第2章 宣教師のみた日本社会(1)

 本章では、具体的に宣教師らによって記述された書簡をもとに、16世紀に日本へ本格的に布教を目的として訪れるようになったイエズス会宣教師らが目の当たりにした日本社会の様相をできるかぎり多様にみていきたい。ここで書簡を取り上げる宣教師としては、先に述べたように、フランシスコ・ザビエル、コスメ・デ・トーレス、バルタザール・ガゴ、ガスパル・ヴィレラ、ルイス・デ・アルメイダの主に5名を中心に扱いたい。

 彼ら宣教師が伝えた日本人の性格、そして日本での宗教の実態、当時の社会状況と彼ら宣教師の活動、これら大きく3点について分析していきたい。

 

第1節 宣教師のみた日本人

 まず本節では、数多くの宣教師らが残した当時の日本社会に関わる多くの書簡の中から、特に日本人の民族性についてどのように宣教師の目に映ったのかについてみていきたい。当時来日した多くの宣教師が、日本人特有の性格として興味深い記述を多様に書き表している。例えば、1549年からイエズス会で最初に来日し、布教活動を展開することになった1人であるフランシスコ・ザビエルは、新しく現地で出会った日本人について、彼がそれまでに見てきたあらゆる国々の様々な民族とは大きく異なった非常に珍しい民族であったと述べているのである。

 

1 名誉を重視する人々

 はじめに、ザビエルが1549年11月5日にゴアに滞在する宣教師らに対して宛てた書簡の中で日本人の本質的な性格について書き表したものを以下に[史料1][史料2][史料3]として挙げる。

[史料1]
 “De Japan, por la expiiriencia que de lla tierra tenemos, os hago saber lo que della t enemos alcancado. Primeiramente, la gente que hasta aguora tenemos conversado, es la mejor que hasta aguora esta descubierta. Y me parece que entre gente infiel non se hallara otra que gane a los japanes. Es gente de muy buena conversacion, y generalmente buena y no maliciosa. Gente de honrra mucho maravilha, istima mas la honrra que ninguma otra cosa. Es gente pobre en general, y la pobreza entre fidalgos y los que lo no son no la tienen por afrenta.”

(日本語訳)
 “ここから日本に関する経験を述べる。まず、今まであらゆる民族の人々と話してきたが、日本人こそ一番良い発見であった。キリスト教以外の宗教を信仰する民族の中で日本人に勝てる他の民族はいない。なぜなら、彼らの話し方はとても丁寧だし、そのほとんどが悪気のない優しい人々であり、名誉の重んじた素晴らしい人々である。何よりも名誉を大事にする。彼らのほとんどが貧しい人々である。たとえ身分の高い人が貧しくても、身分の低い人に軽蔑はされないのである。”

[史料2]
 “Tienen uma cosa que ninguna de las partes de los christianos me paresce que tiene y es esta: que los hidalgos por muy pobres que sean, los que no son hidalgos por muchas riquezas que tengan, tanta honrra hazen al hidalgo muy pobre quanta le harian se fuesse riquo. Y por ningun precio casaria hun hidalgo muy pobre con otra casta que no es fidalga, aunque le diesen muchas riquezas. Y esto hazen por les parescer que pierden de su honrra casando con casta baxa. De manera que estiman mas la honrra que las riquezas. ”

(日本語訳)
 “日本人にあって我々キリシタンの人々にないことが1つある。それはたとえ身分の高い者が、いくら貧しくとも金持ちと同じように尊敬されるのである。これは我々のようなキリシタンの人々にはみられない現象である。身分の高い人はいくら財産を獲得できようとも他の身分の人とは結婚はしない。なぜなら、身分の低い者と結婚をすることは彼らが自らの名誉を失うことにつながるからである。つまり、日本人は何よりも名誉を大きく重視するのである。”

[史料3]
 “Hes gente que nu sufre injurias ningumas ni palabras dichas con desprecio. La gente que no es hidalga tiene mucho acatamiento a los hidalgos, y todos los hidalgos se precian mucho de servir a el senor de lla tierra y son muy sojeitos a el. Y esto me parece que hazen por les parecer que haziendo Contrario pierdem de su honrra, mas que por el castigo que del senor receberian si el contrario hiziesen.”

(日本語訳)
 “彼らはたとえ見下されるような言葉を吐かれたとしても全く傷つかない。身分の低い者は身分の高い者をとても尊敬し、身分の高い者は自らの領主を尊敬して彼に従うのである。これは彼らが罰を受けるからこそやっているということではないのである。彼らにとって主人に逆らうという行為そのものは彼ら自身の名誉を失うことにつながるのである。”

 

 [史料1]から[史料3]ではザビエルの日本での経験が述べられている。まず注目すべきは、彼が日本人をかなり好意的に評価している点である。彼がそれまで出会ってきたあらゆる民族の中でも、日本人こそが最も丁寧で優しさに溢れる人々であることを指摘している。そして、彼らが何よりも名誉を大事にする素晴らしい存在であること強調しているのである。当時、ザビエルが出会った日本人のほとんどが社会的に貧しい人々ではあったようだが、そうした中で仮に身分の高い者が貧しい場合にも、身分の低い者からは決して軽蔑などされず、富んだ者と同様に尊敬されている状況に対して非常に驚きをもって紹介している。それはこうした日本人の行為は本国などにおいては決してみられない現象であったからである。
また、当時の日本人が、いくら財産を獲得できようとも、決して自らの身分と釣り合わない者とは結婚などしないと述べ、それが自らの名誉を守るためであるとしている。さらに、身分の低い者が身分の高い者を尊敬し、身分の高い者が自らの領主に対して尊敬の念をもって彼に従うという行為について、彼らが決して罰による消極的な理由によって強制されたものではなく、自らの名誉を失うだからこそ大切にする行為として認識して行っていることを指摘している。
このように、ザビエルは日本人が何よりもまず名誉を一番に重要視した民族であることを非常に好意的に評価しているのである。同様にこのような日本人の名誉に関して述べた宣教師の史料として、コスメ・デ・トーレスが述べたものが以下の[史料4]である。

 

[史料4]
 “Ay en esta tierra tres personas principales: una que es cabeca de la onra, y a esta adoran todos. Este no tiene mas que dar nonbres a los grandes senores, y por ello le dan grand cantidad de dinero. Este no puede poner los pies en tierra , y si por sucede por ventura pone los pies en tierra, y si por ventura pone los pies en tierra es privado dela dinidad. El qual sucede por jeneracion. Y sus criados son muy venerados de todos los japanes, y son onbres rapados que non traem armas. La segunda persona es cabeca de la hidalguia. Este es poco venerado, porque los senores japanes, quando tienen mucho poder, hazense senores absolutos en su tierra. Todavia tiene nonbre de principal senor de la tierra.La tercera cabeca es de las cectas, y esta tanpoco no es en otra cosa venerada sino en le perguntar las dudas que entre ellas ay. Y por esto le tienen algun acatamiento, porque en lo demas cada uno obedece a la cabeca de su secta, que ay dez o doze, aunque la principal es que no ay mas que nacer e morrir, y en este parescer interiormente son todos conformes, aunque esteriormente ensenan otras cosas en quieren semejar mucho la ley de Jesuschristo.”

