45. 刀剣・日本刀中心の鑑別法 再刃編(その九 水影・粟田口吉光の検証)

一般的に再刃(焼直)の最大特徴とされる水影(みずかげ)について少し話を進めてみたい。水影という俗称はどうも近代になって名付けられた様であるが、反面、普遍的な統一見解がなく殆ど実態がよくわかっていない幽霊的存在である。

この水影という言葉は、先入観念として刀社会にひろまっていて、厄介なことに再刃とセットとなってしまっている。ところが、堀川国広の作にこの水影はよくあるという様なことを、誰いうとなくひろめてしまったが為に、二重の厄介さがある。

さて、水影の常識的な定義を示すと「刃区あたりから棟の方に向かって斜目上に、白く息を吹きかけたように見える地鉄の色。これは焼き刃渡しの際、刃区の所までしか水につけなかった場合生じるもの。焼き直しの場合、中心まで熱すると(中心
の)錆色が変ってしまうので、刃区までしか熱せず、水にも刃区までしか入れないため、刃区に水影を生じる。したがって水影は焼き直しの最大の証拠とされている。新作刀では中心に錆がないので、中心まで焼いて、中心まで水に入れるため、刃区に水影は見られない。」(『日本刀大百科事典』福永酔剣先生著)である。

この”白く息を吹きかけたよう”という表現であるが、地移と区別出来ない様な説明・解釈である。又、”刃区あたりから棟の方に向かって斜目上”とあるが、新刀期の作刀、殊に大阪新刀の大乱の作にもこのような所作が往々にして出ている。これを最近は俗に「焼出移(やきだしうつり)」などとも称されて、各人勝手、適当な表現になってしまっている。ただ、刃区から斜目上に向かって入り、途中で折れ曲がって棟区の方へ向かう所作もあり、典型的な水影というのは全く雲をつかむようなものである。

私も十分に気をつけてみているのであるが、実際の結論として「水影らしきものの有無よりも、それ以外の状況証拠の総合的判断により、再刃か否かを見分けるべきである。」という事をお願いしたい。

水影のよくあるとされる堀川国広にしても、必ずあるとは限らず、「移状のもの」が出るとしているケースもあり、水影の定義は再検討されるべきである。初代忠吉にも同様の所作があるとされる点については、後日、本欄で触れてみたい。

本欄で既述の再刃と考えるべき要点は、俗にいう水影の所作よりもさらに大事なものであり、殊に中心の錆と鑢の状態、そして刀身の健全さ、姿、刃幅は最優先すべきものであろう。

水影と同様に先入観念が如何に恐ろしいかであるが、(1)図を見て下さい。粟田口吉光の押型であるが、権威者とされている人の説明に”刃長七・三寸、孔一ケ。細身、三ッ棟、かるく内に反り上品”とある。つまり、内反の姿が上品であるとするが、この反姿(そりすがた)が後天的な変化、変形であることは本欄で既述の事で、拙著『刀の鑑賞』でも述べてある。変形した姿が上品なら、原型(生姿うぶすがた)は下品となる。こんなひどい説明を鵜呑みにしてきた人達はかわいそうである。

更に”区上が僅かながら焼落しになっている点が常と相違し、ここに或は再刃説が生ずるとも思われるが、細直刃の沸のよさ、この工の手癖であるふくらの刃の細さ、上手な帽子等によって再刃ではあり得ないと鑑する”と述べている。まず焼落の点であるが、吉光は焼落((2)図参照)とは反対に、刃区辺を深く焼込((3)図参照)にするのが掟とされ、ハバキ元によく五の目乱を焼く事も多いという掟もある。

この事をこの説明文では苦しい言い逃れをしているのであるが、どんなに割引いても、吉光の常の作風ではないこの短刀の焼落の所作を絶対に肯定は出来ない。焼込の所作は焼落と正反対にハバキ元あたりの焼入温度を高くするため出現するのであり、粟田口派、新藤五一派、来一派の一大特徴とまでされている程である。

本短刀だけを名工・吉光が別の方法で焼入をしたり、又、この短刀だけの焼入を失敗する筈はない。例外、例外と多く例外が許されれば鑑定は不可能となる。又、”細直刃の沸のよさ”とは何を意味するのか。この説明者の教えを受けた人達は”つぶらに輝く沸”などという表現が好きであるが、結果的に抽象的表現は誤解を招くだけであり、又、細直刃自体が研減った結果である事をよく認識して欲しい。老朽化した沸が良いとは本末転倒である。ここまで減っていても沸が存在する事が素晴らしいという説明が正しい。

更に、”この工の手癖であるふくらの刃の細さ”であるが、これは筍反、内反姿とも深く関連している事は、本欄で既述済である。吉光の短刀だけにこのような所作がでるのではなく、少なくとも全ての古い短刀に大体共通の変形変化である。又、”上手な帽子”とは小丸で少し返った形を指していると思われるが、切先辺が内(刃先の方)に反っての(伏さった)この返の深さは却って不審であり、しかも極めて変形(欠損)しやすい切先のあたりの刃幅が下の刃幅と較べて一番深いことは押型からみてすぐにわかるが、これも考えられない不合理な事で、不審である。

以上、いづれのポイントも”再刃ではあり得ない”とは口が裂けても言えない状態であって、逆に再刃と結論されるべき状況証拠のオンパレードである。戦後約七十年を経て、いまだにこのような説明を金科玉条の如く崇め奉ってきたのであるから、刀社会が低次元になるのも当り前である。早く脱却して欲しい。

(平成二十五年三月 文責 中原 信夫)