星光を継ぐ者ども 第二回

星光を継ぐ者ども 第二回 森 雅裕

 七九郎に納める前に、二本の星鉄刀を拵師へ持ち込んだ。七九郎に納める一本は彼の好みに合わせ、もう一本は標準的な拵を注文した。依頼した職人は名を不二造といい、本業は鞘師だが、刀装全般を取りまとめる練達の工匠である。

 元々は博多の人間なのだが、鎌倉へ出張するかと思えば、ここ数年は京都で仕事をしており、最近になって、地元へ戻ってきた。

 国吉の刀を一目見て、

「何やの。お前、作風変えたんか」

 不二造は国吉の父の良西と同世代で、先輩職人だから言葉遣いはぞんざいである。

「奇っ怪な肌が出とるなア」

 この男の言葉は各地の特徴が入り混じっている。ぶつぶつ小言でもいうように呟きながら、茎の「星光」という添銘に目をとめた。

「ははあ。空の彼方から降ってきた鉄かいな」

「対馬の幸吉さんが持っていた星鉄らしいです」

「サギリの親父か。幸吉さんいうたら……」

 不二造は太刀拵を奧から出してきた。

「あん人から拵を頼まれた刀や。生前やから、もう七年くらい前ということになるけんが、引き取り手がのうなったもんで、俺の道楽として、のんびりやってたら、できあがったのはつい最近よ」

 柄に革を巻き、鞘は黒漆を塗っている。金具も上手で、装飾と実用を兼備した拵だ。国吉が目をとめたのは目貫である。漢字を彫っている。何やら違和感があると思ったら、左右が反転した逆文字だった。

「何だろう、これは」

「目貫に使ってくれと幸吉さんが刀身と一緒に寄こした。注文主から預かったらしいで。書物を刷るための印やろ」

 活字である。蒙古に追われて江華島に遷都した高麗王朝が『詳定礼文』なる書物を金属活字で少部数を印刷したという記録がある。活字も印刷物も現物は残っていないが、とりあえず、これが史上最古の金属活字とされている。

「もとは薄っぺらな銅製やったけんが、裏を補強して、目釘もつけた。注文主は高麗人だったのと違うかな。南宋や日本にはない技術で、高麗の誇りというわけやな」

 膠泥製の活字は北宋にも例があり、のちには蒙古で木製活字も作られたというが、そもそも漢字は膨大な数を用意せねばならないので、活字になりにくい。日本にも鎌倉中期には活字が輸入されているが、江戸時代まで至っても、印刷物は活版ではなく手彫りの木版によるものがほとんどである。

 目貫に使われた活字の表は「本」、裏は「然」である。

「この文字に何か意味があるのかな」

「注文主の名前と違うか。何者かは知らんが」

「高麗人が幸吉さんに作刀を依頼したのか。南宋からの依頼なら、さほど抵抗はないが、高麗となると……」

「大きな声ではいえへんなア。うちでこんなの見たと他言するなよ」

 高麗は文永合戦の十五年前(一二五九)に蒙古の統治下へ入り、その蒙古が日本へ食指を伸ばすにあたり、案内役となっている。文永合戦では、高麗は否応なしに蒙古軍に組み込まれ、先陣として日本へ向かわされた被害者ともいえるが、日本側にしてみれば、対馬や博多湾周辺で非道を働いた加害者である。文永合戦の直後には、幕府は高麗征伐の準備を始めたほどだ。ただしかし、日本と大陸の交易は高麗を経由することも多かったのだから、高麗と対馬の間に民間の往来があっても不思議ではない。

「この拵は、幸吉さんから直接依頼されたのですか」

「うん。というても、本人が対馬から博多までいちいち海を渡ってくるわけないやん。依頼の時は、いつも刀を荷造りして送って来よった。本人の手紙が添えてあったけんが、昔のことで、どこか紛れ込んでしもた。それがどうかしたんか」

 国吉は柄をはずし、茎を見ている。そこには「文永十一年十一月」の年紀が刻まれていた。

 文永合戦はこの年の十月である。戦禍に巻き込まれて死んだなら、十一月に作刀などできない理屈だ。後世には二月または八月と入れるのが慣例となるが、鎌倉中期はようやく一部の刀に年紀を入れることが始まったばかりで、月についてはこだわりも習慣もない。製造年月を素直に刻んでいるはずだ。

 

 

