抜けた鬼鍾馗 第九回

抜けた鬼鍾馗 第9回 森 雅裕

 楽器とノートを持って岩本琴太郎の研究室へ行くと、異様な光景が彼女たちを迎えた。金と銀の光を放つ二匹の九尾の狐が宙に浮遊している。心春は驚きながらも反射的に狐の形態や表情を観察している。美術をやっている者の習性だ。シャープな造形だが、どこか愛嬌がある。これは奈良派の彫刻に通じるものである。

 その狐たちは心春とすみ花が持つ二冊のノートへ吸い込まれた。二人は二冊のノートを作業台に置いた。それぞれの彫金板に金狐と銀狐が復活している。

「狐たちはどうしてここに飛来したのかしら」

 心春の問いに土生が答えた。

「殺生石のコンパスがあるから引かれてきたんだ」

 彼の手元に九尾の狐と因縁深いそのコンパスがあった。

「狐たちが出現したのはこれが初めてかね」

「ええ。私たち、一緒に演奏することが多いけど、金と銀の彫金板が揃った場所で楽器を鳴らすのは初めてでしたから。バッハの曲というかディープ・パープルの曲というか……」

「バッハ調コードが妖狐たちの琴線に触れたわけか。さすが『音楽の父』だな。彫金板というのは?」

「吉備真備が唐から持ち帰った金と銀です」

 二人はノートを土生に示した。

「そうか。陰陽を表す金烏と玉兎か」

 土生は二枚の彫金板を見比べた。

「本来は神獣だった九尾の狐が悪い妖怪だと定義されるのは荒唐無稽な俗説、創作である、と学者や文筆家がさんざん指摘している。この彫刻はなかなか愛嬌があるじゃないか」

「名前つけたくなるわね」

 と、心春。

 琴太郎がわざとらしい作り笑いを見せながら釘を刺した。

「キンタロウ、ギンジロウはやめとけ」

「金角、銀角でいいんじゃない。西遊記に出てくる」

「なるほど。金角銀角は日本では角の生えた姿で描かれることが多いが、その正体は狐の妖怪変化とされている。母が九尾の狐だともいう」

 土生はコンパスを見ている。殺生石で作られたその針が心春とすみ花の間で暴れているのである。

「才喜すみ花さん。あなたも奈良家の血筋ですね。となると、あなたこそが鬼のナカマロが元禄以来三百数十年も一途に追い求めた女性……」

 土生の言葉を断ち切るように心春の声が割り込んだ。

「でも、彼女は岩本先生が彫った虞美人の鐔を見ても動じませんでしたよ。ナカマロが岩本先生に憑依して彫らせた鐔です」

 第三者がいる場所では彼をキンタロウとは呼ばない。一応、指導教官には敬意を払う。その時の気分にもよるが。

「それはそれは……危険な鐔を見てしまったものだね。才喜すみ花さんが花嫁候補なら心を揺さぶられて、岩本さんによろめくかも知れないのに」

「鐔に籠められた妖力がどんなものなのか確かめなきゃ……対策も講じられません」

 この言葉にすみ花が苦笑した。

「私は実験台だったみたいです」

「危なくなったら、私が身体を張って守るわよ。でも、鬼のナカマロさんは岩本先生からすでに離れているし、仮にすみ花がなびいたとしても、まあキン……岩本先生なら害はないかな、と」

 この言葉には岩本琴太郎が仏頂面で、いった。

「人畜無害で小さくなって生きていくのが芸術家というものだ。世の中に必要な職業じゃないんだから」

「才喜さんが鐔に反応しなかったのは、彫金は彼女には畑違いだから感動アンテナが立ってなかったということだろうね」

 と、土生。心春が疑問を口にする。

「では、音楽だったら、彼女のアンテナが受信するということですか」

「そうなるね。ナカマロが憑依している間、性格やしゃべり方などは宿主に影響されるが、神経も感性も研ぎすまされ、宿主の能力は飛躍的に増大する。彫金家なら彫金の腕が。ピアニストならピアノの腕が」

