鬼鶴の系譜 寛政編 第四回

鬼鶴の系譜 寛政編 第四回 森 雅裕

 不義密通は男女とも問答無用で成敗してもかまわない重罪だ。武士ならその場で「重ねて四つ」にするが、刀を持たぬ町人の場合は町方役人に突き出すことになる。そうなれば、死罪である。実際には、示談ですませる場合も多いようだが。

「リョウが身籠もったのは去年の冬。本所の中島邸なんぞにじっとしていても面白くはねぇやな。姉が日本橋の豪商に嫁いでいるもんで、そこで遊んでいたようだ」

「姉様といわれますと、その方も松波家の出ですか」

「松波八百之丞(正武)はな、先妻、後妻、側室、女中、それぞれが子を産んでいて、娘は豪商、御用鏡研師、大身旗本、自慢できるところへ嫁入りしている」

 森一族の中にも、やたらと庶子を生ませている大身旗本がいる。ヒヨリの家は幸か不幸か貧乏旗本なので、そうしたややこしい家族構成とは無縁だが。

「その日本橋の豪商というのは?」

「あやしいけれども、いくら何でも姉の旦那と不義密通は……。そりゃ、ないとはいいきれねぇが、お前さんもお姫様にしちゃえげつないこと考えるなア」

「私はですね、何という商人かと尋ねています」

「呉服・太物を扱う比良多屋だ」

 聞いたような屋号だが、ヒヨリには確かな覚えがなかった。もともと呉服(絹)や太物(木綿)にあまり興味がない。記憶にひっかかっているのは豪商としてではなく、別の理由である気がする……。

「リョウさんに会いたいですね」

「赤ん坊の父親が誰か、白状するとも思えねぇが」

「短刀を返してくれるよう、お願いするだけです」

「松波家へ押しかけて、交渉するわけにもいかねェだろ」

「外で会いましょう」

「お前さんと違って、普通の武家の女はめったに外出なんかしないもんだ。ましてや生まれたばかりの赤ん坊抱えて、出歩かねェだろう」

「赤ん坊を抱えてこそ、出歩く先があるはず。生まれたのは八月初めでしたね」

「まもなくちょうど一月……あ」

 鉄蔵は大袈裟に天を仰いだ。そこには煤けた天井があるだけだが。

「そうか、お宮参りか」

「男子は三十一日目に産土神に参詣するはず」

「松波家は外神田に屋敷がある」

「産土神は神田明神でしょうか」

「調べておこう」

「だとしても、朝から晩まで、ひねもす、お出ましを待ち続けるわけにもいきますまいが」

「神田明神なら、参道の水茶屋にちょっとばかり顔がきく。店先で網を張るさ」

「あら。鉄蔵さん、手助けしてくれるんですか」

「そこはそれ、持ちつ持たれつというやつだ」

「持ちつ持たれつ?」

 この男のいうことは意味不明だが、ヒヨリには江戸市中で他に人脈がない。ここは行動をともにするしかなかった。

 

 

 寛政三年の秋は落ち着かぬ空模様だ。快晴と大雨がめまぐるしく入れ替わる。この日は夜明けまで雨だったが、朝には陽が差した。しかし、これもいつまで保つか、わからない。

 リョウの子供の生後三十一日目。ヒヨリは兄や家臣の目を盗んで屋敷を抜け出し、昼前に神田明神へ出かけた。武家娘にはあるまじき行動だが、参道にある水茶屋が鉄蔵と待ち合わせた場所だった。