 不二造に星鉄刀を預け、善導寺に戻った国吉は、食材採りから戻った思英をつかまえ、噛みつくように切り出した。

「幸吉さんは文永合戦で高麗軍に殺された……のではないのか」

「え?」

「むしろ、高麗とはよしみを通じていたようだぞ。これはどういうことだ? お前、弟子としてそばにいたなら知ってるはずだな」

「あ……」

「答えなければ、今すぐここを追い出す。腕に抱えているタケノコを置いて、さっさと去れ」

「せっかく掘ってきたんです。一緒に食べてからでは駄目ですか」

「駄目だ」

「一本くらいは……」

「駄目だ」

 国吉は目力が強い。表情を動かさず、一直線に思英を凝視した。

「文永合戦後に作られた幸吉さんの刀を見たぞ。拵の目貫に高麗の文字印が使われていた。『本』と『然』だ。人名だな」

「はあ……」

「これが何者なのか、お前、知っているな」

「金方慶。字を本然といいます。蒙古の支配下に入った高麗の将軍です。文永合戦では東南道都督使、つまり、まあ要するに高麗中央軍の総大将でした。将軍自身が所持する刀と高麗から蒙古へ献上する星鉄刀と、幸吉師に依頼しました」

「その依頼を伝えた使者は……お前か」

「はい」

 国吉が不二造のところで見たのは将軍用の一本だったことになる。その拵を発注したのちに幸吉は死んでいる。もっと早く作るか、もっと長生きしておれば、あの刀は高麗へ渡っていたことになる。

「なるほど、そんな事情があれば、対馬を襲った高麗軍も幸吉さんには手を出さないというわけかな。南宋人には今なお蒙古に抵抗している遺臣がいると聞くが、お前は高麗の使い走りに成り下がったのか」

「私はしがない鍛冶屋ですよ。大きなことは考えず、小さなことにはこだわらず、生きていくしかないんです。私の師匠は南宋の臨安府では知られた鍛冶屋でした。星鉄はその師匠が昔に手に入れて、いつか刀剣に仕立てようと持っていたものです。それを知った金方慶が、自分に譲れと使者を差し向けてきました。しかし、断った師匠は高麗の兵士に殺され、星鉄は奪われてしまいました。金方慶はかねてから日本の刀剣に関心があって、自分の愛刀をまず一本、そしてこの星鉄を用いて、蒙古の皇帝へ献上する刀を日本の鍛冶屋に作らせよ、と私を使者に立てたんです。蒙古が耽羅国(済州島)で抵抗する最後の高麗軍を征討した時期です」

 蒙古の高麗侵攻は四十年以上の長期にわたって行われているが、征服完了となった耽羅の陥落は文永十年(一二七三)。文永合戦の前年である。一方、南宋の首都・臨安が無血開城したのは建治二年(一二七六)であるから、思英が星鉄を託されて対馬へ派遣された頃には、まだ蒙古相手に抗戦を続けている。

「そうか。蒙古の属国となって、東征の準備を始めている高麗からの作刀依頼では、さすがにまずい。だから、南宋人のお前が……」

「蒙古に通じていた南宋高官の書状も持たされました。私も日本刀を学びたかったですし、私の師匠と対馬の幸吉さんは知らぬ仲ではなかった。師匠は対馬を訪れたことがありました」

「その金なんとかいう将軍は、自分用の刀には星鉄を使えと望まなかったのか」

「献上用の星鉄刀は一本限りという注文ではありません。金方慶は刀を作るのにどれほどの鉄が必要なのかも知らない。手に入れた星鉄から複数作れるものなら、作れという依頼……いや、命令でした。そうなれば、蒙古皇帝だけでなく高麗王にも献上し、一本くらいは自分のものにするつもりだったでしょう。それはそれとして、大陸や半島の者たちは、日本刀が優れているのは特別な鉄を使っているからだと考えています。だから、まず自分用には本来の日本の鉄……和鉄で作るように命じたのです。ただ、幸吉師匠は当時、体調を崩していて、その一本は打ち上げたものの、星鉄刀までは手をつけることができませんでした」

「幸吉さんが、お前の正体を見抜けないほどお人好しとは思えないな。ここにいる娘の気性はあの親父から受け継いでる」

「サギリさんは人間悪くありません。幸吉師匠も……」

「あのな、お人好しにあらずというのは誉め言葉だ。幸吉さんは、実は高麗からの注文だと承知していたんだな」

「あの師匠には南宋も高麗もありませんでした。仕事ができればいい、それだけです。根っからの職工でしたから」

「あの人の父親は故人だが、交易でやってきた高麗人だった。つまりはサギリにも高麗の血が入っていることになるが……」

 幸吉が日本の「中央」から離れた対馬で刀鍛冶をやっていられたのも、父親のツテで、大陸や半島に販路を持っていたからである。

 高麗が蒙古の支配下に入るまで、太宰府との間には進奉関係の交易があり、民間レベルでも非公認の往来は行われていた。それは友好的なものばかりとは限らず、海賊行為をも含んでいたが、中継地点となったのが対馬である。