「ピアニストだったら演奏で心動かそうとするわけですか」

「そんなピアニストがいるのかね」

 すみ花がピースサインでもやりそうな笑顔で、いった。

「私の伴奏者です。でも、演奏は何度も聴いていますけど……」

「伴奏なら力を発揮するのをセーブしているんだろう。本気で独奏となればハートに矢がグサリだね。とはいっても、音楽は時間芸術だ。美術なら一目で鑑賞できるが、音楽を聴くのは時間を要する。伴奏なら安心安全ともいえない」

「ふーん」

 すみ花は口元を尖らせた。土生のような年長者に対して馴れ馴れしいが、人徳というものか、無礼な印象はない。

 彼女は甘い声で続けた。

「明日、彼は演奏試験です。リストのソナタを演奏すると聞いています」

 腕に覚えがある学生がチャレンジする難曲だ。ではあるが、楽しいとか美しいとかいうような世界ではなく、ロベルト・シューマンの妻でピアニストのクララ・シューマンは「目的のない騒音にすぎない」と批判し、音楽評論家のエドゥアルト・ハンスリックは「支離滅裂な要素がこれほど厚かましくつなぎあわされた曲は聴いたことがない」と酷評した。しかし、有力ピアニストたちが相次いで取り上げたことで二十世紀に入って評価され、アルフレッド・ブレンデルは「独創的で力強く知性にあふれたソナタであり、大規模な構成を完璧に制御している」と絶賛している。

 心春はすみ花を強い視線で見据えた。

「聴きに行かないよね、すみ花」

「明日は私、長野に行く予定。父親と一緒に音楽イベントに出演」

 作曲家という職業は演奏会や講演、コンクールや音楽団体の指導など、地方を旅することが多い。それがすみ花の父親である。

「ところで、憑依した鬼が離れると宿主は通常運転に戻るんですかね」

 と、琴太郎。土生は品定めするように彼を凝視した。

「岩本さんはどうなんだ? 経験者だろ」

「彫金の腕は以前とたいして変わらないが、感覚は鋭くなったような……」

「個人差もあるだろうが、芸術以外の部分にも影響が残るのではないかな」

「あ…あれかな。そうか、あれかあ」

 と、琴太郎は顔を赤らめた。

「何いってんのよ、あんた」

 心春は愛想のカケラもなく吐き捨てた。すみ花とは違い、愛嬌キャラが似合わないことは自覚している。そんな彼女の醒めた視線が土生のもっと醒めた視線とぶつかった。腹に一物ある視線だ。

 夢枕に立った鍾馗から剣を預けられたことを心春はいいそびれてしまい、あたりさわりない言葉で会話を締め括ろうとした。

「こんな私たちに会うために上野までお越しいただいて恐縮です」

 彼は京都の美術館の館長である。

「なんの。あなた方にも会いたいが、上野の森美術館でやってる展示が目当てのひとつでね」

 上野公園を歩いていると、この界隈の博物館・美術館の看板が目につく。今、楊貴妃伝説展というものが開催されているらしい。あまり関心がない心春だが、土生は得意気に言葉を続けた。

「吉備真備の母は楊貴(やき)氏だったという。おそらくこれは八木から字が変わったものだろう。八木という姓は備中備後あたりの刀剣鍛冶から来ているのではあるまいか。『やきたちの』という枕詞がある。『たち』とはつまり、太刀だ」

「あー。そうなんですね」

「真備はおそらく唐の朝廷で楊貴妃を見ており、その美貌にちなんで、八木に楊貴の文字を当てたのではないかと考えられる。いや、それは時系列が合わないという研究者もいるがね」

 吉備真備の後裔だという土生の言葉であるから、もっともらしく聞こえるが、心春の好奇心のキャパシティはナカマロや鍾馗や妖狐の出現だけですでに満杯になっている。

「楊貴妃伝説展、ぜひ御覧になるといい」

 土生のそんな言葉も社交辞令くらいにしか聞こえなかった。「伝説展」というのだから、企画テーマの真偽は問題ではないようだ。

 

