第2章 宣教師のみた日本社会(2)

第2節 宣教師のみた日本人の宗教

 ここでは、当時の宣教師らのみた日本の様相について、布教を目的にして来日した彼ら宣教師が特に注目したであろう日本の宗教に関する記述を抽出し、宣教師らが当時の日本の宗教についてどのように認識したかをみていきたい。
 まず、フランシスコ・ザビエルによって伝えられた日本の宗教のあり様をみていくことにしたい。ザビエルは、1552年1月29日にヨーロッパの宣教師へ宛てて、自らの日本での滞在に関する報告をしたが、そこでは日本の宗教に関しても非常に多くの所感を述べた。それが次の[史料20][史料21]である。

 

[史料20]
 “Há nove maneiras de lendas, differentes humas das outras das outras. Assim homens como mulheres, cada um segundo a sua vontade, escolhe a lenda que quer. A ninguém constrangem que seja mais de uma seita que de outra. De maneira que há casas em que o marido é duma seita e a mulher de outra e os filhos de outra. Isto não se estranha entre eles, porque cada um escolhe à sua vontade. Há diferenças entre ele e porfias em parecer-lhes que umas são melhores que outras e sobre isto muitas vezes há guerras.”

(日本語訳)
 “この土地には(日本には)9つの宗派があってそのそれぞれが異なったものである。そのため、女性や男性の別なく、自分にとってふさわしい神話を選ぶのである。同じ家庭にあっても、夫と妻、子供たちとで違う宗派に従う場合も多い。家族でそれぞれ自由に好きな宗派を選ぶことが認められているのである。日本の様々な宗派の中で、どれらがより優れているかをめぐっての争いが頻発し、そのため宗教的な戦争がしばしば行われる。”

[史料20]
 ”Nenhumas destas nove seitas falam na criação do mundo nem das almas. Todos d izem que há inferno e paraíso; porém, ninguém explica que coisa é paraíso, nem menos por cuja ordenação e mandado vão as almas para o inferno. Estas seitas somente tratam que os homens que as fizeram foram de grandes penitências – a saber, de mil e dois mil e três mil anos – e que, estas penitências que fizeram, era havendo respeito à perdição de muita gente que não fazia nenhuma penitência dos seus pecados; e que, por respeito destes, faziam eles tanta penitência para que lhes ficasse algum remédio.”

(日本語訳)
 “これら9つの宗派のどれをとっても、世界の創造と人間の霊についての論説は見られないようである。天国と地獄の存在は認められているようだが、それについて詳しく説明はなされず、なぜ霊は地獄へ行くのかという理由についてもほどんど説明ができないようである。基本的に諸宗派それぞれが2、3000年前において全く罪を悔悟せずに、人間のために自らを犠牲した聖人について語っている。”

 

 [史料20][史料21]によれば、報告書の中でザビエルは日本における様々な仏教の宗派について述べている。彼は当時の日本において9つの宗派の存在をみているが、宗派の数については当時の主要な宗派、つまり、天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗といった8つの宗派を誤解して9つとしたのではないだろうか。
 この段階においては、ザビエルを始めとした宣教師は、仏教としての統一的な概念をまだ正確には把握しておらず、これら諸宗派については全く別の宗教として認識し、それぞれに自らの教訓と信仰すべき神様が存在すると考えていたようである。
 ここではとりわけ、当時の日本においては同じ家族にあっても決して争うことなく異なる宗派を自由に信じることが認められていた点をザビエルが指摘しているのは興味深い。

 

[史料22]
 “…Tem eles escrituras de homens que fizerao grandes penitencia, cujos nomes sao Xaca e Ameda e outros muitos. Porem os mais primcipais sao Xaca e Ameda.”

