15. 刀剣の本当の良さをどうみるか

 本欄は日本刀に関する事柄を皆様に提供させて頂いているが、今回は少し今までと違うところから 日本刀の良さについて私の考えを述べておきたいと思う。以下、ここに引用する文は茶道についての話である。

 時は桃山時代であろう。武野紹鴎はあるとき古道具屋の店先に伊賀焼の両耳のついた花生(花瓶)を見つけた。紹鴎は求めたいと思ったがなにぶん急用の途中な のでそのまま行き過ぎた。紹鴎は二、三日してそれを思い出し古道具屋に行ってみたが売れてなくなっていた。ところがある日、千利休より茶の案内に接したの で茶室に通ってみると例の花生に白椿が清々しく挿されている。さらに花生が両耳であった筈が片耳を欠いてあるではないか。紹鴎は心のうちで利休の見識の勝 れしを想いつつ茶が終わってから言うには ”自分も先達てこの花生を見たとき片耳を欠いて使えば面白いと思ったことである。それで今日そのまま使用されていれば中立の間に片耳を打ち欠いて、あらた めて花所望を乞う考えであったと言いつつ、懐中から小さな金槌を出して見せたので並み居る人々は両名の期せずして符節を合わせたごとき審美眼の高きを驚嘆 した” というのである。

 この話を引用して某人は「達人にして始めて達人の才知を知るものである。昔の名だたる茶人はこれくらい花入に心を砕いたもので・・・・・・・」と武野紹鴎・千利休の師弟を褒め上げている。

 さて皆さんはこの話と某人の解説をどのようにお考えになるであろうか。私は本当に武野紹鴎・千利休がこの話の通りにすでに完品として存在する伊賀焼の花生 をわざわざ変形毀損させた罪は大きいと思う。両耳がそんなに自分達の美意識にあわなければ別の花生を求める事ができる。それ以前に伊賀焼きの両耳はそれ自 体に何かの理由があって付けているのであり、それが伊賀焼きの一つの形式(掟)となっている筈であり同じことは備前焼などにも言える。

 完品としての形を既に欠けてあったのなら別に問題はないが故意に壊してまでそこに美をあらわしたいのであろうか。私には思い上がり以外の何物でもない行為 と思う。本来の花生の形のままで工夫をこらし花を活けて全体の美をあらわすべきが名人達人の才能と思うが如何であろうか。

 では角度を変えてこの話を冷静に読んでみると恐らくこの話は後人(茶人)の作り話ではないかと思っている。古道具屋に誰が求めたかと聞く以外には花生に出会う筈もないしその上懐中に金槌まで用意して茶室に入るとはあまりに出来過ぎていて不審そのものである。

 では刀剣の社会ではこれに似た話はないのであろうか。実は沢山ある。某先生がほめた刀を理由もなく大切にしている例がある。ほめた理由をなんら明かさな いままに古雅な趣があるとか優美な姿であるとか果ては破墨山水枯淡な味わい・・・・・ここまでくればまさに言葉の ”あそび” である。

 この日本刀のどこが良いのか、どのように見れば良さがわかるのかなどという本質の話は全くといって語られていない。果ては刀工を芸術家きどりにして適当な ところをつなぎ合わせて褒め上げる。ちょっと批判すれば権威者某先生が良いと言っておられると全くの人まかせにする。中にはこの研師に研がせればもっと良 くなるなどといって必要のない研ぎを刀剣に施させる。これでは無差別な日本刀の破壊である。一度減らされた刀剣の肉置きは戻ってこない。何故、今のままを 楽しみ日本刀を大事にしないのか。私には今までの指導者の態度に不審を覚えるものである。勿論、すべての指導者がそうであるとは言わないが。

 また、ひどい例では某先生がこの銘はダメと言ったから審査に出しても受からない。そこで銘を消してしまう。このような審査に受からないから云々が先にたっ て日本刀そのものの扱いを全く考えていない。銘消しも時には必要であるし研ぎも必要であるが最終の目的は人を楽しませる刀剣としてその良さを理解する方法 と楽しみを享受していく方法を第一にして日本刀の生命を永遠に保って生かすように努力するべきであろう。

 ちょっとした欠点を(刀剣の老朽化による)を気にしてその他の良い所を台無しにするような工作は厳禁である。理屈を言わない、本当は言えない指導者(人 間)を半ば神格化して理由もなく丸呑み状態で信じ込むのは ”ひいきの引き倒し”である。天才(?)利休なら許されるし回りの人間がその破壊行為を容認するし容認するべきが当然と考える。その考え方が愚かである。 私はこの事を先程の花生の話を引用して再度強調した次第である。

 つまり愛刀家自身が日本刀の良さを見極める方法を自分で作り上げていく姿勢を見せなければ千利休のような曲者によって手玉に取られることになる。日本刀を 活かすのはどのようにすれば良いのであろうか。私は先人の人達の残した言動、言葉の中に少しでもそのヒントを求めていきたいといつも考えている。そして、 いつも ”あるがままのものを楽しむ”という所に戻ってしまうのが凡人の私の現状である。
(文責 中原 信夫)