鬼鶴の系譜 元禄編 第五回

鬼鶴の系譜 元禄編 第五回 森 雅裕

 翌十四日は快晴であった。昨夜のうちに積もった雪が、地上を白く輝かせている。家臣たちが雪かきしている庭の畑で、サエは青菜、ネギなどを掘り出し、凍えた指先に息を吹きかけながら、いった。

「今日の茶会は足元に気をつけて出かけねば……」

 縁側の奧で、縫之助はそれを聞いた。

「茶会?」

「お忘れですか。山田宗徧先生のお供をいたします」

 サエは宗徧の門下生なのである。

「お供? 先生のお宅で催される茶会ではないのか」

「本所の吉良様のお屋敷です」

「何だとお……」

「あら。申し上げませんでしたか。ほほほ、申し上げませんでしたね。月初めの吉良様の茶会が取りやめになって、今日に変更されました。宗徧先生も招かれていますので、優秀な弟子が同道いたします」

「今日は吉良邸で茶会なのか」

 小林平八郎は吉良家の予定など縫之助にも洩らさなかった。しかし、多数の客を招く以上、人の口に戸は立てられない。この日、吉良上野介が在宅予定であることを赤穂の浪人たちが知らぬといえるだろうか。

「せいぜい馳走になって来い」

「わび座敷に料理だて不相応なり、と千利休宗匠は述べておられます。茶会には御馳走など出ないものです。それより、料理人を呼んでくださるというあなたの約束を楽しみにしております。蕎麦で結構ですから。昨夜の蕎麦はいかがでしたか」

「あいつがまた作ってくれたらよいが……」

「あいつとやらは、もう作ってくださらないのですか」

「とにかく、サエ。早めに戻れ」

 茶会は夕刻には終わるだろうし、旗本の妻が夜歩きするわけはない。しかし、縫之助はそう釘を差した。

「何やら気がかりなら、迎えにきてくださいませ」

 サエは本気ではあるまいが、縫之助は真顔で考え込んだ。そして、

「それには及ばぬ」

 緊張感のない声で呟いた。しかし、家臣の中でも腕の立つ者を妻の供に選んだ。

 この夜は快晴。月齢は満月に近く、地上には雪明かりもあって、江戸の町は明るかった。もちろん、サエは暗くなる前に帰宅し、その夜は何事もなく過ぎた。森縫之助の家は。

 

 

 翌朝、台所に出入りする商人が情報をもたらし、縫之助は家臣からそれを聞いた。

「赤穂の浪人たちが吉良様お屋敷へ討ち入った由にございます!」

(うわ。とうとう、やりやがった……)

 縫之助は地団駄を踏む思いだったが、身体は脱力してしまった。さらに、

「吉良様は討ち取られた模様」

 とも聞いた。では、小林平八郎はどうしたのか。毛利小平太は討ち入りに参加したのか。本懐を遂げた浪人どもは今、どこでどうしているのか。何もわからない。

 本所へ駆けつけたかったが、騒乱事件が起きたとなれば、市中は厳戒態勢となろう。将軍警護を職務とする小性組の旗本が野次馬みたいに出歩くことはできない。第一、縫之助には登城日である。

 様子見のため小者を本所へ使わし、縫之助は登城の準備を急いだ。袴の紐を結ぶ手が震えた。その手を、着付けを手伝っていたサエがゆっくりと握った。

「大変なことになりましたなア」

「平八は用心深い男だが、他の者どもがのんき過ぎた。吉良家や上杉家には、平八を臆病者と笑う家臣もいたようだ」

「小林様にはお子様がありましたな」

 平八郎の妻は早死にしたのだが、まだ幼い女児があった。吉良邸内で一緒に暮らしていたはずだが……。

 肩が重くなるほどの疑問を背負いながら江戸城へあがると、小性組が詰める紅葉間も討ち入りの噂で持ちきりで、情報が交錯していた。赤穂の浪人たちは高輪泉岳寺にある浅野内匠頭の墓前に控えていたが、夕刻には大目付・仙石伯耆守邸へ移され、その間に幕閣の対応が協議された。とりあえず、浪人たちは細川家以下四大名に身柄を預けられることに決まった。

 縫之助は吉良上野介の首が奪われ、家臣に多くの死者が出ていることを洩れ聞いた。となれば、平八郎も闘死しただろう。あの男は生き恥をさらすようなことはするまい。一方、毛利小平太についてはまったく不明だった。

 平八郎は討ち入りを警戒していたが、吉良の家中にはそんな危機感などなかった。なにしろ、浅野内匠頭の切腹から一年十カ月(元禄十五年は閏年で八月が二回)も経っているのである。上野介と血縁にある上杉家にしても、巷説では大勢の護衛役を送り込んでいたことになっているが、実際は太平の世に慣れ、油断していた。