 二日後。

 美校と音校の授業には共通科目もあり、両学部の学生が一緒に受講する。それでも一般大学に比べれば、教室は小さい。始業前、昨日行われたピアノ科の演奏試験について音校の学生が話すのが耳に入った。天浪鈴ノ介の異様な演奏が話題だった。

 リストのロ短調のソナタはピアノテクニック総動員の難曲だ。弾く方も聴く方も気力体力が必要となる。複数の楽章に分かれておらず、切れ目なく演奏される単一楽章の曲だ。話題となっているのは、この長大な曲がブツ切りにされなかったことである。

 心春は音校生の会話に加わった。

「最後まで完走したあ? 三十分かかる曲だよ」

 試験はせいぜい十分で切る制限がある。

「それがさ、試験官の先生方も演奏に魅入られてしまって止めようとしなかったって。もはや試験じゃなくて演奏会だよ」

 鬼の本領発揮だ。イヤな予感がした。すみ花はこの件を知っているのだろうか。

 授業が終わると、心春はすみ花へラインを送った。

「どこにいる? 何してる?」

 返事は三十分ほど後だった。ラインではなく電話だ。すみ花ではなかった。

「奈良心春さんですか。すみ花の父です」

「あ。ハイ」

 以前に演奏会場ですみ花に紹介され、面識はある。しかし、会話らしい会話を交わしたことはない。

「仕事中だったので、折り返すのが遅くなりました。ええと、すみ花はスマホをうちに置いていきましてね。学校にいるはずですが」

「置いていった……とは、忘れたということでしょうか」

「かも知れないが、どうも様子が変でね。気になって、こうしてあなたに電話したんだが」

「変とは……?」

「うーん。昨日からなんですが、心ここにあらずというか、目が異様に輝いているとか……。今日は今日で、メイクが念入りでしたなあ」

「昨日はイベントで長野へ一緒に行かれたんですよね」

「行きはあの子は新幹線の中でずっと寝てたね。イヤホンで音楽聴きながら」

「何の音楽です?」

「私は聴いてない」

「それって何時頃ですか」

「午前中だよ。昼前だ」

 天浪鈴ノ介の演奏試験の時刻だ。すみ花のイヤホンはスマホの音楽アプリに接続していただろうから、鈴ノ介は鬼の妖力でスマホを乗っ取り、自分の演奏を実況中継したのだ。すみ花が寝ていたのも鬼の力で催眠状態にされていたのかも。

 やられた。レトロな鬼の妖力とデジタル機器が組み合わされるとは……。心春は天を仰いだ。

「イベントは無事終わったんですか」

「うん。帰りは夜でしたが、すみ花はスマホをちょっと触っただけでバッグの底に押し込んでいましたね。なんだか避けるように」

「避ける?」

「すみ花が聴いていた曲かどうかはわからないが、今、スマホを見たらね、録音されてる曲がありました」

「それは?」

「リストのピアノソナタです。いい腕だが、音響機器を使った音質の録音じゃないね」

「敵」は実況だけでなくスマホの録音機能まで使って、すみ花に繰り返し聴かせようとしたのか。すみ花はそれに抵抗して、昨夜はスマホをバッグに仕舞い、今朝は家に置いて出た。ということは、まだ鬼のナカマロに完全に心を奪われたわけではなく、理性を保っている。しかし、ピンチでも心春に連絡せず、助けを求めないのは意志を縛られているということか。だが、登校しているなら学内で会える。

「彼女は大丈夫。ああ見えて、しっかりしてるし、私もついてます」

 せいぜい明るく宣言し、電話を終えた。「ああ見えて」は余計な一言だったかなと反省しながら、心春は図書館へと向かった。何かあったらアートプラザで会おうと約束している。時間は決めていない。互いに引き合うものがあるはずだ。