(日本語訳)
 “(前略)彼ら(日本人)は数多く苦行を重ねた人物を描いた紙面を所持する。その人物の名前はどうやら“シャカ”(釈迦)と“アメダ”(阿弥陀)というようだ。これらの他にも偶像はたくさん存在するようだが、最も人々に崇拝されるのはこの“シャカ”と“アメダ”のようである。”

[史料23]
 “Ha nestas terras muitas maneiras de idolatrias. Alguns ha que adorao hum idolo que se chama Xaca. Dizem que este naceo oitocentas vezes antes que nacesse de mulher e que servio as gentes antes de nacer de sua mai, pera se fazer santo, mil annos , trazendo lenha e agoa e outras cousas necessarias pera servico dos homens. E este he o mais principal que estes adorao, porque dizem que este declarou as leis passadas…”

(日本語訳)
 “この土地(日本)には偶像崇拝のやり方が沢山ある。彼らは“シャカ”(釈迦)という偶像を崇拝する。この釈迦という者は、母親から生まれてくる前に、800回(ママ)生まれ変わったと言われているようだ。彼は聖人になるために、母親から生まれる前の1000年間も、世上の人々のために薪や水などのような生活に必要な物を与えた続けたという。”

 

 [史料22]は1552年1月29日にヨーロッパの宣教師たちに対して宛てた書簡である。ここから当時の日本人が信仰する釈迦や阿弥陀如来を描いた肖像画を紙面として所持していた様子が分かる。こうした人々の偶像崇拝の様子は、ザビエルが[史料23]で取り上げたように指摘するのみならず、他の宣教師らの記述にも散見されるが、ここではコスメ・デ・トーレスの記述を[史料24]として挙げる。[史料24]は、1551年9月29日にゴアの宣教師たちに宛てた書簡であるが、彼は当時出会った日本人から信仰する偶像についてなど数多くの実態を綿密に調べ上げ理解を図った上で、キリスト教の布教活動を展開していくのである。ここで彼ら宣教師らが、日本での布教を行っていくに際してとりわけ強調した点に関して興味深い記述を挙げたい。
 宣教師らは日本における布教活動を積極的に展開していく原動力の1つとして、日本列島、全国各地に通じうる1つの言葉の存在を挙げているのである。例えば、フランシスコ・ザビエルは1552年1月29日にヨーロッパ宛ての手紙において以下ののように述べた。

 

[史料24]
 “Esta terra de Japao he muito grande em estremo.Sao ilhas. Em toda esta terra nao ha mais que uma limgoa. Ha oito ou nove annos que farao descubertas estas ilhes de Japao pelos portugueses…”

(日本語訳)
 “この日本という国はとても大きい島国である。そして全国には1つの言語しかない。この日本列島は、8、9年前にポルトガル人によって発見された(後略)”

 

 [史料24]によれば、ザビエルは日本が1つの島国であると紹介し、さらにそこに居住する日本人について、彼らが全国的に等しく同一の言語を使用していることを強調している。だがここで日本の言語について考えた場合に、日本の各地域によって少しずつ言葉が異なっているという問題、つまり、方言の存在という問題を挙げることができる。当時においても当然この方言は存在したはずにもかかわらず、なぜ彼は“1つの言葉”という表現によって報告したのであろうか。
 この問題について、ガスパル・ヴィレラの書簡を使用して分析した神田千里氏によれば、ヴィレラも同様に当時の日本が“1つの言葉”と表現した点を指摘し、彼がこのように表現したのは、「『最も主要でどれよりも洗練された京都』の『宮廷』、すなわち、将軍御所の言葉であり、それが説教や告解に用いられるように、宗教に関する言葉として、日本のいわば公用語の地位を得ていた」のではないかと指摘している。ヴィレラは日本にも祖国ポルトガルと同様に「都の宮庭」で話される公用語があると考え、それが日本の各地で例外なく通用する「一つの言葉」と見えたのではないかと考察している。もちろん神田の指摘するように、京都で使用された言語を公用語として認識したという評価も一見理解できよう。しかし、ここで紹介したザビエルは、神田氏がその論拠として挙げたヴィレラとは異なり、日本の九州、山口、そして岩国までは訪れたものの京都までは至っていない。そのようなザビエルが日本の言語について「1つの言語」と言及していた点についてはより積極的に評価を加えてもよいのではないだろうか。つまり、当時の日本においては、方言の違いという一見すると限界を抱えた社会であったとみるのではなく、キリスト教の布教にとってよりふさわしい条件が整っていたとみることはではないだろうか。
 ここで、この点についてさらに考察を深めるために宣教師らによる日本と中国の比較を行った記述に注目したい。

 

[史料25]
 “Depois de muito tempo vierao as letras da China, e o primeiro liovro veio da china. Daqui tomarao huns caracteres de que fizerao letra como se entendem mui facilmente e com as letras da China lhe veo os livros das sortes e feiticos e de fazerem mezinhas.”