「金方慶という将軍は」

 と、思英は場違いなほど爽やかな声で、いった。

「文永合戦ののち、讒言によって、蒙古に対する謀反の疑いをかけられました。献上する星鉄刀の入手ができなかったことと無関係ではないでしょう。犬のように引き回され、鞭を打たれたあと、島流しにもなっています。しかし、高麗王が冤罪を訴えてかばったため、ようやく許されたと聞いています」

「唐房あたりで仕入れた噂話か」

 博多の租界地には高麗の情報も入るだろう。高麗に駐屯しているのは占領軍である蒙古軍ではなく、やはり蒙古に屈した南宋軍なのである。

「近いうち、金方慶は再び高麗軍を率いて、日本を襲うことでしょう」

「ああ。次は、南宋も一緒になって攻めてくるだろうよ。さてさて、幸吉さんは文永合戦後も生きていた。では、いつ、どうして死んだ?」

「あの年の暮れまで生きておられましたが、高麗に通じていたと疑われたんです」

「その話の流れだと、日本の武士に殺されたことになるぞ」

「はい。そうです」

「それが何故、幸吉さんは文永合戦に巻き込まれて死んだという話になったのだ?」

「知りませんよ。私がそんな話をいいふらしているわけじゃありませんし、国吉師匠にも聞かせていません」
 そうだ。聞かせてくれたのは波多野七九郎だ。

「お前、口止めされていたな」

 七九郎は戦後の処理に対馬へ赴いた武士たちの一人だった。彼は幸吉とは旧知の仲である。幸吉の安否を気遣う国吉やサギリへ、年が明けた頃になってようやく、彼の死を知らせる手紙を寄こした。のちに博多へ戻った七九郎の言によれば、幸吉の鍛錬場を訪ねると、あたりは焼き払われ、そこら中に穴を掘って、死屍累々たる島民たちの骸を埋めていたという。住民が全滅した村落もある。いちいち誰が死んだのか、確かめてなどいられない。当然、幸吉の死体も見つかっていない。連絡が遅れたのは、一縷の望みを持って、捜索していたからだと七九郎は説明していた。

 若ければ奴隷として売られることも有り得るが、幸吉は当時、五十歳を越えていた。殺されたものと考えるしかない。それが七九郎の報告だったのである。だが、嘘だったのか。

「思英。今話したことはサギリにはいうな」

「タケノコ、どう料理しますか」

「サギリと相談してくれ」

「姫皮を捨てるのはもったいないので、胡麻油で炒めて、醤と酒で味付けしようと思いますが」

「もう、好きなようにしろ」

 国吉は何やら面倒になってしまい、思英を台所へ追い払った。鍛錬場の前では、サギリが縁台に座り込んで、何かをかじっていた。収穫したばかりのキュウリらしい。声が聞こえる距離ではないが、食いながら、彼女はじっとこちらを睨んでいた。

 聞こえるわけはない。しかし、胸中を見透かされた気がした。

 

 

 国吉は波多野七九郎を屋敷に訪ね、畑で収穫した青菜などの届け物をドサドサと玄関に置きながら、部屋へ上がり込んだ。

「文永合戦の折、高麗軍は対馬、壱岐で暴虐の限りを尽くしたそうだな」

 国吉はいささか投げやりになっている。疑問を七九郎にぶつけたところで、あまり楽しい答は返ってきそうもない。

 七九郎は強い視線で国吉の言葉を跳ね返した。

「どうした? 今さら何だ?」

 高麗軍のあまりの非道ぶりに対し、日蓮の言葉をまとめた『高祖遺文録』では「当時の壱岐対馬の様にならせ給はん事思ひやり候へば涙も留まらず」と、悲嘆している。

 住民の多くは虐殺され、捕縛された者は奴隷として連れ去られた。女は掌に穴をあけて縄を通し、船の舷側に並べられ、矢を避ける盾とされたという。そうした高麗軍の残虐性は対馬や壱岐のみならず、博多湾の前線でも発揮され、倒れた日本武士の腹を裂き、肝を食ったという話も伝わっている。

「そんな高麗軍が、幸吉さんを生かしておく理由は何だったのかな」

「幸吉さんが生きていた……と?」

「おい。お前とは年少の頃からのつきあいだ。禅僧の何とかいう伝記集には、単刀直入という言葉があるそうだ。それでいこう」

「鍛刀直入? 刀に何を入れるんだ?」

「幸吉さんが高麗の敵でないなら話は違ってくる。逆に高麗のために作刀するような鍛冶屋なら、日本の敵だ」

「日本の武士が幸吉さんを処刑した。うむ。そういう理屈だな」

「それなのに、幸吉さんは合戦に巻き込まれて死んだと、お前が嘘をついた理由は何だ? 誰があの人を手にかけたのか、隠したかったのか」

 七九郎は部屋の縁に出て、庭を見渡した。領地の自邸とは違い、異国警固番役としての役宅であるから、さほど広大ではない。

 七九郎はその庭を眺めつつ、背中を向けたまま、

「俺だ」

 と、明瞭な声を発した。

「俺が斬った」

「……聞くんじゃなかった」

 文永合戦は文永十一年十月である。五日に対馬侵攻が始まり、壱岐、博多へと戦火は拡大したが、月末までには終了している。戦後、対馬へ派遣された鎮西奉行の配下、及び異国警固番役の御家人に波多野七九郎も加わっていた。

