星光を継ぐ者ども 第九回

星光を継ぐ者ども 第9回 森 雅裕

 京都中心部を出て北に上がると、小高い山の上に幡枝八幡宮がある。平安前期の創祀で、石清水八幡宮の分社とされ、南麓に清泉が湧くことで知られている。隣接する末社の針神社は金属技工の神である金山毘古命を祀り、鍛冶屋から信仰されている。

 石段下の参道に正弘は足を運んだ。木戸をくぐったのは菓子屋である。裏の作業所で、村正が働いていた。顔の広い国広が紹介した馴染みの店だった。

「いいところだな。もう少し慣れて、住まいが広くなれば、あずさと暮らせる」

 村正は仕事の手を止め、快活にいった。今は店の近所の粗末な長屋に寝泊まりしている。

 正弘は友人が元気なことに安堵し、自分もまたせいぜい明朗に声を発した。

「堀川国広はここの湧き水で焼入れをしているという寝言が流布している。幡枝と一条がどれだけ離れていることか」

「その一条からはるばる俺の顔を見に来た理由は何だ?」

「頭のいかれた侍が来た」

 名前を出さずとも、村正は察した。

「そうか。迷惑をかけたようだな」

「内府様や禁裏の御用をつとめていると知ったら尻尾を巻いて立ち去ったが、村正の首を差し出せと脅してきた。お前の作は徳川家に祟るけしからん刀だそうだ」

「そうか。いよいよお前に娘を育ててもらうことになるかな」

「この町で、むざむざとお前を殺させはせぬ。堀川国広の一門は京都でちょっとは顔が利く。職人や町人には、侍にはわからぬつながりがある」

「というと?」

「茶屋四郎次郎という名を知っているか」

「聞いたことはある」

「京都で困ったことがあれば、茶屋に相談すれば何とかなる。お前のことを話してみた」

 茶屋といっても商売は呉服商である。創立者のもとへ将軍足利義輝が茶を飲みにしばしば立ち寄ったことから茶屋の屋号を称し、それ以降は代々が茶屋四郎次郎を襲名している。初代は徳川家康の覚えめでたく、本能寺の変が起こった際には堺を遊覧中だった家康に急報し、「伊賀越え」を支援した。以来、徳川家の御用商人の地位を築いたのである。当代の二代目は家康の権勢拡大とともに商売を広げ、京都・大坂の物流の取締役にのしあがり、関ヶ原の合戦においては京都の情勢を東軍にもたらすなど、徳川政権にとって重要な存在となっている。

「尾田は異常者だ。どうせあちこちで嫌われているだろうと思ったら、案の定だ。茶屋四郎次郎も奴の悪名を承知している」

 正弘は不快なこの話題を早々に打ち切りたかった。早口になりそうなのを懸命におさえた。

「明日、四郎次郎は別宅にいる。要するに妾の家だが、茶でも飲みに来てくれ。俺は先に行っている」

 およその時刻を決め、地図を示して、場所を教えた。四条の鴨川に近い裏通りである。

「角に小さな稲荷の祠がある家だ。すぐわかる。しかし、誰の目が光っているかわからん。お前は命を狙われている身の上だ。見つからぬよう気をつけろ」

「わかった。ところで、あずさは元気か」

「弟子たちが面倒見ているし、近所に遊び仲間の子供も多い。心配するな」

 

 翌日、正弘と村正は茶屋四郎次郎の前に雁首を並べた。四郎次郎の本宅は新町通蛸薬師下ルであるが、別宅や持ち家がいくつもあり、四条もその一つである。

 二代・茶屋四郎次郎は正弘や村正と同世代だった。福々しい風貌でもなく、眼光は鋭いが、神経質そうだ。この三年後の慶長八年には急死してしまう男である。

「お話は聞いとります。災難なことですなあ」

 と、四郎次郎は村正を見る目を細めた。好意的である。

「いや。こちらこそ、茶屋さんに関係ない話を持ち込んで、申し訳ありません」

 村正は頭を下げたが、四郎次郎は制するように手を上げた。

「関係ないこともおまへん」

 四郎次郎は遠い目で庭を見やった。この四条縄手は京都随一の盛り場だが、裏通りまでは喧騒は届かなかった。

「四条縄手の鴨川沿いには多くの茶屋がおましてな。その実態は遊女屋ですけど、右府(信長)様、太閤様、それに内府(家康)様、それぞれ好みの茶屋があってお通いになったという、社交の場でもおます。私が作った店もある。はは、本物の茶屋になったわけですわ」

