鬼鶴の系譜 元禄編 第四回

鬼鶴の系譜 元禄編 第四回 森 雅裕

 質素な蕎麦を前にして、猪之松の松太郎は嘆息するように唸った。

「うーん。天ぷらをのせるようなタネ物は粋じゃないというわけですかな。薬味はネギ。ネギはよくあるが、すりつぶしたような緑色のものは……あ、ワサビですか。辛みは大根をおろして使うことが多いのだが、うーん、これは好き嫌いが分かれますな。それより何より、驚くほど白い蕎麦ですなあ。上品だ。しかし、冬に冷たい蕎麦はないでしょう」

 松太郎は料理茶屋の主人である。本人はそのつもりである。もっともらしい顔で、

「味はね、うまいことはうまい。しかし、力がない」

 意味不明な批評を下した。

 釣谷黄次郎も不満を洩らした。

「なんだって、この蕎麦は白いんだ?」

 のちにいう「さらしなそば」であるが、まだ製粉技術が進んでいない時代である。

「そもそも蕎麦ってのは黒いもんだ。素朴な香りが蕎麦の醍醐味だぜ」

 投票前にとやかく評するのは、客たちの入れ札を誘導するようなものである。

「こいつは勝負を捨てたな。誰の作か察しがつくというもの。よほどイトを助けたいと見える。なあ、食通の小林殿。おわかりだろう。けけけ」

 黄次郎に挑発され、平八郎は仏頂面で応じた。

「蕎麦が黒いのは殻を一緒に挽き込んでいるためだ。香りと思われているのは殻のアクの匂いであって、力がないと感じるのは、殻入りの食感を野趣だといって有り難がっているからだ。蕎麦の実は白いのだから、殻を取り除けば、当然、白い蕎麦になる。鼻で嗅いでも強く匂わないが、これを口に入れた時に広がるのが本来の蕎麦の香りだ。石臼を挽いているうちに蕎麦の実の異なる部位が順に出てくるから、それらの粉を按配よく混ぜ合わせてあるのだろう」

 そういえば、勝負するために必要な蕎麦粉を入手する目処がついたとか、毛利小平太はいっていたが……。そして、このつゆ、縫之助には舌に覚えのある風味である。先夜、平八郎とともに食した蕎麦のつゆだ。