「生きている幸吉さんに会った。だが、無事を喜んでもいられなかった。多くの島民が殺されたというのに、どうして生き延びた? むろん、他にも戦禍を逃れた者はいる。そんな近所の住人が、幸吉さんは高麗に通じているのだと訴え出た」

「たとえ、そうだとしても、高麗軍では現場の末端の兵にまで、幸吉さんに危害を加えるなと命令が徹底していたとも思えん」

「そうだな。運よく逃げ延びただけなのかも知れん。だが、あの人の父親は高麗人だったし、作刀を求める高麗の商人が往来することもあった。疑われるのは当然……」

「当然なものか。それは杯中の蛇影というものだ」

「戦のあとだ。誰もが気が立っている。生け贄を出さねばおさまらぬ事態だった。取り調べは異国警固番役の職掌ではないが、幸吉さんはきびしい詮議を受けた。その挙げ句、博多で刀鍛冶をやっている娘もまた高麗に通じているのではないかと疑われる始末だった」

「馬鹿馬鹿しい」

「むろん、俺もそんなことは有り得ぬとかばったが、異国警固番役の組頭は、俺にさえも猜疑心を向けた。そして、潔白を示すために幸吉さんを斬れと俺は命じられた」

「そんな命令に従ったのか」

「責めるか、俺を」

「いや。お前ともあろう者が手を下したなら、それなりの理由があったのだろう」

「幸吉さんは罪人のように身柄を拘束されていたわけではない。仕事場で自裁したのだ。娘は自分とは違う、高麗とは無縁だと遺書を残して……。見つけたのが俺だった。喉を突いても死にきれず、苦悶していた。だから、俺が介錯した」

「そんな事情だから、俺やサギリに幸吉さんが生きているとは知らせられず、死んでからの報告になったか」

「そして、幸吉さんのところで修業中だった思英の身柄は俺が預かることになった」

「つまらん疑惑ごときで幸吉さんを死に追いやっておきながら、思英が無事なのはどういうわけだ? 充分にあやしい渡来人だぞ」

「あれは南宋人だ。文永合戦の当時、南宋も蒙古と戦っている。それにな、対馬に派遣された異国警固番役の組頭は島崎新兵衛という。この男は母も妻も日本と南宋の混血だ。南宋の事情に多少は通じている。鄭思英は鄭思肖という南宋の遺臣の縁者らしい」

「ていししょう……? 何者か」

「詩人にして書家だそうだ。本来の名は知らぬが、南宋の軍兵が蒙古軍に続々と投降するに及んで、この文人は世に背を向け、思肖と改名したらしい。蒙古語を聞くと耳をふさいで逃げ,また坐臥に北向きを避けるなど、悲憤すること甚だしい人物だという」

 のちに鄭思肖は『心史』において、

「倭人狠不懼死、十人遇百人亦戦、不勝倶死。……倭刀極利」

 と、死を恐れぬ日本武士の勇猛さを畏怖し、日本刀の鋭利さに驚嘆すること甚だしい。

「思肖はしばらく消息不明だったが、最近になって、生存していることが唐房(租界地)あたりまで伝わってきた。思英は時々唐房へ出入りもしていたから、その噂を聞いたようだ。すると、それまで俺の領地でおとなしくしていたあいつが、また刀鍛冶の修業を再開したいといい出した」

「ほお。その鄭思肖の名前には、あいつを元気づける何かがあるようだな」

「そういや、名前も思肖になぞらえた思英と変えたんだ。以前は別名だった」

「それで、文永合戦から七年も経った今頃になって、俺のところへ入門してきたか」

「お前やサギリの名前は幸吉さんから聞いていたらしい。腕のいい刀鍛冶だと」

「その言葉は正しいが、思英がいつでもどこでも正直者だということにはなるまいよ」

「そうだな。高麗の金方慶将軍の命を受けて、対馬へ派遣された南宋人だからな」

「お。知っていたのか」

「何年もわが領地に置いていた男だぞ。正体はわかる。しかし、対馬で出会った頃は当然、そんな事情は隠していた」

「斬らぬのか、あいつを」

「実はあいつの真意がよくわからんのだ。まあ、大陸の人間とはああしたものなのかも知れぬが」

「なるほど。納得だ」

 幸吉の死の真相はサギリにはいえぬな、と国吉は考えていた。広義に考えれば、幸吉は合戦に巻き込まれて死んだといっても間違いではなさそうだ。