 この男は人生を楽しんでいるのだろう。自嘲の響きはない。

「尾田黄一郎もそこで毎夜のように遊んでますわ。本多様の屋敷は伏見ですけど、奴は京都に駐在しとる。要するに、本多様でもあの男をもてあまし、伏見には居場所がないちゅうことです。押しつけられた京都こそ迷惑というもの」

「と、いわれると……?」

 村正が訊いた。四郎次郎はさほど迷惑そうでもない。

「尾田が寝泊まりしている屋敷は私が用意したんや。本来は本多様が京都にお出での時に利用していただく屋敷なんやが」

「四郎次郎さんも災難ですなあ」

「酒や料理に注文がうるさいやら小遣いをせびるやら……まあ、それくらいなら可愛げがおますけどな。尾田は四条縄手でも鼻つまみ者ですけど、酒が入るとさらにタチが悪い。さすがに私の店では牙をむいたりせんけど、よその茶屋では、そこら中に火をつけようとする悪癖がおます。店の者たちが止めようとすると、げらげら笑いながら殴ったり蹴ったり……。所司代も往生してますわ」

 茶屋四郎次郎は京都の顔役であり、治安を担当する所司代への影響力も大きい。関ヶ原の合戦後、京都所司代をつとめるのは奥平美作守信昌。家康の娘婿という有力大名である。

「弱い者を見ると、いじめずにおれん。病気ですわ、尾田は」

「そんな者を徳川家の重臣が何故、手駒としているのか……」

「得てして、ああいう手合いは有力者にはおべっかを使うもの。茶屋で奥平様と鉢合わせしたことがおましてな、額を床にこすりつけるほどの平身低頭を見せておりました」

 愉快な話題でもないが、四郎次郎は富豪らしく悠然と構え、微笑さえ浮かべている。

「それにまあ、本多様としても汚れ仕事を行う者が必要ゆうことです。しかし、世は移り変わる。手の汚れた家臣は主人にとって、いずれ荷厄介となるもの」

「つまり、尾田は本多様にとって、もはや邪魔者だと?」

「以前、本多様から直々にいわれたことがおます。京都は武家にとっては得体の知れぬ町。その京都があのような男をどう扱うのか、知りたくもあり知りたくもなし……と」

「つまりそれは……尾田がどうなっても知ったことかという意味でしょうかな」

「この京都にはな、本多様の家臣は他にもいてはる。大きな声ではいえまへんけど……」

 しかし、四郎次郎の声には遠慮はない。

「尾田を始末する主命を帯びたお侍たちですわ。とはゆうても、寝込みを襲うんでは、屋敷を貸しとる私が迷惑する。さりとて、往来で抜き合わせれば、尾田は腕力だけは強いし喧嘩慣れしとる。本多様としても大ごとにせず、闇から闇へ葬りたい。確実に仕留めるなら、だまし討ちに限る。私としては、手を貸すのは躊躇しておりましたが、正弘さんや村正さんの話を聞いて、決心がつきました。尾田を殺りましょ」

 こともなげに、四郎次郎はいった。

「四条の茶屋に手を回して、溺れるほどの酒を飲ませます。遊んで帰る侍の多くは人目を避けて船で鴨川を下るんやが、尾田の帰り道は四条通を西へ歩く。ええ気分で千鳥足ですわ」

