10. 豊後刀(その二)

 *新刀期以降の高田刀工

 古刀期の高田は俗に “平高田” と呼ばれるのに対し、新刀期以降の高田は “藤原高田” と俗称されている。つまり新刀期以降の高田は “藤原□□” と切銘される事によるものである。
さて、藤原高田と平高田はどのような関係にあるのか。また何故、平から藤原に変えられたのかという大きな謎が横たわっているが、これは専門的に過ぎるので ここでは触れない。但し、豊後国を治めた大友家改易(文禄二年)と大地震(慶長元年)が深く関与している事は十分に考えられる。

 さて、古刀期と同じく新刀高田の居住地である鶴崎(高田)は肥後熊本藩・加藤家から細川家に引き継がれて飛地かつ参勤交代の船着場としても栄える事になる。つまり藤原高田刀工は細川家の中に組み入れられるのである。
そして藤原高田刀工は刀を商品として全国に売り出したのであり、当然下級武士のための数打をも多く生産していったと考えられる。これは肥前刀も全く同様であるが違うのは肥前刀は全面的に庇護し管理したのが鍋島家であるが高田は細川家の庇護を余り受けていない。
しかし藤原高田は色々と工夫して売れ筋商品としての地位を確保している。この辺に高田刀は多く現存してるが故に日本刀としては下作であるとの冤罪を生ぜしめた最大の原因を見出せる。
さて、藤原高田と肥前刀は極めて類似した作風を示している事は日本刀の鑑定上でも常識であります。つまり、両者は殆ど同格のものであるとも言いうるのであります。

 藤原高田刀工の代表は統行・統影・行長・忠行・実行・輝行・行光・正行などでありますが、それらはまさに肥前刀諸刀工と同じく刃文、匂口に全く叢がなく焼 入が上手く施されているのであります。又、中には移が鮮明に出ているのも多くありますので特筆に値するべきものであります。
併し、高田刀は肥前刀と同じく芯鉄が出易い傾向が強くありますので、この辺が欠点でありますが、このような欠点が殆ど出ていない作刀も多くありますので無用の研磨をせずにおいて下されば、健全な高田刀を楽しんでいただけると存じます。
肥前刀・高田刀に限らず中心の貧弱な仕立てになっているのは日本刀の数打物にある特徴ですが、これは商品としての日本刀である点から見て致し方ないものであります。

 およそ日本刀の良し悪しを見極めるのには刃文の匂口しかないのであります。匂口が叢がなく仕上がっているのが名刀(良出来)なのでありまして刃文の形や刀工の知名度等全く関係ない事であることを認識してください。
このようにして日本刀を見ますと肥前刀はその条件を完全に満たしています。故に肥前刀を名刀とみて愛好している人は多いのでありますが反面、全く同じように条件を満たした刀が多い藤原高田刀は全く反対な評価しか与えられていません。これは如何なものでありましょうか。
日本刀の本当の見方を知らない故でありましょうか。または、単に好みや無責任な評論を鵜呑みにしているからでありましょうか。私は健全度に問題のあるもの や出来の悪いものを高田刀だからといえども愛好してくださいとは言ってはいません。高田刀を無条件にとは言っていないので高田刀の中でも出来の良い刀を愛 好して下さいと言っているのであります。
私は三十数年間に渡り刀剣界で生きて来ましたが日本刀の本当の良さや楽しさをわかって愛好している方が意外に少ないという事に気づいて参りました。
併し何も難しい愛好ではないのです。根拠のない偏見を捨てて下されば肥前刀でも高田刀でも地方刀工でも十分に愛好できるのであります。

 さて、江戸時代中期を過ぎますと全国的に日本刀の需要は激減してきます。肥前刀でも藤原高田刀でも作刀数は激減しているようであります。中でも高田は江戸後期に至ってその存在すら確認出来得ないに近い状態であります。 確かに文献には刀工名の記載はあっても現存刀が確認出来ないのであります。
最近になって私が初めて経眼した作刀も何振りか出て参りましたが、それらは同時代の肥前刀主流と殆ど同じ作風であり出来であります。 このように藤原高田刀と肥前刀は極めて近い状態であります。

 何卒、本欄をお読み下さる各位に藤原高田刀の良さを認識して頂きたくお願い申し上げます。
尚、本文中の匂口などの詳しい説明は拙著『刀の鑑賞』に述べてありますので是非御一読を頂ければと存じます。

(文責 中原 信夫)