抜けた鬼鍾馗 第七回
抜けた鬼鍾馗 第7回 森 雅裕
二人は正門から動物園に入り、東園の「ゴリラ・トラの住む森」を目指す。
江戸幕府は江戸城の丑寅の方角の鬼門を封じるため、上野の山に東叡山寛永寺を造立した。鬼が牛の角を持ち、虎柄パンツをはくのは丑寅の語呂合わせみたいなものだ。丑寅の方角とは北東。どういうわけか動物園内でも北東の区画に虎舎がある。芸大に距離が近い区画である。
すみ花はテーマパークにでも来たように目を輝かせている。
「鍾馗さんと虎とは画題にもなってるよね」
「鍾馗伏虎図とか騎虎図とはいうけど、実は鍾馗と虎は関係ないのよ。虎を勇ましく従えているのは張陵という道教のおじさん。髭面が鍾馗に似ているので、いつのまにか混同されたみたいね」
「さすがに故事来歴にはくわしいね」
そういうすみ花も心春と違和感も抵抗もなく会話するのだから尋常ではない。ただ、園内のギフトショップに寄り道して、すみ花がパンダの耳をあしらったカチューシャをお揃いで買い、頭にのせてくれたのは困惑したが。
「ねえねえ、パンダを見に行きたいね」
「待ち時間六十分。私が空腹で暴れ出しても良ければ」
「それは良くない。怖い」
カチューシャをつけた二人が虎の放飼場へ近づくと、周辺にけたたましく響く奇声はテナガザルのテリトリーソングである。
修学旅行の学生たちと外国人観光客の間を縫い、ガラス張りの放飼場で足を止めた。餌の毛皮付き鹿肉をむさぼっていたスマトラ虎が何かに気づいたように頭を上げ、ガラス側へと向き直った。意外に軽い足取りで、すり寄った。心春を正面から見つめている。スマトラ虎は虎の中では最小の種だというが、目の前に接近するとさすがに迫力がある。
心春は両手を胸元で合わせ、若い娘の決めポーズである「指ハート」を作った。虎を見ていた来園者たちから驚きの声があがったのは、虎も上体を起こし、前肢を顔の前で合わせて、拝むような体勢を作ったからだ。むろん長い指があるわけではないからハートは作れないが、虎が見せる姿勢ではない。しかも心春とガラス越しに見つめ合っているのである。
心春が腕を下ろすと、虎も前肢を下ろした。
「ふうっ……」
心春は吐息をつき、ガラスの前に割り込んできた来園者たちから押し出されるようにその場を離れた。
すみ花が肩に手をかけてきた。
「何やってたの? 虎と心が通った?」
「自分でもなんで今までやったこともないポーズをとったのか、わかんないよ。でも、あの虎……」
心春は軽く吐息をついた。虎もすでにガラスのそばを離れている。来園者が心春の真似をして指ハートを作り、「おーい、芸やれよ」と煽っているが、虎は見向きもせずに餌の鹿肉と取り組んでいる。
「あの虎、胃の下……腹膜あたりに腫瘍があった。悪性だったら血管や臓器に転移するおそれがあるけど、虎の中で治療する力が働いてるから大丈夫だよ」
「力とは?」
「私じゃない。私に病気を治す力があるなら天下無敵だけどね。あの虎には何かが取り憑いてる」
「なんでそんなことがわかるの?」
「生肉なんかうまくないと愚痴るのが聞こえた。虎の声じゃない」
「……いってる意味わかんない」
「あ」
はじかれたように心春は顔を上げた。テナガザルが声を張り上げていた奇天烈なテリトリーソングが唐突に止まった。息をのむように突然、沈黙したのである。
「彼がいる」
「えっ」
「ピアニストよ」
虎の放飼場の屋根の下から外へ出ると、向かい側がテナガザルの檻である。その前に天浪鈴ノ介がいた。
「やはり来たね」
「やはりいたわね。ここで会ったが百年目」
食券の代金……と、いいかけた心春の腕をすみ花がつかみ、制止した。
鈴ノ介は端正な顔を崩さず、爽やかさを最大限に炸裂させた。
「あの虎には病魔退散の神が取り憑いてる。かつて玄宗を恢復させたという神様だ。知ってるよね」
「鍾馗さんは何が目的で鐔から抜け出したの? 動物園の虎を治療するためじゃないでしょ」
「鍾馗の考えることなどわからないね。どうせろくでもないことさ。でも、俺や君たちをこうして呼び寄せることができた。『あつまれ、どうぶつの森』というわけだ。三人の正体がわかった。治療を終えたら、鍾馗は虎から離れるだろう」
