77. 偽物について(その二十九)  無銘極 磨上か否か

前稿では、在銘の刀を例にあげ中心と刃文の焼き出した所からみて、合理的に銘の真偽を検証したのであるが、今回は無銘をとり上げてみたい。

この無銘というのは即、古い刀への極(きわめ)に直結するのであるが、極める側に対して所有者側は出来るだけ有名刀工に極めて欲しいとの意向や希望をするか、又は、している相互関係が出来上がってしまう。その時に大いに力を発揮したのが、というよりも力を発揮させ、所有者に引導をわたすために五ヶ伝なるものが唱えられたのである。従って、五ヶ傳に合致させた極をつけても、私にはもう一つ大きな事が脱けていませんかという事を強く述べておきたい。

それは、無銘の刀が大磨上なのか生なのかである。従来から極の内容(時代と国と流派)については色々と意見が噴出して、論じられてはいるが、磨上か否かは全くといってよい程に取り上げられなかった。これはどう考えても不合理である。そもそも、本阿弥家が江戸最初期前後に極めたものをみても、本当に大磨上なのか、少し磨上たのか、又は生なのかは全く論じられていない。無銘の中心に複数個の孔があいていれば、それだけで大磨上と見なしていたのであるが、無防備、無茶もいい所である。本阿弥家の極に関してはいづれ改めて述べてみたいと思っているが、今回は大磨上とされていながら、実は生であったと思われる例をあげてみる。

まず、(E)を見て下さい。前稿で検証したように、現在の刃区部の上部から刃文が左斜目方向にむかって順次刃幅が狭くなってきています。こうした所作は、この(E)が生中心である事を如実に物語っておりますことは既述しました。(E)は二尺二寸八分、反五分五厘、極は大和国手搔(南北朝)となっています。手搔一派の誰かという個名まで極めていないので、包永ではない、その他の手搔一派という極と見れば十分であります。併し、南北朝時代の極で刃長が二尺三寸たらずですから、これは長寸の太刀の大磨上という前提での極でなければ成立しません。となれば、(E)は完全な生中心であるのに南北朝時代の極というアンバランス、不合理が出てきます。却って、最初から大磨上と見なして、時代・国・流派を極めたという見解しか考えられません。

では(F)を見て下さい。これも刃長が二尺二寸八分、反五分二厘で大磨上と解説され、大和国手搔(南北朝)と極がつけられている由。確かに焼詰鋩子で柾目肌交じりで鎬幅も広く大和伝の造込。当然、五ヶ伝中の大和伝へいくが、問題は現在の刃区にむかって刃文が左斜目に入っていることである。こんな状態の中心で大磨上はあり得ない。従って、(F)は完全な生中心である。すると、(E)と同様に、少なくとも南北朝時代とみる事は全く不可能であり、当然、時代は下げてみなければいけない。勿論、例え大磨上であっても必ず正真銘は額銘にしても残すし、絶対に正真銘を切り取って無くす事はない。無銘はそうした大きなハンデがつきまとう。

さらに(G)を見て下さい。現在の刃区のすぐ下で刃文が刃方に入り、しかも明瞭に匂口がキリッと締まった状態です。こうした所作は磨上や大磨上の中心には絶対にないことでありまして、(G)は刃長が二尺三寸、反が七分八厘となっています。極は大宮盛景で貞治(南北朝)頃とされていますが、横手までの刃文が丁子乱で移が鮮やかにかかっているとされていますが、鋩子は直状に小乱が一つ交じっています。

作風は別として、二尺三寸で反が深く、これで大磨上ならば、生姿であったなら反はもっと深かったとみるのが常識。但、反は深く加工出来ますという言訳もあるが、刃区のこの所作は言いくるめるのが得意な学芸員でも説明不可能。といっても、学芸員曰く「偶々、刃文の低くなった所に該当しただけで、、、」というだろうが。この学芸員偶々論は私が実際に経験済であるが、結局は苦しい言訳にすぎず、南北朝とは考えられないという結論にしかなりません。更に生無銘は果たして考えられるでしょうか。生無銘は限りなく時代偽装であります。

これでお気づきの様に、無銘極ではまず第一番に磨上か否かであり、それを全く省みない今迄の本阿弥家や日刀保などの所業は的はずれとしかいいようがありません。

平成二十八年四月 文責 中原 信夫