 十二月十九日、首を縫い合わせた上野介の遺体は市ヶ谷の万昌寺(のち中野へ移転し、万昌院)へ葬られ、ここに一部の家臣の墓も作られた。

 この頃には、事件の概要は明らかになっていた。討ち入った赤穂の浪人は四十六人とも四十七人ともいい、寝込みを襲われた吉良邸には九十人近い侍、中間、小者がいたが、多くは長屋の雨戸を封鎖されて外へ出られず、応戦できたのは二十人ほど。雨戸くらい蹴破れそうなものであるが、そういうことになっている。

 準備万端だった赤穂方に死者はおらず、対する吉良方の死者は上野介以外に十六人。小林平八郎の死体は南長屋役人小屋で発見されている。満身創痍であったという。

 吉良上野介の後継者・義周は十七歳で、事件当夜は薙刀を手に奮戦して、幕府の検分役を感心させたが、事件から一月半後の元禄十六年(一七〇三)二月四日、「当夜の振舞いが不届き」として改易の上、信濃諏訪藩にお預けを通達される。同日、赤穂の浪人たちには切腹が言い渡され、その日のうちに執行された。

 

 

 縫之助は昼行灯のような男ではあるが、修練を積んだ武士である。お人好しでもない。釣谷や猪之松の一味の復讐を警戒し、外出時の脇差を刃のついていない鉄刀にかえた。往来で真剣を抜くわけにはいかないのである。木刀がわりになる杖を持ち歩き、数本の手裏剣も携帯した。

 親友を失い、心が殺伐としていた。時には、胡乱な連中に尾行されることもあったが、そんな時は振り返り、逆に追い回した。おかしなもので、追うと逃げていく。縫之助に手出しする者は現れなかった。ただ、杖を手にしながら駆け回る彼の健脚を目撃した近所の連中は、森殿はついに狂ったと噂したが。

 妻のサエが、噂の広まっていることを報告した。

「実家の父が、心配しておりました。奇行はかまわんが、刃傷沙汰はくれぐれも起こさぬように、と」

 武家の婚姻は不公平なもので、女の側に病気や異常は許されないが、男の側は問題視されない。

「それで、お前は何と応えたのだ?」

「無礼者を木刀で追い回すくらいは私もやっております、と。外に出る時は、供の小者に木刀を持たせていますから」

「そんな無礼者がいたのか」

「お茶の宗徧先生のところに、赤穂事件を書いている戯作者だか芝居作者だかが吉良様のことを根掘り葉掘り、聞きに来るのです。あなたが小林様と懇意だったことを聞きつけ、私にもつきまとうヤカラが……。まア、二度と近づこうとはしないでしょう。あははは」

 似た者夫婦というものであろう。

 

 

 元禄十六年十二月は吉良上野介と家臣の一周忌であったが、この年の十一月に江戸は大地震に見舞われ、発生した火災と合わせて、二十万を越える死者を出していた。陸奥、京都でも体感されたという巨大地震で、斎藤月岑「武江年表」にいわく「石垣壊れ、家蔵潰れ、穴蔵揺れあげ死人夥しく、泣きさけぶ声街にかまびすし。又所々毀れたる家より失火あり。八時過ぎ、津浪ありて房総人馬多く死す」

 このため、翌十七年三月には宝永と改元することになる。そんな状況でもあり、吉良家の一周忌法要は菩提寺の万昌寺において、内輪でつつましく営まれた。

 同日、本所慈眼寺(のち巣鴨へ移転)では小林平八郎の法要が行われ、森縫之助はこれに参列した。といっても、顔を並べたのは十人に満たなかった。

 平八郎の墓は吉良家と同じ万昌寺にも作られたが、慈眼寺に墓を建てたのは中島伊勢という男である。代々、この名で幕府御用をつとめる鏡の研磨師だった。平八郎の妻の縁続きだそうだ。平八郎の幼い女児は討ち入りの巻き添えを免れ、伊勢が養女として引き取っていた。

