鬼鶴の系譜 敗戦編 一覧

鬼鶴の系譜 敗戦編 第三回

鬼鶴の系譜 敗戦編 第三回 森 雅裕

「母里。あれを降ろせ」

 山田飛行長が目線で指したのは、碧空にひるがえる菊水旗である。抗戦決起の象徴だった。山田と別れ、友弥は兵に手伝わせて旗を降ろした。これを見て、遠くから敬礼する者、見向きもせずに通り過ぎる者、隊員の反応は様々だが、終戦がいよいよ実感となった。もはや飛行場に残るのは赤と白の吹き流しだけである。

 畳んだ旗を飛行長に渡そうとしたが、本部、指揮所、地下防空壕、どこにもその姿はなかった。行く先を誰も知らなかった。

 本部前で、雷電隊の菊田長吉中尉が何やらさかんに燃やしている。機密書類ならそこら中で焼却しているが、近づくと、立派な大礼服まで炎に投じている。彼は怒りを吐き出すように、いった。

「オヤジ(小園)のものだ。俺たちは即時退隊を命じられているからな。残して、進駐軍の土産にされるくらいなら焼き捨てる」

 小園司令はもう基地に戻らないということか。

「菊田中尉。飛行長を知りませんか」

「さっき、燃すのはもったいないなア、とかいいながら見ていたが……帰宅したんじゃないか」

 山田は町田に自宅がある。妻がそこで暮らしているが、多忙な山田はほとんど帰宅することがない。ひさしぶりに夫婦水入らずなのかも知れない。菊水旗は明日にでも渡せばいいかと、友弥は考えた。ただ、明日には彼も基地から立ち退かねばならないが。

 毛織地の焼ける独特の匂いが広がり、士官たちが血相変えて飛んできた。

「菊田あ! オヤジの私物を焼き捨てるとは何事だ、やめろやめろ!」

「寄るな!」

 菊田中尉は軍刀を抜いた。小園の軍刀だ。昭和に制定された太刀型ではなく、明治以来の装飾的なサーベル様式の長剣拵で、柄に護拳がついている。小園が狂乱状態で振り回したこともあり、刃こぼれが目立った。

「邪魔する奴は叩っ斬るぞ!」

 どうして士官という人種は何かといえば刀を抜くのか。友弥はかねてから疑問に思っていた。搭乗員でさえ、飛行機に持ち込める脇差サイズの軍刀を携帯する。まったく時代錯誤である。

「この馬鹿野郎!」

 士官の一人が拳銃のホルスターに手をかけた。こういう現代的な士官はむしろ珍しい。もっとも、そんなもの構えられたら双方とも引っ込みがつかなくなる。咄嗟に、友弥は抱えていた菊水旗を広げ、頭上に掲げて、走り出した。

「わあああああああああ」

 叫びながら旗を引きずり、焚き火の周囲を右往左往した。

「何だ、何を始めた? 母里!」

 まともな神経ではこの状況を乗り切れない。狂えばいい。どいつもこいつも、そして自分も。友弥は奇声を張り上げながら駆け回り続けた。

「しょうがない、こいつ」

 士官たちは呆気にとられ、ついにはあきれ果て、この場を離れていった。友弥は吐息とともに立ち止まり、旗を畳みながら菊田を見やった。彼は軍刀を手に、泣いていた。友弥が思わず目をそらすと、

「煙が目にしみるだけだ」

 菊田は怒鳴るようにいい、他の品々も残らず火中へ放り込み、軍刀でかき回した。

「焼きが戻ってしまいます」

 思わず、友弥は手を伸ばしかけたが、菊田が制した。

「実用刀だ。燃やすのが惜しいような名刀ではない。武人の魂というべき愛刀は自宅に置いてあるさ」

 菊田は最後に軍刀を炎に投じた。名刀ではないとはいえ、開戦以来、小園とともに最前線をくぐってきた軍刀だ。悲鳴が聞こえるような気がした。

「母里。車の運転はできるか」

「飛行機ほどには慣れていませんが」

「よし。オヤジの見舞いに行くぞ」

「じゃあ、手ぶらというわけにもいきませんな。菓子でも調達しましょう」

「オヤジがそんなもの喜ぶか」

「いいえ。軍医や看護婦への差し入れですよ」

「お前も妙なところに気が回る奴だな」

 少年の頃に親から離れて世間に揉まれ、無意識のうちに周囲の顔色をうかがう習慣が身についたのかも知れない。

 友弥の意見を容れ、菊田は士官室から羊羹を詰めた箱を持ち出し、基地本部の前に停まっていた車へ放り込んだ。

 

 

 海軍病院で小園の病室を尋ね歩くと、そこは鉄格子のはまった、独房としか思えない個室だった。この有様に菊田は憤り、軍医に食ってかかった。

「罪人扱いではないか。歴戦の海軍航空隊司令を遇する道とは思えん」

 しかし、軍医長の少佐は動じない。

「この病院での権限は私にある。小園司令をこの部屋に入れたのは悪意ではなく、司令の身の安全を考えてのことである」

 そう突っぱねた。

 菊田の怒りはおさまらなかったが、婦長らしい看護婦が声をかけると、冷静に応対した。

「厚木の皆さんはどうなさっているのですか。戦い続けるのですか」

「司令が入院された今、解散するしかありません。他の基地へ飛んだ者たちもいますが、鎮圧されるでしょう」

「アメリカ兵がやってくるのですね。私たちも覚悟はできています」

 婦長はポケットから小さな薬瓶を取り出した。看護婦たちは辱めを受ける前に自決する覚悟なのだろう。

「そんなものより……」

 菊田が目で合図したので、友弥は持参した羊羹の箱を差し出した。無邪気に喜ぶ婦長を見て、菊田も小さく笑った。

「お前が気の利く奴でよかったよ、母里」

 重い空気の中で、友弥はどんな返事をすればいいのかもわからず、仏頂面を決め込んでいると、「独房」の小園が目覚めたと知らされた。

 部屋に施錠はされていたが、小園は手足を拘束されているわけではなく、身を起こしていた。二人の部下が目の前に現れると、いつもの強い眼光を向けた。

「おお、菊田。それに母里か。基地はどうなっている?」

「皆、司令のお帰りを待っています」

 むろん嘘である。解散命令が出た以上、隊員はもはや基地内にとどまることも許されない状況だ。小園も厚木に戻ることはあるまい。

「副長や飛行長は?」

「あの人たちのもと、隊員たちは結束しています」

「山田(飛行長)の夢を見た。申し訳ありません、と謝っていた。何を謝るんだと訊いたら、答えずに行ってしまった。あの、いつものように草履でパタッパタッと歩く足音を残して……」

 飛行長は軍靴ではなく、草履をひっかけて歩くのが常だった。飛行長が司令に謝るとしたら、みすみす大量の「脱走」を許してしまったことへの謝罪だろうか。夢とはいえ……。

 山田九七郎少佐の妻はもとは横須賀の料亭の養女で、海軍士官たちの人気を集めた看板娘だった。しかし、謹厳なる士官の嫁にふさわしくないと眉をひそめるお偉方がいたため、一旦、小園司令が養女とした上で、山田と結婚させた。彼は小園が自分の後継者と見込んだ軍人だったのである。