(日本語訳)
 “この土地(日本)には中心に据えられる人物が3名存在する。1人目は一番名誉とされる人物であり、みなが彼を尊敬する。彼の役割は領主らに対して地位を授けるのみであり、彼に対して領主は金品を与えるのである。彼は一般人と同じ土地を踏んではいけない。仮に踏むようなことがあれば、威厳を失ってしまうことになるのだ。彼の地位は世襲される。彼の家来は日本人の間でとても尊敬されている。彼ら家来は武器を持たず、頭を剃っている。2人目の人物は“貴族”(将軍)である。彼はあまり尊敬されていない。なぜなら日本では各地に領主が存在し、彼らは自らの領内において絶対的な権力を掌握しているからである。3つ目は各宗派である。この者たちは人生に関する人々の疑問に答える以外にはほとんど尊敬などされない。少しばかり大事にされる程度である。人々はそれぞれに自分の宗派に従う。全部でおよそ10か12の宗派が存在する。各宗派の主な教えは生と死に関する以上は何もないようであり、それについてはすべて共通している。しかしながら、外面的にイエス・キリストの法に似ているようなことも教えるようだ。”

 

[史料4]は、トーレスが当時イエズス会の総長の地位にあったディエゴ・ライネス(Diego Lainez、1502-1565)に宛てて送った1561年の書簡である。ここでは名誉に関する内容として、当時において一番に名誉をもった存在について述べられている。その役割が戦国大名などの領主に対して地位を授け、一方で彼らからは金品を受ける存在であり、一般の人々と厳しく区別されることによって威厳を保持し、加えて世襲で交代したといった内容から、この人物が当時の日本における天皇について表したものであると考えられる。
ちなみに、[史料4]では、当時、天皇と同じく中心に据えられた人物として将軍と寺社の存在を挙げている点については注目すべきである。そして、将軍については、戦国時代にあった当時の日本においては全国各地の領主、つまり、いわゆる戦国大名の存在によって将軍に対して人々があまり名誉ある存在として意識されないととらえている。寺社についても、彼らが教えに関すること以外についてはほとんど尊敬はされていなかった様子を伝えているのである。

 

2 日本人の武器に対する価値観

 次に、多くの宣教師らが指摘している内容として、当時の日本人の武器に対する価値観について注目したい。ここでもまずフランシスコ・ザビエルの記述から注目したい。

[史料5]
 “Es gente de muchas cortesias unos cons otros. Precian mucho las armas y confian mucho em ellas. Siemprem traen espadas y punales, y esto todas las gentes, asi hidalgos como gente baxa. De edad de quatorze anos traen ya espada y punal.”

(日本語訳)
 “彼らはお互いに礼儀が正しい民族である。彼らは武器を尊敬し、武器に頼る。常に刀剣と短刀を持ち歩く。これは身分の高い人から低い人すべてに共通する。彼らは14歳から刀剣と短刀を持ち始めるのである。”

[史料6]
 “ … Sao os Japoes gente de muita openiao em lhes parecer que em armas e cavalarias nao hai outros como eles. Gente e que tem em pouco a toda outra gente estrangeira. Prezao muito as armas, tem-as em grande estima, e nenhuma couza tanto se prezao como de ter boas armas muito bem guarnecidas de ouro e prata. Continuadamente trazem espadas e punhaes em casa e for a de casa, e quando dormem as tem a cabeceira.”

(日本語訳)
 “(前略)日本人は馬術と武器に関する数多くの考えをもっており、彼らが自ら自慢するように、彼らほどそれらが上手な民族はいないと思われる。また、彼らは他の民族に対して全く関心をもたない民族である。彼らは武器を大変尊敬し、とても大事に扱う。そして何よりも金銀で飾った武器を持つことを誇りとする。家の中にいる時でも、外にいる時でも普段から刀剣と短刀を保持している。就寝の際には頭の元に置いておくのである。”

[史料7]
 “Confiao mais em armas do que quamta gente tenho visto em minha vida. Sao muito grandes freicheiros. Peleijao a pee aimda que ajao cavalos na terra. He gente de gramde cortesia amtre eles . aimda que com estramgeiros nao husao aquelas cortesias, porque os tem pouco. E vestidos armas e criados gastao tudo o que tem, sem guardar tesouros. Sao muito belicosos e vivem sempre em guerras, e quem mais pode he maior senhor. He gente que tem hum soo rei, porem ha mais de cemto e cimquenta annos que lhe nom obedecem,E por esta causa continuao guerras entre eles.”

(日本語訳)
 “(前略)私がこれまでの人生で見たあらゆる民族の中で、彼ら(日本人)は一番に武器を信用する民族であるだろう。とても上手に弓矢を使用し、馬がいても立ったままで戦うのである。彼らはとても礼義正しいのだが、外国人に対してあまり尊敬はしていないので、外国人に対しては同じように礼儀正しくはしない。貯蓄はせずに、衣類や武器、そして家来に対して財産を全て捧げるのである。非常に好戦的な民族であり、いつも戦争をしているのである。戦争に勝てば勝つほどにより偉大な領主になる。この国では王様は1人しか存在しないが、150年ほど前から彼に従わずに領主同士で戦争を続けている。”

 

 [史料5]は1549年に、ザビエルからゴアに滞在する宣教師らへ宛てられた書簡であり、[史料6][史料7]は、1552年にザビエルからヨーロッパの宣教師たちに対して送られた書簡である。これらの記述においてザビエルは、日本人の礼儀正しさに加えて、馬術や武器といったことに関して非常に多くの知識や意見を抱いていることやその技術の高さに極めて驚きをもって紹介している。また同時に、彼らが身分の高低に関わらず14歳から等しく帯刀し始め、そうした武器に対して極めて誠意をもって接して大事に扱う点や、武器を所持することに誇りを感じ、あらゆる生活状況において武器とともにある状況を興味深く詳述している。日本に訪れる以前に、インドや中国といったあらゆる国々で様々な民族を実際に目にしてきたザビエルが、以上のような日本人の武器への姿勢が、あらゆる民族の中で一番であると指摘している点は非常に注目できる。

 さらに、これは当然、当時の日本が戦国時代という状況にあったことによるものと思われるが、領主の金銭感覚について彼らが貯蓄よりも衣類、武器、家来などに対して財産を回した様子や、彼らが戦いを好んで日常的に戦争をしていた様子をザビエルの記述から窺うことができる。一方で、そうした戦争状況において他民族に対して日本人が全く関心をもたなかったというザビエルの記述はその信憑性は問題となるが、実に興味深いのでここであえて述べておきたい。
こうした日本人の武器に対する姿勢については、バルタザール・ガゴも次のように書き残している。

 

[史料8]
 “Tem duas cousas principais que esmerao, que he huma a honrra e outra as armas. (…) Istimao em grande maneira as armas, e se algum, por desastre, ao pasar aserta de pasar e tocar no rabo ou couteira da espada, torna presto atras e toca com a mao onde tocou com o corpo ou vestido, e poem-na na mao e na cabeca huma e duas vezes. E com isto satisfaz ao nao ter tento ao pasar e tocar na espada dalguem.”

