鬼鶴の系譜 寛政編 第五回

鬼鶴の系譜 寛政編 第五回 森 雅裕

 リョウは松波家から迎えが来て、引きずられるように実家へ戻り、ヒヨリと鉄蔵は水茶屋で、外の雨音を聞きながら、思案をめぐらせた。

「行きずりの犯行でしょうか」

「身代金目当てなら、金のある商家の子を狙うだろうし、人買いに売り飛ばすなら、世話の焼ける赤ん坊は避けるだろう」

「では、誰が、何のために……」

 リョウの子供をさらったのだろうか。

「葵小僧一味に襲われた時に種を宿したとしたら、生まれた子の父親、あるいは父親の仲間が奪いに来るということは考えられねぇか」

「一味は一網打尽になったわけではなく、逃げのびた者もいたわけですか」

 それにしても、嬲の葵小僧といわれる極悪人一味が、犯した女の妊娠出産をいちいち気にかけるとも思えないが……。

「私には悪党の考えることなど、わかりかねます」

「いやいや。それが葵小僧の種だとすれば、手下どもが今は亡き頭の忘れ形見だってんで、さらっていった……のかも」

「悪党の二代目に育てるために、ですか」

 有り得ぬことではなかろうが、やはりヒヨリの理解を超えている。

「それが普通の考えというものでしょうか」

「なんの。下賤な俺が芝居や読本に毒された推測を姫様にお聞かせしただけでございますよ。どうぞ一笑に付してやっておくんなさい」

「笑った方がいいですか」

「……もう、好きにしてくれ」

「仮説としてうけたまわっておきます。だとしても、リョウさんの出産をどうして一味が知ったのでしょうか。端からリョウさんの子供を狙ったとすると、今日が産土神のお宮参りだと知っていたことになります」

「ふん。ということは、松波家の誰かが手引きしたのかも知れねぇな」

「松波家に家臣や使用人は何人もいるでしょうが、そんな悪だくみしそうな者は……」

 いいかけて、ヒヨリの表情が停止した。

「心当たりでもあるのか」

「人の悪口をいうようで気が引けます」

「本当のことをいえば、どうしても悪口になるもんだ」

「下谷の中西道場に通う門弟に、松波家の家臣がいました。歴とした武士ではありません。博打が大好き、手癖もよろしくないし、上の者には媚びへつらい、下の者はいじめる、町の女子供を殴りつけて泣かせたことを自慢する、最低最悪のサンピンです」

「気が引けるといいながら、随分並べたなあ。中西道場へ行けば、そいつに会えるかな。何か、わかるかも……」

「さあ……それは」

「おや。何か気が進まない理由でもあるのか」

 この男、妙に勘がいい。道場に行けば、会えるのはその男だけではない。むろん、会ってしまうとは限らない。いやいや、むしろ会うことはないだろう。毎日、道場へ通ってくるわけではないのだから。たぶん……。

「もしかして、顔を合わせるのが気まずい門弟もいるとか?」

「そんなことありません」

「何を必死で否定してるんだ? 借金してる相手でもいるのかと俺はいってるだけだぜ」

「いません、そんな人。行くなら行きましょう」

 水茶屋で傘を借り、不穏な天候の中へ踏み出した。たちまち、裾が濡れ、後悔した。

 中西道場へ着く頃には雨は上がったが、上空は風が強いのか、重そうな雲が流れ、大きく傾いた太陽が見え隠れしている。

 道場の裏へ回ると、井戸の周囲で数人の門弟が顔を洗っていた。半裸状態の者もいるが、ヒヨリはかまわず近づこうとする。見慣れているし、妙な気遣いはしない性格だ。しかし、鉄蔵はあわてて引き止め、目が合った門弟一人を手招きした。

 やってきた若侍はヒヨリとも顔見知りだ。長々と挨拶しそうな気配をさえぎり、ヒヨリは無遠慮に切り出した。

「多西◯一郎殿は来ていますか」

 それが松波家の下級家臣の名前である。

「同門の者たちから借金を重ねて、逃げるように道場をやめたぞ」

「あら」

「伊上誠志郎が、貸した方からも借りた方からも相談を受けて、調停したようだが……」

 若侍は意味ありげに微笑んだ。

「伊上を呼んでこよう」

「あ」

 それには及ばないとヒヨリがいうより早く、若侍は道場へ駆け込んでしまった。誠志郎は馬鹿真面目に今日も道場へ来ていたらしい。

 鉄蔵は聞こえよがしの声を発した。

「ふうん。その、伊上なんとかとやら、人望ある人物のようだ」

「なんで、うしろから刺してやりたくなるほどの大声で、そんなことをいうんです?」 

「なんだか知らねぇが、お前さんの顔色の変わるのが面白れぇからな」

 本当に刺してやろうか。ヒヨリは懐剣を錦袋なんぞには入れず、いつでも抜けるよう、むき出しで手挟んでいる。武家娘の懐剣は自害用だというが、彼女の場合はそれだけではない。