 発熱が続いている小園がまた眠りにつくと、菊田は友弥を外へ促した。

「母里。俺はここに残る。お前は基地に帰れ。退去の支度があるだろ」

 そんなことより、友弥はやり残したことがあった。おはぎ作りである。今さら無意味だとは思うが、飛行長以下にふるまいたかった。

 後ろ髪引かれる思いで、海軍病院をあとにした。

 小園司令は精神錯乱であらぬことを口走り、暴れ回る狂乱ぶりだと聞いていたが、意外なほど落ち着いており、理性を保っていた。もっとも、翌二十二日に目覚めた小園は、どうして自分が囚人のような扱いを受けているのかと怒り、荒れ狂ったのだが、友弥が知るところではなかった。

 後年、武名高き小園安名が狂って別人と化したと語られるたび、友弥には信じられなかった。マラリアで精神錯乱つまり心神耗弱であったというのは、彼の「抗命罪」を少しでも軽くしたい支持者たちによる方便ではなかったか、とさえ思ったものである。

 戦後史において、事件は反乱と見なされ、小園司令は反逆者と呼ばれることになる。進駐してくる米軍の顔色をうかがう処置だった。軍人恩給ももらえぬ犯罪者の烙印を押されたのである。

 小園は官籍剥奪の上、無期禁錮刑となり、横浜、宮城、熊本の刑務所で服役するが、大赦令の特赦基準と特別上申により、昭和二十七年十月に仮釈放、故郷鹿児島へ戻り、八年後に脳溢血で没する。

 晩年まで「あの時、降伏なんかするのではなかったぞ」と、笑っていたという。

 

 

 友弥が基地に戻ると、隊員たちには給与が配られ、退去の準備が進んでいた。全員解散、即時退隊の命令が寺岡中将から繰り返し出されていた。それもそのはず、二十六日には、この厚木基地に米軍先遣部隊が進駐予定である(実際は台風のため二十八日に延期)。基地のすべてを整理した上で明け渡さねばならない。残っている者は捕虜になる、と噂が流れていた。

 しかし、敗戦の混乱において「整理」は「略奪」に変わる。持てる限りの荷物を抱え、背負い、門を出ていく者がいる。徒歩なら可愛いもので、車で物資を運び出す士官もいた。秩序はもはや崩壊していた。

 戦争に負け、軍隊が解散するというのはこんなものなのか。特に別れの儀式のようなものもなく、基地から人が少なくなっている。

 飛行機を盗んだ連中……脱出組はどうなるのだろうか。児玉や狹山へ向かったのは三十三機。乗り込んだ隊員は、彗星隊の岩戸良治中尉以下七十名。しかし、連絡のためそれらの基地へ飛んだことのある搭乗員が、首を振った。

「各基地とも抗戦の熱はすでに冷めているよ。厚木の熱血漢が押しかけても厄介者扱いされるだけさ。上官の制止を振り切って所属部隊を離れれば、大詔再渙発どころか党与抗命、逃亡罪で監獄送りだ。やりきれねぇな」

 馬鹿な連中だという感想はない。人は目的もなしには生きられない。いや、目的のためには命も捨てる。敗戦が軍人からその目的を奪おうとしている。彼らはそれに抵抗し、あがいているのだ。

 しかし、人は順応する生き物である。本土決戦で何もかも蹂躙されるよりも、ここで和を講じて、一時の屈辱に耐えた方が祖国に将来の希望があるのではないか。今や隊員たちはそう考え始めていた。ただ、その考えには詭弁や欺瞞のうしろめたさがつきまとったが。

 こののち、脱出組は巣鴨刑務所へ収監され、軍法会議の結果、士官には禁錮刑の実刑、下士官には執行猶予がいい渡される。

 

 

 厚木基地の食糧庫は銃を持った見張りが警戒している。略奪を防ぐためではない。略奪を円滑に進めるためである。士官が車にありとあらゆる物資を詰め込んでいる。下っ端の兵は近づきもできない。

 友弥はかねてから航空加給食など「袖の下」を使って懇意にしている主計科の下士官と交渉し、人手不足の烹炊所を手伝うという名目で食材を調達、おはぎを大量に作った。

 すでに夜だった。下士官食堂や近くにいた兵たちに配った。幹部は兵ほど甘いものに飢えていないだろうが、山田飛行長には食べてもらいたかった。しかし、防空壕の飛行長室は留守である。作業机の上に置いた。傷みやすい時期だ。朝早くに出勤してくれればいいが。

 山田飛行長が自決したことを友弥が知ったのは後日、復員先だった。飛行長は自宅で、妻とともに服毒自殺したのである。

「海軍上層部から小園司令を殺せと渡された毒だ」

 そんなことをいう者もあった。遺体は二十六日まで発見されなかった。

 脱出組を止められなかった責任感か、高松宮からの説得電話を切ってしまった自責か。動機は明らかではない。小園司令が見たという夢は、山田飛行長の暇乞いだったのだろう。

 

 

 すでに深夜だが、基地内の灯火は消えない。いたるところで書類を焼く煙があがっている。一部の飛行機、機械類は米軍に渡してなるものかと破壊された。飛行場の隅で燃えている機体は雷電だ。排気タービンつきの試作機だろうか。滑走路のいたるところに、残骸と化した飛行機が放置されている。米軍の進駐を少しでも妨害しようという子供じみた抵抗だった。「立つ鳥、あとを濁さず」などというキレイ事はここにはない。

(つわものどもが夢のあと……)

 友弥は何度もそう呟いた。そして、数日かけて修理していた自転車を完成させ、試乗してみた。格納庫前に離陸用滑走路があり、さらにその向こうに長い着陸用滑走路が広がる。昼間だったら、荒涼たる敗残の光景を見渡すことになっただろう。

 友弥は菅原副長を見つけ、尋ねた。

「副長。菊水の旗を預かっているのですが、どうしましょうか」

 菅原は忘れていたのか、怪訝な表情で、

「お前も義理堅い奴だな。好きにしろ」

 苦笑したが、声は不機嫌だった。疲労の極限だろうから無理もないが。

 焼却するのも忍びないので、旗は復員の荷物の中に押し込むことにした。

 仲のよかった隊員たちを探して、別れの杯でも交わそうかと自転車を漕いでいると、機銃の発射音が轟いた。あちこちで燃え続ける戦闘機の機銃弾が熱で暴発したのかと思ったが、そうではなかった。呼応するように、他の場所からも銃声が響いた。次第にその数が増え、広がっていく。

 何事が始まったのか、理解した隊員たちは乗り遅れまいと駆け回った。ある者は銃を持ち出し、ある者は対空銃座へ飛びついた。これが彼らの別れの儀式だった。あちらからこちらへ、乱射音が広がる。夜空に曳光弾が華々しく交錯した。高角砲陣地が空へ向けて咆吼し、炸裂音を響かせた。

 あの弾や破片はどこへ落ちるのか。友弥はそんなことが気にかかる。几帳面な上にも几帳面というのが搭乗員の必要条件だ。操縦席に糸クズほどのゴミが落ちていても拾い、車輪についた泥も払い落とす。些細なことでも、後々どんな悪影響を及ぼすか、わからないからだ。周囲の状況に注意を払い、原因と結果を常に考える。