(日本語訳)
 “彼らには主に2つのことを大事にする。1つは名誉。もう1つが武器である。(中略)彼らは武器をとても大事する。もし誰かが通行の際に気をつけずに他人の鞘の鐺や柄に触れてしまったならば、何歩か後ずさりして自分のぶつかったところに触れて、自らの手と頭を1、2回そえるのである。他人の刀に触れた場合、この行為によって解決できる。”

[史料9]
 “De mininos se criao com armas, e as trazem sempre. Se huma espada e velha e de huns certos mestres antigos, dao quanto tem, e quaoto lhe pedem,por ella.”

(日本語訳)
 “子どもたちは幼いころから武器とともに育てられる。彼ら日本人は常に武器を持ち歩き、もし、昔の達人の古い刀があった場合にはいくら高くとも払うことを惜しまない。”

 

 [史料8][史料9]はともにガゴがポルトガルの宣教師たちへ宛てた書簡であるが、この中でガゴは日本人について、名誉とともに大事にするものについて武器を挙げている。日本人が武器をかけがえのないものとして大切に扱い、十分に敬意を持って接していたことを紹介している。当時の日本人にとって武器というものは、幼いころから生涯にわたってともにあるものであり、価値の高い武器に巡りあえた場合にはどんな苦労も惜しまない貴重なものであったとするガゴの記述に表れた日本人の姿は非常に興味深い。
また、コスメ・デ・トーレスも同様に日本人の武器に関して以下の[史料10][史料11]のように記述している。

 

[史料10]
 “Estes japoes sao de altos coracoes e confiados em as armas. Os mancebos de treza annos para cima logo trazem tracados e punhaes sem nunqua os tirar. E sam os maiores frecheiros que eu tenho visto em este mundo. Sao homens que todas as gentes do mundo tem em pouco.”

(日本語訳)
 “ 日本人は勇敢で自尊心が高くとても武器を信用している。若者たちは13歳から刀剣と短刀を脱がずにずっと帯に差している。この世の中で私が見てきた中では一番上手な弓矢使いであるといえる。世界においてこのような男たちはめったにいない。”

[史料11]
 “Los moradores della es gente belicosa. Y el principal idolo que adoran es la onra,
Y por esta mueren y se matan muchos a si mesmos, quando se parece que la pierdem.. Y por ella dexan de hazer muchos pecados y cosas feas, y onran a sus padres y tienen lealdade a sus amigos.”

(日本語訳)
 “ 日本に住んでいる人々はとても好戦的である。偶像などよりも名誉のほうを大事にする。もし名誉を失った場合には自決する者が多い。名誉のために死を選ぶのである。名誉のために悪い態度や犯罪を決して行うことはなく、親を大事にして、友人にもとても忠実である。”

 

 [史料10]は1551年9月29日にゴアに滞在する宣教師たちへ、そして[史料11]は1561年10月8日に当時のイエズス会総長ディエゴ・ライネスへ宛てられた書簡である。トーレスも同様に当時の日本人の勇敢さや自尊心について極めて高く評価しており、彼らの武器に対する信頼の高さについても感心している。日本の若者たちが、13歳から長短2本の刀を帯刀し、同時に大変巧みに弓矢を扱うことを世界的にみて非常に高い水準にあることを強調している。当時の日本人がもっていた武器に関する高い技術について、世界中で最も優れていると評価したトーレスの視点も非常に興味深い。また、彼らの性格として、非常に好戦的であり何よりもまず名誉に絶対の価値を置いていたことを紹介している。彼らがもし名誉を失った場合には自決、つまり切腹によって自ら名誉のために死を選ぶ行為がトーレスにとっては大変衝撃的であったのだろう。この日本人の名誉を重んじる行為こそが、彼らの間で悪態や犯罪の抑止、親への忠孝や友への忠誠の基盤となっていたという評価も当時の日本人の意識を知る上では非常に興味深い。

 次に、以上の書簡の中でも指摘されていた日本人の間での犯罪抑止、つまり、当時の日本における法規範について、宣教師たちの目にはどのように映っただろうか。以下に当時の日本の犯罪の様子とそれに対する規範意識について詳しくみたい。

 

3 日本人の規範意識

 まず、フランシスコ・ザビエルによる書簡の中から注目したのが、次の[史料12][史料13]である。

[史料12]
 “Es gente sobria en el comer, aunque en el beber son algus tanto largos. Y beben vino de arroz. Sao hombres que nunca juegan, porque les parece que es grande deshonrra, pues los que juegan dessean lo que no es suyo e dai pueden venir a ser ladrones. Juran poco, y cuando juran es por el sol.”

(日本語訳)
 “彼ら(日本人)はとても控えめに食事をするが、よく米酒を飲む。なぜならこの周辺に
葡萄畑がないからである。彼らは博打などを決して行わない。これは彼らの間で博打はとても不名誉なものとして認識されているからである。彼らにとって博打をする人はとても汚い存在で、すぐ泥棒になる可能性が高いと考えられている。神に誓って約束事を交わすことはあまりしないようだが、彼らの場合、約束を交わす必要があれば、太陽に誓って交わすようだ。”

[史料13]
 “Mucha parte de la gente sabe ler y escrebir, que es un grande medio para con brevedad aprender las oraciones y las cosas de Dios . No tienen mas que uma muger. Terra es donde ay pocos ladrones , y esto por la mucha justicia que hazen en los que allan que lo son, porque a ninguno dan vida. Aborreceles mucho en grande manera este vicio de el hurtar. Es gente de muy buena voluntad, muy conversabile y desseosa de saber. Huelgan mucho de oir cosas de Dios, principalmente quando las entenden. De quantas tierras tengo vistas en mi vida, asi de los que son christianos como de los que no lo son, nunca vi gente tan fiel acerca del hurtar.”

(日本語訳)
 “人々の大半が読み書きの能力を備えている。それは祈りと神の法を理解するのにとても便利である。彼らは妻を1人以上もたない。ここの土地では泥棒が少ない。なぜなら、泥棒として訴えられる者がいれば、その人は決して生かされることがないからである。人々は泥棒に対して厳しく対処し、彼らにとって盗むことは決して許しがたい行為とされている。彼らは意欲に溢れた人々である。大変話しやすい人々で好奇心が旺盛である。神について話を聞くことが好きであり、とくに彼らが理解できる話については非常に好意的である。今まで私が見てきたあらゆる民族の中で、それがたとえキリスト教徒であろうと、なかろうとも、窃盗に関しては日本人こそ一番徹底して厳しいのである。”

 

 ザビエルが1549年11月5日にゴアに滞在する宣教師らへ宛てた書簡から抜粋したのが[史料12][史料13]である。ここではまず、日本人が大変慎ましく食事をする様子や、彼らが好んで米酒を飲んでいた様子を捉えて記述しているが、特にここで注目すべきなのが、彼らが博打行為などを全く行わないことに対して非常に驚きをもって記述していることである。博打に手を染めない日本人の性質についてザビエルは、当時の日本人の間で博打に対して極めて不名誉なものであるという認識や、博打行為をするような者はすぐ犯罪者になりうるという規範意識を共有していたことによると分析している。

 こうした規範意識に関しては、日本における泥棒の数の少なさについて特に注目しており、泥棒として訴求される者がいた場合に極めて厳格に処分されるとしており、こうした日本人の法規範の水準のレベルをザビエルは世界的に比較して極めて高く評価しているのである。次に、コスメ・デ・トーレスの記述から同様にみていきたい。

 

[史料14]
 “Tem muita linda conversacao, que parece que todos elles se criarao em pacos de grandes senores. Os comprimentos que tem huns a outros he impossivel poder escrever. Murmurao pouco de seus proximos, e a nenhum tem emveja. Nao sao jugadores. Assim matao por jurgar ou furtar. (…) se ouvera de escrever todalas boas partes que falar deles, ainda faltara tinta e papel que material.”

