66. 偽物について(その十八)  清麿の偽物

前回では、正行から清麿への改名時期を考えての真偽判断であった。つまり、絶対にこの時期(弘化三年秋以前)には清麿銘はないのであったから、反論は出来ない。

併し、今回は改名時期とされている弘化三年秋という微妙な在銘を取り上げてみたいと思う。さてここに”弘化三年八月日”の年紀付の作例を三振示してみたが(43)図以外の(44)図(45)図は清麿銘である。

まず、(43)図は一見して疑点は感じられないものである。タガネづかいにも、既述の如くアタリ鑚は全くといって使っていないし、ヌキ(鑚)も見事にサラリとして、端正かつ謹直で上手である。また「源正行」の3文字もほぼ等間隔に間をあけていて、しかも銘字全体の中心線を鎬筋から少し右側へ寄せているのがわかり、入念かつ計算済みの刻銘である。従って(43)図を一応、標準典型銘として考えていくことにしたい。

では、(44)図をみて下さい。(43)図と全く同じ年紀ですが、鎬筋の真上に刻った清麿銘になっています。また(45)図も清麿銘全体の中心線が鎬筋の真上になっていますし、一見すればこの(44)図(45)図は同一物かとも思える程ですが、これらは別物であります。そしてこの(44)(45)図の目釘孔と鎬筋の間隔はあいていますが、(43)図のそれと較べると狭くなっています。全く同一年紀でこの違いはちょっと?となります。

因みに、正真の正行銘と清麿銘を概観しますと、銘字のバランスと調和をうまく考えて配置しているのが特徴ですが、(44)図の”源清麿”の3文字はかなり接近していまして、「源」の11画目の縦棒と、「清」の5画目の縦棒が殆んどくっついているかの様です。(44)-1図でみて下されば明白。(45)図では間隔はあいています。

併し、年紀の「日」について触れますと、(44)図の「日」は全体の中心線より右へ偏り、そして「日」の第2画目の縦棒が強調されていて、終わり頃には力がスゥーっとだらしなく抜けています。(45)図の「日」は「月」に較べて横幅が拡がりすぎて大きく見えます。これらは明らかに(43)図と相違し、銘字全体のバランス、調和を崩しています。こうしたアンバランス、不調和な刻銘(銘字)は謹直、端正、上手な刻銘をする清麿には考えられません。従って、これらだけの特徴からでも(44)図(45)図には?がつくのです。

次に、(44)図(45)図ともに「磨」の1画目のタガネがやや左斜目に傾き、「磨」の15画目(「呂」の真中の「ノ」)が14画目の右端(13画目の終わりと14画目の右端)と接合していません。(44)図-①(45)図-①(拡大図)で鮮明にあらわれています。こうした銘字の特徴は見逃し難いものであり、清麿銘の正真銘では見られないもので明らかに?であります。

また、「清」の8画目、つまり”月”の第1画目の縦棒にしても、(44)図はやや太く内側にすぼまる様な状態になっていますが、(45)図では逆に外側にほんの少し開いた様になっている点についても?です。

以上の点については、故藤代義雄氏が昭和十一年に刊行した『江戸三作之研究』の巻末に同氏の手書によって簡略に示されていますので、(46)図として掲載しておきます。藤代義雄氏はこの(46)図の横に「この三作銘の変遷及び真偽(貞一作)の一覧は大体を知る一つの便宜であって、真に江戸三作を見究めるためには本研究の押形を繰返し回を重ねて、熟覧あらんことを願ふ。」としています。

この文の三作とは俗に江戸三作と呼ばれる、水心子正秀・大慶直胤・源清麿の三人を指すものであるが、この(46)図に照らして(44)図(45)図とその拡大図を見て頂きたい。”偽”とされている「磨」の銘字の第1画目の角度にしてもピッタリと合致することは明白であろう。

但し、私の考えや立場は藤代義雄氏の示した点を基本にしたのではなく、結果として合致した事になるだけである。現に、本稿において、藤代義雄氏がその著書に掲載したもの対して×をつけた事は既述の通りである。戦後になって殊に、藤代義雄氏が賞賛したとされる清麿(正行も)を、全く無条件に無防備に受け入れてはばからなかった人達や書物は、かえって贔屓の引き倒しになってしまっている。従って私はこの傾向の強い人達を盲信者と書いた筈である。

また、藤代義雄氏の(46)図を一顧だにしない人達によって、藤代義雄氏は都合よく利用された面があると私は思っている。(45)図は最近の清麿の展示会カタログにも掲載されていて”体のいい丸投”であろう。このカタログには他にも(46)図の×としている作例が複数振掲載されている。

さて、蛇足ではあるかも知れないが、(44)図は『刀の偽銘』(昭和48年・光芸出版)所載のもので「清麿は人気者で値段もすごく高いので、偽物が近ごろよく作られている。これは昭和三十一年ごろ御勝山永貞の銘をつぶして、清麿の銘を入れたもの。」と注釈がある。私はこの注釈を基本にしてこの文章を書いたのではない。(44)図は×という確信があって、その傍証にこの注釈をあげたまでである。

さて、ここまで書くと弘化三年八月日の年紀の清麿銘に正真はないのか、という事になるが「弘化丙午年八月日」とある窪田清音の為打がある。これは重美指定でもあり超有名な作刀であるが、(46)図には明白には違反していない様である。因みに、この窪田清音銘入りの年紀(弘化丙午年)をはじめとして、翌年の弘化四(丁未)年にのみ限り、干支を刻っている点が何となく引っかかる思いがしてならない。どうしてこの一年強の間だけに限り干支を刻ったのか、何か特別の事情か思い入れがあったとしか考えられない。但し、正行銘で天保癸巳(四年)の脇指(窪田清音佩刀)と天保五年紀、天保十一年紀に干支がある。

つまり、正行から清麿へ改銘したのが弘化三年秋というのが通説ではあるが、(43)図と重美指定の弘化丙午年八月日の清麿銘の存在を考えると、実際は少なくとも弘化三年の最後の頃にまで改銘時期がズレる可能性もある。しかも、もっと極言すれば、改銘したのは弘化四年(丁未)初頭頃にまでズレこむ可能性も考えていかなければ、とも考えるべきではないだろうか。

いづれにしても、現在判明している弘化三年八月年紀の清麿銘にもかなり?のつくものが多いのも事実であって、その見所については(46)図を今一度参照して頂ければ自明の事となるであろう。尚、(43)(44)(45)の年紀からして、短期間における近接した時期の刻銘であり、正行と清麿の違いはあっても比較出来るものと考えた。

又、(44)(45)図ともに銘字の太さや字体にモッチャリとした感じが強く、その前後の年(弘化二年と四年)のそれらと較べて、異質な感じを受ける。

(平成二十七年四月 文責 中原 信夫)