「天浪君こそ取り憑かれてるよね。ナカマロさんに」
「君たちは何かに取り憑かれていなくてもユニークすぎるな」
「そんな自覚はないんだけどな」
「サイコパスと呼ぶ方がふさわしいかな」
「ナカマロさんはどうしたいの? 何が望み?」
こんなふうに心春が無愛想なものだから、すみ花はこの場をなごませようとする。
「えっ。鬼さんは天浪君に取り憑いてるの? 疫病を広めたり、世界を闇に堕とそうとするの? それを超人的なハンターが退治するとか」
すみ花は驚くよりも興味津々で目を輝かせている。心春はますます冷徹になる。
「アクション映画じゃあるまいし。何のためにこの世を闇に堕とすのよ。鬼がうろついていても世界が暗黒に包まれるわけじゃないでしょ。もっと下世話な目的があるのよね」
「じゃあ、国際的なピアニストとして成功したいとか」
「あのさ、それが下世話?」
心春はすみ花を睨んだが、彼女はとぼけているわけでもないらしい。心春は冷たく告げた。
「彼はお嫁さんを探してる。何百年も」
「おおおっ」
すみ花は無邪気に感心している。まるで他人事のようだ。
「夢よりも志よりも恋一筋かあ」
「芸術に昇華できる恋なら結構だけどね」
「フランス文学の先生がいってたけどさ、人生に恋というものがあることを知らない未開の原住民は恋をしないんだって。ほんとかな」
「今どきそんな純粋な人たちが地球上にいるもんですか」
女たちの会話から疎外された鈴ノ介は手持ち無沙汰で、しばらくうつむいていたが、しびれを切らして顔を上げた。
「あー。もう少し、こちらの話を聞いてもらってもいいかな」
心春は鈴ノ介を睨みながら器用に微笑んだ。
「おおっと。プロポーズするなら、邪魔者の私は消えた方がいいかな。そんな気ないけど」
「お構いなく。鐔を抜けて半年の間に、この時代の女は自己主張が強いことを理解した。一方的なプロポーズをせずとも、彼女はその気になってくれるよ。いいたいのはそれだけだ」
宣戦布告したようなものだが、当人であるすみ花は心春に横から肩をぶつけ、訊いてきた。
「ねぇねぇ。彼が探してるお嫁さんて私のこと?」
「そういうの、可愛いと思ってやってるんならやめなっ」
「可愛くて何が悪いのよ」
「うれしいのか、こういうわけのわかんないラブストーリーが」
「心春はリア充が嫌いだから」
「そんなことじゃないっ」
心春は背を向け、地団駄を踏むように周囲を回り、すみ花の前へ戻ると、さらに語気を強めた。
「よく見なっ。あれは天浪鈴ノ介君じゃない。ナカマロという鬼が取り憑いてるんだよ」
「何を見るの?」
「ん?」
気づくと、天浪鈴ノ介は彼女たちの前から立ち去っていた。ここはなにしろ「どうぶつの森」であるから、木々に遮られて視界は開けていない。
「あらあ……」
追いかける気力もない。
「ああ、また食券の代金もらいそこねた」
すみ花に服の裾を引っ張られ、肩を落としながら、しょんぼりと歩いた。虎の放飼場から緑に囲まれた緩い坂を南へ下ると休憩所の広場に出る。
「もう駄目だ。お腹空いた。私はもう起動しなくなる」
ケヤキの木陰にあるベンチ群の端に腰を下ろした。
すみ花はヴァイオリンケースのポケットから食べ物を取り出した。
「ノンオイルレーズン食べる?」
「うん。鉄分だけでも補給する」
心春は掌に落とした数粒を口へ放り込んだ。
「すみ花。子供の頃、ヴァイオリンの先生と交換ノート書いてたっていったよね。その先生の名前は?」
答えるかわりにすみ花はケースからヴァイオリンを取り出し、軽快に弓を当てた。シンプルだがきれいなメロディラインだ。千代田線乃木坂駅の発車メロディでも聴いたことがある。
「君の名は希望? 乃木坂46の」
「先生の名前は奈良希望先生」
予想していた答だ。
「希望と書いて『のぞみ』か。うちの母親やん。私が娘だってこと、知ってたよね。知ってたでしょ」
「うん」
「何故黙ってた?」
「訊かれなかったから。それに心春とは純粋にプレイヤーとしてつきあいたかったし」
「他にも黙ってることあるでしょ」