 アートプラザは図書館A棟とB棟をつなぐ一階通路にあるギャラリーで、芸大関係者の作品を展示、販売している。彫金科の数人のグループで、ペンダントトップや身の回りのものにつけるチャームの受注も受け付けていた。注文主の希望の図柄で作るのだが、ギャラリーにぱ作例の写真を掲示してある。注文主が写真を提供してくれれば、その容姿をデフォルメして作ることもあり、なかなかの人気である。しかし、医者だから聴診器持ってる姿というリクエストはまだいいが、小説家だとわかる姿に彫ってくれという無理難題もある。

 自身の興味や美意識を優先する「芸術家」はそうした注文には積極的になれないらしく、心春に回ってくることがわりと多い。そこは職人育ちの心春であるから気乗りしない仕事でも何とかしてしまう。

 小説家の依頼には、パソコンの前で原稿の束を投げ散らかしている姿を丸彫りした。それが縦二十五ミリ、横二十ミリにおさまっているのである。パソコンや原稿などの出っ張った付属部分を含めてのサイズであるから、人物本体はもっと小さい。しかも顔は依頼者に似せてある。刀装具の細密な彫刻で身につけた彫技だった。

 ギャラリーの中庭に停まっているキッチンカーでチャイを買い、これを飲み終わる時間だけ、すみ花を待つつもりだった。

 屋外のテーブルで、イタリア語の参考書を眺めながらしばらく時間を過ごすと、図書館と赤タイル張りの陳列館にはさまれた通路から人の気配が近づいてきた。すみ花と天浪鈴ノ介だった。傍目には幸せなカップルである。待ち構える心春の姿を認めても、天浪は意外だった様子もなく、いった。

「会ってしまう運命なんだな。いや、僕じゃなくて君たち二人は見えない糸でつながっているようだ」

 心春はすみ花を見やる。なるほど、メイクがいつもより入念だ。

「すみ花。理性は保ってる?」

「うん。まあ……」

 彼女の首からは心春が作ったペンダントが下がっている。

「これが彼女の抵抗力を強めているようだね」

 と、天浪は視線でペンダントを指した。すみ花はいつもと変わらずにこやかに、いった。

「彼が心春に会おうといったんだよ」

「奈良さんを無視もできないからね」

 と、天浪も爽やかである。

「あー、めんどくせっ」

 呟いた心春にすみ花が小さな包みを差し出した。

「そういうわけで、お土産」

 開くと、個包装された煎餅で、楊貴妃の顔が焼き印されている。

「はて。楊貴妃煎餅が土産とは?」

「美術館行ってきた。楊貴妃伝説展。楊貴妃グッズも色々売ってたよ」

「どぶさんがいってたやつね。そういうものに興味あるの?」

「楊貴妃の剣も展示してあったよ。本物は現存してないから考証して作った直刀だけどね」

「現代刀か。そもそも楊貴妃が剣を振り回したのかね。虞美人なら死ぬ前に剣舞を踊ったことになってるけど」

「作者は女の刀鍛冶らしいよ。それがすごい美人だって噂」

「どうでもいい。現代刀匠も大変なのよ。色々とセールスポイントを考えなきゃならない。その美人刀鍛冶は楊貴妃と何か関係あるわけ?」

「京都の刀鍛冶らしいけど、出身は山口県だって。山口県といえば楊貴妃伝説」

「ああ。楊貴妃が漂着したという話があるらしいね」

「その伝説の地は長門市の向津具久津。聞いたら忘れられない地名ね」

「むかつくクズ……」

「油谷(ゆや)というこのエリアには、楊貴妃の墓とか楊貴妃の里という庭園もある。今回の伝説展では玄宗が楊貴妃を慰霊するために日本へ送ったという釈迦如来、阿弥陀如来の二尊像も展示されていて、見てきたけどね。昭和の前半に解体修理が行われた際、阿弥陀像の胎内に鎌倉中期の墨書銘が発見されたって」