 空へ発射された弾丸は思わぬところへ被害をもたらす。真珠湾奇襲でハワイの民間人に死傷者が出たのは米軍の対空砲火によるものといわれる。しかし……こんな神経質な性格は、彼の今後の人生にはもはや必要ではなかった。

 友弥は自転車を停めて、花火のような光と音を見上げた。海軍航空隊屈指を誇った精鋭部隊の終焉を告げる慟哭の叫びである。この夜、厚木の空が明るく染まるのが遠くからも見えたという。

 

 

 二十二日。台風が近づいており、雨が落ちてきた。戦時下で中断していたラジオの天気予報はこの二十二日から再開されたのだが、気象観測は空襲で破壊されていない気象官署でかろうじて行われていたものの、航行する日本の船舶がほとんどなく、通信回線も復旧していないため、海上の気象情報が入らず、不意打ちのような台風だった。

 暗雲が垂れ込める空の下、隊員たちは搭乗員、整備員の順で、配給物資を背負い、基地を去っていった。母里友弥は自分で修理した自転車に乗って、復員した。やがて豪雨となり、基地は菅原副長以下、わずかな士官を残すのみとなった。

 二十三日未明、台風は房総半島に上陸し、北西へと進んで関東を直撃した。空襲で半壊状態だった基地施設の中には完全に倒壊したものもあったが、その猛烈な風雨もモノとせず、近隣住人が我先にと殺到した。そして、それから数日間、広大な厚木基地は手当たり次第の略奪の場となった。

鬼鶴の系譜 敗戦編 第二回

鬼鶴の系譜 敗戦編 第二回 森 雅裕

 十八日。

 徹底抗戦を叫んでいた各地の陸海軍部隊はおとなしくなっていた。宮城と放送局を占拠した陸軍反乱部隊はすでに十五日に鎮圧されており、上野公園を占拠した水戸の教導航空通信師団も行き場をなくして孤立し、首相官邸に放火した国民神風隊は憲兵隊に出頭した。もっとも憲兵隊も混乱しており、それどころではないと追い払われているが。

 横須賀や呉の海軍部隊も海軍大臣の訓戒を受けて、動きを封じられてしまい、厚木と呼応して気を吐いているのは埼玉の児玉、狹山基地の陸軍爆撃隊だけという有様だった。

 しかし、厚木はなおまだ士気旺盛である。隣接する整備兵教育部隊である第一相模野航空隊も厚木の影響下にあり、この日、下士官グループが幹部士官を軍刀で脅して決起を表明させるという流血事件が起きた。

 殺伐とした状況ではあるが、広大な厚木基地には少々のどかな部分もある。この不落の大航空基地は、養豚、養鶏、酪農まで自給態勢ができており、当然、農地もあった。基地の一角に作られた畑は荒れていたが、友弥は無事な西瓜を見つけ、戸ノ崎上飛曹と分け合って食った。

「日本がアメリカみたいな国になったら嫌だなあ」

 と、戸ノ崎が呟いた。友弥は飛行場の向こうに広がる緑を眺めていた。

「アメリカがどんな国か知ってるのか」

「自分勝手を自由と勘違いしてるお調子者の退廃的な国」

「俺たちが戦った手応えは、そんな軟弱野郎じゃなかったろ」

「そうだなあ。しかし、お国のために死ぬのが日本男子の本懐と教育されてきたが、それが間違っていたということになるんだぜ。耐えられねぇやな」

 畑を掘り返している隊員の姿が遠くに見える。軍服を着ていなければ、まったくの農耕風景だ。

「国破れて山河あり、飛行場の脇に畑あり。……わが帝国海軍ときたら兵農分離してないんだから、信長以前の戦国時代と同じだぜ」

「お前のいうことはわからん。話していると何だか損したような気分になってくる」

「子供の頃から、そんなことをよくいわれたよ」

 曾祖父は幕臣だったくせに戊辰戦争の折には参戦せず、落語家になったと聞いている。世がひっくり返っても、おのれの道を行く「血」らしい。

「母里よ。中国へ行かないか」

 戸ノ崎上飛曹が持ちかけた。偵察機の彩雲なら航続距離が長い。大陸まで足が届く、というのである。戸ノ崎は大陸の生まれで、向こうに知り合いもいるらしい。

「中国でゲリラ戦をやろう。どうだ?」

 友弥には雲をつかむような話で、現実味がなかった。

「他をあたってくれ」

 背を向けた。この非常事態の中で、誰もが現実と妄想の区別がつかなくなっている。突拍子もないことでも、念じ続けていると「やれる」と思えてくるものだ。戦争もその一例だが。

 

 

 この日の夜には二つの情報が入ってきた。一つは小園司令である。持病のマラリアが悪化し、高熱を発して狂乱状態だというのである。もう一つは、その小園司令がベッドに横臥している間に、山本新司令が赴任してきたことだ。しかし、隊員を刺激するというので、一部の士官に挨拶しただけだった。要するに相手にされなかったのである。

 友弥はそれを零戦隊の森岡寛隊長から聞いた。森岡大尉は元々艦爆乗りだったが、戦況不利にともない、艦爆の出番が少なくなると、戦闘機に転科した。空戦で左手を失ったが、義手で戦い続ける猛者である。

「横鎮(横須賀鎮守府)では、いよいよ厚木に討伐の陸戦隊を差し向ける用意をしているという情報もある。気持ちのいい話ではないな」

「武力鎮圧……ですか」

 横鎮長官の戸塚道太郎中将は終戦工作にあたり、小園司令から「朝令暮改の鉄面皮」と噛みつかれているから、怒り心頭である。当然、海軍省からも早期鎮圧せよという圧力がかかっているだろう。もともと上層部から煙たがられていた小園だから、米内光政海軍大臣以下、手加減はするまい。

「命は惜しくないが、日本人同士で撃ち合うことは避けたいよなあ」

「あとあと、寝覚めが悪くなりそうですからねえ」

 森岡と友弥は、そんな会話を格納庫で交わした。空襲で破壊され、骨組みだけになった廃墟のような格納庫である。

 日本海軍では原則として搭乗員一人ごとに専用機は与えないのだが、森岡が乗る零戦は義手でも操作できるよう改造してあるため、専用となっている。本来なら、左手側にはスロットルレバー、二〇ミリ機銃射撃レバー、燃料タンク切替えコックなどがある。操縦は義手でも可能だが、機銃はそうもいかず、森岡機は操縦桿に射撃ボタンを取りつけてあった。

 友弥はわが道を行くのんきな男ではあるが、好奇心が強く、こうした改造や工夫は探求しないと気がすまない。整備のため森岡機に試乗したこともあり、この改造機を乗りこなせるのは森岡と友弥だけだろう。

「我々が楠木正成なら、横鎮は足利尊氏ですか。しかし、一日も早く復員したがっている兵隊に、難攻不落の厚木基地を攻めろと命じても、尻込みするのでは……?」

「まあ、お偉方もそんな無茶はするまいよ。同士討ちの責任なんかとりたくないだろうからな」

 となれば、小園個人を狙ってくるはずである。むろん、厚木の隊員も心得たもので、従兵は小園に食事を運ぶ前に毒味し、司令公室の近くには士官が詰めているという警戒ぶりだった。