「母は奈良分家の末裔だった。結婚して名字が変わった」
「奈良利寿の末裔ね。つまりさ、私の母親とあなたの母親は江戸時代まで遡る親戚だった」
「両家が現代に出会ったのは歴史の悪戯だね」
「私の母は実の娘と同様にあなたと交換ノートを交わしていた。それって九尾の狐の彫金板がはさんであるでしょ」
「うん。金の狐」
「そうか。あなたのノートの狐は金なのね」
心春のノートは銀だ。
「そうだよ。興味あるなら学校に持ってくるよ。見せてあげる」
そうはいったすみ花だが、心春が修学旅行生を殺気立った目つきで見ているので、困惑顔となった。学生たちは園内カフェでアメリカンドッグなど買っている
動物園内に軽食の店はいくつかあり、園外にも店はあるが……。
「心春。そこらへんで何か食べる?」
「いや。銀座で彫金の展覧会やってる。今日はとーちゃんが詰める当番だから奢らせる」
以前から準備していた現代彫金家の展覧会である。
「とーちゃん?」
「すみ花も行こう。見せたいものがあるんだ」
「とーちゃん?」
鬼に憑依された岩本琴太郎が一晩で作った虞美人の鐔も出品されている。すみ花の反応を見たかった。
「動物園のパスを返しに学校戻らないの?」
「明日、教務から怒られることにする。慣れてる」
「ふうん」
「行くよっ」
「……とーちゃん」
不思議そうに呟いているすみ花を促して、歩き出した。とはいっても、バッテリー切れの心春はすみ花に引きずられるように歩くのだが。
二人は地下鉄で銀座へ向かい、ギャラリーを訪ねた。大きな会場ではなく、客も多くはない。作家が交代で詰めており、この日は左絵門が客の相手をしていた。
接客が途切れたところで、左絵門とは初対面のすみ花を引き合わせた。
「初めまして。才喜すみ花と申します」
すみ花は礼儀正しい。これで微笑んだりすれば、育ちの良さが全開だ。
「なるほど。脳が溶けるような声とは聞いていたが、これは強力だね」
感動さえしている左絵門に、心春はすみ花に負けじと盛大な笑顔を作りながら、いった。
「かーちゃんの教え子よ」
「かーちゃん?」
と、すみ花がここでも戸惑いの声を発したが、心春はかまわずに紹介の言葉を続けた。
「遠い昔には奈良利寿の血筋でうちとつながってた」
奈良利寿は奈良本家と血のつながりはないが、鬼が恋い焦がれた奈良本家の娘と奈良利寿の間に生まれた男子が利寿二代目を継ぎ、利寿と後妻の間に生まれた女子が奈良本家へ嫁に入った。前者がすみ花、後者が心春の御先祖ということになる。
「そうか。幕末明治くらいまでそんな分家があったのは聞いたことがある。奈良姓を名乗っていたが、廃刀令で廃業したんだ。現代の娘さんは才喜姓なのか」
「すみ花のおかあさんは亡くなってるけど、うちのかーちゃんと同業のヴァイオリニストで、つきあいがあったみたいよ。音楽家としてのつきあいが先か、親戚としてのつきあいが先かはわからないけど」
「あれっ。待てよ。ということは鬼のナカマロが探し求める奈良家の後裔というのは……」
左絵門はあらためてすみ花を見つめた。
「なるほど。花嫁の条件は血筋だけでなくタイプの問題でもあったか」
「おいっ」
心春は作り笑いを捨てた。
左絵門は数種のジュエリーの他に鐔を一枚出品している。今回のために用意した新作ではなく、少し以前の作品だ。図柄は大森彦七。奈良利寿の有名な同図の鐔にインスパイアされたものだが、左絵門なりのアレンジを加えてあり、「写し」というわけではない。
しかし、客の興味は岩本琴太郎の鐔に集まっているようだ。虞美人は武具の画題として珍しい。そして何よりも、文字通り鬼気迫るオーラを発している。
心春は左絵門に尋ねた。
「これって、とーちゃんがキンタロウに作らせたんじゃないの」
「とはいえ、俺の名前で出品することは作家の矜持が許さんからな」
銘は琴太郎の名前ではなく、琴柱を象った印銘が入っている。
「琴太郎にこの銘を入れさせた。作品説明も「岩本琴太郎作」となっている」
琴太郎にしても鬼に憑依されて作った鐔であるから、素直に文字で名前を入れるのは抵抗があったらしい。
すみ花にも見せたが、