「それはまあ夢がない話ね」

「京都にも楊貴妃ゆかりの二尊像があって、そちらと一体ずつ分け合ったんだという話もあるらしいけど」

 天浪には会話に参加させまいとするようなすみ花の語気である。天浪は悠然と見守っている。

「それからね、極めつけは、楊貴妃を唐から脱出させたのが阿倍仲麻呂で、同船していたというお話。漂着した向津具は阿倍仲麻呂または安倍晴明の子孫だともいわれる安倍元総理の実家も近い」

「そういう楽しい牽強付会はどぶさんにでも話しなさい。私は面白味のない、つまらない常識人よ。鍾馗さんいわく」

 楊貴妃伝説は奇説珍説が百家争鳴で飛び交っているから、驚くことでもない。玄宗が企てた日本侵攻を諫めたのが楊貴妃で、彼女こそが日本から飛来した熱田明神すなわち熱田大神であり、熱田神宮の祭神であるという俗説さえもが鎌倉時代から流布しているくらいだ。

「へえ。鍾馗に会ったか」

 ようやくここで天浪は会話に加わったが、驚いた様子はない。

「うん。夢枕に立ったのよ。普段は夢なんてすぐ忘れるのに、これはしっかり覚えてる。預かったものがある」

 心春がギターケースにくくりつけた脇差用の刀袋を指すと、

「わかった。見せてくれ」

 いいながら、天浪は踵を返した。図書館の玄関前を横切り、照葉樹林へ入る。広い林ではないが、バルザック像と岡倉天心像が木々に覆われており、二つの像の間を抜ける小径がある。人目はない。

 心春は刀袋から剣を抜き出した。

「そんなものを鍾馗から渡されたか」

「でも、使っていいものかどうか、迷ってる」

「僕は迷わないよ」

 天浪の目が異様に輝き、心春をとらえた。心春の手が勝手に動いて剣を鞘から抜き、切っ先が彼女の喉元へ向く。柄を握る心春の手が天浪の力に抵抗して震える。歯噛みして耐える。

「やめて、天浪君。いや、ナカマロさん」

 と、すみ花が刀身をつかんだ。心春は絶叫する。

「あんたこそやめなっ。あぶないっ」

 楽器奏者は手を大切にする。体育授業でも指を傷めるような運動は避ける。だが、すみ花の掌からは血が滴り始めた。

「私の友達に手を出さないで!」

 すみ花の叫びに天浪は一瞬だけ泣き笑いのような表情を走らせた。

「そうか……」

 しかし、天浪の眼光は萎えることもなく、彼は手を伸ばして、刀身からすみ花の指を引きはがした。傷ついた彼女の手を彼は両手ではさみ、光で包みながら止血した。

 そして、今度は彼が刀身をつかみ、心春から奪い取った。力をこめたわけでもないのに柄の部分がへし折れ、心春の手に残った。

 天浪は剣を自分の胸に突き立てた。

「あ……」と、すみ花。

「うわっ」と、心春。

 彼の予想外の行動に二人は悲鳴をあげ、駆け寄った。心春はスマホを取り出し、

「き、救急車呼ぶ?」

 狼狽しながら、救急の番号を押そうとした。

「それは違うだろ」

 天浪が嘆息をまじえながら呻いた。心春はスマホではなくバッグにつけた可愛げなキャラクターのハンギョドンの小さなぬいぐるみを握りしめていた。

「君でもあわてることがあるんだな」

「あ。あああ、もうっ」

「心配するな。僕は大丈夫だ」

 冷静な天浪に押しとどめられ、心春はわけもわからずに声を荒らげる。

「なんで自分を刺すのよ」

「ふっ。君らが望んだことだろ」

「鍾馗はいってた。愛する女に刺されたらナカマロは天浪君から離れる……」

「わかっている。すみ花の血がついた剣なら彼女に刺されるのと同じ意味がある」

 天浪の全身は小刻みに震えているが、血が吹き出すわけでもなく、黒い影のようなものが彼を包み、その中から光の塊が飛び出した。彼は蹴られたようにドッと後ずさりして、バルザック像の足元に倒れ込んだ。光は美術館の方向へ飛び去った。