 伊勢は恰幅のいい初老の人物で、とりあえず悪人ではない。法要が一段落すると、縫之助にいった。

「討ち入りからもう一年でございますか。世間では義挙とか壮挙とか囃し立てましたが、変事を面白がっているだけのこと」

 幕府にしてみれば、この「変事」を市民の不満のはけ口として利用したのである。だが、縫之助の不満は出口がない。感情を殺して、いった。

「小林平八郎は愚挙だといっていました。本当に愚かなのは世間かも知れません。しかし、私にしても、討ち入りには一種の爽快感がありましたが」

 友である平八郎を失わなければ、という一言が抜けている。何をいっているのか、この男は、という目つきで、伊勢は縫之助を見やった。

「お斎の席へどうぞ」

 と誘われたが、見知らぬ者たちと同席するのは気が進まなかった。

「腹の具合が悪いので」

 そういって断り、一人離れて、ぼんやり平八郎の墓前に立っていると、若い侍が近づいてきた。参列者ではない。

「やはり、こちらでしたか。小林殿の一周忌ゆえ、お出でになると思いました」

「どなただったかな」

「釣谷博之介。斬り合いの夜以来です」

「ああ……。三男坊」

 まさか仇敵の墓参りに来たわけではあるまい。博之介は目の前にある平八郎の墓には見向きもせず、いった。

「御心配なく。兄たちの仇討ちに来たわけではありません」

「別に心配なんかしちゃいねぇや」

「討ち入りから、もう一年。江戸はせわしないですね。先月の地震と大火では、森殿のお屋敷は御無事でしたか」

「物置小屋の床が抜けたり、屋根瓦が落ちたくらいだ」

「当方の屋敷も一部の損壊だけですみましたが、品川の猪之松は倒壊しました。無理な増築を重ねていましたからね。主人の松太郎は下敷きになって死にましたよ」

「へえ。一年前のあの夜のあと、しばらくわが屋敷の周囲を徒ら者(やくざ)がうろついていた。あんなふうにつけ狙われることもなくなってしまうのか」

「おや。残念なように聞こえますが」

「武士なんて退屈なもんだ。俺がこうして生きていることを知り、認めてくれる者も少ない。恨んで憎んで、狙ってくる奴がいるだけマシさ」

「奇特な考えですな。あ、私は近く釣谷家の跡取りとして、お上(将軍)へのお目見えにあずかります」

「そりゃめでたいやな」

「森殿と私は今後も互いに秘密を守っていく仲。よしみを感じてもよろしいですか」

「なるほど、そんなことを確かめに来たか」

 やはり、この男も釣谷の血だ。打算と猜疑心しかない。縫之助が秘密を守れるか、確認に来たのである。

「俺はおぬしと手を取り合って世渡りする気はない。忘れてくれ。俺も忘れる」

「そうですか。そうします。父は息子二人を一度に失って、呆けてしまいました。時々、あなた方のことを思い出して、わめきながら刀をつかんで飛び出そうとしますが、かろうじて押しとどめておりますよ」

「息子二人を斬ったのは小林平八郎と蕎麦屋だ。まあ、俺も恨まれて当然だが」

「そういえば、あの蕎麦屋、実は赤穂の浪人でしたね。本名は聞かなかったが、討ち入りに参加していたのでしょうか」

 毛利小平太の名前は切腹した四十六士の中になかった。しかし、

「むろんだ」

 縫之助は博之介を睨みつけながら断言した。反論させる隙など見せなかった。

「わかりました。でも、どうして、あの者は小林殿と同道していたのですか。仇敵同士なのに」

「家と家は仇敵でも、奴らは仇敵じゃなかったんだろうよ」

 面倒臭くなり、縫之助は背を丸めて歩き出した。

「ああ、森殿」

 釣谷博之介は兄たちに似た薄笑いを浮かべ、いった。

「深川に評判の蕎麦屋があるようです」

「……?」

「ごく最近できた、屋台に毛が生えたような粗末な店で、夫婦でやっているらしい。そんなところへ私は食いに行く気になりませんが、富岡八幡の裏です。そこでは白い蕎麦を出すそうですよ。天ぷらも評判です」

「そうか。今度、行ってみよう。期待通りの蕎麦屋なら、屋敷へ呼んで、妻にも食わせてやらねば」

「期待通りの蕎麦屋なら……ですか」

 寺の山門を出たところで釣谷博之介と別れ、縫之助は茶屋の床几に腰を下ろした。

 十一月の地震と大火で本所も被災したので、あちこちに残骸が残り、仮普請で営業している店もある。復興に精を出すたくましい者もいれば、肩を落として、さまよい歩く者もいる。

 縫之助はどちらでもない。淡々と日々を過ごしているだけである。泰平の世の旗本はそうしたものだと思っている。だが、何やら取り残された気がする。友が生命をかけた場面に何もできなかったという悔いも、事件以来、胸の奥にわだかまっていた。

 小林平八郎と一緒に何かを見ることも食することも、もうない。

「つまらねぇなあ」

 冬空を見上げ、縫之助は独りごちた。抜けるような藍色の空に白い雲が浮かんでいる。

 この男、森縫之助正清は享保二十年(一七三五)に六十八歳で没したことが『寛政重修諸家譜』の記録に残っており、つつがなく天寿をまっとうしたようである。

 元禄赤穂事件を題材とした最初の芝居は、浪士たちの切腹から十二日後の元禄十六年二月十六日に上演された「曙曽我夜討」であるが、三日目には上演禁止となった。しかし、討ち入りから四十七年後の寛延元年(一七四八)に上演された「仮名手本忠臣蔵」の大当たりにより、事件の評価は決定的となる。義は赤穂、悪は吉良である。しかし、縫之助の没後十三年を経た上演であるから、彼の知るところではなかった。

 大石内蔵助が残した書状や口上書には、毛利小平太の名前を連盟者として記載したものがあるが、討ち入りには参加しておらず、突然の脱退だったと見られている。赤穂浪人のうち、参加者は英雄視されたが、脱盟者はその親類縁者までもが蔑視されたため、世間の目を逃れて生きるしかなく、毛利小平太のその後の人生は不明である。