「何よりも、この白い粉を得るために石臼とふるいを何種類も使いこなす工夫は、並大抵ではないと思いますぞ。決して、勝負を捨てたわけではありますまい」

 このように平八郎が白い蕎麦について評価したのは、作者を察したからというより、天ぷら蕎麦に好意的なこの場の空気に対して、あくまでも公平を期するためだろう。だが、

「けっ」

 と、聞こえよがしに黄次郎が鼻を鳴らした。もはや憎悪しかない。

「よく御存知だ。吉良家がつぶれても料理人で食っていけますな」

 松太郎も相槌を打った。

「何なら、わが猪之松で雇わせていただきますよ。ほっほっほ」

 平八郎は冷たく彼らを見据えた。

「それは喧嘩を売っておられるのかな」

 こいつ、買う気か。仕方がない。縫之助もいつでも席を蹴る覚悟を決めた。

「まあまあ、他の客人もおられる」

 主人の釣谷一之進がとりなしたが、他の客がいなければ、釣谷家の異常者どもは前後の見境がなくなるだろう。

 小鍋に入れた蕎麦湯が運ばれてきて、各自の残りつゆに注がれた。

「信州ではこんなものを飲むそうですが、江戸ではまだチョット……」

 松太郎がためらいがちに口にして、

「しかし、悪くありませんな」

 そう感想を洩らした。縫之助、平八郎も飲んだ。だが、多くの客はシメとして出された豆腐の吸い物の方に興味を向けた。

「吸い物は当家の料理人が調理したもの」

 釣谷一之進がいったものだから、客たちは声を揃えて、

「さすがに結構ですな」

 と、世辞を発した。

 こうした胸の悪くなるような空気の中で、紙片が配られた。

「一番目か二番目か、お気に召した方を書いて提出していただきたい」

 と、釣谷新吾がいい、彼自身も投票に加わった。入れ札は釣谷一之進の手元に集められ、一之進も一票を投じた。

 縫之助は「二」と書いた。「かき揚げあるいは寄せ揚げ」の天ぷらは斬新で感動的ですらあったが、蕎麦そのものは二番目の方が甘みがあり、うまいと感じたからである。

 集計の間に毛利小平太とイトが呼ばれ、敷居の向こうに固い表情で控えた。

「で、父上。結果はどうなのですか」

 新吾が尋ね、一之進は紙片の束を膝元に広げた。

「家臣、出入りの者ども、すべての入れ札がここにある。合わせて三十五枚。勘定したところ、三十対五で、一番の勝ちだ。豪勢なタネが人気を集めたようだ」

 イトが頭を下げた。天ぷら蕎麦は彼女の作だったわけである。

 松太郎が、自分は見る目があるぞとばかりに発言した。

「イト。このかき揚げというか寄せ揚げというか、タネはおおよそわかった。しかし、うっすらと焦げ目がついている白いのは何だ?」

「頭葱とか葱頭とか呼ばれるものです」

「アタマネギ? 何かな、それは」

「根深ネギと違い、丸い形となるネギです。長崎で花を愛でるために栽培されているようですが、南蛮では食することもあるとか」

「新しい。なかなかよい。それにひきかえ、簡素な白い蕎麦は何事ですかな」

 毛利小平太は周囲の冷たい視線にも屈せず、

「これからの江戸の蕎麦は白い蕎麦になっていきますよ。黒い蕎麦は田舎蕎麦です」

 と、明言した。

「けっ。わざと負けたのだろう」

 黄次郎がダミ声で怒鳴った。

「おい、蕎麦屋。お前の望みはかなった。これでイトは自由の身だ」

 小平太は負けを望んだわけではない。自分の蕎麦を追求したまでなのだが、俗物どもに理解してもらおうとは彼自身も考えていないようだ。

「では、イトは私が連れていってもよろしいのですな」

 小平太が静かに告げ、イトも不服な様子はない。

 家長の釣谷一之進が大仰に目を丸くした。

「これは性急な……。諸々の準備というものがあろう」

「家財を荷車に積んで引っ越しするわけではありませんから」

「まあ、どうせイトに家財など何もありはせぬが」

 黄次郎が毒づいた。

「ふん。よほど女に飢えているのだろう。待ちきれずに今夜からエッサエッサ励みやがれ。けけけ」

 まるきり無頼の徒である。だが、毛利小平太は平静だ。

「そちら様の気が変わらぬうちに、お暇するといっているだけです」

「こいつ……。蕎麦屋ごときが無礼だぞ。かつては武家だったようだが、取り潰しにでもなったか。恥さらしなことよ。しかし、慶安の変(由比正雪の乱)以降、取り潰しになった藩は少ない。どこの藩か」

「どこでもよかろう」

 と、割って入ったのは小林平八郎である。

「私たちも失礼する」

 小平太とイトを促して、立ち上がった。縫之助も続いた。外は、夜空に白いものが舞っている。

 

 

