21. 刀剣は楽しんで下さい

 刀の愛好という趣味は果たしてどういう楽しみ・素晴らしさを言うのであろうか。
現代の人の技術では絶対に現出できないと感じさせる何かが『刀』にあるからこそ、その何かを自分の眼で見た時に素晴らしいと感じるからである。
そもそも刀剣はあくまでも武器として古来より取扱われてきたが、武器を楽しむという趣味は殊に明治以降になって、刀が武器としての本来の使命を終えてからより一層華開いたものであって、一面から見れば皮肉な結果とも言い得る。

 併し、日本以外の国の趣味形態にこのようなケースはまったく存在しないので、日本独特という事になる。つまり、日本人のDNAとして刀剣愛好趣味は遺伝子に組み込まれていると言われるのも否定し難い事実であろう。

たとえて言うなら私は刀を含めて古美術品は全てがタイムマシーンの世界と考えている。
現在、古美術品とされているものの作者は此の世には全て存在しない。例えば百年前に作られた事が証明できる絵・書・焼物等にしても作者はその肉体のみならず、肉体を動かし作品を作り上げた根本の精神的なもの(生命)さえも既に此の世にはない。

 併し、結果としての作品は百年・二百年と存在し続ける。万物の霊長とされる人間が、跡形もなく消え去り、逆にその人間が残した物体(作品)が脈々と存在し続ける。実に不思議な事という他にない。
尚よく言うなら、作品は時間を超越して存在し続けるとも言い得る。不思議としかいえない。但し長い間存在し続ける作品は何百年の過酷な自然淘汰を受けて、その淘汰を通り抜けてきているのであり、作品の本来の使命を終えても別の顔を見せ伝世し始めるのである。
又、何百年の時間に耐える為には作品そのものの品質が上等でなければ実用に供されてすぐに淘汰されてしまう。
例えば末備前の刀があるとしよう。我々がそれを手に取ってみた時、四百年前の物が我々の眼前に形をあらわすのであって、作られた四百年前から現在に至るまでの時間が、その末備前の刀に集約されているのである。

 確かに製作時の完全な原型はそこには残されてはいないが、四百年前の大部分がそこには残されていて、我々の眼でその現状が確認できる。
殊に刀の場合、地肌・地鉄の模様は景色としての美しさであり、地肌・地鉄を素地として焼入れた鉄の結晶(刃文)の景色とあいまって時間を越えて輝くパノラマでもある。
しかも一つとして同じパノラマはなく、各々に違っているという特色を持っている。これらが当時の人の力で作られたのである。これはまさに高い技術力の裏付によって出来上がってるのでもあるから、驚異以外の何物でもない。
従って昔の人は刀に人間の能力以外の神秘な力を感じ・崇めたと思われる。
このような作品を、今ここで手に取ることが出来るのである。武器としての顔ではなく、別の顔をして何百年前の作品が今ここに鮮やかに蘇ってくるのは素晴らしいことである。

 刀剣は他の美術品に比べて、比較的にその正体が明らかな点が多い。それは武器の表道具として一番大事にされて来たからであって、長い歴史に裏付されている。

 例えば鎌倉時代の刀を取ることも現在は可能な訳で、他の古美術品にそれと同じような事を求めても、中々難しく実現はしないに等しい。

 つまり刀は何百年の間に”大事にされたいい刀”のみが比較的多く残されて来たのであって、我々の周囲に普遍的にそれらに接する機会もままあるといえる。
刀剣社会は、こうした恵まれた環境ではあるが、それだけに甘えた考え違いが起こりやすい事もある。
つまり昔から名前の通った有名な刀工の作品のみしか眼中にないケースである。こうしたケースでは悪意による無銘極を多く産出す温床となってきた。
現在こうした悪弊を断つべく各方面で正しい愛好の啓蒙が段々と浸透しつつあるのは誠によろこばしい。

 では”いい刀”とは何であろうか。
それは刃文の匂口の良さに尽きる。前述の如く、刃文・地肌・地鉄は輝かしいパノラマと評したが、そのパノラマの主要部分であり、刀本来の使命(顔)である刃文、殊に匂口は最重要である。
匂口が崩れてムラがあるようでは、パノラマの景観が台無しである。敢えて言うなら、この匂口の出来・不出来が刀本来の使命である斬れ味・耐久力・柔軟性を左右しているのである。
こうした事が一目瞭然として分かるのが匂口である。地肌・地鉄の鍛えと質が素地として支えている。こうした考え方を昔の人は直感的に捉えてきたのであり、その結果として便宜的・方便的に作ったのが有名刀工番付でもある。

 併し、有名刀工ではなくとも、我々の財布に見合った刀も手近な所で楽しめるのである。むしろ有名刀工の周囲にいたであろう何倍、何十倍もの無名に等しい刀工の作は確率的に多く存在する筈である。

 最近、マスコミを賑わした有名料亭での牛肉の産地偽装をみても同じことが言えると思う。ブランドの但馬牛として賞味されて評判が良かったのが、実は九州の牛肉であったというが、要は美味しければOKだった筈。
美味しい牛肉ならば別に問題はない。産地を偽るからトラブルになるのだが、よく考えてもらいたい。悪意の無銘極の刀はその産地偽装と同じである。要は出来 (内容)はどうでも良い、表面上のブランドが欲しいと言う事から、全ての誤解が始まる。刀の場合は産地偽装に加えて、時代偽装があるが、これは無銘が殆ど 全部であるから、刀の出来の良否(出来・不出来)で殆どその不合理性は見破れる。
又、乱映りが正常かつ鮮明に出ていて、かなりの磨上を施されている無銘刀であっても、備前の古い物として十二分に賞味するべきである。
但し、古い無銘の備前であっても、一流かそうでないかは刃文の調子、地肌の様子で少しづつ異なることは事実であるが、長い間、生き抜いてきた刀の中にある素晴らしさを楽しむという点では一流となんら変わりなく楽しめるのである。

 単にブランド牛肉だから美味しいと思って食べては何もならない。美味しい牛肉であると認め、そしてそれが世に言うブランド牛肉であればそれで良いのである。当然、本当に美味しい牛肉であったが、非ブランド牛肉であったとしても決して間違った感覚ではないのである。 ブランド刀を持つ事のみが楽しみとは言えない。ブランド・非ブランドとも全く関係なく刀の持つ素晴らしさを自分の眼で見つけて、鑑賞し、楽しむ方法を自分なりに作り上げて頂く事を念願してやまない。

 最後に、戦後になって刀を愛好する一つの方便としての入札鑑定の為の知識はかなり普及させてきた。これも確かに必要ではあったが、反面、刀を楽しむ、刀は楽しむ物であるという一番大事なことを教えずおざなりにして来た。一番残念な事である。

 いづれにしても刀は楽しい、素晴らしい魅力を持っていますよ。

(文責 中原 信夫)