11. 末古刀について

 そもそも末古刀という呼称が昔からのものではないので少し違和感がつきまとうのが私の正直な感想であるが致し方がない。
因みに古刀と新刀を区別した根拠は江戸後期に出版された『新刀弁疑』という本のサブタイトルに “慶長以来” とあったがため慶長を境にそれ以前の日本刀を古刀、以後を新身(あらみ)、つまり新刀(しんとう)と呼ばれるのが何となく定着してしまったにすぎない。 よって古刀か新刀かとなれば仲々に断定しえない日本刀も多く存在する。

 さて、末古刀、つまり古刀の末期という意味は必然的に室町末期(室町時代約二百年を前後期に別けて)から安土、桃山期にかけて作られた日本刀を総称するの である。但し、戦前までは末古刀という意味合いに少々ではあるが鎌倉期の刀に比べて劣るという暗黙の了解事項があることもまた事実である。筆者が三十数年 前に刀剣界に入った頃「応永以後に名刀なし」とか「応永備前なんて末古刀だよ・・・・」とまで放言した御仁がいた事もまた事実である。
そのような根拠のない誤った先入観を持った人が褒める刀の殆どは無銘極めの所謂ブランドで筆者としては今でも苦笑を禁じえない。

 *末古刀の華*
末古刀の代表(華)は末備前である。古刀の基本が備前であり、それ以外はありえない事は以前に述べたが古刀の中で末古刀というのが我々が手元において楽しめる可能性が一番高いものである。
つまり我々にとって身近な存在でもある。但し、例えば末備前にもトゲがある。つまり数打(大量生産、束刀)といわれるものである。八百年も前の日本刀はさすがに自然淘汰されて良い物しか残らない(残る事ができないから残っている物は良い物)からである。
併し、末古刀は未だ四~五百年前のものであるから、また戦乱の一番多く激しかった時代でもあり当時に膨大な生産量があったが故に現存数が多いという事からも確率的に玉石混交ということになっている。
では我々がどう末備前を見ればいいのか。それは数物を出来るだけ買わない事である。ではその数物とそうでないものとの見分け方、区別はといえば銘文ではなく次の点を注意すれば良いと思う。

 一、 端的に言って中心の肉置きが薄く素手に握ってみて手の内に痛さを感じるようなものは概ね不可としても良い。昔から中心の下手なものは?であるとされ ているのはこの事である。今時流行の”百円ショップ”の刃物と同様である。大量注文(安価)であるが故にどこかで手を抜く、それを見つけるのに一番良いの が中心である。目釘穴の大きさや開け方も大事である。雑兵に支給するのには数物しかない。(これは場違い物にも共通)

 二、 更に言えば刀の出来そのものを判断するのである。

 三、 末備前の最高峰・与三左衛門尉祐定には不出来なものは無い。出来、不出来は刃文の匂口でみる。刃文の形では断じてない。匂口に崩れ(刃中の匂崩れとは違う)や叢(むら)がるものは?である。与三左衛門尉祐定以外では匂口に難があることが多い。

 さて、末備前は普遍的に日本刀の中で人気が高い。従って経済的に負担が出来にくい我々には生中心のものではなく磨上のものが一つの狙い目となる。

 一般的に日本刀を買う時の鉄則は第一に出来が良くて健全(刃長に関係なし)なもの、次にできれば生中心を目標にするが磨上・区送でも十二分に可。たとえ 生中心でも出来が?のものを買うのは如何であろうか。逆に一寸でも磨上ったもので出来の良い健全なものを入手すれば目を楽しませてくれるのである。

 *他の末古刀(陰の華)*

 室町期以降になると所謂 “郷土刀” というものがかなり多く現存する。末関・平高田については以前に本コーナーで述べてあるのでそれを参照願いたいが、それ以外について少し述べておかねばならない。

 世にブランド好きは多いのである。併し、それ自体は決して間違ってはいない。要はブランド物は品質が良い。従って高価である。ブランドが本当に解る人は非ブランドというのが一般に場違い物と総称されている地方刀工で郷土刀もその中に入る。
例えば末備前がブランドと見るなら平高田は非ブランドである。併し、上出来の非ブランドは準ブランド以上と肩を並べる。金剛兵衛・波平・同田貫の上物、二王・三原・広賀・冬広・金房・宇多・藤嶋・島田・千子など数え上げればキリがない。

 これらの日本刀を楽しむのに何か阻害要因があるのか。

 若し、あるとするならそれは人間の間違った歪んだ先入観である。私の経験からいえば単なるブランド好きは刀を解っていないし、楽しんではいない。解った 顔をしているに過ぎない。逆に場違い物をも解って楽しむ人の鑑賞眼の鋭さには至って厳しいものがある。そういう人は十二分にブランドの良さは解っている。

 末古刀というのは本当に素晴らしい贈り物である。誰に対する贈り物かは言うまでもない。四~五百年前の日本刀がタイムスリップして我々の眼前に厳として存 在する。しかも人間に譬えるなら二十歳から三十歳の中年前位の若さ・健全さでである。これ程、贅沢で幅の広い、奥の深い楽しみは日本刀以外の物にはありえ ない。

 末古刀はポピュラーなものである。もっともっと末古刀に注目してもらいたいのが私の本音である。

(文責 中原 信夫)