(日本語訳)
 “ 彼ら(日本人)の喋り方は極めて丁寧である。どうやら彼らは偉大な領主の土地において育てられたらしい。彼らが互いに交わす挨拶もとても描写できることができないほどに丁寧である。彼らは他人の話をあまりしないし、他人を羨むこともない。さらに彼らは博打もしない。もし博打や窃盗をしたならば、その者は死刑を宣告されるのである。(中略)もしこれ以上に日本人に関して彼らの良いところを記す必要があるのならば、もはやインクと紙が足りないほどではないだろうか。”

[史料15]
 “(…) Tanto matao por furtar hum real como cem mil. Porque dizem que quem faz hum cesto fara cento se tiver lugar e aparelho para isso.”

(日本語訳)
 “(前略)たとえを盗んだとしても、また10万を盗んだとしても、盗みを働いた者は同じように死刑に処される。これは1を盗んだ者というのはきっかけさえあれば、10万を盗むからと言われるからである。”

 

 [史料14][史料15]は、ともに1551年9月29日にゴアの宣教師たちに宛てられた書簡であるが、これによればトーレスも同様に日本人の規範意識の高さについて興味をもって記述している。トーレスは、当時の日本人の所作が極めて丁寧であることを大変高く評価し、他人に対して嫉妬心をもつこともない非常に素直な民族であることを強調している。ザビエルの評価と同様に、日本人が博打や窃盗といった犯罪に非常に徹底して厳罰に処するようにしている事実を述べており、特に窃盗について、盗んだ物の程度が大小あったとしても、窃盗という行為自体の責任を追及し、すべて一律に死刑をもって償わせるべきとみなしていたという記述は、当時の日本人の意識をよく表すものとして非常に面白い。こうしたザビエル、トーレスという2人の宣教師の記述によって、当時の日本人の規範意識の高さが世界的にみても極めて優れたものであったということができるのではないだろうか。

 

4 豊かな日本人の姿

 最後に、上述の他に当時の日本人の性格を表す記述として以下に何点か挙げたい。まず、バルタザール・ガゴによって1562年12月10日にポルトガルの宣教師たちに宛てられた書簡から抜粋したものが次の[史料16][史料17][史料18]である。

[史料16]
 “Tem uma cousa por fundamento: ainda que seja huma minima cousa nao a determinao sem chamarem a conselho velhos esprementados.”

(日本語訳)
 “基礎的なことが1つある。それは、たとえ小さなことであっても年寄に相談することなしに物事を決めないのである。”

[史料17]
 “Tem por custume entre todos se hum fas por outro qualquer cousa, por pequena que seia, he tanto o agradecimento que sobre iso amostrao que nao se pode crer. E se hum de nos lhe faz qualquer beneficio ou visitacao ou lhe aceitao o seu jantar, vem o principal a igreja a dar as gracas. E ainda os parentes jintios folgao tanto que vem a casa e resumen o que lhe fizerao a fulano seu parente,que o tem muito em merce, que nao somente pera a outra vida mas que para esta lhe somos proveitosos.”

(日本語訳)
 “彼らの習慣として、彼らはお互いに願いが叶った場合には、彼らは叶えてくれた相手に対して信じられないほどに深々と感謝の意を述べる。もし私たちが1人でも何かを彼らにしてあげたならば、もしくは、彼らの下へ訪問したり、彼らが勧めるごちそうを喜んでいただいた場合、その家父長は教会にまでやってきて感謝を述べるのである。そればかりではなく、その親戚たちも同じように大変喜び、誰かの家へ行って私たちの施しを喜んで語るのだ。我々が死後のみならず現世においても役に立つのだと。”

[史料18]
 “Quando alguns vem a casa a ajudar em cousa necessaria ten-se nisto muito talento, e tem hum cuidado de avisar o padre antes que se vao a noite pera lhe dizer humilmente e com rosto alegre , scilicet, , , repitindo estas palavras muitas vezes porque se nisto aj esquecimento fiquao muito tristes e desconsolados, e o sentem mais que ho trabalho do dia que pasarao.”

(日本語訳)
 “人々はよく教会へ手伝いに来てくれる。その際に彼らはとても気を遣い、夜に帰宅する際には必ず、喜んだ顔で腰を低くしながらいつも私のような神父に対して“ゴシンローデオンジャル”、要するに、“良く働いてくれた”、“あなたは私にとって大事な人“という意味の言葉を何度も繰り返すのである。仮に私がそれを忘れたものなら、人々はみなその日の仕事の苦労よりも悲しむのである。”

 

 [史料16][史料17][史料18]にはガゴによってとらえられた当時の日本人の姿が非常に豊かに浮かび上がる。[史料16]では、当時の日本人がどんなに小さいことでも年配の者に相談して物事を決める様子が述べられている。続いて[史料17]では、元々の日本人の習慣として、彼らの間ではお互いに何かをしてもらった際にはその行為をしてくれた相手に対して深く感謝し合うという行為について非常に驚きをもって紹介している。そして、宣教師も彼らに対して何かを施してあげた場合に、その家父長が感謝を伝えるために教会にまでわざわざやってくる様子やその親戚らが同様に大いに喜んで近所に伝え合う様子を紹介している。ここでガゴ自身は、こうした日本人の行為について、宣教師が当時の日本の宗教とは異なって現世における救済を謳っていることによるものだと分析しているが、こうした日本人の行為はまさに珍しく当時の宣教師らの目に映ったに違いない。そして、[史料18]では、日本人が教会へ訪れた様子について述べられている。日本人はどうやら当時、手伝いとして頻繁に教会へ奉仕していたようであり、そうした中で日本人がよく気遣いをする様子や、帰宅の際には必ず神父を務めていたガゴに対して、「ご心労でおじゃる」(“ゴシンローデオンジャル”)という言葉を何とか返してもらおうと連呼する様子も述べられており、当時のおける宣教師と日本人との交流の様子がまさに生き生きと伝わってくる点でも非常に興味深い。

 日本人の性格を表す宣教師の記述として、最後にコスメ・デ・トーレスの記述[史料19]とザビエルの手紙を[史料20]として以下に挙げたい。

 

[史料19]
 “Estes japaes sao mais aparelhados pera que em elles se plante nossa santa fee que todas as gentes do mundo. Sao discretos quanto se pode cuidar. Governao-se pola rezao tanto ou mais que os espanhoes. Sao curiosos de saber mais que quantas gentes eu tenho conhecido, e de praticar de que que maneira salvarao suas almas e servirao e quem os criou. Em todo decuberto nao ha homens de sua maneira”

(日本語訳)
 “日本人は世界中で一番キリスト教徒として適応できそうな民族である。というのも、彼らはとても賢く、スペイン人のように理想的に(自分を)おさめることができる。私が知っているあらゆる民族の中でも彼ら日本人が最も好奇心が強く、何でも知りたがるのである。彼らはどうすれば自らの魂が救われるのか、その方法を知りたがり、また創造主についても色々知りたがる。世界中に彼らのような民族はいないのである。”

[史料20]Xavier1548年1月20日
 “Pergunte a Angero,si yo fuesse con el a su tierra, si se harian christanos los de Japon. Respondiome que los de su tierra no se harian christianos luego, dizendome que los de mero mi farian muchas preguntas y verian lo que que les respondia y lo que yo entendia, sobre todo si vivia conforme a lo que hablava. Y si hizesse dos cosas, hablar bien y satisfazer a sus perguntas y bivir sin que me hallassen en que me reprehender , que en medio ano, despues que tuviessen experiencia de mi, el rey y la gente noble y toda la otra gente de descricion le harian cristianos, dizendo que ellos no son gentes que se rigen sino por razon.”