 

 

 十九日。

 この日も早朝から複数の零戦が離陸用滑走路に引き出された。友弥にも哨戒任務が与えられたが、その目的を聞いて、愕然とした。

 終戦手続きのため木更津から沖縄経由でマニラへ向かう軍使一行の搭乗機を撃墜するというのである。軍使機は一式陸攻二機。白塗りに緑十字の安全標識が目印である。

「友軍機を撃墜するのか」

 徹底抗戦には賛成とも反対とも決めかねていた友弥だが、日本人が乗った日本機を攻撃するのは「違う」と思った。一体、何のための抗戦か。

 哨戒用の零戦は弾薬を積んでいない。見つけ次第、連絡を受けた攻撃隊が発進する手はずである。

 たとえ目標を見つけても連絡したくないな、と友弥は思った。

 友弥が搭乗予定だった零戦は、滑走路に引き出されると機嫌が悪くなり、整備兵が懸命に整備したが、エンジンはか細い爆音を吐くばかりで、そのくせ排気煙は火事かと思うほど猛烈だ。

「代替機を用意します」

 整備兵は恐縮して、泣きそうになっている。友弥は内心、安堵しながら、

「しょうがねぇ。これも天運ってやつさ」

 指揮所に近い格納庫の日陰で待機した。しかし、友弥の代替機は間に合わず、哨戒に飛んだのは零戦二機だけだった。

 八時過ぎに犬吠埼南方で軍使機らしき中型機を発見し、攻撃のため森岡大尉率いる零戦隊が急行した。日本人同士で撃ち合いたくないといっていた森岡である。それでも戦意は旺盛だったが、時すでに遅し、大島から伊豆七島上空を捜索しても軍使機は発見できなかった。統合的な防空監視システムの不備という日本航空隊の致命的欠陥がここでも露呈した。

 軍使機は沖縄の伊江島で米軍機に乗り換える手はずだったが、厚木の哨戒機を恐れ、四国から鹿児島という通常コースではなく、南下して鳥島から西へ旋回、種子島上空から伊江島へ向かうという迂回コースをとった。しかも機体を白く塗ったオトリ機を九州へ飛ばすという念の入れようだった。

 日本機を撃墜することなく帰還した森岡は、

「これで寝覚めの悪い思いはしなくてすみそうだ。もっとも、くやしくて眠れないがなあ」

 表情は不機嫌だが、声は明るかった。

 その頃、指揮所の周辺にいた隊員たちの間で、妙な噂が流れていた。今朝、羽田に用意されていたオトリの軍使機を蜂の巣にして飛び去った雷電がいたというのである。

「厚木の所属機か、と海軍総隊はカンカンになって電話してきたが、小園司令はマラリアで人事不省、菅原副長は外出中だったので、山田飛行長が受けたらしい」

「そんなはずはない。今日は雷電は飛んでいない。軍使機を地上撃破したという報告もない」

「じゃあ、どこの機だろう?」

「そもそも、本当なのか、その話」

「わからんなあ。こういう時は流言飛語が飛び交うもんだ」

「俺たちの怨念が幽霊機となって、羽田を襲ったか」

 搭乗員たちは笑い飛ばし、結局、この話の真偽はわからずじまいだった。とにかく軍使機は間違いなく飛び、その任務を果たしたのである。

 この日の昼に山田飛行長が電話を受けたのは確かだが、内容は軍使機に関することではなく抗戦停止の説得であり、相手は海軍総隊でもなく高松宮であった。

「ポツダム宣言受諾は陛下の御意思である」と伝達されたのだが、山田は「よく聞こえません」とこれを切った。事実、回線の状態は最悪だったのだが、このことがのちに生真面目な山田には自責の念となる。

 午後、菅原英雄副長と吉野実整備長は軍令部に高松宮を訪ね、熱い説得を受けて、抗戦の放棄を決意した。そもそも、高熱で錯乱状態の小園司令は、もはや指揮をとれる状況になかったのである。

 

 

 二十日。

 この日の朝、下士官は地下壕へ集められ、菅原英雄副長と西沢良晴内務長から抗戦の中止を告げられた。下士官たちは釈然とせずにふてくされたが、限界を感じている者も多く、騒動は起きなかった。

 すでに、古参の士官には昨夜のうちに根回しされていた。問題は若手士官である。彗星隊の岩戸良治中尉が強硬であり、予備学生出身の士官たちが彼に追随していた。

「横鎮から電文が入った。一切の飛行禁止だ。いいな」

 菅原副長は搭乗員たちにそういい渡した。そして、雷電のプロペラが真っ先にはずされた。

 友弥が格納庫へ様子を見に行くと、

「雷電乗りが一番アブナイからなあ」

 雷電隊の赤松貞明中尉が、武装解除される愛機を見ながら苦笑した。日中戦争から戦い続ける最古参で、遊び好きで喧嘩っ早くて上官にも反抗的、そのため昇進も遅れたといわれる天才肌の人物で、自らエースの中のエースと称し、撃墜数三百五十機と豪語しているが、本気にする者はいない。しかし、間違いなく厚木航空隊を代表するエースである。

「国際法上、停戦協定が成立するまでは自ら武装解除する必要はない。なのに、この手回しのよさだ。恐れ入るね」

 赤松は当然のごとく抗戦派だったが、

「司令はもう俺たちの知っている司令ではない」

 と、もはや冷めていた。

「指揮官がいなくては戦争はできんよ。副長や飛行長では司令の代役はつとまらん。あの人たちは良くも悪くも利口で真面目だからな」

「ではもう……矛をおさめる時でしょうか」

「隊員たちも見切りをつけて、物資の持ち出しに精を出している奴がいるよなあ。俺はな、食い物や衣服よりも飛行機を盗めないものかと思ってる。零戦でも雷電でも、地方の飛行場へ飛んで、掩体壕の中に隠すんだ。何十年かしたら引っ張り出して、かつてこの国に海軍航空隊が存在したことを忘れている連中の頭の上を飛ばす。どうだ?」

「面白いですなあ。厚木に置いといても鉄クズにされるだけですからね。しかし、何十年も隠しておいたら錆だらけになるでしょう。動くように整備するだけでも莫大な金がかかります」

「お前も真面目な奴だな。副長や飛行長と一緒だ」

 赤松は笑い、雷電からはずされた照準器を整備班長から受け取った。飛行機丸ごとは無理だから、照準器だけでも記念品とするようだ。今はガラクタだが、自分たちが老いる頃には博物館級の貴重品になるだろう。

「照準器より五度前を狙え……ってな。子や孫に武勇伝を語る時に、こいつが必要だからな」

 意外にも、このエースは戦後の人生を考えていた。

 この日の夜、山田新司令、菅原副長、山田飛行長が准士官(飛行兵曹長)以上を集め、あらためて抗戦放棄の訓示を行った。

 若手強硬派のリーダーである岩戸中尉はのちに、

「いやしくも、三〇二空なる一海軍航空隊を預る司令官、司令、副長、飛行長にして自信なし、信念なしで全員をひっぱるだけの胆なしと、部下に告白して恥ざる徒輩」

 と、獄中日記で罵倒している。

 

 