(日本語訳)
 “長い年月とともに“シナ”から文字がやって来た。そして初めての書物も“シナ”からやってきた。その本からいくつかの漢字が抜き出され、分かりやすい文字が作られた。“魔法”や呪術の本も、そして薬の作り方が記載された本も“シナ”からやってきた。”

[史料26]
 “Nos custumes da adoracao e en todo o mais he tam diferente este Japao da China como do ceo a terra estando tao perto e vindo de la as ceitas. Os chins ofrecem animaes mortos e limpos aos seu idolos, e infindos feiticos que fazem, e sao a cousa viva que nao comao. Oshuma japoes leva-os per outras delicadezas, por cheiros e perfumes que oferecem prostrados por terra com muita devocao….”

(日本語訳)
 “崇拝に関する習慣は、たとえ日本と“シナ”が近くても、また、“シナ”の影響が多くても、まるで天と地のように“シナ”と日本人の崇拝のやり方と習慣はかなり違うものである。“シナ”は自分たちの偶像に対して汚れなく死んだ動物を捧げ、“魔法”を使う。そして、頻繁に豚肉などいろんな種類の動物を食べる。彼らにとって食べられない生き物はないのである。一方で、日本人の場合は崇拝の方法はより繊細である。熱心に土下座をしながら、色々な“香り”を捧げる。そして食事もかなり繊細であり、普段は肉と魚を食べないのである。”

 

[史料25][史料26]は、バルタザール・ガゴがポルトガルの宣教師たちに宛てた書簡である。ガゴによれば、日本の文字などの文化や宗教といったものがもともと中国から伝来したものであるとしながらも、両国の間における宗教や文化といったものが全く違ったものであったと述べている。中国や日本などあらゆる国々において様々な人々の習慣を目の当たりにしたガゴだからこそこうした比較的な記述が可能であったのである。とりわけ、日本人が汚れないことに価値を置き、繊細さや熱心さを挙げている点は注目できる。ここに先に挙げたキリスト教布教の適合性に関して、日本人ならではの特殊性を見ることができるのではないだろうか。
 さて、ここでまた宣教師らがみた日本の宗教の様相について、次に彼らが出会った日本の僧侶に関する記述から注目してみたい。

 

[史料27]
 “…E estes bonzos pregao ao povo de si mesmos que sao samtos, porque guardao os cimquo mandamentos. E mais pregao, que os pobres nam tem nehum remedio para sair do infferno por quanto nam tem esmola que dar aos bonzos.”

(日本語訳)
 “(前略)この僧侶たちは自らが聖人であると人々へ宣言する。その根拠については彼ら自身が5つの掟を守るからだと説明する。また、貧しい人は地獄から救われる方法がないと述べる。なぜなら僧侶たちに対して寄付を与えないからだという。”

[史料28]
 “…E dao por rezao que cada molher tem mais pecados do que tem todos os homens do mundo por causa da purgacao, dizemdo que cousa tao suja como molher difficultosamente se pode salvar. E porem vem por muitas esmolas, mais que os homens, que sempre lhes fiqua remedio pera sair do inferno.”

(日本語訳)
 “(中略)そして、(坊主達は)女性が男性よりも罪多き存在であると述べる。なぜなら生理があるから。生理ほど汚れたものはなく、それによって女性への救いはとても難しいと主張する。そのためより高い金額を求められるために、男性よりも女性の方が寄付が多い。これが地獄から救われる方法とされている。”

[史料29]
 “Antigamente os bonzos e bonzas que nao guardavao os cinquo mandamentos matavao-os. Cortavao-lhes as cabecas os senhores da terra, scilicet,por fornicar, comer cousa que padeca morte, ou matar, furtar, mentir e beber vinho.Agora ja a letra entre eles vai muito corrupta, porque publicamente bomzos e bonzas bebem vinho, comem peixe escondidamente, verdade nao sei quando falao, fornicao publicamente.”