(日本語訳)
 “私はアンジローに、もし彼の土地(日本)に行ったら、日本人はキリシタンになるかと聞いた。彼(アンジロー)はすぐに、皆はキリシタンにならないと答えた。「先ず、皆は私に質問を沢山し、私の答えと理解力によって、判断をする。特に、皆に教えることが自分の送っている生活と一致するかどうかで判断する。もし、丁寧に話し、そして皆の質問にきちんと答えるなら、半年で私のことをよく知った後、王様、貴族、そして一般の人も、皆がキリシタンになる。日本人はとても理性的な民族だ」と言った。”

 

 [史料19]は、トーレスによる、1551年9月29日にゴアの宣教師たちに宛てられた書簡である。ここでトーレスは日本人の特徴として、彼らが世界中で最もキリスト教徒として適応できる民族であるとして注目する。その根拠として、日本人の聡明さや(スペイン人であったトーレスが)自分たちと同じように理想的な政治秩序を実現できることを挙げている。加えて、日本人が極めて強い好奇心の持ち主であることを、世界に比較して、高い評価を下しているのである。

 [史料20]は、ザビエルによる1548年1月20日にローマイエズス会宛の手紙である。アンジローの出会いと日本人の国民性について、詳しく書いてある。アンジローは鹿児島出身の貿易商人と思われる。ある時彼は人を殺し、役人に追われたところ、ポルトガル人の友人の勧めで、日本脱出を決意し、ポルトガル人船長アルヴァレス(Jorge Alvares)の援助でマラッカへやってきた。アルヴァレスの紹介でアンジローはザビエルと出会い、ザビエルにキリスト教の初歩を教えた。アンジローに日本の布教の可能性を聞くと、「日本人は理性のみによって導かれる人々である」と答えた。彼の知的好奇心の強さや理性的な態度がアンジロー個人だけのものなのか、日本人一般に共通するものなのかを確かめるために、ザビエルは日本帰りで信頼のおけるポルトガル人に尋ねた。彼らが「日本人はインドの異教徒には見られないほど、旺盛な好奇心がある」とか「日本人は理性豊かである」というのを聞き、ザビエルは日本布教を決意した。そしてアンジローを将来の日本布教要員として養成するために、ゴアの神学校聖信学院(Colegio de Santa Fe)に派遣した。

 次節以降においては、こうした世界的にみてもキリスト教布教にふさわしい当時の日本において宣教師らがどのように日本の宗教を捉え、布教活動を展開していったかみていきたい。

 

第2節 宣教師のみた日本人の宗教

 ここでは、当時の宣教師らのみた日本の様相について、布教を目的にして来日した彼ら宣教師が特に注目したであろう日本の宗教に関する記述を抽出し、宣教師らが当時の日本の宗教についてどのように認識したかをみていきたい。
 まず、フランシスコ・ザビエルによって伝えられた日本の宗教のあり様をみていくことにしたい。ザビエルは、1552年1月29日にヨーロッパの宣教師へ宛てて、自らの日本での滞在に関する報告をしたが、そこでは日本の宗教に関しても非常に多くの所感を述べた。それが次の[史料20][史料21]である。

 

[史料20]
 “Há nove maneiras de lendas, differentes humas das outras das outras. Assim homens como mulheres, cada um segundo a sua vontade, escolhe a lenda que quer. A ninguém constrangem que seja mais de uma seita que de outra. De maneira que há casas em que o marido é duma seita e a mulher de outra e os filhos de outra. Isto não se estranha entre eles, porque cada um escolhe à sua vontade. Há diferenças entre ele e porfias em parecer-lhes que umas são melhores que outras e sobre isto muitas vezes há guerras.”

(日本語訳)
 “この土地には(日本には)9つの宗派があってそのそれぞれが異なったものである。そのため、女性や男性の別なく、自分にとってふさわしい神話を選ぶのである。同じ家庭にあっても、夫と妻、子供たちとで違う宗派に従う場合も多い。家族でそれぞれ自由に好きな宗派を選ぶことが認められているのである。日本の様々な宗派の中で、どれらがより優れているかをめぐっての争いが頻発し、そのため宗教的な戦争がしばしば行われる。”

[史料20]
 ”Nenhumas destas nove seitas falam na criação do mundo nem das almas. Todos d izem que há inferno e paraíso; porém, ninguém explica que coisa é paraíso, nem menos por cuja ordenação e mandado vão as almas para o inferno. Estas seitas somente tratam que os homens que as fizeram foram de grandes penitências – a saber, de mil e dois mil e três mil anos – e que, estas penitências que fizeram, era havendo respeito à perdição de muita gente que não fazia nenhuma penitência dos seus pecados; e que, por respeito destes, faziam eles tanta penitência para que lhes ficasse algum remédio.”

(日本語訳)
 “これら9つの宗派のどれをとっても、世界の創造と人間の霊についての論説は見られないようである。天国と地獄の存在は認められているようだが、それについて詳しく説明はなされず、なぜ霊は地獄へ行くのかという理由についてもほどんど説明ができないようである。基本的に諸宗派それぞれが2、3000年前において全く罪を悔悟せずに、人間のために自らを犠牲した聖人について語っている。”

 

 [史料20][史料21]によれば、報告書の中でザビエルは日本における様々な仏教の宗派について述べている。彼は当時の日本において9つの宗派の存在をみているが、宗派の数については当時の主要な宗派、つまり、天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗といった8つの宗派を誤解して9つとしたのではないだろうか。
 この段階においては、ザビエルを始めとした宣教師は、仏教としての統一的な概念をまだ正確には把握しておらず、これら諸宗派については全く別の宗教として認識し、それぞれに自らの教訓と信仰すべき神様が存在すると考えていたようである。
 ここではとりわけ、当時の日本においては同じ家族にあっても決して争うことなく異なる宗派を自由に信じることが認められていた点をザビエルが指摘しているのは興味深い。

 

[史料22]
 “…Tem eles escrituras de homens que fizerao grandes penitencia, cujos nomes sao Xaca e Ameda e outros muitos. Porem os mais primcipais sao Xaca e Ameda.”