「そこを本多家の家臣たちに討たせますか」

「そうどす」

 京都を牛耳る茶屋四郎次郎である。裏の世界にも顔はきくだろうが、

「町の徒ら者なんぞ雇うと、口止めが面倒ですさかいな」

 油断なく目を光らせた。だが、その光はすぐに打ち消された。

「ところで、正弘さん」

 と、正弘を柔らかな目線で見やった。

「あんたこそ、今後どうなさる?」

「流浪生活には慣れております。しばらく金道師のところに居候して、郷里に戻りますよ」

 四郎次郎と正弘のやりとりに、何のことかと村正は二人を交互に見やった。

「何や。聞いてはらしませんの。このお人、師匠から破門されましたんや。偽物作ったとかいうて」

「おい。それは……」

 村正が投げてきた刺すような視線を、正弘は軽く振り払った。

「お前のせいではない。飫肥で再興した伊東家から招かれている」

 若い頃の国広が仕えた伊東家は、一旦は島津家に日向を追われたのだが、天正十五年、秀吉の九州平定軍の先導役をつとめた功績により、失地回復を果たしていた。そして、老齢の国広ではなく正弘に帰参を求めてきた。

「もともと京都は俺の性に合わん。今後は、この町で身につけた品格というものを九州の刀鍛冶に教えてやることにする」

 正弘は仏頂面でそういい、四郎次郎は苦笑を隣の村正に移した。

「せっかく四条縄手にいらしたことやし、遊んでいかはりますか」

 村正をそそのかしたが、この生真面目な男は困惑しか浮かべなかった。

「尾田が死んだら、ひっそりと祝杯をあげることにします」

 

 この年の十月は関ヶ原合戦の論功行賞が順次発表され、東軍に加担した豊臣恩顧の大名たちは加増されたものの遠国へ転封となり、重要地域は家康の身内や譜代大名で占められることになった。

 一方、西軍の武将たちは続々と自刃を迫られ、名目上の総大将であった毛利輝元は首こそ求められなかったものの、減封の処分を受けた。島津義久、上杉景勝はまだ屈していなかったが、謝罪した上での和睦は時間の問題であった。

 京都にもそうした剣呑な空気は流れてくるが、武家の争いなどに巻き込まれてたまるかという市民感情もあり、表面上はこれまでと同じ日常が流れている。

 夜風の冷たさはすでに冬の始まりを告げていた。正弘と村正は四条寺町の会所へ足を運んだ。四条縄手で遊んだ尾田黄一郎の帰り道である。

 会所とは、のちには江戸の番屋(自身番)にも相当する行政の末端組織となるが、元来は町衆自治のための寄合所である。会所守が家族と住んでいるが、当然、茶屋四郎次郎の息がかかっている。

 正弘と村正の他に本多家の家臣が三人、この場に控えていた。ごく普通の肩衣袴姿で、ものものしい身なりではないが、尾田を屠る刺客である。正弘らと彼らは挨拶を交わしただけで、まったく会話はなかった。それでも正弘らが追い払われないのは、四郎次郎から話が通っているからだろう。

「その場にいたい」と村正が申し出た時、四郎次郎は、

「尾田の最期を見届けたいんですな」

 と頷いたが、そればかりではあるまい、と正弘は見ている。隙あらば自らの手で亡き妻の仇に一太刀……正弘だってそう考える。正弘も村正も丸腰ではなく、脇差を差している。

 四つ半。照明の乏しいこの時代、深夜である。四条縄手の茶屋の使いが駆け込んできた。尾田が茶屋を出ると、先回りしてきたのである。

「来ます」

 とだけ告げ、姿を消した。

 武士たちが立ち上がり、外へ出た。やや離れて、正弘と村正も彼らのあとを歩いた。町並みは寝静まっている。星明かりが、通りに並ぶ軒の影を冷たく落としている。

 しばらくすると、ふらふらと人影が現れた。羽織袴姿の武士である。尾田に間違いない。立ち小便を始めたから。しかも、物陰で、などという気配りはなく、往来に面した店屋の正面に浴びせている。正弘は神聖な鍛錬場で放尿されたことを思い返し、胃の底から燃えるような憎しみが煮え立った。