(日本語訳)
 “昔、5つの掟を守らない僧侶と尼がその領主によって斬首の刑に処された。つまりこれは淫乱、食肉、殺人・窃盗、虚言、飲酒といった5つの掟が現在のところ全く守られていないことを意味し、僧侶と尼が飲酒をし、隠れて魚を食べ、簡単に嘘をつき、公衆の面前で恥ずかしがらずに淫らな行為に及ぶのである。”

[史料30]
“As freiras sao muito visitadas dos bomzos todas as horas do dia.Tambem as freiras visitao os mosteiros dos bomzos Tudo isto parece muito mal ao povo.(…)”

(日本語訳)
“尼は1日の何時間でも坊主に尋ねられる。そして、尼も坊主たちを訪ねる。人々はそれを良い目では見ない。”

 

 以上の[史料27]から[史料30]は、ザビエルがヨーロッパの宣教師たちに宛てた書簡であるが、ここでは痛切に当時の腐敗した僧侶の実態について紹介している。
当時の社会に置いて僧侶たちは自らが淫乱、食肉、殺人・窃盗、虚言、飲酒といった行為を決してしないという5つの掟を守ることを論拠として自らが聖人であることを主張していた。そして、自分たちへ寄付をする行為こそ地獄から救済されるのだと説き、そうした寄付行為を行うことのできない貧者こそ地獄から救済されることはできないと脅迫していた様子が分かる。また僧侶らは、貧者と同様に女性を救済が難しい存在としてみなし、彼女らから高い金額の寄付を獲得していたようである。
 同時に当時の僧侶らが、先に挙げた5つの掟を全く遵守していない状況を述べているのも注目すべきである。こうした僧侶らの悪態についてはコスメ・デ・トーレスも同様に、1551年9月29日にゴアの宣教師たちに宛てた書簡において、掟を遵守せず、そして儲けを至上として自らの信者たちを騙す僧侶の実態を下記のように報告した。

 

[史料31]
 “Outras cousas muitas lhes dao aentender para serem adorados e tidos em muitoem este mundo, dizendo-lhes tambem que nao comao cousa nenhuma que tenha sangue. E isto he asi verdade, que publicamente nem carne nem pescado comem, porque se el-rei da terra o sabe, lhe tira os mosteiros e os castiga. E por causa que nao na comem publicamente, mas comem-na em secreto. E outras cousas mui maas fazem em secreto e em publico.”

(日本語訳)
 “(前略(僧侶たちが)人々を騙す手口の1つとして、彼らが世上で大いに尊敬されるために、自らが血のある物(動物)を食べないこと人々に対して主張する。一応のところそれは真実のように見える。なぜなら、もし人々の前で彼らが肉や魚を食べているのをその土地の王様(大名)にばれてしまったものなら、その寺社は没収され、僧侶らは罰されてしまう。だが彼らは、人々の前では食べないようだが、実際のところどうやら隠れて食べているようだ。”

[史料32]
 “Muitas outras maneiras ha que tem semeadas os padres da terra, todas para tirar dinheiro dos seculares,dando-lhes a entender que se em este mundo lhes derem muitos dinheiros, que eles lhos tornarao em outro. E por esta causa nao dao esmola senao aos padres riquos porque tenhao despois da morte com que lhes pagar em o outro mundo. E tambem lhes dao a entender que qualquer alma que levar a sedula dos padres deste mundo pera outro, os demonios a deixarao passar sem lhe fazer algum dano.E estas cedulas custao muito dinheiro, e os mais dos seculares, antes que morrao, as tomao.”

(日本語訳)
 “人々のお金を奪うための僧侶たち悪行はたくさんある。僧侶は人々に対して、もし世上で自分に寄付をたくさんすれば、他界した後にその寄付してくれた分を必ず返すと述べる。人々は金持ちの僧侶にばかり寄付をするようだ。なぜなら、金持ちの僧侶の方が他界した後に確実に返金してくれるからと考えているからである。僧侶たちの札を他界に持っていけば、悪鬼らが害せずに通してくれる。その札はとても高いが、人々は死ぬ前にその札を買う。”

 