(日本語訳)
 “(前略)彼ら(日本人)は数多く苦行を重ねた人物を描いた紙面を所持する。その人物の名前はどうやら“シャカ”(釈迦)と“アメダ”(阿弥陀)というようだ。これらの他にも偶像はたくさん存在するようだが、最も人々に崇拝されるのはこの“シャカ”と“アメダ”のようである。”

[史料23]
 “Ha nestas terras muitas maneiras de idolatrias. Alguns ha que adorao hum idolo que se chama Xaca. Dizem que este naceo oitocentas vezes antes que nacesse de mulher e que servio as gentes antes de nacer de sua mai, pera se fazer santo, mil annos , trazendo lenha e agoa e outras cousas necessarias pera servico dos homens. E este he o mais principal que estes adorao, porque dizem que este declarou as leis passadas…”

(日本語訳)
 “この土地(日本)には偶像崇拝のやり方が沢山ある。彼らは“シャカ”(釈迦)という偶像を崇拝する。この釈迦という者は、母親から生まれてくる前に、800回(ママ)生まれ変わったと言われているようだ。彼は聖人になるために、母親から生まれる前の1000年間も、世上の人々のために薪や水などのような生活に必要な物を与えた続けたという。”

 

 [史料22]は1552年1月29日にヨーロッパの宣教師たちに対して宛てた書簡である。ここから当時の日本人が信仰する釈迦や阿弥陀如来を描いた肖像画を紙面として所持していた様子が分かる。こうした人々の偶像崇拝の様子は、ザビエルが[史料23]で取り上げたように指摘するのみならず、他の宣教師らの記述にも散見されるが、ここではコスメ・デ・トーレスの記述を[史料24]として挙げる。[史料24]は、1551年9月29日にゴアの宣教師たちに宛てた書簡であるが、彼は当時出会った日本人から信仰する偶像についてなど数多くの実態を綿密に調べ上げ理解を図った上で、キリスト教の布教活動を展開していくのである。ここで彼ら宣教師らが、日本での布教を行っていくに際してとりわけ強調した点に関して興味深い記述を挙げたい。
 宣教師らは日本における布教活動を積極的に展開していく原動力の1つとして、日本列島、全国各地に通じうる1つの言葉の存在を挙げているのである。例えば、フランシスコ・ザビエルは1552年1月29日にヨーロッパ宛ての手紙において以下ののように述べた。

 

[史料24]
 “Esta terra de Japao he muito grande em estremo.Sao ilhas. Em toda esta terra nao ha mais que uma limgoa. Ha oito ou nove annos que farao descubertas estas ilhes de Japao pelos portugueses…”

(日本語訳)
 “この日本という国はとても大きい島国である。そして全国には1つの言語しかない。この日本列島は、8、9年前にポルトガル人によって発見された(後略)”

 

 [史料24]によれば、ザビエルは日本が1つの島国であると紹介し、さらにそこに居住する日本人について、彼らが全国的に等しく同一の言語を使用していることを強調している。だがここで日本の言語について考えた場合に、日本の各地域によって少しずつ言葉が異なっているという問題、つまり、方言の存在という問題を挙げることができる。当時においても当然この方言は存在したはずにもかかわらず、なぜ彼は“1つの言葉”という表現によって報告したのであろうか。
 この問題について、ガスパル・ヴィレラの書簡を使用して分析した神田千里氏によれば、ヴィレラも同様に当時の日本が“1つの言葉”と表現した点を指摘し、彼がこのように表現したのは、「『最も主要でどれよりも洗練された京都』の『宮廷』、すなわち、将軍御所の言葉であり、それが説教や告解に用いられるように、宗教に関する言葉として、日本のいわば公用語の地位を得ていた」のではないかと指摘している。ヴィレラは日本にも祖国ポルトガルと同様に「都の宮庭」で話される公用語があると考え、それが日本の各地で例外なく通用する「一つの言葉」と見えたのではないかと考察している。もちろん神田の指摘するように、京都で使用された言語を公用語として認識したという評価も一見理解できよう。しかし、ここで紹介したザビエルは、神田氏がその論拠として挙げたヴィレラとは異なり、日本の九州、山口、そして岩国までは訪れたものの京都までは至っていない。そのようなザビエルが日本の言語について「1つの言語」と言及していた点についてはより積極的に評価を加えてもよいのではないだろうか。つまり、当時の日本においては、方言の違いという一見すると限界を抱えた社会であったとみるのではなく、キリスト教の布教にとってよりふさわしい条件が整っていたとみることはではないだろうか。
 ここで、この点についてさらに考察を深めるために宣教師らによる日本と中国の比較を行った記述に注目したい。

 

[史料25]
 “Depois de muito tempo vierao as letras da China, e o primeiro liovro veio da china. Daqui tomarao huns caracteres de que fizerao letra como se entendem mui facilmente e com as letras da China lhe veo os livros das sortes e feiticos e de fazerem mezinhas.”

(日本語訳)
 “長い年月とともに“シナ”から文字がやって来た。そして初めての書物も“シナ”からやってきた。その本からいくつかの漢字が抜き出され、分かりやすい文字が作られた。“魔法”や呪術の本も、そして薬の作り方が記載された本も“シナ”からやってきた。”

[史料26]
 “Nos custumes da adoracao e en todo o mais he tam diferente este Japao da China como do ceo a terra estando tao perto e vindo de la as ceitas. Os chins ofrecem animaes mortos e limpos aos seu idolos, e infindos feiticos que fazem, e sao a cousa viva que nao comao. Oshuma japoes leva-os per outras delicadezas, por cheiros e perfumes que oferecem prostrados por terra com muita devocao….”

(日本語訳)
 “崇拝に関する習慣は、たとえ日本と“シナ”が近くても、また、“シナ”の影響が多くても、まるで天と地のように“シナ”と日本人の崇拝のやり方と習慣はかなり違うものである。“シナ”は自分たちの偶像に対して汚れなく死んだ動物を捧げ、“魔法”を使う。そして、頻繁に豚肉などいろんな種類の動物を食べる。彼らにとって食べられない生き物はないのである。一方で、日本人の場合は崇拝の方法はより繊細である。熱心に土下座をしながら、色々な“香り”を捧げる。そして食事もかなり繊細であり、普段は肉と魚を食べないのである。”

 

[史料25][史料26]は、バルタザール・ガゴがポルトガルの宣教師たちに宛てた書簡である。ガゴによれば、日本の文字などの文化や宗教といったものがもともと中国から伝来したものであるとしながらも、両国の間における宗教や文化といったものが全く違ったものであったと述べている。中国や日本などあらゆる国々において様々な人々の習慣を目の当たりにしたガゴだからこそこうした比較的な記述が可能であったのである。とりわけ、日本人が汚れないことに価値を置き、繊細さや熱心さを挙げている点は注目できる。ここに先に挙げたキリスト教布教の適合性に関して、日本人ならではの特殊性を見ることができるのではないだろうか。
 さて、ここでまた宣教師らがみた日本の宗教の様相について、次に彼らが出会った日本の僧侶に関する記述から注目してみたい。

 

[史料27]
 “…E estes bonzos pregao ao povo de si mesmos que sao samtos, porque guardao os cimquo mandamentos. E mais pregao, que os pobres nam tem nehum remedio para sair do infferno por quanto nam tem esmola que dar aos bonzos.”