 二十一日。

 朝食を終えると、下士官以上の者は本部庁舎前に集められた。新任の山本司令が菅原副長を従えて現れ、寺岡中将からの「解散命令」を伝達した。

 終戦の詔勅から六日経ち、隊員も冷静になりつつあり、あきらめの空気も漂っていた。何よりも抗戦強硬派の士官たちは新司令を無視して、この場に来てもいないため、命令に表立って反発する者はいなかった。

 しかし、

「小園司令はどうした?」

 疑問に思った隊員たちの視線の先で、司令公室前から黒塗りの車が動き出した。正門の方向へと土埃をあげて走る。

「オヤジだ」

 叫ぶ者があり、追いかける者もあった。もちろん、追いつけない。小園は麻酔を打たれ、全身を縄で縛られるという屈辱的な扱いで、運び出された。収容先は横須賀海軍病院の野比精神病棟。

 隊員が本部庁舎前に集合している隙を狙ったのである。抗戦強硬派の士官たちが司令公室の周囲を警戒していたはずだが、彼らは地下壕の士官室で「あること」の打ち合わせ中であった。

 小園司令が拘束された経緯は明らかではない。昨夜のうちに第三航空艦隊司令長官である寺岡謹平中将が参謀を引き連れて厚木に艦隊旗を移し、司令公室の隣室に泊まり込んでいた。三航艦参謀長の山澄忠三郎大佐はもっと以前から厚木に詰めており、彼らは小園を強制入院させる機会をうかがっていた。

 高熱に浮かされた小園が怒号絶叫するので、やむなく麻酔注射で眠らせたとも、小園の部屋に麻酔剤を噴霧して昏睡状態に落としたともいう。それも昨夜、新司令たち幹部が隊員に訓示を行っている隙を突いた。しかし、伝わる情報は曖昧で、真相は厚木の隊員たちにも不明だった。

 海軍総隊航空参謀だった淵田美津雄大佐は、戦後の手記で、これを指図したのは自分であると書いているが、八月二十四日のこととして、他の記録との食い違いを見せている。

 

 

 菅原副長は整備科を集合させ、各機の燃料弾薬をおろせと武装解除を指示した。整備兵は粛々と作業を始めた。これで反乱事件は収束するはずだった。しかし、安心するのは早かった。

 かねてから計画されていた「あること」が決行された。

 友弥は、どうせ不調で飛べない戦闘機が整備兵によって武装解除される傍らで、放置されていた自転車を自分のアシとするために修理していた。遠くでエンジン音が聞こえる。妙だな、と思っていると、 

「母里! 飛ぶ連中がいるぞ!」

 声をかけられて、格納庫から飛び出した。修理途中の自転車を懸命に漕いだ。駆けつけたところで、何をどうするという意思もなかったが。

 滑走路では轟々とエンジン音を響かせて、彗星、彩雲、零戦が続々と離陸していく。銀河、艦爆も動き始めていた。厚木に見切りをつけた隊員たちの「脱走」である。飛行機は奪い合いになっており、

「俺も連れていけ!」

 一機に何人もが飛び乗る混乱ぶりだ。計画を事前に知らされなかった搭乗員は飛行可能な機体を求めて、右往左往している。

「行くな!」

 飛行長の山田九七郎少佐が制止している。友弥はどちらに与するか決めかねていたのだが、山田と目が合ってしまい、

「おい、この馬鹿どもを止めろ! 抗命罪になるぞ!」

 必死の形相で怒鳴られると、態度は決まった。友弥は飛行機にへばりつく整備兵をひきはがし、駆け寄る搭乗員を抱き留めた。しかし、練習機までもが動き出した。

 副長の菅原英雄中佐も自転車で駆けつけ、

「貴様ら、まだわからんかあ!」

 機体へ自転車を投げつけたが、そんなもの蹴散らして、滑走していく。離陸した飛行機は上空を旋回し、いくつかの小編隊を組んで、北西の空へ消えた。

 士官たちの計画は、小園司令の意思を菅原副長が継ぐならその指揮に従い、かなわぬ場合は月光隊隊長の林正寒大尉を指揮官とする。それも駄目なら、かねてから抗戦を呼号していた児玉と狹山の陸軍基地へ向かうというものだった。戦争継続の大詔が再渙発されたなら、厚木へ復帰する計画である。

 バタバタと排気音を吐き散らし、走ってきたオートバイが、静かになった滑走路の脇で停まった。飛行機を盗めないものかと語っていた赤松貞明中尉である。苦笑している。

「やれやれ。先を越されたな」

「あの人たちは後世に残すために飛行機を盗んだわけじゃありませんよ」

「ふん。副長や飛行長は雷電隊ばかり危険視してたのが失敗だったな」

 稼動機はすべて飛んだのか、見渡したところ、破損した機体、プロペラをはずした機体しか残されていない。赤松が所属する雷電隊は一機も飛ばなかった。雷電はバッテリーもプロペラもはずされ、ガソリンまで抜かれていた。

「わが隊の有志は富士山麓あたりで静観するよ。トラックに武器や食糧を積んでいく。農耕具もな」

 赤松は悠然と笑顔を残し、真夏の日差しの中に消えていった。

 飛行機のいなくなった飛行場に埃っぽい風がむなしく吹き抜けていく。暑い。日陰を求めて指揮所の方向へ歩くと、山田飛行長が遠い眼差しで、ここではないどこかを見ていた。

 山田は水上機出身で、北はアリューシャンから南はインド洋まで、太平洋を駆け回り、二度も撃墜されながら生還した歴戦の勇士だが、普段は物静かな紳士である。それが疲労困憊し、目元にどす黒いクマを浮かべている。夏に似合わぬ暗い眼差しが、友弥に向けられた。

「母里。お前は乗り遅れたか」

「小園司令がいなければ、もう部隊の体をなしません」

「お前、復員してアテはあるのか」

「いえ」

 友弥が中学へ入る頃に、父親は大陸へ渡って消息不明、母親は男を作ってこれまた行方不明。友弥は祖父の世話になったが、その祖父もすでに亡くなっている。祖父は菓子職人だったが、この御時世では仕事などなく、ひどい生活をしていた。

「祖父の家は空襲で跡形もありゃしません。子供の頃、小豆を炊き上げて、アンコ作りを手伝わされましたよ。手を止めるとアッという間に焦げるので、怒られたもんです」

「基地には小豆や砂糖の備蓄もある。うまくやれ」

 持ち出せということか。厚木基地には二年分の食糧が備蓄されているという話もあり、解隊ということになれば、物資不足の折、奪い合いとなるだろう。

「盆は過ぎましたが、地方によってはおはぎを食う習慣があるようですね」

「たまには食ってみたいものだな」

 山田飛行長の言葉にたいした意味はなかっただろう。しかし、友弥は「その気」になった。食材が手に入るなら、飛行長や隊員に食わせてやりたいと思った。

鬼鶴の系譜 敗戦編 第一回

鬼鶴の系譜 敗戦編 第一回 森 雅裕

 昭和二〇年。「戦争が終わるらしい」という情報が厚木三〇二空にもたらされたのは八月十一日の夜である。日本はポツダム宣言に対して、まだ条件付きにこだわってはいたが、これを受諾した旨の米国海外放送が横須賀の七一航戦司令部で傍受され、また前日の御前会議の模様も伝わっており、厚木航空隊の小園安名司令は戦争継続を各方面に働きかけ、奔走していた。厚木の幹部や士官の一部はこれを知っていたが、末端の隊員に情報は聞こえてこない。十三日にも押し寄せる米軍艦載機と交戦しているのである。

