55. 偽物について(その七)  清麿の特徴

前回と前々回に少し触れたままであった清麿の姿、格好、そして地肌・刃文について述べておきたい。

従来の刀剣書、殊に戦後に出版された書物には、必ずといって良い程「清麿の姿、格好は独特で、フクラが枯れて鋭い造込になっている、、、」などと、異口同音に書かれているが、これが大きな勘違いと思い込みからくる落し穴である。清麿の兄・真雄の刀は松代藩の過酷な荒試に耐えぬいたとされているが、その真雄の作で前述の様な文言で姿・格好を説明した例を私は知らない。

さて、兄の薫陶を受けた清麿も同様に、刀の耐久性と切味に十二分に意を注いだ筈。しかも、フクラなどは刃コボレするのは当然であるから十分につけ、鋩子も最初から浅く焼くことは絶対にしない。当然、武器としての性格を十二分に発揮する様に刃肉もつけるだろうし、又、刃部(刃鋼)も強靭にするため精鍛する筈。殊に刀身の内部構造にしても四方詰(しほうづめ)という頑丈だが作刀技術として難しい技法を採用したと考えられる。

つまり、刀の使命を全うする為に、敢えて難作業を自ら求めたことは立派である。当然、打卸の姿、格好はフクラがたっぷりとつき、鋩子も深く、先反をつけ、刃肉もたっぷりとついた姿となる筈であるが、但、単に刃肉をつけるとかだけでは刀の究極の効果は得られない。それに加えて地鉄や刃文の工夫が不可欠と考えたに他ならない。併し、現存の清麿の多くの姿、格好とはかなり相違するのであり、前述の様な説明、解説がなされてきた。

ではどうしてこの様な差違が起こったのかといえば、戦前頃迄にせっせと研磨で刃肉や地肉を減らし、鈍重な姿(元来の姿)を変形させた結果であるし、急激に肉置を減らされたと思われる状態の匂口(部分的)からもそれが理解出来る。

因みに、新しい刀は剛(かた)すぎて研磨する側にとっては厄介この上ない代物なのである。従って、意図的にかなり研減らす事によって研磨がしやすくなるからであって、清麿だけに限らず新々刀、現代刀は概ねこうした工作を施される運命でもあり、非実用時代となってからは、一層こうした傾向が強くなったといえる。

現に、戦前、某研場でせっせと清麿を研コナしている目撃談が残っている。この様に、清麿の姿、格好についての勘違い神話が醸成されていった経過がよくわかって頂けると思う。但、不用意にせよ、意図的にせよ、急激に取り去った(コナした)地鉄、肉置は何百年経っても元には戻らない。つまり、犯罪にも等しい改変した所作を、清麿の特徴とまでされた上に、盲信者によって祭り上げられたのでは、清麿本人も迷惑であろう。

又、地肌についてであるが、基本的に清麿の肌は、流れ心の板目肌であって、柾目肌に見紛う程になっている程である。併し、これは最初期ではなく、それ以降にみられる特徴である。

さて、昭和五十四年三月刊『名刀図鑑』では、肌割のある清麿の写真を掲載して「金筋と平行して細かい肌われが見られる。清麿には時折り見られるが、欠点とはならない。清麿の優れた作品がそれを補って余りある為である。」と述べているが、まさに勘違い、我田引水もいい所である。清麿であろうが誰であろうが、肌割(はだわれ)は肌割であり残念ながら欠点である。こうしたものは無い方がベストであるにも拘らず、清麿だけを最初から問答無用として特別扱いするのは”贔屓の引き倒し”である。

さらに”優れた作品”とはどういう意味なのか。つまりは、この冊子解説者が清麿が好きなだけである。因みに、エクボを日本人は可愛いというが、全く逆の感情を抱く外国人がいると聞いたことがある。つまり、肌割は肌割であって、この様な形状と場所になぜ肌割が出現したのか。研コナシによって出現したのか、四方詰の故に出易いのかさえも言及しないで、いきなり”優れた作品だから”と切り捨てられたら真の愛好は出来ない。とにかく、清麿を余りにも特別扱いしすぎる傾向が強い。もっと公平にみるべきではないでしょうか。

むしろ、この清麿の刀の地肌や刃文(匂口)の素晴らしさを先ず述べてから、残念ながら肌割があるが、致し方なく、それを許した上で他の多くの良い点を評価し、愛好しましょうと述べていかないと、読者に誤解を与え、更に多くの清麿盲信者を作り上げていく結果になる。

それから前々回(その五)の(14)図の説明(キャプション)でも触れたが、匂口に明らかに叢(目立って荒い沸)のあるのは武器としての刀には致命的欠陥である。匂口の叢だけは誰にでも目視できる最高の判断基準で、いわばリトマス試験紙の変色と同じである。これは単に匂口だけではなく、その刀の地鉄の質や鍛え方、そして造込(構造)、焼入方法などがその匂口の叢の原因となるのであって、匂口の叢はそれらの結果であり、目視(肉眼)ですぐわかるという事である。

私が今迄に経眼した清麿のみならず、刀全般の出来が良いか否かを判断するのは、この一点、匂口の叢の有無とその程度であり、金筋、砂流、地景が多くあるとか、地沸が沢山ついているとか、刃文の形では絶対に判断はしない。

更にいうなら、今迄の権威者?などはどうも清麿を相州傳とみている気がする。否、相州傳とみさせる方向に導いている気がしてならない。志津兼氏や筑前左文字を慕ったとかの作り話を、さも真実のように解説するが、それは鋩子が尖っている点を捉えてであろう。尖った鋩子なら他にもある。

私見ではあるが、清麿は相州傳ではなく、備前傳の下地が基本となっている筈である。尤も、新々刀をみるのには五ヶ傳も余りあてにはならない鑑賞方法ではあるが、、、。まぁ正解は清麿に直接聞くのが一番、、、。冗談はこれ位にして、次回からは鑢と銘字に移っていきたいと考えております。

(平成二十六年二月 文責 中原 信夫)