(日本語訳)
 “(前略)この僧侶たちは自らが聖人であると人々へ宣言する。その根拠については彼ら自身が5つの掟を守るからだと説明する。また、貧しい人は地獄から救われる方法がないと述べる。なぜなら僧侶たちに対して寄付を与えないからだという。”

[史料28]
 “…E dao por rezao que cada molher tem mais pecados do que tem todos os homens do mundo por causa da purgacao, dizemdo que cousa tao suja como molher difficultosamente se pode salvar. E porem vem por muitas esmolas, mais que os homens, que sempre lhes fiqua remedio pera sair do inferno.”

(日本語訳)
 “(中略)そして、(坊主達は)女性が男性よりも罪多き存在であると述べる。なぜなら生理があるから。生理ほど汚れたものはなく、それによって女性への救いはとても難しいと主張する。そのためより高い金額を求められるために、男性よりも女性の方が寄付が多い。これが地獄から救われる方法とされている。”

[史料29]
 “Antigamente os bonzos e bonzas que nao guardavao os cinquo mandamentos matavao-os. Cortavao-lhes as cabecas os senhores da terra, scilicet,por fornicar, comer cousa que padeca morte, ou matar, furtar, mentir e beber vinho.Agora ja a letra entre eles vai muito corrupta, porque publicamente bomzos e bonzas bebem vinho, comem peixe escondidamente, verdade nao sei quando falao, fornicao publicamente.”

(日本語訳)
 “昔、5つの掟を守らない僧侶と尼がその領主によって斬首の刑に処された。つまりこれは淫乱、食肉、殺人・窃盗、虚言、飲酒といった5つの掟が現在のところ全く守られていないことを意味し、僧侶と尼が飲酒をし、隠れて魚を食べ、簡単に嘘をつき、公衆の面前で恥ずかしがらずに淫らな行為に及ぶのである。”

[史料30]
“As freiras sao muito visitadas dos bomzos todas as horas do dia.Tambem as freiras visitao os mosteiros dos bomzos Tudo isto parece muito mal ao povo.(…)”

(日本語訳)
“尼は1日の何時間でも坊主に尋ねられる。そして、尼も坊主たちを訪ねる。人々はそれを良い目では見ない。”

 

 以上の[史料27]から[史料30]は、ザビエルがヨーロッパの宣教師たちに宛てた書簡であるが、ここでは痛切に当時の腐敗した僧侶の実態について紹介している。
当時の社会に置いて僧侶たちは自らが淫乱、食肉、殺人・窃盗、虚言、飲酒といった行為を決してしないという5つの掟を守ることを論拠として自らが聖人であることを主張していた。そして、自分たちへ寄付をする行為こそ地獄から救済されるのだと説き、そうした寄付行為を行うことのできない貧者こそ地獄から救済されることはできないと脅迫していた様子が分かる。また僧侶らは、貧者と同様に女性を救済が難しい存在としてみなし、彼女らから高い金額の寄付を獲得していたようである。
 同時に当時の僧侶らが、先に挙げた5つの掟を全く遵守していない状況を述べているのも注目すべきである。こうした僧侶らの悪態についてはコスメ・デ・トーレスも同様に、1551年9月29日にゴアの宣教師たちに宛てた書簡において、掟を遵守せず、そして儲けを至上として自らの信者たちを騙す僧侶の実態を下記のように報告した。

 

[史料31]
 “Outras cousas muitas lhes dao aentender para serem adorados e tidos em muitoem este mundo, dizendo-lhes tambem que nao comao cousa nenhuma que tenha sangue. E isto he asi verdade, que publicamente nem carne nem pescado comem, porque se el-rei da terra o sabe, lhe tira os mosteiros e os castiga. E por causa que nao na comem publicamente, mas comem-na em secreto. E outras cousas mui maas fazem em secreto e em publico.”

(日本語訳)
 “(前略(僧侶たちが)人々を騙す手口の1つとして、彼らが世上で大いに尊敬されるために、自らが血のある物(動物)を食べないこと人々に対して主張する。一応のところそれは真実のように見える。なぜなら、もし人々の前で彼らが肉や魚を食べているのをその土地の王様(大名)にばれてしまったものなら、その寺社は没収され、僧侶らは罰されてしまう。だが彼らは、人々の前では食べないようだが、実際のところどうやら隠れて食べているようだ。”

[史料32]
 “Muitas outras maneiras ha que tem semeadas os padres da terra, todas para tirar dinheiro dos seculares,dando-lhes a entender que se em este mundo lhes derem muitos dinheiros, que eles lhos tornarao em outro. E por esta causa nao dao esmola senao aos padres riquos porque tenhao despois da morte com que lhes pagar em o outro mundo. E tambem lhes dao a entender que qualquer alma que levar a sedula dos padres deste mundo pera outro, os demonios a deixarao passar sem lhe fazer algum dano.E estas cedulas custao muito dinheiro, e os mais dos seculares, antes que morrao, as tomao.”

(日本語訳)
 “人々のお金を奪うための僧侶たち悪行はたくさんある。僧侶は人々に対して、もし世上で自分に寄付をたくさんすれば、他界した後にその寄付してくれた分を必ず返すと述べる。人々は金持ちの僧侶にばかり寄付をするようだ。なぜなら、金持ちの僧侶の方が他界した後に確実に返金してくれるからと考えているからである。僧侶たちの札を他界に持っていけば、悪鬼らが害せずに通してくれる。その札はとても高いが、人々は死ぬ前にその札を買う。”

 

 [史料31][史料32]によれば、当時の僧侶たちが人々から尊敬の念を獲得するために、自らが動物を食べないこと人々に対して主張していたにもかかわらず、実は公衆の面前以外のところで隠れて掟を破っていたという実態を記している。また、僧侶たちが人々の金銭を奪うために、人々に対してもし世上で自分に寄付をたくさんしたならば、他界後にそ必ず返すという名目で多くの金銭を集積していた様子が述べられている。こういった僧侶の行為に対して人々もそれを信じ、少しでも死後の救済を得ようと僧侶たちに多額の金銭を寄付していたようである。当時日本に訪れたトーレスを始めとした宣教師らにとっては、こうした行為を罷り通らせていた僧侶を徹底的に批判し、自らが展開するキリスト教布教の原動力へと変えていったのである。
  山伏と真言宗との出会いも、宣教師の書簡に詳しく記してある。キリスト教徒の先入観を持った宣教師達が、日本の色々な宗派の中で、当時盛んであった真言宗、従って山伏が一番厳しく批判された。頻繁に「直接悪魔を崇拝する僧侶達」のような記述などが書簡に見つけられる。先ずヴィレラによる1557年10月29日、ポルトガルの宣教師達宛ての書簡を例として挙げたい。

 

[史料33]
 “Ha qua alguns que adoram ao demonio, e quando querem tomar este officio vao-se a humas serras altas e alli esperao ho demonio por muitos dias ate que por derradeiro o demonio lhe aparece na figura que querem. Chamao-se estes Jamanguexe,que quer dizer soldados de oiteiro. Estes quando se querem agraduar dos sanctos fazem grandes penitencias, scilicet, estao em pe sem dormir, e comem muito pouquo, e asi estao pregando. Aos quaes lhe dao muita esmola, e por derradeiro, a cabo de 2 ou 3meses, quando o demonio lhe diz que abasta, tomao huma embarcacao piquena, ele e os que o querem seguir, com todo o dinheiro que lhe foi dado d’esmola, se vai ao meio do mar e da furo aa embarcacao e van-se ao inferno. Destes ha muitos, e muitas maneiras de penitencias que fazem, tudo por engano do demonio.”