 母里友弥上飛曹は十四日になって、地下壕の下士官居住区で「終戦」の予告を聞いた。帝都防衛をになう厚木航空隊もこの年の春以降は押し寄せる米軍機の質と量に対抗できず、迎撃どころか退避することが多くなっていた。嫌な予感はしていたが、来たるべきは本土決戦であって、終戦だとは思わなかった。

 この日、日本政府は条件付き降伏を断念し、無条件降伏が決定した。友弥は政府の思惑など与り知らないが、死んでいった幾多の戦友を思うと、やりきれなかった。一体、何のための死だったのか。

 町に出れば、増え続ける戦災孤児を目のあたりにする。家や家族を失った民間人への責任は果たさぬまま、この軍隊は解散するのか。申し訳なさとくやしさで、絶望的な気分となった。何よりも、今日まで信じてきた価値観を否定されたという喪失感が大きかった。

 隊員たちは誰も同様で、ヤケ酒をあおって、この夜を過ごした。

 

 

 十五日の早朝。終戦のはずであるが、米軍艦載機の大群が関東へ襲来した。

「ぎりぎりまで日本を叩いておこうというのか。意地汚ない奴らだ」

 厚木の隊員たちは憤り、わずか十二機でこれを迎撃した。

「これが最後になるかも知れんぞ」

「上がったらもう降りてくるのが嫌になるなあ」

 そんなことをいい、彼らは蟷螂の斧をふるった。

 友弥は照準器に入るF6Fに手当たり次第の銃弾を浴びせたが、戦果など確認している余裕はなく、敵に囲まれぬよう回避運動に必死だった。他機も同様で、戦果を報告する者もあったが、どれも不確実であり、仲間は三機が帰還しなかった。

 そして正午。中央指揮所の号令台前へ総員集合がかかり、炎天下で玉音放送を聞いた。厚木には五千人以上の隊員がいるが、集まったのはおよそ三千人。他の者はそれぞれの持ち場に整列した。隊員の中には終戦を知らず、放送も聞き取れず、陛下から戦争継続を鼓舞されたと勘違いする者もいたが、放送後に内容が波のように広がると、怒りや悲しみや戸惑いの叫びがあちこちからあがった。

 その場を離れられずにいる隊員たちの前に小園安名司令が現れ、今後は自衛のための戦争継続となる、と宣言した。小園はすでに降伏反対の声明を全海軍に向けて緊急特電で発信していた。

「私と志を同じくし、あくまでも戦い続けるという者はとどまれ。しからざる者は自由に隊を離れて帰郷してよろしい。私は必勝を信じて最後まで戦う覚悟である」

 絶大な人望を集めている司令の訓示に、隊員たちは沸き立った。戦争をまだ続けたいというより、何かしら目的が欲しかったのである。

 母里友弥の胸中も同様だ。司令や仲間が徹底抗戦だと叫ぶなら、彼らを裏切ることはできない。戦争に負けても、日本軍人の意地を見せたい。大体、軍隊をやめたら、どう生きていくのかもわからなかった。

 搭乗員は志願兵であり、きびしい選抜と訓練をくぐってきた人材である。若者の最高の職業と信じられてきた。死ぬのを怖いと思う戦闘機乗りなどいない。その誇りある身分を取り上げられて、他の生き方をしろといわれても、途方に暮れるばかりである。

 命令違反になるのでは……とは考えなかった。終戦の詔勅は天皇の本意ではなく、君側の奸どもによる陰謀だと感じていた。小園司令以下、厚木の隊員は高級軍官僚など「ダラ幹」と呼んで、信用していなかった。

 小園安名大佐は日中戦争の初期には漢口爆撃を敢行し、太平洋の戦線では台南空を率いてフィリピン、ラバウルで激闘を繰り広げてきた海軍屈指の指揮官である。大型機攻撃のための斜め銃に固執して周囲を辟易させ、会議は「衆愚の意見が通るもの」と欠席するなど奇矯な言動で、海軍上層部とは対立することが多かったが、部下からは「オヤジ」と愛されていた。実の父親を持たない友弥には、その「オヤジ」からまだ離れたくない、という思いもあった。

 滑走路ではエンジン音が絶えなかった。政府施設上空での示威飛行のため東京へ飛ぶ者もいるし、他の基地に協力を求める連絡機も飛んでいる。地上では、籠城にそなえた物資をかき集めるためにトラックが次々と出発していく。

 厚木基地はそれ自体が軍需工場、武器庫となっている。眠っていた機関銃や小銃が持ち出され、兵が総出で手入れを始めた。隊の正門には砲座が据えられ、基地の目と耳である通信塔の周囲は厳戒態勢を固めている。

「抗戦を訴える伝単(ビラ)を空から撒く」

 という話も伝え聞いた。懸命にガリ版刷りしている者たちもいるらしい。が、友弥には誘いがかからないので、ぼんやりと一日を過ごした。

 夕刻、第七一航空戦隊司令官・山本栄大佐が説得のために厚木へやってきたが、隊員たちから冷笑されただけであった。厚木三〇二空は七一航戦の隷下にあるので、山本は小園の直属の上官ということになるのだが、不遇をかこっていた山本を今の役職に推挙したのは小園なのである。実戦経験では小園がはるかに上であり、山本がいかに言葉を尽くそうとも、まったく説得力がなかった。

 かつて山本はフィリピンの二〇一空司令であり、昭和十九年十月に第一次神風特攻隊を送り出した人物である。「御国のため」と若者たちを死地へ向かわせながら、今さら戦争をやめろなどと、どのツラさげていえるのか。厚木の隊員たちは憤り、

「かまわんから斬ってしまえ」

 と、軍刀の柄を叩く士官もいた。

 

 

 翌一六日の朝、海軍総隊司令部参謀副長・菊池朝三少将が厚木へ現れ、決起の翻意を促したが、小園司令は応じなかった。さらに午後には第三航空艦隊司令長官・寺岡◯平中将が将官旗を立てて乗り込んできたが、鹿児島出身の小園は「島津軍法に、隊将の首級を敵に渡すべからず、この仇を報ずること能わぬ時はことごとく討死せよ、とある」と、撥ねつけた。これによって、厚木の決起は「反乱」となり、戦後の軍法会議で「抗命罪」の烙印を押されるのである。

 上層部の動きなど知らぬ母里友弥は、飛行場の様子を見回り、指揮所の近くで足を留めた。吹き流し塔に見慣れぬ旗が揚がっていた。手描きらしい菊水旗である。

「わが厚木航空隊は湊川の楠木正成というわけだ」

 艦爆隊の岩戸良治中尉が夏空を仰ぎながら、いった。自負であり自慢でもあるだろう。しかし、友弥は自虐趣味だと感じる。楠木正成の戦いの最後はどうなったか。正成は勝利の象徴ではない。