 伊上誠志郎が現れ、この奇妙な二人連れを見比べたが、いぶかしむというよりも興味深げだ。

 鉄蔵は身長六尺の大男である。半端ではない存在感を放っているのだが、誠志郎はまるで意に介さない。ヒヨリもせいぜい明るい声を作って、紹介した。

「こちらは絵師の中島鉄蔵さんです」

「ほお。道場破りに来た剣術家かと思った」

 先日、ヒヨリが中島伊勢について尋ねたことを誠志郎は覚えていた。

「中島……といわれると、中島伊勢殿の縁者かな」

 鉄蔵は悠然と微笑んだ。

「愚息ってやつで……」

「多西黄一郎に御用だそうだが、多西は先日、妻が死産して、松波家の勤めも剣の修業も、やる気を失ってしまった」

 ヒヨリが問いかけた。

「その御新(御新造)さんは?」

「松波家の長屋は出たようだ。実家に帰したのではないかな」

 それを聞いて、ヒヨリは鉄蔵へ合図するように横顔を向けたが、視線は合わせなかった。

「子を死産したなら、お乳が出るはず」

「なるほど」

 さらわれたリョウの子供は生後一月。生かしておく気が犯人側にあるなら、母乳が必要だ。多西の妻がその役を果たしているのではないか。

 誠志郎はヒヨリを静かに見つめている。

「多西がどうかしましたか?」

「どうかしたかも知れません。それを確かめたいのですが……」

 ヒヨリは細かな説明はせず、誠志郎も追及しなかったが、

「急ぎの用件ですか」

「はい」

 それだけで充分だった。誠志郎は教えてくれた。

「多西は夜ごと、賭場に入り浸っているらしい。旗本の寒河慎之介殿の屋敷です」

 旗本屋敷の長屋にある中間部屋で賭博が行われることは珍しくない。町方役人には手出しできず、本来は屋敷の主である旗本が取り締まるべきなのだが、安い給金を補うために黙認しているのが実状だ。

「寒河屋敷へ行ってみますか。場所は青山百人町のあたりだが……」

 誠志郎は軽い口調で、いった。

「私が多西を呼び出そう。ヒヨリ殿が賭場へ入るわけには行きますまい」

 それより何より、もう日が暮れる。夜歩きは武家娘の習慣にはない。しかし、この機会を逃すわけにはいかない。

 鉄蔵が気乗りしないようなら、ヒヨリも断念したが、この好奇心の強い絵師は行く気満々だ。

「面白くなりそうじゃねぇか。絵師ってのは何でも見てやろうって好奇心が大事だ。しかし、青山は何もない田舎だぜ。ここらへんで何か食っていかないか」

 鉄蔵はそう誘ったが、歴とした武家なら外食などしない。基本的には夜歩きもしない。武士は戦闘要員であるから、有事に備え、夜は自宅待機を義務づけられている。

 ヒヨリも誠志郎も返事さえしないので、鉄蔵は怒りと笑いをまじえた大声をあげた。

「武家ってのは不自由なもんだな、え?」

 雨がまた降り始めた。道場から提灯を一つ借りたが、無用かも知れない。

 

 

 ヒヨリと鉄蔵に誠志郎を加えた一行は、青山へと向かった。江戸の町はずれで、大名の下屋敷と寺地が広がり、そこに雑然とした町屋が混在している地域である。

 寒河慎之介の屋敷は雑木林によって、町屋と隔てられていた。目の前に神社があり、常夜灯の光が屋敷の塀にかろうじて届いている。中級旗本屋敷の規模である。

 誠志郎が侍長屋近くの通用門から入り、多西◯一郎を連れ出してきた。雨でゆらめく提灯の光に照らされた多西は、いじめ抜かれた野良犬のような目つきをしている。極悪人ではない。小心で気弱ゆえに道を踏みはずした小悪党だった。しかし、品性は低い。揶揄するように、ヒヨリを見やった。

「これはヒヨリ様……。誠志郎様とヨリを戻しましたか」

 多西という男は旗本に雇用され、年間の扶持が三両一分ゆえに「サンピン」と蔑称される下級武士にすぎない。ヒヨリや誠志郎に対等な口はきけない身分である。一応は丁寧な言葉遣いだが、相手を揶揄する機会を常に探している。そんな男だった。