 [史料31][史料32]によれば、当時の僧侶たちが人々から尊敬の念を獲得するために、自らが動物を食べないこと人々に対して主張していたにもかかわらず、実は公衆の面前以外のところで隠れて掟を破っていたという実態を記している。また、僧侶たちが人々の金銭を奪うために、人々に対してもし世上で自分に寄付をたくさんしたならば、他界後にそ必ず返すという名目で多くの金銭を集積していた様子が述べられている。こういった僧侶の行為に対して人々もそれを信じ、少しでも死後の救済を得ようと僧侶たちに多額の金銭を寄付していたようである。当時日本に訪れたトーレスを始めとした宣教師らにとっては、こうした行為を罷り通らせていた僧侶を徹底的に批判し、自らが展開するキリスト教布教の原動力へと変えていったのである。
  山伏と真言宗との出会いも、宣教師の書簡に詳しく記してある。キリスト教徒の先入観を持った宣教師達が、日本の色々な宗派の中で、当時盛んであった真言宗、従って山伏が一番厳しく批判された。頻繁に「直接悪魔を崇拝する僧侶達」のような記述などが書簡に見つけられる。先ずヴィレラによる1557年10月29日、ポルトガルの宣教師達宛ての書簡を例として挙げたい。

 

[史料33]
 “Ha qua alguns que adoram ao demonio, e quando querem tomar este officio vao-se a humas serras altas e alli esperao ho demonio por muitos dias ate que por derradeiro o demonio lhe aparece na figura que querem. Chamao-se estes Jamanguexe,que quer dizer soldados de oiteiro. Estes quando se querem agraduar dos sanctos fazem grandes penitencias, scilicet, estao em pe sem dormir, e comem muito pouquo, e asi estao pregando. Aos quaes lhe dao muita esmola, e por derradeiro, a cabo de 2 ou 3meses, quando o demonio lhe diz que abasta, tomao huma embarcacao piquena, ele e os que o querem seguir, com todo o dinheiro que lhe foi dado d’esmola, se vai ao meio do mar e da furo aa embarcacao e van-se ao inferno. Destes ha muitos, e muitas maneiras de penitencias que fazem, tudo por engano do demonio.”

(日本語翻訳)
 “何人もの人が悪魔を賛美する。賛美したいときには高い山に登る。悪魔が望まれた形で現れるまで、数日の間山に篭る。そういった悪魔を賛美する人はヤマンゲシェ、(筆者注:山伏のこと)と呼ばれる。それは、「山の武士」という意味である。彼らは自分の聖人(筆者注:菩薩のこと)を賛美したいとき、厳しいペニテンシア(筆者注:禁欲的な修行のこと)をし、殆ど寝ず食わずの状態で、そのまま自分の信仰を広めている。2,3ヶ月間、いつも寄付を沢山貰い、悪魔に“もうよい”と言われるときに、彼らは寄付として貰ったお金と共に小船に乗る。海の沖に辿り着くと、小船に穴を開け、沈没をさせながら真っ直ぐ地獄へ向かう。ペ二テンシアのやり方が様々あるのだが、すべては悪魔の誤魔化しによる。”

 

 [史料33]では、ヴィレラが山伏の修行を説明し、そして観音浄土を目指す補陀落渡海についても説明している。補陀落渡海とは、観音浄土への往生を目的として生きながら屋形船に閉じ込めて海に流す儀礼で、熊野の補陀洛山寺の前の浜で行われていた。仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀洛(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。

 

[史料34] 
 “Los que adoram el sol y la luna adoran tambien un idolo a quien llaman Denix, el qual pintan com tres cabecas, y dizen que es la fuerca del sol y la luna y de los elementos. Estos adoram tambien al demonio en su figura, haziendole muchos sacrificios y mui costosos, y muchas vezes lo ven visiblemente”

(日本語翻訳)
 “太陽と月を崇拝する(僧侶)がデニシ(大日)と言う偶像も崇拝する。この偶像を描く時、三頭のような形で書き、太陽、月、そして五大の力を象徴すると言われる。彼らは悪魔の絵そのものを崇拝し、(悪魔に)色々な苦行と供物を捧げる。(彼らには)頻繁に悪魔が見える。”

[史料35]
 “(…) Desta ceita saem huns per nomes Amanbuxis que trazem um tiracolo com borlas. Estes adorao diretamente o demonio em certos sinais, e estao 7 dias en montes altos sem comerem ate se verem com o demonio pasando grandes trabalhos e penitencias.”

