58. 偽物について(その十)  山浦真雄の偽物

今回は今一度、中心仕立での最も重要なヤスリに話を戻して述べてみたい。

では(27)図(28)図をみて頂きたい。(27)図は清麿の兄・真雄銘であるが化粧ヤスリがある。次に同じ真雄銘の(28)図をみて頂きたい。これには化粧ヤスリはない。これら両方ともに同じ「安政二年八月日」の銘が存在するので、中心の仕立(ヤスリ等)は同じでなければいけないし、同じ筈である。

つまり、同じ刀工で化粧ヤスリがあるのと、ないのが全く同一年紀で存在するという事は、決してあり得ない事で、若し、万が一にもそうした事がある、全く異なった中心仕立、銘字があってよいと認めたら真偽の判断は不必要となり、世の中から偽銘は全てなくなり、全て正真銘となる。

実際、一点一画全く同じ切銘はないし、又、出来ないので、バラバラの銘字を認めたらどうなるであろうか。真偽判断は出来ない。さらに銘字よりもバラバラであってはならないのは中心仕立のヤスリである。従って、化粧ヤスリがあるのと、ないのがあるので、少なくとも一方が×であるという事を理解して頂きたい。

以上の考え方を前提にして細かくみていくと、まず(27)図では表の目釘孔は鎬筋と接しているが、裏は少し中心棟の方へ寄っているのがわかります。こうした所作は×であると、本欄では長く述べてきました。しかも、真雄・清麿ともに目釘孔と鎬筋はくっつかずに離れる形状が正しいのでありますから、(27)図は×となります。

では、化粧ヤスリのない(28)図はどうかというと、これも×になります。なぜならば、目釘孔と鎬筋の距離をみて下さい。距離が表裏で僅かに違いますから、この中心仕立は×となり、当然ですが銘も×となってきます。

因みに、真雄は最初期の寿昌と切銘した時代には化粧ヤスリを施したようですが、以後は化粧ヤスリを施してはいませんから、この(27)図の様に、突然、化粧ヤスリを施すことは全く考えられませんし、そして又、突然に化粧ヤスリを施さなくなることも全くないでしょう。

更に(27)図でいうならば、化粧ヤスリ(勝手下りのヤスリと切ヤスリの境目)が拙(まず)い処理をしていて、押型にもはっきりとその拙劣さがあらわれています。特に表の方に顕著にでている白く太い筋状に見えている所です。そこが肉置において段差が生じていると考えてよいでしょう。この様な所作は化粧ヤスリを施す際には一番やってはいけないことで、逆にそこで刀工の技倆がわかるという事であります。たとえ切銘がいかに上手であっても、一流刀工ならばヤスリ(中心仕立)は生命です。余計にこの点は厳格にみるべきポイントと存じます。

さらに(27)図は中心尻の形も真雄にない形をしています。切銘にしてもタガネで抑揚をつけすぎていますし、「アタリ鑽」をこれみよがしに打込んでいる点などは、絶対に肯けないものです。

又、銘字の「安政」についていえば、(27)図は草書風であるのに、(28)図では楷書風となっています。同一年月日でこの様に全く違うということは絶対にないと考えるべきです。そして、「年」と「歳」も同様であります。因みに、真雄は殆んど「年」を使用しており、「歳」と切った例は極めて少なかったと記憶しておりますし、「安政」も草書風に切ると存じます。

併し、ここまでヤスリと銘字の相違・中心仕立の不良を指摘しても”偶然そうなったんであって、そんな同じ様には、、、”という意味の言訳をする人達もなかにはいる。

では、本欄でもはじめての事を言うと、目釘孔の大きさが違うという点に気づかれるであろうか。目釘孔の大きさは大事中の大事である。(27)図はかなり大き過ぎる程であるが、(28)図はやや小さめである。両方とも孔は真円形である。但し、(27)図は小さい生孔を拡げたという反論がでる可能性がある。併し、真円形なら、拡げる前の小さい孔と、大きくした孔の中心点は同じになる訳であって、必然的に孔を拡げる前と後でも鎬筋と目釘孔との位置関係は表裏には変りはない筈である。

この様に(27)図(28)図ともに×となる訳であるが、この両方とも極めてタガネを上手に使える工人が関与していると考えるべきである。

では、真雄の同年紀の正真銘と思われるのを(29)図に掲げておく。因みに次の(30)図は如何に判断されるか。(30)図(28)図と同一人の切銘かも知れず、但し、「日」がないだけである。

(平成二十六年五月 文責 中原 信夫)