「楠木正成の旗幟は特攻隊の基地ではお馴染みですよ。菊水に非理法権天……」

 友弥の声にはいささか嫌味が混じったかも知れない。

 士官と下士官は居住区、食堂などの生活空間からして隔絶しており、親しく言葉を交わすことは少ない。しかし、友弥は異様な器用さがあって、暇を見ては小さな鬼の木像を彫るのだが、それをマスコットとして欲しがる士官が続出し、差し上げてきたので、彼らは気安く声をかけてくる。

 岩戸は五千人以上が大量採用された第13期予備学生出身で、甲種飛行予科練習生10期の友弥の方が、戦歴は上である。

「母里。お前は『湊川』という言葉で思い出すことがあるだろう」

「そうですなあ」

 三月末、当時、鹿児島の笠之原二〇三空にいた友弥は鹿屋基地を発進した「神雷部隊」の掩護任務についた。五十五機の零戦が守る十八機の一式陸攻は異様な物体を懸吊していた。大型魚雷にも見えた。これが人間爆弾「桜花」の初陣である。

 しかし、かき集められた零戦の多くは整備不良で途中から引き返し、随伴したのはわずか三十機。

 米軍から「ワンショットライター」と蔑称されるほど脆弱な陸攻が重量二トン以上の桜花を抱いてヨタヨタと飛んでいくのだ。これをレーダーで探知した米軍戦闘機の大群が待ち構えている。結果は明らかだった。神雷部隊の陸攻と桜花は敵機動部隊に近づくことさえできずに全滅。掩護の零戦隊も十機が失われ、戦死者は百六十名にも達した。

 指揮官の野中五郎少佐はこうなることを予測し、桜花の実戦投入には「国賊とののしられても、この自殺行為を司令部に断念させたい」と反対していたが、出撃命令が下ると「湊川だよ」の一言を残して機上の人となった。

 楠木正成が勝てる見込みのない湊川合戦にのぞみ、足利尊氏の大軍を相手に全滅した故事と神雷部隊の運命を重ねたのである。神雷部隊は楠木正成が用いたという「非理法権天」の旗幟を指揮所にはためかせていた。「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」……天とはすなわち天皇という尊皇思想に結びつけられている。しかし、これを楠木正成の旗幟とするのは後世の創作だ。罰当たりな危険思想だが、友弥はそのくらいにしか思っていない。

 あの時、充分な掩護戦闘機もつけずに出撃を命じた第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将もまた八月十五日の午後、部下を率いて大分基地から沖縄へ飛んだ。「敵空母見ユ。必中突入ス」の無電を最後に消息不明となっている。特攻を命じた者が敗戦後に生き残るわけにはいかない。

「宇垣中将は彗星艦爆で出撃されたそうだ。たとえ命令違反でも同行するという部下が続出して、十一機もの編隊になったらしい」

 岩戸は誇らしげにいった。この男も彗星の搭乗員である。宇垣の部下にシンパシーを感じるのだろう。

 友弥は零戦乗りである。戦闘機は一人乗りだが、艦爆なら複数が乗り込んだだろう。一体、何人が死んだのか。そんなことを考えた。二十名を超えるだろう。しかし、悲惨だとは感じないし、無意味とも思わない。

 友弥と同期の甲飛10期からは多くの特攻隊員が出ている。友弥もまたフィリピンや台湾を転戦するうち、特攻に行けと命じられ、覚悟を決めたことがあるが、ぎりぎりのところで内地帰還となって、命拾いしていた。だが、いずれ自分も死ぬのだと考えていた。

 宇垣の特攻を知らされた小沢治三郎海軍総隊司令長官は、

「玉音放送で大命を承知しながら、部下を道連れにするとは以ての外である。自決するなら一人でやれ」

 と激怒したというが、これはむしろ戦後の平和日本の価値観であって、友弥も他の搭乗員も国のために死ぬのが最大の美徳と信じられた時代に生まれた。宇垣中将の部下たちは自ら志願、熱望して最後の特攻を行ったのである。

 友弥が多少でも感傷的になったとすれば、一人一機の棺桶を与えてやりたかったなア、という口惜しさにも似た同情によるものだった。同乗者の中には操縦できない者もいただろうが、それより何より、おそらくは稼働機をかき集めた結果が十一機だったのだろう。棺桶さえ不足していたのである。

「野中一家」全滅の後も神雷部隊の桜花作戦は続き、人員も機材もひたすら消耗したが、新聞各紙は「一発轟沈」「皇軍新兵器」と礼賛した。

 そして、九州防空のため、笠之原には厚木の零戦隊の一部が派遣され、また厚木、岩国、大村の雷電隊で鹿屋に編成された「竜巻部隊」も鹿屋に近接する笠之原を優先的に使ったので、友弥の二〇三空は居場所がなくなった。二〇三空は岩国に移って、B-29に体当たりする空中特攻隊に編成されるという話もあったが、その前に彼は厚木三〇二空へ異動となったのである。竜巻部隊の中にかつて南方で一緒に戦った上官がいて、引き抜いてくれたのだ。その上官も五月末の横浜空襲の迎撃戦で戦死していた。

 小園安名司令といえば、歴戦の指揮官で、部下には情け深いが、海軍上層部に喧嘩を売りまくる「奇人」であり、その彼が率いる厚木三〇二空は他の部隊でもてあました曲者が厄介払いとばかりに送り込まれる傾向があった。他の基地で温存されていた戦闘機を盗み出し、厚木の隊名符号を入れてしまう搭乗員もいたくらいだ。友弥もまた反骨心が強く、町中で憲兵や他の部隊の者と殴り合いの喧嘩をやり、決して評判のいい下士官ではなかった。

「しかし、岩戸中尉。湊川の合戦は籠城戦ではありませんよ。厚木基地が海軍最大の航空基地とはいえ、籠城を続けるには限界があります。ここには五千人以上の隊員がいるのですから、打って出て、官庁や放送局を襲撃、占拠するのが定石というものでは……?」

「オヤジ(小園)はそのつもりで計画を練っていたようだが……マラリアが再発して、指揮できない」

 南方戦線在任中に感染したマラリアが小園の持病だった。しかし、この大切な時に……。前途多難が予感された。

「それにな、陸軍の反乱部隊が宮城と放送局を一旦は占拠したが、すでに鎮圧され、どこも警戒厳重だ。そんなところを襲えば、日本人同士で撃ち合いになる」

「なるほど。ぜひとも敢行したい作戦じゃありませんね」

 となると、各地の有力な陸海軍部隊が決起しない限り、厚木だけが頑張っても、鎮圧されるのは時間の問題ではないか。

 しかし、それでもいいのかな、と友弥は思った。日本人は「滅びの美学」が好きだ。決して他人事ではないのだが、友弥はのんきに構えている。これが歴史というものなら、観察してやろうとも考えた。

 この日の夕刻、海軍省は小園を罷免、横須賀鎮守府付に更迭して指揮権を奪い、山本栄大佐を後任の厚木三〇二空司令に指名した。山本は第七一航空戦隊司令官と兼務となったが、むろんのこと、小園はこの人事を無視し、厚木に居座っていた。

 

 

 十七日。

 厚木基地の空気は抗戦派が支配的だが、どっちつかずの者もいないわけではない。一部の隊員は軟禁状態にもなっていた。

「母里。ビラ撒きだ」

 早朝、ようやく声がかかった。拒否すれば、友弥も裏切者である。もとより、拒否する気はない。抗戦派に賛同するというより、単純に空を飛びたかったからである。奪われかけている翼だった。

