽屋の詩音の化粧前は花やレースで飾りつけられ、スリッパもリボンで彩られた。慣例では同期生が用意するのだが、在籍が長いと同期も花組に残っておらず、組子たちが競い合って飾り立てた。

 ショーは詩音の負担が少ない振り付けに変更され、途中から泣き出す出演者もいる中、無事に終了した。

 この日の退団者は華斗詩音だけではない。演目がすべて終わると、緞帳の下りた舞台上手に副組長が進み出て、退団者たちのキャリアを紹介する。トップスターならサヨナラショーが行われ、トップでなくても行われる場合がまれにあるが、詩音の場合は準備も間に合わなかっただろうし、本人の心情もあるのか、あるいは劇団の意向なのか、行われなかった。

 緞帳が上がり、愛称を呼ばれた退団者は黒紋付きに緑の袴という正装だ。最後に大階段の上へ現れた詩音は、杖をつくようなスマートさに欠ける姿はさすがに見せなかった。組子たちが大階段下に勢揃いして迎える中、ゆっくりと下りてくる。足取りは重いが、それを感じさせぬほど颯爽と進み、舞台中央に立った。

 花組からとすでに退団した同期から花束(退団ブーケ)が贈られる。その費用の出所は「すみれコード」の内緒事項で、追究するのは野暮ということになる。

 詩音は客席に向かって挨拶したが、涙をこらえるのに必死な絵衣子の耳には入らなかった。トップスターが千秋楽の感謝の言葉で締めくくり、最後は花組全員で「すみれの花咲く頃」を合唱した。何度かカーテンコールを繰り返し、華斗詩音の宝塚人生は終わった。

 楽屋を出た詩音は劇場前に整列したファンクラブへ挨拶し、時折、足を引きずる仕草は見せたが、笑顔を絶やさずに周囲の一般ファンの前を隅から隅まで往復して別れを告げた。そのあとは隣接するホテルの宴会場でフェアウェルパーティである。

 飛び入り参加した絵衣子が目を疑ったのは、わが父・音平が客に混じっていたことだ。一応、ジャケットは着ている。

「なんでいるの?」

「華斗詩音組長に呼ばれたから。千秋楽も見させてもらった」

「あああ? 昔、文通してた女子高生がセナさんだと知ってたわけじゃないよね」

「知らなかったよ。彼女も現役ジェンヌの時は会えなかったから、退団する今こそ名乗りを上げますと連絡してきた」

「だからって、ノコノコやって来なくてもいいでしょうが」

「お前が世話になった組長さんだからなあ……。あ、そうだ。あの桜星美術館だけどな。所蔵品に偽物があるとか転売してるとか、スキャンダルが発覚したぞ」

「あらま」

 人づきあいはよろしくない音平だが、文化庁や美術界に芸大の人脈があるので、多少の噂は入ってくるらしい。

「マスコミは美術館なんか興味ないから、たいしたニュースにはならないだろうが、もう骨喰丸どころじゃないよ、あの館長」

「骨喰丸に関わると、ろくなことにならない気がする」

「名刀は人を選ぶんだよ」

 そんな話をしていると、ステージを下りた詩音が近づいてきた。ここでも黒紋付きに緑の袴である。

「母里先生。ようやくお会いできました」

「二十数年越しだね」

 初対面の二人が何を話すのかと絵衣子は見ていたが、互いに突っ立っているだけで何もいわない。自分が邪魔かなと離れて様子を窺ったが、それでも言葉をかわすでもなく、詩音には他の出席者が話しかけ、連れ去られてしまった。

(何やってんだか……)