 好機と見た武士たちは駆け出した。逆効果だった。ただならぬ足音を聞いた尾田は身構えるように振り返った。走りながら抜刀した武士が斬りつけたが、尾田は小便を散らしながら避け、叫んだ。

「んが! 何じゃ何じゃあ。追い剥ぎかっ」

 反射的に抜刀したところは、さすがに喧嘩慣れしている。しかし、足がもつれ、肩のあたりに一太刀浴びた。

「ひえっ」

 大仰な悲鳴をあげたが、たいした傷ではない。闇雲に刀を振り回して、軒下の陰影の中に隠れた。そして、相手は同じ本多家中の同輩と気づき、怒りと驚きをこめ、闇の中からダミ声を張り上げた。

「お。お前ら、何の真似じゃ。と、殿の差し金か。それとも私怨か」

 命を狙われる心当たりはあるらしい。戸惑いはすぐに嘲笑に変わった。

「けっ。泣きそうな顔して、震えとるじゃないか。ふへへへへ」

 相手を罵倒することで主導権を握ろうとしていた。武士たちは尾田を囲み、連携して斬りつける頃合いをはかっていたが、軒下の尾田は闇に溶け込んでしまっている。

 物陰から見ていた正弘には、刺客たちが逡巡しているように見えた。正弘は石を拾い、投げた。尾田に命中させられる距離ではないから、この男が背にしている店屋の戸板へぶつけた。どん、という音が闇に響いた。二発目は戸板に届かなかったが、尾田の足元へ転がった。

「誰じゃああああ!」

 尾田は我を忘れ、咆吼した。何事かと、店屋の戸が半開きになり、軒下の闇に灯りが差した。尾田の姿が見えた。全力で逃走すれば命は拾えたかも知れない。しかし、酒の酔いがそうはさせなかった。

 只事ならぬ気配を察したのだろう、すぐに戸は閉ざされたが、武士たちが刃をきらめかせた。一撃目は跳ね返した尾田だが、軒下から出た瞬間、次の斬撃が右腕を切断した。手首とともに刀が落ち、同時に尾田は猛烈な音を立てて放屁、脱糞した。

 怒声とも悲鳴ともつかぬ意味不明な叫びをあげながら、尾田は何も持たない両腕を振り回した。その腹を切り裂き、喉を刺し貫き、武士たちは離れた。逃げ足は早く、あっという間に闇に消えてしまった。

 残された尾田は、どさ、と大きな音とともに横転し、この世のものとも思えぬ奇妙な音を喉から発していたが、すぐにそれも止み、もう動かない。

 正弘と村正は息を殺して近づいた。血と糞尿と酒の混じった悪臭があたりに満ちていた。

 正弘は死体を見下ろし、すぐに目をそむけた。

「とどめを刺す必要はなさそうだ。顔を踏みつけるくらいにしておけ。草履が汚れるが」

「そんなことのために来たわけではない」

 村正は尾田の腰から脇差を抜き取った。見覚えある拵だ。

「徳川に祟るけしからん刀といいながら、どうせ自分のものにするだろうと思っていた。しかし、この刀はこんな外道を持ち主には選ばない」

 村正銘の星鉄刀だった。

「何だ。そいつを取り返しに来たのか」

「左文字の星鉄刀は内府(家康)が持っているとすれば、もう世上に出て来ることはあるまい。由緒ある武具庫か宝物蔵に眠り続ける。そんなところは刀の墓場だ。しかし、この刀は武器として生き続ける」

「……行こう。祝杯をあげるぞ」

 正弘は村正を促して、西へ歩き出した。烏丸通を北へ折れれば、今の正弘が居候している伊賀守金道の屋敷がある西洞院夷川の方向だ。悪臭が鼻に残り、嘔吐しそうだったが、飲まずにいられそうもない。

 そして、それは正弘と村正の別れの盃でもある。正弘は数日のうちに日向国飫肥へ旅立つつもりだった。

 後世に伝承が残っている。堀川国広一門でも随一の実力といわれた大隅掾正弘が京都を追われたのは、偽作を行ったためだという。ただしそれは、正宗の偽作だったことになっている。