 鉄蔵は好物らしい大福を食っていた。

「遅いな。リョウは半時ほど前に、赤ん坊を抱いてこの参道を通過したぜ」

「あら」

「俺は朝から大福作りを手伝っていて、忙しいから声はかけなかった。帰りにまた通るだろう」

「多趣味ですこと」

 この店の若旦那が道楽で絵を描いており、鉄蔵には勝川派の弟弟子になるらしい。画号はあるのだろうが、鉄蔵はトラゾウと呼んでいた。虎三とか寅造とか書くのだろうか。

「兄さん、狩野派でもしくじったらしいな。敵ばかり作って、どうするんだよ」

 トラゾウはそんなことをいった。「狩野派でも」というからには、よそでもしくじっているのだろう。

「ふん。あそこで教わることはもうないね。俺は忙しいんだ。おう、墨と硯を貸してくれ」

「筆はいらねぇのかい」

「馬鹿か、お前は。墨と硯といったら、筆もついてこなきゃ役に立たねぇだろ」

 店先に座り、墨をすり始めた。こんな場所でも時間を無駄にせず、絵を描くらしい。ヒヨリはそんな鉄蔵を無視して、参道を見張っていた。

「神田明神への行き帰りはこの参道だけではありませんよね」

「しかし、裏や脇の参道は子持ちにはきつい坂道だし、晴れのお宮参りなら正面の参道を使うさ」

 姫様どうぞ、と店の者が出してくれた大福を口へ運んだ。武家は質素を旨とするものだが、江戸という町はこうした誘惑に満ちている。しみじみと味わった。

「へえ。歌麿の美人大首絵と張り合うつもりですかい」

 トラゾウの声を聞いて振り返ると、鉄蔵はヒヨリを描いていた。

「けっ。あんな髷がどう結われているかもわからねぇいい加減な絵なんぞと一緒にするねェ。前髪がどうなって、横や後ろの髪がどうつながってるのか、歌麿の絵は滅茶苦茶じゃねぇか」

 また、そんな理屈をいっている。ヒヨリは甘酒を口へ運び、湯飲みの中に吐息を落とした。

「浮世絵師の絵標本になるなど、兄が許しません」

 そうはいったが、あの兄ではどうだかわからない。

「俺を浮世絵師だと思わなきゃいいだろ。天下の狩野派をも修業していること、知ってるだろ」

「しくじったじゃないですか」

「他にも土佐派の大和絵を修め、三世堤等琳に漢画、俵屋宗理に光琳派、司馬江漢に洋画法を学んでいる」

 本当なら異常な向学心である。

「美人大首絵がどうとかいってたけど」

「歌麿の好きな女どもよりお前さんの方が美人だ」

「そのウタマロとやらは武家娘を描いているのですか」

「遊女や水茶屋の女ばかりだよ」

 それはそうだろう。武家娘が絵標本になるなど、頭の固い連中に知れたら、眉をひそめられる。江戸の武家はまだ「砕けて」いるが、地方の武家娘なら勘当モノであり、家門の恥と自害にまで追いつめられるかも知れない。まア、その前に、こんな武家娘がいるわけがない、と本気にされないだろうが……。

「お姫様のお遊びにつきあってるんだ。絵標本にくらいなってくれてもよかろう」

 この男がいっていた「持ちつ持たれつ」とは、どうやらこのことらしい。

「私は知りませんよ。鉄蔵さんが勝手に描いているだけですからね。それに、私は遊んでるわけじゃありません」

「ふん。お前様はな、絵もお遊び、出歩くのもお遊び、退屈しのぎにすぎねぇ」

「そんな退屈な娘を描きたがる鉄蔵さんも退屈な絵師です」

「こちとら、お前さんみたく、お家の世継ぎ作り係でしかない身の上に反発して絵を描いてるのと違わあ」

「もっと悪い。中島家の跡継ぎを放り出した野良者じゃありませんか」

「ああああ、黙ってりゃいい女だが、口を開くと最悪だな、ヒヨリ姫」

 そんなやりとりをしていると、

「おい。鉄蔵」

 声をかけた者があった。水茶屋の二階席から降りてきた武士だった。武士はあまり飲食店に出入りしないものだが、礼儀知らずの鉄蔵が筆を置いて挨拶したところを見ると、徒者ではないようだ。