 ヒヨリは多西を睨んでいるが、まったく無表情である。付け入る隙など与えない。

 誠志郎はまだしも愛想よく、多西と鉄蔵を引き合わせた。

「こちらの御仁がお前に話があるそうだ」

 鉄蔵は大男であり、彼の持つ異様な眼光は夜の闇で半減していたが、多西を怯ませるには充分な迫力があった。その鉄蔵が多西を見下ろしながら、ガラ悪く切り出した。

「赤ん坊がさらわれちまった」

「何だ何だ、いきなり」

「手引きしたのはお前さんだ」

「リョウ様が俺があやしいとでもいっているのか」

「おや。さらわれたのがリョウの赤ん坊だと、どうしてわかる?」

「あ……」

「リョウはもとは中島伊勢の妻。火盗改の長谷川様とも親しい。素直に白状した方が身のためだ」

「あ、あんた、火盗改の手人なのか」

 多西は鉄蔵を火盗改の御用聞きとでも思ったようだ。鉄蔵は否定しない。

「俺は中島家に縁ある者で、鉄蔵という。今日は長谷川様から、お前は人を怒らせる名人だといわれた」

 まあ、嘘ではない。

「お前さんも、きっと怒る」

「ど、どうしてだ?」

「人さらいの一味として火盗改に突き出すからだ。いや、怒ってもすぐに泣きに変わるだろうな。火盗改の取り調べは半端じゃねぇから。拷問で石を抱かされて、放免されても、もう一生歩けねぇ奴も珍しくない」

「お、俺は一味なんかじゃない。妻の幼馴染みが葵小僧の一味なんだ。一味の生き残りだ」

「ほお。やはり、葵小僧一味の仕業だったか」

「あ」

 またいいすぎたことに気づき、多西は絶望的な表情で、言葉を続けた。

「……そいつは松波家に押し入ることを考えていたようで、内情を訊かれたが、今どきの武家は金なんか持ってないことを教えてやった。リョウ様が離縁されて実家に戻っていることも話した。跡継ぎが欲しい中島伊勢様がリョウ様の腹の子を喜んでいないのは奇妙だとも……。それから、そいつにリョウ様のお宮参りの日を訊かれたので、教えた」

「葵小僧の一味が、なんでリョウの赤ん坊を欲しがる?」

「知るか」

「この有様から何も考えつかないとしたら、お前さん、よほどの阿呆だぜ」

「葵小僧一味が日本橋の比良多屋を襲った時、リョウ様は居合わせていた。親玉の葵小僧が手下どもに『手を出すな』と命じて奧座敷へ連れて行った女が、比良多屋の連中から『リョウ』と呼ばれていたのを手下どもは聞いている。葵小僧はえらく気に入ったらしく、夜通し放さなかったそうだ。ふへへへ。なら、離縁されたのは、その時に孕まされたからではないのかな。つまり、葵小僧の子種だ」

 なんだかうれしそうに多西は語った。こういう下種下根には楽しい話題なのだろう。

 ヒヨリはそっぽを向いている。この推理は筋が通っているようで、どこか釈然としないものを感じる。誠志郎はどう思っているのか。誘拐事件など話さずにここまで同道したのである。これも器量のわからぬ男だ。彼の表情を盗み見ようとした視線が、相手の視線ともろにぶつかった。向こうもヒヨリの表情をうかがっていたのだが、闇にまぎれて、互いに素知らぬふりを決め込んだ。

 鉄蔵は多西に対して、さらに問い詰めた。

「で、さらわれた赤ん坊はどこだ? お前さんの御新が乳をやっているのだろう」

「一味は塩浜の廃寺にいる。明日には江戸を離れ、上方へ向かう。妻も連れて行かれるだろう」

「お前さんはそれでいいのか」

「よくないから、こうして打ち明けてるんだ。一味には腕の立つ浪人も何人か混じってる。妻は脅されて行動をともにしているだけだ。連れ戻したい。力を貸してくれ」

 鉄蔵にすがりつき、誠志郎の肩をゆすり、ヒヨリにも手を伸ばしたが、彼女は身をかわした。

 ここまで沈黙していた誠志郎がようやく感想を洩らした。

「何やら大変なことになっているようですなあ。ヒヨリ殿もこのような事件に巻き込まれるとは、つきあいがよすぎる」

 それを聞いて、多西が驚嘆した。

「え。誠志郎様は事件を知らずに来たのですか。あなたこそ、つきあいがよすぎる」

「文中子いわく『まず選んで、しかるのちに交わる』……私はこういうつきあいのことだと思う。違うかも知れんが」

「違うでしょうな。そりゃ遊郭の女郎選びのことでさあ」

 鉄蔵は冗談なのか本気なのか、胸を張って、そういった。まあ、ヒヨリと誠志郎は腐れ縁だとかいわれるよりもマシかなとヒヨリは思ったが、すぐに鉄蔵は土足で心中へ踏み込んできた。