(日本語翻訳)
 “何人もの人が悪魔を賛美する。賛美したいときには高い山に登る。悪魔が望まれた形で現れるまで、数日の間山に篭る。そういった悪魔を賛美する人はヤマンゲシェ、(筆者注:山伏のこと)と呼ばれる。それは、「山の武士」という意味である。彼らは自分の聖人(筆者注:菩薩のこと)を賛美したいとき、厳しいペニテンシア(筆者注:禁欲的な修行のこと)をし、殆ど寝ず食わずの状態で、そのまま自分の信仰を広めている。2,3ヶ月間、いつも寄付を沢山貰い、悪魔に“もうよい”と言われるときに、彼らは寄付として貰ったお金と共に小船に乗る。海の沖に辿り着くと、小船に穴を開け、沈没をさせながら真っ直ぐ地獄へ向かう。ペ二テンシアのやり方が様々あるのだが、すべては悪魔の誤魔化しによる。”

 

 [史料33]では、ヴィレラが山伏の修行を説明し、そして観音浄土を目指す補陀落渡海についても説明している。補陀落渡海とは、観音浄土への往生を目的として生きながら屋形船に閉じ込めて海に流す儀礼で、熊野の補陀洛山寺の前の浜で行われていた。仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀洛(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。

 

[史料34] 
 “Los que adoram el sol y la luna adoran tambien un idolo a quien llaman Denix, el qual pintan com tres cabecas, y dizen que es la fuerca del sol y la luna y de los elementos. Estos adoram tambien al demonio en su figura, haziendole muchos sacrificios y mui costosos, y muchas vezes lo ven visiblemente”

(日本語翻訳)
 “太陽と月を崇拝する(僧侶)がデニシ(大日)と言う偶像も崇拝する。この偶像を描く時、三頭のような形で書き、太陽、月、そして五大の力を象徴すると言われる。彼らは悪魔の絵そのものを崇拝し、(悪魔に)色々な苦行と供物を捧げる。(彼らには)頻繁に悪魔が見える。”

[史料35]
 “(…) Desta ceita saem huns per nomes Amanbuxis que trazem um tiracolo com borlas. Estes adorao diretamente o demonio em certos sinais, e estao 7 dias en montes altos sem comerem ate se verem com o demonio pasando grandes trabalhos e penitencias.”

(日本語翻訳)
 “(中略)この宗派から、アマンブシスという僧侶がいて、玉の付いた帯を肩にかけている。彼らは直接に印を結んで悪魔を崇拝し、7日間、悪魔が見えるまで、何も食べずに大変な苦行を行う。”

 

 [史料34]は、コスメ宣教師が、1561年10月8日にジエゴ・ライネズに宛てた書簡である。そこでは、真言宗による宇宙と万物の創造主大日如来とその崇拝を描写し、[史料35]ではガゴ宣教師が次の年の1562年12月10日に、ポルトガルの宣教師達宛ての書簡で、山伏の修行を詳しく述べている。これらの書簡には「悪魔」が記されており、当時のキリスト教徒の先入観がはっきり分かる。

 

[史料36]  
 “E que en Japao esta outro, por nome de Combodex, vivo de muitos annos, emu ma cova, esperando com as maos alevantadas por miroqu ou Xaca.”

(日本語翻訳)
 “この日本にはコンボデシというほかの偶像があって、彼は何年も両手を上げたまま洞窟の中で生き、ミロキと釈迦を待っていた。”

[史料37] 
 “Desta cabeca saio uma ceita chamada Dainichi, que adorao 3 em hum so que eles tomao polla materia prima”

(日本語翻訳) 
 その偶像から、ダイニチという宗派が生まれ、三つの偶像を一つに賛美する。その偶像が宇宙の起源といわれる。

 

 [史料36]と[史料37]は、ガゴ宣教師が同じ1562年の書簡で、真言宗の開祖者、弘法大師について述べ、そして、万物の創造主大日如来を描写したものである。[史料37]では、大日如来が「三つの偶像が一つに」のように描写された。キリスト教の神様も三位一体、そして宇宙の創造主だと考えられている。そして布教の最初の頃ザビエルは、大日如来はキリスト教と同じ神様だと誤解したのである。とても興味深いところである。

 

[史料38]
 “O primeiro principio deles foi hum homem chamado Coreb bondaxi, leterado, e Segundo muitas cousas que dele ouvitinha algum demonio familiar. E este enventou humgenero de letra em Japao a que chamao cana.(…)”

(日本語翻訳)
 “彼らの最初の偶像はコレブ・ダイシという知識を持っていた男である。私はかれについて悪魔と似ていそうな話を沢山聞いた。彼は日本でカナという文字を発明したという。”

[史料39] 
 “ A lei que deixou chama-se Xingomju. Hum dos preceitos e que adorem ao diabo, e quem as particularidades de sua vida souber nao crera senao ser ele o mesmo diabo em carne.Deixou certas palavras escritas com as quais metem o diabo em os corpos de qualquer pecoa,e ali lhes responde o que perguntao.”

(日本語翻訳) 
 “残した宗派はシンゴンシュという。掟の一つは悪魔を崇拝することである。そして彼の人生を詳しく理解する人は、彼は肉体をもった悪魔であると信じている。手書きで残した言葉を唱える人は、悪魔をどんな体にも取憑かせる。そして憑かれた人はどのような質問にも答えることができる。”

 

 [史料38]と[史料39]は、ガスパル・ヴィレラの1562年9月アントニオ・デ・クァドロス宛て書簡である。弘法大師と真言宗について,厳しく描写し、弘法大師と悪魔の直接的な関係を、自らの先入観で述べている。[史料38]でヴィレラは仮名について述べている。当時の日本人はすでに、空海が仮名を発明したという認識が強かったのである。

 

[史料40]
 “Sam tambem muito enganados por hum bonzo a quem dizemque chamaram Combodaxei, que Segundo as cousas que dele contam parece que foi o demonio em carne ou em figura dela, polos muitos he gravissimos pecados que enventou e ensinou. Enventou nova letra de que nesta terra usam com outra que da China tem.”

(日本語翻訳)
 “彼ら(日本人)はコンボダシェイという坊主にひどく騙された。彼について聞いた話によれば、
彼は酷い罪を発明し、教えた。したがって、彼は肉体になった悪魔、または悪魔の姿になった人である。(彼は)この土地(日本)で、中国の文字(漢字)と混じって使う、新しい文字(仮名)を発明した”

 

 [史料40]でもヴィレラは、空海を「肉体になった悪魔」というような厳しい視点から述べた。そして、仮名が弘法大師によって作られたとも指摘した。宣教師の沢山の書簡の中でも、ヴィレラの執筆したものが、仏教に対する批判が一番鋭かったとはっきり分かる。
 次節においては、こうした日本の社会において布教活動を展開していった宣教師らの様子を、当時の日本社会に関する記述とともにみていきたい。