 客たちがざわつき、数人の組子たちが宴会場に入ってきた。彼女たちは私服だ。私服といっても独特のファッションではあるが。

 佑里がいる。一緒に現れた鏡子は詩音のところへ歩み寄り、何事か話している。佑里が絵衣子に耳打ちするように、いった。

「赤穂の才藤徳志さんから連絡あってね。兼景さんが入院したって。いよいよ危ないらしい。私から鏡子に伝えた」

「何で、どうして伝えたの?」

「鏡子は兼景さんに興味ありそうだったから」

 鏡子は詩音から離れると絵衣子のところへやってきて、実母である詩音との会話内容を告げた。

「兼景さんが入院したって知らせたら、行きたきゃ行きなさい。私は今さら思い出を汚す気はない……ってさ」

「ふうん」

 鏡子と佑里は会場で妙に存在感を醸し出している男に目をとめた。

「あれ、絵衣子のパードレだよね。御挨拶してくる」

「挨拶だけにしときなさいよ」

 絵衣子の声を背に受け、二人は母里音平に能天気な軽い足取りで歩み寄った。挨拶だけで終わるわけもなく、音平はかついでいたバッグから何か取り出して、鏡子と佑里に渡している。彼女たちは無邪気に喜んでいるが、以前、絵衣子にもくれた北斎Tシャツのようだ。

 思わず絵衣子はその光景に背を向け、宴会場から脱出してしまった。

 

「骨喰丸が笑う日」東京公演を終えた花組は宝塚へ戻り、次の公演に向けて始動した。全国ツアーと宝塚大劇場に隣接するバウホール公演に分かれ、それぞれ別の演目を舞台にかける。

 絵衣子はバウホール組で、娘役二番手の役を与えられた。出演者が少ないから大抜擢というほどではないが、劇団は彼女を認めているということである。今回は年相応の若い役どころだ。最初の集合日に本読みを終え、あたりまえのように休日返上で稽古に入る。

 疲れ果てて寝ていた朝、鏡子から電話があった。彼女は全国ツアー組だが、この数日は稽古の合間を縫い、宝塚と赤穂を何度も往復していたのである。

「昨夜、戻った。すっかり肌が荒れちゃった。御飯でも食べない?」

「赤穂の方はどうなった? 兼景さんは?」

「昨日の朝、逝っちゃった。お通夜と告別式は一週間後。初七日の法要も同時にやるって」

「あ、そう。あとであなたのアパートへ行く」

 鏡子のアパートは宝塚南口駅に近い住宅街に建っている。大家はマンションと称しているようだが、意地でもそう呼びたくない小さな建物だ。

 鏡子は見覚えある北斎Tシャツを着込んでいた。タカラジェンヌの部屋着はこんなものだ。

「いいセンスだこと」

「洗濯物が溜まっちゃって……。あなた、バウではいい役ついたんだって」

「あなたも全ツで悪くない役じゃない」

 部屋には短刀が入った刀袋があった。絵衣子がそれに目をとめると、鏡子は刀袋ごと寄こした。

「娘の証として赤穂に持っていったのよ。結局、見せることもなかったけど。おかしなことやってるよね、私」

「兼景さんと話はしたの?」

「いいえ。病院のベッド脇で手を握ってただけ」

「なんと一言もいわずに行ってしまったのか」

 絵衣子がシェイクスピアの一節を口にすると、鏡子もそれに唱和した。

「ああ、真実の愛とはそういうものなのだ。真実は言葉で飾るより以上に実行を持っているのだ」

 絵衣子は短刀を抜き出した。刀身に「倚門而望」の文字彫りがある。可愛らしい懐剣サイズだ。

「以前に徳志さんが見せてくれた目貫、縁頭で拵を作れば似合うだろうね」

「あ、それ今度、徳志さんが私にくれるって」

「あれれっ。ということは……鏡子の正体知られているってこと?」

「そりゃまあ、兼景さんの危篤に駆けつけたんだからね」

 鏡子は写真を一枚取り出した。

「これ、もらってきた」

 兼景が元気だった頃の写真らしく、白い作務衣姿で、制作中の刀を手にしている。精悍で味のある風貌だ。

「兼景さんの母親にも会ったよ。臨終に立ち合わせるため親戚が車椅子で連れてきた。ニコニコしてて、やさしい人だったけど、自分の息子もわからないほどボケちゃってる。それがね、兼景さんが死んじゃったら、何も理解してないのに、じーっと何十分も合掌してたのよ。凄いなあって、何故だか感動しちゃった。人の値打ちって、大きな仕事をするとか有名になるとかお金持ちになるとか、それだけじゃないと思ったよ。結婚して家庭を作って、子供をきちんと育てる。それだけでも凄いことなんだよね」