「お二人の仲は腐れ縁ってやつですな」

 この男、いってはまずいことを口に出してしまう性格らしい。それにしても、二人が元の許婚者だったことなど知らぬはずだが、無神経なくせに勘だけはいい。

「ともあれ、妻を助けたいなら、その廃寺とやらに案内してくれ」

 多西にそう求めたのは誠志郎である。

「明日、江戸を離れるなら、もう猶予はない」

「おや。乗り込みますか」

 と、鉄蔵。

「面白そうではあるが、長谷川様に知らせて、火盗改にまかせるべきですぜ」

「場所を確かめるのが先です」

「青山から塩浜へ行って、それから火盗改に走るのか。長谷川様の役宅は本所二ツ目ですぜ。御苦労なことだ」

 この場にいる全員が鉄蔵を見つめた。

「おいおい。俺がその御苦労な役をつとめるのか」

「長谷川様とはお知り合いなんでしょ」

 と、ヒヨリ。鉄蔵は傘の下で、天を仰いだ。

「面倒なお姫様と関わり合っちまったなあ……」

 一番無関係なのは誠志郎である。だが、この男はごく自然にここにいる。

「誠志郎様にこれ以上の御迷惑は……」

 ヒヨリは恐縮したが、誠志郎は飄然としている。

「何。物見遊山みたいなものだ。それよりヒヨリ殿は……」

「私も行きます」

「しかし、もう夜中です。それに……」

 雨が強くなった。風も強く、これは只事ではない。実はこの天候、斎藤月岑の「武江年表」にいわく、

「九月四日大嵐、昨夜中より大雨、南風烈しく八月(八月六日の暴風雨)より強し。巳刻(午前十時前後)高潮深川洲崎へ漲りて、あはれむべし、入船町、久右衛門町壱丁目弐丁目と唱へし、吉祥寺門前に建てつらねたる町家、住居の人数と共に、一時に海へ流れて行方を知らず。弁財天社損じ、拝殿別当其の外流失、其のかへしの浪行徳、船橋、塩浜一円につぶれ、民家流失す」

 という大荒れの災害が近づいていたのである。しかし、正確な天気予報などないこの時代、ヒヨリたちが知る由もない。

「誠志郎様が行かれるのに、私が行かぬわけにはまいりません。森家家伝の短刀を盗賊どもから取り返します」

「ははあ……。目的はそういうことですか」

 誠志郎という男、どこまでも泰然としている。大物なのか馬鹿なのか、鉄蔵がまたそんなことを口に出しそうな気がして、ヒヨリは鉄蔵を睨みつけて牽制しながら、言葉は誠志郎に向けた。

「動きやすい身なりに着替えますので、途中、寄り道させてもらえますか。京橋にトモエさんがいます」

 父・政俵の死後、森家を追い出された後妻だ。今は質屋に再嫁しているが、ヒヨリは縁を切っていないのである。

「ところで、塩浜の廃寺と聞きましたが、塩浜って、どこですか」

 型破りの武家娘とはいえ、ヒヨリの行動範囲は限られる。江戸の地理の隅々までは知らない。

 鉄蔵が答えた。

「京橋なら、青山から塩浜へ向かうのに遠回りにもなるまいよ。ただ、行くと決めたことを後悔するほど遠いぞ。この風雨の中で夜明かしすることになる」

 それこそ、武家娘には滅多に経験できない冒険だった。ヒヨリにしてみれば、今さらあとへは引けない。

 四人となった彼らは、青山から江戸の中心部を横断して京橋へ至った。天候はもはや嵐となる気配である。目指す質屋の手前で、ヒヨリは男たちの足を留めさせた。近くに蕎麦屋があった。

「誠志郎様。あそこで待っていてもらえますか」

 高級武士は入らない蕎麦屋とはいえ、雨宿りのためなら、やむを得ない。誠志郎はトモエと面識がある。元の許婚者同士が顔を揃えて訪ねるのは、ためらわれた。

「ヒヨリ殿の腹ごしらえは大丈夫か」

「私はトモエさんに何かもらいます」

 行きやしょ、と鉄蔵が誠志郎を促した。

「蕎麦を馬鹿にしちゃいけませんや。松尾芭蕉も奥州を旅しながら蕎麦食ってるし、新井白石なんて学者は、蕎麦をゆでると幾重にも重なる波のごとく、大根おろしやネギの香りがお碗に落ちると、もう仙境の食い物にも勝る、なんて能天気な詩を詠んでますぜ」

「赤穂義士だって、討ち入りの前には蕎麦屋に集合したというからな」

 多西が割って入ったが、鉄蔵は一蹴した。

「何いってやがる。元禄の頃には蕎麦屋よりうどん屋だろ」

 そんな無駄話をしている男たちを蕎麦屋に置いて、ヒヨリは質屋の戸を叩いた。