「これは……長谷川様」

「お前、家業も継がずに絵描き三昧か。伊勢が嘆いておるぞ」

「もっとマシな養子をとれ、といってやってください」

「あいつ、後妻も離縁しちまったからなア。せっかく子ができたのに」

「はあ……」

「ところで、誰だい、そちらの美人は」

「浜町狩野のお弟子でさア」

「武家だな」

 ヒヨリは頭を下げた。

「書院番・森太郎助(政之)の妹、ヒヨリでございます。もしや、長谷川平蔵様ですか」

 中島伊勢と親しいという火盗改の親玉だ。幼名を銕太郎といい、若い頃には「本所の銕」といわれた道楽者らしいから、人品骨柄には荒っぽいものがある。

「そういえば、森殿の名を最近、聞いたような……」

「中島伊勢様に当家の短刀をお渡しになっ……」

 いいかけたヒヨリをさえぎり、

「おおお! そうであった、そうであった」

 舟でも呼び戻すような大声で、平蔵は周囲を圧した。

「証文も預かっておる。いずれそなたの兄にお渡ししよう」

 そんなもの受け取りたくはないが、長谷川平蔵に逆らうのは利口とはいえない。泣き寝入りするしかないのか。

 長谷川平蔵といえば荒事専門と思われがちだが、石川島と佃島の間に人足寄場を建設して無宿人対策とする行政手腕も見せている。しかし、公金を銭相場に投資して、利益を人足寄場の運営費用に充てるなど、役人倫理から逸脱する彼のやり方には「山師」と罵倒する幕閣もいる。

 役目柄、当然なのだろうが、尊大かつ粗野な人物という印象が強かった。ヒヨリの目には、まだしも鉄蔵の方が繊細に見えた。もっとも、多くの人間は逆の印象を持つだろうが。

「長谷川様。今日はどういう御用でここへお出ましに?」

 鉄蔵の質問には答えず、平蔵は参道の人混みを見ている。

「鉄蔵よ。お前こそ、あれが目当てじゃねぇのかい」

 平蔵の視線の先に、武家の女の二人連れが歩いていた。

「中島伊勢の別れた後妻じゃねぇか」

 平蔵は見下したような笑いを鉄蔵に向けている。鉄蔵も負けじとそれを笑顔で受け流し、店から参道へ飛び出した。ヒヨリもあとに続く。

 リョウは武家の老女と同道していた。生後一月のお宮参りは両親と父方の祖母が付き添うものだが、離縁されたリョウにそんな身内はいないから、母方の祖母つまりリョウ自身の母親だろうか。

 リョウは抱いた子供を覆う形で着物を後ろ前に羽織り、背中で結んでいる。赤ん坊は首をひねり、丸く開いた目で、近づく二人を見つめた。母親の方は身構え、目には警戒の色を浮かべた。そのリョウへ、

「おう。こちら、森家のヒヨリ姫だ」

 鉄蔵が紹介した。彼女たちは中島家でちらりと顔を合わせているが、ほとんど初対面のようなものである。こちらを胡散臭いとしか見ていないリョウの視線をハネ返し、ヒヨリは切り出した。

「不躾で恐れ入ります。お濃の方の形見の短刀、お返し願えませんか。無事に出産なされたなら、短刀の霊力などもう必要ないでしょう」

「まだ用済みではありません」

 リョウが赤ん坊を抱く腕に力が入った。胸元を隠すような仕草だ。もともと女持ちの小ぶりな短刀だから、懐剣として手挟んでいるのか。まっすぐ凝視するヒヨリに対し、リョウは不快よりも悲しそうな表情を浮かべた。