「空腹は哲学者を作るみたいね。食べに行こう。何がいい?」

「お好み焼きかな」

「行こう。当然、着替えなさいよ」

 外へ出ると、住宅街を抜けて、二人で宝塚大橋を渡った。宝塚大劇場の周辺では、音楽学校生徒、劇団下級生、上級生のヒエラルキーに応じて、それぞれ出入りする店が決まっている。

 宝塚大橋は地獄橋に似つかわしくもなく、その眺望は心和む。穏やかに流れる武庫川の川岸に大劇場と音楽学校が建ち、対岸には温泉街を望む。色々と思索に耽りたくなる光景だ。

「セナさんは退団してどうするんだろうか」

 絵衣子がぼんやり呟くと、鏡子は陽光に目を細め、その表情もまたサマになっているのだが、屈託なく言葉を返した。

「もともと小浪の実家は播磨の素封家で、会社もやってるし一族からは議員さんも出してる。劇団理事の門馬響太郎がセナさんの姉貴と結婚していたのもそうした社会のしがらみ。セナさんは関連会社に勤めるみたいよ。芸能関係に未練なし」

 桜星美術館の富賀館長はもはや宝塚のぶっ飛んだ女たちにかまうどころではない。華斗詩音が過去を暴かれるおそれもあるまい。退団の必要もなかったわけだが。

「町の中で忙しく汗まみれで働いてる人たちを見て、人間らしく生きてるなアと思うようになったんだって。そうなったら、ジェンヌの潮時ということらしいわよ」

「私たちは人間らしくないのかな。今のところ、私にはわからないけど」

 宝塚大橋を下り、阪急の高架下から劇場と宝塚駅までつながる「花のみち」を歩いていると、袴姿の少女たちが通りかかり、絵衣子たちに会釈していく。音楽学校の生徒たちだ。このあたりで茶髪金髪の女に出会うと、知らない顔でも上級生かも知れないから、とりあえず挨拶するのである。もっとも、いい役がつき始めている絵衣子と鏡子の顔は知られているだろう。

「すみれ売りの季節だねぇ」

 鏡子は感慨深そうに少女たちを見やった。正しくはすみれ募金といい、本科生と予科生に分かれて五月の日曜に劇場前へ立ち、募金を呼びかけて、引き換えにすみれの造花を渡す。柄物の着物に緑の袴が決まりだ。入学から一か月しか経っていない予科生は着付けもメイクも慣れず、絵に描いたような初々しさだ。普段はメイク禁止の予科生なのである。

 鏡子は唇に微笑、目には悲しみ、タカラジェンヌらしい表情で、後輩への慈愛、亡父への哀悼を漂わせている。

「私たちもあんな時期があったねぇ」

「予科の思い出は、眠い、お腹空いた、それしかないけど」

「初めてファンレターもらったのもすみれ売りの時だった」

「授業なんて何ひとつ覚えてない」

 例によって、今ひとつ会話が噛み合わないが、二人とも意に介さない。

「私も娘を持ったら宝塚に入れたいな。自分が音楽学校に戻るのは御免だけど」

 と、鏡子。

「一日中、廊下でも校庭でも、失礼します、お願いしますの声が響いてたよねぇ」

 と、絵衣子。山ほどある規則、不文律に反すると、予科生は本科生をつかまえて「反省」しなければならない。本科生が立ち止まってくれるまで「お願いします(反省させて!)」と終日繰り返すのである。

「宝塚で十年二十年を七転八倒しながら過ごしても、骨喰丸が重ねた年月から見れば、ちっぽけな人間模様なんだね」

 絵衣子はそう呟き、「骨喰丸が笑う日」の主題歌を歌い始めた。

「照れ屋のくせに時々、変なスイッチが入るよなあ、この人」

 鏡子もそういいながら、唱和した。宝塚の楽曲はコブシをきかせて、とにかく盛り上がるようにできている。緑に覆われた遊歩道に二人の抑揚ある歌声が朗々と響いた。