 縫之助と平八郎は小者が持参した傘を差した。小平太とイトは一つの傘に入っている。本当にイトは身ひとつだ。

 傘にあたる雪の音を聞きながら、

「白い蕎麦粉を得るのは大変だろうな」

 と、平八郎が小平太に尋ねた。

「知り合いの粉屋に頼んで、俺が自分で石臼を挽かせてもらった。手間がかかりすぎて、世間へ広まるには時が必要だろう。しかし、食感はこれまでの蕎麦にないものだ」

「いずれ、江戸の蕎麦は白くなる……か」

 そんな会話を聞いていると、縫之助は妻にも食べさせたくなり、自分だけが味わったことに何やらうしろめたさを覚えた。しかし、そんな甘い感情は長続きしなかった。 

 武家地に続く塀沿いに何度か折れて歩き、

「正太」

 と、縫之助は提灯で足元を照らしている小者に声をかけた。

「俺が走れといったら、傘も提灯も捨て、振り向かずに走れ。この先の辻番所へ逃げ込め」

「へ? どうしてでございます?」

「ケガしたくなかったら、いう通りにしろ。辻番所で待て。助けなど呼ばずともよいぞ。あとが面倒だ」

 平八郎も自分の小者に同じことを命じた。そして、

「木原武右衛門殿も」

 と、毛利小平太を呼び、

「おぬしもイトを連れて、一目散に走れ」

 そういったが、彼は拒否した。

「御両人を残して、俺が逃げるわけにはいかぬ」

「そうか。では、イトは小者たちにまかせよう」

 小平太は得物を持たない。縫之助は自分の脇差を鞘ごと腰から引き抜き、彼に渡した。幅広で二尺近い長脇差を選んである。

 後方から剣呑な空気が近づいてきた。

「走れ!」

 縫之助が叫ぶと、小者たちはイトの手を引っ張って駆け出した。残った縫之助たち三人は、悠然と振り返った。

 雪を蹴散らし、せわしない足音が彼らを囲んだ。八人。猪之松の松太郎と釣谷三兄弟の顔があった。あとは猪之松の身内らしい無頼の徒、それに釣谷の家臣である。

「挨拶が足りなかったようだ」

 と、黄次郎が進み出た。縫之助はここまで抑えていた怒りを、ゆっくりと解き放つ。

「釣谷家では客にこんな見送りをするのか」

「お前たちは客じゃねぇ。憎まれ者の吉良の家臣、貧乏旗本、そして、そこの蕎麦屋はどこかの馬の骨だ」

 その罵倒に、小平太がよく響く声で応じた。

「そういえば、馬の骨のもとの藩をお尋ねだったな。答えて進ぜる。播州赤穂だ」

「これはこれは……。主君の恨みも晴らせねぇ腰抜けじゃねぇかよ。ぐははははははは。浅野の遺臣が吉良の家臣と同道とはあきれる」

「昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵となる仲だ。おぬしにはわかるまい」

 無用な舌戦をしている暇はない。

「誰が通りかかるか、わからん。さっさとすませよう」

 と、縫之助は捨てられた提灯の火を踏み消した。喧嘩は熱いうちに実行せねば、邪魔な分別や恐怖が芽生えてしまう。

 空は雲が覆い、周囲はほとんど闇である。雪は仄明るいが、視界を助けるほどには、まだ降り積もっていない。それでも、釣谷たちが抜刀するのはわかった。

「何だ。相撲でもとるのかと思ったら、江戸市中で抜刀かよ。その身は切腹、家は断絶になりかねんぞ。正気か」

「お前らの死体をわが屋敷の裏山にでも埋めて、あとは知らぬ存ぜぬを通すだけだ。恐いか。恐いか。泣け。けけけけ」

 釣谷の家臣たちが襲いかかってきた。縫之助たちは傘を投げ、移動しながら抜刀した。乱闘となった。闇の中に刃と刃がぶつかる火花が散り、刃こぼれの砕片が縫之助の顔に当たった。あちこちで悲鳴と呻き声が交錯した。

 縫之助は手当たり次第に刀を振り回したが、いつの間にか手元から抜け飛んでしまったので、素手で一人を投げ飛ばし、押さえつけた。釣谷兄弟の末弟の博之介だった。この男は荒事は得意ではないらしく、抵抗はすぐにあきらめた。

 見回すと、路上には何人か転がり、雪を血で汚し、泣きながら這っている。足が無事な者は逃げ出した。猪之松の松太郎も逃げ足は実に早かった。

 縫之助は博之介を組み伏せながら、地べたから怒鳴った。

「平八! どうなってる?」

 闇の向こうから返事があった。

「何人か手応えはあったが、殺したのは一人だ」

「武右衛門! おい、蕎麦屋! お前はどうだ?」

「一人に深手を負わせた。いや……死んだ」

 博之介がこの修羅場で吐き始めたので、縫之助は飛び退いてあやうく難を逃れ、平八郎の足元に転がっている死体につまずきそうになった。死体は次男の釣谷黄次郎だった。腹を二つに切断するほどの、凄まじい斬り口である。小平太の傍らには長男の釣谷新吾。こちらの死体は首を斬り裂かれている。