(日本語翻訳)
 “(中略)この宗派から、アマンブシスという僧侶がいて、玉の付いた帯を肩にかけている。彼らは直接に印を結んで悪魔を崇拝し、7日間、悪魔が見えるまで、何も食べずに大変な苦行を行う。”

 

 [史料34]は、コスメ宣教師が、1561年10月8日にジエゴ・ライネズに宛てた書簡である。そこでは、真言宗による宇宙と万物の創造主大日如来とその崇拝を描写し、[史料35]ではガゴ宣教師が次の年の1562年12月10日に、ポルトガルの宣教師達宛ての書簡で、山伏の修行を詳しく述べている。これらの書簡には「悪魔」が記されており、当時のキリスト教徒の先入観がはっきり分かる。

 

[史料36]  
 “E que en Japao esta outro, por nome de Combodex, vivo de muitos annos, emu ma cova, esperando com as maos alevantadas por miroqu ou Xaca.”

(日本語翻訳)
 “この日本にはコンボデシというほかの偶像があって、彼は何年も両手を上げたまま洞窟の中で生き、ミロキと釈迦を待っていた。”

[史料37] 
 “Desta cabeca saio uma ceita chamada Dainichi, que adorao 3 em hum so que eles tomao polla materia prima”

(日本語翻訳) 
 その偶像から、ダイニチという宗派が生まれ、三つの偶像を一つに賛美する。その偶像が宇宙の起源といわれる。

 

 [史料36]と[史料37]は、ガゴ宣教師が同じ1562年の書簡で、真言宗の開祖者、弘法大師について述べ、そして、万物の創造主大日如来を描写したものである。[史料37]では、大日如来が「三つの偶像が一つに」のように描写された。キリスト教の神様も三位一体、そして宇宙の創造主だと考えられている。そして布教の最初の頃ザビエルは、大日如来はキリスト教と同じ神様だと誤解したのである。とても興味深いところである。

 

[史料38]
 “O primeiro principio deles foi hum homem chamado Coreb bondaxi, leterado, e Segundo muitas cousas que dele ouvitinha algum demonio familiar. E este enventou humgenero de letra em Japao a que chamao cana.(…)”

(日本語翻訳)
 “彼らの最初の偶像はコレブ・ダイシという知識を持っていた男である。私はかれについて悪魔と似ていそうな話を沢山聞いた。彼は日本でカナという文字を発明したという。”

[史料39] 
 “ A lei que deixou chama-se Xingomju. Hum dos preceitos e que adorem ao diabo, e quem as particularidades de sua vida souber nao crera senao ser ele o mesmo diabo em carne.Deixou certas palavras escritas com as quais metem o diabo em os corpos de qualquer pecoa,e ali lhes responde o que perguntao.”

(日本語翻訳) 
 “残した宗派はシンゴンシュという。掟の一つは悪魔を崇拝することである。そして彼の人生を詳しく理解する人は、彼は肉体をもった悪魔であると信じている。手書きで残した言葉を唱える人は、悪魔をどんな体にも取憑かせる。そして憑かれた人はどのような質問にも答えることができる。”

 

 [史料38]と[史料39]は、ガスパル・ヴィレラの1562年9月アントニオ・デ・クァドロス宛て書簡である。弘法大師と真言宗について,厳しく描写し、弘法大師と悪魔の直接的な関係を、自らの先入観で述べている。[史料38]でヴィレラは仮名について述べている。当時の日本人はすでに、空海が仮名を発明したという認識が強かったのである。

 

[史料40]
 “Sam tambem muito enganados por hum bonzo a quem dizemque chamaram Combodaxei, que Segundo as cousas que dele contam parece que foi o demonio em carne ou em figura dela, polos muitos he gravissimos pecados que enventou e ensinou. Enventou nova letra de que nesta terra usam com outra que da China tem.”

(日本語翻訳)
 “彼ら(日本人)はコンボダシェイという坊主にひどく騙された。彼について聞いた話によれば、
彼は酷い罪を発明し、教えた。したがって、彼は肉体になった悪魔、または悪魔の姿になった人である。(彼は)この土地(日本)で、中国の文字(漢字)と混じって使う、新しい文字(仮名)を発明した”

 

 [史料40]でもヴィレラは、空海を「肉体になった悪魔」というような厳しい視点から述べた。そして、仮名が弘法大師によって作られたとも指摘した。宣教師の沢山の書簡の中でも、ヴィレラの執筆したものが、仏教に対する批判が一番鋭かったとはっきり分かる。
 次節においては、こうした日本の社会において布教活動を展開していった宣教師らの様子を、当時の日本社会に関する記述とともにみていきたい。