23. 刀剣の解説用語と表現について

 刀剣会での鑑賞、鑑定刀についての説明や、書籍、展覧会カタログ、果て は刀剣販売カタログに至るまで、刀の説明をする際には刀剣用語を多用する が、この用語に一定の決められたルール、意味がある訳でもなく、個人個人 の考えや団体等で、いわば勝手に使われているのが現状である。

 例えば「沸」を”錵”と書いたり、「切先」を”鋒”とするような例であ る。勿論、いづれのみが正しいという事ではないが、ある程度の”決まり” は必要であろう。但、戦後になって殊に著しいのは、戦前までは一応普及し ていた用語を故意(としか思えない)に違う表現に変えたりしているのは、 如何なものかと考えている。例えば、「筍反」を”内反”という用語にあて たりした例がある。これなどは、筍反を多用する流派(団体)に対する新興 団体の何となく対抗意識と反発とを感じさせる。

 本阿弥光遜は古い短刀姿を見て「筍反とは、反が切先の方へ向かって刃の 方へうつむくようになる反状態をいい、必ずフクラが枯れるか、又は枯れ心 になる…..」というような説明をする事が多かったと聞く。併し、現今の 内反の説明に”フクラ”の付帯説明はなされないケースが多く、逆に「内反 になっていてフクラが付いた健全な…..」などとのビックリするような説 明を見聞した事もある。要は、”筍”が大事でもなく”内”が大事でもない、 後のフクラの説明が大事なのであって”筍”や”内”を問題にしているので はない。本阿弥光遜はさすがに超一流の研師であっただけに、刀の姿、反な どには極めて敏感である。

 刀(短刀でも同じ)を見た時、人の眼はある一点に集中していくのが常で ある。その一点とは切先の一番先である。何故ならば、刀の姿、形を構成し ている全ての線や肉置が、最終的に切先の一番先の尖った所に集まっている からである。つまり、その一点に集約集中する少し前の切先のあたりから人 の眼は形を敏感に感じるようになってくる。もっというなら切先は刀の一番 の晴れ舞台でもあり、盲点でもあるという事に尽きるのである。よくフクラ の線と小鎬が平行した扇状になっていないと見る人に←息詰る感じを与える 為に、研師はそこを優先的かつ入念に整形する。併し、武器として使うだけ なら、そこが平行した扇状の形になっていようが、いるまいが全く斬味に関 係は殆ど無いであろう。むしろ肉置の方が大事である。

 さて、切先にはこのように大きな見所を含んでいるのであり、短刀におけ る切先には横手も小鎬もないだけに、フクラ(刃先の線)と反を形成する棟 角の線は極めて重要である。この棟角の線が刃(フクラ)の方へうつむいて いるので、内に反っているという意味で、”内反”と考えての呼称であろう が、それなら内反と逆に反っている、一般には”先反”といわれるのは今後 ”外反”と改称されるのがよいかと思う。

 因みに先反については「この刀には末古刀によくある下品な先反があって …..」というような表現がなされるケースがあって、私は非常に困った事 だと考えている。まづ、総体的にいえる事は刀に上品も下品もないのである。 「上品な太刀姿をしたこの太刀は….」などと得意になって解説する傾向が 強いが、その人が褒めている上品な姿とは、何百回と研がれて変形に変形を 重ねた妥協の産物である。人間でいうなら百歳の女性(背のまがった姿)を 見て、若い娘の姿より良いといっているに等しい。但、八〇〇年間も生きぬ いてきた結果、そのような変形した姿になってしまっても、その太刀が残さ れてきたのは極めて大事であり、十二分に評価するべきである事は当たり前 である。

 さて先程の下品な先反であるが、これは明らかに物打辺りが先反状態にな っていないのを上品とみなす観点から出発していると思われるが、如何なも のであろう。私が経眼した何振かの古い在銘(正真)太刀には、何百年を経 て今なお適度な先反が残されていた。末古刀に先反が多く残されている理由 は八〇〇年前のものと四・五〇〇年前のものでは研による変形の程度、度合 いが著しく違うからであって、普遍的に八〇〇年前のものが変形する可能性 が極めて大であることは何よりも明らか。つまり先反は刀の健全度のバロメ ーターにもなる事が多い(全てではないが)という事になる。

 次に、最近読んだ書籍から「気に入らない」表現を紹介しておこう。
気に入らないとは、私が気に入らない意味もあるが、それ以前に一般読者の 人が読んで大きな誤解、不審感、錯覚をおこす可能性が大であるという意味 である。 「平肉がここちよくつき、磨上ながら姿態に品格があり….」という説明 である。”ここちよくつき”とはどんな状態か。何を基準に”ここち”がよ いのか。根本的に製作時点での平肉(全く減っていない)が”ここちよい” というなら少しは解る気もするが。

 刀は年を経て、研によって減る。これが真理。
”磨上ながら姿態に品格があり”とあるが、磨上姿は元来の姿ではなく、や むにやまれぬ無理な要求である磨上をした結果、元来の姿(フォルム)を崩 している姿であって、決して好ましい姿ではないのである。つまり、元来の 減っていない姿が一番よい姿であって、崩れた姿が品が良いなら、何の基準 もなくなる。又、”姿態”などという言葉をもて遊ぶ事をしないで、単に ”姿・格好”でも十分にわかると私は思うが….。

 次に刃文、匂口の説明で「匂深く、小沸よくつき、部分的に荒めの沸が強 く…」というのがある。”部分的に荒めの沸が強く”というのは、つまりは 沸の叢状態であり、その部分は他の部分より歴然と荒沸で出来ている事。 つまり、結果的には良い焼入状態ではないという事である。この説明に該当 する刀を以前、見たことがあるが、荒沸、叢沸のある決して超一流刀工(匂 口に叢がない)の評価(出来)は?のものである。この説明を書いた人の裏 事情のある苦しまぎれの弁解?はよくわかるが、第三者の人が読んで、果た して理解出来るであろうか。私は誤解や錯覚を与えるのが関の山と思うが。 そもそもこの刀に高い評価や、指定品にした時からボタンがかけ違っている。

 以上、刀剣用語について最近のみならず、かなり以前からの思いを述べた。

(文責 中原 信夫)