 連れの老女は何か口出しするきっかけを求め、敵意むき出しで睨んでいる。目が合えば食ってかかるだろうから、ヒヨリも鉄蔵も無視した。

 リョウが、いった。

「この子のお守り刀として、携帯しています。生まれた子供には健やかに育って欲しいという願いがあります」

 この時代、子供の死亡率は高い。幕臣に男子が生まれた場合も、ある程度成長するまでは届け出ない。従って、記録上の年齢と実年齢が異なることは珍しくない。

「わけありの子でも、健やかに育って欲しいのかい」

 鉄蔵の物言いは無礼千万だが、表情は真面目だ。

「お前さん、比良多屋で身籠もったんだよな」

「何をいうか、このドラ息子」

 と、連れの老女が口を尖らせた。

「それでは比良多屋に間夫がいるようではないか。言葉に気をつけよ」

 そう抗議したが、これでは比良多屋以外に間夫の存在を認めたようなものである。老女は失言に気づかぬようだが、リョウは顔色が変わった。

 鉄蔵はその隙を突いた。

「中島伊勢の跡取りを作るでもなく、他家の家宝である短刀をいただいておこうというのは、ちと厚かましくはねぇか」

「子供が大切であることに変わりはありません」

 リョウはさっさと背を向けて、人混みの中へ消えてしまった。

「張り込みまでしたのに、あっけない面会だったな」

 鉄蔵は呟いたが、ヒヨリは表情を動かさない。

「短刀を返せと伝えることが何より大事。目的は果たしました」

「へっ。まだそんなこといってやがる」

「他に何がありますか」

「そりゃあ……」

 鉄蔵は言葉を途中で切った。長谷川平蔵が水茶屋から悠然と現れたのである。

「よお。リョウと話は弾んだかい?」

「取りつく島もないってやつでさア」

「お前は人を怒らせる名人だからなあ。そちらの姫君を相手に、婦人への口のきき方を稽古するんだな」

 平蔵は笑い声を残して、立ち去った。能でも舞うような悠揚迫らぬその背中を見送るヒヨリに、鉄蔵は横目でぼそりと呟いた。

「鬼の全財産を強奪していく桃太郎に会ったような顔してるぞ」

「長谷川様と会って……思い出しました」

「何を?」

「獄門になった葵小僧です。日本橋の比良多屋といえば、葵小僧に襲われた豪商の一つじゃありませんか」

「そうかい。まあ、お姫様だって、町の噂くらい耳に入るよなア」

「鉄蔵さんもおわかりだったのでしょ」

「嬲の葵小僧」といわれた悪党である。この極悪一味の前には少女も大年増も区別はなかった。

「葵小僧は金品のみならず、女を片っ端から辱めた。比良多屋が襲われた時、リョウが居合わせたとしたら……。しかしなあ、とても確かめる気にはならねぇぞ」

「私にも確かめる気はありません。何度もいわせないでください。私の目的は短刀を返してもらうことで……」

「ああ、はいはい」

「せっかく来たのですから、お参りしていきましょう」

 ヒヨリは参道の鳥居をくぐり、神田明神へ歩き始めた。

 鉄蔵はそのあとに続き、

「俺は妙見信仰なんだがなあ」

 何やら文句をいいながら、随神門から境内へ入った。

 この二人はとりあえず絵描きなのである。ヒヨリは社殿や石像などの造作を観察し、そんな彼女を鉄蔵は画帖に描きとめ、しばらく境内で時間を過ごすうち、空には青い部分がなくなり、雲が広がっていた。その雲も急速に暗い色へ変わっていく。

 降り出す前に引き上げようと、水茶屋まで戻ってくると、参道からただならぬ気配が近づいてくる。こけつまろびつ、半狂乱で駆け込んできたのはリョウだ。子は抱いておらず、連れの老女もいない。

 リョウは鉄蔵に噛みつかんばかりの勢いで、すがりついた。

「長谷川様、長谷川様は!?」

「とっくにお帰りだよ。どうした?」

「さらわれた、さらわれました、子供が、子供がああああああ」

「へ?」

「昌平橋の手前で、襲われました。子供を奪われました」

「連れの婆さんは?」

「近くの番屋へ走りました。私は、私は長谷川様がまだこのあたりにいらっしゃるかと……」
 ぺたん、と店の土間に座り込んだ。

「それで、襲ってきたのは誰で、どっちへ行った?」

「誰だか、わかりません。遊び人風の男たち、二人か三人か四人か、わかりません、何人もいました。橋を渡って、神田の方へ、でも、見失いましたああああ」

「なんだって、お前んとこの赤ん坊がさらわれるんだ?」

 リョウは首を振るばかりだが、ヒヨリが、 

「短刀も一緒に奪われたのですか」

 そう訊くと、今度は縦に首を動かした。

「引きずり倒されて、思わず懐剣を抜いてしまいましたが、駄賃とばかりに奪われてしまいました」

「泥棒に追銭だなア」

 鉄蔵が水茶屋の軒下から空を見上げながら、呟いた。

 ばたばたと音を立てて、雨が降り出した。