 縫之助は小平太から脇差を回収し、落とした刀も鞘へ戻した。

「おい。三男坊」

 闇の中にしゃがみ込んでいる博之介に声をかけた。

「兄たちは死んだ。お前はどうする?」

「そうですね……。死体とケガ人を屋敷へ運びますよ」

 声が震えている。

「いいのか、それで」

「表沙汰になれば、家名断絶になりかねない。秘すれば、私が家名を継ぐ。そういうことです」

「お前はなかなか利口だ」

「あなた方にしても同様です。私闘は天下の御法度。お互いに家名の危機。おわかりですね。松太郎にも釘を差しておきますから」

「ふん。あいつは利口じゃなさそうだがな」

 釣谷の一味を残して、縫之助たちは血の匂いが立ちこめるその場を離れた。

 振り返りながら、

「復讐されませんか」

 たいして不安そうでもなく毛利小平太がいい、小林平八郎もあまり深刻ではない語調で言葉を返した。

「こんなことが表沙汰になれば、釣谷にしてみれば家の恥、猪之松もただではすむまい。とはいえ、良識の通じる連中ではないから、油断はできぬ。武右衛門殿から、御迷惑をおかけしますと俺たちに一言あってもよさそうなものだが」

 武右衛門こと小平太はそんな期待には応えなかった。だが、辻番所にたどり着くと、待っていたイトが頭を下げた。

「御迷惑をおかけしました。ありがとうございました」

 涙さえ流しているが、小平太は逃げるようにそっぽを向いた。

「礼は森殿と小林殿に。俺は、いい」

 これには平八郎が乾いた笑いを放った。 

「なるほど。イトはもうおぬしの身内というわけか。そして、俺たちには他人行儀。いいさ、それで」

「ひがむな」

 と、小平太。

「何かを得れば何かを失う。それが人の世だ」

「どういう意味だ、それは」

「いずれわかる」

「ふうん……」

 この辻番所は上杉家が設けた、いわゆる大名辻番である。辻番人は平八郎が上杉家ゆかりの者であると小者から聞いたのだろう、どう見ても不審な集団なのだが、詮索もせずに平身低頭し、傘まで貸してくれた。

 雪がさらにひどくなった。返り血で少しばかり衣服を汚していたが、彼らに目をとめる通行人はいない。

「私どもはこれで」

 小平太とイトが連れ立って別の道を行くのを見送り、

「あの、小林様」

 平八郎が従えている小者が、小声でいった。

「あの方、見覚えがあるような気がいたします」

「蕎麦屋のことか」

「へえ。以前、お屋敷の中間部屋に似た男がおりました」

「わが吉良屋敷で働いていたのか」

「はい。ごく短い間でしたし、私もちらりと見かける程度でしたから、はっきりとは申し上げられませんが」

「そうか」

 吉良屋敷に潜入し、内偵していたのだろうか。

「あいつ、イトを得て、何かを失ったのかな」

 平八郎は一体何を予感したのか、感傷的だが、縫之助は強い声で、いった。

「用心しろ。上杉家から警護の人数を寄こしてもらったらどうだ?」

「以前からお願いしているが、上杉家も余裕があるわけではない。吉良家の普請や買い掛け金は上杉家が負担することも多い。それを苦々しく思っている家臣もいる」

 品川から北へ歩き、虎之門の手前で、

「またな」

「おう」

 何事もなかったかのごとく平八郎と別れ、縫之助は四谷の自邸へ戻った。彼は一人も殺していないが、乱闘の中で返り血を浴び、泥にもまみれている。

 妻のサエは小さく悲鳴をあげたが、表情は笑っている。

「何としたことですか。蕎麦を食べに行くと仰せでしたのに、随分と血なまぐさい蕎麦だったようでございますね。おケガなさいましたか」

「いや。返り血だ。辻斬りを成敗した。だが、口外するな」

「いたしませんとも。でも、これきりにしてください。洗うのが大変です」

「すまぬ。今度、私がよそで何か食う時には、お前も連れていく」

「武家の妻がそうもいきませぬ」

「では、料理人をここへ呼ぼう」

 あまり現実味のある話ではない。晦日の掛け取りに頭を痛めている貧乏旗本である。

「アラ、うれしい。涙が出そうです。夢なら覚めませんように」

「夢だ。明日の朝には忘れる」

「じゃア、今夜は寝ないでいましょうかしら。あ、嫌だ、そういう意味ではございませんよ、あははは」

 この夫婦の会話はいつも呑気である。

「家臣どもを中庭に集めてくれ」

 家臣といっても、侍二人と中間一人にすぎない。あとは戦闘要員ではない小者、飯炊きの使用人である。軍役規定を満たす必要がある場合のみ臨時の人数を雇い入れるのである。

「わけあって、当家に恨みを持つ者がある。警戒怠らず、一人では外出するな。ただし、このことは他言無用」

 と、縫之助は彼らに申し渡した。