「この虞美人、心春に似てるよね」
彼女の反応はその程度だった。鬼の花嫁候補なら作者の魂に触れてよろめきそうなものだが。
何で……と考えていると、知り合いの彫金家が「心春ちゃん、これ食べな」と差し入れのレモンケーキをすすめてくれたので、遠慮なく口へ運び、持ち歩くバッグにも入れた。
「ところで、どこか遊びに行ったのかい」
周囲からそう声をかけられ、頭の上に視線が集まっているのに気づいて、そこにあるものを思い出した。
「うわっうわうわっ」
パンダのカチューシャをはずした。ツインテールという慣れない髪型のせいでもあるまいが、気づかなかった。すみ花はというと、いつのまにかはずしていて、すました顔をしていたのである。
そんなすみ花を左絵門は自作の鐔が展示されているガラスケースの前へ手招きした。
「岩本琴太郎の鐔なんかに感動する必要はないが、俺の鐔はどうかな」
大森彦七が鬼女を背負っているお馴染みの構図で、奈良利寿の重要文化財に指定されている同図の鐔に範をとっているが、左絵門は足下に水紋を表現している点が違う。さらに裏面は左絵門のオリジナルで、鬼の面を落とした千早姫を彫っている。大森彦七を親の仇と狙う楠木正成の娘である。したがって、タイトルは「大森彦七・千早姫図」となっている。裏面は展示できないので、写真を撮って、鐔の横に並べてある。
「水面に映る鬼の姿に驚いているんですね。面白いです」
「だろ。あなたはよくわかってる。しかし、奈良利寿は水面を彫ってない。背負った美女が重くなった気配に大森彦七が驚いているだけの図だ。伝説では矢取川の水面に鬼女が映るのを見て、正体に気づいたことになっている。川の流れを彫ってないのはおかしい。それなのに重要文化財指定なんだぜ」
心春は個包装のレモンケーキをすみ花の上着のポケットに何個も押し込みながら、いった。
「とーちゃん。流れを彫らずに流れを感じさせるのが名人の所以なのよ。余白は空白にあらず、そこに描かれていないものを想像させるのが東洋美術の神髄なんだと芸大で教わったでしょ。水墨画を御覧なさい。黒あればこそ白が生まれ、白あればこそ黒が生きる」
「聞こえません」
左絵門は悩ましげに眉を曇らせたが、すみ花が脳を溶かす声でとりなした。
「でも、武将が鬼を背負っているだけだと一条戻橋の渡辺綱かも知れない。昔の偉い人がこれは大森彦七だと言い出して、誰もが右へならえしたわけでしょ。物語を描くのも大事だと思います。わかる人だけわかればいいというのは芸術家の傲慢じゃないですか」
「お。いいねいいね。心春、この友達は大事にしろよ」
上機嫌の左絵門の鼻先に心春は手を差し出した。
「じゃ、彼女と御飯食べて帰るからお金ちょうだい」
こうして、左絵門からせしめた資金を手に心春とすみ花は銀座の街を歩いた。心春には疑問があった。
「……渡辺綱は鬼女を背負ったのじゃなくて、馬に乗せたんじゃなかった?」
「そうだっけ?」
すみ花は屈託ない。涼しい顔だ。この娘も結構したたかである。
「まさかのとーちゃん、かーちゃん呼びには驚いたけど、いいおとうさんじゃない。干渉はしないけど方向は示してくれる」
「うわあ。背筋が寒い」
ギャラリーで心春が彫金関係者と挨拶している間、すみ花は左絵門と何やら笑顔を交わしていた。少々気になる。
「あのさ……二人で何か話した?」
「さあ……」
「話してるよね。絶対、私のこと話してるよね。何?」
「さああ」
「聞きたいような聞きたくないような……」
「心春は強がって突っ張っているけど……」
「けど?」
「この先を聞きたい?」
「うわあ、やめて。聞きたくないっ」
悲鳴をあげながら、空腹の心春は最後の力を振り絞って、好物のカツ丼を求め、目指す店へと足を速めた。
すみ花はポケットからレモンケーキを引っ張り出し、唇を尖らせた。
「ところで、なんで私のポケットにお菓子入れるのよ」
「箱ごとは入らなかったからバラで入れた」
「そうじゃなくてさあ……」
「おかあさんの仏前にお供えしなっ」
ようやくとんかつ屋にたどり着き、心春はドアの前で満面の笑顔である。




