57. 生刃について

 生刃という本来の意味には刃紋に関してのものであるとされるが、それは今では全く死語同様であるので近代になっての生刃について少し触れてみたい。

 “生刃がある”とか“生刃が残っている”ということをよく聞くことがある。この時の生刃とは刀の健全度を表した意味でのみ使われているのである。現代刀を見ると必ずハバキ元の刃部(切先)が一寸〜二寸弱程にわたって切先が尖らずに平面」になっているが、これが生刃である。

 こうした生刃は刀工は何故に最初に作った時、つまり打卸(うちおろし)の時に施すのであろうか。そして、その打卸を最初に研いだ折も、それ以後もハバキ元には必ず生刃状態を残すようにする。そしてこの刀が何回も何十回も研がれるにつれてこの生刃は段々となくなっていき、ついに生刃はその刀から消滅してしまう。だから生刃はその刀の健全さを示すものであるとされるのである。

 では何故にこの生刃は必要なのであるかという点については全く言及された事もないのではないだろうか。いや、従来から言われてきた事だけしか考えなかったというのが正解であり、考えようともしなかったのが実情である。

 但、刀のハバキ元に生刃がつけられていても本当に必要なのはそれから上の刃であって、ハバキ元の刃で人を斬るのではないから実用上は全く差し支えなかった・・・というような、とってつけたような理由づけのみで納得していた。いや納得させられていたのである。

 今回はそんな生刃を本質的に考えてみた。つまり結論は「生刃は刃区を保護するための工夫であり所産である」という事である。

 刀剣界に長くいると色々な工作、例えば研や白鞘というようなものに関与するが、それらの一つにハバキがある。ハバキを作る時には該当の刀の法量にあわせて作るのであり、当然その際にハバキの下地を棟区や刃区周辺にあわせて金鎚で叩くのであって、その時に刃区が欠ける可能性がかなりある。

 この刃区が欠けるというのは案外多いもので、著者ももう30年程前に刃区が二等辺三角形のように欠けて、全く刃区がなくなってしまっていた例を実見している。こうなってしまえば刀全体の刃先を引いて(つまり刃区のかなり上の方から砥石で刃幅を狭くするという事)、さらに中心の刃方を棟方の方へ削って刃区を少し作り出す以外にハバキを固定する方法はないのである。

 鎌倉時代でもその時に作られたのは現代刀であり、ハバキを作らなければ拵に入れられないし実用にならない。併し、新しく作られた時の刀は剛いのである。そうした剛い刀にハバキを作る時、刃区が欠けるのを極力少なくするために生刃といわれる状態を残して欠けるのを極力防止したのではないだろうか。

 例えば、分厚い電話帳はどんな大力をもってしてもそのままでは裂けないが、電話帳の厚みを少し斜めに歪めて一番尖った所から裂け目を入れれば割合楽に裂ける理屈と同じである。同じ事例は試斬の時に鉄片を斬り割るケースでは、試台(ためしだい)の上におかれた鉄片の真上から斬り下さないで鉄片の端(角)にのみ刀を振り下ろすと鉄片は割れてしまうと云われているのと同じである。

 つまり、一番弱い所に一気に力が集中すると簡単に破断する。ハバキ元の切先が最初から尖っていれば、ハバキ元の下地の調整の際にその尖っている所に金鎚の衝撃が伝わり、少しの力でも破断が始まりやすくなり、それが契機となり大きく刃区が欠ける可能性が大である。又、ハバキ上から刃区の角(かど)、そして中心の刃方上部に至る所は、直角に近い曲線と線で構成されているので、ゆるやかな曲線で構成されている刀身とは違い衝撃を吸収しにくいと考えられる。いわば一種の「節」(ふし)に近いのかも知れない。又、刃部は棟に比べて重ねが薄い事も一つの弱点と考えられる。

 さて、(A)図は生刃を少し左斜目方向から見て解りやすく描いてみた。黒く塗った所が生刃である。その上の様に刃先が尖っていないで平面になっている。尚よくルーぺで見れば鑢目若しくは荒砥の目(筋)が残されている。つまり火造り(ひづくり)をする時にハバキ元に刃区角(かど)から切先の先端に至るまで鑢で刃先を平にしておき、それから土置、そして焼入という順番になるので、ハバキ元の生刃の平面にはその時の鑢目が残されている訳であり、又、残っていなければならない。

 但、経年により少しづつ刃区角が欠けていけば、荒砥で整形するためにその目(筋)も残されるという訳である。

 そうすると、本来の生刃が少しでも残されるというのは、ハバキ元に十分の踏張(ふんばり)と深い刃区が残っている場合のみ存在するのであり、(B)図の様に踏張がないか、不足している場合には生刃が残っている事は無い。若し、少しでも切先が平面になっていながら踏張が十分感じられないのは生刃ではなく、刃区角が欠けたために、その付近の刃先を引いた(平らにした)が故の所産であるとみなさなければならない。

 つまり(B)図のような状態では生刃は存在しないのであるが、こうした(B)のようなケースは割によく見かけられるので注意しなければならない。刀における生刃は健全度のバロメーターであるという事を逆手にとったまやかしである。しかし、何百年も経った刀に生刃を求めることは絶対に無理である。刀身の減(へり)を極度に嫌う反面、まやかしの生刃を理由なく尊ぶ事は真の愛好とは言えない。従って無用の研磨は極力さけるべきである事も極めて重要である。 

(平成二十六年四月 文責 中原 信夫)