 支度をしていると「大西次長が自決された」と情報がもたらされた。軍令部次長は大西瀧治郎中将である。昭和十九年十月には、第一航空艦隊司令長官就任と同時に最初の神風特別攻撃隊を創設した「特攻の父」だった。

 厚木の小園司令は大西中将を尊敬し、親交があった。終戦にあたり、中将もまたポツダム宣言受諾を拒否して継戦に奔走したが、政府決定が覆えるわけもなく、十五日深夜に渋谷の次長官舎で割腹したのである。

「私と握手して死んでいった特攻隊員に謝罪のため、長く苦しんで死にたい」と治療も介護も拒否し、十六日夕刻に絶命した。

「今日、落合の火葬場へ運ばれるらしい。空からお見送りしよう」

 僚機の戸ノ崎上飛曹、富田一飛曹が地図を広げながら、いった。

「ビラ撒きのついでだ。三機編隊で行くぞ」

 自転車で運ばれてきた伝単の束を零戦の狭い操縦席に押し込んだ。

「国民諸子ニ告グ 帝国海軍航空隊」と題した文面は「赤魔ノ巧妙ナル謀略ニ翻弄サレ必勝ノ信念ヲ失ヒタル重臣閣僚共カ上聖明ヲ覆ヒ奉リ……」で始まり「今コソ一億総蹶起ノ秋ナリ」と結んでいた。

 伝単は他にも何種類かあり、「神州不滅、終戦放送は偽勅、だまされるな」あるいは「独逸ノ惨状ヲ想起セヨ 婦女子ハ計画的ニ姦セラレ民族ノ血ノ純潔ハ破壊セラレントシツツアリ」と訴えており、名文とはいえないが、必死の檄文であった。

 この伝単を積んだ三機は東京を目指した。大西次長を見送ったあと、それぞれ撒布を分担する各地へ飛ぶ予定だったが、いくらも飛ばないうちに戸ノ崎と富田は自分の機首を指差しながら、手を振った。エンジン不調である。機体の損耗が激しい上に燃料も最悪だから、不調の機が多いのである。彼ら二機は厚木へ引き返していった。

 友弥の零戦は不思議なほど快調だ。単機、渋谷の軍令部次長官舎を目指す。大西次長を悼む気持ちが強いわけではないが、仲間が脱落してしまったら、自分がやるしかない。律義な性格なのである。

 大西瀧治郎が生みの親となった第一次神風特攻隊の隊員のほとんどは友弥と同期の甲飛10期生だった。熟練搭乗員の多くが戦死した戦争後期、若年ながら海軍航空隊の中核となった期である。その友弥が空から「特攻の父」を見送るにあたり、

「文句の一つもいってやるか」

 誰にいうともなく、声に出した。応えるのは愛機のエンジン音である。

 空から見る東京は色を失っている。五月に大きな空襲を受けた渋谷も焼け跡が広がり、灰色の世界だ。焼け残ったコンクリートの建物
だけが点在している。これが、友弥たちが守りきれなかった帝都だった。

 渋谷駅に近い南平台が眼下に見えた。風防を開け、あれが官舎だろうと見当をつけたあたりの上空を旋回していると、その建物の周囲に集まった連中がこちらを見上げながら、さかんに一方を指し示している。その方向へ飛ぶと、車列が見えた。大西次長の棺をのせた車だろうか。

 低空で追い越し、機体を大きく傾けて旋回。敬礼して、翼を振りながら、

「ばかやろおおおおおお!」

 あらん限りの大声を投げた。誰に向けたものでもなく、むろん聞いた者もいない。地上の車列は何事もなく走り続けていた。

 友弥のビラ撒きの分担は東海方面である。高度を上げ、機首を西へ向けた。

 特攻の生みの親とされる大西中将だが、彼とて軍令部の決定に従わざるを得ない組織の一員だっただろう。さりとて、同情する必要はない。搭乗員が使い捨てにされるのを覚悟しているように、指揮官は恨みや憎しみを買うことを覚悟しているはずだ。

 甲飛10期が教育期間を終えて部隊配属されたのは昭和十八年末である。彼らには勝ち戦の経験がなかった。個々の兵士は身命をなげうって戦った。負けたのは、ブザマな戦争をやった指導者の責任だ。友弥は敗戦の喪失感を指導者への怒りに置き換えることで、束の間ではあるが、血が熱くなる生気を取り戻した。地上に降りれば、またドンヨリした気分に落ち込むだろうが。

 浜松、名古屋で伝単を撒き散らし、帰途についた。

 任務を終えても名残惜しかった。また飛べる機会があるかどうかはわからない。

「帰りたくねぇぞお」

 独りごちた。エンジンは彼の気持ちを知ってか知らずか、屈託なく回り続け、機体は蒼天を上昇している。大西次長の葬送の上空で宙返りでもしてやればよかっただろうか。上層部に知れたら激怒されるのだろうか。

 とりとめのないことを考えながらも、死角を作らぬよう、左右に緩旋回しながら高度を上げる習慣が抜けない。

 高度五千五百を越えて、酸素マスクを装着する。エンジンを冷やすため、速度を落として旋回。頭上は輝く青一色となり、眼下には白い雲が浮かんでいる。この世は神の創造だと思わざるを得ない壮絶な光景だ。そこに今、動いているのは自分一人だった。

 さらに上を目指す。地上に居場所がないなら、空の限界まで行ってみたい気分だった。かつて、B-29にまったく追いつけなかった高度一万メートル。そこはもう人間社会とは別世界だ。世俗を忘れるあの感動をもう一度体験したかった。しかし、その高度に達するには三十分以上かかる。その前にエンジンがあえぎ始めた。

 高度八千メートルを越えた。上昇力は極端に落ちたが、群青の空の下に日本の国土が横たわっている。広いのか狭いのか、わからない祖国だが、

「人間はちっちぇなア、おい」

 それだけは実感できた。息も絶え絶えのエンジンが相槌を打つ。人間もつらくなってくる。高度千メートルごとに気温は六℃下がる。故障の多い電熱被服など最初から着る気はない。この酷寒に耐えて、戦闘機乗りは戦ってきた。エンジンの暖気を操縦席へ引き入れる仕組みが一応はついており、搭乗員は厚着しているし、マフラーも巻いている。とはいえ、凍死しそうだが、それならそれでいいような気がした。

 ようやく、高度一万メートルに到達した。日本海は巨大な湖のように広がり、その向こうに朝鮮半島が見え、富士山は真下にある。この光景を目に焼きつける。

 エンジンが帰りを促すように咳き込んだ。なおも上昇を続けていたが、高度計の針はもうほとんど動かず、溺れかけた魚が水面に浮いている感じだ。燃料も残っていない。

 ふらつきながら旋回する。舵が鈍い。愛機の機首をゆっくりと下げた。高度が下がるにつれ、エンジンが生気を取り戻す。凍死なんかするのは、やめた。

「よし。帰ろうぜ」

 友弥はエンジン音、風切音と戦いながら、思いつく限りの歌をがなり立て、声を枯らして厚木へ帰還した。そして、これが母里友弥上飛曹の最後の飛行となった。